別れの時

ライブツアー最終日の翌日。


レナは午後からマユの雑誌の編集部へ立ち寄り、ライブの写真のデータを渡すとどの写真を使おうか、あれこれ相談していた。


膨大な写真の量に、マユは目を丸くする。


「こんなにたくさんある中のほんの一部しか使わないなんて、もったいないなぁ。いっそ、うちの編集部から写真集出しちゃおっか?絶対売れるよー!!」


「雑誌発の料理本とか収納本とかの感覚?」


「そう言うことかな。」


「ふふ…。編集長におまかせします。」


そんな話をしながら作業を進め、気付くともう、時計は夕方の5時を回っていた。


「集中してるとあっという間ね。」


マユは二人分のコーヒーをカップに注ぎ、レナに手渡す。


「レナ、打ち上げ…行くよね?」


「……。」


レナは迷っていた。


もう、ユウには会わない方がいい。


でも、すっかり仲良くなった`ALISON´のメンバーたちやライブのスタッフたちに、一言の挨拶もなく日本を発つことは心苦しい。


仕事上の付き合いなんだから行かないとまずいかな…と、まるで言い訳をするように、打ち上げに行かないといけない状況であることの口実を探す。


「行くよね?日本で最後の夜なんでしょ?」


「うん…。」


「パーっと楽しもうよ。せっかく頑張って来たんだからさ。ねっ?」


マユのいつになく力強い説得に負けたレナは、内心少しだけホッとしながらうなずく。


「そうだね…。」


コーヒーを飲んで一息つくと、レナとマユは編集部を後にした。


「打ち上げ何時からだっけ?」


「6時から。」


「もう始まってるね。」


「今日は店貸し切りで、ライブのスタッフも大勢来るみたいだから、あまりメンバーたちと話すヒマないかな?」


「そうかもね。」




バーに着くと、既にたくさんのスタッフたちが集まっていた。


「賑やかになりそうだねぇ。」


「うん。カメラ、持ってきた。」


「さすが!!打ち上げの様子も掲載できるね。」


レナとマユは隅の方の席を取り、ウェイターから受け取ったワインに口をつけた。


会場をゆっくり見回してみると、ユウは随分離れた場所でスタッフたちと談笑している。


そっとユウを見ているレナを、マユもまたそっと見ていた。


(本当は気になってしょうがないくせに…。)


レナは、自分の本当の気持ちに気付いていないのかも知れない。


それとも気付いていないフリをしているのか、あえて見ないようにユウに背を向けて、自分の気持ちから目をそむけているのかも知れない。


(せめて…レナと片桐が長い間大切にしてきた想いが、お互いにきちんと伝わればいいけど…。)




