第5話

「あぁ、分かったよ。聞けばいいんだろう。聞けば……」

 その言葉にアイリスは表面では申し訳なさそうにしていたが、画面の隅で小さくガッツポーズしていた姿を美鶴は見逃さなかった。こうなる事も計算だったという訳だ。

 完全にアイリスに弄ばれた事に少しばかり、頭が痛くなる。しかし、今はそれよりも大事な事がある。隣で無視され続け、不貞腐れている美香の事だ。いい加減にどうにかしなければ、話は全く進まない。このままでは、明日もと言う事になりかねない。

 それに、毎日ここに通い妻のようになっているような形になればあの両親が何と言うか分からない。美香には過保護過ぎるほどの両親。美鶴にとって今は赤の他人に等しい存在だ。

 あの家には戻りたくない。だからこそ、美鶴はこうして家を出た。二度と戻るつもりはない。

 ならば、ここはさっさと覚悟を決めて話を進めるのが最善だと判断すると、美鶴は溜息を吐きながら、項垂れ鼻声になっている美香の肩に手を置いた。

「それで? 姉貴が俺の家に押しかけて来たのは俺が約束をすっぽかしたからなんだな?」

 ――約束。実の所、一方的に言い渡されただけの為、何の約束なのか全く分からない。

 そこまで重要な事なら先に言っておくのが普通だろう。美香の言葉の裏の意味を汲み取らなかった美鶴にも責任の一端はあるが、それで判断するのは難しい。

 何より、学校なら長々と話をされても休憩時間というリミットが存在する。次の授業を理由にその場から逃げ出す事も容易い。確かに美香も女性ということもあり、門限が存在しているが休憩時間の長さとは比べるべくもないだろう。倍以上、付き合わされなければならない。

 それに加え、すっぽかされた事に対する不満まで蓄積されているとなれば、ますます話を聞く事が嫌になってしまうのも無理はない。美鶴の口からは盛大な溜息が洩れてしまう。

「そうよ! ずっと、待ってたのに来ないなんてどういう事よ。お姉ちゃん、哀しかったのよ! みーちゃんのバカ! 約束は守らないといけないのよ」

 放心状態から復活した美香は子供っぽく頬を膨らませ、不満を露わにしながら美鶴へとゆっくり詰め寄って来る。だが、美鶴はそれを美香の頭を掴む事によって抑え込んだ。

 約束と言う言葉に酷く敏感な美香。何故、そこまで約束と言う事に固執しているのか分からない。だが、美鶴にも何らかの理由があったのではと考えるのが普通ではないだろうか。

 まるで、約束を守るという行為に対して、強迫観念的な実行意識を持っているかのようだ。

「いや、その……ちょうど、先生から呼び出し喰らってさ……」

「全然、反省してないよね! 私がどんな思いでずっと待っていたか分かってないでしょ! 解ってるの? 絶対に理解していないよね。しかも、あの後に校長と教頭の呼び出しを食らうし……」

 理由には聞く耳を持たない。これでは美鶴には説得という選択肢を選ぶ事は難しい。

 こうなってしまえば、美香の怒りを受け止めるフリをして適当に聞き流すしかないだろう。けれども、気になる要素がある。校長と教頭の呼び出しだ。

 学校側の対応――美鶴が力になれる範囲を超えてしまっている。予想以上の話の拡がりようだ。これではどう転ぶかすら分からない。それに比べ、美鶴はちっぽけな存在だ。

 何が出来る訳でも無い。出来ると言えば、真剣に話に耳を傾ける事くらいだろう。

「ちょっと待ってくれ。話に全くついていけないんだが、一つだけ良いか? ――校長と教頭の呼び出しって何したんだよ。なんか、問題を起こして怒った親父達の説得を頼まれても困るぞ。そんな役回りなんて絶対にしない。顔も見たくないんだからな……」

 美香がもしかしたら、自身を二人への緩衝材に利用しようとしているのではないかと考えた美鶴は先に釘を刺しておく。今はまだあの家には帰りたくないのだ。

 美香もその事を知っているだけに、すぐさま小さく首を横に振り、それを否定した。

「知ってるよ……。美鶴がお父さんとお母さんの事を許していないのは……。だから――そんな事は頼むつもりなんて最初からないよ。……それに、違うからね。――呼び出しを受けたのは、私が勝手にEWCへの出場辞退を表明しようとしたから……だから……」

