最悪の再会
レナとマユがカフェで会ってから2週間後。
その日レナは、都内のあるスタジオを訪れていた。
モデルとしてはリサのデザインした服を着て、ブランドのポスターやカタログ用の写真を撮られるのがレナの仕事だったが、今回の仕事はいつもと違う。
あるバンドのプロモーションビデオに出演して欲しいと言う依頼だった。
なんでも、そのバンドの所属する事務所の社長の妻と娘が`アナスタシア´の洋服と、その`アナスタシア´のモデルをしているレナの大ファンで、是非とも`アナスタシア´の衣装を着たレナに、今度デビューする期待の大型新人バンドのプロモーションビデオに出演して欲しいと、熱烈なオファーがあったのだと言う。
事務所の社長とリサが旧知の間柄であることもあり、レナとしてはあまり気が進まなかったものの、リサの顔を立てるつもりで今回のオファーを引き受けることになったのだ。
ビデオ撮影の後は、マユが編集長をしている女性向けファッション情報誌の写真撮影を、カメラマンとして行うことになっている。
撮影のためにモデルの“アリシア”としてスタジオ入りしたレナは、衣装として用意された`アナスタシア´のワンピースに身を包んでカメラの前に立っていた。
「初めまして、オレはこのバンドのボーカルでタクミと言います。今日はよろしくお願いします。」
人懐っこい笑顔を浮かべた若い男性に声を掛けられ、レナも軽く頭を下げる。
「初めまして、アリシアです。よろしくお願いします。」
撮影はタクミと一緒のシーンと、レナが一人で映るシーンがあり、他のメンバーは楽屋に控えているらしい。
ビデオ撮影は順調に進み、雑誌の撮影準備のため一旦休憩となった。
出演シーンの撮影を終えたレナが、着替えとカメラマンとして写真撮影をする準備のために、楽屋に向かって廊下を歩いていると、自販機の設置された喫煙スペースに二つの人影が見えた。
こちらに背を向けてタバコを吸っている男性に、若い女性が絡み付くようにすり寄っているのが視界に入る。
「ねぇ、最近どうしてるの?また遊んでくれるって言ってたのに、どこ行ってもなかなか会えないじゃん。すっごい会いたかったんだよぉ。」
レナは、甘ったるいその声から、その女性は最近人気のグラドルのエミリだと気付いた。
エミリは背の高いその男性の腕に、自慢の豊満な胸を押し付け、媚びるように甘えた声を出している。
(こんな所で…。気付かれないように知らん顔して早く通り過ぎよう。)
レナが通り過ぎようとしたその時。
「あぁ…。ごめん、最近忙しくて。」
男性は少し困ったように答える。
(えっ…?)
遠い記憶に残る聞き覚えのあるその声に、レナは驚き、一瞬足を止め、そちらの方を振り返った。
「もう…仕方ないなぁ…。絶対また遊んでね?今度はうちに泊まりに来て。この前みたいに、終わった後さっさと帰っちゃわないでよ。」
エミリは男性の首に手を回し、とびきり甘い声でそう囁くと、背伸びをして男性の顔に自分の顔を近付ける。
「ねぇ…お詫びにキスして?」
(えぇっ?!こんな所で…!!)
エミリの大胆な行動に驚くレナが見ていることにも気付かずに、男性はタバコを灰皿の上で揉み消し、やれやれと言った様子で少し身をかがめる。
「ハイハイ。」
男性は適当な返事をしたその唇で、エミリの唇にキスをした。
(……!!)
突然、他人のキスシーンを目の当たりにしてしまったレナは、思わず手で口元を覆って絶句した。
男性との濃厚なキスを終えると、エミリは満足げににっこりと笑って手を振る。
「じゃあね、ユウくん。」
まるで何事もなかったように、去って行くエミリを振り返ろうともしない、“ユウくん”と呼ばれたその男性は…。
(…ユウ……。)
楽屋に戻ろうとこちらを向いたユウが、呆然と立ち尽くす茶色く長い髪のスラリとした長身の女性に気付く。
その瞬間、ユウは、一瞬時が止まったように目を見開いた。
「…レナ……。」
名前を呼ばれて我に返ると、レナは慌ててその場から走り去った。
(何…?今の…本当に、ユウ…?!)
必死で楽屋に戻ったレナは、ドアを閉めてペタンと床に座り込む。
さっき目にしたばかりのユウとエミリのキスシーンが、レナの頭から離れない。
(一体…どう言うこと?!)
10年前、何も言わずに姿を消したユウが突然現れ、女の子とキスをしていた。
混乱する頭とざわつく心を落ち着けようと、レナは目を閉じて、大きく息をつく。
信じられない気持ちを無理やり押さえ込み、メイクを落とし、なんとか着替えを済ませる。
再び普段通りの軽いメイクをするために、鏡の前に座ったレナは、鏡に映った自分を見ながら、胸元のネックレスに通された指輪に、そっと触れた。
(本当に、ユウ…なの?)
思いがけず突然再会したレナの後ろ姿を、ユウは声を掛けることもできずに見送っていた。
(なんで、ここにレナが?!)
まとまらない思考を巡らせ、もう一度タバコに火をつけると、大きくため息をつく。
(10年ぶりなのに…選りに選ってあんなところ見られたなんて…最悪だ…オレ…。)
日本を離れ、ロンドンへ渡って10年。
尊敬するミュージシャンのヒロの元で、ユウはギタリストとして活動していた。
もう日本には戻らないつもりで、レナのことも忘れようと必死だった。
ギタリストとしては充実した毎日を送っていたが、レナを忘れようと何人かの女性と付き合い、そうでない何人もの女性と体を重ねてみたものの、忘れようとすればするほど、自分の中のレナと言う存在は大きくなった。
でも、あんなふうに別れた手前、もうレナに会うことはできないと思っていた。
単身赴任先のドイツで母の直子が再婚してドイツに住むことになったこともあり、日本にはもう帰る必要もなかった。
しかし、ヒロの突然すぎる「日本でデビューしろ」と言う言葉に、躊躇しながらも帰国して2ヶ月。
デビューの準備をしながら、飲みに出掛けた夜の街で知り合った女の子たちとも、適当に男女の関係にもなったが、結局、ロンドンへ渡ってからの10年も、再び日本へ戻ってからも、誰も本気で好きになることはできなかった。
本気になるどころか、ロンドンに渡ってしばらく経った頃から、誘われるままに好きでもない女性を抱いた後、必ずレナの夢を見ると言うことに気付いた。
夢の中でレナは、いつも決まって泣いていた。
ユウが無理やり押し倒してキスをした後の泣き顔と、ユウがサエと付き合い始めレナを避けるようになってからの何か言いたげな寂しそうな顔ばかりが、罪悪感と共に夢の中で蘇った。
それでもいつしか、夢の中でも、泣き顔でもいいからレナに会いたいと言う気持ちが、ユウの胸の中で大きくなり始めた。
だから、相手なんて誰でも良かった。
本気で好きになることなど、レナ以外の誰かでは、有り得ないのだから。
でも……。
また、出会ってしまった。
もう、会うことなどないと思っていたのに。
今更、レナに想いを告げる資格など、自分にはない。
最悪な、10年ぶりの再会。
(最低だって、嫌われるくらいがちょうどいいのかも…。これで、レナへの気持ちにあきらめがつくのなら…。)
ユウは短くなったタバコを揉み消し、楽屋へと歩き出した。
カメラや機材の入ったバッグを肩にかけ、レナはスタジオに戻ろうとドアノブに手を掛ける。
(とりあえず、さっきのことは一旦忘れよう。これからまた、撮影の仕事があるんだから。)
大きく深呼吸を2度、3度と繰り返し、両手で軽く頬を叩くと、レナは楽屋のドアを開けてスタジオへ向かった。
ユウが楽屋のドアを閉めたすぐその後、カメラの入ったバッグを肩にかけたレナが、廊下の角を曲がって歩いてきて、その楽屋の前を通り過ぎた。
レナがスタジオに入って撮影の準備を始めると、背後からハイヒールの音を響かせて近付いて来る人物がいた。
「レナ、今日はよろしくね。」
振り返ると、パリッとしたスーツ姿のマユが笑ってそこに立っていた。
「こちらこそよろしくお願いします、編集長。」
レナも笑って、軽くお辞儀をする。
マユは大学を卒業してから出版社に就職。