バーでの一次会の後、場所を変えての二次会が行われ、レナとマユも参加していた。


にぎやかだった二次会もそろそろお開きになる頃、タクミがレナの元にやって来る。


「この後、もう少し大丈夫?」


時刻はもうすぐ11時を回ろうとしている。


「うーん…どうしようかな…。」


時計を見ながらレナが答える。


「この後、メンバーだけでゆっくり飲み直そうかと思ってるんだけど、あーちゃんと編集長さんも来てよ。全然ゆっくり話せなかったじゃん。」


少し迷っている様子のレナを見て、タクミはマユにお願いするように目配せをした。


その様子にピンときたマユは、ポンとレナの肩を叩く。


「レナのことだから、ニューヨークへ持って行く荷物とかマンションを明け渡す手配とか、準備は完璧なんでしょ?」


「うん、まぁ。」


「明日の飛行機は早い便なの?」


「ううん、夕方。」


「じゃあさ、せっかくお誘いいただいたんだから、行っちゃおうか。レナがニューヨークに行っちゃったら、そうそう頻繁には会えないもんね。」


「うん…そうだね…。」


マユの言葉に驚いたタクミは、マユを手招きする。


「編集長さん、ちょっといい?」


タクミはマユを呼び出して、二人でカウンター席に座った。


「ね…あーちゃんがニューヨークへ行くってどう言うこと?」


「ああ…レナ、何も言ってないんだ…。レナ、ニューヨークに行くんだ。そんで、結婚するのよ。」


「えっ、そうなの?」


タクミはマユの言葉に驚きを隠せない。


「相手はレナよりも13も年上のね、レナが子供の頃から世話になってるカメラマンの人よ。ほら…うちの雑誌の初めての撮影の時に急病で来られなくなった須藤さんって人。」


「ああ…。そう言えば、確かにそんな話、したね。」


「でもね…レナと須藤さんって、恋愛とかそう言う関係じゃないんだよね。」


「え…それなのに結婚?!」


「うん…子供の頃からレナをずっと見守っているような、そんな人。レナを一人にさせるのが心配だから、ニューヨークに連れて行くのに、レナを守るために結婚って形をとることにしたみたい。」


「そうなんだ…。」


タクミは少し考えて続ける。


「ユウ、多分そのこと知ってるんだ。だから昨日のライブで…。」



ライブの前夜、アンコールの時でいいから自分に少しだけ時間をくれと言ったユウは、どこか思い詰めた表情をしていた。


「うちのバンドの名前ね…ユウがつけたの。」


「そうなの?」


「この間、調べ物してて偶然知ったんだけど、`ALISON´って、`ALICE´と同じ意味の女の子の名前なんだって。あーちゃんの`ALICIA´もそうらしいんだよね。」


「へぇ…。」


「あーちゃんって、レナって言うんだよね?」


「うん。」


「ユウ…ロンドンにいた時から、時々うわ言で“レナ”って言ってた。“レナ、ごめん”って…。あーちゃんの夢見てたんだね、きっと。」


「そうなんだ…。」


「ロンドンに行ってからまだ2年目くらいの頃かなぁ…。ユウから1度だけ聞いたことがあるんだよね。すごく好きな女の子がいたけど、いつも一緒にいたのに、一緒にいられなくなるのが怖くて、結局好きだって言えなかったって。好きだって言わなかったくせに、自分を好きになってもらえないことに腹を立てて、ひどいことして、傷付けて泣かせてしまった、って…。ロンドンに来てから、誰かと一夜を共にすると、彼女の夢を見るんだって言ってた。」


