遠い日の二人⑥─高3・春…壊された関係─
ユウとレナの誕生日の数日後、高校3年の1学期が始まった。
3年になると受験ムードが濃くなり始め、志望校や偏差値の話題が自然と増えていく。
理系のユウとレナは3組、文系のマユとシンヤはそれぞれ2組と4組に別れた。
クラスが別れても教室は隣同士、選択科目などで顔を合わせることも多く、昼休みになると自然と真ん中の3組にいるユウとレナの元に4人で集まり、一緒に昼食を取ったりしていた。
ある日の昼休み。
昼食を終えた4人は、春の陽気に誘われて窓際で日向ぼっこをしていた。
「気持ちいいねぇ…。」
頬を撫でる暖かな春風が心地よくて、シンヤは大きな欠伸をする。
「うん…。眠い…。」
お腹がいっぱいになって眠気に誘われたユウも眠そうに欠伸を噛み殺した。
「マユっちの膝枕で昼寝したいなー。」
シンヤは机の上に置いた肘の上に頭を乗せて、甘えたような目でマユを見上げる。
そんなシンヤを冷ややかに見下ろすと、マユはシンヤの言葉を華麗にスルーした。
「レナ、志望校決めた?」
「ううん、まだ。」
そっけないマユの態度に、シンヤは愛しげな目で苦笑いする。
「相変わらず、つれないねぇ。」
「シンちゃんって、鉄のハートの持ち主だよね…。尊敬します…。」
「ユウは、ガラスのハート……いや、むしろ飴細工のように繊細で脆いハートの持ち主だからねぇ。そんでもって、飴だけに甘くて、熱くなるとトロトロにとろけるんだろ。」
「…それって、上手いこと言ったつもり?超恥ずかしいんだけど…。」
ドヤ顔のシンヤを見て、ユウはため息をつく。
(確かにオレ、レナには甘いかも…。)
レナとマユが二人して席を立つと、シンヤはユウの方に顔を向けた。
「…で、春休み、なんかあった?」
「えっ?」
突拍子もないシンヤの言葉に驚くユウ。
そんなユウの様子を見て、シンヤはニヤリと笑う。
「あったんだ。」
「いや…あったような…なかったような…。」
「どういう意味だよ?」
ユウは、うーんと小さく唸ると、ネクタイを緩めて制服のシャツのボタンを二つ目まで外し、チラッと指輪を見せる。
「これ。」
「何?」
「レナから、もらった。」
ユウはそう言って、指輪を隠すように、またシャツのボタンを留める。
「それって…。」
「誕生日プレゼントだよ。オレとレナ、誕生日が一緒でさ…。レナのおふくろさんからテーマパークのチケットもらって、一緒に行ったんだ。その帰り道に露店でお互いに指輪を買って、プレゼントし合った。」
「それだけ?」
「えっ…。」
「だけじゃないよな?」
「……たいしたことじゃ、ないよ。」
「なんだよ。」
「レナが弁当作ってくれた。」
「で?」
「…手、繋いで、歩いた…。」
「それから?」
「観覧車に乗って…。」
「てっぺんでチューでもした?」
「し、してないよ!!」
(めちゃくちゃしたかったけど…。)
「してねぇの?」
「するわけないじゃん…。」
(気持ち抑えんの大変だったけどな…。)
「ふーん…。じゃあ、観覧車乗って、どうした?」
「一緒に、写真、撮っただけだよ。」
「レナちゃんのカメラで?」
「いや、オレのスマホで。」
「スマホで自撮りかー、密着しないと撮れないんだよな。」
「…うん…。」
「どうやって撮ったんだよ。」
「肩、抱いて…撮った…。」
「それ見たい、見せてくれよ。」
「ヤだよ。」
「いいじゃん、減るもんじゃなし。」
「絶対イヤだ!!誰にも見せたくない!!」
思わず本音がこぼれてしまい、ユウはハッとして真っ赤になる。
そんなユウを、シンヤはニヤニヤして見ている。
「やっぱり…本当はチューしてる写真とか?」
「だから違うって!!」
「わかったわかった、まぁ、そう言うことにしとくか。」
「そう言うことにしとくって…。」
(まったく…敵わないな、シンちゃんには…。)
「まぁ、あれだ。ゆっくりではあるけど、いい感じに温まってきてんじゃん?」
「…そうかな?」
「普通さ、いくら幼なじみとは言え、18にもなって手ぇ繋いだり、しなくね?」
「まぁ…そうなのかなぁ…。確かに修学旅行の時、手ぇ繋いだのなんて何年ぶりだって思ったもんな。」