「あっ……確かに、那月がそんな話をしていたな……」

 那月と三浦が話していた事だ。直接耳にするまでははっきり言って眉唾物だと美鶴も考えていた。だが、当の本人から聞かされたとなると事実以外には有り得ない。

 信じられなかった。常に高みを目指し続けていた美香から発せられた言葉だけに。その意外な言葉は美鶴の脳内で何度も反響し、それを受け止めるまで僅かに時間を要した。

 声も出せず、驚き固まってしまった美鶴に美香は何かに耐えるように自身の腕をしっかりと握り締めた。まるで、必死に何かを押え込むかのように……。

 美香の握り締めた腕は血管が圧迫され、赤く染まって行く。その様子に美鶴は何も言う事が出来なかった。ただ、美香が語り出すのをじっと待つ事だけが今の自身に出来る事だった。

 しかし、なかなか美香も話を切り出す事が出来ない。それだけ、重い事なのだろう。だが、覚悟を決めたのか、ゆっくりとではあるが唇を動かし始めた。

「だって、あんなチームになんかいたくないから……。プライドばかりが先走った集団。他人を見下す事しか出来ないような人間となんて私、組みたくない……。前はあんな険悪な仲なんかじゃなかったのにさ。もっと、みんな楽しんでた」

「そうなのか……まぁ、那月は俺から見たら楽しんでいるようにしか見えないけどな……。まぁ、エリートって大概がそんな連中で、姉貴みたいなタイプの方が珍しいだけだろ?」

 どこか懐かしむように語る美香だったが、美鶴の言葉に急に態度が豹変する。

「違う! 違うもん! あ、あの人はそんな事なんてなかったもの! ……それに、那月ちゃんだって真面目に練習してるし、今はまだ経験が少ないから未熟な点も多いけど、十分にウィザード級の凄腕になれるだけの素質はある。とっても、素直でいい子だから……」

 目を大きく見開き、大声を張り上げて必死に否定する姿に美鶴は言葉を失ってしまう。

 確かに、美鶴からすれば遠い場所の話だ。生きている世界が違う。だからこそ、どこか偏見を持ってしまっていたのかもしれない。いや、持っていたのだろう。

「そう……なのか。悪い、偏見でものを言っていたみたいだな……」

 立っている世界が違えば、見えている世界も違ってくる。美鶴自身、美香の苦しみを絶対に理解する事は出来ない事を知っているだけにそれ以上は何も口を出す事が出来なかった。

 重い空気が二人の間に広がる。

 所詮、美鶴は部外者でしかないからだ。何も状況を知らない。下手に口が出せる訳もなかった。

 そんな中で美香は唾を飲み込むと、美鶴から目を逸らして俯いた。

「チームの殆んどが私の力に酔ってるの……。前回のEWCで確かに私は個人戦に優勝した。でも、私なんて数いるウィザード級の中でも中の下程度の実力しかない……。それは去年の団体戦の結果が明白に示している。知っているでしょう。去年の団体戦の結果を――」

 EWCの日本国内予選敗退――しかも、惨敗。相手は無名の公立高校だった。個人戦で他者を引き離して優勝を勝ち取った美香を有していたにも関わらずだ。

 そして、今の状況。美鶴にも薄らではあるが、今の代表チームが抱えてしまっている根深い闇の一端が垣間見えた気がする。

「……団体戦はワンマンショーじゃない。明確な戦術と戦略を組み合わせて競い合う頭脳戦。確かに本物のデミゴットやグルと呼ばれるような人間なら、それでも勝てるのかもしれない。けど、私にはそこまで一人で引っ張れるような実力なんてないの……。でも、みんなそれに気が付いていない! 気が付いてくれない! もっと、みんなで協力し合って努力しなければならないのに、今は私任せになりつつあるし……」

