第3話
駅から電車を乗り継いで大学病院へと着くと、美鶴は住民カードを取り出した。
この一枚のカードには戸籍などの住民票、保険証などが保存されており、それを病院内のシステムと照合して受診予約をするシステムとなっている。今回は、予約受診の為に少し違うが……。
美鶴は大学病院一階のロビーに設置された認証機にそのカードをスキャンさせ、認証を完了させると、搭載されているAIの指示に従い、精神科のある二階へと向かう。
完全予約制の為、いつものように受付を済ませるとすぐに美鶴は診察室へと案内された。
案内された診察室に入室すると、既に担当の清潔な白衣を着た銀縁メガネの女医が椅子に座って何かを考え込んでいた。ただ、長い付き合いの為、美鶴でも知っているがこの女医のメガネはただのAR―拡張現実―用の旧型メガネであり度など入ってはいない。
眉間にしわを寄せながら、何かと格闘している姿を見れば近視にも思えなくはないが……。
ただ、この先生は考え込むと己の世界に入ってしまう人間だ。一度、放っておいたら予定診察時間が終わって気付かれたなんてこともあった。
だからこそ、こういう時は耳元で呼びかけるという対処法も知っている。
「もしもし、旧式のメガネのARでカルテを眺めて考え込むのはいいんですが、そろそろこちらにも気が付いていただけませんか? 待ってるんですけど……」
その声に美鶴が到着した事に気が付いた女医は慌ててメガネを外し、それを机の上に置いた。
そして、その隣におかれていたカルテ記入、閲覧用のPDAを指紋認証と医師カードによる本人認証を行い、手早く起動させながら苦笑いを浮かべる。
「ごめんなさいね。少し、考え事をしていたの。――それより、先月ぶりだよね? 調子はどう? 顔色は問題ないみたいだけど、何か変わった事とかあったりしたかしら?」
「別にいつもと変わりありませんよ。何も変わらない。世羅先生もいつも通りの平常運転ですね」
既に定例になってしまったとも言える挨拶に女医に対する皮肉を加えると、美鶴は彼女の向かいにある椅子に深く腰を下ろした。
どこか抜けたようにも見える天然にしか思えない世羅だが、実は精神科の中では相当、著名な医者らしい。毎月、わざわざただの記憶喪失患者である美鶴を診察しているこの状況は実の所、相当な異例だったりもする。
通院を開始して、少し経った頃にその事を知り、一度それとなく探りを入れたのだが、のらりくらりとはぐらかされてしまい結局何一つとして分からず仕舞いだった。
毎回、診察の大半の時間はただの世間話に費やしているという事実。これでは、何の為に大学病院まで足を延ばしているのか理解に苦しんでしまう。だが、一人暮らしの条件に通院が含まれている事もあり、毎月律儀にこうして通院し続けているのである。
「そっか……と、いう事は相変わらず情報処理の単位が危ない! っと。あれ、それだと進級に支障を来たすから、結構まずいんじゃないの?」
美鶴が返事をするよりも先に世羅はカルテへと打ち込んでいく。先程から、揚げ足を取られ続けた事もあり、やり返せたことが嬉しいのか勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
毎度の事なので美鶴も慣れてはいるが、子供っぽいその様子に思わず苦笑いを浮かべてしまう。
しかも、美鶴の言葉を聞かず、勝手にカルテに書き込まれたのだ。もう、言葉も出ない。
「あの……まだ、何も答えてないんですけど?」
「変わりないなら、いつも通り提出物が提出出来ず危ないんでしょう? 確かに、色眼鏡で見られて大変かもしれないけど、進級出来なかったら大変よ。まぁ、それは貴方の問題か……。でも、私は間違った事を言っているかしら?」
まるで、見て来たかのように事実を述べながら悪戯っぽく微笑む世羅の様子に何を言っても恐らく勝てないと判断すると素直に降参を認め、項垂れた。
