第8話
「まぁ、まだどうなるか分からないけど、少しだけ見えて来たからさ」
そんな事を話していると突然、誰かが美鶴の肩を叩いた。
目の前に三浦がいるだけに美鶴の肩に置かれたその手は彼のモノである事はまず有り得ない。別の誰か。美鶴の頭には那月の顔が浮かんでいた。
噂をすれば影が差す。那月にとっていい話をしていなかっただけに美鶴の額には緊張からか冷や汗が流れ始める。もしも、聞かれていたのならば確実に機嫌が悪い筈だ。
しかし、何故か美鶴へのネチネチとした嫌みは飛んで来ない。それどころか、声を出さず目を輝かせて美鶴が開いていた電子モニターを眺めているのだ。
「これ、ずっと読んでみたかったのよ! 『次世代型AI概論』、『仮想空間における物理エンジン』」
どれもアイリスが美鶴に渡して来た参考書のタイトルの名前だ。だが、ここに来るまで那月にはタイトルなど見えない。ならば、必ず何か他に用事があってここに来ている事になる。
ただ、那月の言葉の中に美鶴は気になる言葉を見付けた。ずっと読んでみたかったという事だ。つまり、これらの本は那月ですら手を出していないという事になる……。
「これ一冊だけでも相当するのによく持ってるわね――って、これ美香先輩のじゃない! まぁ、美鶴が持ってても宝の持ち腐れだもんね。…………そう言えば、教室の外まで変な空気が漂ってきてるんだけど、あんた今度は一体何をやらかしたのよ」
自然の流れで色々と酷い発言が見られるが、那月の返答は至ってシンプル。ただ、教室の様子がおかしかったから覗きに来ただけなのだ。つまり、話を聞いて来た訳ではない。
美鶴はその言葉にほっと胸を撫で下ろすと、全身から力を抜いた。
昨日の昨日。いきなり、屋上まで引き摺られ、意味の分からないまま因縁を付けられるわと散々な目にあっただけに余計にこの普通の流れに美鶴は安心してしまう。
次の言葉を聞くまではだが……。
「これ、アンタが訳したの? 『AI概論』の方は全く手付かずだし、『物理エンジン』の方は滅茶苦茶……これ、本当に読んでるの? こういうの感覚で読んでも身に付かないと思うんだけど」
那月の指摘に美鶴はまるで怒られた子供のように視線を逸らした。
言っている事は正しい。間違った訳で読んでもはっきり言って意味はない。中には正反対の意味になる言葉も存在するのだ。危険以外の何物でもない。
だが、同時に美鶴にとってこれが今の限界だった。――全力だった。
「仕方ないだろ……アラビア語とか見た事ないし、英語なんて一般文芸を辞書片手に何とか読めるレベルなんだからさ。姉貴はよくこんな話読めるな……」
「ジャンルは全部、次世代ネットワークに関する論文をまとめたりしているモノばかり……か。確かに観測はAI,物理エンジンも三次元用に複雑化してるものね。――でも、どうして専門用語まで直訳しちゃうのよ。授業でも話題に上がったのに」
美鶴の口からはぐうの音も出ない。確かに那月の言うように授業で話題に上がった言語すら、直訳してしまっているのだ。訳の間違いならまだしも習った部分で間違えている。
これでは本当に三日である程度の知識を頭に叩き込めるか不安になってしまう。
「Silence killerは視角遮断型のトラップの総称、visual attackはそのままの意味で視覚攻撃。所謂、今のAR型の装置が普及して爆発的に普及したトラップの事よ。そして、最後にwarmは寄生を意味する自己増殖型のトラップであり一番厄介なプログラムの事――これは……」
那月は間違えだらけの美鶴の訳文をため息交じりに眺めながら、ゆっくりと解説を始める。しかし、その言葉はどれも美鶴の頭には残っておらず、本当に授業で話題に挙げられたのかと思わず、美鶴は首を傾げてしまった。
何故なら、EWC出場組の持つ常識と一般人の持つ常識はかけ離れている可能性があるからだ。だからこそ、話がこれ以上、ややこしくなる前に美鶴は電子書籍を表示していた電子モニターを消し、ゆっくりと那月の方へ顔を向ける。