それを聞いてマユはハッとした。


バーで二人で話した時、ユウはロンドンに行ってからの10年間、自分がどんなにいい加減なことをしてきたかと言っていた。


誰と何をしてもドキドキしないし気持ち良くもない、とも言っていた。


「そっか…それで片桐は…。」


「うん、多分ね。」


タクミはうなずいた。


「夢でもいいから、彼女に会いたかったんだろうね…。愛のないセックスと引き替えに、もう会えないと思ってたあーちゃんに、夢の中まで会いに行って…。」


「謝ってた…ってこと?」


「うん…おそらくそう。」


「バカね、アイツ…。本人に一言謝って好きだって言えば済むのに…。」


「うん、ホントにね。」


そこまで話すと、タクミはマユに向かってニッコリと笑った。


「そんな訳だからさ…うちのおバカな男に、最後のチャンス与えてやるの、協力してくれる?」


「もちろんよ。うちの鈍感なお姫様にも、そろそろ自分の本当の気持ちに気付いてもらいたいからね。」




二次会がお開きになり、メンバーたちと飲み直すことになった。


2台のタクシーに分かれ乗車する。


途中のコンビニで、レナとマユと一緒に乗っていたリュウとハヤテが、大量の酒とツマミを購入して戻ってきた。


「どこで飲むの?」


マユが尋ねると、助手席に乗っていたハヤテが振り返る。


「ユウの家です。ユウの家、リビングが広くて防音がしっかりしてるんで。」


「なるほどね。」


タクシーは夜の街を走り、ユウの住むマンションへと向かう。


もう1台のタクシーの中では、ユウ、タクミ、トモが一足先にユウの家へ向かっていた。


マネージャーは酒に弱く、三次会は遠慮して帰ったらしい。



後部座席に座ったタクミは、隣に座っているユウに静かに話しかける。


「ユウ…。昨日のライブの後、あーちゃんとちゃんと話せた?」


ユウは少し驚いたようにタクミを見る。


「あーちゃん…ニューヨークに行って、結婚するんだろ?」


「…うん。」


頭の回転の速いタクミは、何も言わずとも、ユウの気持ちに気付いているらしい。


「これ、最後のチャンスだからさ。せめて、自分の気持ちくらいはちゃんと伝えなよ。」


タクミの言葉に、ユウは何も答えられずにいた。


「どうにもならない現実があるのもわかるけどさ…ユウのその気持ちも、どうにもならないでしょ。」


「…うん…。」


「せめてさ…ちゃんと伝えてから、自分の気持ちにケリつけなよ。」


「……そうだな。」


ユウの部屋で、三次会は和やかに始まった。


リュウとハヤテがコンビニで調達してきた缶ビールや缶チューハイを飲みながら、今回のライブの話などで盛り上がる。


レナとマユは、リビングの大きなソファーに座り、缶ビールを飲みながら、楽しげに談笑するメンバーたちを眺めていた。


ユウの部屋に来てからも、レナとユウはよそよそしく距離を置く。


時々、ふざけたトモとリュウがレナに写真を撮ってくれとせがんだり、逆にレナとマユの写真を撮ったりしていた。


「あーちゃん、カメラ見せてよ。オレ、カメラ好きなんだよね。いい?」


タクミがレナのそばに来て手を差し出す。


「あ、うん、いいよ。」


カメラを受け取ると、タクミは嬉しそうにカメラを眺める。


「さすがプロのカメラマン!いいカメラ使ってるなぁ。」


タクミは大袈裟にカメラを構えレナとマユにレンズを向ける。


「ハイべっぴんさん、笑ってー。」


おどけてそう言って、レナとマユのツーショットを撮る。


「おお、オレ、プロになれんじゃね?」


タクミは自分の撮った写真を絶賛する。


「モデルがいいからだろ!!」


「オレたちも撮れ!!」


「イヤだ、カメラが汚れる!!」


「ひでぇ!!」


タクミとトモとリュウが楽しいやり取りをする。


「ユウ、こっちこっち。」


タクミはユウを手招きで呼び寄せ、レナの隣に座らせる。


「やっぱ撮るなら美男美女でしょ!ほら、ユウ、あーちゃん、笑ってー。」


タクミはあたふたしている二人にカメラを向ける。


「ほらほら、二人とも表情カタイよー。もうちょっとくっついてみてよ。」


タクミの注文に驚きながらも、ユウは隣に座っているレナとの距離を詰め、そっとレナの肩を抱いた。


「これでいいか?」


突然のことに、レナは真っ赤になりながらも、タクミの構えるカメラの方を見た。


カシャッ。


タクミがシャッターを切ると、ユウは照れたようにレナから手を離し、何も言わずに立ち上がって、再び元いた場所へ戻ってしまう。


「照れ屋さんだねぇ、ユウは…。でも、おかげでいい写真が撮れたよ。やっぱオレ、プロになれんじゃね?」


そう言いながらタクミはカメラをレナに返す。


「ハイ、あーちゃん、ありがとね。」


「あ、うん…。」


受け取ったカメラには、ぎこちなく肩を寄せ合うレナとユウの姿。


赤くなった頬を隠すように、レナはうつむいてその写真を見る。


ユウと二人で写真を撮るのは何年ぶりだろう?


レナはふと、18歳の誕生日に二人で行ったテーマパークの観覧車の中で撮った写真を思い出した。


こんなふうにユウに肩を抱かれ、肩を寄せ合って撮ったツーショット。


(でも、きっとこれが、最後の写真になるんだろうな…。)