「確かに何も間違ってはいないんですが、面と向かって言われると厳しいモノが……」
落ち込んでしまった美鶴の様子を見て、流石にやり過ぎたと世羅は少し困った顔を浮かべながら辺りを物色し始める。この空気を打破できるモノは何かないかを探すように。
そして、机の上に置いていた瓶に世羅は目をやると、そこから一つの飴を取り出し、包みを剥がすとそれを無理矢理、美鶴の口の中に押し込んでくる。
「そんなに落ち込まない。社会に出たらもっと厳しいんだぞ! じゃ、そろそろ診察を始めようか」
美鶴はいきなり口の中へと放り込まれたハッカ味の飴を噛み砕くと、頭を上げ、天井を見つめる。ずっと、疑問に思っていた。こんな事をするのに何か意味があるのかと――。
「毎回聞くんですが、ここに通院する意味はあるんですか?」
何度もしてきた質問だ。その美鶴の疑問に世羅は少しだけ、首を傾げる。
「さぁ、私に聞かれてもその答えは分からないかな。だって、私に出来る事は患者をいい方向に向ける手助けをするのが限界。そこから先は患者次第、各々が解決しなければいけないもの」
何度も聞いた答えだ。その言葉の意味も美鶴は理解している。
だが、理解する事と納得する事は違う。そんな美鶴の心情に気が付いたのか、世羅は電子モニターに浮かび上がったカルテから目を放すと、美鶴の顔を真剣な眼差しで見つめる。
いつもなら適当にはぐらかされて終わっていた。だが、今回の世羅は違う。まるで、美鶴に対して語りかけるように世羅はこう続けたのだ。
「患者だって千差万別よ? 症状、生い立ち、抱えているモノ。それらが全て違うの。美鶴君の場合、それが極めて特殊過ぎるから長期的な観察を行いながら、ゆっくり少しずつでも治していくしかないのよ。――確かにこれだけ長い期間、通院しても結果が出て来てない訳だから不安かもしれない……。けど、今はそんなに気を張らずに肩の力を抜きましょう? そうね――。美人な女医さんと密室。しかも、個室で話が出来るなんてとっても嬉しいでしょう?」
世羅を見直しかけていた。だが、それも最後の最後。余計な一言が全てを台無しにしてしまい、尊敬の念など崩壊。ただただ、呆れてしまうばかりだ。
だが、どこか今の答えの方が世羅先生らしさを感じるのもまた、事実だった。
きっと、あまり深刻に考えないように気を使ってくれたのだろう。美鶴はそう考えると、世羅の思いを汲み取り、こう返答するのだった。
「自分で美人って言うのは恥ずかしくないですか? 自意識過剰みたいじゃないですか。それに、そんな趣味はありませんし、先生に興味なんてこれっぽっちもありませんから」
最後の一言に対して、美鶴は皮肉で返した。しかし、それが逆に世羅の興味を引く結果を招いてしまう。目を輝かせた世羅はゆっくりと美鶴へと詰め寄ってきたのだ。
「もしかして、それってお姉さんがいるから? 禁断の愛ってやつ?」
言っている事の意味が美鶴にはわからない。何故、ここで美香が出て来るのか。
それに、年も考えない暴走に怒りを堪えながら、冷静に対処する事を心がける。
「あの……ご自身の年齢を考えたらどうですか? 女子高生ではないんですから、そんな子供みたいな事で目を輝かせるのは大の大人としてどうかと思いますよ?」
「な、何よ! 私の事をオバさんとでも言いたいの? こう見えても優秀だし、給料は良いし、結構容姿には気を使っているからモテるんだぞ!」
そう言いながら、世羅は美鶴に対して胸を張って見せる。
しかし、その行為がただでさえ、女性的膨らみが乏しい平坦な丘を更に強調する結果となってしまい、虚しさばかりを際立たせてしまう。
美鶴はその様子を温かい目で見守る。そんな視線に気が付いたのか、世羅は元の体勢に戻ると、大きく咳払いをしてあからさまに話を逸らし始めた。
「あ、あれよ! 女、女性の魅力は胸の大きさだけではないわ。確かに、男性は胸の大きい女性に母性的な要素を見出すとは言うけど、小さな胸には保護欲を見出すの。それに、重要なのは見た目ではなく、中身よ! 中身!」
