第4話
「ただいま」
扉を開けると、誰もいない部屋。家を出てからの日常――。
いつもの美鶴なら、この時間は既に台所に立ち、自炊の為に近所のスーパーで買った材料と冷蔵庫の中身で献立の内容を考えている時間だ。しかし、今日は病院の診察が長引いてしまった。
その為、いつもとは違い冷たいコンビニ弁当の入った小さな袋が握られていた。
けれども、いつもと違うのは美鶴の夕食だけではない。何故なら、部屋の様子がおかしいのだ。
「そう言えば、居間の電気が付けたままになってる。それに、見た事もない女物の靴……。泥棒か? 盗むものなんてないのにご苦労様な事で……」
玄関から堂々と侵入する泥棒――。その姿を思い浮かべていたのだが、よく考えたらオートロックで普通に鍵を開けられる筈がない。高度な技術を必要とするので、普通は開けられないのだ。
その上、台所からは何やら美味しそうな匂いが漂ってくる。しかも、何やら聞こえてきた鼻歌。
その状況に美鶴の中で頭に過ぎったのはただ一つ。有り得ない事だが、部屋を一階間違えたというモノだ。たまたま、ドアが開いてしまっていて表札を確認せず、入ってしまった。
気付かれないように脱出し、自分の部屋へと向かおうとしていると、台所から誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。しかも、軽快なステップで嬉しそうな鼻歌交じりにだ。
台所から玄関までは廊下を一直線――もはや、美鶴に逃げ場はない。
最後の手段、頭を下げ穏便に事を済ませる覚悟を決めた美鶴が振り向いた先にいたのは予想外である意味、予想通りの人物だった。
長い黒髪を靡かせ、黒いワンピースの上にエプロンを纏う白浜美香……姉の姿だ。しかも、先程から短過ぎるスカートの中、ガーターベルトが見え隠れしている。
この人物こそ、三浦が『高嶺の花』であると称し、あの那月が尊敬して止まない先輩でもあり、学校始まって以来の成績優秀者である白浜美鶴の姉であるのだから、呆れて言葉も出ない。
「あっ、おかえりなさい!」
満面の笑みで抱き着いて来る実の姉に対して、全く頭の付いて行っていない美鶴は呆然と立ち尽くしてしまう。何もかもが意味不明過ぎるのだ。
別段、姉弟なのだから、ごく一般的な家庭を基準として考えるならば、同じ家に住んでいても全くおかしくはない。だが、美鶴は中学卒業後、一人暮らしをしている。
しかも、カードキーを渡した覚えはない。これまで、この家に入る際は美鶴がカギを開けて招き入れていたからだ。コピーを取るような隙も見せた事はない。
つまり、鍵を開けてから部屋の中へ堂々と侵入するなど絶対に不可能な筈なのだ。
その上、意味不明な絶対に触れてはならない衣装を着ての登場……。思わず、美鶴が頭を抱えてしまうのも無理がないと言えよう。
そんな美鶴の心情を知らない美香は可愛らしく、首を傾げていた。
「何してるの、美鶴? 早く部屋に上がらないと虫が入って来ちゃうよ? ……って、ダメじゃいない! まさか、一人暮らしになったからってコンビニ弁当ばかり食べてるんじゃないでしょうね。こんなモノばかり食べてたら体壊すわよ! お姉ちゃんが抜き打ち検査に来て正解ね!」
美香は美鶴の持っていたコンビニ弁当の入った袋を奪い取ると、小うるさい説教を始める。
だが、今の美鶴にはそんな言葉が届くほどの余裕がなかった。
何故なら、美香はこの部屋の鍵を手に入れた。つまり、いつでもここに来ることが出来るという事を意味している。これでは、心休まる場所がない……。
だからこそ、今は小言よりも美香がどのようにして、ここの鍵を開錠、もしくは入手したか。それらを突き止めなければならない。それが今の美鶴にとって最重要事項だ。
「どうやってこの部屋に入ったんだ? ……鍵は渡してなかった筈だよな?」
美香に恐る恐る尋ねながら、鞄の中に保管されているか確認する。
