遠い日の二人⑦―高3・夏…突然の別れ―

制服が夏服に変わる頃、ユウの良くない噂は嫌でもレナの耳に入ってきた。


サエと付き合っていながら、他のたくさんの女の子たちと関係を持っていると言う。


そんな噂を、どこか信じられない…信じたくないと思いながら、相変わらずレナとユウはあれから1度も言葉を交わすこともないまま、ただ時間だけが流れて行った。


レナは、そんなユウを、まるで知らない人のようだと思いながらも、第2音楽室から時折聞こえてくるユウのギターの音を懐かしく思った。


ライブが近いと言っていたのに、それがいつなのかさえ教えてもらうこともできなかった。


ライブが決まると、嬉しそうに笑いながら、いつも真っ先にレナに教えてくれたユウ。


すっかり変わってしまったユウを、遠くから見つめることも許されない関係になってしまったのだと思うと哀しかった。


その日レナは、被写体を求めて校内を歩き回っていた。


何を見ても、心が動かされない。


去年の今頃は、たくさんの写真を撮って、写真を撮るのがとても楽しいと感じていたのに、今のレナは写真を撮ることも、撮りたいものを見つけることさえもできずにいた。



すっかり日が傾いて来た頃、もう今日はあきらめようと、レナは理科室に向かってトボトボと歩いていた。


昇降口に差し掛かった時、思いがけずユウの後ろ姿を見つけた。


夕陽に向かう、見慣れたはずの背の高い後ろ姿。


レナは思わずカメラを構え、夢中でシャッターを切る。


知らないうちに、遠くへ行ってしまったその背中。


雷に怯えるレナを抱きしめてくれた、その長い腕。


夕陽に照らされ風に揺れる髪。


もう、戻らない、優しい時間。


ファインダーの向こうに広がるユウのいる風景は、どんなに手を伸ばしても、もう手が届かない。


見慣れたはずの優しい背中をもつ人は、レナにとって、もう遠い人だった。




微かにシャッター音が聞こえた気がして、ユウは立ち止まり振り返る。


もしかしたら、レナがそこにいるのかも知れないと思っていたユウの目に、レナの姿が映ることはなかった。


(バカだな…オレ…。)


いつか笑って写真を撮り合ったことが、ユウの心に蘇る。


楽しそうに笑うレナを、抱きしめるような気持ちでシャッターを切った。


観覧車で写真を撮るために、高鳴る胸を押さえながら抱き寄せた華奢なその肩は、とても温かく、愛しかった。


あの時、傷付くことを恐れずに気持ちを伝えていたら…今も笑って一緒にいられただろうか?


少なくとも、この手でレナを傷付けることはなかったのかも知れない。


後悔ばかりが胸に溢れ、もう、息をすることさえ苦しい。


このままずっと一緒にいられたらと思っていたのに、今は、そばにいることさえできない。


近くにいても、そばにいることも、触れることも、もうできない。



(それならば…いっそ、遠くへ行ってしまおうか…。もう2度と会えないくらい遠くへ…。)





「高梨先輩。」


理科室を出た時、呼ばれた声に振り返ると、笑みを浮かべた後輩の水野がいた。


「先輩、電車ですよね。駅まで一緒に帰りましょう。」


「…うん…。」


レナの横に立つと、水野はレナの歩幅に合わせて歩き出す。


写真部の活動のことや文化祭に展示する写真のことなど、他愛もない会話をポツリポツリと交わしながら歩き、駅の目の前まで来た時。


「最近、片桐先輩と一緒じゃないんですね。」


「……。」


中学時代からの二人を知る水野が、不思議そうにレナに尋ねる。


同級生から尋ねられることはもうなくなっていたことだが、改めて水野に尋ねられると、レナは返事に困ってしまう。


「彼女が、いるからね…。」


レナが呟くと、水野は驚いたようにレナを見る。


「そうなんですね…。僕はてっきり…。」


二人が付き合っていると思っていた、と言う一言を、水野は言おうとしたのだとレナは思った。


「それじゃあ…僕にもまだ、望みはありますか?」


「えっ…。」


「僕、ずっと高梨先輩を見てました。」


思いがけない水野の一言に、レナは驚く。


「高梨先輩の隣にいるの…僕じゃ、ダメですか?」


レナは、首を横に振り、静かに呟く。


「ごめんなさい…。」


ペコリと頭を下げると、レナは改札口を通り抜け、プラットホームに滑り込んだ電車に飛び乗る。


流れて行く窓の景色をぼんやりと眺めた。



好きだと言われても、自分にはその意味がわからない。


恋をすると言うことがどんなことなのか、どんなに考え続けても、わからない。


ただ、ユウが自分の隣にいたのは…恋なんかじゃないと、レナは思った。




第2音楽室の隅で、シンヤはユウの横顔をじっと見ていた。


サエと付き合い始めた頃から、ユウの笑顔がすっかり減ってしまったことに、シンヤは気付いていた。


あんなに好きだったレナを避けるようにして、別の女の子と付き合い出したユウ。


何かあったのかと尋ねても、ユウは何も話そうとしなかった。


(本当は、まだレナちゃんのことが好きなんだろ…。)


ユウが時折苦しげにため息をつくことも、制服の下にレナからもらった指輪を隠すように身に付けていることも、シンヤは知っていた。


幼なじみと恋をするのが、そんなにいけないことだろうか?