「そっか……姉貴にも姉貴の悩みってのがあるんだな……」

 美香の言葉に美鶴は何のアドバイスもすることは出来ない。出来るとすれば、話に対して真摯に耳を傾ける事くらいだ。それ以上の事は何の力にもなれない。

 結局、美鶴からすればやはり違う世界の話でしかない。積もって行くのは悩んでいる美香に対して何一つ手を差し伸べる事が出来ない自身への歯痒さがだけ。悔しいが、それだけだ。

 そんな美鶴の手を掴むと美香は真摯な眼差しで美鶴を見つめてくる。こんな目を美香がする時は必ず、何かを懇願する時だけに美鶴の中では嫌な予感しかしない。

 そして、その予感は当然のように当たってしまった。

「それでね……三日後に勝負する事になったの……それで、美鶴の力を借りれないかな?」

 予想はしていてもやはり、美鶴は美香の口から発せられた言葉に耳を疑ってしまう。

 勝負――それはどう考えてもEWC関連だ。それ以外の可能性は考えられない。いくら冷静に考えようとしてもそれ以外には受け取りようがない。

 その言葉に美鶴はすぐに美香の手を力任せに払い除け、彼女を睨み付けた。

「断る! 姉貴も知ってるだろ! 俺が姉貴みたいにプログラムを自在に扱えないのを。 それとも何か? 負けた時の言い訳でもするつもりか? 俺がいたから負けたって……、俺に笑いものになれってことか? 一体何が哀しくて道化を気取らないといけないんだよ!」

「ご、ごめんなさい……そんなつもりは……なかったの。……ただ、焦ってて……三日後までに四人も集めないとならないのに全く集まらないから……せめて、人数だけでも埋め合わせようって考えて、美鶴で数合わせしようとしたの……でも、そうよね。美鶴は嫌だよね。ごめんね、美鶴の気持ちなんて全く考えてなかったよね……」

 美鶴の言葉に美香はすっかり落ち込んでしまう。自分のことしか考えていなかった美鶴は当然、言い過ぎてしまった事を後悔していた。互いに言葉が見付からない。

 すると、二人の間に開いていた電子モニターから様子を黙って窺っていたアイリスは溜息混じりにアイコンタクトで『話を変えなさい!』と、美鶴に助言を送って来る。

 だが、話を振るにしても話題がない。美香と美鶴の間で共通に話せるような話題がないのだ。

 そんな中で何気なく古ぼけた腕時計で時間を確認する。

「そろそろ、この話は一端、終わりにして夕食にでもしないか? もう遅いし、そろそろ姉貴も門限とか気にしないとならなくなるだろ?」

「うん……そうだね……」

 美香が作った夕食の話ならば乗って来ると美鶴は考えていた。だが、美香の調子はいつものように戻る事はなく、更に落ち込んでいく一方だ。これではどうしようもない。

 そう判断した美鶴は少しの間、距離を置いた方がいいと考えると、席を立ち、一人で二人分の夕食を食器に盛り付け始める。だが、テーブルにボルシチ風のスープを並べ終わっても重苦しい空気は晴れる事はなく、ただただ沈黙の中で黙々と食事を勧める事になってしまう。

 更に酷くなってしまった状況。その空気に耐えきれなくなったアイリスが二人の間に割って入る。

『ど、どうかな? そのボルシチ! 『私の自信作ね』って美香が言ってたのよ! 確かに私が細かい指示をしたことは認めるわ。でも、作ったのは紛れもない美香なのよ? 本当に気になるわ』

 肉ジャガがカレーになり、ボルシチ風のスープになった以上は自信作もヘッタくれもない。だが、美香にしてみれば、良く出来ていると美鶴は感じていた。

 アイリスの協力があったとしてもこの料理は紛れもなく、美香の料理なのだ。

「えっ……? あっ、あぁ。……美味しいんじゃないか?」

 ただ、この重苦しい空気の圧迫に味を感じる余裕など美鶴には無かった。だが、アイリスの話に合わせる為にぎこちない笑みを浮かべながら小さく頷く。

 もっと、上手く流れを変えてくれるだろうと信じていたアイリスにとって美鶴の曖昧な返答は完全なる計算外の行動。しかし、こうなった以上アイリスは勢いを貫くしかない。

『でしょう! 私も食べたかったもの! 食べられないっていうのが本当に残念だわ……。私達NPCにも味覚の概念――味覚エンジンでも導入してくれたらいいのに。早くならないかしら』