いくつかの雑誌の編集部で経験を積み、最近出版されたばかりの女性向けファッション情報誌の編集長になっていた。
「須藤さんの具合どう?」
「うん…。まだ熱が高いみたいで。」
「どこでもらって来たのかしらね?」
「さぁ…。最近流行ってるしね。撮影でもあっちこっち行くから、どこでもらったのかもよくわからんって言ってた。」
この仕事は、本当は須藤がカメラマンを務めるはずだったのだが、須藤がインフルエンザにかかってしまったため、急遽レナが引き受けることになったのだ。
準備を進めながらマユとそんな会話をしているうちに、今日撮影するバンドのメンバーがぞろぞろとスタジオに姿を現した。
先程一緒にビデオの撮影をしたタクミの姿もある。
タクミはカメラの調整をしているレナに気付き、近くに来て驚いたように声を掛ける。
「あれっ?衣装とか髪型とか変わって感じが違うけど…さっきのモデルのアリシアちゃんだよね?」
レナは少し笑ってお辞儀をする。
「本業はカメラマンです。高梨です、改めてよろしくお願いします。今日皆さんを撮影する予定だったカメラマンの須藤が急病のため、今日は私が皆さんの撮影をさせていただきます。」
レナの説明に、他のメンバーたちも集まってくる。
「よろしくお願いします。`ALISON´のリーダーのハヤテです。」
髪を金色に染めたハヤテと言う青年が、軽く頭を下げる。
「こんなキレイなカメラマン初めて見たわ。オレ、トモです。よろしく。」
「リュウです。よろしくお願いします。」
「どうも…。よろしくお願いします。」
あっという間に4人の男性に取り囲まれたレナは、少し戸惑うように半歩、後ずさった。
「えーっと…そろそろ皆さんお揃いですか?」
「いや、あと一人。もう来ると思います。」
「わかりました。」
今朝手渡された資料をロクに見る暇もなく、先程の休憩の時間は混乱していたため、ゆっくり目を通す余裕もなかった。
(いけない…。メンバーのことをまったく何も知らないで撮影するなんて、失礼だよね。)
傍らに置かれていた資料に急いで目を通そうと表紙をめくると同時に、ハヤテがスタジオの入り口に向かって大きな声を出した。
「あっ、来ました!遅いぞ、ユウ!!何やってんだよ!!」
(えっ…?!)
「悪い…。」
入り口からこちらに向かって来る長身の男性は、さっきのキスシーンの男性…10年前より大人の男の顔をした、ユウだった。
突然のことに、声も出ないレナ。
顔を上げて、その視界に飛び込んでくるレナの姿に驚いて、言葉を失うユウ。
「もしかしたらって思ってたけど、やっぱり片桐だ、久しぶりねー。元気だった?」
マユの姿にまた驚くユウ。
「佐伯…?」
「ビックリした?でも今は佐伯じゃなくて三浦だけどね。」
「え?!」
会話の内容についていけないメンバーたち。
「あれ?知り合い?」
タクミが、ユウとマユを交互に見る。
「ああ、うん…。」
ユウがバツの悪そうな顔で返事をする。
「まぁ、その辺はまた時間があったら、ってことで。そろそろ、撮影の方お願いしますね。」
ニコリと笑うと、マユは撮影開始を促す。
(とりあえず、今は仕事のことだけ考えよう…。)
レナはカメラを構えると、いつものポーカーフェイスで取り掛かるのだった。
数時間後。
無事に撮影を終えたレナが機材の片付けをしていると、その隣にマユが立つ。
「レナ、この後時間ある?」
「ああ、うん。もう今日はこれで終わりだし、大丈夫だよ。」
「この間もちょっとお茶しただけだし、久しぶりにゆっくり食事でもどう?軽く飲みに行かない?」
「うん、いいよ。」
二人が約束を交わしていると、タクミがそばにやって来る。
「お疲れ様でーす。」
「あ、お疲れ様でした。」
ペコリとレナが頭を下げると、タクミが人懐こい笑顔で二人を誘う。
「この後オレたち飲みに行こうかと思ってる
んですけど、良かったらお二人もどうですか?」
「えっと…。」
「いいんじゃない?」
レナが迷っているうちに、マユがあっさり承諾した。
