第13話

「懐中電灯でも持ってくれば良かったですね。足下に気を付けないと」

 背後で蠢くソレを一瞥すると、地下へと続く薄暗い石段をゆっくりと降りて行く。

 湿気が溜まっているのか、酷くジメジメし、壁をムカデやクモが這いずっている。

 一歩、階段を降りる毎にまるで、身体が地下へと降りる事を拒絶しているかのように足が石のように重くなり、思うように動く事が出来ない。

 口では何でもないような事を口にしていても、やっぱり精神的には来ているという事か。

 そんな僕の気を知ってか知らずか、魔女先輩は一人で先へ先へと降りて行ってしまう。

 いつもと変わらない魔女先輩らしさというのだろうか。

 少しは人間である僕の事を気遣って欲しいと思うのだが、なんだろう。

 一々、心配して来る魔女先輩を想像するとそれはそれで気持ちが悪いようにも思えてしまう。そんな事を考えていると、少しではあるが足が軽くなっていく気がした。

 そうして、僕がなんとか魔女先輩に追い付くと、魔女先輩は僕の方を見てこう告げる。

「それより、気を引き締めなさい。せめて、顔には出さない。この鉄則を守れないと、その心の隙に漬け込まれて酷い目に合うわよ」

「気を付けます。僕だって、本物と相対するのは初めてですから」

 この手の輩を相手にする時、よく心の隙を突かれるという話を聞く。

 だからこそ、気を引き締めていかなければならないのは分かっている。

 だが、やはり怖い。未知の世界に直面する潜在的恐怖にはなかなか打ち勝てない。

 地下の儀式場にはまだ辿り着いてはいないのだが、空気の流れに乗って漂ってくるその僅かな気配だけでも身震いしてしまう。

 この調子では本物と相対した時、理性を保っていられるか不安だ。

 人間に備わった本能なのかもしれないが、彼らに面と向かって相対するにはそれを克服していかなければならないという事なのだろう。

「でも、本当に恐ろしいのはきっとそんな事よりも、何も出来ない事だと思います」

 恐怖とは本能的なものだけではない。一つの可能性に待ち受けるその結末。それも、また一つの恐ろしいモノなのだ。それを受け入れられないのなら尚の事。

 その二つを天秤にかけたならば、後者の方が僕にとっては恐ろしい。

 何も出来ず、膝を抱えて蹲っていたという事に対する罪悪感。

 助けられなかった事に対する後悔。

 永遠にそれらを背負い続けなければならない。なおかつ、誰にもその罪を咎められない。

 それは生き地獄だ。罪に対する罰すら与えられない。責められる事もない罰。

 だからこそ、無謀だと言われようが、僕は足を踏み出した。

「それは勇気ではなく、ただの無謀と言われればそれまでです。けど、心に決めてしまえば勝手に動き始める。重要なのは目の前の問題に対する覚悟だと思うんです」

 勇気があるから動けるのではない。

 目の前の問題に対し、覚悟があるからこそ勇気が湧いてくる。

 勇気とは覚悟であり、恐怖心を抱いていても行動する事が出来る度胸である。

 だからこそ、どんな結果であっても、それを受け入れる事が出来るのだと僕は思う。

 僕の言葉に魔女先輩は深く頷くと、こんな事を口にした。

「確かに、その考えには一理ある。でも、逃げる事にも勇気がいるのよ。だって、私達みたいな存在はそうする事によって生まれてきたようなモノなんだからさ」

 あぁ、自らではどうにも出来ない状況下で人でない存在に助けを乞う。

 そうして生まれたのが、神であり。罪を押し付けられたのが、怪異。

 だとするならば、魔女先輩の言う通り、逃げる事もまた一つの道なのかもしれない。

 でも、やっぱりそう言われても僕は夕先輩を見捨てられない。助けられるかもしれないのならば、僕は彼女の手を掴みたい。彼女がこんな事の為に生まれて来たと思いたくない。

 どうしてだろう。先程から、魔女先輩はずっと僕の事を心配しているように見えてしまう。理由などない。不思議とそう感じてしまうのだ。

 何故、そこまで僕がこの一件に深く関わろうとしているのを止めようとしているのか。

 きっと、魔女先輩の事だから言葉にしていない何かがあるのかもしれない。

 その気遣いは嬉しい。だが、ここまで来て無関係を装うなんて僕には出来ない。

 そんな事なら、最初からこんな一件に自分から関わろうとはしていない。

 魔女先輩も言うだけ無駄と思ったのか、逃げを肯定する事を止めた。

「だから、誰彼かまわず優しくするのは止めなさい。特にこれから相対する存在はもう此方側の存在よ。他人に全てを押し付けられ、歪んでしまった存在。人とは違うわ」

「神籬の神はもういない。ここにいるのはその神に喰われた怨念……ですか……」

 予想はしていたが、その言葉はやはり重たく僕に圧し掛かって来る。

 もしも、魔女先輩の言葉が正しければ彼らは犠牲者であり、被害者だ。

 彼らの怒りはもっともであり、その怨念は然るべきものである。

