第3話

 結局、部室に訪れた後輩はその後、僕の前に姿を現す事はなかった。

 その為、完全に彼女の事など僕の頭からは消え去っており、当たり障りのない有り触れた日常。空虚なる毎日を淡々に送っていた。だが、それも突然に崩れ去る。

 教師からの突然の呼び出しだ。名指しでの。

 問題を起こした記憶がないだけに何事かと驚いたのだが、呼び出された教室にいたのは教師ではない。警察の人間。だが、警察の厄介になるような事など身に覚えなどない。

 苦笑いを浮かべながらも、席に座ると警察の人間が事情を話し始める。

 簡単にまとめると、どうやら先週、僕の下に訪れた件の後輩が行方不明になったらしい。しかも、どうやらそれだけではないようだ。

 最近、噂になっていた連続失踪事件――その六人目の被害者の可能性。

 一応、ただの家出の線もあるので並行しての捜査なのだろうが、はっきり言って僕に話を聞かれた所で何も答えようがない。

 念の為に行方不明者の写真を提示されるが見覚えどころか、面識すらない。

 そもそも、共通点すらもこの写真からは見えないのだ。本当に全部の失踪者が事件として一つに繋がっているならば、無差別なのではないだろうか?

 もしも、彼女の言っていた呪いが事実ならばの話になるのだが……。

 当然、こうなれば彼女と会った際にどんな話をしたのかという流れになる。

 けれども、それを真っ正直に答える程、僕はバカではない。呪いについて相談され、それについて応えていましたなど答えればただの変人奇人にしか思われない。

 つまり、話せる事は何もない。適当にはぐらかし、ここは言葉を濁させて貰う。

「すいません。彼女とは一週間前が初対面で何を話したかまでは覚えていません。この辺りの風習について相談されたんだと思います。僕からすれば、彼女が何故、旧校舎で書庫の整理をしていた僕の所へ来たのかは分かりません。……そこは偶然としか」

 そうして、幾つかの当たり障りのない質問に答えると、無駄に疲れるだけの事情聴取から解放され、中のエアコンの効いた部屋とは違う熱気の籠った風が僕を襲った。

 時間を確認すると、既に放課後。結構な時間を取られていたらしい。

 外からは部活の掛け声が聞こえない。恐らく、行方不明の一件を重く見て、自粛しているのだろうか? こんな事なら、昨日の内に片付けを終わらせておけば良かった。

 溜息を吐き、廊下を見渡すと壁に寄りかかり、推理物の単行本を読んでいる三年がいるだけで他に人影はない。僕の次に事情聴取をされるのに時間を潰していたのだろうか。

 本を読んでいるのを邪魔するのも悪いし、さっさと帰宅してしまおう。

 そう考え、邪魔にならないようにこの場を退散しようとする。だが、彼女の前を通り抜けようとすると、彼女は本を閉じ、顔を上げると僕に声をかけて来た。

「やれやれ、随分と時間を喰わされたようだな。葛城(かつらぎ)百花(ももか)君。ずいぶんと待たされてしまったよ。まぁ、私が勝手に待っていただけなのだがな」

 ここで待っていれば確実に会えると分かっていた。ならば、違いますと逃げる事はまず無理だ。逃げた所でもしも、教室へと訪問されたら嘘がばれてしまう。

 そうなれば何故、誤魔化したのかと余計に面倒な事態になってしまうのは明らか。

 これ以上、面倒事に巻き込まれるのは御免なのだが、こうなっては仕方ない。

 僕は深いため息を吐くと、立ち止まり三年の方へと振り返った。

「そうですね。僕としては疲れているので早く、帰宅したい所なのですが――神籬先輩」

「そう、構えてくれなくてもいい。時間は取らせないつもりだ。ただ、深山君と君がどんな話をしたのか興味があってな。良ければ、教えては貰えないだろうか?」

 深山とは恐らく、行方不明になった後輩。三年の神籬(ひもろぎ)生徒会長と個人的な付き合いでもあったのだろうか? その真剣な眼差しを見る限り、興味本位という訳ではないのだろう。