「実際、ユウはあの子が好きだから、そうする訳だろ?もしユウに、別に好きな女の子がいたらさ、いくら幼なじみでも手ぇ繋いだり肩抱いて写真撮りたいなんて、思わないじゃん。」
「そうだね…。」
「ってことは、相手もそうだって思わない?」
「…だといいんだけどな…。」
「ユウさぁ、もうちょい自信持てよ。イイ男なんだからさぁ。」
「…何それ。前も言ったけど、オレを誉めても、何も出ないよ?」
「無自覚かよ…。ユウって、天然タラシだったのか。」
「何?どういうこと?」
「何もねぇよ。まぁ、とりあえずさ、ゆっくりでもいいから、好きだってもっとアピールしていけば?そろそろ、脱!!“ただの幼なじみ”、したいだろ?」
「そりゃまぁ…。」
「ユウさぁ、考えてみ?18って言ったら、車の免許も取れるし、結婚だってしようと思えばできる歳なんだぞ?世間的にも大人ってことじゃね?」
「うん、確かにそうだね。」
「レナちゃん、ユウといる時が一番いい顔すんだよな。オレは上手くいくと思うよ。」
「そっかな…。オレ、ちゃんと男と思われてると思う?」
「大丈夫だよ。頑張れって!!」
シンヤがユウの背中を叩く。
(シンちゃんが言うように、もう少し頑張ってみようかな…。オレ、もっとレナに近付きたい…。)
その日の放課後。
レナがユウのそばに来て尋ねる。
「ユウ、今日も練習?」
「あ、うん。ライブ近いから、しばらくは毎日だな…。レナは?」
「今日は、部活。」
「高梨部長?」
「…うん。」
人見知りのレナが写真部の部長になって半年。
去年の文化祭の後、前の3年が引退した時に、2年の部員がレナしかいなかったため、自動的にレナが部長になった。
副部長が、あの水野だと言うことだけが心配だったユウだが、今のところは何事もなく活動しているようだ。
「うちのおふくろ、今日から明後日まで出張で帰って来ないんだ。」
「うちも、リサ海外出張で1週間帰って来ない。」
「晩飯、一緒に食う?」
「ユウ、何食べたい?」
「そうだなぁ…。じゃあ、帰りまでに考えといて。帰りながら決めよ。」
「うん。多分今日は早く終わると思うから、終わったら教室で待ってるね。」
「わかった。」
「じゃあ、後でね。」
小さく手を振り、鞄を持って教室を出るレナの後ろ姿を、ユウは愛しげな目で見送った。
そんな二人の様子を、妬ましそうにじっと見ている誰かがいることに、ユウもレナも、まったく気付いていなかった。
3人の新入部員を迎えた写真部では、先輩部員たちが初心者の後輩たちにカメラの使い方や、フィルム写真の現像の仕方などを教えていた。
レナは手順を説明しながら、デジカメで撮った入学式の写真をプリントアウトして見せる。
1時間ほどでこの日の活動を終えると、写真部の活動ノートを持って理科室を出た。
レナは教室でユウを待ちながら、今日の部活動の内容を活動ノートに記入していく。
倉沢に勧誘されて、軽い気持ちで写真部に入部してから1年。
レナはどんどん写真にハマって、写真を撮るのがとても楽しいと思うようになった。
好きな風景や気に入った物、面白い光景…そして、ユウのいろんな表情を撮るのは楽しい。
一緒に過ごしているその瞬間、その表情、その気持ちを、ずっと忘れないように残しておきたい。
レナは制服のポケットからスマホを取り出し、ユウが送ってくれた、観覧車で一緒に撮った写真を、目を細めて見つめる。
(楽しかったな…。ユウと一緒だと、いつも楽しい…。ずっと、一緒にいられるといいな…。)
ぎこちなく、照れ臭そうにレナの肩を抱くユウを見て、思わず笑みがこぼれる。
(ユウ…最近、大人っぽくなったな…。)
ずっと一緒にいると微妙な変化には気付きにくいのに、写真を撮ると、その変化に気付いたり、再認識したりする。
ずっと、このままでいられたらいい。
大人になるのは、まだずっと先のことだと思っていたい。
正直、大人になるのは、怖い。
どんどん大人びていく自分以外の人たちを見ていると、ふと不安がよぎる。
(大人になっても、今みたいに一緒にいられるのかな?)