 そもそも、神籬夕に続く被害者が神隠しという系式ではなかったのはその怨念が上手く形を取れていなかったからだとするなら、神籬夕には感謝しなければならない。

 彼女の心の強さが被害拡大を食い止めていた。犠牲を押し留めていた。

 ならば、急がなければ一気に被害が拡大する事になる。神籬夕の心が折れ、彼女の依り代としての形を利用し怨霊として形成されてしまえば――本物の神隠しが起こる。

 隣の人間が消えてしまっても、誰も気が付かない。

 そんな悲しく、残酷な結末は断固として阻止しなければならない。

「大丈夫ですよ。彼らに同情する余地なんて存在しない。どこにもないですから」

 石段が終わり、開けた空間が目の前に広がる。

 目が慣れてきているものの、それなりに広い空間である為に何があるかまでは分からない。ただ、奥に何かがいるという事だけははっきりと認識出来た。

 それになんだろう。この開けた空間に入った瞬間、胃の中のモノが逆流する。

 吐き出してしまう前に飲み込む事は出来たのだが、何だろう。この地下には血生臭さが充満しているのだ。それも、一人や二人分なんてレベルではない。

「これはだいぶ、染み込んでいるわね。まぁ、最近の物ではないみたいだけど」

 魔女先輩はそんな事を呟きながら、地面をそっと掴むと、その指を擦り合わせる。

 ネチャネチャと音を立てるそれは恐らく、脂なのだろう。人の……。

 もし、灯りがあろうものならそれだけで耐え切れなくなっていたかもしれない。

 今だけは準備をしていなかった事を感謝してしまいそうだ。

「予想していたよりも、随分と酷い儀式だったみたいですね」

「そうかしら? ここが食事する場所だったとすればそれなりに予想は出来ていたと思うけど? テーブルマナーがあるような存在が生贄を求める神だとは思えないし」

 言われてみれば、確かに生贄を喰らうような神にそんなマナーなんて言葉はないだろう。

 野生の肉食獣のように貪るというのが関の山なのかもしれない。

 それが既にいなくなっている後で良かったとつくづく実感した。

 もしも、ここでそんな化物と相対するハメになったら、死を覚悟していただろう。

 そんな事を考えながら、目を凝らして辺りを一つ一つ確認していく。

「見た限り、中央の広場を囲むように蝋燭台が配置されているみたいですね。あぁ、奥に注連縄を巻いた岩も確認出来る。あれが、神籬の祀る神の神体で――っていましたね」

 部屋の様子を一つ一つ、確認していると神棚の前に人影らしきものが確認出来る。

 こちらに気付いていないのか、神棚の方をじっと見つめている。

 その人影が纏っているのは僕の学校の女子制服。

 学年を示すワンポイントのラインの色は暗くて判断出来ないのだが、行方不明になった人間である事と身長を考えると――恐らくは、夕先輩なのではないかと思う。

 つまり、魔女先輩の言葉は助けられるかもしれないという言葉は正しかったという事か。

 そして、夕先輩をここへと連れて来る事が出来る人間も確定したと言っても同然だ。

「何が起こるか分かりませんが、急いでこの場から引き離した方がいいですよね」

「いや、この場がどういう状態なのか分からない以上、不用意に動かさない方がいいわ」

 魔女先輩の言葉に僕は夕先輩に駆け寄ろうとしていた足を止める。

 確かに夕先輩が神隠しにあったのは事実だ。なのに、僕らの前に姿を見せた。

 罠かも知れない。いや、もしかしたら動かすと更に不味い事態を引き起こすかも……。

「なら――止めておきますか。でも、容態だけは確認しておきますね」

「待ちなさい。何があるか分からないから、不用意に近付かない方が!」

 こんな場所に長い間、放置されていたのだ。随分と弱っているかもしれない。

 魔女先輩の言いたい事も理解出来るが、夕先輩の安全を優先するとその忠告を無視し、夕先輩の脈拍を計ろうとするのだが、その手は氷のように冷たかった。

 それにどういう訳か、脈拍も感じ取れない。無いという事か……。

 近くで目を凝らして良く見れば、顔に生気がない。呼吸も確認出来ない。

 ただ、死んでいるというには少し、違和感を覚えてしまう。

 綺麗過ぎるのだ。まるで、眠っているかのように。

「脈もなく、体温も冷たい。――これはどういう事なんでしょうか?」

「手遅れだったって事じゃないかしら? 全てが終わった後だった。遅過ぎたのよ」

 まるで、さも当然のように魔女先輩はそう言った。

 なんだろう。先程から、魔女先輩の言葉一つ一つが明らかにおかしい。

 よく考えてみれば、神籬夕の心を折る為に神籬志津を利用しようとした。ならば、ここで死んでいるという事実はあまりに不自然だ。

 死んでいるのならば、それはもはや依り代ではない。

 となると、考えられるのは一つだけ。もしも、そうであるならば魔女先輩の様子も――。

「なるほど、そう言う事ですか。確かにそれならば、納得が出来る」