一つの可能性として、美鶴自身のカードキーを持ち出した可能性を考えての確認だが、当然の如く鞄の中に存在している。当然と言えば、当然だろう。
スペアは部屋の中。カギはオートロック。部屋の中に入らなければ、まず鍵は手に入らない。
ここをセカンドハウスにされない為にはカードキーを取り上げる必要がある。だが、取り上げた所で入所経路を潰せなければ、何の意味もない。しかし、心当たりはない。
断固として阻止しなければならない問題。それだけに美鶴は頭を悩ませているのだった。
「鍵? 管理人に『いつも弟がお世話になっています。これ、つまらないものですが』って言って粗品を渡してお願いしたら、お茶を入れてくれて休ませてもらった上に快く鍵を開けてくれて、スペアのカードキーまで頂いたわよ? いい管理人さんね」
美香の言葉に美鶴は凍り付く。まさか、管理人が裏切り者だったとは予想外だったからだ。
だが、確かに注意しておくべきだった。彼女いない歴十五年の管理人がそこそこ美人な姉の誘惑に根負けして願いを聞き入れる可能性は十分にあったからだ。
しかし、鍵まで渡されてしまうとは少しばかり予想外だ。いくら、家族だからと言ってそれはセキュリティ上不味いだろう。どう考えても問題がある行動だ。
「あの管理人かよ……。後で覚えてろよ。――絶対に鍵を付け替えさせてやるからな……」
こうなったら、鍵を付け替えさせるか。他にも言いたい事は山ほどあるが……。
そんな美鶴の前で急に美香が深く頷いてもじもじしながら、上目遣いで美鶴の方を何度も確認し始める。時折見える頬はほんのりと淡い林檎色に染まり、恥ずかしがっているのは明白だった。
ただ、美鶴としては何か嫌な予感しかしない。よからぬ事を企んでいるとしか思えないのだ。
「美鶴……お風呂にする? ご飯にする? それとも、わ・た・し?」
ご飯……。その言葉に美鶴の記憶に鮮明なまでに過去の惨劇が甦ってくる。他の言葉が何も耳に残らないほどに鮮明にだ。もしかしたら、あの地獄がこの廊下の先に待っているかもしれない。
そう思えてくると、この通路がまるで処刑台に続く道のように思えてきた。
けれども、まだ運命は決まった訳ではない。完成する前に全てを闇に葬ってしまえば、全てが丸く収まる。誰も苦しむことはないのだ。
そう結論付けた美鶴は荷物を自室へ全て投げ入れると、美香を押しのけて大急ぎで美味しそうな香りが漂ってくる台所へと向かった。
惨状――この言葉が台所の状態を見た美鶴の頭に浮かびあがる。
まず目についたのは、シンクに高く積み上げられて洗われていない調理器具の山々だった。完全に排水口を塞いでいるだろうその状態に思わず、頬が引き攣ってしまう。
ただ、以前のような騒ぎになるほどの異臭はしない。しかし、まだ気を抜くには早すぎる。
何故なら、見た目も臭いも問題ないが、味が危険物ではないと断定されたわけではないからだ。
世の中には見た目と臭いは問題なくとも、一口食べれば人を絶叫へと陥れる。そんな悪夢を具現化したかのような破壊兵器を創ってしまうような人間がここにいるからだ。
コンロの上に乗っている鍋以外にはそれらしいものはない。食器にも盛られていない事から考えると、まだ調理の途中だったのだろう。
その事実に間に合って本当に良かったと胸を撫で下ろす。これならば、まだ何とかなる。
覚悟を決めると煮立っている鍋へと近付き、ゆっくりと鍋の蓋に手をかけた。
この先にあるのが有り得ない色ならば、いくら美鶴でも手の施しようはない。後は神に祈るばかりだ。普通の色でまともな状態であって欲しいと……。
だが、その先の光景を見る事は出来なかった。半泣きの美香に鍋の蓋を開けようとしていた手を掴まれて、阻まれてしまったからだ。
もしも、これで無視し続ければ本当に泣き出しかねないだけに美鶴は折れる以外に選択肢はなかった。深いため息を吐くと、仕方なく美鶴は鍋の蓋から手を放し、美香の方へと向き直った。