ずいぶん日が傾いて来た頃、活動ノートを書き終えて暇を持て余したレナは、頬杖をついて夕日を眺めていた。
(ユウ、まだかな…。)
その時、教室のドアが開く。
ユウだと思って振り向いたレナだったが、そこにいたのは2年の時から同じクラスの村井紗英だった。
(あ…。ユウじゃなかった…。)
クラスメイトとは言え、たいした関わりもないサエに向かって勢いよく振り向いてしまったことが、少し恥ずかしい。
「まだ残ってるんだ。」
「うん…。」
サエに話し掛けられて、レナは小さくうなずく。
「片桐くん、待ってるの?」
「あ…うん…。」
普段あまり会話をしたことのないサエに突然ユウのことを聞かれてレナは困惑した。
「2年の時も一緒だったからずっと見てたけどさぁ…高梨さん、片桐くんとめちゃくちゃ仲いいよね。幼なじみなんだってね?いつも一緒に登下校したり、頭撫でたり…修学旅行の時なんか手繋いで歩いてんの見たって子もいたよ?」
「……。」
一体、何を聞きたいのだろう?
含みを持たせたようなサエの言葉に、レナは不快感を覚えた。
「結局さぁ…。」
サエは指先で長い巻き髪をクルクルと弄びながら、視線を髪に落としたままで呟いた。
「高梨さんと片桐くんって…。」
そこまで言うと、サエは視線を迷うことなくレナに向けて、少し低い声で尋ねた。
「どう言う関係なの?」
「え……。」
もう何度となく、飽きるほど聞かれたはずの言葉なのに、サエのその言葉は、今のレナにはやけに強く鋭く響いた。
「どう言う…って…。幼なじみ、だよ?」
たじろぐレナに、サエは更に容赦なく言葉を投げ掛ける。
「高梨さんも片桐くんもさ、いつもそう言うけどね…。普通に考えて?高3にもなってさぁ…いくら幼なじみとは言え、男と女だよ?ずっと二人べったりなのに、何もないなんて、有り得ないと思うの。だって、お互いの部屋で、しょっちゅう二人っきりでいるんでしょ?そんなんで何もないなんて、普通信じられないよね。」
挑発するようなサエの視線に居心地の悪さを覚えながら、レナは静かに答える。
「そう言われても…私たちにとっては、これが普通なんだもん。」
「普通?」
「うん。」
サエは疑わしげにレナを見つめると、少し口元に笑みを浮かべる。
「普通の幼なじみって、お互いに誰か別の恋人ができても気にしないってこと?」
「え?」
「だって二人の間には何の関係もなくて、ただの…普通の、幼なじみなんでしょ?」
「……うん…そう…だよ。」
絞り出すようにレナが答えると、サエはニコッと笑う。
「じゃあさ、私が片桐くんのことを好きだって言っても、何も問題ないんだよね?」
「えっ?」
レナは驚いてサエの目を見た。
「だって、付き合ってるわけじゃないんでしょ?」
「…そうだよ。だから…誰がユウを好きでも、ユウが誰を好きでも…私には、何も言えないよ…。」
レナが答えると、サエはレナを上目遣いに見上げて、ふふっと笑った。
「それじゃ、私に協力してくれる?」
「…えっ?!」
サエはポケットからピンク色の封筒を取り出し、レナに見せる。
「これ、片桐くんに渡して欲しいの。」
「……。」
サエは、一瞬、言葉をなくすレナの手をそっと取り、その手紙を握らせた。
「私が直接渡したって、ちゃんと読んでくれるかどうかもあやしいもんね。だから、高梨さんから渡して欲しいんだ。読んだかどうかもちゃんと確認して報告してね。」
「………。」
サエは手紙を握らせたレナの手をもう一度ギュッと握り直すと、念を押すようにレナの目をじっと見つめる。
「お願いね?」
有無を言わさぬ強く鋭い眼差しに、レナは仕方なく小さくうなずく。
「わかった…。」
レナは小さく返事をして鞄に手紙をしまう。
「じゃ、頼んだわよ。また明日ね!」
何事もなかったように笑って手を振りながら、サエは教室を出て行った。
サエの足音が聞こえなくなると、レナは大きく息をついた。
「どう言う関係って…。」
思わず呟くと、レナは突如胸に湧き起こるモヤのような物を吐き出すように、大きく息をついた。
(なんだか、苦しい…。)
窓の外は夕焼けに照らされて、その夕日はもう
すぐ山の向こうへ落ちようとしている。
しばらくの間、レナは動くこともできないまま、ただぼんやりと夕日が消えて行くのを眺めていた。
「なんだよ、それ…。」
ユウは壁にもたれて、誰にもわからないほど小さく呟いて、拳を握りしめた。
バンドの練習を早めに切り上げたユウは、教室で待っているレナを迎えに行こうとしていた。
どこに寄ろうとか、一緒に何を食べようとか…レナと過ごす時間に思いを巡らせ、弾む足取りで教室のそばまでやって来た時。
教室から女の子の声が聞こえて足を止めた。
「結局さぁ…高梨さんと片桐くんって…どういう関係なの?」
(えっ?!)