 まぁ、彼女達がどのような関係であったとしても僕には関係ない。遊びではなく、何か事情があるのならば、ある程度は話してしまっても構わないか。

「分かりました。ただ、立ち話で話すにも内容がアレなので、場所を移してしまっても構いませんか? それでも構わないでしたら――」

 まだ、夕食の時間までには余裕がある。

 腰を落ち着けて、じっくりと話すのは無理だとしても、周りの耳を気にすることなく大まかな話の流れを掻い摘み、話す事は不可能ではない筈だ。

「構わない。ただ、話してくれるのであればだがな」

「では、場所を移しましょうか。――そうですね? 行きつけの喫茶店なんてどうでしょうか? 隠れ家的ないいお店を知っているんですよ」

 そうして、場所を喫茶店に場所を移すが、期待通りに店内には誰もいない。

 静かなメロディと共に、店長の珈琲豆を挽く音が店内に響いているだけだ。

 マスターに軽く挨拶をすると、僕はいつもの場所へと座り、手を挙げて注文を開始する。

「えっと、僕はいつもので――先輩は確か、コーヒーが飲めないからココアでしたよね?」

 自然と、そんな言葉が僕の口から洩れる。

 ここに神籬先輩を連れて来るのは初めての筈なのに自然と出てしまった言葉に、自分でも戸惑いを覚えてしまう。どうして、苦いのが苦手だと思ってしまったのか。

「おや、そうやって決め付けるのはあまり感心しないぞ。マスター、私はコーヒーのブラック。それから――そうだな。このケーキセットを貰おう。マスターのお薦めでお願いする」

 何だろう。既視感が頭から離れない。

 先輩と直接、話をすること自体が初めての筈なのだ。ここに連れてくるのも先輩は初めて。メモ帳にも記されていない。そんな事は絶対にありえない筈なのだが……。

 そもそも、ここに連れて来た事があるのは後輩の四之宮くらい。きっと気のせいだろう。

「どうした? 私が君の事を呼び止めたのだから、ここの会計は私が持つ。君が私に気を使う必要はないのだぞ。しかし、なかなかにいい雰囲気だな。この店は」

「喜んで貰えた事は光栄ですが、あまり紹介はしないで下さいよ。隠れ家的な店ですし、あまり学生が来るとうるさいじゃないですか。それから、今回は余分な注文は遠慮します。ここのチーズケーキは美味しいので是非と言いたい所なのですが、妹の腕によりをかけた夕食も近いですから無理をすると、ね」

 間食して夕食を残したものなら、妹が怒り狂ってしまう。それに、アイツが時間をかけて手料理を振舞ってくれているのだ。それなりの礼儀というものがある。

「そうか、君には随分と兄思いの妹がいるのだな。少し、羨ましいよ」

「そうでしょうか? 苦手な食べ物は多いですし、洋菓子より和菓子派。嗜好が正反対なので結構、そういう所でぶつかってしまいますからその気持ちは良く理解出来ないんですね。まぁ、あるからこその悩みなのでしょうけど……」

「確かに違いないな。持つ者の気持ちは持たざる者には分からない。だが、逆もまた然り。それ故に人が他人を真には理解する事は不可能なのかもしれないな」

 先輩の言う通り。他人を理解する事は不可能だし、僕はそれを諦めた人間だ。

 理解されないのなら、壁を作ればいい。理解されない事を理解してしまえばいい。

 友人もいないが、今の生活は意外と気に入っている。静かで平穏。他人と自分との見ている世界の違いを理解するまでには時間はかかったが、それも既に過去の話である。

「そうかもしれませんね。まぁ、前座はこの辺りでそろそろ本題に入りましょう。確か、深山さんについて話が聞きたいという事でしたよね。でも、残念ながら彼女とは一度、話しただけなので殆んど何も知りません」

 僕はそう前置きをすると、懐から一冊の手帳を取り出した。

 僕が毎日、記録している日課。日ごろの出来事を大まかに記載している。

 それを頼りにもう一度、記憶を遡っていくのだが、深山さんが僕の下へと訪れたのはあの一度だけ。何箇所か不自然な記録があるが、それは今の話には関係ないか。

「なるほど。しかし、君の話が事実なら接点はなかった。これに間違いはないのか?」

「まぁ、そうですね。接点はなかったにしろ、彼女が求めていた情報は僕を訪ねる理由になる。ただ、僕は彼女ではないので何を本当に知りたかったまでは推測以外で語れませんけどね。残念ながら探偵ではないのでその推理は先輩にお任せします」

 確かに先輩の指摘する点は僕も気になっている点ではある。

 郷土研究部が旧校舎にある事を知っている人間は少ない。そして、僕がそこにいる事を知っている人間はもっと少ないだろう。両手でも余るかもしれない。

 ただ、これに関しては一人。候補がいるので後で確かめればいい。恐らく、彼女だ。

「簡単に掻い摘んでしまえば普通の人間なら鼻で笑うような抽象的かつ、あやふやな物とでも言っておきましょうか? だから、彼女も身内には話せなかったのかもしれませんね」