「お、お姉ちゃんが精一杯アピールしてるんだよ! おろしたての黒いワンピースと白いエプロンを着てアピールしてるんだよ! だって、これが今の男の子が好きなメイド服ってやつなんでしょう? それを全部無視していくなんて……みーちゃん、酷いんじゃないかな!」
美香は美鶴に服装の事を軽くスルーされた上に先程の意味不明な発言を無視された事が気にいらないらしく、不貞腐れて頬を膨らませていた。
しかし、美鶴の中での優先順位は当然の如く、美香よりも危険物で命に関わる可能性のある料理の方が上だ。気にしている時間はあまりない。けれども、この状態の美香は絶対に引かない。
それを知っているだけに美鶴は姉である美香に対して呆れた表情を浮かべてしまう。こうなってしまった以上、論点をすり替える他にない。
美鶴は可哀想な姉の肩を持つと、赤子をあやすかのようにゆっくりと語りかける。
「ガキじゃないんだから、いい加減にみーちゃんと呼ぶのは本当に止めてくれ……。てか、それだと姉貴もみーちゃんになる事に気が付いてるのか?」
「そんなこと関係ないもん! みーちゃんはみーちゃんなんだもん! それよりも、なんでみーちゃんはお姉ちゃんを無視するのかな! この服だって今日の為にわざわざ舞と買い物に行って買ってきた男の子の大好きなメイドさんを意識した格好なんだよ! サービスシーンだよ! なのに、何も言ってくれないなんて……お姉ちゃんとっても傷ついたよ。――せっかく、晩御飯まで作って新婚の新妻よろしくお出迎えしたんだよ! それなのに……」
美鶴は美香の言葉に頭を抱えてしまう。ツッコミどころが多過ぎる。それらを一つ一つつぶしていたのでは話が全く進まないレベルで点在しているのだ。
だが、それ以前に最も重要な意思疎通にも問題がある。それだけに美鶴は言葉を失うしかなかった。面倒以外には言葉が見つからない。美鶴にはこの話はもう耐えられなかった。
しかし、先程の様子から分かる通り、普通の話題転換ではまた元の流れに戻されてしまう。つまり、美香を持ち上げる形での話題ふりでなければならないという事だ。だが、そんな手札はない。
辺りを見回すが、そんな事を出来そうなモノは一つ以外に美鶴の目には映らない。だが、それは選択するには危険すぎる札だ。何故なら、それは危険物である可能性の高い鍋なのだから……。
けれども、考える余地はもう残されてはいない。美鶴は覚悟を決めると、その手札を最も有効に使う為に美香を最大限に煽て始める。だが、ただ煽てるのではダメだ。
緩急を付けなければ、美香は美鶴の企みをすぐに見破ってしまう。だからこそ、慎重に慎重を期さねばならない。そうでなければ、また最初からやり直しだ。
「わかった……もう、みーちゃんでもいいが、学校では絶対に普通に呼んでくれ……。それから、それがメイド風とか恐らく、メイド服が好きな奴から見ても判らねえよ……」
「そうかな? 黒いワンピースにエプロンドレス、ガーターベルトを装着したらみんなメイド服になるのかなと思ってた。確かに、ヘッドドレスが足らない気がするわね! これは極めて重大な問題だわ。明日にでもすぐに買いに行かないと」
くるりと一回転して自分の服を確認する美香の様子に足りないのは「主の心情への気配りと思いやりだよ」と、ツッコミを入れたくなるのを必死に堪える。言ってしまえば、また面倒な厄介事に巻き込まれるかもしれないからだ。それを避けるためにはさっさと本題に入る以外にない。
美香が目を美鶴から逸らして、自らの服を確認している一瞬の隙を突き、鍋の蓋を開ける。
「それで? 何を創ったんだ? また、お前の考えた創作料理とか食わせられるのは勘弁だからな。……せめて、食えるもの作ったんだよな? 処理が大変なモノとかマジで困るぞ……」
見た目は問題ない。臭いも無害。残るのは味だ。