その自爆とも言える発言に、美鶴は同情の眼差しをおくりながら、世羅の肩に優しく手を添える。そして、二度ほど軽く叩いた。
「あの……何も言ってないんですけど。――やっぱり、気にしていらしたんですね。それから、保護欲は身長の事なので高身長な世羅先生に保護欲は湧かないと思いますよ?」
「気にしてないもん……。きにしてなんていないんだもん!」
必死に涙をこらえながら、世羅は何とか踏みとどまろうとする。そんな子供っぽい彼女に対して、美鶴は加虐心が擽られる。これまで、散々弄られていたのだ。少しくらいなら許されてもいい筈だ。そう思うと、止まることなく行動に移してしまう。
「貧乳にも需要はありますから」
完全なる止めの一言。その言葉が矢の如く世羅の心を打ち砕く。
沈黙。机に倒れこみ、動く事すらない。美鶴としても、まさかここまでなるとは予想していなかっただけにこの後どうすればいいか戸惑ってしまう。
だが、美鶴にはどうする事も出来ない。この後、世羅が復活するまでの数分間、診察室という密室には異常なまでに重苦しい空気が満ちる事となるのだった。
「えーっと、そうね。……どこまで話したっけ? 話を戻さないといけないんだけど……。脱線し過ぎて思い出せないから、世間話もほどほどにして本題に入りましょうか」
意気消沈状態から回復した世羅のお茶らけた空気が一変、真剣な眼差しになると机の中から数枚の写真を取り出すとそれを机の上に並べ始めた。
「またですか? 毎回言うようですけど、自分と他人の区別ぐらい付きますよ。むしろ、こんなテストを何度も繰り返していると、逆に自分に対する感覚が狂ってしまいそうな気がするんですけど、いつまで続けるつもりですか?」
美鶴の言葉に、最後の写真で手を止める。そして、少しばかり考え込むとその写真を机の上に並べ、美鶴の方へと向き直った。手はPDAに添えられており、カルテを常に横目で確認している。
「えぇ、またなの。――で、貴方はこの写真を見てどう思うかしら?」
その言葉に、美鶴はため息交じりに並べられた写真へと視線を落とす。いつも通り、何枚か見た事がない写真が混在している。いつもと同じテストのようだ。と感じた。
いくつかは自分の写っている写真だが、殆どは自分と似た別の人間が写った写真だ。
一目見ただけで区別など簡単に出来てしまう。その程度のテストだ。
「自分の写真に、他人の写真が混ざっていますね。むしろ、他人の写真の方が多い事を考えると、他人の写真の中に混ざっているという言い方の方が正しいのかもしれません、いつもと同じですね」
「そう、じゃあ自分の写真はどれかしら? 分けてみてくれる?」
口では悪態を吐く美鶴だったが、真剣な目つきの世羅に根負けしてしまい、素直に写真を分別し始める。一応、これも治療だ。万が一にでも間違えるようなことがあれば、それはそれで大問題なのかもしれない。
けれども、当然のようにこの程度の作業。一分と経たず終わってしまう。確認すら必要ない。
その結果を確認した世羅はいつもと同じようにカルテに『進展なし』と打ち込もうとするが、手を止めた。一応、最終確認をしておかなければならない。
電子モニターに映し出されたカルテから美鶴へと視線を戻すと、念の為に最終確認を行った。
「一つ、確認するけど本当にソレでいいのよね?」
「毎回、同じことを聞いてきますけどそれってどういう意味なんですか?」
世羅の問いの意味を全く理解していないのか、美鶴は首を傾げて逆に問い返す。質問に対する質問。その回答にこれが答えだと判断すると写真を一枚ずつ回収していく。
それから、カルテに『進展なし』と書き記し、『悪化の傾向もない』と付け足した。カルテを確認すると、永遠と同じ文字が続いている。これでは初診から治療が進んでいないのが丸分かりだ。
だが、一応のテストは終了した。世羅は溜息を吐きながら、再び瓶の中から飴を取り出すと、それを今度は美鶴へと手渡しで渡しながら、先程の問いにこう答えるのだった。