唐突なその質問に、思わず身を隠して耳をそばだてる。
(なんだ?レナとオレの話?!一体誰が…。)
やや間を置いてから、聞き慣れたその声が、淡々と答えた。
「どう言う、って…幼なじみ、だよ?」
(レナ…?)
ユウ自身も、何度も友人たちに聞かれた、その質問だった。
だけど、最近はあまり尋ねられることもなくなってきていた。
自分たちをよく知らない人は多分、二人は付き合っていると思っているだろう。
“誰がユウを好きでも、ユウが誰を好きでも、私には何も言えない。”
その一言は、誰よりもレナを想い、誰よりもレナに想って欲しいと思っているユウには、とてもショックな一言だった。
“付き合っているのか”と尋ねられることは珍しくもないが、“協力して”と言われることはあまりなく、ユウ自身はそう言われてもすべて断っていた。
それはいつも誰からの告白も見事なまでにハッキリ断るレナを見てきたからだ。
でも、今回は逆パターンだ。レナが、他の女子から自分への手紙を預かっている。
“ただの幼なじみ”と言うなんでもない一言。
それが、今のユウには重くのし掛かる。
(ただの幼なじみでしかないのか…。)
修学旅行やテーマパークで、手を繋いで歩いたことを思い出す。
はぐれないように、手を繋いで歩いた。
レナにとっては、気心の知れた幼なじみのユウと手を繋ぐことは、なんでもないことだったのかも知れない。
でもユウにとっては、好きな女の子の手を握るのは、相当な勇気のいることだった。
ドキドキと高鳴る胸を抑えながら、“はぐれないように”と言う口実を口にしないとできないような、一大事だったのだ。
ずっと手を繋いで歩いて、お互いの目を見て、たくさん話して、たくさん笑った。
“お互いの誕生日祝いに”と、露店でシルバーリングを買って、贈りあった。
あの日からユウは、レナからプレゼントされた指輪を、肌身離さず身につけている。
お互い言葉にはしないが、以前よりも二人の距離が縮まって、特別な関係になれた気がしていた。
少なくとも、“ただの幼なじみ”よりは親密な関係になれた気がしていたのに…。
やっぱりレナにとって自分は、“ただの幼なじみ”でしかないのだろうか…。
ユウは壁に背を預けたまま、手で目元を覆って、大きく息をついた。
そして、教室には向かわず、ただ無言で窓の外を眺めるレナを残し、踵を返した。
言葉にはならない苛立ちを噛みしめながら、ユウは一人、家路に就くのだった。
窓の外は、もうすっかり日が暮れて暗くなっていた。
いつまで経っても姿を見せないユウが気になり始めたレナは、ポケットからスマホを取り出し、ユウからのメールの受信がないか確認してみるが、受信はない。
レナは荷物を手に立ち上がると、第2音楽室へと向かった。
しかし、中には誰もいない。
鍵の掛かった音楽室のドアを見て、レナは首を傾げた。
(終わったら一緒に帰ろうって約束したのに…ユウ、どこに行っちゃったんだろう?)
仕方なくレナは一人で学校を出て、ユウに電話を掛けてみるが、ユウは出なかった。
(おかしい…な…。)
スマホをポケットにしまうと、レナは一人歩き出す。
レナは、ユウと一緒に帰るはずだった駅までの道のりを、一人とぼとぼと歩いた。
(もう、帰っちゃったのかな?)
今まで、ユウがレナとの約束を破ったことなど一度もなかった。
こんなふうに、レナを一人残して帰ったことなど、一度もなかったのに…。
レナは、疑問だらけのモヤモヤした気持ちを抱いたまま、一人、家路に就いた。
マンションに帰ると、ユウの部屋に明かりがついていることに気付いたレナは、ユウの家のインターホンのボタンを押した。
しかし何の返答もないインターホンをしばらく見つめる。
(おかしいな…。寝てるのかな?)
もう一度ボタンを押すと、やや間があった後、「ハイ」と、いつもより低いユウの声が聞こえた。
「ユウ…私だけど…。」
「…開いてる。」
いつもより明らかに無愛想なユウの声に戸惑いながら、「うん」と返事をすると、ドアを開けてユウの部屋へ向かった。
部屋に入ると、ユウはゴロリとベッドに横たわり、腕で顔を隠すようにしていた。
「…どうしたの?」
表情の見えない、いつもと様子の違うユウに、レナは戸惑いを隠せない。
「別に…。」
ぶっきらぼうに答えると、ユウは顔を隠していた腕を少しずらして、チラリとレナの方を見る。
「…待ってたのに。」
レナが小さく呟くと、ユウはため息をつきながら目をそらし、「ごめん」と一言、吐き出すように言った。
今まで感じたことのない、居心地の悪さと沈黙。
二人でいても何も話さないことなんていつものことなのに、今日の沈黙はいつもと違う。
「で…、なんか用?」
「あ…。」
“なんか用?”なんて聞かれたのも、初めてだった。
いつも、何の用もなくても、自然と二人でいたのに。
レナは込み上げてくる得体の知れない感情を表に出さないように、静かに鞄を開けると、サエから預かった手紙を取り出した。
「これ…。」
ベッドに横たわるユウのそばに行き、そっと手紙を差し出す。
「何、これ…。」
あからさまに不機嫌そうに呟くと、ユウはそらしていた視線をレナに向けた。
「サエから、預かった…。ユウに、渡して欲しいって…。ちゃんと読んだことまで、確認して欲しいって、言われた…。」
ユウの責めるような視線に耐え兼ねたレナは、そっと目をそらす。
「ふぅん…。」
ユウはだるそうに起き上がると、差し出された封筒を手に取り、中の手紙を開いて目で文字を追う。
「これで、いいわけ?」
「…うん…。」
ユウはレナの返事を聞くと、無造作にベッドの上に手紙を投げ捨てた。
「レナは、オレを…。」
ユウが、絞り出すように呟く。
「えっ?」
次の瞬間、何かを聞き返す間もなく、レナの体はユウの大きな手に引き寄せられ、ベッドの上に投げ出されるように押し倒されていた。
レナの体にのし掛かるように覆い被さるユウの体の重み。
目の前には、射抜くようにレナを見つめるユウの瞳。
突然のことに、レナの頭は真っ白になる。
レナの腕を、まるでベッドに貼り付けるように強く押し当てて、レナをじっと見つめると、ユウは言葉を発する代わりに、何も言えずにいるレナの唇を自分の唇で乱暴に塞いだ。
「……!!」
今までに一度もなかったことに驚くレナの唇に、ユウは何度も自分の唇を押し当てる。
「んっ……!!」
塞がれた唇からは、熱い吐息だけが漏れる。
ユウは、噛みつくようにキスを繰り返した。
わずかに二人の唇が離れた瞬間、ユウは切なげにレナの名前を呟く。
「レナ…。」
やがてユウの唇はレナの唇を離れ、レナの細い首筋に押し当てられた。
ビクッと肩を震わせたレナは、やっとの思いで声を振り絞る。
「や…めて…。」
今までに見たことのない、ユウの男の一面を目の当たりにしたレナの目に、困惑と恐怖から、自然と涙が溢れた。
レナのブラウスのボタンに手を掛け、二つ目のボタンを外したユウの手が、ピタリと止まる。
レナの首筋にうずめていたユウの頬が、レナの涙で濡れていた。
「お願い…やめて…。こんなの、私の知ってるユウじゃない…。」
目に溢れる涙をポロポロとこぼしながらそう言ったレナから、ユウはゆっくりと手を離した。
ユウがレナの体から離れると、レナは手の甲で涙を拭いながら起き上がる。
そんなレナに背を向けたまま、ユウは吐き捨てるように呟いた。
「男と二人っきりになるって、こう言うことなんだよ…。」
慌てて立ち上がり、荷物を手に部屋を出ようとするレナの背中に、ユウは冷たく呟いた。
「もう、二度と来んな…。」
乱れた服の胸元を押さえながら、レナが小走りに部屋を去って行く。
ドアが静かに、パタン…と閉まると、ユウは壁にもたれて力なく座り込み、両手で顔を覆った。
(何やってんだ、オレ…。)
唇には、レナの柔らかな唇と肌の温もりが残っている。
ずっと、失うのが怖くて自分の気持ちを伝えられないままだった。
幼なじみなら、誰よりもレナのそばにいられた。
だけど…。
(レナのこと…傷つけて…泣かせてしまった…。)
抑えきれないレナへの想いに、胸が強くしめつけられる。
ずっとレナを想い続けてきたユウの気持ちに気付かずに、他の女子からのラブレターを渡すレナに、苛立ちを覚えた。
その苛立ちは、強い衝動となって乱暴にレナにぶつけられた。
無理やりにでも、レナを自分のものにしたいと思った。
泣きながら自分を拒んだレナの、“こんなの私の知ってるユウじゃない”と言う一言が、ユウの胸に深く突き刺さる。
胸の痛みに耐えるように、ギュッとシャツの胸元を掴むと、ユウは、レナに直接伝えられなかった一言を呟いた。
「レナ…好きだ…。」
息ができなくなるほどの苦しい胸の痛みは、夜が明けてもユウの中から消えることはなかった。
泣きながら自分の部屋に帰ると、レナはへなへなと床に座り込んだ。
今起こったできごとが、まだ理解しきれていない。
(ユウ…一体、どうしちゃったの…?)