確かに白浜美香はクラッキング、プログラミングの技術は日本でも有数の実力を誇り、学内でも憧れの対象になるような極めて優秀かつ模範的な生徒だ。
その技能は当然の如く、他の生徒と比べるまでもなく抜きん出ており、世界まで視野を広げても他のウィザード級に肩を並べ、追い越せるレベルの技術力を誇っている。
それだけに才色兼備、文武両道、完璧な人間。そんな優秀な優等生に思われがちだが、そんな人間は書類の上だけの存在、妄想だ。現実は悲惨。残念。
書類に乗らない点では様々な欠陥を抱えているのが現実の白浜美香だ。
害悪しか撒き散らさない料理の数々、対人関係、極度のブラコン……。
確かに、簡単な料理ならプログラムを組むかの要領で簡単に作り上げてしまうのだが、レシピの量が長くなり始めると独自の短縮法を織り交ぜてしまい、完全に人が食べてはならないモノへと変貌させてしまうのだ。美鶴が一度、それを食した時は半日。トイレから出る事が出来なかった。
それ故に、美香のレパートリーは片手の指で足りてしまう程しか存在しない。
美鶴はそれを知っているが故にこうして美香が一人で台所に立ち、料理をしていた事に脅威を感じ、警戒。危惧をしているのだが、どうやら今回はいつも以上に自信があるらしく、美香は取り皿にお玉でその何かを掬って見せるとそれを強気に突き付けて来た。
「それは食べてから言って欲しいよ! 私だって、日々進化しているんだから、いつまでも昔の料理が下手くそな私と一緒にされたら困るわ。さぁ、これ呑んで何を作ったか当ててみなさい」
ただ、美香が自信を持っているという事はつまり、知っている簡単な料理を作ったという事だ。
鍋の様子から判断してもレパートリーの中にあるモノの可能性は極めて高い。散らかっている生ごみから判断し、大体絞り込むと美鶴は小さく頷いた。これ以外にないと――。
「カレー、シチュー、ハヤシライス。まぁ、これはあり得ないが鍋料理。これの内のどれかだろ?」
「残念でした! 正解は………………ボルシチです! 食べてみて」
美香は美鶴の予想が外れた事が嬉しいのか、大喜びし始める。
ボルシチ――ロシアの郷土料理だ。何故、そんな日本ではマイナーな料理を選んだのか、美鶴には分からなかったが一つだけ言える事がある。
恐らく、鍋に材料を入れて煮込んだだけだと……。自分でルーを作るという無茶をしていなければ、食べられないモノではないだろう。ただ、油断は禁物――。
カレーのルーと違い、なかなか売っていないのだ。料理店ではよく見かけるが、市販ではなかなかお目にかかる事はない。通販で取り寄せたようにも見えない。
十分、もしかしたらが有り得てしまう。その何かを美鶴は味見させられようとしているのだ。
恐怖以外の何物でもない。ただ、他の凝った料理とは違い煮込んだだけだ。そんな失敗はない……だろう。そう判断すると、美鶴はそのスープを喉に流し込んだ。
一言、感想を言えば普通。無難。特別美味しいわけでもない。
隣には美香の期待の眼差し。だが、あまりに普通過ぎて美鶴の頭に感想が浮かんでこないのだ。
驚愕の料理を創り上げる美香が普通の料理を作った事は評価すべきなのだろうが、美鶴には何かが足らない気がしてならないのだ。それが何だか見当もつかないが……。
まるで美香が創った料理ではないような違和感。そんな不思議な感覚が付いて回る。
美鶴は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、何事もなかったようにそれをコップに注ぎ、飲み干した。
「あれ? 驚かないの? 感想もないし……」
美香の頭の中では予想外の出来栄えに驚く美鶴の姿が浮かんでいただけに、全くもって無反応な美鶴の姿に逆に驚いてしまう。
そんな美香の様子に、美鶴は軽くコップを水洗いしながらこう答えた。