「お前な……自分の常識を俺に押し付けるな……。てか、邪魔だからさっさと用が済んだなら自分の教室に帰ってくれないか? 気が散るんだよ」
「いいじゃない! 私だって、この本読みたいのよ。美香先輩に頼んでも……アレ? なんで、アンタが美香先輩の本を読んでるわけ? 所持者が白浜美香ってなってるけどもしかして――」
那月の言葉に美鶴は凍り付いてしまう。
いきなり、様子がおかしくなった美鶴。読んでいたのは美香の蔵書の中の数冊。そうなれば、ここから導き出される答えは一つしかない。
美鶴の記憶違いでなければ、昨日の別れ際、美香に話を聞いてみると言ってしまったような気がしてならない。いや、言ってしまったのだろう。
目を輝かせた那月はまるで尻尾を振って期待を露わにする子犬のように此方をじっと見つめて来るのだ。だが、事が事だけに美鶴の口から語る訳にはいかない。
それだけに、美鶴はその視線に酷く心を痛めてしまい、直視する事が出来なかった。
「それで、どうだった! 美香先輩はなんて言っていたの? 聞いたのよね!」
那月は身を乗り出して美鶴へと迫って来る。それだけ、白浜美香を先輩として尊敬しており、今回の件を心の底から心配しているのだろう。
だからこそ、知りたがっている。だが、話せば那月の心労を増やすだけ……。
昨日の話をまとめて考えてはみたが、今回の美香の騒動は那月が入学する以前――。去年の出来事が直接の原因になっている。那月が関わっていると言えば、一つの小さな要因。那月が出場メンバーへと推薦された事くらいだ。那月自身には何の責任もない。
今回の件は例え、那月が関わらなくとも起こってしまっただろう。
だからこそ、美鶴は美香に話を聞いてくれたと信じ切っている那月の思いを蔑ろにする事にした。確かに、心は痛い。けれども、今の美鶴に出来るのは適当に言葉を濁す事だけなのだ。
「悪い……それに関しては話せない」
「なんで! 聞いてくれたんでしょう? 問題があるならそれを解決すれば!」
解決出来る事ならそうすべきなのだろう。だが、問題の溝は那月が考えているよりも遙かに深く、今となってはそう易々となくす事は出来ないだろう。
これは美香と他の先輩達との考え方の違いによる対立が大きいのだ。後輩でしかない那月が割り込めば更に話がややこしくなる。美鶴など問題外だ。
「やっぱり、俺が口を挿む事がないと思うんだ。姉貴だって、お前に何も話していない訳だし、それを俺が話すのはちょっとな……」
「確かにそれは……そうかもしれないけど……」
那月は美鶴の言葉に何も言えず黙り込み、俯いてしまう。
それを言えば、何も言える筈がないからだ。これはあくまでも自分たちの問題。美鶴は部外者でしかないからだ。結局、この問題を解決するには自らの力で動かなければならない。
理解出来てしまうだけに那月は何も語ろうとしない美鶴を責められなかった。
意気消沈する那月。何も言えない美鶴――。
横から眺めていた三浦はそんな二人の様子に呆れてしまい、小さく溜息を吐いた。そして、見るに見かねて話題を変える為にこう切り出すのだった。
「那月、こいつにプログラミングの専門知識を叩き込んでやってくれないか? 出来もしないこんな技術書を必死に読んでるこいつの姿、みてられなくってさ」
「そう言えば……美鶴、もしかして……昨日、私が言った事、気にしてるの?」
美香の件で相当動揺していた事もあり、那月は色々とある事ない事を満に対し言ってしまっている。普段以上にきつくだ。それだけに、美鶴の奇怪な行動の原因が自分なのではと那月は根が真面目なだけに責任を感じてしまい、余計に暗い空気を漂わせ始める。
だが、それは完全な筋違いだ。美鶴がこのような事をしているのは那月の所為では無く、美香の力になる為に自発的に行っている。それは勝手な思い込みに過ぎない。
