第九話 鬼より強い秋山大悟

  第九話 鬼より強い秋山大悟


 秋山は菊一文字を下ろすと、仄かな憐れみのある目で泰一を見てきた。

「どうした、なにを驚く? 俺は云ったはずだぞ。警察官の半分は剣道の段位を持っている。おまえ以外の警察官にも、名剣から声がかかっていてもおかしくはないはずだ、とな」

「たしかに警部殿はそうおっしゃった。そしてそれが警部殿も含むと気づかなんだのは俺の不覚!」

 泰一は無念のあまり瞑目し、心の大波を乗り越えてからその目を開いて秋山に眼差しを据えた。この秋山と、その傍らで甘えるように座り込んでいるエレオノールは知り合いであったのだ。してみると、一つ浮かび上がってくる線がある。

「あの日あの場所にソルとルナが来ることを漏らしたのは、警部殿、あなたですな?」

「そうだ。最初のうちは闇雲に戦うより、情報収集に努めた方がいいとおもったんでな。ネットで知り合ったエレオノールと組むことにしたんだよ。あの日は俺が行ってもよかったんだが、おまえと鉢合わせになりたくなかったんでな。エレオノールに任せることにした」

 そこで秋山は言葉を切ると、勢いよく頭を下げた。

「正行君のことはすまなかったな。ああなるとは思わなかったんだ」

 泰一は喉の奥で獅子が暴れているのを感じた。それは秋山を責めたい気持ちが半分だが、もう半分は自分を責めたいのである。秋山に丁寧至極にソルとルナがやってくる日時と場所を教えたのは自分だ。つまり正行がああなった原因の一つは、己の口なのだ。

 そのわななき、無念は、両腕を通してソルとルナにも伝わっているであろう。

「泰一様のせいではありません」

 ルナがかけてくれたその言葉に、泰一は少し救われた気がした。

「そして警部殿のせいでもないな」

 泰一はまだ腰をくの字に折って頭を下げている秋山に向けて云った。

「顔を上げられよ、警部殿。あなたを責めても、仕方のないこと」

「そう云ってもらえると助かるよ」

 秋山は顔をあげたが、その目は悲しみに満ちており、口元には苦さの陰がある。そんな秋山の背広の裾を、まだ座り込んでいるエレオノールがぎゅっと握り締めた。

「大悟、お願い。あの男を斬って」

 秋山はそんなエレオノールを瞥見したものの、視線はすぐに泰一に返した。

「そうだな。俺がこうしてこの場に現れたのも、鬼丸、おまえと戦うためだ。おまえを図らずも騙してしまったけじめをつけてからでないと、覇剣戦争を戦っていくことができんのでな」

「やはりそうですか」

 泰一はかつてない戦慄に体を貫かれて武者震いをした。秋山が菊一文字を手にした時点で、戦いが避け得ぬものであることはもう判っていた。

「わかり申した。俺も逃げ隠れはいたしませぬ。ですがその前に、そこの女を斬らせて下さい。警部殿は女人が斬られるのに忍びないとおっしゃるが、俺はその女郎めろうをぶった斬ってやらねば気が済まぬのです!」

「それは駄目よ」

 エレオノールは勝ち誇ったように笑うと、秋山にすがりついて泰一を見ながら云った。

「大悟、聞いて。私、デュランダルを降したの。不滅の刃のデュランダルよ? その私があいつに殺されたら、あいつの剣がデュランダルの神性を帯びて、もうあなたの菊一文字じゃ太刀打ちできなくなっちゃうわ」

「ほう、それは困ったな」

「でしょう? だからあなたは私を守らなきゃいけない」

「ああ、今だけはな」

 その言葉とは裏腹に、秋山は突然、自分の腰に纏いつくエレオノールを蹴り上げた。あっ、と声をあげてエレオノールは転がされてしまった。

「エレオノール」

 しばらく口を緘していたジュワユーズがエレオノールに駆け寄って助け起こした。そのジュワユーズの腕のなかから、エレオノールが憎さげに秋山を睨みつける。

「どういうつもり?」

「エレオノール、おまえは俺に色目を遣ってくれるがな、俺の方はおまえさんには全然興味がないのよ。それにおまえは臭い」

「な――!」

 エレオノールの顔が屈辱に灼かれたが、秋山は構わずに刀を肩に担いで続けた。

「フランス女め、おまえは香水の匂いがきつすぎんだよ。菊子が厭がる。つうわけで失せろ。そんでもって誰かに殺される前にその剣を手放すんだ。いいな、一日も早く、覇剣戦争から降りるんだぞ。それがおまえさんのためだ」