 必死にこの空気をどうにかしようと抗う美鶴とアイリス。だが、その努力は虚しく散るのだった。

「別にアイリスも無理しなくていいわよ……。私がここにいたら美味しくないよね……」

 その美香の一言で部屋の空気が一瞬で再び、凍り付いてしまう。

 冷め切ってしまった空気の中で美鶴はこの場から逃げ出したい気分に駆られる。けれども、このまま美香を放って置く訳にもいかず、アイリスと共に何とか説得を試みるのだった。

「いや、そんな事がある訳ないだろ? 俺だって、久し振りに誰かと一緒に食事出来て嬉しいぜ。一人の食事っていうのはやっぱり、寂しくて味気ないからな」

『そうよ、美香! 美香だってあんなに「久し振りに美鶴と食事できる」って喜んでいたじゃない! それに、一生懸命料理したのだっていつも一人で全部こなしている美鶴に何かいてあげたかったからでしょう? それなのにこれでいいの?』

 空気に耐えられなくなったのか部屋から逃げ出そうとする美香を何とか思い留まらせようと必死に説得するが、美香の心には届かない。ただ落ちて行くばかりだ。

「私って……お姉ちゃん失格だよね。……美鶴だけじゃなくて、アイリスにまでこんな風に気を遣わせちゃって……。本当に何してるんだろう」

 どんな言葉もこうなってしまった美香の耳には届かない。美香の心は暗く閉ざされ、今にも声を上げて泣き出しそうな雰囲気に美鶴は自分が情けなくなる。

 こうなってしまえば、使える手段は一つしかないからだ。最後の手段。

 だが、美香の落ち込んだ空気など軽く吹き飛んでしまう確信が美鶴にはあった。

 覚悟を決めると、美鶴は美香のスプーンでは無く、美鶴がこれまで使っていたスプーンで美香の皿のボルシチ風のスープを掬う。そして、それをゆっくりと美香の口へと近付けて行くのだった。

「あーん」

 美香はその動作に半ば脊髄反射のように口を開くと、何も理解しないままにそれを飲み込む。

 そして、それが美鶴の使っていたスプーンであると気が付いた途端、先程の暗いオーラは露と消え、顔を真っ赤にして身体をくねらせて激しく悶え始める。

「み、美鶴と間接キス……けど、私は血の繋がった姉妹なのよ! けど……」

 これまでの空気など無視してニヤケながら不穏な事を口走る美香の様子に美鶴は何やら、背中に悪寒が走った。だが、その事にこれ以上踏み込む事は更に危険だと判断すると、何も聞かなかったと自分に言い聞かせて何事もなかったように食事を再開する。

 当然、美鶴が使っているのは美香に食べさせたスプーン。

 その事に気が付いた美香は更に顔を淡い林檎色に染め上げ、恥ずかしいのか顔を手で覆い隠す。

 暗い空気を打破したのはいいが、美鶴にとっては面倒な状況だ。美香の事が嫌いではないが、これ以上まともに美香の相手をしていたのならば、さらに混乱を招くだけ。埒が明かない。

 美鶴はその事を知っているだけにあまり触れたくはない話題を渋々、美香へと切り出した。

「そう言えば、姉貴……あいつらは元気か?」

 どんな顔をしていたかも忘れてしまった。家を出てまだ数ヶ月だが、美鶴にとってはそれ程までに長い期間だったのだ。親とは色々とあり過ぎてしまっただけに……。

 その事を知っている美香は美鶴の口から発せられた言葉が信じられず一瞬、固まってしまう。

 両親の事を嫌っていると思っていたからだ。だが、こうして気にはかけている。その事が美香にとって少しばかり喜ばしくもあった。まだ、蟠りは無くならないだろうが……。

「だ、ダメだよ! お父さんとお母さんの事をそんな風に他人行儀で言うのは! けど、二人とも元気だよ。――お母さんはまだ美鶴に家に帰って欲しいみたい」

 美香が本心から戻って来て欲しいと言っているのは解っている。母親が自らの過ちを悔いながらも、もう一度一緒にやって行きたいと考えている事もだ。

 一人暮らしよりも家にいて欲しい。家族なのだから、頼って欲しいのだ。

 三年前以前の記憶をすべて失い、別人のようになってしまった美鶴であったとしても大切な弟、大切な家族なのだ。だからこそ、近くにいて欲しい。そんな心からの願いだ。

 しかし、美鶴はその想いに首を縦に振る訳にはいかなかった。

 一度、壊れてしまった関係は容易には修繕が出来ない。二年の歳月をかけてバラバラになってしまった家族と言う繋がり。両親との間に走る溝。抱えている闇が深過ぎた。

 けれども、ここで美香に八つ当たりした所で何の解決にもならない。ぶつける先の無い憤りを必死に飲み下す。そうしなければ、きっと美香を突き放していただろう。

 手の中で振動しているスプーンの様子に美香は後悔した。知っていたのに、「帰って来て欲しい」などと言ってしまったから。口が裂けても言うべきでは無かった言葉を……。

 三年前、家族と言う関係が崩壊したあの日からずっと、母親が後悔している事を美香はずっと、見て来たのだ。ずっと、自分を責め続ける母親の姿を。

 話題の上がらない。ただ黙々と食事だけが続く食卓。

 美鶴はその中でボルシチを片付けると腕時計で時間を確認する。あの過保護な両親の事だ。ここに長々と繋ぎ止めておく訳にはいかなかった。

「時間は大丈夫なのか? あいつら、姉貴の事を溺愛してるんだから門限を過ぎたら大変だろ? その上、俺のところに来てるって分かったら余計にうるさいだろうしな」

 美香はアイリスの表示されたモニターの右隅に表示された日本標準時間を確認する。既に八時を回っている。ネットワーク上の日本標準時間に同期されている為、狂っている事はまずないのだ。

 門限は九時――美鶴の家と実家とは正反対の位置にある為、一時間で帰れるか怪しい……。

「多分、大丈夫じゃないかな? 自信ないけど……。けど、美鶴ももう少し、機械に慣れた方がいいと思うよ。ほら、プログラミングなんて出来なくても、ねじまき式の腕時計よりも正確だしさ」

 苦笑いを浮かべながらも、楽観的観測を行う美香に対してアイリスは呆れながらも念の為に最短帰宅時間を計算し始める。だが、美香のPDAに入って来た通信に手を止めた。

『美香、通信が入っているんだけど……両親から。――回線を開く?』

 流れから判断すると、帰りが遅い美香の事を心配した両親の内のどちらかの通信なのだろう。

 相変わらずの箱入り娘な様子に美鶴は内心、酷く呆れてしまう。それと同時に、自分と言う存在が欠けてしまっても何一つ変わらない事に少しだけ淋しさが込み上げてきた。

 だが、今は顔も声も聴きたくはない。美鶴は食べ終わった皿を流しへと下げると、自身のPDAがポケットの中にある事を確認し、玄関へと続く廊下の扉へと手をかけた。

 その事に気が付いた美香は通信回線を開こうとしていた手を止める。ここは美鶴の家なのだ。席を外すべきは家主である美鶴では無く、美香だ。

「私の方が席を外すからここにいて問題ないよ」

「ついでだし、少し外で頭を冷やしてくる。終わったら、教えてくれればいいから……」

「別に、音声通話にするつもりだから顔を合わせる事はないよ。ここにいても……」

「悪い……顔も声も今は聞きたくないんだ」

 美香にそう言い放つと、振り向く事無く逃げるように自室を後にする。

 マンションの通路の壁に寄り掛かると何気なく夜景を眺める。夜空の輝きを追い隠すほどに煌びやかな光。手を伸ばしても届かないその光はまるで自身と美香の立ち位置のように思えた。


 記憶がなくなる以前の親子仲は人伝ではあるが有体に言えば、良好だったらしい。

 だが、三年前のある日を境にそれは一変した。

 那月に言った優秀な姉と不出来な弟など単なる建前、囮に過ぎないのだ。

 そんな事など、最初から気にしてなどいなかった。問題はそこではない。

 過去を思い出そうとすればするほど、自己という存在が分からなくなるパラドックス。皆が皆、過去の自身ばかりを見ており、どこにも自分はいなかった。

 両親ですら、美鶴を美鶴として見ず、何か別のモノとして見ようとする。

 そんな空間に耐えられる筈がなかった。耐えられる筈がなかったのだ。

 記憶を失った今の自分が真っ向から否定されて、記憶を失う以前の昔の自分だけが肯定されるというおかしな状況に……。

 確かに、親として昔の美鶴に戻って欲しいのは理解出来る。

 しかし、だからと言ってここにいる自身を否定されるのは何故なのだろう?

 なら……今、ここにいる美鶴と言う存在は一体、何者なのだろうか?

 結局、その答えは今も解らないまま。見つかっていない。

 いや、何も分かってはいないというのが正しいのかもしれない。見えていないだけかもしれない。

 ただ、両親が何を考えているのか理解するつもりなどなかった。両親側が真正面から向き合うつもりが全くないのだ。こちらから譲歩するなど、有り得ない。

 だからこそ、真正面から両親と向き合えなかった美鶴は逃げるように家を出た。

 それ以降、両親と顔を合わせてはいない……。


『私には貴方達の言う家族っていう関係性がいまいち理解出来ないんだけど、でも何故かとてもうらやましく感じるのよね。――私には絶対に手に入らない物だからかもしれないけどさ』

 いつの間に美鶴のPDAの電子モニターを開いたのか、隣にはアイリスがいた。

 美鶴と同じく、ネットと言う閉ざされた空間から外の景色を眺める。そのアイリスから洩れた言葉とその横顔に美鶴はどこか物寂しさを見た。

 NPCである以上、作り手という親はいても人間のような家族関係はない。

 所詮、突き詰めれば物でしかないからだ。人間の作業を補助する為に創られた人工知能――そこに家族のような明確なコミュニティは存在しないと断言しても過言ではないだろう。

 現実の世界の認識では人のような関係性を築くなどまずあり得ない。そこまでの権利を有していない以上は個体としての単一の存在でしかない。

 しかし、美鶴からしてみれば、そんなアイリスの在り方が羨ましかった。

「お前が思っているような良いものじゃない。――切りたくても切れない重い鎖のような物だ。そんな繋がりで縛り付けられるなんて邪魔くさいだけだぞ」

『そうかもしれないけど、やっぱり羨ましいかな……。確かに、私は今の美香との関係に不満はない。けど、やっぱりどこかで切れない家族って関係には憧れる。――だって、壁がないから』

 美香とアイリスは親と子の関係。だが、家族と言う関係には程遠い。

 それ以上、アイリスは何も語る事はなく、美鶴の返答から逃げるようにモニターを閉じた。

「壁か……」

 消えたアイリスの漏らした言葉を美鶴はもう一度、呟いてみる。そして、それが指し示す意味について考えてみるがやはり、答えなど出て来ない。

 人間とNPC……三浦は近い存在と言ったが、やはりどこか違う存在なのかもしれない。今はまだと言う方が正しいのかもしれないが――。

 そんな事を考えていると、いつの間にか背後には美香が立っていた。

 目をはらしている所から考えると、何か言い争いをしていたのだろう。隠そうとしていても姉弟だ。何も言わなくとも、美鶴にはすぐに分かった。

「終わったのか?」

 何があったか。それを聞く様な無碍な事はしない。

 どこか哀しげな表情を浮かべ、何かに耐えている美香の様子を何も言わず、美鶴はただ見守るだけだった。かける言葉など見付からない。

「うん、そろそろ帰って来いだってさ……洗い物してあげられなくてごめんね。二人とも心配しているみたいだし、帰るね……」

 逃げるように美鶴の部屋を後にした美香を引き留める事も出来ず、ただ去って行く背中を目で追う。苦しんでいる美香に対し、何の力にもなれない無力さと情けなさに美鶴は舌打ちし、自分を抑えるかのように唇を噛み締めていた。

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