美鶴は勝手に勘違いし、一人で落ち込んでいる那月の様子に呆れ果てながら、この空気を振り払う為に彼女の額に対しデコピンを放った。
「別にお前に言われたくらいでこんな事をわざわざする訳ないだろ。ただ、あれだ。姉貴が出ないって言った大会がどんなものなのか最低限知識として知っておきたかっただけだよ」
美鶴としてもあまり嘘を吐きたくない。この手の話題では嘘を吐けば、すぐにばれてしまうからだ。だからこそ、慎重に言葉を選びながらそれでいて、それを勘付かせないように出来る限りスムーズに言葉を紡いでいく。
嘘ではないが、真実でもない言葉――――。
確かに知識が欲しいからこうしているのだが、それは大会がどのようなものかを知る為ではない。練習試合に参加するからだ。ネットワーク内に没入する以上、知識に裏付けされた臨機応変な状況判断が重要になる。それが出来なければ、流れを掴めない。
そんな美鶴の内心を知らない那月は自信満々に、無い胸を力強く叩いた。
「そんな事なら早く言いなさいよ! 私がみっちり、一対一で教えてあげるから」
「いや、那月だって色々と忙しいだろ? だったら、俺なんかに構うよりやるべき事があるんじゃないか? 大事な時期な訳だしさ」
もしも、第一試合敗退という結果になったとしても那月は己の未熟さを受け入れ、何も言わない事は美鶴も理解している。だが、周りはそれをただ受け入れるとは限らない。
まだ、一年。所詮、ルーキーでしかない。だからこそ、保身に走る為に責任を全て押し付けられる可能性もなくはないのだ。
確かに美鶴の中では一対一でみっちりと教わるという事が嫌だという気持ちもある。だが、純粋に那月の立場を心配しているのもまた事実なのだ。
けれども、そんな言葉では那月は引き下がらない。引き下がる筈もない。
良い意味でも悪い意味でも、お節介なのだ。それに加えて昨日の件を気にしてなのか、それが余計に那月の行動に拍車をかけている。こうなってしまえば、説得は難しい。
「そんなこと気にしなくていいから! 美鶴に教える事で私も基礎の復習が出来る。その上、昨日の件もこれでチャラ! 一石二鳥じゃない」
美鶴は「別に気にしていない」という喉から出かけていた言葉を呑みこんだ。何故なら、それに対する返答は「私が気にしているからいいの」だからだ。つまり、押し切られてしまう。
かと言って、肯定する訳にもいかない。それでは元も子もないからだ。
このままでは那月の思い通りになってしまう。しかし、一向に言葉が喉から出て来ない。
一度決めたら後には引かない性格の那月が納得し、尚且つ話の内容を逸らせる。そんな都合のいい言葉を探す為に美鶴は必死に頭を捻る。
「そうだ! 那月はこの本が読みたかったんだろ? 訳したデータを見せてくれないか? そうしたら、お前の邪魔にもならず俺も勉強出来る。互いに妥協点じゃないか?」
苦し紛れの言葉だ。当然、万事解決などと行く筈もない。結局、問屋が卸さなかった。
美鶴の目の前には那月の溜息交じりの呆れ顔だ。しかも、憐れんだ目で肩に手を置かれる。
「はっきり言っておくけど、現段階でVWNシステムの資料は市販されてないの。つまり、現行のプログラム方法と違う点が殆んどなのよ? だから、そんな本を読んだところで実際のVWNシステム内のプログラム方法は理解出来ないの。分かるかしら?」
次世代と最先端。似ているようで全く意味が異なっている。特にネットワークシステムの根本の改革が行われようとしているのだ。
それが意味している事はただ一つ――。
当然の事柄が捻じ曲がる。白が黒、黒が白……。それ程までの変化が起ころうとしているのだ。
現行の最先端が次世代の最先端である筈がない。いや、主流にすらなれない可能性もある。
つまり、これらの本を読んだところで何も変わらない。
先程、美鶴が考えていた通りだ。致命的な間違い。それは些細な思い違いから始まっていた。
「やっぱりそうか……。まぁ、基本的な部分は現行のスタイルを基準としていたとしてもな」