「私の口から説明するのは簡単だけど、このことに関しては貴方が自分自身で気が付かなければ意味がないのよ。仮に言っても、多分……それでもその答えに納得できないと思うし」
理解出来ない。まさしくその通りだ。美鶴本人がその事を認めない限り、何も前には進まない。
それに、重要なのは答えではない。何故、そうなったのかという過程だ。それが分からない限り、答えを出した所で意味はない。むしろ、混乱を招くだけだろう。
世羅は心を落ち着けるため、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
「じゃあ、最後の問診に移りましょうか? これからする質問に正直に答えて貰える?」
「はぁ……解りました」
世羅の曖昧な言葉に当然、美鶴は納得している筈はなかった。
確かに言っている事は理解出来る。言葉を濁すことなく、はっきりと断言された所でそれを受け止められるという自信は皆無なのだ。それを受け止めるだけの自我がない以上……。
だが、全く進展の見えない状況に美鶴の中で焦りと諦めの心も芽生えつつあるのも事実だ。
医者として曖昧な回答は患者に出すべきではない。医者としての立場上、美鶴の状態を見抜きながらも敢えてそこには触れず、診察用のPDAとそれが映し出す電子モニターに映されたこれまでのカルテを見つめながら、今後の方針を考えつつ、いくつかの質問を始める。
「いつごろから、記憶がありませんか?」
「中学二年の中頃以前がぽっかりと空いています……」
生活環境や現状の状態に関する質問を手早く終えると、世羅は大きく背伸びをする。
「お疲れ様! じゃ、また来月来てね」
その言葉に美鶴は診察が終わった事を知ると、小さく一礼し、診察室を後にする。
手早く、受信料の支払いをカードで済ませると、大学病院の外へ出て空を見上げた。茜色の空を通り越し、黒く塗り潰され、その中を小さな光が輝いている。
時間を確認すると、案の定、予定をオーバーしており、その事に美鶴は大きく溜息を吐いた。
美鶴が退室した診察室。その中で世羅は一人、瓶から取り出した飴をなめながら美鶴に先程見せた写真とカルテを交互に見つめ考え込んでいた。
「大変ですね……。また、あの患者ですか?」
気が付かない内に診察室に入って来ていた看護師の言葉に、世羅は大慌てで写真とカルテを片付ける。恐らく、次の患者が待っているだろう。そちらの準備もしなければならない。
「あの患者? 美鶴君の事?」
世羅は看護師から次の患者のカルテを保存しているチップを受け取ると、そう問い返した。
「えぇ、ああいうのを厄介な患者と言うんですかね?」
「まぁ、確かに厄介ではあるわね。結果だけしか見えて来ない上に過程が不明すぎる。だけど、その言い方は止めた方が良いわ。別に美鶴くんが厄介だって訳ではなくて、あくまでも彼の症例が厄介なんだから――その言葉は語弊があるわ」
むしろ、厄介な患者と言うべきなのはこの次に待ち構えている患者で……。いや、それは置いといて、などと呟きながら、世羅は先程片付けたばかりの写真を再び取り出した。
「それは? 先程の患者用の資料ですよね?」
「そうね。直接、見た方が早いわ。いいから、ちょっとあなたも見てみなさい?」
看護師はやはり、美鶴と同じように問いの意味が理解出来ずに首を傾げてしまう。
ただし、その方向性は美鶴とは多く違ってはいるのだが……。
「あの? どうって聞かれても……。この写真、少しばかり年齢や表情に差があったりして、僅かに違う印象を受けますけど、全て同じ人物が写っていますよね?」
「そう、具体的にはどれも美鶴くんが写っている写真という訳ね。けど、それをある一定より前の時期を他人と認識しているの。本当に信じられない事だけど、何度やっても常に同じ答えが返って来る。今までに経験がない症例だけに――本当に厄介な症状よね」