幼なじみでも付き合ったり結婚したりするカップルだってたくさんいるのに、なぜそこまで、“幼なじみ”と言う関係にこだわるのだろう?


(好きなら好きって、言えばいいのに…。)



変わってしまったユウを理解できないと、マユも距離をおくようになり、以前のように4人で過ごすことはなくなってしまった。


レナを想っていたユウに人知れず片想いを続けてきたマユもまた、心を痛めているのだとシンヤは思う。


(うまくいかないもんだな…。)


ユウが何も言わない以上、シンヤにはどうすることも出来ない。


シンヤにとって、それはとてももどかしく、やりきれない苦い思いだけが胸に広がった。




ユウの母親の直子が翌週から単身赴任でドイツに行くと言うことを、レナは久しぶりに早く帰宅したリサの口から聞いた。


ユウとはずっと話していないので、レナは何も知らされていなかったのだ。


直子のドイツ滞在は何年に及ぶかわからないらしく、大学受験を控えたユウは、日本に残ることになったのだと言う。


(ユウ…何も教えてくれないんだ…。)


我が子のようにレナを可愛がってくれた直子が、遠くへ行ってしまうのは寂しかった。


それよりも、そんな大事なことをユウが教えてくれなかったことは、もっと寂しかった。


「レナは進路決めたの?」


「まだ…。」


夕食を取りながら、リサは元気のないレナの様子が気になっていた。


経営者と言う仕事柄、常に忙しくあまり一緒にいられない上、父親を早くになくしたレナには、いつも寂しい思いばかりさせてきた。


それでも、同じ母一人子一人ですぐ隣に住む直子とユウをまるで家族のように思い、お互い支え合ってきたお陰で、レナの寂しさも少しは和らいでいたのだとリサは思う。


しかし、レナは何も言わないが、最近あまりユウとは一緒にいないようだとリサはなんとなく気付いていた。


ケンカでもしたのかとも思ったが、どうやら違うらしい。


多感な年頃と言うこともあり、ましてや18歳にもなると、幼なじみとは言え、男女のことは難しい。


リサは、あえてその話題には触れないでおくことにした。


娘を信じて、見守ることにしようと思ったのだった。



直子がドイツへ旅立つと、ユウは毎日、一人の部屋でヒロへの返事を考えていた。


高校を卒業してからでもいいとまで言って、ユウの可能性に期待してくれているヒロに、思いきってついて行こうかと、思い始めたのだ。



ロンドンに行ってしまえば、もうレナに会うこともない。


レナ以外の女の子と歩く姿をレナに見られることも、自分の悪い噂がレナの耳に入ることもない。


すぐ近くにいるのに手の届かないレナをこの目に映すことも、その姿を見て見ぬフリをしながら心を痛めることも、もう2度と、しないで済むのなら…。


ユウはスマホを取り出し、ヒロの電話番号を画面に映し出す。


スマホには、去年の夏、レナから旅行のお土産にもらった、レナとお揃いのストラップが揺れていた。


(まだ…つけたままだったな…。)


小さくため息をつくと、ユウはストラップをスマホから外し、レナとの思い出と一緒に、静かにゴミ箱へ捨てた。


そして、ヒロに電話をかけ、卒業を待たず一緒にロンドンへ行かせて欲しいと告げたのだった。



ユウが突然学校に来なくなった。


担任に聞くと、しばらく用事があって留守にするので学校を休むと連絡があったと教えてくれたが、その理由は誰も知らなかった。




ユウが学校を休み始めてから10日後。


いつものように部活を終えたレナがマンションに辿り着くと、隣の部屋のいつもとは違う静けさに違和感を感じた。


「……?」


自宅に入ろうと郵便受けを開けると、そこには見覚えのある指輪が通されたネックレスが入っていた。


(これ……あの時、私がプレゼントした…。)


それは、誕生日にテーマパークへ行った帰りに、レナが露店で買ってユウにプレゼントした指輪だった。


(ユウ…?)


胸騒ぎを覚えたレナは、慌ててユウの部屋のインターホンのボタンを押す。


しかし、何度押しても返事はない。


ポケットからスマホを取り出してユウに電話を掛けてみると、“現在使われておりません”と、冷たい機械の音声が返ってくるだけだった。


(どうして?どうしてなの?!)