変わらない物。これまでも変わらなかった物。
例えば、プログラミングの基礎がその中の一つに挙げられる。大まかな形態は変わっていても、根幹部分は最初期の物を踏襲している。今回もそうであると信じたい。
だが、美鶴の中で気になっているのは先程の推論に矛盾が生じる事だ。
――そう。それでは、美鶴を何故、メンバーへ入れようとしたのかと言う前提が崩れてしまう。
ルールやシステムを完全に理解していない。だからこそ、美鶴には概要しか判断出来ない。その為、アイリスに渡された資料を読んでいたのだが、ここに来て疑念が生まれてしまう。
恐らく、アイリスは現状では資料がないからこそ現行の先端技術書を自分に渡したのだろうと美鶴は自分に言い聞かせると、小さく溜息を吐いた。
那月は眉を顰めながら、美鶴へゆっくりと近付いて行く。
「あのね! 確かに外部のプログラミングを担当する美香先輩は現行の技術と大差ないわよ。構造上は三次元でも、プログラム上は擬似的な三次元。だから、それが通用するけど、仮想世界に潜って行動するわたしのようなダイヴする人間は話が違うの!」
何故、怒っているのか美鶴はすぐに理解するが、その迫力に思わず後ろへと後ずさってしまう。それが余計に那月の気を障ったらしく、全く顔が笑っていない。
技術としての当たり前。自分も知っているからこそ、知らない事が許せないのだろう。そう勘違いする美鶴を余所に三浦は疲れた笑みを浮かべながら、仲裁に入るのだった。
「那月も落ち着け。それに、美鶴ももう少し空気を読めよ……。頼むからさ」
那月が怒っている理由は至極単純だ。知ろうとした一因の一つに自分を応援する為に勉強を始めたかと思えば、全く見当違いの勘違いをしていたからだ。
だが、実際にはただの八つ当たりに過ぎない。それが那月らしいと言えばらしいが……。
美香の力になる為に知識を手に入れたい美鶴と応援の為と勘違いをしてしまった那月。――擦れ違いと言うのもバカバカしいレベルの見当違いである。
ただ、いくら三浦が指摘した所で美鶴は美鶴で見当違いの思い違いをしているのだ。そんな状況でいくら空気を読もうとしても出来る筈がなく、事態はさらに悪化するばかりでしかない。
「大会も近いし、忙しいから邪魔したら悪いと思って色々と気を使ってるのに一々、突っかかってくるなよな。それに、誰が好き好んでお前になんか教わるんだよ。肉体的な苦痛を味わって生傷が増えるだけだろうが」
その美鶴の余計な一言に辺りの空気は凍り付き、静まり返る。
三浦は穏便に事を運ぶ為に那月を収めようと動くが、目に写った那月の表情に思わず目を逸らしてしまう。全く笑っていない目、小刻みに震える拳。どう考えても首を突っ込めば、巻き込まれて痛い目を見る事が分かってしまうからだ。
そんな那月の様子を全く気が付いていない美鶴はいい機会だと考えたのか、言いたい事、これまで根に持っていた事をぶちまけようとする。だが、それを遮るように抑揚のない声で那月はゆっくりとこう呟くのだった。
「言いたい事はそれだけ? 人がせっかく好意でわざわざ一対一で教えてあげるって言ってあげたらその傲慢な態度はどうかとおもうのだけど……」
腕を開いては閉じてを繰り返しながら、那月は間に入ろうとして固まっている三浦を押し退けると、美鶴の前に立ち微笑んでみせる。
「あんたさ、何様のつもりなの? 誰が、誰に、なんで肉体的苦痛を与えるのか教えて貰えない?」
那月はそう言い終わると、反論されるより先に美鶴の方を摘み上げると引き千切らんとばかりに左右へと引っ張り始める。そして、真直ぐに美鶴の目を見詰め、こう宣告する。
「そうねー。そこまでして欲しいのなら、私が一対一でみっちりと教えてあげる。肉体言語付きよ? ――喜ぶわよね。私が個人的に教えてあげるのだもの」