ずっと、このままでいられると思っていたのに。
ユウの前では、無理せず自然体の自分でいられると思っていたのに。
ユウだけはずっと変わらず自分の一番の理解者でいてくれると思っていたのに。
(そう思ってたの…私だけ…なんだ…。)
優しくて、誰よりもそばにいたはずのユウを、一気に遠く感じてしまう。
大人になると、大事なものを失うような、そんな気がしていた。
そんな中でも、ユウだけは変わらないと信じていたレナにとって、突然知らない大人の男に豹変してしまったユウの姿は、何よりショックだった。
首筋と唇には、まだユウの唇の感触が残っている。
重ねられた唇は乱暴なのに、レナを呼ぶ声と抱きしめる腕は、とても優しかった。
(私…どうしたらいいの…?)
後から後から溢れる涙を止めることができず、レナはベッドで声を殺して泣いた。
夜が明けても、その答えは見つからないままだった。
強く掴まれた腕には、まだユウの大きな手の跡が残っている。
どんなに泣いても、悩んでも、答えは見つからないままで、いつも通りの朝が来る。
その日レナは、誰にも理由を告げず、学校を休んだ。
少し遅れて登校したユウは、教室にレナの姿がないことに気付いた。
(オレのせい…だよな…。)
昨日のことを思い出すと、また胸が強くしめつけられる。
(理由も言わずに怒って、突然あんなことして…完全に、嫌われただろうな…。)
上級生に意地悪されても、知らない人に後をつけられて怖い思いをしても、泣き顔を一度も見せたことがなかったレナを泣かせてしまった。
最近は、レナが他の人には見せない特別な笑顔を、自分にだけは見せてくれているような気がして、もしかしたらレナも自分を特別な気持ちで想ってくれているのかもと、勝手に期待していた自分がいた。
(オレの、勘違い…だったのかな…。)
授業も上の空で、ユウは頬杖をつくと窓の外に視線を向けた。
(勝手に想って勝手に期待して、レナがオレのこと何とも思っていないって分かったら勝手に腹立てて…告白もしなかったくせに、一方的な想いを一方的にぶつけて…傷つけて…泣かせて…レナを守るのは自分だとずっと思ってたはずなのに…。最悪だ、オレ…。)
昼休み、ユウはマユとシンヤに会うのを避けて、二人が来る前に教室を出た。
今は、何も話したくない。
傷付くのが怖くて気持ちを伝えることもせず、力ずくでレナをどうにかしようとした臆病で卑怯な自分を、あの二人には見られたくない。
ユウは特別教室の並ぶ棟に歩いて来ると、誰もいない情報処理室のドアを開けて、窓から離れた席に腰を下ろした。
(レナ…。)
頭に浮かぶのは、レナのことばかり。
楽しかった思い出も、幸せだった一時も、切なかった記憶も、たくさんの後悔に打ち消されて行くようだった。
この先、どうすれば良いのだろう?
ずっと好きだった。
でも、あきらめた方が、ラクになれるのかも知れない。
最初から何でもなかったようなフリをして。
今まで過ごした時間も、なかったことにして。
幼なじみとして過ごす時間も終わりにして。
レナ以外の誰かとでもオレはこんなに幸せになれるんだよ、って顔をして…。
(そうすれば、オレは、レナをあきらめられるんだろうか?)
情報処理室のイスに座り、ユウが一人ぼんやり考え込んでいると、静かにドアが開いた。
振り返ると、サエが後ろ手にドアを閉め、ユウに近付いて来る。
「さっき、一人で教室から出て行くのが見えたから、追い掛けて来ちゃった。」
ユウはサエから視線を外すと、ため息をついた。
「…何?」
無愛想に答えるユウのすぐそばに立つと、サエはユウをじっと見つめる。
「手紙、読んでくれた?」
「ああ…。」
ユウとレナの関係を壊したサエに、ユウは苛立ちを覚えた。
「返事、聞かせて欲しくて。」
「……。」
レナ以外の女子になんか、まったく興味はない。
ハッキリ断ろうと思い、ユウが口を開こうとすると、サエはユウにピッタリと寄り添って隣に座る。
「私、片桐くんのことが好き。片桐くんは…やっぱり、高梨さんのことが好きなの?」
突然のサエの言動に、ユウは驚いて言葉が出なかった。
「高梨さんは、私が片桐くんを好きでも、片桐くんに彼女ができてもいいって言ってたよ?」
「オレの何を知って、そんなこというわけ?オレは村井が思ってるほど優しくもないし、いい男でもないよ?」
「そう?私は片桐くんのこと、高梨さんよりちゃんと男として見てると思うけど。」
サエの“男として”と言う言葉が、ユウの胸に深く突き刺さる。
「高梨さんといる時の片桐くんだけが、本当の片桐くんだとは思ってないから。」
(本当の、オレ…?)
「高梨さんは、片桐くんと二人でいても何もないって言ってたけど…。恋人同士じゃなくても、男と女が二人きりでいて、普通そんなの有り得ないよね。それが本当なら、ただ片桐くんが何もできなかっただけじゃないの?」
「……!!」
(もうやめてくれ…。)
まるで心のうちを見透かされているような、そんなサエの容赦ない言葉が、ユウの心をえぐる。
「普通って、何?」
「片桐くん…私と、付き合って。ただ優しいだけじゃなくてもいい。私、片桐くんになら、何されてもいいよ。」
そう言うとサエはユウの首に手をまわし、ユウの頭を引き寄せるようにしてキスをした。
(……!!)
サエからの突然のキスに驚いたユウは、サエの体を強引に引き離す。
「やめろよ!!」
「私じゃダメ?高梨さんより私の方が片桐くんを好きなのに、片桐くんは高梨さんじゃないとダメなの?」
「…レナは関係ないだろ…。」
「それじゃあ、私を見てよ。今、目の前にいて片桐くんにキスしたのは、私だよ?」
サエはユウの手を握ると、その手を豊かな胸にそっと導く。
「私…本気だよ?」
(もう、誰でもいい…オレを好きだって言って、レナを忘れさせてくれるなら…。レナがそれを望むなら…、オレは…。)
ユウは、レナに伝えられなかった想いを打ち消すように、サエの体を抱き寄せ唇を重ねた。
レナにはしたくてもできなかった欲望をぶつけるように、サエの体を貪る。
ユウの中で、大事に温め続けてきた想いが、音を立てて崩れていく。
もう、レナを想って、触れることもできないで、胸を痛めるのはやめにしよう。
どんなに想っても伝わらない気持ちなんて、そこにないのと同じだ。
(オレはもう、レナが求めていた幼なじみのオレじゃない…。)
だから…。
(さよなら、レナ…。)
“急に休んでどうしたの?”
無断で学校を休んだ金曜の夜、レナの元に、心配したマユからメールが届いた。
“ちょっと調子が悪かっただけ。
もう大丈夫。”
レナは少し間を置いてから、短く返信した。
ユウからはなんの連絡もないまま週末を終え、月曜日の朝が来た。
重たい心と体を引きずるようにして学校へ行く支度を整えると、いつもはユウと二人で並んで歩いた駅までの道を一人で歩く。
いつものようにプラットホームでマユと合流し、いつものように電車に乗り込んだ。
「体はもう大丈夫?」
心配そうに尋ねるマユに、レナは小さく作り笑顔を浮かべながらうなずいた。
「今日は、片桐とは一緒じゃないんだ。」
「…うん。」
あんなことがあったなんて、さすがにマユには言えなかった。
「ふーん…。」
何か言いたげに見つめるマユの視線から逃れるように、レナはただ流れて行く窓の景色を眺めていた。
学校に着くと、ユウの姿はまだなかった。
レナは少しホッとしながら、何事もなかったふうを装って席に着く。
しばらくぼんやりしていると、ユウが教室に入ってきた。
(ユウ…。)
そっとユウから視線をそらすと、その隣にはユウの腕に絡み付くようにして満面の笑みを浮かべるサエの姿があった。
途端に教室にいたみんながざわつく。
隣の教室から血相を変えたマユが、レナのそばへ駆け寄って来て、レナの腕を引いて教室の外へ連れ出した。
「ねぇ、アレ、どう言うことっ?!」
マユはレナの腕を掴み、信じられない様子でレナの体を揺する。
「うん…。」
レナは何と答えていいかわからずうつむく。
「なんであの二人が?!」
「ユウのこと、好きなんだって…。」
レナがやっとの思いで言葉を絞り出すと、マユは目を見開いて問い詰める。
「“だって”…って…何があったの?ちゃんと話してよ!!全然わからない!!」
レナは小さく息をつき、短い沈黙の後、ポツリポツリと話し始めた。
「木曜の放課後、サエから頼まれたの。ユウのことが好きだから、協力してって…。手紙を預かって…ユウに、渡した…。」
何かを言いかけたマユの言葉を遮るようにチャイムが鳴った。
「ほら、チャイム鳴ったよ、行こう。」
何か言いたげなマユから逃げるように、レナは教室へと向かった。
レナが教室へ足を踏み入れると、チラチラと視線を感じる。
居心地の悪さを感じながら、レナが静かに席に着くと、やがて教科担当の教師がやって来て授業が始まった。
(金曜日からの3日間で…私の知らないうちに、二人は付き合うことになったんだ…。)
教科書に視線を落とすも、頭の中はユウとサエのことがグルグルと巡る。
(だったら…なんで、ユウは…。)
あの時、ユウに押し倒され無理やりキスされたことが脳裏をよぎる。
(なんで、私に…キスなんか…。)
レナはぐっと唇を噛みしめて、ギュッと目を閉じた。
(全然わからないよ、ユウ…。)
その日から、ユウの隣にはいつもサエがいた。
ユウとレナは、今までいつも一緒にいたのが嘘のように、言葉を交わすことも、目を合わせることもなかった。
たまに、不思議に思ったクラスメイトから“何かあったの?”と聞かれることもあったが、レナは“ユウには彼女がいるから”と、当たり障りのない返事をした。
ユウとサエが付き合い始めると、シンヤとマユが以前のように集まって来ることは自然となくなり、レナは昼休みをマユの教室で過ごすようになった。
今日もレナは、いつもユウと一緒に歩いた帰り道を一人で歩く。
家にいても、学校にいても、どこにいてもユウと一緒に過ごした記憶で埋め尽くされていた。
一人でいるのが、こんなに寂しいとは思わなかった。
当たり前のようにいつも隣にいたユウが、いない。
いつも優しく頭を撫でてくれた手は、もうここにはない。
今頃、はぐれないようにと繋いでくれた温かな手で、サエを抱きしめているのかも知れない。
(ユウが…知らない人みたいになっちゃった…。)
大人になると何かを失うかも知れないと、ずっと思ってきた。
でも、それが何かはわからなかった。
ただ、今、思うのは…確実に、ユウと言う特別で大切な存在をなくしてしまったのだと、レナは思った。
第2音楽室では、ユウが黙ってギターの弦を張り直していた。
目前に迫ったライブのために毎日メンバーと集まり練習している。
進学校と言うこともあり、受験が迫って来たことに加え、医学部や海外の大学を目指すメンバーもいるため、卒業後に再結成することも出来ないので、いつものライブハウスでのライブを終えたら解散することになったのだ。
ユウは、先日ライブハウスのマスターに呼び出された時の出来事を思い出していた。
呼び出されたライブハウスには、ユウも憧れているミュージシャンのヒロがいた。
マスターの古くからの友人で、そのライブハウスにもよく顔を出しては、たくさんのバンドのステージを見ているらしい。
今度、ヒロがロンドンに音楽活動の拠点を移すことになり、若いミュージシャンをバックにつけながら育てたいのだと言う。
そして、ユウがヒロの目に留まったのだ。
ユウがまだ高校生なのだと知ると、ヒロは、高校を卒業してからでもいいからロンドンに来て、自分の元で音楽をやらないかと言った。
ユウの可能性に賭けてみたい、と。
漠然とミュージシャンになりたいと思ってはいたが、本当に自分にそんな力があるのかとも思った。
ましてや海外で、自分のギターの腕が認められるのだろうか?
ユウは、少し考えさせて欲しいと返事をして、誰にもそのことを相談することもなく、一人で考え続けている。
(とりあえず、ライブが終わってからだ…。)
ギターの弦を張りながら、ユウは、ふと窓の外に視線を移した。
去年の文化祭前、向かいの棟でカメラを構えていたレナの姿を思い出す。
(もう…そこにいるわけないのに…。)
どんなに打ち消そうとしても、他の女の子を抱いても、ユウの心の中からレナへの想いが消えることはなかった。
忘れようと蓋をするのに、その想いは消えるどころか、どんどん膨れ上がって、ユウの心を壊れそうなほど傷めつける。
レナが隣にいなくなってから、サエ以外の女の子からもたびたびアプローチされたユウは、もうどうにでもなれと思いながら、そのうちの何人かと誘われるままに関係を持った。
どれだけ好きだと言われても、自分の心はそこにない。
どんなに体を重ねても、ただ、虚しさだけが残った。
きっと甘いと思っていたはずのレナとのキスは、苦くて、切なくて…ただ、胸が苦しかった。
傷つけてしまったことを謝ることも出来ないまま、レナとの距離はどんどん離れてしまう。
本当の自分がどこにいるのか…自分でも、もう、わからない。
愛しかったレナとの時間は、もう戻らない。
自分の手で壊してしまった大切な関係を、この手に取り戻すことは2度とできないのだと、ユウは思った。
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