レナはたまらず、ユウの家の玄関のドアを叩く。


「ユウ!!ユウ、返事して!!」


ドアを叩きながら呼び掛けても、返事はない。


すると、ドアを叩く音を聞き付けた隣人が、玄関から顔を出した。


「片桐さんねぇ、今日の昼間に引っ越されたのよ。急なことで奥さんも息子さんももう新しい所に行ってしまわれたとかで姿が見えなかったけど…業者の方が荷物を運んで、代わりに挨拶して行かれたの。」


「えっ……?」


ユウが、学校を辞めて、突然いなくなった。


その理由も、どこに行ったのかも、誰も知らされてはいなかった。


二人の思い出の指輪だけをレナの元に残し、何も言わないで姿を消した。


(ユウ…どこに行っちゃったの?もう、会えないの…?どうして、何も言ってくれなかったの…?ユウ…。)



ユウが残した指輪を握りしめ、レナは一人、毎晩ユウを思いながら泣いた。


(急に遠い存在になったと思ってたら…本当に、遠くへ行っちゃった…。)





夏休みが近付いたある日、屋上で昼休みを過ごしていたレナは、隣に座っていたマユに、ポツリと呟いた。


「今頃、どこにいるのかな…。」


「片桐…本当に誰にも何にも言わずに、消えちゃったね…。」


「うん…。」


しばらく二人は、黙って空を眺めていた。


「空気…。」


「えっ?」


突然のレナの呟きの意味がわからず、マユはレナに聞き返す。


「空気って…普段はあって当たり前だと思ってるのに…。なくなって初めて、気付くんだね…。私、今…苦しくて…」


レナは苦しげに、胸を押さえながら静かに呟いた。


「息が、出来ない…。」




その夏、レナはある新聞社で行われた写真コンクールで大賞を受賞した。


それは、いつか昇降口で夕陽に向かうユウの後ろ姿を撮したものだった。


タイトルは、“遠い背中”。


大賞を獲ったことを一番に伝えたいユウは、もうここにはいない。


でも、いつか…もし、また会えたら…。


その時は、お互い笑って話せるだろうか?


いつかのように、笑って写真を撮り合ったり、できるだろうか?


そうなることを祈りながら…。


レナは、ユウが残したネックレスに、ユウの指輪と一緒にユウがプレゼントしてくれた指輪を通して身につけた。


二つの指輪が寄り添うように揺れている。


まるで、いつも一緒にいた頃の二人のようだった。



レナは、ずっと決められなかった進路を決めて、夜遅く仕事から帰ったリサに言った。


「リサ…私、芸大に行って、写真の勉強する。カメラマン、目指すね。」


「そう…頑張ってね。」



ユウがいなくなってからずっと悲しそうにしていたレナを、リサは少しでも長くそばにいるように気遣いながら、ただ黙って見守っていた。


大切な人との別れを乗り越えながら大人になっていくことを、知っているからだ。




その夏は、リサとレナにとって、今までに経験したことのない、静かな夏だった。






『 rendez-vous 』



どこに行けば たどり着けるのだろう?

夢見ていた ありふれた幸せに


いつからか はぐれ始めた心だけ

遠く離れていく


涙を浮かべ 笑って見せた横顔

見つめ合った瞳 今はそらして



手を伸ばして つかみ取れるのなら

君をずっと 抱きしめて 離さない


君の笑顔 この両手で

いつまでも守っていたいのに


抱き合うだけで 信じ合えた二人の

確かな未来など どこにもない


想うほど 夢は儚く崩れ去り 心は粉々に砕かれ

現実にしめつけられて

行き場を失くす 無力な二人



眠りの中で さまよっていた昨日

まだ見ぬ明日だけに 怯える今日


優しさが胸に痛くて

君の事を傷付けてばかりいたけど


愛したい 君をもっと

許されない恋と知ってても



言葉にはできない程の

不安と愛しさに迷ってた 二人を

夕闇が包んでゆく 涙の行方さえ照らさずに







誰にも行き先を告げずに、ユウは生まれ育った住み慣れた街を後にした。


無意識に胸元に触れた指先に、もう、レナとの思い出の指輪が触れることはない。


ユウは微かに苦笑いを浮かべ、その手をギュッと握りしめる。


これで本当に、自分とレナを繋ぐものは、何もない。


(さよなら、レナ…。泣かせて、ゴメン…。本当に…好きだった…。)


大好きだったレナの笑顔を思い浮かべると、心の中でそっと呟く。



愛しかったレナとの思い出も、無邪気にレナと笑い合った日々も、レナへの切なさに焦がれた胸の痛みも…全てを捨てて、ユウはロンドンへと飛び立った。



もうこの場所に2度と帰ることはないと、心に誓って…。





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