有無を言わさぬその物言いに美鶴は頷くしかなかった。那月に個人的に教わるくらいならば、美香は無理だとしてもアイリスに教わった方がいく分かマシである。そんな考えが美鶴の中にはあったのだが、そんなモノは目の前の般若を見れば大慌てで逃げ出してしまう。
HRの時間が近付いた事もあり、教室には生徒が集まり始めている。当然、美鶴と那月が言い争いをしている姿はクラスメイトの視線を集めてしまう。
普段から出来る限り、目立たないように穏便に過ごしている美鶴からしてみれば拷問以外の何物でもない。那月も同様だったらしく、その視線に次第に冷静さを取り戻していくと、ゆっくりと美鶴の頬から手を離し、無駄だと分かりながらも何事もなかったかのように装うのだった。
だが、美鶴の中ではまだ終わった訳ではない。いくら目立っていると言ってもまだ、言うべき事をはっきりと言い終わっていないのだ。それを言うまで終わる訳にはいかない。
「お前には俺に構うよりもするべき事があるだろ。言っておくが、俺からは姉貴――美香の件に何も口出すつもりも説得するつもりもないからな」
那月がどこまで美香の件について知っているのか分からない。美香が言っている事がどこまで真実であるかもはっきりとしない。それだけに美鶴が口を出すべき問題ではない。
けれども、このままでは那月も納得しない。それだけに、美鶴はワザと最後に余計なひと言を付け足す事で、那月の気を逸らさせようとするのだった。
「それから、言っておくが俺に恩を売っても何にもなりはしないぞ?」
「別に恩を売る為に言ってる訳じゃないわよ! それに、私だって理解してるわ。美香先輩だって後輩の私に心配かけまいと話さないようにしてるみたいだし……」
美鶴の言葉に強く反発するが、その意図を読み取ると次第に声は弱々しくなっていき、最後には俯いてしまう。分かっているのだ。那月も薄々には……。だからこそ、知りたくても聞く事が出来ず、何も出来ない自身のふがいなさに思い悩み、苦しんでいるのだった。
美香の事を深く尊敬しているだけにその思いも一塩だろう。だが、美鶴にはその那月の苦しみをどうにもしてやる事が出来なかった。そして、この空気は非常に宜しくない。
美香の立場としても、学校側としても。そして、美鶴としてもだ。内容は全く違うのだが、傍からは美鶴が那月を虐めているようにしか見えない。
「まぁ、あれだ。お前は……、その――そこまで気にする必要はないだろう。姉貴個人の問題な訳だしさ。そこまで、深く悩んで苦しまなくてもいいと思うぞ」
今の美鶴に言えるのはこれが限界だ。
こんな事で那月が挫折してしまったら大変だ。美香としてもそれだけは避けたい筈。ただ、那月が推薦された事も無関係ではない為に断言は出来なかった。
そんな美鶴の言葉に那月は唾を飲み込むと、ゆっくりと口を動かし始める。
「解ってるわよ。でもさ……。美香先輩が私を推薦してくれたの。誘ってくれたの。憧れのあの人と同じ舞台に一緒に立てる事が嬉しかったのよ」
那月は零れそうになる涙と嗚咽を押し留めるとこう続けた。
「だったら、何か力になりたい。そう思うのは間違っているのかな」
普段ならば、見せない弱音に美鶴は言葉を失い、何も言う事が出来なかった。
本当の事を全て吐き出してしまえば楽なのだろうが、そうなれば那月の将来にも大きな影響を与えかねない。せっかく手にしたチャンスを棒に振らせる訳にはいかない。
そんな事は美香も望んでいないのだ。それだけに何か言わなければならないと思うのだが、ただ黙り込み言葉を飲み込む事が今の美鶴の精一杯の行動だった。
二人の間にある重苦しい空気は教室中に広がる。先程では野次馬のように話し合っていた声も今は聞こえない。ただ、事の重さに気が付いたのか話題を変えろという視線を美鶴に送って来るだけだ。しかし、その要望に美鶴が答える事は出来なかった。
三浦に助力を求めようにも、今の状況では間を取り持つのも難しいのでそれは望めない。ならば、美鶴自身の手でこの空気を払い除けるしかない。
本来は手が届かなかった筈の舞台。それが今回、那月の手に届いたのは全て美香の眼鏡にかかったからだ。今の場所にいる事が出来るのは美香のお蔭――それだけに、美香の離脱という問題が那月の中で大きな溝を作り、葛藤を生んでいるのだ。
その気持ちも確かに美鶴には分からなくもない。だが、やはりどこか少し違う気がするのだ。
確かに眼鏡に適った所までは運が良かったからかもしれない。だが、そこから先は全て那月が実力で勝ち取ったモノの筈なのだ。他にも候補はいた。その候補を押し退けて、メンバーに残ったのは美香の力によるものではない。
那月本人の実力なのだ。そこで、美香に対して何かを感じるようならばそれは勘違いだろう。そんなモノを持っていたのならば、背中を追うばかりで同じ舞台には立てやしない。
同じ舞台に立つのであれば、ライバル。戦友。敵でなければならない筈だ。
「やっぱり、那月……お前は勘違いしてると思う。確かに候補に選ばれたのは姉貴の推薦があったからかも知れないけどさ。――そこから先はお前自身が勝ち取ったモノだ。まして、ネットに潜って作業する最も重要な役割を担う事になったのは認められたからじゃないのか? もっと、胸を張っていいんだよ。違うか?」
「それは……そうかもしれないけど……」
美鶴の正論に那月は何も言い返せない。那月も気が付いていたのだ。美香と同じ舞台に立つ為には背中を追いかけているばかりではダメなのだという事を――。
そんな那月に小さな溜息を吐くと、美鶴はこう続けるのだった。
「もう、お前は同じ舞台に立っているんだよ。実力差はあるかも知れないけど、こんな底辺にいる俺とは違う。姉貴と同じ場所にさ。それじゃダメなのか?」
一年の段階で美香と並んで同じ舞台で戦えている事はそれだけで凄い事なのだ。それすらも出来ない人間がいる以上、それは認めざるを得ない事実。
那月とてそれを理解していない訳ではない。ただ、同じ舞台に立てても目標とする美香がいない光景はどこか違う場所の印象を受けているのだろう。それこそが勘違いなのだが、
いつかは必ずそうなってしまう。同じ舞台に立つという事は美香の背中が見えなくなるという事。目標がいなくなり、自立して一人で歩いて行かなければならないのだから――。
だが、頭では理解出来ていても感情がそれを否定するモノは存在する。
「そう簡単に割り切れるものでもないのよ。ただ、ありがとう。心配してくれて」
那月はそう言うと美鶴に笑いかける。先程までの笑みとは違う、柔らかな笑みだ。そして、懐からPDAを取り出し、何かのファイルを探し出すと美鶴のPDAへと転送する。
ファイルは圧縮データ。だが、何故いきなりこのようなファイルを送られたか分からない美鶴は思わず首を傾げてしまう。
「このファイル……ウィルスとか入ってないよな? 俺、PDAをほとんど使わないから対策してないから少し、不安なんだが」
「あんたね……人の好意に対してそう返すのはどうかと思うわよ。それから、ウィルス対策くらい使わなくてもしておくのが常識でしょうが。なんなら、私がしてあげてもいいわよ? この程度のセキュリティなら私でも組めない事はないしさ。まぁ、最近はネットも安定化してきてるから安物でも十分に効力を発揮してくれるとは思うんだけどね」
エンジニアとしてのハッカーがいるようにクラッカーも存在している。一昔前ならそのような『優秀な』人間が毎日のように新種のウィルスを開発、亜種作成が行われていた。それに対応する対策ソフトは日夜、新たに公開されるウィルスとイタチごっこをしているのが現状だったのだ。
その為、堅牢かつ軽量化されたウィルス対策ソフトを導入するのが常だったのだが、今のネット状況は少しばかりこれまでとは状況が違うのだ。
簡単に言えば、嵐の前の静けさとでも言えるのかもしれない。
次世代型のネットワークと言う次のステップが目の前に現れた事により、活動しているクラッカーは減少し、他人の作ったツールを用いるスクリプトキディが増加しているからだ。
ただ、そのような現状でも美香のような各所で名前の知られている人間の身内は踏み台にされる可能性も高い事から推奨されるセキュリティレベルも他とは違い高い。何故なら、技術証明として標的にされる可能性だけでなく、機密情報の奪取が目的で利用される事があるからだ。
だが、そんな那月の警告を笑って美鶴は聞き流す。
「別に必要ないだろ。授業と宿題程度の最低限度しか利用してないしさ。それに、そんな事態になっているならアイツが何か言ってくるだろうと思うんだよな」
頻繁に美鶴のPDAにはアイリスがやって来ている。今、現在のPDAの内部データの整理は完全にアイリスが行っており、一種の別荘状態になっているのだ。それに加え、自身に快適な環境を作る為に色々と勝手にインストールしていてもおかしくはない。いや、むしろしているだろう。
美鶴はそんな事を考えながら、那月の送ってきた圧縮データを解凍する。開かれたファイルの先に現れたのは何個かに区分されたメモ帳の山だった。
「私が美香先輩にEWC出場の為に色々と教わった際にあの人の言葉を自分なりにまとめたノートよ。何も参考にするものがないよりはマシでしょう? それを見ても解らない事があるなら、放課後以外の休憩時間に聞きに来て。多分、その時間なら空いてるから」
那月の言葉に、美鶴はそのメモ帳の内容を開いて確かめる。
仮想空間における物理法則の数式、プログラムの形式、システム資料。――それらのまとまり具合から見ても、これを那月が苦労して作り上げたのは容易に想像出来る。那月にとってこのノートが何を意味するかもだ。だからこそ、これ以上は迷惑をかける訳にはいかない。
「これだけ借りれれば十分だよ。後は俺一人の手で何とかして見る」
「けど、やっぱり実際に体験するのとただの説明を読むのとでは訳が違うわよ? どうしても、システム面では個人的な癖や資質が左右する。……特にプログラムの組み方なんて既に現段階で同じ方法を使っている人間なんて多分、いないと思うからさ」
百聞は一見に如かず。する事と見る事では理解度に差が出るのも当然。視野という明確な問題がある以上、那月の言っている事には何ら間違いではない。だからこそ、那月は美鶴に空いている時間で色々と解説を加えようと思っていたのだ。
しかし、那月と美鶴では考え方が対称的になのだ。
那月の在り方は理詰め。詰将棋のようなものだ。効率性を最優先に考えて行動する為、よく言えば真面目だが、悪く言えば堅物。理詰めで理解出来ない美鶴は感覚で物事を捉えているだけにその辺りの根本の考え方での衝突は避けられない。
けれども、美鶴には一人だけ心当たりがいた。理詰めでは無く、感覚のみで日常的にプログラムを組み立てているネットに非常に詳しい存在――。
「いや、心配してくれなくてもいいよ。心当たりがあるからさ」
彼女以上に仮想世界における法則、およびその他諸々に関して詳しい存在はいないだろうと美鶴は断言出来る。それは虚勢や建前では無く、紛れもない事実だ。
だが、美香以外で美鶴周りにそのような人物の心当たりが三浦にも那月にもない。
何故なら、美鶴の交友関係は両手の指で数えてお釣りがくるレベルだからだ。それに加え、もしもそんな人物がこの学校内にいたとすれば、全く話題に上がらないのはおかしい。
だからこそ、美鶴のその言葉に二人は思わず首を傾げてしまうのだった。
「本当に大丈夫なのか? 騙されてないのか……それは」
「もう一回、考え直した方がいいと思うんだけど、本当に私は別にいいから」
三浦と那月の二人が信じられないのも当然だ。現在、試験運用されているシステムを完全に熟知している人間など開発者以外に存在しない。
あの美香ですら、完全に全容を把握している訳ではないのだ。その事実が前提に存在している中で、開発者と同レベルで熟知している人間がいるなど、どう考えても詐欺以外に考えられない。