 僕は目を瞑り、深呼吸するとその血生臭さ思わず、咳き込んでしまう。

「つ、つまり、目の前に広がる光景そのものが偽物である。動揺を誘う罠だった」

 僕はそう呟くと、顔を上げてまっすぐに神籬夕がいた場所を睨み付ける。

 すると、僕の目の前には魔女先輩の姿があった。

 そして、その向こうにはその姿が本当の姿なのかは分からない。だが、そこには確かに神籬夕とは似ても似つかない。幼く、小柄な少女がいた。そう、小柄な少女が――。

「あら、おかえりなさい。時間稼ぎが随分とお好きなようだけど、私には効かなかったようね。まぁ、葛城百花に対しても無意味だったみたいだし」

 そんな目の前に現れた光景に驚く僕とは裏腹に、魔女先輩は何でもないかのようにそう呟くと目の前の少女を挑発して見せる。

 だが、少女はそんな魔女先輩の露骨な挑発には乗らず、不気味な笑みを浮かべていた。

「そう? もう連れて来られていた子の心はボロボロだったよ? あの子が折れてしまえば私の勝ち。どこかの誰かさんの書いた筋書き通りというのは些か、腹が立つのだけどさ」

 筋書き通り――他に誰か協力者がいたような口ぶりだ。

 僕らを警戒させる虚言の可能性も捨て切れない。だが、良く考えてみると何かおかしい。

 そもそも、ここにいる童女に道祖神を消すなんて事が出来るとは思えないのだ。

 それが出来るのならば、行方不明に留まっている人間がいる事実に引っ掛かりを覚えてしまう。それに、僕を厳格に迷わせるだけで神隠しに遭わせなかった。

 何故、神隠しではなかったのか。それが出来なかった理由とは何か。どうして、僕らが来る事が予測されていたのに何の手も打っていなかったのか。

 そう疑問を持った僕は敢えて少女にこんな質問を投げかける。

「なら、この後はどうなる筋書なのか教えて貰えますか? 僕らに発見されるのも全て分かっていた事なんですよね? それとも――恐れているからの時間稼ぎですか?」

 志津先輩の事を考えるならば、早急に決着を着けたい。

 だが、目の前にいる少女について何一つとして情報が存在しない。何故、こんな事を引き起こしているのか。その根底の部分――問題である筈の目的すらも見えない。

 そこが分からなければどうしようもないと言うのに……。

 そもそも、この童女が一連の神隠しの元凶だと仮定するならば、被害者を狙った理由は一体、どのような理由からなのだろう。別にそんな事件を起こす必要性が見当たらない。

 失踪事件にしても共通点は女性だけ――他にはそれといって類似点はない。

「あら、随分とそちらも余裕だよね。私からすれば、時間なんて残されてないと思うよ?」

「そう。でも、私達の勝利条件はお前が何か。その存在を解き明かす事――それで終わりよ。お前程度の底の浅さを見極めるのに大した時間は必要ないわ」

 魔女先輩の言葉を信じるならば、目の前で笑うこの童女の正体を解き明かす事。それこそが、今回の一件を本当の意味で解決する道に辿り着く唯一の方法であるということだ。

 けれども、僕が年表と家系図を見比べた限り、目の前の少女。まだ年端もいかない年齢で生贄にされた人間は存在していなかったと記憶している。

 つまり、それが意味するのは生贄にされた人間の中にはいなかったという事。

 だからこそ、分からない。どうして、わざわざ子供の容姿にこだわっているのか。

 神籬の行っていた祭に関係しているとするならば、明らかに不自然だ。憎しみを持って形を取るというのなら、生贄にされた当時の姿になるのが筋であろう。

 いや、待てよ。もしかして、その仮説こそがヒントなのでは?

「そもそも、神籬は自ら進んで生贄となる道を選んだ。だとすれば、それ以前にも生贄の儀式が行われていても何ら不思議ではない。ただ、それを復興させただけなら――」

 前提が違えば、過程も大きく異なって来る。

 村で行なわれていた儀式を神籬に押し付けた。その代償に地位を約束した。なら、その儀式はどこから始まったのかについては考えていなかった。

 生贄。儀式。そんな物が突然、始まりそれを一つの一族に押し付けるだろうか。

 そんな僕の疑問を含んだ言葉に少女の顔色が一瞬だけ変わったのを見逃さなかった。

 それが意味しているのはつまり――その可能性の肯定。

「図星ですか。となれば、貴方は……」

 僕がそう言いかけると何かに脇腹を衝突されたかのように身体が宙に浮いた。

 そして、壁に強く叩き付けられ、肺の中の空気を全て吐き出してしまう。

 その際に背中を強打した為なのか、上手く呼吸をする事も立ち上がる事も出来ず、僕は地面に蹲り、もがく事しか出来なかった。

 少女はそんな僕をまるで虫けらを見るような目で見下してくる。

「だったら、何? 私がどれだけ酷い目にあったのか何も知らない癖に――知った様な口をたたかれると虫唾が走るんだけど。分かる? 暗く湿った暗い地下で飢えを凌ぐ為に虫を食べる人間の気持ちが……ゆっくりと手の先から自分が死んでいく感覚がさ!」