レナは、胸に湧き上がる寂しさを感じながら、画面に映る二人の姿を細い指でそっと撫でたのだった。




いつしか夜も更け、酔って上機嫌なメンバーたちはユウの部屋を後にした。


ソファーにはマユにもたれてスヤスヤと寝息をたてるレナがいる。


マユはユウを手招きして呼び寄せると、優しくレナの髪を撫でた。


「レナ…よく眠ってるね。起こすのがかわいそう。きっと疲れてたんだね。」


ユウはブランケットをレナにかける。


「私、明日もまた仕事で早いんだ。あと、まかせるね。」


「えっ…。」


レナを起こさないようにそっとソファーに寝かせると、マユはユウの方を向いた。


「気持ちを伝えるなら、最後のチャンスだよ。レナ…明日の夕方の便で、ニューヨークに発つんだ…。レナの答えは私にもわからないけど…二人でちゃんと話して。」


「うん…。」


ユウが静かにうなずくと、マユはニコリと笑い、ユウの肩をポンポンと叩いて、静かに部屋を後にした。




広い部屋に二人きり。


さっきまでの賑やかさが嘘のように、途端に夜の静寂が二人を包む。


ユウは静かにソファーに座ると、そっとレナの頭を持ち上げ、自分の膝の上に乗せた。


そして、愛しげにレナの寝顔を見つめると、そのつややかな髪をそっと撫でた。


(かわいいな…。)


ユウの心は、自分でもビックリするほど穏やかだった。


(昔よく、レナの頭を撫でたっけ…。)


何度も優しくレナの頭を撫でるユウの顔には、いつしか安らかな笑みが浮かんでいた。


(このまま時間が止まればいいのに…。)


レナは、温かなぬくもりに包まれまどろんでいた。


優しく大きな手が、愛しげに何度もレナの頭を撫でる。


「ん…ユウ…。」


レナの小さな呟きが、静かな空間に響く。


(レナ…今、オレの名前…!)


ユウは、驚きと嬉しさで胸がいっぱいになり、愛しさが込み上げて、思わず呟いた。


「レナ…好きだよ…。ずっと…ずっと、好きだった…。」


そしてまた、優しくレナの髪を撫でる。


「何度も泣かせてごめん…。」


ユウの呟きは、夜の静寂にゆっくりと溶けていった。




夢の中で、レナはユウと手を繋いでいた。


18歳の誕生日に二人で行ったテーマパークの帰り道だ。


大人になった二人は、お互いにプレゼントし合った指輪をした手を繋ぎ、寄り添って歩く。


繋いだ手が、温かい。


何気なく交わすユウとの会話が心地良くて、レナは自然に笑っていた。


隣には、優しく微笑むユウ。


(ずっと、一緒にいたいな…。)


この気持ちはなんだろう?


温かくて、どこか照れ臭くて、ふわふわと柔らかくレナを包み込む。


(私、ユウのことが、大好き…。)




ふと目を覚ますと、レナは見慣れない部屋で誰かに膝枕をされていた。


(えっ…?!)


状況がいまいち把握できないまま、レナはそっと起き上がろうとした。


「目、覚めた?」


膝枕の主が、優しく尋ねる。


「あっ…ごめん…。私、いつの間にか寝ちゃったんだね。…重くなかった?」


「全然。疲れてたのに、無理に誘って悪かったな…。もっと寝てても良かったのに…。」


今までそこにあったレナのぬくもりを惜しむように、ユウが言う。


「そう言う訳には…。」


レナは少し苦笑する。


窓の外は、まだ暗い。


「…カフェオレでも、飲む?」


そう言って微笑むユウは、まるで高校生の頃にいつも一緒にいたユウのように穏やかな顔をしていた。


「…ありがと…。」


レナは、キッチンでカフェオレを作るユウの背中を見ながら、ぼんやりと考えていた。


(ユウ…昔よく、こんなふうにカフェオレ作ってくれたっけ…懐かしいな…。)


懐しい光景を前にレナはふと思う。


(さっき…何か…夢を見てたような…。)


どんな夢だったのか、思い出そうとしても思い出せない。


ただ、温かくて、優しくて、とても幸せな気持ちだったことだけは覚えている。


ぼんやりと考えているレナの前に、コトリとカフェオレの入ったカップが置かれ、レナは思わず顔を上げた。


その瞬間、不意にユウと目が合う。


「あっ…。」


思わずレナは目をそらしたが、ユウと目が合った瞬間にさっきの夢が鮮明にレナの脳裏に蘇る。


(私…ユウの夢、見てた…。)


繋がれた手のぬくもり。


自然にこぼれる笑顔。


優しく微笑むユウ。


レナを包む、温かくて照れ臭くて、ふわふわとした気持ち。


(私…ユウのこと…!!)


