第三話 風雲急を告げる

  第三話 風雲急を告げる


 鬼丸泰一は警察学校を卒業するとまず機動隊に配属された。そこで機動隊員としての務めを果たすかたわら、剣道の特練員として実に十二年も過ごしたのである。それが一年前から交番勤務へ転属となった。出世には全然興味がなく、三十四歳になってもまだ巡査のままでいる。

 ソルやルナとの邂逅から一夜明けたその日、泰一はいつもより早めに出署すると制服に着替えもせずに署の入り口である人がやってくるのを待った。

 数分後、ついに目当ての男が姿を見せるや、泰一は出会い頭を捉えて声をかけた。

「おはようございます、警部殿。折り入ってお話がありますゆえ、少し時間を頂けませんか」

 突然そう声をかけられた『警部殿』は目と口を丸くして凝然と泰一を見つめたが、やがて時間の動き出したように一つ頷いた。

「おう、いいぜ。じゃあ休憩室まで行くか」

 こういう次第で、二人は署内の休憩室に足を運んだ。


 秋山大悟あきやま・だいご警部は今年で五十歳になる、叩き上げの警察官だ。顔には皺が刻まれて始めているが、身長一七七センチの体つきにはまだ稜角がある。それもそのはず、秋山は泰一以上に剣道の達人で段位も七段、例の全日本剣道選手権大会でも優勝経験を持つ、まさにつわものであった。それが出世には全然風馬牛でいる泰一をしばしば捕まえて、警部補まで上がってこいと急かしてくる。泰一はそれをうるさがったが、しかし秋山という男のことははっきりと好きである。警察署内の剣道場で何度手合わせしたかしれない。

 そもそも泰一と秋山の出会いは、泰一がまだ学生だったころにまで遡る。泰一の剣道の才能に惚れ込んだ秋山が、警察官になれば剣道で飯が食えると泰一を口車に乗せたのがその端緒だ。もちろん、実際にはそんな美味い話はなかった。まさか機動隊に配属されるとは思わなかったし、機動隊での徹底した規律、上下関係、集団行動などは泰一の肌には合わず、何度辞めようと思ったか知れない。また上司と衝突したことも数知れない。そのたびにあいだに立って取りなしてくれたのが、当時同じ機動隊に所属していた秋山だったのだ。つまり秋山がいなければ泰一は警察官になどならなかったし、またなってもとうの昔に辞めていた。そんな秋山とまた同じ所轄の警察署に配属されたのは、泰一にとって嬉しい限りであり、制服警官である泰一と、私服警官である秋山という職務上の隔たりはあったが、二人は親しく付き合っていた。だから泰一は病気のことを、まずこの男に打ち明けようとしたのである。

 卓子を挟んで差し向かいに座ったあと、診断書を出された時点で秋山は黙り込んだ。泰一が一通りのことを話し終わると、秋山は卓子越しに腕を伸ばしてきて、泰一の背広の堅固な肩に手を置き、そして泰一をじっと見つめたあと、やおら口を切った。