 そんなもの、僕が知る筈がない。それに、何があったかなんてモノに興味はない。

 それは全て終わった事。過ぎ去ってしまった時間だ。もはや、結果でしかない。

 だが、そんな言葉すらも僕の口からは発する事が出来ない。ただ、空気が漏れるだけ。

 僕は切れた頬から垂れる血を拭い、なんとか立ち上がると少女を睨みつけた。

「ふふふ、面白い事を言うのね。ついつい、笑っちゃったじゃない」

 だが、僕が息を整え、言葉を発するよりも先に魔女先輩が童女を挑発する。

 どういう意図があるのかは分からないが、こういう時の魔女先輩には不安しかない。

 そして、その予想通り魔女先輩はまるで正論を語るかのように少女を煽り始めた。

「稚拙ね。今も昔も理不尽がこの世界には満ち溢れているの。それを皆が皆、見て見ぬふりをする事でなんとかやってきた。って、貴女にはまだ早過ぎたかしら?」

 そう言い切ると、魔女先輩は一拍開けてからこう続けた。

「簡単に言うと、社会っていうのは持てる人間は更に貯え、持てない人間は奪われ、虐げ続けるの。それが生まれに支配された身分社会。まぁ、競争社会になってもそれは何一つ変わっていないんだけど――何が言いたいのかと言うと、貴女だけが例外じゃないのよ」

 確かにその言葉通りだと僕は思う。

 だけど、何故だろう。少しだけ少女の怒りとは方向性がズレている気がした。

 確かに彼女の憎しみは生贄にされたという事が発端である事には疑う余地はない。

 しかし、それは起因でしかなく、過程でも結果ではない。彼女がこうなるに至った理由は別にあるのではないか。僕にはそう思えてならないのだ。

 そういう時代だった。そんな簡単な言葉では片付けられないもっと根深い何かが――。

「そうね。確かに理不尽な時代だったかもしれない。食うに困って冬に凍死しかけた事もあったから。でもね。それでも私は幸せだったの。ちっぽけな幸せだったかもしれないけどね。でも、そんな安っぽい。吹けば飛ぶような幸せでも……それを奪う権利があるの?」