「いや、カレーとかと同じ煮込み料理だしな。胸を張るのなら、それを脱してからにした方が良いと思うぞ? どうせ、野菜切って圧力鍋に放り込み、ルーを入れて煮込むだけ……。まぁ、よくボルシチのルーなんて見つけて来たな。そこだけは驚いたよ。ただ、これだとボルシチ風だぞ? スビョークラが入ってない。日本だと、缶詰ぐらいしかないけど、これカレーの具材だけで作っただろ?」
「えっ? スピョークラって何? そんなモノ、アイリスはい――レシピに書いてなかったわよ!」
「おい……。今、アイリスって言っただろ? なら、これはアイツの料理って事か……道理で無難なわけだ。しかし、よく頑張ったな。姉貴の買ったものでこれだけのモノを作らせるなんて」
実はボルシチのルーとカレーのルーを間違って買ってきた事がばれてしまった美香はいたずらがばれてしまった子供のように目を逸らして事実を誤魔化そうとする。
美鶴としては別に責めてないのだから、認めればいいものをと思うものの、姉としてのプライドがそれを邪魔しているのだろう。本当に子供っぽい姉だとしみじみと美鶴は感じていた。
そんな美香と美鶴の間に突如、キッチンに設置されたレシピ確認用の電子モニターが開いた。
『その辺りにしてあげて貰えない? これでも、本当に大変だったのよ……。美鶴が言った事は半分正解。ただ、材料は肉ジャガだったわね……。それに、野菜を切る手つきは危なっかしくて見てられなくて、本当にハラハラしたんだから……。危うく、新たな世界を作り出そうとした場面もが何度あった事か……』
いつもは西洋人形のような整った顔付きと日本人離れした美貌を持つ礼儀正しいアイリスの憔悴しきった表情に思わず、美鶴は同情の念を送ってしまう。相当、大変な惨状だったのだろう。
ただ、それらのミスを美香が認める事は絶対にないだろうが……。
「何、言ってるのよ。アイリス? 私はそんなミスしていないじゃない!」
『この期に及んでまだ否定するの……。美香、私の言っている事は事実じゃ――まぁ、そう言う事に一応、しておきましょうか。一応ね』
アイリスは美香の手へと視線を送ると、苦笑いを浮かべながら追及するのを止めた。
美香がミスをしないように付きっ切りで監視、指示を飛ばしていたのだ。美香の想いを汲んで。
姉として少しは弟に見栄を張っていたい。その気持ちは美鶴からも丸分かりだが。
アイリスの視線に気が付いた美鶴は同じく、美香の綺麗な白い手に目をやる。手荒れのない綺麗な手だ。あの過保護な両親の事だから、なるべくケアを大切にしているのだろう。
だが、そんな手に目立たないように隠してはいるものの何か所か包丁で切ってしまい、治療したのであろう痕が見て取れる。ただ。絆創膏が貼られていない。
美鶴に気が付かれないように最後まで処置せず、貼らなかったのだ。だが、そんな事をしなくともよく目を凝らせばバレバレである。美鶴としては自身の為に得意でもない料理をここまで頑張る美香の姿に呆れながらも、少しだけ胸の内が温かくなった。
けれど、ここで美香を褒めてしまえば、調子に乗って毎日のように押しかけて来るのは明白。それだけに、美鶴はその事に触れる事はなく、救急箱を取り出した。
美香の手を取ると消毒液を垂らし、素早く絆創膏を貼っていく。最初は恥ずかしさからか抵抗していたものの、最終的には美香は何も言わずその治療を受け入れていた。
「本当に大変だな……。アイリスもこんなダメ人間がマスターでさ……」
『仕方ないわよ……彼女に創られたんだから――まぁ、どちらが親か時々、本当にわからなくなるけどね。本当に、心配過ぎて見てられないんだから……』
美鶴の言葉に呆れてしまい、思わずアイリスは苦笑いを浮かべてしまう。だが、全てのNPCがここまで感情表現が豊かな訳では無い。こんなに感情豊かなNPCの方がまれと言っていいだろう。
その違いはNPCの作製方法に由来していると言われている。