思わずハッとなるレナを、ユウは不思議そうに見ていた。


「…どうかした?」


ユウに声を掛けられ、レナは慌てて首を横に振る。


「な、なんでもない!!」


「…そう?」


レナはドキドキとうるさく高鳴る胸の鼓動に戸惑う。


(な、何、これ…?!)


レナのおかしな様子を不思議に思いながらも、ユウはレナの隣に座り、カフェオレのカップに口をつける。


(…!!)


隣に座ったユウにまたドキドキが激しくなり、慌てるレナだったが、ユウに気付かれないよう平静を装って、カフェオレを一口飲んだ。


(あ…。)


口いっぱいに広がる、ユウの作ったカフェオレの、優しく懐かしい味。


「…おいしい、ね…。」


思わず涙ぐんでしまいそうになるのを隠すように、レナはうつむいたまま呟いた。


こんな時に、気付くなんて。


もう、どうにもならないのに。


もう、一緒には、いられないのに…。



どこか落ち着かない様子のレナのことが気になりながらも、ユウはただ静かに黙ってカフェオレを飲んでいた。


(レナ…どうしたんだろう?)


そこでユウは、ふと、ライブの前夜に無理やりレナにキスしたことを思い出す。


(二人っきりだしな…。警戒されても、おかしくないか…。)


レナはうつむきがちに、何も言わず静かにカフェオレを飲んでいる。


二人の間に流れる沈黙。


何か話したいと思うほど、何も言えずに二人はただ黙ってカフェオレを飲む。



そうしているうちにも時は過ぎ、少しずつ東の空が白み始める。


ずっとうつむいていたレナがカップをテーブルに置き、思い立ったように、静かにソファーから立ち上がった。


「ありがとう…。私…もう、行くね。」


(行くな…!!まだ、行かないでくれ…!!)


「レナ…!!」


その瞬間、ユウは立ち上がって、レナの華奢な体を抱きしめた。


「…ユウ?!」


咄嗟のことに驚くレナを、更に強く抱きしめると、ユウは苦しげに、切ない声で呟く。


「今だけ…もう少しだけでいいから…オレの、レナでいて…。」



ユウは、レナを抱きしめながら祈った。




神様、お願いです。


レナを、僕にください。


地獄に堕ちてもいいから…。




しばらく何も言わず、ただレナを強く抱きしめていたユウが、ポツリと呟く。


「本当に…ニューヨークに、行くのか?」


ユウの腕の中で、レナは静かにうなずいた。


「オレが…行くなって、言っても…?」


ユウがそう呟くと、レナの抑えきれない気持ちは涙となってこぼれ落ちた。


「ズルイよ…ユウ…。」


ユウの腕の中で、レナの涙と一緒に、ずっと言えなかったユウへの言葉がこぼれ落ちる。


「ユウ…私には“行かないで”も“行ってらっしゃい”も、何も言わせてくれなかった…。急に冷たくなったと思ったら、何も言わずにいなくなって、私を置き去りにして…一人にさせたくせに…。」


「…ごめん…。」


「遅すぎるよ…。もう、何もかも…。」


レナの言葉が、ユウの胸に深く突き刺さる。


もう、何もかも、遅すぎた。


どんなに悔やんでも、過ぎ去った時間はもう戻らない。


二人でいた優しかった時間は、もう、2度と取り戻せない。


どんなに好きでも、もう、どうにもならない。


二人でいる未来を望むことも、もう、許されないのなら…。


それならばいっそ、自分の手で終わらせてしまおう。


ほんのわずかな望みも持てなくなるくらいに、長かった恋心を、殺してしまおう。


もう顔も見たくないと言われるほどに嫌われてしまえば、きっとラクになれる…。



ユウは、自分の腕の中で泣いているレナの耳元で、そっと囁く。


「レナ…10年前の続き、しようか。」


「えっ…?!」


次の瞬間、ユウは10年前のあの時のように、レナをソファーに押し倒した。


そして、何も言えないように、レナの唇を自分の唇で塞ぐ。


(レナ…好きだ…愛してる…。)


ユウは心の中で何度もそう繰り返す。


優しくついばむように、角度を変えながら、何度も何度もレナの唇にキスを落とした。


10年前とも、数日前とも違う、ユウの優しいキスに、レナは、必死に抵抗しようとしながらも、不可解な胸の痛みに戸惑っていた。


(どうして…?こんなのイヤなのに…どうしてこんな気持ちになるの?)