 魔女先輩と少女の間で言い争いは激しさを増し、火花を飛び散らせる。

 現状、彼女達の眼中に僕はいないのか、蚊帳の外といった感じだ。

 そんな状況に思わず、苦笑いを浮かべてしまう。

 ただ、一つだけはっきりと見えてきた事もある。

 少女の魔女先輩に対する叫びは本心から発せられるものという事だ。

 でなければ、あんな風に怒りで拳を震わせ、唇を噛み締めたりなどしない。

 そんな少女の姿はどこか哀れで見た目通りのか弱さを感じさせる。

 見た目通りの少女。ただ、それだけ。それ以上でもそれ以下でもない。

 それでも、少女のやろうとしている事には一切の同情の余地はない。

 けれども、どういう訳だろう。その少女の姿にどこか夕先輩が重なって見えてしまう。

 ささやかな幸せの中で同じように生きていた夕先輩。

 志津先輩の話を聞く限りでは、家の中にも居場所が見いだせなかった。そんな中で自分が自分でいられる場所を求めて懸命に足掻いていた。

 そして、ようやく見つけかけるも、神隠しによって誰からもその存在を忘れられる。

 生き方だけでいうのなら、まるで少女と夕先輩は鏡写しのようではないだろうか。

 だからだろう。僕はこんな言葉を少女に対し、漏らしてしまう。

「ないですよ。それを奪っていい権利なんて誰にもない」

 魔女先輩は頭を抱えると、呆れ果てたと言わんばかりに白い目を向けて来る。

 予想外だったのだろう。僕が少女の行いを肯定するような言葉を吐いたのが――。

 だが、別に僕としては少女の考えに共感も同調もしていない。

 客観的に少女から得た情報を読み解き、想いを在りのままに語ったに過ぎないのだ。

 何故なら、それを否定する事は夕先輩が生贄になるのを当然と認める事になる。

 だからこその言葉であり、それ以上の意味はどこにも存在しない。

「なら、邪魔しないで。これは私の復讐なの」

「断ります。そんな、馬鹿げた事を止めない訳がないでしょう」

 少女の言葉に間を開ける事なく、僕は即答する。

 確かに少女の思い。その怨みの根深さを考えれば、そこへ行き着くのも仕方がない事なのかもしれない。けれども、根本に存在する部分がそもそも間違っているのだ。

 否定されるべき事。いや、否定されなければならない事まで僕は肯定するつもりはない。

 ただ、その僕の考えは少女にだけでなく、魔女先輩にすら伝わっていないようだった。

「貴方……さっきから、言っている言葉がコロコロと変わっているように思えるのだけど」

「そうですか? 僕としてはまったく、言っている事は変わってないと思いますけどね」

 皆で背負う筈だった物を一人に押し付ける。

 それが人柱であるというのであれば、僕だって全てを恨むだろう。押し付けた連中を。

 何故なら、自分一人の犠牲と引き換えにのうのうと生き続けるのだ。自分の為でもない。どうでもいい人間のモノまで背負わされるなんて、御免だ。

 どうして『』。こう感じた所で仕方がないという物だろう。

 しかし、だからこそ少女の行動は間違っていると言える。もしも、彼女の死因が本当に人柱であり、そこに全ての原因があったとするならば……。

 僕の考えをようやく、理解したのか魔女先輩は呆れたように溜息を吐く。

「なるほどね。確かに貴方が言いたい事も分からなくもない。けど、アレは人じゃない」

「本当にそうでしょうか。僕には――見た目通りの子供にしか見えないのですが」

 頬を何かが掠ったのか、赤い筋が出来上がり、一滴の血が流れ落ちる。

 何が起こったかは分からないが、この場でそのような事が出来るのは少女だけ。この傷も僕が喋るのを止める為に少女がやったのだろう。

 しかし、これではっきりした。

 少女にはまだ迷いがある。人間らしさがまだ残っている。

 何故なら、僕を殺そうという殺意が一切、見えないのだ。まるで、躊躇しているように。

「だって、さっきから僕を殺さないように手加減していますよ。わざわざ」

 少女の力があれば、有無を言わさず僕を殺せた筈なのだ。

 最初の交渉が決裂している時点でもはや、落とし所なんて存在しない。

 少女が折れて除霊されるか、僕らを呪い殺すかの二択しかないのだ。

「そう。そんなに死にたいなら、殺してやるよ」

「そうですか。やれるものなら、やってみて下さいよ。出来るのなら――ね」

 これは無謀な賭けだ。自分の命を担保にしたバカな行為だ。

 でも、なぜだろう。彼女がソレを行えるようにはその時の僕には思えなかった。

 赤い血が飛び散る。手に、足に、顔に。細かい切り傷が出来る。

 だが、どれもが致命傷には程遠い。舐めれば治る。そんな小さな傷。とても小さな。

「うるさい。うるさい! うるさい、うるさい、うるさい、うるさーい!」

 少女が何をしているのかは検討も付かない。

 ただ、身体を何かが掠り、傷が出来上がる度にそこから何かが入って来るのか、気分が悪くなり、最終的には立ちくらみを覚える程にまでなっていた。

「どうしたんです? 僕は――――」

「死ね。死ね。みんな死ね! こんな世界なんて、壊れてしまえ!」

 僕が言葉を言い終わるより先。何かに突き飛ばされたのか、身体が宙を舞う。

 そんな宙を舞う時間がとても長く感じる。

 これは流石に煽り過ぎたか。そう思いながら、目を閉じて痛みが襲ってくるのをじっとまっていたのだが、一向に衝撃も痛みも襲ってこない。

 その事を不審に思い、僕は目を開けると僕は地面に横たわっていた。

 何が起こったのか分からない。ただ、顔を上げるとそこには魔女先輩の驚く顔と膝を着いて身体を震わせる少女の姿があった。

「違う。私はアイツらとは違う。私は……私は……」

 もしかして、僕が地面に叩き付けられる寸前で少女が助けてくれたのだろうか。

 咄嗟に思い止まり、どんな方法を使ったのかは分からないがそれを回避しようとした。

 それは紛れもなく、彼女がギリギリの所で踏み止まろうとしている証明ではないか。

 少女に本当は何があったのかなんて、僕には検討も付かない。

 彼女の死因が生贄だったのか、殺人だったのかを判断する術はどこにもない。

 一つだけ彼女の言動と行動から見えて来たのは彼女にとって、自分は『村の人間の手によって殺された』と考えているという事だろう。

 地下に閉じ込め、人柱にするという方便で行なわれた緩やかな殺人。いや、拷問か。

 即身成仏になって世界を救いたいと思うような坊主ならまだしも、ただの幼い子供でしかなかった少女にそれを求めたとすれば、それは酷すぎる。

 そんなものは人柱とは呼べない。ただの村全体で行なわれた殺人だ。

 魔女先輩はそんな僕の気持ちを感じ取ったのか、僕に手を差し伸べながらこう告げる。

「でも、それはもしかしたらの話よ。あれがどういう存在かなんて誰にもわからない」

 僕はその手を掴むと、なんとか立ち上がる。

 確かに魔女先輩の言う通り。少女にあった事など既に過ぎ去ってしまった遠い過去の一部であり、それはもう誰にも確かめる事は出来ない。

 けれども、それは全て分からないだけであり、ある程度は察する事なら出来る。

 僕が知る限り、明治以前の時代であれば仕事から逃げれば家族諸共、村八分。

 どちらを選んだとしても、待ち受けるのは辛い現実。死か拷問かの二択でしかない。

 自ら志願した訳でもない人間であったとしても、それを断る事は出来ないのだ。

 そんな物、村全体による殺人。緩やかな拷問による殺人だ。

 ただ、これは全て仮説でしかない。ただ、その一端は見え隠れしている以上、その事に関して何も感じるなと言う事には無理がある。

 それを感じ取り、何も感じないのならば人ではない。

 特にその時代には人身売買も行われていたのだ。家族に売られた可能性も考慮するとすれば……いや、これ以上は深く考えるのは無意味というものか。

「そうですね。そうですよ。全部、もしもの話です。でも、彼女を理解しようという姿勢を見せなければ、何も解決しないと思うんです。彼女が何を思い、どうしてこのような事をしようとしたのか。それを知って、初めて解決すると思うんです」

