心を乱すもの

数日後。


ライブの密着取材の打ち合わせのため、

`ALISON´のメンバーとレナ、マユはその他のスタッフたちと`ALISON´の事務所の会議室にいた。


記事をマユが書き、レナが写真を撮る。


ライブの日程や場所、ライブのプログラム、企画のコンセプトなどを確認する。


真剣にメモを取るレナの様子を、ユウはそっと見ていた。


(この間のこと…なんて切り出そう…。)


ひととおり打ち合わせを終えると、レナは静かに席を立った。


焦って声を掛けようと立ち上がったユウだったが、いざレナを前にすると言葉が出ない。


ユウが思い切ってレナに声を掛けようとした時、それより先にタクミがレナに声を掛けた。


「あーちゃん、お疲れー。」


(タイミング悪すぎだから…!!)


一瞬苛立ちを覚えたユウだったが、小さく息をついて、そっとその場を離れるのだった。



事務所を出て、練習のためにスタジオ入りしたユウは、ギターのチューニングをしていた。


そして、ぼんやりと考えながら手を止める。


(目も合わせてくれなかった…。)


バーでお酒を飲みながら話したり、二人で出掛けたりして、ようやく少しは昔みたいに話したり笑ったりできるようになったと思っていたのに、今日のレナは再会した日のように、話すことはおろか、目を合わせようともしなかった。


前にキスしているところを見られた時とは違う女の子に抱き付かれたりしている姿を見て、レナはどう思ったのだろう?


(呆れられてんだろうな…。)


思わずユウは、ふうっと大きなため息をつく。


「どうしたの?」


ユウの隣にタクミがやって来てイスに座る。


「別に…なんでもねぇよ。」


先ほどタクミのせいでレナに声を掛けられなかった苛立ちが、またユウの胸に蘇る。


(でも…何話せばいいのかわからなかったのは確かだし…。もしタクミが声掛けなくても、レナに声を掛けられなかったかも…。)


一人、悶々とするユウの姿に、タクミは首をかしげた。




`ALISONは´メンバーの5人全員が、有名ミュージシャンのヒロの元、ロンドンでミュージシャンとしての経験を積んだ実力派バンドとして業界からの注目を浴びて、年明けと共にデビューした。


デビュー曲は発売前から年末の特別番組のドラマ主題歌に抜擢され、デビュー曲の両A面として発売された曲は化粧品会社のCM曲として茶の間に流れ、デビューシングルの売り上げは新人らしからぬ凄まじさだった。


`ALISON´のデビューシングルが5週連続で週間ランキング上位に入り、シングルから1ヶ月遅れて発売されたアルバムもまた発売と共にアルバムランキングの上位にランクインした。


テレビの歌番組やCM、ラジオ、有線放送…ありとあらゆる所で彼らの曲を耳にするようになった。


ライブに向けての調整も順調に進み、ライブツアーが目前に迫ってきたある日。


レナは今日の撮影の仕事に向かっている途中、街頭に`ALISON´の巨大広告を見掛けて足を止める。


(ユウ…頑張ってるんだな…。)


おそらく忙しい毎日を送っているのだろう。


あのバーでの一件以来、ユウとは何も話していない。


ライブツアーの打ち合わせのため事務所を訪れた時に顔を合わせてから、一度も会っていないし連絡も取っていない。


(まぁ…当たり前だよね…。言い訳されるような間柄でもないし…。そもそも、ユウが誰と何しようが私には関係ないんだし…。)


自分でそう思いながらも、なぜかチクリと胸が痛むのを感じた。


(何…これ…?)


今まで経験したことのない、説明のつかない痛みの正体は何なのか?


ユウが自分以外の女の子と親密そうにしている場面を見る度に、胸に湧き上がって来るモヤモヤした気持ちが何なのか?


思いがけずユウに抱き止められた時に感じた動悸や、自分の体に残るユウの体温を感じた時の頬の火照りも、何がなんだが、さっぱりわからない。


(何だろ?病気?)


レナは思わず自分の胸元を手で押さえる。


(わかんない…。)


レナは小さなため息をつくと、気持ちを仕事モードに切り替えてスタジオに入った。


今日は青年漫画雑誌の巻頭グラビアを撮影する仕事だ。


事務所の後輩のルミがアシスタントにつくことになっていた。


「高梨さん、おはようございます。」


スタジオ入りしたレナに、ルミは笑顔で元気良く挨拶をした。


「おはよう。早いね。」


ルミから差し出された缶コーヒーを受け取ると、バッグを置いて今日の資料を開きながら、コーヒーのタブを開けて一口飲み込む。


(あっ…この子…。)


今日の撮影は水着姿の3人のグラドルを撮ることになっていた。


そのうちの一人は、先日バーでユウに甘えていたアヤだった。


(まぁ…仕事が仕事だし…。)


またモヤッとした気持ちが湧き上がるのを抑えるように、コーヒーを飲む。


(とりあえず、仕事だ。)


レナは資料を置くと、コーヒーを飲み干し、撮影の準備に取りかかった。



程なくして、3人のグラドルたちもスタジオ入りし、撮影が始まる。


3人とも負けず劣らずカメラに向かって男性を誘うような色っぽい表情を作る。


豊かな胸を両腕でギュッとはさむようにして強調してみたり、丸みを帯びたお尻を突き出して挑発するようなポーズを取ったり…。


レナはいつものポーカーフェイスと、最近やっと覚えた営業用のスマイルで、順調に撮影を進めた。


「お疲れ様でーす!それでは一旦休憩に入りまーす!!」


ルミの明るい声が響く。


「30分後に撮影再開しまーす!」



ルミの言葉を聞きながら、レナはカメラを置き、キャッキャと楽しげにスタジオを出ようとする3人のグラドルたちを眺めていた。


(若いよね…。ハタチ過ぎってとこかな?それにしても、あの子たちの水着…布の面積が極端に少ないんだけど…。)


見ている方が恥ずかしくなるほどの大胆な水着姿。


弾けそうに若い肌、あどけない顔立ちをしていながら、男性読者が釘付けになるであろう豊満な体と色っぽいポーズや仕草、表情…。


(ギャップってやつ?何一つ持ってない私には絶対、無理…。)


撮影した画像をパソコンで確認しながら、なぜか少し落ち込んでしまいそうになる。


(いや…張り合うつもりなんて、これっぽっちもないんだけど…。)


アヤの悩ましく艶かしい姿が映し出されて、レナは思わず画面から目をそらす。


(この体で…ユウを、誘惑するのかな…?)


そんなことを思い、ふとおかしくなってレナは自嘲気味に苦笑する。


(ユウが誰と何したって、私には関係ないのに…。こんなこと考えるの、おかしいよね…。)


レナはイスから立ち上がると、小銭を持って自販機コーナーへと向かった。


自販機でミルクティーを買うと、湯気の上がるカップを両手で包み込んで、小さく息をつく。


(最近…私、なんかヘンだ…。)


ふうふうと熱いミルクティーを冷まし、ゆっくりとカップを口に運ぼうとした時…。


「この間さぁ、バーでユウくんに会ったんだけどぉ。」


アヤの声だ。


どうやら控え室のドアが少し開いているらしい。


ユウの名前を耳にして、レナの動きが一瞬止まった。


3人のグラドルたちは、ドアの外に自分たちの会話が筒抜けになっていることにも気付かず大きな声で話し続ける。


「ユウくんったらさぁ、久しぶりにあったのにそっけないって言うかぁ、キスもしてくんなかったのー。」


「えー、ユウくんってアヤがこの前エッチしたって言ってた人ー?」


「そうなのー。めっちゃ背が高くてぇ、イケメンでさぁ…。おまけに…。」


「何?何なの?!」


「エッチがさぁ…スゴイんだよねぇ…。」


アヤがうっとりとした声で呟くと、途端に他の二人もキャーッと声を上げる。


「スゴイって、どんなふうにスゴイのよー!!」


「ん…もう…とにかくスゴイの、めちゃくちゃ激しくって…。時間も長いし…。」


思いがけず聞こえてしまった会話の内容にレナは絶句する。


(な…な……?!)


アヤの言葉を聞きながら、レナはまだ熱いミルクティーを急いで飲んだ。


「でもさぁ、終わった後はすぐに帰っちゃうんだよねぇ…。これって彼女になれる見込みないのかなぁ…。」


「そうなの?それはちょっとねぇ。どうかと思うよ。」


「体目当て?セフレ?」


「他にもユウくんとエッチしたって子、何人か知ってるしなぁ…。」


(そんなにあっちこっちで?!)


「あの見た目だしさぁ、ユウくんモテるんだよねぇ。だから逆に他の子たちには負けたくないって言うかぁ…。」


やっとの思いでミルクティーを飲み干すと、レナは紙コップをごみ箱へ投げ捨てた。


(もう…何も聞きたくない…!!)


レナが慌ててその場を離れようとした時。


「でさぁ、その時私、ユウくんが高梨さんと一緒にいるとこ見ちゃったんだよね。」


自分の名前を思いがけず耳にして、レナは一瞬足を止める。


「高梨さんって、今日のカメラマンの?」


「うん。付き合ってるのかなーって、一瞬思ったんだけど、なんか仕事があるとか言って、すぐ帰っちゃったし、ユウくんも後を追わなかったから、やっぱり違うのかなーって。」


「仕事絡みじゃない?」


「かもね。でもさぁ、高梨さんって…。」


(えっ、私?)


「すごくキレイだとは思うんだけどさぁ…。なんかこう…アレだよね。色気ゼロだよね。」


(!!!!)


アヤの放った“色気ゼロ”と言う言葉に、レナは大きなショックを受けた。


「まぁ…ないと思うよ?ないとは思うけど…もし高梨さんがユウくんの彼女だったとしたら、私、奪う自信あるわ。」


(何、それ…。)


「だってさぁ、あの色気のなさだよ?ガリガリだし、胸も大してなさそうだしさぁ。ユウくんを満足させられなさそうじゃん?」


「あぁ…。それは言えてるかも。」


「ユウくんとエッチしたって子、みんな若いし、巨乳ばっかだしさぁ。胸の大きさと色気と若さなら、絶対勝てるでしょ。」


言いたい放題レナをけなす彼女たちの声を聞きながら、レナは情けない気持ちでふと、自分の胸元を手で押さえる。


(悪かったわね…色気も胸もなくて…!!)


女としても否定され、ユウの隣にいることも有り得ないと否定され…。


情けなさと悔しさ以外にも、なんとも言えないモヤモヤした気持ちがレナの胸をギュッとしめつけた。


(もういい…。何言われたって、私は私でしかないんだもん…。)


レナは力なく肩を落としながらスタジオへ戻った。



必死で気持ちを仕事に切り替えようとしていると、ふと、胸元のネックレスに通された指輪に服越しに手が触れる。


10年前、何も言わずに去ったユウがレナに残した指輪。


あの時、もうレナのことはすべて忘れると言われたようで、とても悲しかった。


あれからずっと、二つの指輪はレナの胸元で揺れていた。


レナは胸元の開いた服をあまり好んで着ないので、その指輪の存在は他人には知られてはいなかったが、いつかまた会いたいと言う思いを込めていつも身につけていた。


あれから10年…。


ユウは、レナとは正反対のタイプばかり、たくさんの女の子を相手に体を重ねて来たらしい。


急に豹変したり、避けてみたり、黙っていなくなったと思ったら、10年も音沙汰もなかったのに再会するとまた急に優しくなったり、レナと会いたいと言ったり…そうかと思えば、また別の女の子の影をちらつかせる。


一体、ユウの何を信じればいいのかわからなくなってしまった。


10年間と言う長い年月はユウと言う人間をすっかり変えてしまったのかも知れない。


ユウでなくても、10年も経てば、きっと何かしら変わるのだろう。


(……もう、考えるのやめよう…。ユウのことなんて…私にはもう、関係ないんだから…。)


レナは必死で自分にそう言い聞かせて、何もなかったように残りの撮影を淡々とこなしたのだった。




それから何事もなく1週間が過ぎ、いよいよ

`ALISON´のライブツアーが始まった。


まだデビューしたてのバンドだけに、ライブの本数こそそう多くはなかったが、約半月を掛けてそこそこのキャパシティを持ったホールやライブハウスが会場となって、日本中あちこちでライブが行われることになっていた。



レナもマユと共にバンドメンバーに同行して、メンバーの普段の姿やリハーサルの様子、そしてライブの盛り上がりなどを取材する。


レナは、ただひたすらメンバーの姿を見つめ、その表情をカメラに収めた。


くつろいで談笑したり、ふざけたりしている姿を見ると、レナもつられて笑顔になった。


一緒にいる時間が長くなるにつれメンバーたちと親しく話せるようになっていったが、ユウとは相変わらずぎこちないままだった。


レナはユウと普通に接したいと思えば思うほどうまくいかないことにもどかしさを感じた。


でも、どこかで、ユウにはあまり深く関わらない方がいいと、気持ちにブレーキをかける自分がいることにも、うっすらと気付いていた。


それなのに、リハーサル中の真剣な横顔、ライブ中の弾けるような笑顔…気が付くと、レナはユウのそんな表情をカメラに収めずにはいられなかった。



ライブツアーも順調に進み、残すところあと1ヶ所となった前夜。


いつものようにレナとマユは、メンバーたちと同じホテルに宿泊していた。


マユと簡単な打ち合わせを済ませると、その後はメンバーたちも合流し食事に出掛けた後、ユウとタクミの部屋で軽く飲もうと言う流れになった。


食事の帰りにコンビニで酒やツマミを買い込み、ユウとタクミの部屋に集まったメンバーたちと、和やかに飲み会が始まる。


レナも手渡された缶ビールに口をつけ、カメラをそばに置いて楽しんだ。


ゆっくりとビールを飲んでいると、レナのスマホの着信音が鳴る。


レナはスマホを手に立ち上がると、そっと廊下に出て通話ボタンをタップした。


「もしもし…。」


「おう、お疲れ。」


電話の声は先にニューヨークに行っている須藤だった。


レナは廊下を歩き、誰もいないロビーのソファーに座った。


「どうですか、ニューヨークは。」


「うん、順調だよ。レナは?例のバンドの密着取材、うまくいってるか?」


「ハイ…明日が最終日なんです。」


「そうか…。最後まで頑張れよ。」


「ハイ。」


お互いの近況を簡単に報告し合うと、須藤がニューヨークでの仕事の話を始める。


「レナがニューヨークに来たら、最初の仕事はオレの撮影のモデルだから。」


「そうなんですか?私、ニューヨークでも二足のわらじですか…。」


レナは少し笑いながら返事をする。


「じゃあ、私がそっちに行くまで、体壊さないで下さいよ。ごはん、ちゃんと食べて下さいね。須藤さん、仕事に夢中になると、すぐ食事取るの忘れちゃうんだから。」


レナがお母さんのように言うと、須藤は電話の向こうで楽しげに笑った。


「しっかり者だね、うちの奥さんは。」


「奥さんって…。」


奥さん、と言われ、途端に恥ずかしさが込み上げてくる。


「一応ね、夫婦だから。」


「夫婦…そうですね。」


須藤がニューヨークに発つ前、レナは署名捺印した婚姻届けと入籍に必要な書類を須藤に預けていた。


(夫婦…かぁ…。)


おやすみの挨拶をして電話を切ると、レナはそのまま少しぼんやりと考える。


(もう、私…須藤さんの奥さんになったのかなぁ…。婚姻届け、もう提出したのかな…。)



ソファーにぼんやり座り込むレナのそばに、ゆっくりと近付く人影があった。


(ニューヨーク?!奥さんって…夫婦って…。)


その人影は、偶然聞いてしまったレナの話に驚きを隠せずにいた。


「…ユウ…どうしたの?」


立ち尽くすユウの姿に気付いたレナは、不思議そうに声を掛ける。


「あ…タバコ、買おうと思って…。」


「そうなんだ。」


ぎこちなく流れる沈黙。


ユウは自販機に小銭を入れながら、レナの方は見ずに尋ねた。


「ごめん…電話の話、少し聞こえた…。レナ…ニューヨークに、行くのか?」


ユウからの突然の問い掛けにレナは少し驚いていたが、ずっと言い出せなかったことを思いきって話そうと心に決め、できるだけ平静を装って、少し笑って話し始めた。


「うん…。ニューヨークに、仕事と生活の拠点をね…移すことになって。」


「…一人で?」


ユウは答えを聞くのが怖くて、レナの方を見られずに、レナに背を向けたまま尋ねる。


「ううん…。私、結婚、するの…。」


レナは、少し小さな声で答えた。


「結婚…。」


ユウは驚いて言葉を失う。


確かに、結婚の話があっても、年齢的にもおかしくはない。


ロンドンから日本へ帰る時だって、レナはもう誰かと結婚してどこかで幸せに暮らしているのかも知れないと思ったりもしていた。


だけど、もう会えないと思っていたレナと再会して、やっぱり、どうしようもなくレナが好きだと、再認識してしまった。


二人の距離を縮めたいと思えば思うほど、なかなかうまくいかず焦ってもいた。


なんとかしたい、今度こそ気持ちを伝えたいと思っていた矢先に、レナがニューヨークで他の誰かと結婚すると知らされた。


それも、他でもない、レナ本人の口から聞かされ、ユウの心は激しく叩きのめされた。


そんなユウの気持ちに気付くこともなく、レナは静かに話を続ける。


「ずっと一緒に仕事をしてきた人なんだけどね…。ニューヨークで仕事することになったけど、私を一人にするのは心配だから、一緒に来ないかって…。」


レナの口から、婚約者のことが語られる。


「かなり年上の人なんだけど…いい人だし…私ももういい歳だし…まぁ、いいかなって…。」


(もう…もう、何も聞きたくない…!!)


ユウは、気が付くと強引にレナの頭を引き寄せ、婚約者のことを語るその唇を、自分の唇で塞いでいた。


「……!!」


咄嗟のことに声を出すこともできないレナを、抵抗できないように強く抱きしめ、激しく唇を重ね、その舌先で強引にレナの唇をこじ開けた。


レナの柔らかく湿った舌先に自分の舌を強引に絡め、噛みつくようなキスをした。


誰にも渡したくない。


自分だけのものにしたい。


他の男の元になんか行けなくなるように、このままめちゃくちゃにしてしまいたい…。


ユウは、狂ってしまいそうになる愛しさと、見たことのない婚約者への嫉妬の炎が激しく胸に渦巻いて、ただ、レナの唇を貪るように求め続けた。



ユウの突然の激しいキスで唇を塞がれたレナは、きつく抱きしめられたユウの腕の中で、必死で抵抗していた。


10年前にユウに無理やりされたキスとは、全然違う。


初めて経験する深いキスと、レナの自由を奪うように唇を貪るユウに、知らない人からそうされているような恐怖すら感じた。


(怖い…!!どうして?ユウ…!!)


ユウの腕の中からどうにか逃れようと、レナはありったけの力で、必死で抵抗した。


両手でユウの胸を思いっきり押し返すと、ようやくユウは、レナを抱く腕の力をゆるめた。


ユウの腕と唇から開放されると、レナは息を上げながら、涙のいっぱいたまった瞳でユウを見上げた。


「本当に、誰でもいいんだね…。ひどいよ、ユウ…。」


レナは口元を手の甲で押さえ、涙をこぼしながらユウの横を通り過ぎた。


「最低…!!」


その後ろ姿を見送ることもできずに、ユウはただ、立ち尽くしていた。



(最低…か…。)


また、レナを泣かせてしまった。


行き場のない気持ちを一方的に押し付けて、乱暴にレナを求めてしまった。


どうしていつも、こうなるんだろう。


どうしていつも、大好きな女の子とのキスは、とてつもなく苦くて、苦しいのだろう。


ただ、好きで、好きで、どうしようもないだけなのに…。




レナは泣きながら自分の部屋に戻ると、ベッドの中に潜り込んだ。


(訳がわからない…。)


こぼれ落ちる涙を抜いながら、通り過ぎる時に見たユウの苦しげな表情を思い出していた。


(どうしてユウは、10年前のあの時も今も、私の気持ちはおかまいなしで…。)


ユウとのキスは、昔も今も、涙の味がした。


(私のことなんて、なんとも思ってないくせに…どうして強引にキスなんかするの…?)



レナはスマホを取り出してマユにメールを打つ。



“少し酔ったみたい。

先に部屋で休みます。

カメラよろしく。”



送信すると、そのままギュッと目を閉じた。


(ユウのことはもう、忘れなきゃ…。私は、須藤さんと、結婚するんだから…。)



明日は何事もなかったように、いつも通りに仕事をしよう。


この仕事が終われば、ユウとはもう、会うこともないのだから。


ニューヨークへ行って須藤と暮らし始めれば、もうこんなにも、ユウに心を掻き乱されることはないのだから。


そう思っているはずなのに…。


どうしてこんなに、胸が苦しいのだろう?



レナが去ってロビーに一人、取り残されたユウは、ソファーに身を沈め、静かにタバコに火をつけた。


10年前も、大人になった今も、自分は何も変わっていない。


本当に好きな女の子に想いを告げることもできないまま、焦る気持ちばかりが先走りして、大切な人を傷付け、泣かせてしまう。


(情けないな…オレ…。)


煙を吐きながら、自己嫌悪に陥る。


レナがニューヨークに行ってしまう前に、せめて、自分の気持ちを伝えたい。


(今更、勝手過ぎるかな…。)


ニューヨークへ行って結婚してしまえば、ユウにはもう2度と手の届くことのない存在になってしまうレナ。



子供の頃から、ずっと好きだった。


たった一言の短い言葉を伝えられないまま、ずっとそばにいた。


離れてもやっぱり、その想いが消えることはなかった。


どんなに消そうとしても消せない残り火のように、ずっと胸を焦がし続けた想い。


小さな残り火は、やがてユウの中で再び大きな

炎となった。


今、自分にできることはなんだろう?


何も言わず、ただ黙って静かに見送ること?


(でも、それよりも先に…。)


ユウは、ひとつの決心をした。


明日が、最後のチャンスだ。


(自分にできる方法で、レナへの気持ちを伝えよう…。)




ライブツアー最終日。


夕べのことなど何もなかったように、朝はやって来た。


レナは時間の流れに身を任せるように、リハーサルやその合間の様子をひたすらカメラに収めた。


お互いに、ただの1度も目を合わせることもなかったが、レナはユウの姿をファインダー越しに追いかけていた。


(今日で、最後なんだから…。)


言い聞かせるほど、胸が痛む。


この胸の疼きがなんなのか?


レナはまだ、気付いていなかった。




夜になり、熱気に包まれたライブ会場でたくさんのファンが見守る中、ツアー最終日のライブが始まった。


レナはカメラを手にメンバーたちの写真を撮り続けていた。


予定していた曲目をすべて終え、客席からアンコールの声が上がる。


ステージ裏にはけていたメンバーたちが戻って来るのをファンたちと待っていると…。


ユウが一人、ギターを手に再びステージに現れた。


そして、マイクの前に立つ。


「ずっと伝えられなかった気持ちを込めて、今日だけは特別に…。」


そう言うとユウは、会場の中を、誰かを探すようにぐるりと見回した。


カメラを構えていたレナは、ファインダー越しにユウと目が合った気がした。


「えっ…?」


ユウは、声には出さず、口元で何かを呟いた。



“レナガスキダ…”



(えっ?今、なんて…。)


レナが驚き目を見開いていると、ユウのギターが静かに切ない音色を奏で始め、やがて、甘く掠れた声でユウが歌い始めた。




『そして今日も、君を想う』


気が付けば いつも 僕の隣には 君がいた

なにげない会話 穏やかな時間(とき)

安心しきった 君の笑顔

飾らない君 ただ 愛しくて


ずっとこのまま いられるのなら

二人 一緒に いられるのなら

僕の瞳に映る君が

ずっと笑っていてくれるなら


いつも君のそばにいるよ

僕だけが知る 君の素顔

ずっと守っていたいから


いつも君のそばにいるよ

僕だけが知る君の笑顔

ずっと守っていたいから



気が付けば いつも 僕の心には 君がいた

君を想うと ただ 切なくて

君が笑うと ただ 嬉しくて

いつも 心は 君で溢れる


僕の想いを伝えられたら

ずっと隣に いられたのかな

君の心に 映る僕は

うまく 笑えていただろうか?


ずっと 君を見つめていた

素直な気持ち 伝えられず

君を 失くすのが怖くて


ずっと 僕のそばにいてよ

素顔の僕を 君にだけは

もっと わかってほしいから



そして今日も、君を想う

君の幻 胸に抱いて

もう届かない 君を想う


僕は今日も、君を想う

戻らない日々 胸に抱いて

そして今も、君を想う




(この曲…。)


微かに聞き覚えのあるその曲は、高校2年の文化祭で、ユウたちのバンドが演奏したバラード曲だった。


包み込むような優しい曲とフレーズに心が温かくなったのを、レナは今でも覚えている。


(ユウの曲だったんだ…。)