世羅の言葉に、写真を見て間違いを探そうとしていた看護師は、自分自身の思い違いに気が付いた。しかし、それでも納得が出来ず、世羅に対して疑問の残る視線を向ける。
それが事実だとしても、少しばかり違和感。矛盾が存在しているからだろう。その視線に対し、世羅は一つの可能性――現在、考えている仮説を提示して見せた。
「たとえばそうね。――貴方はこれを林檎と証明できるかしら?」
世羅は机の中から赤い林檎を一つ取り出すと、それを看護師に手渡した。どこからどう見ても、赤いリンゴ。それ以外には見える筈もない。
「あの……、どこからどう見ても林檎ですよ?」
「食べてもいないのに何故、そう断定出来るの? もしかしたら赤い色を塗った梨かも知れないし、林檎そっくりな全く別の果物かもしれないわよ? なのに、どうしてこれを林檎と証明できるの? そもそも、貴方にとっての林檎の証明って何かしら?」
「え、ええと……ちょっと待って下さい。なら、食べれば良いんでしょうか?」
全く意味を理解していない看護師に対して、世羅は小さく溜息を吐く。林檎はあくまでも喩でしかない。問い掛けの真意は少しばかり別の場所にある。
それを理解していない看護師に対して、判り易いように噛み砕き、説明を開始する。
「まぁ、認知に関する話なんだけど、貴方はこれを無意識の内に林檎と判断してるの。だって、いちいちこれを林檎と証明していたらキリがないでしょ? つまり、人間は林檎を林檎と理解するのにそれが林檎であるという前提で無意識の内に見ているってわけなの」
「はぁ、解ったような気もしますが、それとこれとがどういう繋がりがあるんですか?」
世羅の解説と、今もまだ机の上に並べられている写真の関係性がイマイチ掴めていない看護師は思わず、そう問い返してしまう。
「林檎っていうものは極めて日常的な物体であるから瞬時にそれが林檎であると無意識に判断できる。けど、――非日常的物体だとそれが何であるか即座に判断できなくても何ら不思議ではないの。写真で言えば、自分と全く知らない人間の写真を見せられたら、それば誰なのか判断出来なくて悩む。自分に本当によく似たものが写っていたとして、まず自分と違う部分を見つけてから、これは違う。これは他人である。と証明するのよね。それが美鶴君の場合は判断できないのではなく、逆に瞬時に判断してしまっているの」
「えっと、違いは認識できないのか、しているのかって事でしょうか?」
看護師は首を傾げながらも出した回答に世羅は静かにうなずき、肯定する。
そして、それをより理解できるように一つの例を看護師に提示した。
「貴方は蛙を英語でなんと訳されているか知っているかしら?」
「フロッグですかね? でも、トードって訳されている気も……」
突然の英語の問題に看護師は真剣に答えようと必死に考え込む。
そんな看護師の様子をどこか楽しげに眺めながら、世羅は解説を始めた。
「フロッグはヒキガエル以外のカエル、トードはヒキガエル……言葉にも何らかの基準というモノがあるの。これはあくまで一例なんだけどね」
看護師はその話に深く頷くと、もう一度だけ真剣に写真を見返し始める。
それを横目に見ながら世羅は話を続けた。
「美鶴君の場合は一定より前の自分を自己と認識していないんだけど、何かを境に自身を正常に自己と認識しているの。けれど、本当に記憶喪失だけなら僅かにでもこの写真に写る人間が自分の可能性を考慮しないとならないのに、それを考慮しないレベルで認識している。この二十枚近くの写真を必ず一分未満で判断するのよ? もしかしたら、私達には理解出来ない記号がこの写真に紛れ込んでいるのかもしれないわね……」
だが、看護師が何度確認してもそのような記号らしきものは見当たらない。あるのは年齢や表情の違いがせいぜいだ。そんなモノで完全に判断するのは、ただの記憶喪失では難しい筈なのに。
そんな中で、看護師はボソッとこんな事を世羅に尋ねた。