 彼女の行動――復讐を行うという事に関しては否定する。

 しかし、少女の砕け散ってしまった心に関してはどこか理解を示してしまう。

 赤の他人。ただ、分かったつもりになっていると言われれば、それまでだ。けれども、少女の辿った道。その結末が悲劇的であった事には間違いはない。

 他人の身勝手な罪を一身に背負わされ、人柱に仕立て上げられたのだとしたら、

「あの子はただ、他人の身勝手によって殺された。そんな死にざまが許せなかった」

 それが普通の反応だと僕は思う。僕だって、そういう考えに至ってしまうだろう。

 少女の行動原理は復讐と口にしているが、僕はそうは思えない。むしろ、そんな複雑な事情によるものではなく、もっと単純な――。

 気が付くと僕は再び床に転がっており、天井を見上げていた。

 また、少女によって吹き飛ばされたのだろう。全身を打ちつけたのか、痛い。

「黙れ! 黙れ! アンタ達に私の何が解るのよ。私は、わた、しは……」

 こうして、光の差し込まない地下室に横たわり、剥き出しの冷たい地面を感じると、とてつもなく心細さに苛まれてしまう。

 怖い。こんな場所に一瞬たりとも、居たくはない。暗闇で自分が消えてなくなりそうだ。

 そんな思いが心の奥底から込み上げてくる。こんな地獄のような場所に数日間も閉じ込められてしまったとすれば、気が狂ってしまいそうだ。

「やっぱり、こんな場所に閉じ込められ、餓死させられるなんて僕には耐えきれない。こんな場所で一人、死んでいくなんて僕には無理だ。辛過ぎる」

 今の時代ならば、その恐怖は静的恐怖であると言い切れる。だが、それは科学という名の技術進歩によって様々なモノが解き明かされたからに過ぎない。

 少女の生きた時代は静的恐怖と動的恐怖が同時に存在し、それらが怪異や妖怪として恐れられていた。そして、それが世界には満ち溢れ活き活きとしていた。

 そんな別方向の二種類の恐怖心によって物音一つ一つが全く違ったモノに感じられ、少女を少しずつ蝕み、追い詰めていった。

 それが生きたい、帰りたいと思えば思う程にジリジリと精神を削ったとすれば、

「魔女先輩、やっぱり僕には彼女が生贄にされたのを仕方がなかったとは思えない。そもそも、時代が時代だったとしても、一人に全てを押し付けるのは間違っていますよ」

「そう、それが貴方の考えなのね。否定はしないわ。でも、肯定もしない」

 いつになく、真剣な言葉だった。まるで、別人が喋ったようにも聞こえてしまう。

 でも、それでいいと思う。魔女先輩には魔女先輩の考えがある。

 僕は人間であり、魔女先輩は怪異。

 それぞれにそれぞれの立ち位置があり、それぞれの考え方がある。常識がある。

 魔女先輩はきっと、少女の事をただの怪異。いや、怨霊としてみているのだとすれば、僕は人として少女を見ようと思う。それが僕にしか出来ない事の筈だ。

「何よ。さっきから、ペラペラペラペラ、分かった様な口をたたいて……。肯定? 否定? 別に私は誰かに理解されたいなんて思ってない。私はただ……ただ……」

「辛かっただけ。その気持ち、解りますよ。――痛い程に。だって、昨日まで一緒だった人間に裏切られ、こんな場所で孤独と絶望の中で死んだんですから」

 今回の一件で分かった事がある。いや、初めて実感したというべきか。

 誰かを本当の意味で失うという事がどういう事なのか。そして、孤独とはどれ程までに辛く悲しい状態であるのか。

 その痛みは本質的には違う。けれども、他人の行動による痛みであるという点は同じだ。

 自分の行いが原因ではなく、第三者の行動の結果による無情な結末。

 どうしようもない現実にただ振り回される事しか出来ない。そんな弱い人間だ。

「だからこそ、間違っている。君のやっている事は復讐なんかじゃない」

 夕先輩の神隠しには僕も思う所がある。憤りも感じている。

 だが、僕はその憤りを飲み下そうとしている。何故なら、それを振り下ろす場所がどこにも存在しないからだ。だから、堪えようとしている。

 結局の所、少女と僕らの違いはそこなのだ。

 振り下ろす事を良しとする事が出来るか。否か。

 そんなたった一つの選択。その程度の違いが僕らを隔てている。そう思う。

「ただの八つ当たりだ。復讐なんて高等なものなんかじゃない」

 積み重なった怒り、恨みを飲み込む事は難しい。

 少女の選んだ選択肢はとても簡単なものだ。だが、それは少女を生贄に捧げた連中――彼女が最も恨んでいる奴らと同じことをしようとしているに他ならない。

