第十話 エレオノール、愛にすべてを

  第十話 エレオノール、愛にすべてを


 西へ傾いていく月がそろそろ山の端に接するころ、山裾のまばらな木々の一つにエレオノールが寄りかかって座っていた。その傍らには人に化身したジュワユーズがいて、エレオノールの右腕の傷を検めていた。泰一につけられた傷だ。

「大した傷じゃないわ」

 ジュワユーズはそう診断を降したのだが、膝を抱えて座っているエレオノールは、膝頭に顔を埋めたままかぶりを振った。

「でもすごく痛いのよ、ジュワユーズ」

「我慢して。化膿さえしなければ大丈夫。夜が明けたら医者に診せればいいと思う」

 エレオノールは顔をあげた。その目は赤く、頬は涙に濡れている。

「痛いの……」

 エレオノールが左手で傷に触れようとしたのを、ジュワユーズがその手を掴んで止めさせた。

「黴菌が入るわ、エレオノール」

 それに納得したのか、あるいは反抗する気力もなかったのか、エレオノールは左手でまた膝を抱えてため息をついた。

「誰も私を愛してはくれない」

 エレオノールは色々な悲劇に自分を当て嵌めてそう呟いた。もう半ば自棄になっていて、より一層の悲劇に辿り着くにはどうすればいいか、そればかり考えていた。

 しかし背筋をしゃんと伸ばしたジュワユーズが、エレオノールを見下ろして云った。

「でもエレオノール、そういうあなたは、本当に心から誰かを愛したことがあるの?」

「えっ?」

 エレオノールが弾かれたように顔をあげた。そこを捉えてジュワユーズがなおも云う。

「愛とは山彦のようなものだわ。与えなければ、返ってこないものなのよ。しかもすぐに返ってくるとは限らないし、ときにはまったく報われないかもしれない。それでも惜しみなく与え続ける……そんな風に、雨のように、誰かを愛したことがあるの?」

 エレオノールは答えられなかった。それは宝石の一つも入っていない宝箱を差して、開けて見せてほしいと云われたようなものだったからだ。

 ジュワユーズの瞳が憐れみを込めて細められる。

「愛されたいならまず誰かを愛しなさい。いくら外見そとみが美しくたって、自分しか愛していない人は誰にも愛してもらえないわ」

「なによ!」

 エレオノールは自分のなかから集められるだけの正当性を集めて、それをジュワユーズにぶつけようとした。ところがどういうわけか涙が溢れた。胸が張り裂けそうに痛い。

「なによ……なによ、なによ! でも、あなたの云う通りかもしれないわねえ。そして、もしそうだとしたら、私は人を愛することのできない女ってことになるわ」

「そんなことない」

「気休めはよして」

 エレオノールはきっぱりと云って立ち上がった。彼女はまだ悲劇に酔っていたのである。悲劇に酔って、傷ついた鳥を演じて、鎖骨に顎をつけた。それを見抜けぬジュワユーズではない。だからであろう、ジュワユーズは、この虚飾の悲劇を壊しにかかった。

「気休めなんかじゃないわ。ロランのことを思い出して」

「ロラン?」

 エレオノールは弾かれたようにジュワユーズを睨みつけた。その顔が怒りに浮腫むくんでいく。

「どうしてここでロランが出てくるの? 私が彼を無慈悲に殺したって責めたいの? でも私にだって言い分はあるわよ。だって許せなかったもの! 私のために覇剣戦争を制すると云ったくせに、あんな男にうやうやしく頭を下げて、負けを認めて……! 初めて尊敬する人ができた、ですって? そんな理由で、私のこと袖にしたんだわ……」

「そんなことすら許せないくらい、ロランのことを愛していたんでしょう」

 エレオノールは一瞬なにを云われたのかわからなかった。ところが次の瞬間、エレオノールは今の言葉が自分のなかで音楽のように反響を繰り返しているのに気づいた。

 ロランのことを愛していた。

 それがどんどん高まりを増して、自分の心のなかに美しく響き渡るのを聞いて、エレオノールは心臓の潰れるような呻き声をあげていた。

「嘘よ!」

 そう否定の声を突き立てても、自分の心に新しく作られた結晶は壊れなかった。なぜならば真実だからだ。エレオノールは蒼い闇のなかにあってそれと判るほど青ざめた。唇もまた凍っている。こんなはずではなかった。あのような弱い男、あのような情けない男を、自分が愛しているはずはなかった。それなのに、自分はロランを愛している。