「けど、それって精神科医の担当なんでしょうかね? 脳科学の分野な気がしますが……」
確かに認識の違いとなれば、精神よりも脳に何らかの要因があると考えた方が分かり易い。だが、その程度の事を世羅が考えていない筈がなかった。
「私もそう思って一度だけ、脳内に何らかの異常がないか数回検査をしたけど、前回ついに向こう側には『何の異常も無かったが、これでもまだ彼が異常者だというレッテルを張るのか?』って怒らせてしまったわ……」
本当に頭を悩ませているという事が専門ではない看護師にも伝わってくる。何かアドバイスをして力になりたいとは思うが、単純な事しか思いつかない。
「そう言えば、解離性同一性障害っていう症例なら彼の症例に一致しませんか?」
「無い、とは言い切れないのだけど、ね。確かに記憶障害、自己認識はクリアしているし、もう一点の説明も付くわ。だけど、明確なトラウマも、過度なストレスも無かったと周りの人間は口を揃えて断言しているのよ。むしろ、記憶を失ってからの今の彼の方がよっぽど日々ストレスを感じているんじゃないか、という人までいたのよ……」
世羅が気になっていた点は単純。要因が見当たらないという事だ。そして、本人の記憶喪失。それが相成って複雑に絡み合ってしまっているのだ。
それが二年間、世羅が白浜美鶴と向き合って知り得た事だ。
「口を揃えてって……普通なら、一人ぐらい心当たりがあったりしますよね。むしろ、その状況って怪しいですよ。でも、それだとなんか本当にテレビドラマみたいですね……」
「確かに怪しいと言えば、怪しく思えるのよね。彼の周囲も私にまだ何かを隠している気がするし……。ただ、虐待とかではなかったと思うの。仮にそうなら美鶴くんがここに通う事を両親が強制するのは、むしろ不自然よね? だから、なにかかなり特殊な何か……。いやまぁ、あくまでも、私の勘でしかないんだけどね。勘でしか」
「全体像すらも見えないなんて――」
長い時間向き合っていても何一つ解決の兆しが視えていない事に看護師は驚いてしまう。彼がここに通い出したのはもうすぐ三年近くになる筈だ。
そして、相手は精神科医の中でも一流の世羅。看護師としては少しばかり予想外だっただけに、思わず驚きの声を上げてしまう。
「そういう訳だから彼とはまだまだ長い付き合いになりそうだわ。――いい意味でも、悪い意味でもね。出来る限り、早くどうにかしたい思いはあるけど」
そんな世羅の疲れ切った表情に看護師は思わず意外そうな表情を浮かべた。
「世羅先生にも解らない事があるんですね……少し意外です」
精神科の若き権威の一人として紹介されるような世羅の思わぬぼやきに新たな一面を知ったように感じたのか嬉しそうに看護師が微笑む。
世羅はそんな看護師の様子に額に手を置くと盛大に溜息を吐いた。世の中、思い通りにならない事の方が多過ぎる。だからこそ、私達は探求し続けなければならないのだ。
「あなた……私を世間が言うように天才か何かかと考えているのかもしれないけど、この世界なんて解らない事だらけよ? 教科書通りの症例なんて殆んどないんだから……その中で患者一人一人の状態を確認し、どうやって問題を解決していくか考え、それを実行し、治療の手助けをする。――それこそが医者というモノだと私は思いたいわね」
「世羅先生は本当に凄いですね……それで、治る見込みはあるんですよね?」
初めて聞いた世羅の弱音に看護師は少しばかり不安に感じた。
だが、そんな看護師の心配を他所に、世羅は自身の頬を一度だけ強く叩いて気合を入れ直す。そして、確認するかのように現在の美鶴の写った写真を並べて全体を見つめてみる。
「私は今回の事について何も分かってない。本当に自分の無知さを思い知らされたわ。けど、医者である以上は最後まで弱音を吐く事は許されない。それに、私が受け持つ以上は少しでもいい方向へと向けて行きたい――ここまで一緒に戦ってきたんだから」