 身勝手な理由で他者を巻き込む。結末を受け入れられなかったから。

 まぁ、そもそも少女の時間と僕らの時間が違うのだから、そこに至るまでの経緯もそこに至るまでの葛藤も僕らとはまるで違う。

 だからこそ、同じ立ち位置で考える事。それ自体がおこがましいのかも知れないが……。

「そうする事によって、何か解決するんですか。晴れるんですか?」

「晴れる訳ないじゃない! 何も変わらないわよ。何一つ!」

 上半身を起こすと、少女は積年の恨みの相手を見るかのような目で僕を睨んでいた。

 少女だって、理解している。ただ、納得していないだけ。

 恨むべき相手がどこもいない。だが、胸には黒いモヤモヤが存在し、それを向ける相手を無意識の中で探し求めている。だから、それを自分を否定した世界へと向けた。

 自分から全てを奪い去って成り立ったこの町。その未来へとその怒りを、恨みをぶつける事によってなんとか自分という存在を保とうとしている。

 それこそが、少女の行動原理であり、駆り立てる原動力なのだろう。

「うるさい。うるさい。うるさい! 私が犠牲になったから、今がある。なら、私がお前達をどうこうしようが私の勝手だろうが! 同じ苦しみを与えることの何が悪い!」

「それで、自分と同じように身勝手な理由で無関係な人間を傷付けるんですか?」

 僕の言葉に少女は押し黙ってしまう。

 やっぱり、少女自身もどこかで分かっていたのだろう。自分の行為が間違っている事を。

 だからこそ、僕に対してどこか力をセーブしていた。本当に殺すつもりがあったのならば、僕なんてひとたまりもなかった筈なのに……。

「それでは、君をこんな目に遭わせた連中と同じなんじゃないですか?」

「違う! 私は……あんな奴らと一緒なんかじゃない。あんな奴らと……」

 言葉が続かない。それはそれを認めたのも同然の反応だ。

 後、一押し。それで少女も踏み止まり、全てが解決する。

 そんな希望が見え始める。だが、次の瞬間には事態が一変する。

『憎い。憎い。殺せ。殺せ』

 どこからともなく、そんな恨めしい言葉が聞こえてきた。

 それも一人や二人ではない。この地下室のそこらかしこからだ。

 それと同時に青白く発光する何かがどこからともなく現れ、少女の爪先からゆっくりと侵食を始め、その身体を飲み込んでいく。

 それがどのような事を意味しているのか。それは僕には分からない。

 ただ、その光景を目にした魔女先輩は静かに僕と少女の間に割って入った。

「いや……いや! やめて! 私は……私は!」

「なんなんですか! あれ! どうして……急に……」

 終わりかけていた。彼女を説得できる寸前まで来ていた。

 それなのに、どうして……こんな方向へと流れが変わってしまったのか。

 僕のそんな戸惑いに対し、魔女先輩は一言こう告げる。

「ここで死んだのは彼女一人じゃなかった。それだけの話よ」

 その言葉が意味しているのは彼女以外もここで大勢死んでおり、彼女一人だけが救われるという事を良しとしなかったという事だ。

 足の引っ張り合い。道連れ。

 僕はその現実に何も言う事が出来なかった。ただ、見ている事しか出来なかった。

「こうなったら、もうただの怨念の塊よ。会話なんて出来やしない。ただ、引き摺り込む事しか頭にない最悪な害悪よ……好みじゃないけど、仕方ないか」

 神にすら捧げられる事なく、人柱という建前の犠牲になった人間達。

 少女はその中で一番、想いが強かっただけ。だから、前に出られた。

 しかし、その想いも弱まれば、取って代わられる。飲み込まれる。ただの怨霊に戻る。

 単体ではなく、集合体。それが、少女の正体。

「殺す。殺す! 殺す!」

 人の声とは思えないおぞましい声でそう叫びながら、襲い掛かってくる。

 だが、そんな少女を目の前にしても魔女先輩はなんでもないかのように、その長く艶やかな髪を掻き上げ、余裕を見せるとどこからか一冊の古めかしい本を取り出した。

 そして、その表紙に手を置き、その中の一ページを開くと魔女先輩とは違う。どこか懐かしさのようなモノを覚える綺麗な女性の声が響き渡る。

『――夢幻の如く、儚き空虚。陰陽たる両儀より欠落し、蠢く者共』

「そんな白紙の本を私に向けて何が出来る? そんな子供騙しは通用しない!」

「そう思う? けど残念なことに、本当に貴女がただの怨霊なら、後はこれだけで全部終わるのよ。まあ、……どっちにしても、少しはお腹の足しになるでしょう」