その場の流れで`ALISON´のメンバーとマユと共に食事に行くことになってしまったレナは、
案内されたバーのイスに座り、小さくため息をついた。
左隣にはタクミ、右隣にはマユ。
ユウは向かいの席に座り、うつむいてタバコに火をつけた。
お互いに目を合わせることもなく、まるで知らない他人のように振る舞う。
「アリシアちゃん、何飲む?」
タクミがレナにメニューを手渡す。
「じゃあ…白ワインを…。」
「編集長さんは?」
「私も同じもので。」
「じゃあ、ボトル頼んじゃおう。」
飲み物と料理をいくつかオーダーすると、タクミはレナの顔を覗き込むようにしてニッコリ笑う。
「疲れちゃった?」
「少し…。」
レナは小さく笑みを浮かべる。
「ね、あーちゃんって、呼んでもいい?」
「あーちゃん…?」
初めて呼ばれるニックネームに、レナは少し気恥ずかしさを覚えた。
「ダメ?」
「うん…別に、いいけど…。」
「じゃあ改めてよろしくね、あーちゃん。」
タクミは運ばれてきたグラスをレナに差し出し、ボトルからワインを注ぐ。
「あ、ありがと…。」
タクミはもうひとつのグラスをマユに差し出し「ハイ、編集長さんも。」と、こちらにもワインを注いだ。
「あーちゃんと編集長さんはお友達?」
タクミの問いに、マユはワインを一口飲んで答える。
「そう。小学校4年の時からね。」
「へぇ、幼なじみってやつだ。」
“幼なじみ”と言う言葉に、レナの胸はトクンと音を立てる。
(幼なじみ…か…。)
静かにワインを飲み、そっとユウの方を窺うと、ユウは黙ってビールの入ったグラスを傾けていた。
「片桐も幼なじみだけどね。」
マユの一言にこちらを向くユウ。
レナは咄嗟にうつむき目をふせる。
「そうなんだ。だからさっき…。」
タクミがユウの方を向く。
「片桐、突然学校辞めて姿消しちゃったから、みんな心配したんだよ。どこに行ったのか、誰も知らないし。」
「ああ…、うん。」
ユウはマユに、心ここに在らずと言ったような曖昧な返事をする。
何から話せばいいものかと、ユウはユウで戸惑っていた。
レナは、さっきからこちらを見ようともしないで目をそらしている。
(仕方ないか…。あんなところ見られちゃったしな…。)
ユウは運ばれて来た料理を口に運びながらも、味わう余裕もなかった。
レナは時々料理とワインを口にしながら、隣の席のタクミからの問い掛けにためらいがちに答えている。
「ハイ、あーちゃん、飲んで飲んで。」
空になったレナのグラスに、ボトルのワインを注ぐタクミを見て、ユウは少しの苛立ちを覚えていた。
(タクミのヤツ…レナにくっつきすぎだ…。)
立ち上がって二人の距離を遠ざけたい衝動をぐっと抑えるようにユウはグラスのビールを煽った。
(あの頃もかわいかったけど…大人っぽくなって、キレイになったな…。)
何か、話したい。
でも、話せない。
昔はいつも二人一緒にいて、とりとめのない話をしていたのに、今はそばに行くことさえできない。
そんなまどろっこしさが、ユウの胸をギュッと掴んで離さない。
まるで、レナに恋い焦がれていた頃の、高校生の頃の自分に戻ったようだ。
(でも…きっとレナはオレのことなんて…。)
明日からは、また会うこともないのだろう。
お互い別々の場所で、知らない人同士のように、それぞれの生活を送るのだろう。
(今日だけ…。今日だけだ…。)
ユウはそう思いながら、タクミとマユと笑って話すレナの姿を、そっと見ていた。
結局、バーに一緒にいた2時間ほどの間、ユウとレナが言葉を交わすことも、目を合わせることも、ただの1度もなかった。
2週間後。
ユウの思いとは裏腹に、その知らせは届いた。
ユウたちのバンド`ALISON´のライブツアーを、マユが編集長をしている雑誌で密着取材すると言う企画が持ち上がり、そのカメラマンをレナが務めることになったのだと言う。
先日発売された雑誌の`ALISON´の巻頭10ページグラビア付き特集記事が読者から大好評で、特に掲載された写真は反響が大きかったらしい。
まだデビューして間もないバンドなのに、世間から広く受け入れられたことが嬉しいと思う反面、またレナと会うことになってしまうことに、ユウは戸惑っていた。
(どんな顔して会えばいいんだ…。)
再会したあの日から、大人になったレナの笑顔が、ユウの頭から離れない。
ずっと思い浮かべていた、まだあどけなさの残る18歳の頃の面影を残して微笑むレナ。
長く艶やかな、茶色い髪。
華奢な肩、細い指、茶色く潤んだ瞳。
レナのすべてが、ユウの心を捕らえて離さない。
(薬指…指輪、してなかったな…。)
結婚は、していないのだろうか。
恋人はいるのだろうか。
好きな人は、いるのだろうか…。
また会ったら…きっと、もう、自分の気持ちに嘘をつくことも、気持ちを抑えることも、出来なくなってしまう。
たくさんの女性との経験を積んで、愛のない関係も割り切ってしまえるくらい、すっかり大人になったはずなのに、今のユウは、傷付くことと失うことを怖がっていたあの頃のように、愛しくて恋しくてどうしようもないくらい音を立てて胸をときめかせている。
(いい歳して…コドモじゃあるまいし…。)
ロンドンでレナを忘れようとしていた頃とは違う、忘れかけていた胸の痛みにユウは戸惑う。
でも、ユウの戸惑いなどお構いなしに、ライブツアーの密着取材にレナが同行すると言う決定事項は、どうにもならないようだ。
メンバーたちはライブの様子が雑誌に大きく取り上げられることを喜び、タクミは“またあーちゃんに会える!!”と手放しで喜んでいる。
(まさか…タクミのヤツ、レナのこと…?!)
ユウの胸に、どうにもならない焦りが広がるのだった。
「密着取材?」
呼び出された雑誌の編集部で、レナもまた戸惑っていた。
企画書をマユに手渡され、パラリとその表紙をめくる。
(ユウ…。)
バンドメンバーと一緒に写る、大人の男になったユウの姿にレナの心は途端にざわつく。
「この間のレナの写真、すごく反響が大きくてね。今回もレナの写真で行こうって。」
コーヒーを差し出しながら、マユは満足げに微笑む。
レナはコーヒーを受け取り、静かにカップを口に運ぶ。
「私でいいのかな?こういった仕事は私より須藤さんの方が…。」
普段は人物より風景や物の写真を撮影する仕事が多い自分に、そんな仕事ができるのだろうか?
彼らの魅力を余すところなく引き出せるだろうか?
「須藤さんがすごいのはよくわかってるけど、読者は女性だからね。レナの、女性目線で見る彼らの表情が受けたんだと思うの。」
そう言ってマユはレナの肩をポンと叩いて、真剣な顔で続けた。
「レナのカメラマンとしての腕を見込んでのオファーよ。この仕事はレナにしかできないって、私は思ってる。レナと片桐の間に何があったのか…それは私にはわからないけど…。ここはプロとしてこの仕事を引き受けて欲しいの。」
マユの言葉に、レナは少し考える。
(これが日本で最後の仕事になるかも…。)
「そうだね…。わかりました、よろしくお願いします。」
カメラマンとして、ユウたちを見届けよう。
レナは、そう決心した。
この仕事が終われば、きっともう、彼らと……ユウと、会うこともないのだろう。
(だって私は、この仕事が終わった頃には、ニューヨークへ行って…須藤さんと…結婚、するんだから…。)
レナと須藤が出会ったのは、レナが10歳の頃だった。
`アナスタシア´のカメラマンとして紹介されたのが、23歳の須藤だった。
人見知りでカメラに向かって笑うのが苦手だったレナは、カメラマンの「笑って」と言う注文が、大の苦手だった。
そんなレナに、無理に笑わなくてもいい、そのままのレナでいいんだと須藤は言ってくれた。
須藤は、レナの自然な表情を最大限に引き出してくれた。
撮影の日は決まって憂鬱だったはずなのに、彼がカメラマンを務めるようになってからは、いつもリラックスしてカメラの前に立つことができた。