切なげに囁くようなギターのメロディに、愛しそうに言葉を乗せるユウの甘い声。


あの時とは少し違う、今の素直な想いを歌詞に込めて、ユウは大切に心を込めて歌う。


ユウの切なく優しいバラードに、会場のファンはうっとりと聴き入っている。


いつしか、レナの目からは大粒の涙がこぼれていた。


ユウの想いを乗せた歌声は、レナを温かく包み込む。


(どうして…こんなに胸が痛いんだろう…。)


涙を流しながら、レナはステージの上のユウをカメラで捉え、夢中でシャッターを切る。



(本当は、ずっと、ユウと…。)



ユウの歌声は、甘く、切なく、レナの胸をしめつける。


無邪気に笑い合えた頃の遠い記憶が蘇り、涙はとめどなく溢れた。




あの頃の想い。


今の素直な想い。


レナへの気持ちを、ユウは自分にできる方法で伝えようと、ありったけの愛しさを込めて、優しく歌い上げた。


ユウの曲が終わると、会場は大きな歓声と温かな拍手に包まれた。


「……ありがとう…。」


ユウは小さくお礼を言うと、静かにステージを去った。



会場からは再びアンコールの声が上がり、ほどなくしてメンバー全員がステージにそろう。


演奏の準備をするユウの脇腹を、タクミが茶化すように肘でつついた。


「カッコ良かったよー、ユウ。」


「茶化すな…。」


ユウが照れ臭そうにボソッと呟くと、会場からは和やかな笑いが起こった。


昔の面影を残したユウのその表情も、レナはカメラに収めた。


(もっと、ユウのいろんな顔見てたい…って思うのは…いけないことかな…?)


今のレナには、ユウの気持ちも、胸に湧き上がる不思議で複雑な感情も、受け止め切れなかった。


ニューヨークで自分を待っている婚約者の須藤がいると言う現実は変えられない。


どれが本当のユウなのか…。


信じた途端にまた裏切られるのではと思うと、正直、怖い。


苦しかった胸の中が温かくなるのを感じるのに、なぜかまた、ギュッと痛む。


(なんだろう…この感じ…。)



レナは、アンコールにノリのいい曲で答えるメンバーたちをカメラに収めた。


そして最後に、楽しそうにギターを弾くユウの笑顔をファインダーで捉えると、まるでまぶたの奥に焼き付けるように、心を込めてシャッターを切ったのだった。




ライブが無事に終わり、マユとレナはその日の最終の新幹線で東京に戻ることになった。


翌日の晩、東京のいつものバーでライブの打ち上げをすると言う。


新幹線の座席に並んで座ると、マユはノートパソコンを取り出し、今回のライブの記事を打ち込んでゆく。


レナは、撮影した写真のデータを確認していた。


「アンコール…良かったね。」


パソコンのキーボードを打つ手を止めて、マユがポツリと呟いた。


「…うん…。」


レナが小さくうなずくと、マユは少し笑ってレナを見た。


「器用なんだか、不器用なんだか…。たった一言で済むのに…。それとも、二十何年分の想いは一言じゃ済まなかったのかもね…。」


「……。」


レナは何も答えられないまま、カメラに映るユウの姿を見ていた。


「夕べ…片桐となんかあった?」


「………うん。」


「…そっか。」


マユは、それ以上聞かなかった。


レナが何も話さないのも、そっとしておいて欲しいのもわかっている。


「本当に…ニューヨークに行っちゃうの?」


「うん…。須藤さんが待ってるし…。昨日、うちの奥さんって言われちゃった。ちょっと恥ずかしかったけど、一応夫婦だしって…。」


少し無理をしているのか、いつもより明るく答えるレナの横顔は、どこか苦しそうだ。


「本当に、それでいいの?」


マユの問い掛けに、レナは笑って見せる。


「うん…ずっと悩んで決めた事だし。須藤さん…私を一人にしないって約束してくれたから、きっと穏やかな気持ちで暮らせると思う。」


「ふーん…そうなんだ…。」


大切な人が、突然いなくなる不安や悲しみを、レナは幼い頃から知っている。


ずっとそばにいて信じていたユウが突然変わってしまったことや、何も言わずに姿を消したことも、レナの心に深く消えない傷を残したのだろう。


でも、レナが明らかに迷い始めていることをマユは感じていた。


無理をして笑っているレナの姿が痛々しくて、マユはそっと目を伏せる。


(不器用なのは片桐だけじゃない…。レナ、アンタも相当な不器用だよ…。)





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る