そう言って、世羅は深く椅子に座り直して、今度こそ美鶴の写真を纏めると、カルテを閉じる。想定以上に話し込んでしまったこともあり、流れるような動作でPDAからチップを引き抜くと、『白浜美鶴』と書かれた小型ケースに収め、看護師に渡した。
そして、先に看護師に受け取っていた『瀧(たき)咲(ざき)翌檜(あすなろ)』と書かれたケースを開けて、PDAチップを取り出して差し込む。新たに開いたカルテは三年前に自殺未遂を起こした心理学と脳科学を専攻しているという風変わりな大学生についてのものだ。
他の科での身体的医療データは病院内のどこからでもすぐに引き出せるようになっている事もあり、他の病院にも共有するようになっているが、精神的な医療データは物理的に遮断されたデータベースの中に納められている。持ち出す場合の責任はそれなりに高い。
「じゃあ、次の患者を呼んで貰えるかしら?」
世羅は美鶴の事を頭から振り払うと、次の患者の入室を待つのだった。
次の患者は眼鏡をかけた物静かそうな文学系少女とでも言うべき女性――瀧咲翌檜という世羅から見ても少し怖い印象を受ける女性だった。
確かに見た目は物静かな印象を受ける。だが、問題は中身である。
心理学と脳科学という分野に精通している人間だけにこちらのやり方を熟知しており、それどころか逆に此方の心の奥を覗かれている気分になってしまうからやり辛い。
美鶴の場合、症例こそ厄介であるものの、それなりに気軽に話せるが、翌檜が相手である場合はお互いに腹の探り合いに近くなる。美鶴よりよっぽど厄介な患者と言えよう。
「どうかされましたか、世羅先生? それで、今日はどのような話をしましょうか?」
どうやら、心労が顔に出ていたらしい。気を付けなければ。
「いえ、なんでもないわ……もう、貴方の話したい講義は決まってるのでしょう」
毎回、翌檜は必ず診察時に一つの問いかけをして来る。それは決まって白浜美鶴に関して悩んでいる点を突いてくるのだ。――まるで、世羅を誘導するかのように。
世羅が翌檜に対して若干不気味さを抱いているのはそういう理由だ。ただそれ以外に翌檜との話題もなく、また白浜美鶴に関して情報が不足しているだけに彼女の助言は非常に助けになっているのも事実である。その為、完全には無下には出来ないのだ。
「そうですね。記憶なんてどうでしょう。脳の中に記録される記憶の保管庫。その場所についてなんて面白い話題だとは思いませんか? 先生の専門分野ですしね」
「記憶? いつもは心理学――特に認知心理や脳科学に関する事なのに珍しいわね。科学的見地が大好きな貴方にしては随分と非科学的な話な気もするけど」
嗜めるように世羅は翌檜を見る。だが、内心ではその言葉に白浜美鶴に関するある可能性を見出していた。極単純だが、気が付きにくい事だ。・
最初のボタンのかけ違いによって全ての考えがずれてしまい、一番大事なモノを見失っているのではないか。そんな根底に対する疑問符だ。それが崩壊すれば、全ての見方が変わってくる。
「そうですね。確かに非科学的ではあります。でも、証明出来ればそれは科学ですよ」
その言葉に少しだけ世羅は違和感を覚えるが、喰いつくような事はせず、こう返答した。
「そうね……是非とも聞かせて貰おうかしら? 貴方の考えを」
世羅がそう尋ねると翌檜はゆっくりと口を開く。
「脳に損傷も見受けられない。腫瘍も発見されない。それにも関わらず、記憶障害や性格改変が起こる現象……まるで、現代の取り換え子みたいだと思いませんか?」
その言葉に一つだけある事を思い出した。精神科の中で話題に上がっている脳内にチップを埋め込み、ホルモンを科学的に制御するというモノだ。それを応用すれば、瀧咲翌檜の行っている事は事実上、不可能ではない。問題は人権的問題だけだ。
翌檜は世羅の様子ににこりと笑ってみせると、眼鏡のレンズを拭いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます