第八話 決戦デュランダル

  第八話 決戦デュランダル


 遠く幽かに、剣戟の音を聞いた気がした。

 鬼丸泰一は双剣を引っ提げて獣道を下っている。その足取りは確かなもので、転びもよろめきもしなかった。一方、先をゆくエレオノールは樹に手をつきながら、夥しいほど堆積した落葉に足を滑らせないよう、足元に気をつけて進んでいる。

「近い」

 エレオノールの腰に吊られているジュワユーズがそう呟いた。

「ロランはすぐそこ?」

 エレオノールが陽気に尋ねると、ジュワユーズは「うん」とすぐにも溶けてしまいそうな声で答えたあとで、思い出したように云い直した。

「厳密には、デュランダルがすぐそこ」

「同じことよ。ロランがデュランダルを手放すわけがないもの。ねえ泰一?」

 エレオノールが足を止め、振り返って微笑みかけてきた。泰一は眉一つ動かさず、目顔で先を急ぐよう促した。

「寡黙な人」

 エレオノールはちょっと笑って、また歩き出した。

 葉叢はむらが夜風にそよいでさわさわと鳴っている。それがいつしか水の音を聞いていた。近くを川が流れているのだ。

 これまでの道程を振り返れば、山の斜面をまっすぐにではなく、回り込むようにして下ってきた。一度尾根を越えたはずが、ぐるりと巡ってあの展望台の崖の下に来たわけだ。だから以前にもこの山に登った経験があり、あの崖からの眺めをよく心得ていた泰一には、辺りの風景を思い描くことは容易だった。この先には川がある。その川を渡ってしばらく歩くと温泉宿がある。

 泰一がそのように頭のなかで地図を展開していると、先を歩くエレオノールが、はたと足を止めて明朗に云った。

「いたわ」

 泰一はまなじりを決して小走りに駆けた。靴の先が小石を蹴ったとき、そこはもう岩と砂礫ばかりの川辺であった。

 泰一はエレオノールが見つめている方をきつい瞳で睨みつけた。そこには月明かりに照らされたロランが、デュランダルを片手に荒い息をついている。白い背広に赤いものが散っているのは返り血であろう。というのも、その足元に二人の男が斃れていたからだ。

「ロラン!」

 エレオノールがそう声をかけると、ロランは犬のように振り返った。笑いかけたその顔がすぐに強張ったのは、隣にいる泰一を見たためであろう。しかし泰一の方も瞠目していた。

 話のできる距離まで来ると、泰一はなにをおいてもまずこう云わずにはおれなかった。

「男子三日会わざれば刮目して見よとはよく云ったものだ。顔つきが変わったな」

「ちょっと自信をつけたのさ」

 それは足元に転がっている二人の男の亡骸を指してのことであろう。ロランはそれを少し邪魔に感じたのか、泰一を警戒しつつ歩を横へ運んだ。

 エレオノールの眼差しもまた二人の男の亡骸に注がれている。

「あなたがやったの?」

「ああ、初めて勝ったよ。剣も二本、降した」

 そこまでは皓歯を見せて朗らかに云ったロランであったが、たちまち顔を憂色に閉ざすと、泰一とエレオノールをかわるがわるに見た。

「君こそどうしてこの男と……いや、云わなくてもわかる。さっきの戦いを見ていたんだね? それでこいつに乗り換えた、ってところか」

「んふっ」

 エレオノールは朱唇を嬉しそうに咲き綻ばせて、一歩二歩と河原を漫ろ歩いた。

「私がどういう女か、よく理解してるのね」

「長い付き合いだからね」

「ええ、長い付き合いですもの。私もあなたがどんな男か知ってるし、そろそろ見限りどきだと思っていたけど……」

 そこでエレオノールは軽く跳躍して、平たい大きな岩の上に乗った。そこからロランを見下ろして清艶に笑う。

「でも、そうね。ちょっと見直したわ」

 ロランの顔に光りが差した。惚れた弱みと云おうか、ロランはこの女に心酔していて、彼女のためならば道化になるのも厭わないのであろう。

「戦いなさい。勝った方を愛してあげるわ」

 その女王然とした命令に、ロランが応諾するよりも早くデュランダルが異を唱えた。

「待てい。ここであの男と戦うのは――」

「いや、いいさ」

 ロランが意外なほど屈託のない声でデュランダルの言葉を遮った。

「おまえがなにを云いたいかはわかってる。もう少し他の連中に揉まれて場数を踏めって云うんだろう? だけどデュランダル、他でもない、おまえが云ったんじゃないか。強くなるのは今だって。それにエレオノールが見てる。逃げるわけにはいかない」

「ほう……」

 瞠目とはこのことか。泰一はそれなりに感心したが、しかし怒りの焔は衰えない。ティソナとコラーダを駆る双の腕に力が充ちていく。

「少しはましになったようだが、今さら改心したところで、俺はおまえを許さぬ。正行にしたこと、その命で贖ってもらうぞ」

「見ていろ、エレオノール」

 ロランはデュランダルを泰一に突きつけて云った。

「こいつを倒して君を取り戻す」

 それからロランはデュランダルを握っていた左手を、剣を立てるかたちで胸に押し当てた。その構えには覚えがある。

「聖光十字武装!」

 ロランの体は果然としてデュランダルが放つ白い光りのリボンに巻き付かれた。リボンはたちまち鎧を象り、三度も瞬きするあいだには、あの白騎士が出現していた。

 泰一も腰を落として剣を構えたのだが、そのとき右手でソルが云った。

「泰一様、あの男、右手が繋がっています」

「うむ」

 過日泰一が切り落としたはずのロランの右腕はたしかに健在であった。それなのに左手で剣を持っている。このことから推測できる事実は一つだ。

「なんらかの治療を施したのであろうな。しかし完全には元に戻らなんだ……」

「では、あの男は利き腕を使えないのですね?」

 泰一はルナのその口吻から、彼女が早くも勝った気になっているのを悟り、却って気持ちを引き締めた。

「ルナよ、相手をみくびるな。憎い奴だが、どうやら一皮剥けたらしい。油断はできん」

「それでも泰一様なら、必ずや勝利をお収めになると信じております」

「だとよいがな」

 泰一は本気とも冗談ともつかぬ笑顔を見せて両腕を開き、翼をひろげた鳥のような構えを取るとロランをねめつけて云った。

「行くぞ」

「やってやる!」

 月光の下、エレオノールの見つめる先で、鬼と白騎士が互いを目掛けて飛び掛かった。

 先鞭をつけたのはロランであった。その白刃が斜めに振り下ろされる。それを躱した泰一は、伸びきった左腕の、鎧の継ぎ目を目掛けてコラーダを振り下ろした。先日、ロランの右腕を切り落としたときの再現を狙ったのである。しかし、ロランはそれを読んでいたように左腕を少し動かして、手甲で剣を弾いた。

「ぬっ?」

 手の痺れるような手応えに眉をひそめた泰一に、ロランが反撃の一太刀を放ちながら吼える。

「二度も同じ手を喰うものか!」

 その横薙ぎの一閃を、泰一は後ろに大きく跳躍して躱すと、ロランににやりと笑いかけた。

「右腕は勉強代になったな」

「ほざけ!」

 ロランが猪のように突進してきた。泰一はその場で腰を落とし、迎え撃つ。

「うおおおっ!」

 それから三度、泰一はロランの攻撃を躱してのけた。その三度目に攻撃の隙が見えたのでティソナを突き込んだが、その隙をデュランダルが埋めた。

「左!」

 ロランは石にかじりつくような気構えで、デュランダルを無理やりティソナの軌道に合わせてくる。打ち合えばこちらの剣が折れてしまうので、泰一は剣を引かざるを得ない。それでもまた寄せては返す波のごとくに襲いかかるのだが、デュランダルがそれをいちいち先読みした。

「避けろ!」「躱せ!」「受けよ!」

 的確無比なデュランダルの指示に、ロランもよく応えた。鎧の防御力と、デュランダルの叱咤。この二つに支えられて、ロランは実に一分ものあいだ、泰一を相手に嵐の攻防をくぐり抜けることができた。

「ええいっ!」

 泰一はいったん、ロランから距離を取った。

 風が寥々と吹きすぎていく。その風が、全身汗みずくの泰一に冷気を感じさせる。息遣いもさすがに少々荒くなっている。一方のロランは涼しげに立っていた。それは全身をよろわれているのだから表情は見えないが、息を乱している様子もないのが訝しい。息切れを起こしてくれれば、隙も大きくなりやすいものを。

「あやつ、体力は無限か?」

 すると果たせるかな、デュランダルが「くふっ」と笑って種を明かした。

「鬼丸泰一、一つ教えてやろう。ロランの纏っておるこの鎧はな、脱いだあと使用者に巨大な疲労感をもたらすが、着ておるあいだは無限の体力を与えるのよ」

 えっ、と驚いたのはロランである。

「そうなのか? 聞いてないぞ」

「云っておらなんだからの」

 そうしゃあしゃあと述べるデュランダルの刀身を、泰一はきつい瞳で睨みつけた。

「なぜそれを俺に明かす?」

「明かせば、おんしは攻め方を変えざるを得まい? いくら無限の体力があろうと技倆の差は埋めがたく、従ってこちらは元より捨て身。されば鬼丸よ、おんしもこちらの息切れなんぞ狙わんと、捨て身でかかってまいれ」

 泰一は苦笑いを禁じ得なかった。剣の覇を競うとはこういうことよと云わんばかり。光風霽月と云おうか、敵ながらこのデュランダルは天晴れである。

「さあさあ、次で決まると思え、ロラン」

 ロランがデュランダルの声に応えて剣を構え直した。いかにも堅固な、防御の体勢だ。

「泰一様」

 次なる激突を予感してか、ルナが一声かけてきた。

「あのデュランダルの云う通り、次で決めよう」

 泰一は光りの漲る目でロランを見据えた。相手は全身を白い鎧で武装した騎士である。兜の面金越しには青い瞳が透かし見えた。その目には緊張が漲っている。一瞬一瞬に生と死の境目があるかのように。だがそれは泰一にとっても同じなのだ。ほんの一つの間違いで、自分の首が飛ぶだろう。その危険を踏み越えて、果断に攻めねばならぬ。

 そのとき月が雲に隠れた。辺りが蒼い闇に沈む。それを勝機と泰一は地を蹴った。

「でやあっ!」

 泰一はティソナでロランの首を落としにかかった。ロランがデュランダルで防御に入るが、実はティソナは囮である。このとき、泰一の左手で本命のコラーダが跳ね上がった。狙いは面金の隙間だ。果たして白銀に輝くコラーダの刃はロランの面金の間隙をすり抜け、その目に突き刺さらんとした。しかし!

「聖光守護結界!」

「なに!」

 突如生じた泡のような手応えに、泰一はコラーダが押し戻されるのをどうしようもなかった。いや、コラーダどころか泰一自身が丸ごと、ロランから生じる光りの球体に押し戻されていく。

「ちっ!」

 泰一は圧力に抗しきれず、後ろへ跳んだ。そこへロランがすぐさま飛びついてくる。守護の結界を惜しげもなく脱ぎ捨てて、好機を得ようと泰一に肉薄してきたのだ。その甲斐はあった。泰一は僅かながら体勢を崩しており、早手回しの一撃を回避できない!

「もらった!」

 ロランは泰一を唐竹割りにしようとデュランダルを振り下ろした。防御も回避も不能である。受ければ剣ごと真っ二つにされるし、避けるには時間が足りない。しかるに鬼丸泰一は笑っていた。なぜなら彼が考えていたのは防御でも回避でもなく、攻撃であったからだ。

「よう出てきてくれた」

 デュランダルが泰一の頭蓋を叩き割るよりも早く、泰一の右手に握られたティソナが黄金の光りを曳いて駆け上がる。ティソナは、左腕を高々と振りあげてあまりに無防備な、ロランの左脇の下に突き刺さった。

「がっ!」

 ロランがそう呻きをあげたかと思うと、その左腕から力が抜けた。デュランダルもその手からすっぽ抜けて、泰一の頭を飛び越え、くるくると回りながら背後の地面に突き刺さった。そして泰一は、腕に伝わってくる硬い骨の感触を、持ち前の膂力りょりょくでねじ伏せ、叩き斬っていた。

「ぬん!」

 ティソナを振り切ると、ロランの左脇の下から夥しいほどの鮮血が溢れてその足元に滴った。白い騎士は弱々しげな叫びをあげながらその場に両膝をついた。その騎士を泰一が傲然と見下ろしている。ロランの右手は元より剣を握れない。左手も今、死んだ。

「終わったな」

「そうさの」

 その声に泰一が振り返ると、ちょうど岩場に突き立てられている純白の聖剣が、金髪の美しい乙女の姿を取ったところだった。そのとき雲に隠れていた月がまた姿を現し、デュランダルの可憐な姿をこの上なく美しく輝かせた。

 そのデュランダルが微笑みながらこちらに歩いてくる。泰一は思わず身構えた。

「やるか?」

「それはロランに聞けい」

 デュランダルはまったく構えたところのない物腰で泰一の横を素通りし、うずくまっているロランの傍らに立って小腰を屈め、その肩に手を置いた。

「やはり勝てなんだな」

 ロランはなんとも答えない。ただ荒い息遣いに嗚咽が混ざり始めた。

「まだやるか、ロラン?」

 しかし戦おうにも、もはや彼の両腕は動かないのだ。デュランダルは寂しげに目を伏せた。

「そうか、あかんか。剣ヶ峰を踏み越えてしまったの」

 ロランは肩を震わせていよいよ泣き出し始めた。そんなロランを慰めるように、デュランダルがその繊手で兜を撫でる。

 そんな二人を憚ってしばらく遠巻きに見ていた泰一であるが、そろそろ頃合いかと思って足を踏み出した。そのとき、これまでずっと黙っていたエレオノールが悲鳴のような声をあげた。

「ロラン!」

 エレオノールは戦いを見下ろしていた岩から飛び降りると、ロランの背後数メートルにまで駆けつけてきた。それがあきらかに慍色うんしょくを呈している。

「ロラン、あなたこのまま殺されるつもり? 私を愛しているなら、負けるにしたってせめて最後まで戦いなさいよ!」

 それにはデュランダルが眉をひそめてエレオノールをねめつけた。

「無茶を云うな、小娘。もうあかんわ」

 エレオノールはそれも無視してロランの背中に目を注いでいたが、ロランに立ち上がる気配がないのを見て、見切りをつけたらしい。彼女はロランから泰一に碧色の目を移して笑った。

「あなたの勝ちだわ。さあ、その男の首を刎ねてしまいなさい」

 泰一はさすがに眉をひそめた。

「それは無論だが、おまえにとってその男は幼馴染であろう。助けようとは思わんのか?」

「私のために最後まで死に物狂いで戦ったのならともかく、途中で諦めて泣きが入るような軟弱者には興味がないわ」

 するとエレオノールを見るデュランダルの目も剣呑になる。

「容赦ないの、おんし」

 泰一もまったく同感であった。憎むべき、殺めるべきロランであるはずなのに、僅かの同情が湧き上がってくるのは、このエレオノールがあんまりだからである。今こそ泰一ははっきりと瞋恚しんいを自覚していた。

 ――この女は、腹が立つ!

 だが今はエレオノールではなくロランを討つべきだった。正行にしたことの報いを受けさせるのだ。泰一は瞑目して瞋恚を滅すると、目を見開いて歩き出した。その歩みを、デュランダルの問いが阻んだ。

「のう、鬼丸泰一。一つ訊きたいことがある」

「なんだ?」

「おんし、いったいこの覇剣戦争になにを懸けておる?」

 泰一は思わず押し黙った。が、デュランダルの青い瞳は言い逃れを許そうとはせず、きつく細められていく。

「究極の剣を至高の鞘に収めるとき、おんしはなにを願うのだ?」

「答える必要はない」

 泰一は殊更に厳しい声音でそう断じると、口をへの字に曲げてしまった。デュランダルが少し眉宇を曇らせた。

「あのわっぱがな、ロランに突っかかったときに云っておったのよ」

「童? 正行のことか!」

「然り。日本語であったからロランにはさっぱりだったようだが、このデュランダルにはちゃんと聞こえておった。あの童は確かにこう云った。お姉ちゃんたちがやられちゃったら、先生が覇剣戦争に出られなくなって、先生の病気が治らないだろ、とな」

 このとき、泰一の心のなかを熱いものが貫いていった。やっと十歳になったばかりの子供が、こんな自分のためにそこまで云ってくれたのだ。

 こんなことならば最初にルナとソルから覇剣戦争の話を聞かされたときに、一も二もなく快諾しておくべきであったかもしれない。そうすれば正行があのような目に遭うこともなかった。泰一は悔いのあまり、体がわななくのを止められなかった。

 そんな泰一にデュランダルが微笑みを向ける。

「許せよ、鬼丸。しかし我はどうしても聞きたい。あの童の言葉から察するに、おんし、病んでおろう? ではおんしが戦うのは、その病を治すためか? それとも……」

「答える必要はない!」

 泰一は雷のように大喝した。断固たること鋼の如し、泰一の口は梃子でもこじ開けられぬであろう。デュランダルはそれを見て取り、さすがに諦めたように肩を落とした。そのとき泰一を裏切るものがあった。

「では泰一様の代わりに私がお答えしましょう」

「ルナ!」

 泰一は左手のルナを睨みつけたが、今度は右手でソルが云う。

「云ってやれ、ルナ。云わねば私が云う」

「ソル!」

 泰一は今度は右手を一喝し、それから双剣をかわるがわるに見ながら急いで云った。

「二人とも黙らぬか。こういうことは、余人に話すものではない」

「ええ、ええ、泰一様は絶対、ご自分の口では云わないでしょう。ですから私が話します。デュランダルも聞きたがっていますし、なによりそこの白騎士に云ってやらねば気が済みません」

 泰一はもうルナの口を無理やりに閉じさせてやろうかと思った。しかるにルナには口がない。コラーダという剣の姿で喋っているからだ。したがって泰一はルナが喋るのをどうしようもなかった。

「はっきり云いましょう、泰一様は癌です。もう長生きはできません。なのにご自分の病を治すために戦うのは厭だとおっしゃいました。人殺しにはなりたくないと。ところがそこのおまえ!」

 ルナは言葉の槍で出し抜けにロランを突き刺した。ロランの嗚咽はいつのまにかんでいる。彼は今、両膝をついて項垂れたまま、ルナの言葉にじっと耳を傾けていた。

「おまえによって片輪にされたあの坊やを目醒めさせるために、泰一様は戦うことに決められたのです。しかしそのために泰一様の病が快復する可能性はなくなってしまった。おまえはあの坊やを生死の境に追いやっただけでなく、泰一様のお命も、そのお優しさも、全部踏みにじってしまった! この人でなし! 恥を知る心があるのなら、大人しく首を差し出しなさい!」

「もうよせ」

 泰一はもうそれ以上、聞いていられなかった。するとルナの声が悲しげに歪む。

「しかし泰一様!」

「おまえの気持ちは嬉しいが、俺とてもう血塗れなのだ。今夜だけでも四人殺した。ロランを人でなしというなら、俺とて人でなしよ」

「あ……」

 ルナはそれきり、元気が萎んだように黙ってしまった。泰一はその白銀の刀身にしばらく目を注いでいたが、やがて元々の経緯を思い出し、デュランダルに視線をあてた。

「まあ、そういうことだ」

「ふっ、ふふふふふ」

 泰一の言葉を待っていたように、デュランダルはにわかに笑い始めた。その笑い声がだんだんと大きくなっていく。乙女らしからぬ呵々大笑が炸裂する。

「はっはっは! さすが! そうでなくては! そうこなくては!」

 デュランダルはひとしきりわらうと、指尖ゆびさきで涙を払い、皓歯もあらわに泰一に笑いかけてきた。

「我の負けでよい。おんしに降るのなら文句はないわ!」

「認められたようですね」

 ソルの口吻には寿ぎがあったが、泰一は別に嬉しくもなんともなかった。

 一方、清々しくわらっていたデュランダルであったが、次の瞬間にその美しい顔は蒼く陰った。彼女は寂しそうな目をして、傍らに膝をついたままのロランを見下ろした。

「さて、ロラン。いよいよだが……まあ、命乞いできる立場ではないの」

「そうだな」

 面金の奥でそう力なく答えたロランは、そのとき初めて顔をあげて泰一を仰ぎ見てきた。

「殺せよ」

 泰一はティソナとコラーダを握る手に力を込めた。今こそは正行の仇を討つときなのだ。この男は生かしておけぬ。生かしておかぬ。そう決めていた。泰一はゆっくりと歩を運び、誰にも邪魔されることなくロランのすぐ前に立った。デュランダルが一歩後ろへ下がる。

「兜を取ってくれた方がやりやすいのだがな」

「泣き顔なんか見られたくない。それにあんたの腕なら問題なくやれるだろ」

「そうだな」

 どちらにせよロランの首を刎ねることはたやすい。同じことだ。泰一はそう思って、右手のティソナを無造作に振りあげた。面金の奥でロランがきつく目を閉じる。そして。

「ぬん!」

 泰一はティソナを、真横へ鋭く振り切った。それはなんの情緒もない、一瞬の光芒であった。

 場にしんとした静寂が訪れる。聞こえるのは川のせせらぎだけだ。

「……泰一様?」

 空を切ったソル・ティソナが拍子抜けしたような声をあげた。デュランダルが目を丸くする。あの、とルナが頼りなげな声をあげた。そしてロランがいつまで経っても訪れぬ死を訝って目を開けたとき、泰一は複雑至極な顔をして口を切った。

「やはりやめだ」

「えっ?」

 ロランは一瞬、なにを云われたのかわからないらしかった。だがやがて理解が及んだのだろう、彼は泰一の方へ少し首を伸ばして叫んだ。

「なぜ?」

「天秤が釣り合わんからよ」

 泰一はそう答えながらも、ロランを一刀の下に斬り捨てたい衝動に駆られていた。それをあと一歩のところでこらえていられるのは、気づいてしまったからだ。

「おまえは絶対に許せぬ男、憎んでも憎みきれぬ奴、子供を斬る腐れ外道、ぶった斬ったところで誰も文句は云わぬ。そう思っておった。そう思っておったが、しかし、俺は気づかんでもよいものに気づいてしまった。つまり俺がこの覇剣戦争に勝利して無事に正行を助けられたとき、おまえを殺していたとしたら、天秤がちと釣り合わんではないか」

 すると虚けたように黙っていたデュランダルが、信じがたそうに声を起こした。

「では、おんしはロランを許すのか?」

 たちまち泰一の心で針のような拒絶が起こった。

「馬鹿な! ありえんことだ!」

 泰一は弾かれたように見開いた目で、デュランダルを睨みつけた。

「勘違いをするな。この鬼丸泰一、そこまで甘くはないぞ。もし俺がこの戦さに敗れ、正行を救うことが叶わなんだら、そのときは死ぬ前に必ずこの男の首を斬る。斬ったところで、正行の死とは釣り合わんが、必ず殺す。しかし正行を救えたのなら、そのときは百歩譲って、命ばかりは助けてやってもよい」

 そこで言葉を切った泰一は、あらためてロランに眼差しを注ぎながら云った。

「それもおまえがこの場で俺にデュランダルを捧げ、決着の日までを祈りと贖罪に費やすと約束すればの話だ。どうだ、約束できるか? 男の約束だぞ」

 すると返事を待つ泰一の前で、ロランの鎧が微光を放った。かと思うと、兜が、鎧が、白い光りのリボンとなって解け始め、リボンは宙に溶けていく。あとには白い背広姿のロランが残った。その左脇は鮮血に染まっており、額には前髪が冷や汗で貼り付いている。

 ロランは青ざめた顔を上げると、泰一に向かって泣きながら云った。

「いっそ殺してくれ」

 その殊勝な科白に、泰一はロランが『演じてはいないか』見極めようとした。もし少しでもロランの目のなかに助かりそうだと喜ぶずるさがあれば、やはりロランを殺そうと思った。

 泰一は眼光を鋭くして訊いた。

「殺してほしいか? 本当にそう思うか?」

 ロランはなにも云わない。ただ物乞いが食べ物を欲しがるのと同じ目をして、死を恵んでほしがっている。救いを求めている。今この男にとって生きるということは、砂漠の真ん中でどこにも逃げ場がなく、太陽に照りつけられているのに等しい。泰一はそんなロランの声なき声を聞いた。

 ――生きていけない。

「でかした!」

 泰一はそう快哉を叫んでいた。

「おまえは今こそ廉恥心に目覚めたのだ。ならばやはり生きよ。祈りと贖罪に生きると、俺に約束するのだ。正行や正行の父母の苦しみを思えば、できるはずだ。さあ!」

 泰一は爽やかに両手を開いた。ティソナとコラーダが地面に落ちる寸前で、ソルとルナの姿を取る。二人の美少女は軽やかに地面を踏むと左右からそれぞれに泰一を仰ぎ見てそっとその身を寄り添わせた。今や和解のしるしに武器を捨てた泰一の、無防備な体を守ろうかというように。

 そしてロランにも変化があった。泰一が剣を手放したとき、それを意気に感じたのか、辛い辛いと泣いてばかりいたその顔に、ふと男らしい線が加わったのだ。

「わかりました、約束しましょう。そして僕の負けです」

 それを聞いて泰一は思わず目を瞑り、まなぶたの愛しい面影に詫びていた。

 ――許せよ、正行。許せよ、沙代子。

 今やロランは敬慎の念からうやうやしく頭を下げていた。またデュランダルの目には涙がある。あれほど矯激にロランを責めたルナも、もうなにも云わない。ソルは元より恭謙であった。

 しかしただ一人、泰一とロランに甲高い罵声を浴びせる者があった。

「冗談じゃないわ!」

 泰一はその叫びに目を上げた。果たせるかな、エレオノールがロランと泰一を憎さげに睨みつけている。

「いったいなにをやってるのかしら? 私は勝った方を愛してあげると云ってるのに、どうして白黒つけないのかしら?」

「俺は別に、おまえに愛してもらわんでもよい」

 泰一がうんざりしながらそう云うと、エレオノールの視線が矢のように返ってきた。

「ええ、ええ、あなたはそうでしょうよ!」

 そこでエレオノールの視線はロランに映った。その瞬間に笑顔が咲いた。

「でもロランは違うわよね?」

「む……」

 泰一はエレオノールの面貌からただならぬ情の湧き出しているのを見て取り、ふと先刻エレオノールに吐いた自分の言葉を思い出した。

 ――口ではなんと云おうと、おまえはロランに対して親愛の情を持っているはずなのだ。

 あの言葉はどうやら的を射ていたらしい。エレオノールはやはりロランを愛している。しかし泰一が見誤っていたのは、このエレオノールという女の猛々しさであった。

「ねえ、ロラン。私は勝ったら愛してあげるって云ってるのよ? それが自分から負けを認めるなんてどういうこと? あなた私を愛しているんでしょう? なら戦いなさいよ! たとえ勝てなくても、たとえ殺されても、最後まで戦いなさいよ! 私の愛を得るために!」

 それに対してロランは、エレオノールに背中を向けたまま云った。瞳はあくまで泰一を仰ぎ見ていた。

「すまない、エレオノール。でも僕は、もうこの人に戦いを挑もうなんて気になれないんだ」

「私がお願いしても?」

「そうだ」

 エレオノールは息を引いて仰のいた。少なくない衝撃があったのはその表情からもあきらかだ。

 じゃあ……と切り出したエレオノールの声は動揺にふるえていた。

「じゃああなたは、まさか私よりその男を選ぶというわけ? 二十年間、私のあとを追い回してきたあなたが!」

「そうだ」

 今度こそエレオノールは、胸に見えざる矢を受けたようによろめいた。

「聞いてくれ、エレオノール。僕は今、初めて尊敬できる人を見つけたんだ。この人を裏切りたくないんだ。その結果、君に叛くことになっても構わない」

「私への愛より、男同士の信義を選ぶというのね?」

「そうだ」

 その明朗な返事はこれで三度目だった。ロランの顔はそのたび明るくなっていく。青い瞳は輝いていく。それとは反対に、エレオノールの顔は暗く打ち沈んでいって、とうとう失望が絶望に変わったようだった。

「……そう。残念だわ」

 エレオノールは低い声で云って、差しうつむいた。その姿から泰一は雷を孕んだ暗雲を想起したが、しかしロランの次の言葉によって視線を引き戻されてしまった。

「鬼丸さん、僕はあなたに約束しましょう。あなたの云われた通り、覇剣戦争が終わるそのときまで、祈りと贖罪のうちに生きることを」

 そう宣言するロランの顔は苦悩とすれすれの決意に満ちていた。だからこそ雄々しく、そして誇りに溢れていた。

「そしてこの戦いは僕の負けです。僕の命を取られないというのなら、僕は覇剣戦争の勝利条件の二つ目を、あなたのために実行しようと思います。すなわち剣が契約した使い手に負けを認めさせ、使い手自身にその剣を捧げさせること」

 そこでロランはいったん言葉を切り、傍らのデュランダルを仰ぎ見た。目と目でそれと通じ合ったのか、デュランダルが一つ頷くと、ロランは泰一に顔を戻して口を開いた。

「鬼丸さん。僕はあなたに――」

 デュランダルを捧げます。ロランはそう云おうとしたのに違いなかった。ところが突如の轟音が、続くはずの言葉を吹き飛ばしてしまった。

 いったいなにが起こったか。

 泰一は山肌に反響を繰り返す谺を聞いて、初めて理解が追いついた。

「――銃声!」

 泰一が叫んだときには、ルナとソルはもう動いていた。彼女らは泰一の手を握り、はやその身を剣と変えている。それを愕然と握り締めた泰一の目の前で、膝立ちをしていたロランの体が前のめりに倒れた。金髪の頭が、泰一の爪先のすぐ近くにある。白い背広を着込んだ背中には、赤い孔が穿たれている。後ろから銃で撃たれたのだ。では撃ったのは誰か?

 泰一はロランの後方数メートルのところに立っている一人の女に目を注いだ。

 果たせるかな、エレオノールの右手には、硝煙をあげる黒い小型のオートマティック拳銃が握られていた。泰一はあまりのことに声もなかったが、デュランダルは燃え上がった。

「き、さま……!」

 デュランダルはエレオノールに向き直ると、まなじりをつりあげて怒声を張り上げた。

「剣の覇を競うこの戦さに、よりによって銃を持ち出すか!」

「ふふ」

 エレオノールは唇を笑みのかたちに歪めると左手で前髪を掻き上げた。

「馬鹿ね、今は中世じゃないのよ? 銃があるのに剣で戦うわけないじゃない。まして私はか弱い女なんですからね」

 そこまではせせら笑いながら云ったエレオノールであったが、なにに気づいてか、デュランダルを不思議そうに見つめた。

「でも今のであなたは私のジュワユーズに降るはずなんだけど、そんな気配がないわね。剣でとどめを刺さなきゃ駄目なのかしら?」

 それには誰も答えなかった。エレオノールも強いて答えを求めていたわけではなかったのだろう、彼女はただ黙って微笑みながら、デュランダルに銃口を向ける。

「まあそれならそれで、あなたの方をへし折ってやればいいだけの話よね。デュランダルは岩に打ちつけられても折れなかったっていうけど、銃弾を浴びたらどうなるのかしら?」

「うぬ!」

 デュランダルが地を蹴った。それを見てエレオノールが引き金を絞る。銃声が静寂の帳を破り、閃光が夜の闇を引き裂いた。それが連続する。銃弾はデュランダルの肩に当たり、足に当たりする。その度にデュランダルの体勢が崩れて、さながら花が嵐の前に散っていくようではないか。

「泰一様!」

「わかっておる!」

 悲鳴のように呼びかけてきたルナをそう一喝した泰一は、銃声が何度したのかを数えていた。鬼丸泰一は警察官であるから当然、銃器にも通暁している。エレオノールの持っている銃の弾丸装填数は全部で八発だ。それを全弾撃ち尽くしてしまったときが勝負である。だが本当にそれでいいのか? なにをおいても飛び出すべきではないのか? どうなのだ、鬼丸よ?

「うむむ!」

 もう少しで泰一の理性が地滑りを起こして、感情の雪崩が始まろうというとき、七発目の銃声が響き渡った。あと一発である、が。

 ――やはり我慢できん!

 泰一がそう気炎をあげたとき、デュランダルが持ち堪えられずに前のめりに倒れた。泰一が愕然と目を剥く一方、エレオノールは足元に倒れているデュランダルを見下ろして酷薄に嗤う。

「おしかったわねえ」

 エレオノールの指が引き金にかかった。

「待て!」

 泰一がそう叫んで飛び出そうとした瞬間、その機先を制するようにエレオノールの銃が泰一の方を向いた。

「動かないで」

 泰一はその呪文に従ってぴたりと足を止めた。エレオノールがまた嗤う。

「あと一発残ってるわ。いくらあなたが端倪すべからざる剣士だとしても、音速を超える弾丸に対処できるかしら?」

「してみせる!」

 泰一は破れかぶれに叫んだが、やはり盲目に意地だけで叫んだのだった。実際のところ、弾丸を回避するのは難しい。しかしそれでも、たとえ撃たれることになっても、ここで飛び出さねば男ではない。泰一は地を蹴ろうとして体をたわめた。そのとき、勝ち誇るように笑っていたエレオノールが変な顔をしたかと思うと足元に目をやった。

「よい、鬼丸」

 デュランダルだ。エレオノールの足元に這いつくばっている彼女が、頭を起こし、腕を伸ばしし、エレオノールの左足首のあたりを右手で掴みながら泰一にそう声をかけてきたのだ。

「あと一発、なのであろう? ならば我が撃たれたらこの女を殺しておくれ。さすればジュワユーズごと我もおんしのものぞ」

「馬鹿を申せ」

 このとき泰一の心のなかで天秤は決定的に傾いた。今ここで彼女を見殺しにするのは、男のすることではない。

「すまぬ、デュランダル。俺が姑息であった。相手の弾切れなど狙わず、おまえとともに斬り込むべきだったのだ。身を捨ててかかればなんとでもなったのに……」

 ――俺が思い切れなんだがために、女一人が危殆に瀕しているのだ!

「デュランダル、俺はおまえを助けるぞ」

「おお、なんという大うつけ……」

 そう罵りながらも、デュランダルの声には笑いが含まれている。今、泰一と彼女のあいだになにかが通ったのだ。それを快く思わなかったのがエレオノールである。

「そう……」

 エレオノールは泰一の上に視線を移すと、それを針のように尖らせてきた。

「ならデュランダルを仕留めるのは剣ですることにして、この弾丸はあなたのために使いましょうか?」

「望むところだ!」

 泰一は胸を張って双剣を構えた。その目は力強く輝き、恐怖も迷いもまったくない。エレオノールはそんな泰一の心がどれほどのものかを確かめるように、銃弾を浴びせるのではなく声をかけてきた。

「避けられると思って?」

「避けはせん。斬る」

 その大断言に、エレオノールは片眉をあげて目を剥いた。

「斬る? 弾丸を斬るというの?」

「おおよ」

「ふふふふふっ!」

 エレオノールは華やかに笑い声をあげた。しかしその笑声は、泰一がびくともしなかったがために急に勢いを失って落ちた。エレオノールは据わった目で泰一をつくづくと見つめてきた。それが泰一には不思議と、色々な角度から見られているように感じる。

「いったいこの地上のどこに、弾丸を斬るなんて芸当をやってのけた人がいるのかしら?」

「いないのなら、俺が最初の一人になるであろうよ」

「よくもそんな大法螺が吹けたものね!」

 エレオノールは改めて銃口を泰一に据えた。指は既に引き金にかかっている。泰一は腰を落とし、双剣をいつでも放てるようにと全精神を研ぎ澄ませた。ところがエレオノールの構える銃の先端がわずかにわなないているではないか。なぜといって、エレオノールは辛そうな顔をしている。目は物欲しげに光っている。

「私はね、あなたを愛してあげようというのよ」

「その傲慢さを捨ててもらわねば、俺はおまえを愛せんな」

「じゃあ山頂での話はなんだったの? あなた私がロランを殺したら、私に対する考えを改めるって云ったわよね?」

「それは悪い方にという意味でだ!」

 泰一の怒罵を浴びせられたエレオノールは唇を噛んだ。同時に銃の震えが収まっていく。狙いが泰一に収斂していく。

「あなたといい、ロランといい、私を袖にして……」

 銃口が完全に静止した。エレオノールの目がきゅっと細められる。来る、と泰一は思った。しかし本当に斬れるのか? 人間の目と体は、銃弾に対処できるのか?

 できるか、鬼丸泰一?

「ほんとに腹立たしい!」

 その叫びとともに銃口が火を吹いた。その瞬間、泰一の目の前に立ちはだかるものがあって、弾丸を斬ろうとしていた泰一は、わけのわからぬままその人影に見入った。いったい、なにが起こったか。理解したときには、もうすべて決していた。

 撃ったエレオノールが愕然と叫ぶ。

「ロラン!」

 そう、そうなのだ。死んだと思っていたロランが、泰一の足元に転がっていたロランが、このとき最後の力を踏み台にして跳ね起き、自ら泰一の盾となってその身に銃弾を浴びたのだ!

「な……!」

 あまりに思いがけない事態に、泰一はロランの背後で瞠若どうじゃくとするしかない。エレオノールは目だけでなく口も丸くしている。そしてロランは笑った拍子に口から血を吐いた。まだ両足で大地を踏んまえているが、膝は震えていて、今にも倒れそうである。

「ロラン!」

 泰一が後ろから叫んだが、ロランは残された力と時間を、愛するエレオノールの方に向けた。

「なにを驚いてるんだい、エレオノール? 最初の一発で僕を殺していたとしたら、その瞬間にデュランダルが君のジュワユーズに降っていないとおかしいじゃないか。デュランダルがまだ降ってない時点で、僕は生きていたんだ。君はそう判断するべきだった」

 エレオノールは言葉がないといった様子で、口を無力に開閉させている。しばらくしてやっと声が追いついてきたらしいが、まともな言葉にはならない。

「あなた、あなた……」

 エレオノールはいったん言葉を呑み込むと、箍の外れた甲高い声をあげた。

「生きていたとしても動けるわけないじゃない!」

「きっと最後だから、神様が力を貸してくれたのさ」

「その最後の力を、どうして私のためじゃなく――」

「約束したからね。祈りと贖罪に生きるって。男の約束さ」

 このときなにか神聖な手がエレオノールの頬を叩いて彼女を黙らせたのだった。ロランはもうエレオノールを見ない。夜空を見上げて、星座から運命を読み取る占い師の目をしている。

「せめてこの身を盾とすることくらいしか……僕には……でも、やっぱり、今さらだな……僕は、天国には行けないや……」

 そこで神がロランに与えた猶予は打ち切られてしまった。ロランは糸の切れたように前のめりに倒れ伏した。人の倒れるときの、あの意外に大きな音がする。そして見よ、背中を撃たれ、胸を撃たれ、自らの生み出した血溜まりのなかで、ロランは今度こそ事切れていた。

 泰一は蕭殺しょうさつと、エレオノールは愕然と、ロランの骸に眼差しを注いでいる。風だけが物寂しく吹いている。

「く、くふっ」

 その風の音に、突然少女の笑い声が混じった。

「くっくっく、くふふふふ……」

 デュランダルだ。エレオノールの足元に倒れ伏していたあの娘が、顔を上げて身を反らしながら笑っている。

「はっはっは。でかした、ロラン。最後に汚名を雪いだな。それでこそ我が使い手よ」

 ロランだけでなく、デュランダルにも刻限は容赦なく迫ってきた。その体が爪先から光りの砂となって崩れていく。契約者であるロランが死んだことで、覇剣戦争ののりに則り、ジュワユーズに降ろうとしているのだ。その美しい顔が崩れ落ちる間際に彼女は云った。

「短い覇剣戦争であったが、悔いはない」

 かくしてデュランダルであった光りの砂は、エレオノールが腰に吊るしているジュワユーズに吸い込まれて消えた。今、剣はその究極にまた一つ迫ったのだ。

 残された二人は、ともにしばらくは衝撃の余韻で動けなかった。泰一にしたところで、これは驚天動地の事態である。よもやあのロランに命で命を救われるとは! 余計なことを、とは云えようはずもない。やはり剣で銃に挑むのは無謀であったからだ。

 ――俺はこの男に救われた!

「泰一様」「泰一様……」

 ソルとルナがそれぞれにそう呼びかけてくる。それで泰一のしていた時間は動き出した。泰一はロランの屍に目を注ぎながら云った。

「こうなった以上は、すべての行きがかりを捨てて、おまえに礼を云わねばならんな。ロラン、天晴れであった。そして待っておれ。おまえの惚れたあの女に、すぐに後を追わせてやるゆえ」

 泰一は炎に背中を押されるようにして、ロランの屍を踏み越えた。

「はっ!」

 その跫音あしおとで、エレオノールも我に返ったらしい。彼女はジャケットの隠しをさぐると替えの弾倉を取り出した。だが迫る泰一の跫音に怯えているのか、軽い錯乱状態にあるらしく、空の弾倉を外さないまま新しい弾倉を入れようとしている。それでは上手くゆくはずもない。

 エレオノールがやっとそれに気づいて新しい弾倉を入れ直し、あとは遊底を一度戻して再装填するだけというところで、泰一がエレオノールの前に立った。泰一は一も二もなくコラーダでエレオノールの銃を弾き飛ばした。

「きゃあっ!」

 銃は闇のなかに転がっていく。エレオノールは愕然と後退った。そんな彼女に、泰一は優しく微笑みかけた。

「さあ、剣を執れ、エレオノール。覇剣戦争だ」

 エレオノールは銃を弾き飛ばされた右手を痛そうにさすりながら、早くも涙の溜まった目で泰一を見ている。そんなエレオノールに対し、泰一はなおも朗らかに云う。

「どうした、おまえにも立派な剣があるではないか。デュランダルの力を得たジュワユーズが」

「あの、私、剣術は……」

「はよう剣を執れ。ロランが地獄で待っているぞ」

「無理よ! あなたには勝てない!」

「剣を執れ」

「あの」

「剣を執れ」

 とうとうエレオノールは黙り込んだ。なにを云っても無駄と悟ったのであろう。しかしまだ剣を抜こうとはしない。なにか思いがけない救いの光りが自分を照らし出しはしないかしらと、夢想しているようなのだ。ならばその夢を壊してやらねばならぬ。

「エレオノール。五つ数えるあいだに右手を剣の柄にかけよ。さもなくば叩き斬る」

 ひっ、とエレオノールが息を呑んだ。泰一は構わずに数を唱え始めた。

「ひとーつ!」

 それだけで、エレオノールは慌てて右手をジュワユーズの柄にかけた。泰一は我が意を得たりとわらって、こう付け加えた。

「ではその剣を抜け。俺が五つ数えるまでにだ。ふたーつ!」

「そんな!」

「みーっつ、よーっつ」

 数が増していくとともに、だんだんとエレオノールの顔に怒りの焔があがりはじめた。涙は止まり、悔しさから唇を噛んでいる。

「私をほんとに斬ろうっていうの?」

 泰一は返事の代わりに、五つ、と数えようとした。そのとき、ついにエレオノールが剣を抜いた。月光を浴びて、ジュワユーズが銀の光りを散らす。

「この人でなし! あなた鬼なの?」

「おお、鬼よ。正行を救うその日まで、俺は鬼となると決めたのよ」

 わらう泰一に、エレオノールが叫びながら斬り掛かってきた。その動きはまるで話にならない。泰一はその一撃を軽々と躱すと、すれ違い様にティソナを閃かせた。

「あっ!」

 泰一と場所を入れ替えたエレオノールは剣を取り落としたかと思うと膝から崩れ落ち、開いた脚のあいだにお尻をつけた。それが右の上膊を切られている。赤い血が袖のなかを伝わるのを止めようもなく、エレオノールは俯いてめそめそと泣き出してしまった。

「痛い、痛い……」

 泰一はおもむろに振り返った。それが鬼の面構えだ。それでいて鬼なりに慈悲を失ってはいなかった。

「痛いか。ならば楽にしてやろう」

 するとエレオノールはらいに打たれたようにびくついて、肩越しに泰一を振り返った。その美貌が恐怖に歪んでいる。涙がはらはらと頬を落ちた。

 そのとき岩場に転がっていたジュワユーズが突如の光りを放ったかと思うと、月光の下に背のすらりと高い、金髪に青い目をした、一人の新しい美少女があらわれていた。顔立ちこそデュランダルに似ているが、彼女の金髪が素っ気ない切下であったのに対し、こちらはマーガレットに編み上げている。それが白いドレス姿で、頭には宝冠ティアラまで載っている。肌は白皙で乳房は大きく、ドレスのスカートの前身頃はダイヤモンドで飾られていた。絵に描いたようなお姫様だ。むろん人に化身したカール大帝の佩剣ジュワユーズである。

 ジュワユーズは歩み寄ってくる泰一に向かって云った。

「許してあげて」

「駄目だな」

 泰一はジュワユーズを見もせずに答えるとエレオノールの前に立った。

「こちらを向け」

 エレオノールはふるえながらも泰一に云われるまま、上半身をねじるようにして振り返った。その際、後ろへ伸びた両脚は人魚のように投げ出された。

 泰一はティソナの切っ先を起こした。と、なにに気づいてかエレオノールは傍らのジュワユーズを仰ぎ見て顔を輝かせた。

「ねえ、待って。降伏するわ。このジュワユーズをあなたに捧げます。それで私の覇剣戦争は終わり。ね、いいでしょう?」

「ところが俺はもうおまえを生かしておく気がないのだ」

 その無慈悲な死刑宣告をどう解釈したのか、エレオノールは濃艶に唇を舐めて嗤った。

「そう、そういうこと。わかった。そんなこと云って、あなた実は私が欲しいのね? いいわ、あげる」

 このとき泰一の口元を掠めたのは憫笑であった。怒りと侮蔑がある一線を踏み越えた瞬間、それは憐れみへと姿を変えてしまったのだ。

「……もうよい。黙れ」

 泰一は優しく微笑みながらティソナを振り翳した。せめて痛みや苦しみを味わわぬよう、一太刀で終わらせてやるつもりであった。それを察してかエレオノールが急いで喋る。

「私は美人だし、胸も大きいし」

「黙れというのに」

「二十歳だけどまだ処女だし」

「頼む。喋るな」

 泰一は右腕に必殺の力を集めた。ジュワユーズが諦めたように目を伏せる。そしてエレオノールは、自分を殺そうとしている男に向かって、あどけなく小首を傾げて微笑んだ。

「助けてくれる?」

「あの世でロランに謝ってこい」

 金光一閃、ティソナがエレオノールの首を見事に刎ねた。かくてエレオノールの頭は鞠のように跳ねて転がり、首を失った胴からは血潮が噴水のように溢れ返る――はずであった。

 ところが。

「そこまで!」

 その男の声に一喝された泰一は、全身が一瞬で石と化したようにその動きを止めていた。エレオノールの首は、首の皮を一枚傷つけただけで繋がっていた。

 なぜ泰一は剣を止めたのか?

 それは今の声が、泰一にとって威ある声だったからである。

 泰一は驚きに隈取られた目で声のした方を見た。月明かりの下、山裾の疎林を背に、いつのまにか一人の男が立っている。その顔は遠目にも月光に照らされてあきらかだった。

「警部殿!」

「よう、鬼丸」

 片手をあげてそう気さくに挨拶を寄越した人物、それこそはあの秋山大悟警部であった。


 茶の背広姿の秋山が飄々と歩いてくるのを、泰一はただ茫然と見つめていた。だがやがて我に返ると剣を下ろし、威儀を正して秋山に向き直った。

「警部殿、なぜここに? いや、俺がメールを打ったのでしたな」

 泰一は今宵決戦に赴く前、駐車場で秋山宛にメールを打っていた。今日ここで屍をさらす者が出るであろうから、その後始末を願いたい、ということをだ。

 泰一はそれと思い出して早合点に云った。

「では覇剣戦争の後始末に? それならばしばしお待ちくだされ。この女、これもまた覇剣戦争に身を投じた者。今、始末をつけまするゆえ――」

 するとそのとき、萎れた花のようだったエレオノールが顔を輝かせて叫んだ。

「大悟! 助けに来てくれたのね!」

「なに!」

 このときの泰一の驚きはいかばかりか。背中を不意打ちにされたとしても、これほど驚いたりはしなかったのではないか。

 エレオノールは立ち上がると、秋山に駆け寄ってその体にすがりついた。が、秋山は苦笑いをしてエレオノールを無情に引き剥がすと突き放し、陸にあげられた魚よろしく岩場の上に投げ出された彼女をじろりと睥睨した。

「別におまえを助けに来たわけじゃねえよ。俺は鬼丸に用があって来たんだ。割って入るかたちになったのは偶然さ」

 しかし地面に片手をついているエレオノールは微笑んでいた。

「もう、そんなこと云って。実際、私を助けてくれたじゃない」

「まあ、女が斬られるのを見るのは忍びないんでな。ついうっかり止めちまったのは事実だ」

 秋山は無精髭を撫でながら、泰一に苦笑いを向けてきた。泰一はそこを捉えて、まだ衝撃から立ち直れないまま愕然と問うた。

「知り合い、なのですか……?」

「最近ちょっとな。それから俺は、別に覇剣戦争の後始末に来たわけじゃねえぜ? 今は警察手帳も持ってない。ただの単なる秋山大悟さんさ」

 それではいったいなぜここに? 泰一が目顔でそう問いかけると、秋山は磊落に云った。

「口で説明するよりゃ、見た方が早えだろ。おい、出てこい!」

「うむ!」

 秋山の呼びかけに威勢よく応じるものがある。それが岩陰から姿をあらわすや、元気よく秋山の方へ駆けてきた。黒い和服に袖を通した、市松人形のように可愛らしい女童めのわらわだ。少女と呼ぶにはあまりにも幼く、十歳くらいに見えた。黒髪は地に着きそうなほど長いが、前髪だけは眉のところで一文字に切り揃えられている。泰一はこの女童を知っていた。

「おまえは……菊子!」

「やあやあ、鬼丸の。また会ったの」

 菊子は先ほど秋山がしたように片手をあげながら挨拶をすると、エレオノールを邪魔くさそうに押しのけて秋山の右側に立った。

 彼女こそは泰一の前にルナとソルが初めて現れたあの日、一口の日本刀として泰一にいっとき使われたあの菊子である。むろん、彼女も剣の覇を競う名剣であることには相違ない。その菊子が、茶の瞳で泰一を見上げて、得意そうに鼻孔をふくらませた。

「妾の云った通りになったであろう?」

「なった。確かにおまえの云った通りになった」

 ――会うよ。きっと会う。おぬしがこの覇剣戦争に出るならば、の話だがの。

 あの予言の通りに、二人はここに再会を果たしたのだ。ただし敵として。

 そう、覇剣戦争の開戦前こそ菊子はソルやルナに一臂いっぴの力を仮したのだけれど、今やこちらとあちらはともに剣の覇を競う敵同士なのである。では菊子が契約した剣士は誰なのか?

 ここに想いを致して、泰一は自分の顔の皮を剥がれたような新鮮な驚きを感じた。

「おお! おお!」

 秋山がそんな泰一をどことなく寂しそうに見つめながら、菊子の顱頂ろちょうに右手をかざす。

「菊子」

「うむ」

 菊子は秋山の右掌に自分の頭を押しつけるようにすると、次の瞬間あの素晴らしい日本刀へと姿を変えて秋山の手のなかにあった。秋山はその刀をしかと握り、月に向かって翳す。その刀身のなんと美しいことか。

「どうだ、素晴らしいだろう。これこそはあるはずのない幻の名刀、菊一文字だ」

「あなたもですか!」

 泰一の叫びが夜の山に谺した。

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