第7話

 美鶴の目の前に広がるのは英語、ドイツ語、アラビア語……。それに加え、プログラミング言語であると推測される意味の分からない文字群だった。

 学校に到着すると昨夜アイリスから渡された参考書に目を通し始めたのだが、言語の意味が理解出来ず読み解く事すらままならない。内容を理解する以前の問題なのだ。

 これを何の苦も無く読み解いてしまうのが美香の才能の一端なのだろう。あの美香が収集してそこで終わっている筈がない。これを読み解いて頭に叩き込み、自分の物にしているのだ。

 せめて、日本語の参考書ならば頭を捻りながらも読み進める事は出来ただろう。だが、目の前の電子モニターに表示されている文字の羅列をまず訳す事に時間と多大な労力を必要とし、全く進む気配が無い。一時間かかり、ようやく一ページといったところだ。

 この手の参考書は専門用語の知識が必要となる他。前提として、ある程度の土台を求められる。つまり、一朝一夕で本の内容をモノにできるレベルではないのだ。

 それに加え、この本の前提の技術書すら訳本が今も日本語で出版されていない。日本がネット技術で後進国に甘んじている為、向こう側の二つ遅れが此方の最先端となっているのが現状なのだ。

 美鶴の口から大きなため息が漏れる。

 一応、全てに目だけは通したのだが、欠片も理解出来ていない。既に美鶴の頭は普段以上に働いており、オーバーヒートを起こしかけてしまいそうなほどだ。

 その為、少し頭を冷やそうと考えた美鶴は電子モニターを全て閉じ、気分転換する為に席を立とうとする。そこで初めて、何やら周りから視線が自身に集まっている事に気が付いた。

 ざわめきの理由は明確。教室に入ったら有り得ない光景が目に飛び込んで来たのだ。

 情報科学の時間、真面目に話は聞いていても内容を殆んど理解していない美鶴が学校へ早くから登校し、自分から進んでその情報科学の勉強しているのだ。

 テスト前ならばまだ理解も出来る。だが、今は中間テストも終わったばかり。期末までにはまだ時間がある。予習にしても今日はその情報科学の授業が存在しない。

 その有り得ない美鶴の行動に皆、首を傾げるものの完全に自分の世界に没入している美鶴の様子に誰一人として話しかけるどころか、近付く事すらも出来ずにいたのだ。

 そんな微妙な空気の中、教室へと到着した一人の男子生徒がその光景に思わず、苦笑いを浮かべながらゆっくりと美鶴へ近付いて行く。

 触れるに触れられずにいただけに当然、教室中に緊張が走る。

「お前、何やってるんだ? 風邪でも引いたのか? とうとう、頭がおかしくなったのか?」

 声をかけられた方へと美鶴が顔を向けるとそこには三浦が立っていた。だが、突然かけられた言葉に全く心当たりの無い美鶴はしばらく固まってしまう。

 額に手を置いて調べるが、熱は平熱。睡眠時間も問題ない。身体は健康そのものだ。

 休憩がてら身体を軽く動かしながら体の状態を確認すると、三浦を放置して再び電子モニターに表示された資料と睨み合いを始める。美香の話では残り期間は三日だ。今の美鶴の状況を考えれば、一時たりとも、無駄に出来るような時間は存在していない。