その作製方法は、現在フリーで公開されている基礎データを元に基盤から構築する自作型と、市場に流通しているモノを購入する市販型の二つに分類されている。
それらはそれぞれに長所と短所を持っており、自作型は設定の幅広さと製作者に合わせて進化を遂げるのだが、製造技術もさることながら、管理メンテナンスの面の難しさも相成って扱い辛いものとなっている。
逆に、自作型のように突出した長所は無いが、技術面での致命的な欠点を最小限にまで抑えているのが市販型である。
そして、その凡庸性を補う為に様々なカスタムが可能となっており、そのオプションを付ける事によりオリジナルを作製するのだ。
その為、その能力の多様性と潜在的な可能性の高さは世間一般に認知されているが、自作型を作製出来るのは高度な技術を持ったウィザード級のハッカー以上に限られており、それを持っている事が技術者としての一種の証にもなっている。
例えば、美香の作製したアイリスの場合、まるで感情を有しているかのような多様な表情と、美香のサポートの為に並みの技術者以上のプログラミング能力を有している。
そんなアイリスに対して、顔を真っ赤に染めて美香を指差しながらこう尋ねた。
「アイリス、それで本題だが……コレは何しに来たんだ? 急に押しかけて来て」
『コレって……貴方ね! 貴方が約束をすっぽかしたからこんな事になったんでしょう? あの後、私が美香の小言にどれだけ付き合わされた事か……。少しぐらい相手しなさいよ』
呆れ果てたように頬を引き攣らせるアイリスの様子に美鶴はようやく昼間の約束の事を思い出した。色々あり過ぎて完全に頭の中から消え去っていただけに返す言葉もない。
ただ、美香が誰かに対して言う事など珍しいと美鶴は感じた。普段から、人間関係はあまり得意としないタイプの人間ではあるが、他人との協調性に乏しく内面を晒す事は少ない。それを行える数少ない人間の一人が美鶴なのだ。
しかし、それだけに一度始まると面倒なのだ。それだけに、理由は何であれ美鶴は内心は待ち合わせ場所にいかなかった事が正しかったと安心してしまう。
そんな美鶴の心の内に気が付いたのか、アイリスの表情が次第に無表情になって行き、美鶴の背中に悪寒が走るほどの冷たい視線を浴びせ始める。
『当然、美香の話が終わったら私の小言にも付き合ってくれるわよね? 貴方の代わりに付き合わされたのだからそれぐらい、当然の権利だと思うのだろうけど、貴方はどう思うかしら?』
「えっ? ちょっと、待てよ。俺にだって事情があって行けなかったんだ! それなのに、なんで俺がアイリスの小言にまで付き合わされなきゃならないんだよ」
美香一人でも面倒臭いにも関わらず、アイリスの小言にまで突き合わされたらたまったものではない・その為、美鶴は必死で拒否しようとするが、内心は悪気もあったので強くは出られない。
美鶴が完全には断れない事を見抜いたのか、アイリスの頬が僅かに釣り上がったように美鶴には見えた。美鶴としては見間違いであると信じたいのだが……。
『そんなの決まってるでしょう。私が愚痴れるのは貴方だけしかいないからよ。分かる……でしょう? やっぱり、ダメかしら?』
電子モニター越しに恥ずかしそうにモジモジしながら問いかけて来るアイリスの様子に美鶴は何も言う事は出来なかった。
もしも、ここで否定を続ければ自分が悪者ではないか。それに、アイリスの気持ちも理解出来る。
所詮、アイリスはAIでしかない。だからと言って、何も苦難が無い訳ではない。こうして、主である美香の為に頭を日々悩ましている。自分にはどうしようもない問題と思いながらも……。
そして、それを相談できる人間などアイリスには美鶴しかいないのだ。
そうなれば、美鶴に残されたのは了承すると言う選択肢だけしかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます