第2話

 情報処理――

 今やその教科は先程、職員室でも担任から宣告された事から分かるように、英語や数学のように必修となっている。その為、単位が無ければ進級に影響を及ぼしてしまうのだ。

 現実として、単位が厳しい美鶴は他の授業以上に真面目に授業を受けてせめて印象だけは良く思われなければならないのだった。

 結局、今の世の中、どこへ行っても凄まじい速度で進歩していく情報化の波に乗れなければならない。特にここ数年、その進歩は著しい。その技術革新は産業そのものだけでなく、社会全体に大きな影響を与えるまでになっているのだ。

 つまり、生きていくにはそれを扱えるだけの必要最低限の知識を持っておかなければならない。

 白浜美鶴という人間――それがこの世界から見れば、社会不適合の烙印を押されても仕方がないのも頷けるだろう。何故なら、簡単なプログラムを組めないどころか、あろうことかデータを破損させてしまうのだから……。


「本当にさっさと終らないかな……」

 実の所、教師の単調な説明をまったくもって理解出来ない訳ではない。――多少は概念として美鶴でも理解出来ているのだ。ただ、それを実行し、上手く行使する事が出来ないのだ。

 その為、この情報処理の授業を真面目に受けてはいるものの、苦痛でしかない。

 頭で理解していても、それを実現できないのならば、勉強する理由として破綻している。それ故に美鶴の中では話を聞くという必要性を感じられなくなっていた。

 ただ、だからと言ってサボる訳にもいかない。情報処理は必修科目だ。ここでサボれば本当に留年が確定してしまう。それだけは何としても避けなければならない。

 ただ、この状況を苦痛と言わずして、他に何を苦痛というのだろうか?

 そんな事を考えていると、いつの間にか担当の高倉が教室に到着し、号令をかけていた。

 そして、号令が終わると美鶴は他の生徒達がPDAを操作し、モニターを開く中で一人だけ紙製のノートを机の上に開き、古ぼけたシャープペンを一回転させる。

 だが、次の瞬間、高倉は各個人の持つPDAの電源を落とすように指示を飛ばした。

「今日はいい機会だ。次世代型ネットワークとして期待されているVWNについて学ぼうと思う」

 その高倉の言葉に教室内に僅かだが、賑わいが起こった。

 というのも現在、VWN(Virtual World Network)システムを使用出来る人間は限られた者だけであり、それら情報全てが部外秘なのだ。その為、表には殆んどシステム関連の情報は流れて来ず、半ばオカルトのような噂が平気で信じられていたりする。

 ただ、美鶴からすれば現在の状況から考えても、全く持って関係のない分野の話なのだ。恐らく知っていたところで役に立つことはない。

「まず、簡単な事から説明するとこのシステムはVR、別名仮想現実を基軸としたものだ。現段階では、今年度のEWC出場が決まっている高校でのみ試験的に運用が行われている。前年度個人戦優勝者である白浜美香が在籍するここ伏見高校もその配備校の一つだ」

 高倉が語った事は現在、ここにいる人間が常識として知っている範疇の事だ。もっと言えば、伏見高校は個人戦では優勝したが、団体戦では国内大会で惨敗していたりする。

 ただ。やはり新型のネットワークに関する知識はこの高校に設置されている止まりだ。それがどのようなモノかを知っている人間は那月、美香のような特別な人間に限られるのだが……。

「現ネットワークと根底から違うのはVRを基軸としている事だけではない。実の所、それ以上にネットワーク内で用いられるプログラム用の特殊デバイスの存在、その際に使用されるIZANAGIと呼ばれる新たに製作されたプログラミング言語の存在が大きい」

 多くのクラスメイトが高倉の次の言葉に真剣に耳を傾けている中、美鶴は適当にノートにメモを取りながら、至極どうでもいい事が気にしていた。

 それは、何故敢えてイザナギなのか。という話だ。いや開発主任が春凱(はるがい)恵那(えな)という日本人女性なのだから、日本神話から取るというのは決しておかしな話ではない。ただ日本の神としてはスサノオとか、アマテラスの方が良く知られているように思う。

 とりあえず普通に考えるなら、日本神話で国産み、神産みを行った神である為、新たな世界を生み出す。という意味合いでイザナギを選んだと見るべきだろう。だがしかし、それなら女性神であるイザナミの方では駄目だったのか。