「悪いんだが、邪魔しないで貰えるか? ただでさえ、日本語訳じゃないから苦戦しながら騙し騙し読み進めてるんだ。しかも、殆どが直訳で意味すら分からないし……」

 三浦は美鶴の口から発せられた言葉に思わず、耳を疑ってしまう。

 何故なら、あの情報科学に関して完全に諦めていた美鶴の言葉だからだ。

 しかも、昨日まではいつもと変わらなかった。それが一日経って学校へと来るとまるで別人のように変貌してしまっている。この状況に誰も驚かない筈がない。

 まだ、夢の中にいるのではと三浦は頬を抓って見るのだが、痛みが現実だと告げている。その痛みに三浦はこの状況にどうしたらいいのか余計に混乱してしまうのだった。

「そうなんだ。まぁ、頑張ろうと思ったなら良い事なんじゃないか?」

 片言になりながらも何とか話を終わらせようとする三浦に美鶴は一旦、手を止める。そして、電子モニターを閉じると再度三浦へと視線を移動させた。

「そう言えば、さっきから何なんだ? この教室の空気……しかも、俺に視線が集まってるし、別に何かやらかした覚えはないんだけどな……」

 空気の中心に自分がいる事は何となく気が付いていたものの、これっぽっちも心当たりが存在しない美鶴は首を傾げてしまうのだった。

 そんな美鶴の態度に三浦は頭を掻きむしり、溜息を吐いた。そして、おもむろに美鶴の肩を掴むと無表情のままゆっくりと耳元へと近付いて行く。

「現在進行形でしてるだろうが! いつも、情報科学の勉強なんて適当にしかしていなかった奴が教室で朝っぱらから自習だぞ! 目を疑いたくなるだろうが!」

 大声に教室中の視線が更に二人に集まる。当然と言えば、当然。この何とも言い難い空気の要員となっている美鶴がこんな不可解な行動を取った理由に興味があるからだ。

 今は美香の噂が一年の間に広がりつつある。もしかしたらがあると考えたのだろう。

 ただ、美鶴としては別におかしな事をしているつもりはない。皆無だ。

 時間と相談し、最大かつ有意義に時間を使う為の最善を考えた結果。朝のHR前の時間すらも利用しようと考えただけなのだ。それ以上の意味はない。

 期日と言う現実の壁を前に美鶴は焦っているのかもしれない。

 だが、現実として三日程度の時間ではどうにもならない差が存在している。元来、この手の事を率先して勉強し、訓練して来た連中に勝てる筈がないのだ。ハッキリ言って、不可能と言っても決して間違いではないだろう。

 それでも、こうして少しでも知識を学ぼうとしているのは、例え付け焼刃でもないよりはマシだからだ。場面場面で少しは相手の行動に対応出来る。先手を打つ事も出来るかも知れない。

 ――もしも美香の勝負に参加したとして、それを負けた時の理由にだけはしたくなかった。自分に逃げる要素を作って置きたくなかったというのが美鶴の考えだった。

 ただ、そんな裏の事情を知らない人間から見たら今の美鶴がトチ狂ったように見えてしまっても仕方がないのだが……。普段の行いが行いだけに。

「別にいいだろ……。理由なんてなんでも。それで、もう用がないなら邪魔するなよ」

 美鶴としては三浦を突き放すつもりはない。だが、この件には美香が関わっている為、深くは話す事が出来ないのだ。三浦の口が堅いのは美鶴も知っている。だが、アイリスが話さないと約束したのだ。それなのに、美鶴が誰かに漏らすなど出来る筈がなかった。

 いつもと違う美鶴の状況。昨日の那月の様子――。

 三浦は何かあった事を感じ取ると、それ以上は無理矢理踏み入るような真似はしなかった。

 美鶴の友人として話してくれるまで待っている事が正しいと考えたからだ。もしも、一大事ならば、個人的に話してくれる。それを信じて待つ事にしたのだった。

「わかったよ。けど、何か本当に困った事があれば相談してくれよ? お前の一友人として、心配しているんだからな」 

――お前がそこまで頑なに黙ってるって事はお前にとっても重要な事なのだろう?

 三浦はそう付け足そうとするが、その言葉は不要だと飲み込んだ。でなければ、こんな真剣な顔つきで何かに取り組むなんて事をしない事を三浦は何度も見て来たからだ。

 美鶴はそんな三浦の言葉に目を見開き、口を開いて何かを言おうとする。

 だが、三浦は美鶴にデコピンしてそれを邪魔し、その言葉を遮る形でこう続けた。

「言わなくていいって言ってるだろ? どうせ、美香先輩(あのひと)の事だろうしな。俺もその件について調べて回ったら高倉の野郎に止められたしな……。けど、一人で全部抱え込むなよ?」

 そこまで知られているのならば、今更否定した所で意味はない。

 何も言えなくなってしまった美鶴は思わず黙って俯いてしまう。

 だが、ここでの黙秘は肯定と同義だ。何か言わなければと思うのだが、言葉が見付からない。

 そんな美鶴に対し、三浦は盛大に溜息を吐くと隠し事が苦手な美鶴の馬鹿正直さに呆れて果て、苦笑いを浮かべてしまうのだった。

「そっか……。まぁ、お前のその馬鹿正直さは魅力なんだろうけど、少しは誤魔化す事を覚えた方がいいぞ? ただ――まぁ、頑張れよ。俺に出来る事は少ない。いや、なにもないかもしれないが、友人として最大限の助力は惜しまないからさ」

 三浦のその言葉に美鶴の肩からわずかではあるものの、荷が降りた気がした。

 昨日、アイリスから話を聞いて美鶴は一人必死になっていた。何をどうすればいいのかすらわからないのに。そして、それが自分でも気が付かない内に大きな負担になっていたのだ。

 美鶴は一言、「ありがとう」と三浦に告げると彼の腕を掴み、電子モニターを指差す。

「――――――あぁ、そうだ。これまったく分からないんだが、これはどういう意味なんだ?」

 アイリスの選んだ参考書は全て美香の所有している物だ。当然の如く、それらは専門の知識を必要としており、専門用語も難解なものが多く、それ専門の辞書を必要とするレベルだった。

 その為、朝から必死に読み進めてはいるものの全く進んでいない。四苦八苦している上に、一歩進んで八歩ほど下がる始末なのだ。これでは一体、何をしているのか分からない。

 そこで一応、情報科学で中堅を維持している三浦に美鶴は尋ねてみた。しかし、その情報科学の電子書籍を見た三浦は表情を固め、その書籍から目を逸らしてしまう。

「……悪い。そこまで高度な知識は持ち合わせてないわ」

 三浦の言葉も当然。いくら、情報科学で中堅と言っても、それは学校教育の中でしかない。レベルが違い過ぎるのだ。その上、英語は教育である程度ならば読めたとしても、それ以外の言語が三浦に読める筈がない。習ってすらいないのだから……。

 それを美鶴はたった一人で行おうとしているのだ。誰にも頼らず。

 三浦としてはその事に呆れて言葉も出ない。まぁ、コレが出来る人間は限られるだろうが。

「クラッキングに関する資料だろ? これは……。順番を考えろよ。プログラミングの基礎から始めるのが普通だろうが! こんなもの俺に聞かれても困るっていうんだよ。美香先輩に聞けよ……」

 クラッキングを試験的に行えるレベルの人間は上級生ですら、数えるほどしかいない。それを通常運用できる人間などこの学校ではごくわずか。

 息をするように操れる人間はこの学校でも白浜美香くらいしかいない。

 だが、美鶴がその選択肢を選ぶ事は出来なかった。それをすれば、何故こんな事をしているのかと言う話になるからだ。それだけは避けたかった。だからこそ、美鶴は首を横に振り否定する。

「姉貴の力は借りたくないんだよ……他に誰か目ぼしい奴とか知らないか?」

 三浦は自身の持つ情報を基に考えを張り巡らせるがなかなか浮かんでこない。この場合、美鶴が頼み易いと言う条件まで付いているからだ。そんな都合のいい人材がいる筈……。

 そう考えた所である人物の名前を三浦は思い出す。美鶴が知っていて、この系統の知識ならある程度の下地がある白浜美香以外の人材だ。

 三浦は何やら不敵な笑みを浮かべながら、美鶴の肩を叩いた。

「一人いるじゃないか。お前に良く突っかかってくる人間がさ。あいつなら、EWCのチームにも入ってる。お前も頼み易い。人材としては申し分ないんじゃないのか?」

 その言葉に美鶴の頭には即座に那月の顔が浮んだ。

 だが、美鶴はあの女が素直に教えてくれる姿など想像出来る筈がなく、逆切れされて時間だけが無情に過ぎて行く光景しか思い浮かばない。

 確かに那月が優秀なのは美鶴も認めている。だが、そりが合わない。

 意思疎通が上手く出来ず、知りたい事を教えて貰えないまま実戦という最悪の状況になりかねないだけにそれは難しい。無駄に出来る時間はないのだ。

「ないな。……アイツが素直に物を教えてくれるようなたまか?」

 よくよく思い出してみれば、昨日の件の事もある。美鶴としても顔を合わせ辛い。それに、後々の事を考えれば……自身の身が危険な気がする。

 那月の事だ。敵に塩を送るような行為は自身も許せない。その上、騙してそれをさせたとあっては、その人間も許さない筈だ。そんな面倒な事になう事だけは絶対に避けたい。

 だが、三浦の中の那月は美鶴の思っているソレとは違うらしく、こう断言して見せた。

「いや、あいつはお前と二人っきりとかすれば、意外と教えてくれると思うぞ?」

「はぁ? って、二人っきり!?」

 美鶴としてはそんな状況は絶対に御免だ。どう考えても、那月に殴られている自身の姿しか浮かばない。そんな理不尽な目に合うのだけは絶対に嫌だった。

「無理だな。あいつと会うなら誰か周りにいないと、面倒な事になる……」

「お前な……昨日の事をまだ気にしてるのか? これじゃ、那月も大変だな……」

 そこで、美鶴は今回の事を全て三浦が知っているわけではないという事を思い出した。だからこそ、こうやって美鶴に那月を奨め続けているのだ。

 だが、三浦にはそれ以外の思惑もあった。那月が美鶴に気がある事を知っているが、なかなか接点が生まれない。そんな二人をくっつける一石二鳥のチャンスと考えていたのだ。

 けれども、その企みは見事に失敗。その関係がこの二人らしいと言えばらしいのだろうが、やはり言葉を失ってしまう。しかも、美鶴本人が気が付いていないだけに。

「英語だらけで目がチカチカする。これは専用の眼球保護用の眼鏡でも買った方がいいのかね? まぁ、買っても使い道がなさそうだけどな」

 性能が向上しても、長時間のPCでの作業は目を疲れさせる。

 それを考えて作られたのが眼球保護用の特殊加工されたレンズなのだが、そんなモノを使うのは極一部の極めて優秀な限られた人間だけである。

 普及していない一番の理由はそれ以上に単価が非常に高い事があげられるのだが……。

「お前……本当にマイペースだな。つか、そんなバカみたいなもの使ってるのって確実に美香先輩ぐらいだろ。お前には必要ねぇよ」

 三浦の辛辣な言葉に美鶴は何も言い返す事が出来ない。

 そんなモノを買った所で活用出来る筈がない上、買えるだけの小銭と言う名の大金がない。

 それを自分の力で稼いでいるのはこの学校では美香くらいだろう。教師を含めて。

 噂では美香は学生の身でありながらツール開発などで推定数千万程、通帳の中に入っているような話が実しやかに囁かれている。高校三年の時点でそこまで稼げる意味が美鶴には分からないのだが、特許使用料などが含まれているのだと信じたい。いや、信じなければやっていられない。

「……確かにそうだな。姉貴なら普通に持ってそうで怖い。いくら稼いでるんだよ……」

「まぁ、あれだよな。あの人の場合、企業からの囲いもあるし、ツールの特許とかもあるだろ? それ考えると、減るどころか増え続けて行くんだろうな。昨日の授業の話だと世代交代で現行の技術が全て時代遅れになる訳だし……逆玉の輿に乗れるな」

 三浦のその言葉に美鶴の額から止めどなく汗が流れ始める。

 美香の逆玉の輿と言う話にではない。

 ――――現行の技術が時代遅れの旧時代の産物に成り果てるという事に対してだ。それが意味している事はただ一つ。今、読んでいるこのプログラミングとクラッキング技術すらも一世代前という事になる可能性があるからだ。

 それ程までに二次元から三次元への移行。VWNシステムと呼ばれる仮想ネットワークは大きな転換期を齎そうとしているのだ。

 よくよく考えれば、現在発行されている技術書にその情報が載っていなかった。なぜなら、まだ情報が大きく公開されていないのだ。公になるには早過ぎる。

「……確かによく考えたら、直接ご指導いただいた方がよさそうだな」

 この技術書すらも役に立たない可能性に美鶴は椅子へと大きく寄りかかった。

 絶対的な知識量も違うが、やはり立っている場所も違う。今の現行の技術で応用が利く可能性も確かにあるが、それはあくまでも立っている場所を理解した上での行動だ。

 その第一歩が存在しないのだからこれ以上無意味な事は他にない。

 逆に言えば、美香が美鶴を選んだのはその辺りの要因が発端なのかもしれないが――。

 現行の技術を整理していない状況では混乱を招いてしまう。

 ならば、最初から知識をあまり持ち合わせていない人間を選出し、立っている場所の理解から始めさせれば少しは使い物になる。美香の事だ。そう考えたのだろう。

 単純に言えば、現行の技術が足枷なのだ。それを持たないからこそ、美香は美鶴を選んだ。出発点としては絶好の場所に立っているからという理由で。

 確かにプログラミング技術を身体で覚えている美香達には到底、敵う筈もない。だが、その距離は僅かかもしれないが縮んでいるのだ。

「なんか、悩みはなくなったようだな。安心したよ」

 三浦の言葉に美鶴は自身が笑みを浮かべている事に気が付いた。何かが見え始めたのだ。

 昨日はあれだけ力になれないと思っていた。それだけに少しでも可能性と言う兆しが見えてきた事が美鶴には嬉しかった。それが全く見えていなかっただけに余計に……。

 だが、希望という兆しが現れただけだ。何一つ、現状が変わった訳ではない。この後、どうなるかは全て美鶴の手一つにかかっている。

 けれども、美鶴は自信を持って三浦に力強く頷いて見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る