やがてユウの唇はレナの唇を離れる。


ユウはレナの唇をなぞるようにそっと舐めて、レナの耳元で掠れた声で意地悪そうに囁いた。


「あの時はガキだったから、あれ以上はできなかったけど、今のオレなら、レナを満足させてあげられるよ?」


「やっ…。」


小さく叫び抵抗するレナの細い首筋に唇を這わせながら、ユウはレナのブラウスのボタンを慣れた手付きで外す。


「ね…レナ…どうして欲しい?」


「やめて…ユウっ…。」


レナの声を無視して、ユウはあらわになったレナの鎖骨の下あたりに唇を押し当て強く吸った。


「や、だっ…!!」


ビクリと体を震わせるレナ。


レナの目からは、涙がとめどなく溢れている。


(ダメだ…オレ…もうこれ以上、耐えられない…。もうこれ以上レナを傷付けたくない…。)


「やっぱり、婚約者の彼の方が良かった?」


ユウは、わざと冷ややかな声で呟く。


体を押さえ付けるユウの手の力が弱まるとレナは慌てて起き上がる。


はだけた胸元を押さえるレナの、涙で濡れた顔を見るのがつらくて、ユウはレナから目をそらした。


「今度こそ…もう、2度と、来んな…。」


心にもない言葉を吐き出すたびに、ユウの胸は切り裂かれたように痛んだ。


「信じたかったのに…。」


レナが、小さな声で、絞り出すように呟いた。


(えっ…?!)


レナは2つの指輪を通したネックレスを外すと、思い切り、ユウの胸に投げつけた。


「ユウのバカ!!…大嫌い!!」


レナは泣きながらそう叫ぶと、荷物とコートを掴んで、走ってユウの部屋を出て行った。



レナがいなくなった部屋で、ユウは投げつけられたネックレスを拾い上げ、目を見開いた。


(これ…あの時の…。)


2つの指輪をギュッと握りしめると、その拳を額に押し当て、力なくソファーに身を沈めた。


「終わった、な…。」


レナは確かに“信じたかったのに”と言った。


またレナを裏切って、傷付けて、泣かせてしまった。


“大嫌い”と泣きながら言ったレナの顔を思い浮かべ、ユウは静かに目を閉じ、ため息をついた。



長かった片想いの恋が、ようやく終わった。


甘くて苦くて切なくて、苦しかった恋が、今ようやく、幕を閉じた。


もう、2度と会うこともない…。


自分で決めたことなのに、これでいいと何度も自分に言い聞かせるのに…。


レナへの愛しさがどんどん胸に溢れて、やがて涙となり、ユウの頬を滑り落ちる。


(今度こそ本当に…さよなら、レナ…。)


ユウは2つの指輪を握りしめながら、さっきまで腕の中にいたレナのぬくもりを抱くように、一人涙を流し続けた。


(もう、朝なんて来なければいい…。)




溢れ出る涙を何度も拭いながら自分の部屋へ戻ったレナは、すべてを洗い流してしまおうとシャワーを浴びる。


その時ふと、胸元についた赤いアザのようなものを見つけた。


ユウに強く吸われた時にできた、ユウの唇の…キスの跡だった。


(ひどいよ、ユウ…。)


あんなに冷たい声でひどい言葉を吐きながらもさっきのユウのキスはとても優しかった。


それなのに、レナの心に傷を残す。


さっきまで、確かにユウの手は、唇は、レナの肌に、唇に触れていた。


触れられた唇の感触は、柔らかくレナの心をえぐる。


昔みたいに優しいユウに戻ったかと思えば、乱暴にレナを傷付けるユウ。


(もう、わからないよ…。一体、どれが本当のユウなの?!)


胸元に残されたユウの唇の跡にそっと触れると、レナはシャワーを頭から浴びながら、しばらく泣き崩れていた。


(もう、2度と会わない…。)




その日の夕方。


レナはユウの残した唇の跡と、初めての切なく苦しい想いを胸に、須藤が待つニューヨークへと旅立った。



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