 エレオノールは口を無力に開閉させていた。罵倒の言葉さえ出てこないようだ。それが突然、自分を抱き起こすジュワユーズの喉を左手で掴むと叫んだ。

「ジュワユーズ!」

 姫君然としたジュワユーズの姿が白い光輝に包まれ、次の瞬間には立派な西洋剣としてエレオノールの手にあった。清廉な白い刃と、黄金で拵えられた柄や鍔が、なんとも美しい対比をなしている。その剣を片手に、エレオノールがゆらりと立ち上がった。

 泰一はエレオノールが血迷って秋山に斬り掛かるのではないかと思った。が、エレオノールは秋山との睨み合いに負けたように身を翻すと、泣きじゃくりながら駆け去っていった。

 泰一はその姿が山裾のまばらな林のなかに消えるのを無念そうに見送った。

「あの女に、ロランの後を追わせてやるつもりでした」

「事情はよくわからんが、今夜のところは諦めろ」

 致し方あるまい、と泰一は自分のなかで一つ区切りをつけ、改めて秋山を見た。月と風と川の流れと、河原に転がる物言わぬ石たちと、それからロランを含めた三人の骸、そうしたものが泰一の心を次々と過ぎっては消えていく。最後に残ったのは、刀を肩に担いだ秋山だ。

「……では、始めまするか?」

「いや、その前に風呂行こうぜ」

 泰一はその言葉を呑み込むのにちょっと時間がかかった。

「……は?」

 夜風に面を吹かれて目を丸くする泰一を、秋山は白い歯並みを見せてわらった。


        ◇


 まだ泰一がA山の展望台でロランを待っていたとき、ルナが山の麓から立ち上る白い煙について泰一に問いかけたことを読者の皆様は憶えておられるであろうか?

「この近くに温泉宿があるだろ? エレオノールから聞いて、おまえが今日ここでやりあうことは知ってたからな、俺はあそこに泊まってたんだ。メール? そんなものは見ちゃいねえよ。俺はおまえを探したんだが見つからなくて、銃声を聞いて駆けつけたんだ」

 温泉宿までの道々、秋山は徒然にそんな話を語って聞かせていた。それが菊子と手を繋いで、一行の先頭を歩いている。その後ろにつけている泰一が秋山の話にいちいち相槌を打っていると、ルナが泰一の左腕を引っ張ってきて、秋山の後ろ姿をねめつけながら低声こごえで云った。

「泰一様、これは罠ではありませんか?」

「聞こえてるぞ、青いの!」

 秋山が後ろを見もせずに大声を張り上げた。たちまちルナは癇を立てた。

「まああ! 青いのではありません! ルナです、ルナ。ルナ・コラーダ!」

「落ち着け、ルナ」

 泰一の右側から、ソルが穏やかに云った。

「あの御仁、卑怯なことをする男には見えぬ」

「赤いのはよくわかってるな!」

 そう機嫌のさそうにわらう秋山の尾につき、泰一も首肯して云う。

「ルナよ、秋山警部のお人柄はこの鬼丸が請け負う。心配は無用だ」

「それにしたって、こんなときに湯浴みなど……」

 ルナは泰一が秋山の提案を受け容れたことについて、ぶつぶつと文句を零していた。泰一もたしかに風呂に誘われたときは面食らったが、考えてみれば戦いの前に体を清めておくのはよいことだ。身も心も引き締まる。

 しかし温泉宿の前に着いた泰一は、ふと心づいて秋山に問うた。

「こんな時間に勝手に風呂を使って、はたしてよいものでしょうか?」

「なあに、心配するな。女将には全部話してある。金もたんまり払った」

 それには泰一もちょっと相好を崩した。

「手回しのよいことですな」

「どっちが斃れるにしろ、これが最後になっちまうからな。最後に一つ、裸の付き合いというのをしておきたかったのよ」

「実に結構!」

 泰一はわらって、快く温泉宿の敷居を跨いだ。


 真夜中の旅館というのは不気味なものだ。廊下を歩くのに支障のないだけの照明は灯されているが、皆、寝静まって人気がすっかり絶えているから、人間だけが忽然と掻き消えたように思える。そこを泰一たちは秋山の案内で浴場へ向かって歩いていた。

 暖簾で男と女に色分けされている風呂の前まで来ると、当然ながら泰一はそこでルナたちとは別れて、秋山と一緒に男性用の脱衣所に入り、棚から籠を適当に選んで脱いだ服を次々に抛り込んでいった。それにしてもジーンズはともかく、返り血と汗に塗れたタンクトップは二度身に着けたくはない。そう思っていると、秋山が傍から云った。

「あとで俺の服、持ってきてやるよ。下着は無理だが……」

「かたじけない。助かります」

 泰一は相好を崩して礼を述べた。

 かくして裸形になった泰一は、ギリシャの彫刻さながらの素晴らしい肉体を具えていた。一方の秋山も筋骨隆々としているが、さすがに歳のせいか腹は出ている。二人とも前を隠そうなどという慎みは毫もなく、胸を張ってのしのしと脱衣所の出口へ向かった。その湯気に曇った硝子戸を開ける直前、秋山が泰一を振り返って云った。

「ちなみにここは混浴だぞ。まあ、こんな時間じゃお姉ちゃんたちはいないだろうがな」

「はあ」

 泰一は喜ぶつもりもないし、かといってがっかりするのもおかしいので、そう生返事を返して、秋山のあとから風呂場へ足を踏み入れた。

 風呂は、露天風呂になっていた。

 岩で組まれた浴槽には、湯煙を盛んにあげる透きとおった湯が満々と張られている。形は広々とした半月型だ。浴槽の縁の一箇所に龍の像が拵えられており、その口からは新しい湯が絶え間なく滝のように流れていた。そんな風呂場全体を竹垣が囲っている。

 泰一たちは早速湯に飛び込んで肩まで浸かった。たちまちあの心地よさそうな呻きが二人の口から漏れてくる。温かい天然の岩にもたれて仰ぎ見る夜景には山々が借景されていた。傾いた月が右手にあるので南向きとわかる。

「なかなか乙なもんだな」

「はい」

 泰一は満足そうに頷いた。こうして湯に浸かっていると、今宵の死闘が嘘のようだ。魂がどこかへ泳いでいきそうになる。それを引き止めようとしたわけではあるまいが、秋山が湯で顔を洗いながら思い出したように云った。

「体の調子はどうだ?」

「今のところ問題はありませぬ」

 泰一はそう答えながら右腕を湯の下から出した。ためしに右手を握り締めてみる。力に溢れているのがよくわかる。

「鍛え上げられたいい腕だ」

 泰一の右手にいる秋山が、泰一の右腕に目を注ぎながら云った。

「おまえは勇者ヘラクレスのような男だ。が、その力がもう間もなく失われることが、わかっているのか?」

「病み衰え始めたらあっという間と云いますからな」

 泰一は不敵に笑いながら、今は逞しいこの腕が枯れ木のようになっているところを想像して目を閉じた。消化器の癌でなにが厄介といって、食事が捗らなくなるのが厄介なのだ。食欲がない。無理に食べたところで戻してしまう。これでは肉体を維持できない。

「それで本当にこの覇剣戦争に勝てると思うか?」

「やってみなくては判りますまい」

 泰一は右腕を湯の下に戻しながら目を開けた。

「それに警部殿、俺はこの覇剣戦争、それほど長くは続かないと思っております」

「ほう、なぜだ?」

「今宵だけでも七人、死にました」

 泰一はうっそりと云って夜空を見上げた。あそこにまたたく星々のなかに、男たちの魂はあるのか。

「この山で行われたような死闘が、他の場所でも行われているはず。千人の剣士は、あっという間に数を減らすのではありますまいか?」

「そうだな。百人くらいに絞られるまでは、一ヶ月とかからんかもしれんな。だがそこから先が問題だ。生き残ったのは精鋭揃いだぞ?」

「とはいえ、半年もあれば決着はつきまする。今年中に決着を見るなら、俺の体は持ち堪えてくれるでしょう。いや、是非とも持ち堪えてもらわねば困る」

「だといいがな。三ヶ月でころりといっちまう例もある。俺の女房がそうだった……」

 泰一ははっとして顔を秋山に振り向けた。秋山の横顔には厳しさと寂しさが彫り込まれている。そう、秋山は妻を癌で亡くしているのだ。

「警部殿。もしや警部殿が覇剣戦争に参加されたのは……」

「お察しの通りだ」

 秋山は自嘲の笑みを口の端に彫って、泰一に顔を振り向けてきた。

「一度死んだ人間を生き返らせようなどという俺の望みは、間違っているかな?」

「いえ」

 泰一は秋山の迷いを言下に力強く断ち切った。

伊弉諾尊いざなぎのみこと然り、オルフェウス然り、愛する者を喪った人にとって、その人の蘇りは夢ですものなあ。それをどうして責められましょうや」

 すると秋山の笑みが、自嘲のそれから嬉しげなものに変わった。

「いいのか、敵の迷いを断って?」

「俺は常に正直でありたいのです。正直さの結果、敵を利することになっても悔いはない」

「そうか」

 秋山は目尻を下げてしみじみとそう呟いた。

 そのとき、裸足で石畳を踏む幼い足音がしたかと思うと、泰一たちの左手から勢いよく湯のなかに飛び込む者があった。

「とうっ!」

 盛大に湯のしぶきがあがり、泰一はちょっと眉をひそめた。一方、秋山は勢いよく叱責した。

「菊子!」

「にょほほほほ!」

 菊子は立ち上がると、たっぷりと湯を吸って顔にはりつく黒髪を払いのけて、泰一と秋山の方に輝かんばかりの笑顔を向けてきた。それが濃紺のスクール水着を着ている。菊子はざぶざぶと湯を掻き分けてこちらに近づいてくると、得意そうに平らな胸を張った。

「いい湯じゃの、二人とも」

「そういえばここは混浴であったな」

 そう呟いた泰一は、それから菊子の水着に視線をあてた。

「その水着はいかがした?」

「妾たちの服はもともと魔力で編まれておるゆえ、着替えなど造作もないこと」

「ルナとソルは?」

「混浴は恥ずかしいと云って脱衣所から出てこぬ。とんだお子様よ」

 話にならぬと云った様子で菊子はそうせせら笑った。すると突然立ち上がった秋山が、菊子の小さな頭を鷲掴みにしたかと思うと、有無を云わさず押さえつけて湯船に沈めた。

「おまえが一番ガキなんだ。恥じらいを知らん」

 菊子は湯の下で藻掻き、暴れ、四肢をばたつかせた。頃合いを見計らって秋山が手を離してやると、菊子が勢いよく湯の下から飛び出してきた。幽霊のように乱れた黒髪を伝って、湯がざあざあと流れ落ちていく。またその顔は湯だったようにあかい。菊子は両手で面を覆う黒髪を払いのけるや、まなじりを吊り上げて秋山に食ってかかった。

「なにをするか、大悟!」

「わははっ、ほんのスキンシップだ」

 秋山は悪気もなく朗らかにわらったのだが、菊子の方は怒り心頭に発していた。

「なにがすきんしっぷか、大和男児が横文字なんぞ使いおって! てやっ!」

 菊子は両腕で掻いた湯を、秋山を目掛けて引っかけた。当然、泰一も被ることになった。

「くおら、菊子!」

 秋山のそのおどしの声に、菊子はきゃっきゃとはしゃぎながら湯船の奥へ向かって泳ぎ始めた。

「ったく」

 秋山はたちまち目元を和ませながら、ふたたび肩まで湯に浸かった。泳いでいく菊子の姿を見守る目は父親のそれだ。

「娘がいたら、こんな感じなのかねえ……」

 泰一はそれにはなんとも答えず、顔を前に戻して菊子の方へ目を注いだ。菊子は龍の像が口から新しい湯を吐いているあたりへ近づいていく。

「おい、菊子。その辺りは熱いぞ」

 泰一はそう声をかけたが時既に遅し、悠然と泳いでいた菊子は突然「わちゃ!」と叫びながら湯船の底に足をつけて、這々の体で龍の傍から離れた。

「云わぬことではない」

 泰一はくつくつと笑いながら、秋山と一緒に菊子の泳ぐ姿を眺めていた。それが突然終わりを告げたのは、秋山が水音とともに立ち上がったからだ。

 泰一は秋山を仰ぎ見た。その体を無数の湯の粒が流れ落ちていく。秋山は菊子に眼差しを注いだままうっそりと云った。

「鬼丸、先に上がる」

「のぼせられましたか?」

「いや、岐阜県警に渡りをつけておくだけだ。今夜の後始末をやってもらわにゃ。それからついでにおまえの着替えも用意しといてやるよ」

「ありがたく」

 泰一は湯に浸かったまま頭を下げた。その顔を上げたとき、秋山がその瞳で泰一の顔を捉えていた。

「鬼丸よ、俺はおまえがどんな覚悟でこの戦いに臨んだか、この目で見ている。あの母親の涙を拭うために、鬼になると云ったな」

「はい」

 泰一がそうがえんじると、秋山の双眸には稲妻が輝いた。

「そんなおまえを斬るために、俺もまた鬼になるぞ」

 それに泰一は微笑みで応えた。すると秋山もまた口元を少しだけ綻ばせ、これから果たし合いをする二人の男は笑い合ったのだった。

 湯船から上がった秋山は、ふと思い出したように肩越しに振り返った。

「おおい、菊子。あがるぞ!」

「む、もうか」

 菊子がそう返事をすると、秋山はさっさと脱衣所のなかへ姿を消してしまった。菊子はざぶざぶと湯を掻き分けて歩いてきたが、泰一の前で足を止めると、しばらく泰一の顔を見つめたのちに、なにか神妙そうな顔をして口を切った。

「のう、鬼丸の。今宵、大悟は死ぬかもしれん」

「ああ」

「あるいは妾がおぬしの血に塗れるかもしれん」

「ああ、そうだな」

 すると菊子はにこりと微笑んで、小指を立てた右手を泰一の前に差し出してきた。

「どっちが勝っても恨みっこなしじゃぞ」

「おお、無論だとも」

 泰一は快く菊子と指切りをして、菊子が秋山を追って男性用の脱衣所に飛び込んでいくのを見送った。そのとき、菊子はもう水着からあの黒い振袖姿に変身を遂げていた。

 一人になると、月の光りが心に忍び込んできた。これから秋山大悟と命がけの真剣勝負をしなくてはならぬ。

「さて、どうなるか」

 泰一が独りごちたとき、後ろから足音が聞こえてきた。それが一人ではない。浴槽の岩に肘をかけて振り返った泰一は、湯煙のなかに二人の少女の影が浮かび上がるのを見て笑った。

「おお、おまえらも来たのか」

「はい」

 そう返事をしながら最初に湯煙のなかから現れたのは、赤いビキニ姿のソルである。美少年のような凛々しい面差しをしているくせに、乳房の張りはなかなかどうして豊かであった。

「あの男と菊子は、もう行ったようですね」

 続いてルナが姿を見せた。こちらは青いワンピースの水着を着けていた。またどこから取り出したのか、青いリボンを使って黒髪をポニーテールに結い上げている。

 二人は相次いで湯船に飛び込んでくると、ソルは泰一の右側に、ルナは左側に、それぞれそこが当然の指定席という顔をして、侍るように湯に浸かった。たちまち二人の美少女の口からあえかな吐息が漏れたのは、湯の熱さが骨身に沁みる心地よさのためであろうか。