 いや、確かイザナミは神様産んで死に、黄泉の国へ行ってしまうんだったな。じゃあイザナミは縁起悪いから避けたのか。

 或いはその後の話に関連し――、千が滅んでも、千五百が生まれる。そういうシステムにしたかったのかもしれない。まあ結局、どっちでもいい話だ。

 と、美鶴がそんな下らない事を考えている間にも、どんどん授業は進行していく。

「皆も知っているように今の情報化社会への急速な移行が起こったのは二十二世紀に起きた情報革新によるモノが大きい。このVWNシステムもその代表格といえる存在であり、従来のネットワークとは一線を隔しているモノだ。この辺りの話に踏み込めば、EWCの大会創設やこれまでのハッカーに対する常識の変化といった事が見えてくるのだが、その辺りは関係ない話なので割愛させて貰う。それでは、ここからは説明用に書く学校に配布されたNPCに質疑応答を任せようと思う」

 高倉がそう告げると、前面のモニターに一人の女性型NPCが現れる。

 突然現れた解説用のNPCの存在、これからの新しい世界の話への期待。それらにクラスの数名は目を輝かせ歓声を上がる。

 恐らく、あのNPCは市販型の量産型ではない。開発者側が学校側の教育で想定される質問に返答できるように調整し、各学校に配布した簡易自作型NPCなのだろう。

 美鶴がNPCを観察するかのようにじっくりと眺めていると、クラスの一人が手を挙げる。

「あの……ネットの内部に没入するのなら現実の身体はどうなるんでしょうか……」

 名前は知らないが、いかにも気弱そうな女生徒だ。不安を隠せないのか、声が震えている。

 その定番とも言える質問に対して、モニター内のNPCは表情を微笑むものへと変更し、人間の声に似せて作られたであろう合成音声でこう返答した。

『睡眠時にはレム睡眠とノンレム睡眠が存在しており、一般的にレム睡眠時に夢を見る事が知られています。ネット没入時の脳の状態はこのレム睡眠を背景に起きる夢に近い為、ネット内での怪我は現実には影響を及ぼさないとされています』

 夢の中で起こったことが現実に影響しますか? NPCは暗に女生徒にそう言っているのだ。

 その言葉に何度か小さく首を縦に振ると、納得したらしくその子はゆっくりと席に着く。

 ただ、こんな答えでは納得できない生徒もいたようだ。話半分で聞いていた美鶴でも、やはりどこか論点をずらされているように感じたのだ。それも仕方がないのかもしれない。

 その生徒たちの一人が立ち上がると、一拍おいてこう質問を投げかけた。

「確か、ネット内で没入した際に現実に戻って来られなくなる事例があり、それが原因で完成したにも関わらず、試験運用の無期延期が決定。次世代型のネットワークとして話題になりながらも、表舞台の登場を見送られたと、噂を耳にしましたが本当に安全なのでしょうか?」

 その質問に対して、NPCは難しそうな表情へと顔を変更した。

 この類の噂はどのようなモノにも付き物であり、前々から流されていた。だが、一度流れたデマを完全にデマであると証明する事は極めて難しい。いくら、情報を与えられたNPCとは言え、それに解答するのは厳しいのだろう。

 しかし、そのNPCは何かを思い出したように顔色を瞬時に変えると、こう答えを提示した。

『最近発表された論文によれば僅かな感覚のズレが起こる事が確認、報告されています。それには、数分から数時間ほど違和感を覚える事があるそうですが、すぐにズレは脳で調整されて日常生活には何の影響もありません。また、それが発生する確率も0%へと収束しており殆んど起こる事はありません。ただ、開発段階で何度か報告されている為、この辺りの話に尾ひれがついたのではないかと考えられます』

 なるほどと、美鶴は頷いた。脳の機能を考えれば、ズレが起こってもおかしくはない。肉体とは別にネット内に身体を作り、それが脳の指令で動くのだ。脳の混乱は起こり得る事態だ。

 ただ、完全に説明しきれている訳ではない。しかし、質問した生徒としてもあくまで噂程度にしか知らない為にそれで納得したのか、質問がぱったりと止まってしまう。

 そんな静まり返っていた空気の中、三浦がまっすぐに手を挙げた。

「ネット内に入れるって事は、NPCとの関係性はどのようになるんでしょうか?」

 三浦らしい風変わりな質問だと美鶴は思う。三浦の中には恐らく、NPCと恋に落ちた場合の想定を聞いているのだ。その考えには美鶴も思わず、苦笑いを浮かべてしまう。

 当然、そのような質問を教材用のNPCは想定していない。その為質問に答えるというプログラムを最優先して動かしているAIが混乱してしまい処理が出来ない状況になってしまう。

 そんな中でAIの元に一通の電子メールが届いた。

 すると、突然NPCの様子が変化する。優先順位が書き換えられたのだ。

 当然、最優先で動いている質問に答えるという動作はより上位の命令を行うために停止する。そして、書き換えられたであろうメールを読み上げるというプログラムが実行された。

『――面白い質問ですね。私の個人的見解では、このシステムが普及すれば彼らと私達の間にある差が一気に縮まり、現実に身体を持つか否かになると考えています。しかし、それは些細な差でしか無くクローニング技術が発展、普及すればそれすらも無くなる為、その問いに対する答えを追及するのが今後の情報科学の一つの課題になるかも知れませんね。――春凱恵那』

 開発者からの返答らしきメール。その事実に教室内は驚きのあまり、賑わう。

 そんな騒がしい空気の中、美鶴は何気なく、こんな事を呟いた。

「その理論が通るなら、人間のNPC化も可能って事なのか?」

 美鶴の言葉に教室中は一気に静まり返る。NPCもその言葉を処理できないのか、完全にフリーズしており、画面内部で固まってしまっていた。

 ただ、その中でもその呟きの真の意味を理解したごく少数の生徒。彼らだけは美鶴を驚愕の眼差しで見つめていた。本当にごく少数ではあるが……。

『――人がNPCになる、ですか……ですが、理論上ではいくら可能でも、倫理的な観点からいくつかの問題がある以上、それは難しいと思います。――』

 あげ足を取ったような質問にも冷静かつ的確に返信してくる開発者に対し、その言葉では腑に落ちない美鶴はさらに畳み掛けるように今度は質問ではなく、可能性を示唆する。

「倫理的な観点など、時代によって左右されます、もしも、人間からNPCを作製した場合の利点を考えると寿命や世界的な食糧事情のような今後の課題も肉体を捨て去る為に解決とまでは行かないまでも抑制、改善される可能性があるので十分議論されて然るべき価値ある問題であると思うのですが……」

 倫理観など、個人により線引きは違う。明確なように見えて、曖昧なのだ。それが美鶴の考えだった。だからこそ、理論上は可能だという事を重要視したのだ。

『――確かにそうかもしれませんね。とても、面白い考えの持ち主のようです。貴方のような人がこれからの情報科学の世界を引っ張って行くのでしょうね。――』

 開発者の返信は否定も肯定もない。ただ、面白いという評価だった。

 一対一の質問対決。その中で、開発者からそのような感想を導き出した美鶴には高倉ですら着いて来られず、ただただ呆気にとられ、首を縦に振るだけだった。

 当然、教室はというと、美鶴と開発者の会話をまったく理解出来ていない生徒が大半を占めていた。だが、その僅か一端でも理解出来た少数ですら殆んど、提示された問題に呆気にとられるばかりで、内容に関しては全く理解出来ず仕舞いだった。

 そんな静まり返った教室に授業終了のチャイムが重く鳴り響く。

 高倉はそのチャイムを合図に開発者へのお礼の文面を転送すると、モニターの電源を落とし、NPCのデータを取り出すと号令をかけて授業を終わらせた。

 ようやく、苦手な情報処理の授業が何事もなく終わった。その事に一安心し、美鶴はすぐさま机へと突っ伏して休憩を謳歌しようとする。


 だが、そんな一時の安らぎの時間が長くは続くことはなかった。

 何故なら突然、教室から音が消え去ると同時に美鶴の身体に寒気が走ったからだ。しかも、その元凶であろう気配はまっすぐと確実に美鶴の席へと歩みを進めている。

 そして、事もあろうか美鶴の席の目の前に立つとそこで止まったのだ。

「少し、時間良いかしら? いいわよね?」

 美鶴はその言葉の重圧に一度は狸寝入りを決め込もうかとも考える。だが、今にも押し潰されそうな精神的圧迫に勝てる筈もなく、しぶしぶ顔を起こすのだった。

 すると、そこには無表情のまま自身を見下ろしている那月の姿――。

 一目見ただけでいくら美鶴といえども、那月が本気で何かを怒っている事は理解出来た。だが、一時間ほど前に職員室で出会った際には怒らせるような事はしていなかった筈だ。

 全く心当たりが見当たらない。しかし、どう考えても怒りの対象は美鶴以外にはありえない。

 周りに助けを求めようにも、親友の三浦にすら目を逸らされる始末。助け船を出してくれるような救世主が現れる気配など全くなかった。

 当然、こうしている間にも那月の怒りは沸点へと近付いている。

 いい加減に痺れを切らした那月は美鶴の顎を掴みあげ、自らの方へと顔を無理矢理向けさせると、全く笑っていない笑顔でこう宣告する。

「アンタに用があるって言ってるの……聞こえなかった? 白浜美鶴」

「えっ? ……いや、待て! 落ち着け! 心当たりが全くないんだ。お前の勘違いだろ」

 不吉なオーラを放ち続ける那月に何が何だか皆目見当もつかない美鶴は首を傾げるばかりだ。何故、自分がこのような状況下におかれているか一欠片も理解出来ない。

 だが、その程度の言葉で沸点を軽く通り越してしまった那月が止まる筈がなかった。

「大丈夫よ。私には十分に心当たりも理由も存在しているから」

 その綺麗な笑顔に美鶴は猫に追い詰められたネズミの如く、震え上がる。窮鼠猫をかむなど到底、実現出来るような状況ではない。そんな事をしたら、確実に那月に消される。

 怯える美鶴の右腕をがっしりと掴むと、那月は返答する猶予すら与えることなく、そのまま引き摺ってどこかへと美鶴を拉致、連行していってしまう。

 その様子を一部始終見ていたクラスメイトは嵐が通り過ぎる一瞬は静まり返っていたが、すぐに何事もなかったかのように元の休憩時間の空気へと戻るのだった。


 美鶴が連行された先は校舎の屋上だった。

 夏の炎天下でコンクリートが焼ける為、この時期は時間を問わず屋上には殆んど人が訪れる事はない。つまり、今は那月と一対一という事だ。

 しかも、唯一の出入り口はここに来るために使用した階段だけだ。その扉の前に那月が立っている以上、逃げ場などどこにも存在しない。

 ご丁寧に那月は唯一の退路であるその扉を施錠すると、美鶴へとゆっくりと詰め寄った。

「あんた……美香先輩に何かしたの?」

 美鶴には那月の質問の意図が全く読めなかった。姉の事で何故、自分に火の粉が飛んでくるのか理由が分からないからだ。その為、ただ首を傾げる事しか出来ない。

 だが、那月にはそれがお気に召さなかったらしく、かえって火に油を注ぐ結果となってしまう。

 先程までは怒りを露わにしながらも何とか冷静に話そうと努力していた様子だったのだが、抑えられなくなったのか那月は美鶴へと掴みかかってきた。

「なんで……なんで、美香先輩がEWC代表を辞退したのかって聞いてるのよ!」

「いや、いきなりそんな事を俺に聞かれても。――それに、ほら! それはただの噂だろ?」

 恐らく、尊敬していた先輩が代表を突然辞退した事に那月は気が動転しているのだろう。だが、それが分かったところで美鶴にはどうしようもない問題だ。

 何故なら、那月に話を聞いて初めて事実である事を知ったのだ。彼女が知っている以上の情報を美鶴が持ち得ている筈がない。いくら聞かれても答えられないのだ。

 せめて、那月の怒りを鎮めようと説得を試みるのだが、那月の耳には全く届かない。

 その代りに掴まれた襟首がさらに締め上げられる。

「事実だから言ってるんじゃない! あんなに最後の大会に向けて頑張ってた美香先輩がこの時期になって大会を棄権するなんて有り得ない! 理由を聞いても笑って誤魔化すばかりでそんな風にするなんてアンタが何か言った以外に考えられる? 何をしたの? 白状しなさい!」

 那月の言葉に一応、最近の姉との会話を美鶴は思い返す。しかし、美鶴は中学を卒業と同時に家を出て一人暮らしを始めている為、顔を合わせるのは実質月に一回程度。しかも生活の様子を見に来る時ぐらいなので実質、関わり合いは那月の方が多いくらいだ。

 しかも、最後に直接会って話したのは一か月前。

 それ以外では昨日いきなり通信があり、先程の休憩時間に会えるかとネット越しに一方的に言われたのが最近の会話になるのだろう。

 だが、どう考えてもそれが理由にはなり得ないだけに、心当たりはない。

「まさか……本当に何も知らなかったの?」

 那月の方もようやく頭が冷えて思考が正常に機能し始めたのか、やっと美鶴がとぼけている訳ではなく、何一つ知らないという事に気が付き、慌てて襟首から手を放して美鶴を解放する。

 やっと、喉を解放された美鶴は深く息を吸い込むと、盛大な溜息を吐いた。

「悪いが最後に姉貴と直接会ったのは一か月前だし、その事について何も知らない。悪いが、本当に何一つとして心当たりがないんだ」

 那月の額から一滴の汗が流れ落ちた。

「えっ? 一か月前ってアンタ……美香先輩の弟でしょ?」

 親が離婚している訳でもなければ、別居している訳でもない状態で同じ学校に通いながら最後に会ったのが一か月前など到底、那月が信じられるはずがなかった。

 服の内側へと風を送り、涼を取っていた美鶴は那月から目を逸らした。そして、唾を呑み覚悟を決めると苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと口を開く。

「いや、その……中学卒業した時に家を出たんだよ……分からないかも知れないけどさ。優秀な姉と底辺の弟、一緒に居ると必ず比べられるし、自分のダメさをマジマジと突き付けられる……その辺りで親と大揉めしてさ。だから、俺と姉貴の関係は那月が思っているような関係じゃなくて、今では殆んど疎遠状態なんだ。だから、那月が知っている以上の事は何も知らない」

 炎天下の中、暑い筈なのだが全くそのような事を気にする余裕がない程に空気が重い。

 美鶴としては別に昔の事なので気にしてすらいなかったのだが、それを聞いた那月が予想以上に重く受け止めてしまい俯いてしまったのだ。

 那月は申し訳なさそうな顔をする。相変わらず、顔に出やすい。

 きっと、これでは美鶴を自分の八つ当たりで傷つけてしまったようなものだ。とでも考えているのだろう。それが分かっても、どう慰めればいいか分からないが。

「そう、なんだ……。ごめん……」

 先程まであれだけ生き生きとしていた那月は完全に萎れてしまい、弱弱しい声で美鶴に謝罪する。だが、全く気にしてすらいない美鶴は小さく溜息を吐き、頭をかきむしる。

「別に那月は何も悪くないだろ。俺と親の問題な訳だしさ。互いに何も聞かなかった。それでいいだろ? もう、帰っていいか? 何か変な噂されてたらたまったもんじゃないからさ」

「えぇ……そうね……」

 落ち込んでしまった那月を何とか励まそうとするが、炎天下であるにもかかわらず凍り付いてしまった空気は融ける事はない。結局、何も声をかける事すら出来ず、ただ一人逃げるように走り去る那月の後姿を眺めている事しか出来なかった。

 屋上に残された美鶴は一人、青空を眺めていると、授業が始まるチャイムが聞こえてくる。

 そのチャイムの音に美鶴は額の汗を拭くと、大急ぎで教室へと向かう。

 戻って来た教室には先生もまだ来ておらず、どうやら間に合ったらしい。

 しかし、美香の件と那月の落ち込みようがどうにも気になってしまい、授業などまったく身に入らず、気が付くと放課後になってしまっていた。

「今日は病院の通院だし、明日にでも姉貴に少し藩士を聞いてみるか……。さすがに、ここまで聞いて無関係って訳にもいかないだろうし、那月の事を放っておくのもなんか罪悪感があるし」

 美鶴はそう呟くと、下校し病院へと向かう為に急いで荷物を片付け始める。

 本来ならば、その足で美香と那月の様子を確認しに行きたいのも山々なのだ。だが、運の悪い事に今日は完全予約制の精神科への診断があるのだ。

 二人の事が気にかかってはいるものの、精神科の担当医を待たせている。その為、通院を優先する事を決めると鞄を担いで大急ぎで学校を後にするのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る