 魔女先輩の言葉に、何を見たのか少女の顔がみるみると凍り付いて行く。

 少女の視線の先にあるのは魔女先輩の持つ古めかしい本。ただ一つ。――つまり、そこに何かがあるのだろうが、ここからではそこに何がかかれているのか全く分からない。

「お、お前……一体、なん……な……」

 少女が言い切る前に、魔女先輩が頬を釣り上げると本を閉じようとする。

 だが、それに反してそのページの隙間から黒い靄のようなものが溢れ始め、それがまるで手のような形を取り、本をこじ開ける。そして、大量の黒い腕が放出された。

『――未だ何も書かれぬ白にしても、既に常世の如く何処までも黒い』

 黒い腕は一瞬で、一つ一つの中にも幾つもの枝を作り、上下左右の全てを埋め尽くすかの如く、大きな濁流のような不吉さをもって、少女へと襲い掛かった。

「いやっ、来……っ、やめ、や、ぁ――。―――――」

 まるで、立場が逆転したかのように恐怖に凍る声で少女は叫び、抵抗を試みようとするが何もかもが無駄であった。それすらも、無意味。

 剥ぐように、削ぐように、切るように、抉るように、黒い腕は目の前の全てを飲み込んでいく。少女もすぐに埋もれ見えなくなり、声も無くなった――。

 それを確認した魔女先輩が本を閉じると同時に、その黒い腕もまた、完全に消滅した。

 後に残ったのは、しんとした無音。ある種の虚無感だけ。

「……本当に、三行程度の内容しかない雑魚怨霊って、ついてないわね……期待外れだわ」

 魔女先輩は再び、持っていた古めかしい本のページを開き、何やら確認すると落胆したかのように地面へとへたり込んだ。

 終わったのだろうか。先程までいた少女の姿はどこにもない。

 この空間への嫌悪感は残っているが、それも段々と薄れて来ている。

「終わったのよ。直に全て元に戻るわ。行方不明者も現れる筈よ」

 魔女先輩はそう告げると、そっと横へと避ける。

 すると、そこには地面に横になり、眠っている夕先輩の姿があった。

 だが、さっきの事もある。本物である保証はどこにもない。

 僕は確かめる為にゆっくりと眠っている夕先輩へと歩み寄ると、恐る恐る手を伸ばす。

 頬を触ると温かい。体温の温もりがある。生きている。生きていた。

「どうやら、儀式が途中だったから助かったみたいね。でもね。今後、目を覚ますかは分からないわよ。それに、彼女についての奪われた記憶だってもう一生、元には戻らない」

「そう……ですか。元に戻る事は一生、無いんですか……」

 覚悟は出来ていたが、実際にそう言い切られるとやはり来るモノがある。

 神籬夕には帰る場所はどこにも存在しない。なら、いっその事ここで――。

 志津先輩は神籬夕が生きている事を知らない。

 今なら、助けられなかった事にしても何ら問題もない。

「私なら、神籬夕を消せるけどどうする? 彼女を私が食う事になるけど」

 魔女先輩の提案に僕はすぐにはどうするべきか、解らなかった。答えられなかった。

 生きていて欲しい。確かに、そう思う気持ちはある。けれども、それは僕の身勝手なのではないかとも思ってしまうのだ。目を覚ました時に傷付くのは僕ではない。彼女なのだ。

 早く決断しなければ志津先輩が現れるかも知れない。

 僕は迷う中、僕はそっと夕先輩の頬を指でなぞった。

 短い時間ではあったが、僕の中には夕先輩との記憶は確かに存在している。

 他の誰が忘れても僕の中には確かに楽しかった時間が残っている。

 やっぱり、僕は卑怯だ。この答えすら、逃げなのかもしれない。

「                           」

 その回答に呆れたかのように魔女先輩は深い溜息を吐いた。

 魔女先輩の言いたいことは分かっている。この行動の先に何があるかも。

 しかし、これは今の僕が考えに考え抜いて出した精一杯の結論だ。いや、もしかしたら答えではなく、ただ先延ばしただけなのかもしかないのかも知れない。

 だから、魔女先輩から目を逸らしてしまったのだろう。今も迷ってしまっているから。

 逃げるようにもう一度、夕先輩を確認すると、そこである事に気が付いた。

 夕先輩の手の中に何かが握り締められているのだ。

 僕はそれを確かめる為に腰を下ろすと指を一本ずつ開いて行く。

 そうしていると、背後の石段から誰かが駆け下りて来る足音が聞こえてきた。

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