「治療は早い方がいいな?」

「はい」

「よし。明日にでも暇をくれてやる」

 秋山は云って、泰一の肩から手を離し、椅子に深々ともたれた。疲れたように目を閉じたが、すぐに重そうな瞼を持ち上げて狼のような目で泰一を見つめてくる。

「おい、前兆とかはなかったのか?」

「腹は痛かったのですが、ストレスかと」

「はっ! ストレス? おまえがそんなもん感じるタマかよ」

 泰一は苦笑いをして紙コップの珈琲を口元に運んだ。それを見た秋山が弾かれたように身を乗り出してくる。

「おいおい、そんなもん飲んで平気なのか」

「飲みたいものを飲まない方が体に悪い」

 泰一はそう云って平然と珈琲を胃の腑へ流し込んだ。秋山はやや辟易した顔である。

「俺はおまえの担当医に同情するぜ。それこそストレスで胃に穴が空くな」

 泰一はそれにはなんとも答えなかった。今はまだいい。まだ普通に食事ができる。だがいずれ嘔吐を繰り返すようになるだろう。そうなれば体が衰えていくのはあっという間だ。

 泰一がそう考え込んでいる一方、秋山は天井を見上げてため息をついた。

「しかし癌か……」

 秋山は遠い目をしていた。まるでここにはいない誰かを見ようとしているかのようだ。

「そういえば警部殿は――」

 思わず切り出してから泰一は後悔した。相手の傷口を抉るような真似をすべきではない。だが秋山は天井に上げていた目を泰一の顔のうえに据えると、微笑みながら尋ねてきた。

「なんだ?」

 それで泰一は已むなく続きを口にした。

「いえ、思い出したのです。たしか細君を癌でお亡くしだったな、と」

「おう。もう六年も前のことだ」

 秋山はほろ苦い微笑を浮かべた。妻に先立たれ、子宝にも恵まれなかったというから、なんとも寂しい話ではないか。

 泰一は咄嗟に頭を下げようとした。しかし秋山はそれを見越していたかのように掌を向けて遮ると、白い歯をみせて笑った。

「よせよせ、もう気にしちゃいない。本当だ」

 ――本当だろうか?

 泰一は心のどこかでそんな疑念が頭をもたげるのを感じたが、それをいちいち忖度そんたくすることになんの意味があるだろう。頭を切り換えねばならぬ。泰一がそう思ったとき、秋山の方でも話題を変えようとしてか、こんなことを切り出した。

「それにしても参ったな。これから人手がいるっていうのに」

「なにごとかあったのですか?」

 泰一はやにわに殺気立った。人手がいるとは聞き捨てならぬ。なにか大きな事件でも起こったということではないか。

「いやな、詳しくは話せんのだが、六日後……いや、もう五日後か。ちょっと面倒なことが始まるらしいんだ」

「五日後!」

 その符号に泰一は瞠目せざるをえない。心持ち身を乗り出して秋山に低い声をあてた。

「もしや覇剣戦争ですか?」

 すると秋山は目を梟のように丸くして腰を浮かせた。

「おま――っ!」

 秋山は声が上擦りかけたのを、この休憩室にいる他の同僚を憚って泰一の顔に顔を寄せ、低声こごえで訊ねてくる。

「どこで聞いた? 一介の巡査じゃまだ知らされていないはずだ。警部の俺ですら、一昨日やっと聞いたばかりなんだぞ」

「そういう反応を見ると、当たりですか」

 泰一は昨日ルナから聞いた話を苦々しく思い返していた。すなわち日本の政府や警察が既に覇剣戦争のことを把握しており、しかもそれを黙認するということをだ。

「俺の質問に答えろ」

 秋山がそう睨みつけてくるので、泰一は昨日の出来事を掻い摘んで話し始めた。

 ……。

「――そういう次第で、あの話はお断りしました。明後日、正行の前にまた二人が現れまするが、俺は絶対に意見を変えないので、それで最後になります。もう俺には関係がありませぬ」

 泰一がそう話を結ぶと、秋山は納得したように一つ頷いた。

「なるほど、剣の腕を見込まれたということか。ま、ありえん話ではない。警察官の半分は剣道をやっていて、段位を持っているのが当たり前だからな」

「かくいう警部殿も剣道七段であられる」

「おう。だが俺だけじゃないぜ。横井は五段、桜木は六段、愛知県警だけでも強い剣士はごまんといる。おまえ以外にも、名剣から声をかけられてる警察官がいてもおかしくはあるまい」

「はい」

 泰一はそう返事をしながら、心が全然別の怒りにとらわれていくのを感じていた。泰一はそれをどうしようもなくなって、秋山の顔のうえに据わった目を置いた。

「それにしても警部殿。この国は、本当にそんな馬鹿げた戦いを黙認する気なのですか」

「已むを得んだろう。断ったら天下の神剣様が臍をおげになって、この国の上に天災なり病魔なりが降りかかってくるというんじゃ、な……。一億二千万人を危機にさらすよりは、千人に殺し合いをしてもらった方がましだということさ。俺たち警察官の任務は、その覇剣戦争が行われているあいだ、無関係の人間が巻き込まれないようにすることと、奴らのしでかした後始末をすることだ」

 その後始末とは、たとえば死体の回収であるとか、隠蔽工作であるとかなのだろう。泰一はぎりりと奥歯を噛みしめた。

「それが警察のすることなのか」

 まるで泰一の心を読んだように、秋山が低い声で云った。泰一がはっと顔をあげると、秋山がにやりと笑っている。

「顔にそう書いてあるぜ」

 そこで秋山は椅子から立ち上がると、凝った体をほぐすように腕を回した。五十肩とは無縁の健康な肉体である。

「ま、どんな世界でも、納得のいかない、割り切れない仕事の方が多いさ。俺たちは与えられた務めを果たすだけ……」

 そこで秋山の声が急にしぼんだのは、泰一が病気療養のために休職することに心づいたからであろう。実際、この日本国に嵐が訪れようとしているのに、病院で寝ていなければならないというのは忸怩たるものがある。あるいは病気のことは隠すべきであったか、と泰一がそこまで思い詰めたとき、秋山が傍に寄ってきて慰めるように肩に手を置いた。

「そう自分を責めるな。病気は仕方がない。治すことだけを考えろ。うまいこと回復したら、また手合わせをしよう。俺が稽古をつけてやる」

「はい」

 泰一は言葉少なにそう答えた。

 そのころにはもう時間が迫っていたので、二人は相共に休憩室を出た。秋山はこのまま仕事に行けるが、交番勤務の泰一はまず制服に着替えねばならない。そこで更衣室を指して歩き出したのだが、それに秋山がついてくる。

「ところで鬼丸。俺は一つ聞き忘れたんだが」

「なにか?」

「ほれ、おまえ例の名剣二人と、二日後にもう一度会うんだろう?」

「いえ、俺ではなく、正行が会うのです。予定がなければ、俺もその場に立ち会うでしょうが」

「うん。それで、どこで会うんだ?」

「神社裏手の剣道場ですが、それがなにか?」

「いや。ちょっと気になっただけだ」

 秋山は言葉を濁すように云って、泰一から顔を背けると廊下の窓越しに空を見た。それきり言葉を交わさぬまま更衣室の前に着き、泰一は足を止めたが、なにごとか考え込んでいる様子の秋山はそれに気づかず行き過ぎていく。

「警部殿」

「お? おお」

 それと気づいて引き返してきた秋山は、出し抜けに泰一の背中を右手で勢いよく叩いた。ぱん! と小気味よい音が朝の廊下に響き渡る。

「さあ、今日も仕事だ。しっかりやれ」

「はい」

 泰一は背中に叩き込まれた闘魂の熱に嬉しくなりながら笑って頷いた。


        ◇


 翌日にもう一度だけ出勤して諸々の引き継ぎを終え、午後には休職の身となった泰一であるが、実のところ即入院とはならなかった。今さら慌てても仕方がないという想いや、病院のベッドの都合もあるが、なにより色々と身辺を整理する時間がほしかったのだ。やっておきたいこともあれば、考えねばならぬこともあるし、一人暮らしであるからには、留守の家をどうするかという問題もある。そして泰一には、こういうときに頼りになる幼馴染の存在があった。

 その幼馴染からは既に何度も電話があったが、身辺整理に忙しかった泰一はそれをうるさがって、『今は忙しいから何日の何時にかけてこい』と一方的に伝えておいた。

 そしてその翌日、つまり覇剣戦争の三日前のことである。

 自宅で寛いでいた泰一の携帯電話に、一本の着信があった。電話に出ると、開口一番「泰一」と少し怒ったような女の声がする。

「おう、どうした?」

「どうしたじゃないわよ。あなたがこの時間にかけてこいと云ったんじゃない。これから時間ある? あるわね? さあ、会いましょうよ」

「いいとも」

 泰一は笑いながら快諾して、待ち合わせの場所と時刻を決めると、茶色のジャケットに袖を通して青空の下へ出かけた。


 駅前から一分ほど歩いたところに珈琲で有名な喫茶店がある。午後一時過ぎに泰一がその店に入ると、すぐに店の奥から女の声がかかった。

「泰一」

「よお」

 店の奥まった四人掛の席に美しい女が座っている。その隣には正行がいた。正行は泰一が近づいてくると椅子から立ち上がり、折り目正しく挨拶をしてきた。

「先生、こんにちは」

「おう、正行。おまえも来たのか」

 それには正行ではなく、女が傍から云った。

「ちょっとクリームソーダを飲ませてあげただけよ。あんたが来たらすぐ帰る約束」

 その言葉の通り、正行の席には既に空になった飲み物のグラスがある。

「おれは母さんと一緒に先生を説得しようと思ったんだけど、母さんが先生とは二人で話したいっていうから……」

 正行は眉を曇らせて話しながら、床に置いてあった鞄を背負い、壁に立て掛けてあった黒革の鞘袋を肩に担いだ。どうやら泰一と入れ違いに店を出ていくつもりらしい。

「おれ、外で待ってるね」

「いや、待て」

 泰一は正行を引き止めると、ズボンの隠し(ポケットのことを隠しと云う)からキーホルダーを取り出し、一つの鍵をより分けて正行に差し出した。

「これは?」

「剣道場の鍵だ」

 正行が目を丸くする。

「俺は道場主に見込まれているから合い鍵を渡されている。持っていけ。又貸しになるが、ちょっとのあいだならよかろう」

「いいの?」

 正行は恭謙にも鍵に飛びついたりはしなかった。泰一は首肯すると自分から正行の手を取り、その鍵を握らせてやった。

「喫茶店の外で立ちん坊というのも可哀想だし、あの二人とも道場で落ち合う約束になっているはず。俺もあとから行くから、先に道場へ行って待っておれ」

「……うん、わかった!」

 鍵を任されたのが、子供心に一人前扱いされて嬉しかったのであろうか、正行は雀躍こおどりしながら喫茶店の入り口まで行き、そこではたと母親を振り返った。

「じゃあね、母さん! 先生のこと頼むよ」

「はいはい」

 女が頷いたときには、正行はもう店内にドアベルの音を残して、青空の下へと羽ばたくように飛び出していた。

 それから泰一は店員に珈琲を注文すると、女の向かいの席に腰を下ろしてわらった。

「よう、沙代子。しばらくぶりだな」

「本当。いつも息子がお世話になってます」

 そう云って頭を下げた女は、名前を松ノ木沙代子と云う。正行の母親であり、泰一とは幼馴染の間柄にある女であった。泰一が彼女と会うのは一ヶ月ぶりだが、あまり変わったところはない。栗色の髪を背中まで伸ばしており、服装はブラウスに長ズボンという装いである。乳房はよく張っていた。結婚をして子供を産んで育ててと一通りのことをこなしてきたが、それほど老け込んではおらず、三十三歳なりに美人であった。

 沙代子は頭を上げると、やにわに泰一に針のような視線を浴びせてきた。

「さあ、やっと話ができるわね。それで正行から聞いたんだけど、病気って本当?」

「おう、癌だと。わははっ」

 皓歯を見せて笑う泰一に呆れたようなため息をついた沙代子は、それからくどくどと泰一の日頃の不摂生を叱り始めた。それがだんだん愚痴のような様相を呈してきたので、泰一はすっかり閉口して、とうに届いていた珈琲を啜った。

 やがて胸に溜めていたものを吐き出してすっきりしたのか、珈琲を一口飲んだ沙代子は口調をがらりと変えた。

「それでね、正行はなんだか夢物語のようなことを云ってたわよ。なんとか戦争ってのがあって、それに勝てばどんな願いも叶えられるから病気も治る? それ本当?」

「嘘のようだが、どうやら本当らしい」

「で、あなたそのなんとか戦争に出るの?」

「出るわけなかろう。そんな奇跡にすがるほどの命ではないさ」

「たとえば私が頼んでも?」

「断る」

 その短い言葉は厳かな鉄槌のように響いた。沙代子の口元に一刷けの笑みが浮かぶ。

「そう。じゃあ仕方ないわね」

 沙代子はかたわらの空席に置いてあった鞄を取ると、そのなかから携帯電話を取りだし、電話をかけ始めた。それが繋がると、沙代子はため息を一つ添えて口を切った。

「あ、正行? あんたに頼まれた通り、泰一に話をしてみたけど駄目だったわ。え? ええ、そうよ。無理なものは無理ってことも知ってるの。それじゃあ、お母さんこのあとパートだから、あんた遅くならないうちに帰ってくるのよ」