「ところでおまえら、恥ずかしいのではなかったのか?」

「恥ずかしいですとも!」

 打てば響くように武張った声を返したソルは、泰一の体を瞥見し、すぐに顔を背けた。

「泰一様を見るのも、泰一様に見られるのも、どうにもこうにも……」

 ソルにしては珍しく歯切れが悪い。それにその頬は早くも紅潮を呈している。泰一が訝っていると、ルナが助け船を出すように容喙ようかいした。

「ですがあの秋山という男もいなくなったことですし、泰一様に見られるだけならば、よし、行こう! と思ったのです」

「そうであったか。しかしそんなに湯に浸かりたかったのなら、俺が出たあと二人でゆっくり浸かればよいではないか。それくらいの時間はあるぞ?」

 するとルナは軽く憤ったように頬をふくらませて、泰一の頬を軽く抓ってきた。

「憎い御方」

 泰一は自分の頬に爪が可愛く食い込んでくるのを感覚しながら、しかしなぜ抓られるのか解らなかった。ルナが手を湯の下に戻すと、泰一は抓られた頬をさすりさすりしながら不思議そうに切り出した。

「それにしてもおまえら、なりはともかく実際は遙か昔から生きている人外であろう。そんな本当の十五の乙女のような反応をせずともよいではないか」

 するとまたルナがきつい声で云った。

「まああ! 泰一様はご存知ないでしょうが、殿方と結ばれた名剣は、名剣の座から転落してただの人間になってしまうのです。そしてその名剣は永遠に失われてしまう……ですから、千の剣は皆、処女おとめなのです」

「それに私にしろルナにしろ、ほとんど剣の姿でねむってばかりいましたから、人としての人格もさほど陶冶されているわけではありません」

「ほう。剣が人の姿を取るだけでも驚きなのに、ともすれば本物の人間になってしまうことがあるとはな」

 泰一は半ば御伽噺おとぎばなしを聞いたような気持ちで目を空に上げた。ルナが同じように星空を見上げて、ため息とともに云う。

「名剣のなかには、剣を捨てて女として生きていくことを選んだ者もいたようです。私にはそんな彼女たちの気持ちは全然わかりませんでしたけど――」

 ルナはそこで言葉を切って泰一を見上げてきた。泰一がまるで糸に引かれるように目を合わせてやると、ルナは春を迎えた花の蕾のようにわらった。

「最近はちょっとその気持ちがわかるようになりました」

「ほう、どういう心境の変化だ?」

 泰一が微笑みながら尋ねると、ルナの微笑が凍った。はてなと思ったとき、反対側からソルが朗らかに云った。

「泰一様はとっても素敵な御方だということですよ。なあ、ルナ?」

「つーん」

 ルナは澄まし顔を前に振り向けてしまった。その氷の彫像のように澄み切った横顔を泰一はしばし眺めていたが、やがてあまり見るのも不躾だと心づいて顔を前に戻した。そのとき傍からソルが、口調をがらりと変えて尋ねてきた。

「して、泰一様。あの秋山という男のことですが……」

「うん、警部殿か?」

 はい、と真剣な熱い眼差しをあててくるソルに対し、しかし泰一は笑って云った。

「ふふっ、秋山警部は俺より強いわ」

「そんな!」

 ルナが息の詰まったように叫ぶ。動揺は湯に伝わって穏やかでない水音を立てた。泰一は今度はルナの方に顔を振り向けて、怯える子猫にするようにその頭を優しく撫でてやった。

「案ずるでない。強いのは、秋山大悟。だが勝つのは鬼丸泰一よ」

「本当ですか?」

「もちろんだとも」

 泰一がおおらかに頷くと、ソルが試すように笑いを含んだ声で尋ねてきた。

「して、策は?」

「策か」

 泰一は前を向き、広く逞しい胸の前で腕を組むと云った。

「策は無い!」

「そんなことだろうと思いました!」

 ルナとソルが声を合わせてそう云って、『た!』の音とともに泰一の筋肉のよくついた肩を二人して叩いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る