「なるほど。随分と言葉を濁して遠回りな表現をするのだな。それではまるで相談されたというよりも、話し相手になっただけのような口ぶりにも聞こえるぞ」

「確かにそうかもしれません。何分、僕もまだまだ未熟ですから」

 相談には答えられず、ただ話を聞いただけ。

 その神籬先輩の言葉は少しだけ、僕の心を締め付けた。

 もう少し、真面目に受け答えしていればこんな事にはならなかったのではないだろうか? あの時と同じ失敗を繰り返さずに済んだのではないだろうか?

 いや、それはないか。ないと信じたい。人は他人を真に理解出来ないからこそ、善意で他人を傷付けてしまう事もある。そこに悪意がないからこそ、さらにたちが悪いのだが。

 僕は深く溜息を吐くと、こう続けるのだった。

「彼女も僕に対しては相当、言葉を選んでいましたからね。ただ、一つだけはっきりと言えるのは彼女が何かに怯えていたという事でしょうか。何かまでは分かりかねますが」

 その瞬間。話を聞いていた神籬先輩の表情が一瞬、歪んだのを僕は見逃さなかった。

 なるほど。興味本位ではないのならば、彼女について思うところがあるという訳か。

 そんな事を考えていると、神籬先輩はこんな言葉を洩らした。

「もっと私が真剣に彼女の事を見ていれば、こんな事にはならなかったのだろうか?」

「さぁ、どうでしょうかね。全ては結果論ですから。僕は先輩が彼女を――深山さんを見ていたとしても何も変わらなかったと言っても、その言葉は慰めにしかなりませんしね」

 ただ、僕個人としてはその行動にはなんら意味はないと思っている。

 あの時の彼女は確かに呪いや怪異といったものを信じていた。怯えていた。

 何故、そんな物を彼女が信じるようになったのかは僕には分からない。興味もない。

 その事に対して一つだけ言えるのは、怯えている彼女にとって最初からそのようなモノを信じていない住人の言葉は決して届かないという事ではないだろうか。

 人間は見えないモノは信じられない。だが、そういったものを証明するのは不可能だ。

 存在証明は易くとも、否定は困難。難しい世界である。

「君は随分と彼女の事を知っているように話すのだな。どうして、彼女とはあの時が初対面と言っている君がそんな風に断言できるのか教えて貰えないか?」

「理由、ですか? ただ、知っている状況を先入観に囚われず、客観的に繋ぎ合わせて話しているだけの事ですよ。彼女の発言を踏まえた上で」

 怒らせてしまったのだろうか? 神籬先輩の視線が僕を鋭く射抜いている。

 けれども、こればかりは曲げられない。神籬先輩の後輩――って名前聞いてなかった。

「そう言えば、先輩は何と呼べばいいですか? 先輩と呼ぶのも他人行儀ですし」

「神籬志津――そうだな、志津でいい。しかし、君は先程から相変わらずの他人行儀だな」

 その言葉に僕は思わず、苦笑いを浮かべてしまう。

「残念ながら、興味がないことには関心が持てない人間なもので……。そもそも、先輩とは関わり合いなんて殆んどなかったですからね。それにしても、神籬志津とは珍しい名前ですね。なるほど、先輩って意外といい所のお嬢様だったりします?」

 特徴的な名前ならば、尚更そこに意味がある。

 特に氏名は郷土や文化と非常に密接に繋がっているのだ。だからこそ、こういう物事への考察は面白い。特に神籬のような意味のある苗字ならば――。

「面白いか。珍しいとはよく言われるが、そんな風に言われたのは初めてだよ。だが、そういう君の百花という名前も男性にしては珍しいだろう? 本来、女性名の筈だが」

「その通りですよ。でも、そういう事も含めて習わしや文化です。例えば、僕の家では代々に渡って長男には女性名を着けるんです。そうする事によって、怪異から身を守れるという迷信を信じていまして。……僕自身はあまりこの名前は好きではないんですけどね」