だが、大切な事を忘れている。
美鶴は一言も相手が人間であるとは言っていないのだ。
AIと呼ばれる存在。美鶴の心当たりとは、アイリス。美香の保有するNPCだった。
何故なら、彼女達AIという存在はネット上に生きている。その為、人間が呼吸をする要領でプログラムを組み立てる事が出来る。だからこそ、仮想世界において人間が本来なら考えもしない視線を持っているのだ。その上、この世界で誰よりもネットという世界に適合した存在でもある。
理詰めで考えながらも、感覚で物事を判断している為、那月よりもアイリスの方が美鶴よりも適していると考えての結論だった。
だが、美香の保有するNPCであるアイリスはあまり学校では表だって出て来ない。その為、殆ど彼女の存在は学校内で知られておらず、那月と三浦の反応は仕方ないと言えるだろう。
それに加え、現状の技術ではNPCは感情を模倣するのが関の山。保有するまでには至っていない。事実、過去に行われていた研究は放棄されており、学界でも注目を集めていた若手の研究者は一線を退き、姿を晦ませてしまっている。
当時、高校生――若き天才と謳われ、これから先の人工知能の研究を引っ張るとまで言われていた若手の研究者――――。
そこで美鶴の思考は止まってしまった。何故か、名前を思い出せないのだ。
確かに記憶を失った辺りの事件であり、名前を思い出せないのは当然かもしれない。しかし、これまで何度か調べている事もあり、内容を覚えているにも関わらず名前が思い出せないのだ。
ただ、今は然して重要な問題ではない。美鶴はその事を頭の片隅へと追いやると、自分の事よりも美鶴の事を心配している那月の方へと顔を向けた。
「お前さ、俺の事を心配するよりも自分の心配をしたらどうだ? 今、一番大変なのはお前だろう? 姉貴の事もある訳だし、そんな余裕はないんじゃないのか?」
「それはそうだけど……。目の前で騙されようとしているバカを無視出来る訳ないでしょう」
那月はまだ言いたい事が山ほどあると言わんばかりに不満気な顔をする。しかし、HRの開始を告げるチャイムが鳴り出してしまい、それ以上は何も言う事は出来なかった。
「本当に何かあったら相談しなさいよ? 少しなら、力になるから」
「別に必要ないって言ってるだろ……毎回、お節介なんだよ」
那月の気遣いに対し、美鶴は深い溜息を吐いた。現状の那月の立ち位置は美鶴が考える以上に難しい位置にある。今以上に美香と他の上級生の衝突が激化したら那月にも影響が出て来るのは必至だろう。
最悪の場合、那月が一人で色々な物を背負ってしまうハメになるかもしれない……。
教室へと戻って行く那月の姿を眺めながら、これから美鶴がどう動くべきか考えるがやはり何も浮かんでこない。出来る限り、穏便に済んで貰いたいが、それももう無理なのかもしれない。
「もう少し、言い方があるだろ? 那月だって気を遣っているんだから」
那月の気遣いを拒否するだけでなく、最後まで拒絶していた美鶴の様子に三浦は呆れたような表情を浮かべる。そんな三浦に対して、美鶴は椅子に深くよりかかるとゆっくりと口を開いた。
「こんな呑気な事を言っていられるのも今の内だろ。本当に美香が抜ける事になったら、姉貴に推薦されたアイツの立場はどうなる? それなのに、俺に構っている余裕なんかないさ」
美鶴はそんな三浦の言葉に面倒臭そうに頭を掻きながらそう答えた。すると、三浦は少しだけ考え込むような素振りをすると、すぐに頷いてみせる。
「確かにそれもそうか。本当に俺の周りは話題が絶えないな。まぁ、新聞のネタとして使えないのがたまに傷なんだがな……」
「はいはい。邪魔だから、お前も席にもどれよな」
美鶴は三浦のその発言を軽く聞き流すと、朝礼の準備の為に机の上を片付け始めるのだった。
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