「あ! ああ! ああああ――!」

 美しい悲劇は一瞬にして壊れてしまった。あるのは地獄だった。足元がふらついて立っていられない。空が落ちてくる。心がばらばらになりそうだ。

「エレオノール」

 倒れそうなエレオノールを、ジュワユーズがすんでのところで抱きしめてくれた。

「ロランも、今夜のあの瞬間までは、決して立派な男性とは云えなかったもの。あなたが自分の気持ちに気づいていなかったのも無理ないわ」

 そうよ、とエレオノールは感情のやり場を見つけて、ジュワユーズの両肩を揺さぶった。

「どうして……ねえ、どうして気づかせたの? こんなのひどいわ、あんまりよ! 罰? 罰なの? ねえ!」

「苦しい?」

「苦しいわよ! 当たり前じゃない!」

「でもエレオノール。その苦しみは、あなたにも人を愛する優しい心がちゃんと備わっているということなのよ?」

 エレオノールは瞳を抜かれたように黙った。涙も止まった。心はなにかを思い出そうとしている。この感覚は、そう、子供のころ、鳩の卵が孵るのを見守っていたときの、あの気持ちだ。

 ジュワユーズが慈愛を含んだ声で語る。

「だってそうでしょう? 本当に心の冷たい人だったら、そんな風に泣いたりしないわ。痛みも苦しみも感じないはずだもの。苦しいのだとしたら、それはあなたが優しいってことなの」

 するとエレオノールはその場にすとんと座り込んでしまった。そんなエレオノールを、ジュワユーズがどこまでも優しい慈しみの瞳で見下ろしてくる。

「もう解ったでしょう? 神様はあなたにも、ちゃんと人を愛せる優しい心を与えて下さったのよ。だから悲劇は終わりにしましょう。あなたにはまだ、愛したり愛されたりするチャンスがあるわ」

「無理、無理よ……」

 エレオノールはかぶりを振った。

「だって神様は許してくれないわ」

「いいえ。神様は慈悲深いわ。罪は償えるの。汚名は雪げるの。だから立って、エレオノール。今こそはあなたの新しい人生が始まるときなのよ。ロランだってこの一晩で変わったんだもの。あなただってきっと変われるわ」

 ジュワユーズがエレオノールに手を差し伸べてきた。その光りの御手に、エレオノールは触れることをためらいながら云った。

「でも、私なんかに……」

「自信を持って。勇気を出して。人に優しくするなんて、こんなに簡単なことはないのよ? さあ!」

 ジュワユーズがぐっと腕を伸ばしてくる。エレオノールは差し出すかどうか迷っていた手を強引に掴まれ、一気に立ち上がらされてしまった。

 そしてエレオノールは否応なく、愛の嵐のなかへ。


 月はとうに隠れ、東の空は紫色に明け離れていく。

 エレオノールは今、川を左手に見ながらその流れに沿って歩いていた。ジュワユーズは剣の姿に戻ってエレオノールの腰にある。聞こえるのは川を流れる水の音と、風にそよぐ梢の音ばかりだ。それに夜明けを察した鳥の声が加わり始めた。

 あるときエレオノールは立ち止まって、これまで何度となくそうしてきたように、川の上流を恐ろしげに振り返った。この流れを遡っていった先にロランの亡骸がある。それを見るのが怖くてほとんど逃げるようにここまで来てしまったが、本当にこれでよかったのだろうか。

「これで振り返るのは六度目よ、エレオノール。そんなに迷っているなら、戻ったら?」

 そのたった一言で、エレオノールは目の前がぱっと明るくなった気がした。

「そうね」

 きっと自分は、誰かにそう背中を押してもらえるのを待っていたのだ。そしてロランにせめて花の一輪くらいは手向けてやりたい。でなくては慈悲深い神様にも見放されてしまう。

「戻りましょう」

 一度そう決めると、エレオノールは溌剌と川の上流へ向かって歩き出した。ところがその足が、あるときはたと止まってしまう。

「あれは……」

 こちらとは川を挟んだ反対側の河原で、鬼丸泰一と秋山大悟が対峙していたのだ。

「まだ戦っていなかったのね」

 ジュワユーズがそう呟いた通りだ。泰一が水色のポロシャツに着替えていることからして、二人はどこかで休憩を入れてきたのだろう。戦いはこれからというわけだった。

 そしてロランのために戻ろうと思わなければ、エレオノールがこの二人の戦いに立ち会うこともなかった。ならば慈悲深い神はいったいなにを考えて、この運命を用意したのであろうか。

 エレオノールは対岸に立つ二人の男に左手を差し伸べて、ためしに呟いてみた。

「勝った方を愛してあげるわ」

 声は空しく、風に溶けて消えた。これでは駄目なのだと、もうわかっている。

 だからエレオノールはその場に佇み、二人の男を見つめ続けた。二人の男の戦いを通して、自分の心を見極めようとしていた。

 ――私は人に優しくできるのかしら?

 やがて秋山が菊一文字を、泰一がティソナとコラーダを構えた。そして勝負が始まる。

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