 怪異が存在している筈がない。こんな女性名を着けるような行為に何の意味もない。だからこそ、僕としては男性名を普通に名乗りたかった。

 そんな下らない話をしていると、マスターが僕の注文したいつものアイスコーヒーと神籬先輩の頼んだケーキセットを持って現れる。

 そして、それをマスターはテーブルに並べると、僕の方を見て溜息を吐き、またカウンターへと戻っていく。これは絶対に何か勘違いされたに違いない。

 ただ、躍起になって反論しようものならそれをネタにされる事を知っているだけに、僕は頭を振ってその事を払いのけると真剣な目で神籬先輩を見詰めた。

「話が随分と逸れていましたね。一度、戻しましょう。ところで、先輩はどこまで深山さんの事を知っているんですか? 接点がまるで見えないのですが」

「深山後輩がいなくなる数日前に狂ったように何かを探していた事。彼女が何かに怯えていた事。そして、彼女が不眠症に陥っていた事の三点だ」

 その神籬先輩の回答に少しだけ、首を傾げそうになってしまう。

 齎された情報は全てが第三者視点。彼女と親しい友人だったというのなら、もう少し何か踏み入った事を知っていてもおかしくはない。

 つまり、それが意味しているのは彼女が誰にも話さなかった可能性。

 こうなってしまうと、どこまで話すべきかの判断が非常に難しい。一度、確認するか。

「深山さんが記号を調べていた事は知らなかったようですね」

「確かに初耳だな。私は彼女が何を調べていたかは知らなかったよ」

 親しかったのなら彼女に相談されていてもおかしくはないのではないか。それに近かったのなら何を探していたのかまで見当を付けていてもいいのではないだろうか。

 なのに、まるで神籬先輩と深山さんの間に親しい間柄要素が見えて来ない。

 その事が気になった僕は敢えて彼女にこんな質問を投げかけた。

「ところで、先程から気になっていたのですが、神籬先輩は何故に深山さんにこだわるのですか? 三年と一年。接点も少ないように見える。僕には関わる理由が見えて来ない」

「……友達だからじゃおかしいかな? 私は深山が苦しんでいる時に何もしてやれなかった。だから、私は知りたいんだ。深山後輩が何を想い、何に怯えていたのかを」

「友達だから、ですか――」

 誤魔化されたのか、ただ質問の真意が上手く伝わらなかったのか。

 僕は「親しくなった経緯が理解出来ない」と質問したにも関わらず、「何故、親しくなったのか」という過程ではなく「親しかったから」という結果で答えられてしまった。

 嘘はついていないのは分かるが、真実も語っていないように感じてしまう。

 いや、それは僕には友達という存在自体が全くの無縁だからかもしれない。

 周りに誰もいない。自分からそういった繋がりを作ろうとはせず、その環境に慣れきってしまっている。感覚が麻痺しているので周りが羨ましいとも思えないが……。

「何かに苦しんでいた友人が突然、行方不明になる。それが連続失踪事件の被害者と言われれば、誰だって心配になるのが当然だろう?」

 カランとアイスコーヒーの氷が解けた音がする。

 否定する要素はない。確かに彼女の言う通りだ。疑い過ぎだったのかもしれない。

 僕は深いため息を吐き、反省するとアイスコーヒーを一口、口に含んだ。

「そういうものですか。そうそう、もう一つだけ思い出しました。彼女は夢で見たという朽ちた鳥居について調べていました。それ以上の事は僕にはわかりません」

 何故、こんな事を言ってしまったのか分からない。

 本当はその記号にどのような意味があったのかなど言うつもりはなかった。

 だが、彼女の真剣な姿勢に気が付くと口から零れ落ちていたのだ。

「では、僕はこれで失礼します。流石に先輩にご馳走になるのは申し訳ないので僕の分の支払いは済ませておきますから」

 念の為に会計を確認し、財布から丁度の金額を取り出すと、彼女の返答を待たず、席を立ち支払いを済ませてしまうと早々に店を後にする。

 そして、外へと出ると僕は神籬先輩から逃げるように走り出す。そして、気が付くと茜色に染まる学校へと足を運んでいた。

 時刻は夕刻。学生がいない事もあり、いつも以上に物寂しさを醸し出している。

 部活の掛け声が聞こえてこないだけでこれ程までに不気味なのか。

「そう言えば、部活動を自粛になっていたんでしたっけ」

 静寂に包まれた新校舎の裏手に隠れた旧校舎へと導かれるかのように足を運んでしまう。

 当然、旧校舎も静かだ。それに加えて不自然なまでの違和感が辺りを包み込んでいる。

 木造建ての廊下を歩く度に木のしなる音が廊下に響き渡り、消えていく。

 黄昏時、窓から差し込む夕日が余計に物寂しさを醸し出している。嵐の前の静けさとでも言うのだろうか? その静けさが気持ち悪い。

 これはさっさと用事をすませて帰った方が良さそうだ。

 いや、待て。まるで、吸い寄せられるかのように学校に戻って、そのまま郷土研究部の部室を目指しているが、そもそも用事とは一体どのようなものだったのか。

 まぁ、部室に行けばすぐに判明するか。

 そう考え、足早に目的地である郷土研究部へ向かい、鍵を差し込んだ。だが、そこで違和感を覚える。鍵を開けた覚えがないのに……開いているのだ。

「用事って閉め忘れだったのでしょうか? でも、昨日は閉めて帰った筈なんですが――」

 何も分からない人間にはごみ溜めのような部屋だが、一応は価値のある物が並んでいる。

 それが盗難になどあったなら、どれ程の価値だったのかの説明。書類作成など面倒事の山である事を知っているだけに、常に鍵をかけるように心がけていた筈なのだが……。

 自分の代で郷土研究部が潰れるかもしれないと気が緩んでいたのだろうか?

 僕が卒業してしまえば、後輩のいないこの部活は確実に打ち止めである。そうなってしまえば、ここにある史料の山はどこへ行くか分かったものではない。

 一応、後二年間は部員として守り続けるつもりではあるが、そこから先は管轄外だ。

 中に誰かがいた時の為にゆっくりと慎重に扉を開け、中の様子を確認する。

 いつも通りの風景。慣れ親しんだ独特のカビ臭い独特の空気。

 だが、そこにあったのはそれだけではなかった。

 異質な香り。柑橘類の場違いな甘い香りが僕の鼻を擽った。

 香水だろうか? だが、こんな甘ったるい匂いの香水を着けて歩く学校関係者を僕は知らない。何より、そんな匂いのするものをこの部室内には置いていない。

 その事に気が付いた僕は大慌てで部室内へと突入し、辺りを見回した。

「あら、貴方がここの管理人かしら? 思っていたよりも随分と若いのね」

 朱色に染まる部室。ソファーに腰を降ろし、積み上げられたノートの内の一冊を読んでいる長い艶やかな黒髪のどこか田舎の風景が似合いそうな女生徒がそこにいた。

 だが、そんな婉然な雰囲気を漂わせる先輩を僕は知らない。

 それだけではない。彼女が手に取り、読んでいるのは深山さんが僕に見せた紋様と同じモノが記されていた郷土研究ノート。

 その光景に僕は訳のわからない状況に戸惑っていた事すら忘れ、彼女を睨み付けた。

「誰ですか。勝手に郷土研究部に侵入して……通報しますよ?」

 どうやってこの女性がこの部室内に入ったのかは分からない。ただ、僕に見付かってからも悪びれる様子すら見せず、堂々と本を読み続ける姿勢に僕はイラッとしてしまう。

「なるほどね。状況は見えてきたけど、やっぱりここも外れかしら。薄っすらとは匂うのだけど、辿れるかと言われればそうでもないのよね。となると、君から匂うその美味しそうな香りが私の追い求めていた本命なのかしら?」

 そう呟くと、何かに納得したのか持っていた本を閉じるとゆっくりと腰を上げる。そして、長い黒髪をかき上げ、僕に対して怪しく微笑んでくる。

「話を聞いているんですか! どうやってここに入ったのか知りませんが……」

 何が起こったのか一瞬、理解が出来なかった。いや、負い付かなかった。

 気が付くと、ソファーの前で髪をかき上げていた彼女が僕の目と鼻の先に現れたのだ。そして、僕の頬に手を添え、その黒い瞳でこちらを覗き込んで来る。

 どこまでも透き通ったガラス玉のような瞳。その深い海のような瞳の色に言葉も出て来ない。気を抜けば、どこまでもその黒の底へと落ちていってしまいそうだ。

 だが、その女性は突然、頬から手を放すと溜息混じりに僕から距離を取った。

「流石にそう一筋縄ではいかないか。削ぎ落ちたとは言ってもね。ただ、偉そうにしてるだけじゃないか。でも、そっちが邪魔した所で弱った貴女の領域内でもこれくらいの事なら簡単に出来るのよ」

「一体、さっきから貴女は誰と話しているんで……す……」

 言葉を言い終わるより先に視界がブレた。

 頭が何かに締め付けられているかのように酷く痛い。呼吸が乱れ、あまりの苦しさに立っていることすら難しい状況だ。

 意識がゆっくりと暗転する。そんな中、どこか懐かしい声を聞いた気がした。

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