レナにとって須藤は、歳の離れた兄のようでもあり、時に父親のように見守ってくれる存在でもあった。
ユウが突然いなくなって落ち込んでいた時も、須藤は何も言わずにただ黙って、レナの寂しさや悲しみを静かに受け止めてくれたのだ。
レナがカメラマンとして彼の下で働くようになってからは師匠でもある。
そんな須藤が、ニューヨークに住む友人と共に写真スタジオを立ち上げ、仕事と生活の拠点を移すと言う話が持ち上がったのが半年前のことだった。
その時、彼はレナの将来を誰よりも心配し、ニューヨークに一緒に行かないかと誘った。
ただ一緒に連れて行くだけではなく、自分にもしものことがあった時にレナが路頭に迷わないように、自分の築いてきたものがレナに残せるように、と結婚を申し出た。
レナと13歳も年の離れた須藤との間に恋愛関係はなかったが、随分悩んだ末に、昔から信頼を寄せている彼にならば、ついて行ってもいいかも知れないと思い、ニューヨークについて行くことと結婚することを承諾した。
それが、つい1ヶ月ほど前。
ユウと再会する、ほんの2週間ほど前のことだった。
プロポーズを承諾した後も、レナと須藤の間にはなんの変化もなかったが、須藤はレナに“無理にオレを好きにならなくてもいい”と言った。
恋愛感情はなくても、信頼関係なら充分にできている。
もし一緒に暮らすうちに自然とお互いを求め合うような感情が生まれれば、それはそれでいい、とも言った。
「オレは、嫌がるレナを無理やりどうにかしようなんて、思ってないから。」
そんな須藤の言葉に、ふと、ユウのことが浮かんだ。
ユウがいなくなってからの10年。
気が付けば、レナは、誰とも恋愛と言うものをせず、春には29歳になろうとしている。
ユウのことが、好きだった。
それが幼なじみとしてなのか、恋をしていたのかさえもわからないまま、答えのない迷路をさまよっていたような10年間だった。
ただ、自分にとって誰よりも特別で大切だったユウと言う存在を、簡単に忘れることはできなかった。
背が高くて頼もしかった。
大きな手で優しく頭を撫でてくれたり、はぐれないようにと手を繋いでくれたり…レナが雷に怯えている時には、優しく背中を叩き、ギュッと抱きしめてくれた、いつも守ってくれた優しいユウ。
そんなユウが、突然なんの前触れもなく大人の男に豹変して、いつも守ってくれたその手でレナを押し倒した。
それからユウは、レナのことをまったく見なくなって、たくさんの女の子と噂になって…。
何も言わずに、消えてしまった。
また会えたらと思いながら待ち続けたけれど、もうそろそろ、前に進まないと――。
いつまでも、見つからない答えを求めてさまよっているわけにはいかない。
ユウのことを待つのは、もうやめよう。
思い出の中に、優しかった大好きなユウを閉じ込めて、悲しかったユウとのできごとはもう、忘れてしまおう。
そう自分に言い聞かせて、須藤と共にこれからの未来を歩いて行くことを決めた。
それなのに…。
もう会えないかも知れないとあきらめた矢先に再会したユウは、おそらく彼女ではない女の子とキスをしていた。
誰とでもするんだと、レナはショックを受けた。
10年前のあの時…さんざん悩んだのはなんだったのだろう?
もう10年も前のことにこだわるのは、子供っぽいのかも知れない。
きっとたくさんの女の子とキスしてきたユウはたかがキスくらいで…と、鼻で笑うのかも知れない。
だけど…。
(どうしても私にはわからないよ…。あんなに優しかったユウが、あの時、どうして急に変わってしまったのか…。嫌いになったのなら、せめて理由が知りたかった…。でも…。)
写真に写る、まるで知らない人みたいに大人になったユウを、指でそっとなぞる。
すっかり変わってしまったユウとの最悪な再会は、レナの心を大きく揺らし始めていた。
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