 正行がまだなにか云っているのが泰一の耳まで聞こえたが、沙代子は無情に通話を切ると、なにか腹立たしげに携帯電話を鞄のなかへと抛り込んだ。

 泰一はそうした沙代子の素っ気なさに、秋風の吹き込んでくるような寂しさを感じた。

「ずいぶんあっさりと引き下がるのだな。正行は、おまえなら俺を翻意させられるものと期待をかけていたのだ。もう少し頑張ってもよかったのではないか?」

 すると沙代子は目を鋭く剣呑に細めた。

「そんなこと云って、あなた昔から私の云うことなんて、なに一つ聞かなかったわよね」

「そうか? 俺はずいぶん世話を焼かれた記憶があるが……」

「ええ、ええ。それはそれはお世話してあげたわよ。朝起こしに行ったり、教科書見せてあげたり、お弁当作ってあげたり」

 聞いているうちに学生時代の情けない自分の姿が蘇ってきて、泰一は渋面を作った。が、沙代子はまだ言葉の矢を射掛けてくる。

「あなたってまるっきり大きな子供で、私は二人目のお母さんみたいだったわ。それなのに、あなたって自分でこうと決めたことについては、私の意見なんか歯牙にもかけなかったわね」

 そこで急に沙代子の目のなかが潤んだ。泰一は胸につきんとした痛みを感じたが、今さら動揺したりはしない。てんとして微笑んでいる。沙代子はそんな泰一を恨めしそうに見つめていた。

「本当、私がいくら言葉を尽くしたところで、絶対に云うこと聞かないのよ。大事なことは全部一人で決めちゃうの。振り返ってみると、なにもかも徒労だったわ」

 沙代子は涙をごまかすように珈琲を一口すすると、頬杖をついてなにかを懐かしむような遠い目をした。その眼差しに、泰一も久しく忘れていた少年時代の思い出を蘇らせた。

 泰一にとって沙代子は幼馴染である。それが年頃になると破格の美貌が輝きを増してきたのに加えて乳房もよく張ってきたのに、泰一は全然その美しさに迷わなかった。十代のころの鬼丸泰一とはまったく奔放不羈の暴れ馬で、沙代子はその暴れ馬に手綱をかけようとしたのだが叶わず、それどころかその背中に獅噛しがみついていることもできず、ついにはその背中から転げ落ちてしまったのである。

 暴れ馬はそんなことにも気づかず、先へ先へと蹄を鳴らして駆けていってから、ようやく沙代子が振り落とされていることに気づいて彼女を顧みた。そのときにはもう二十歳を過ぎていて、沙代子は他の男のものになっていたのである。そのとき初めて泰一の胸にもほろ苦い想いが込み上げてきたのだが、もはや後の祭りであった。

 沙代子の結婚式の前には二人で飲む機会があり、泰一はそのとき思いがけない告白を受けた。

 ――私はあなたのことが好きだったのよ。

 ――俺は全然、気がつかなんだ。

 ……。

 珈琲を飲み終わると、泰一は沙代子に家の合い鍵を渡して入院中の留守を頼んだ。沙代子がそれを了承したところで、それ以上話すこともなくなってしまい、二人は潮時を感じて席を立った。卓子に伏せてあったレシートは、沙代子が横からさらっていった。

「私が誘ったんだから、ここはおごりにしておくわ」

「おう、ごちそうさん」

 泰一は快闊にわらって礼を述べると、一足先に店を出て、そこで沙代子を待ちながら考えた。今ごろは正行が剣道場で落ち込んでいることだろう。あるいはもうルナとソルが来ていて、二人に泰一を翻意させることに失敗したと告げているやもしれぬ。いずれにせよ、これから正行を剣道で励ましてやるのだ。

 そこで泰一は、清算を済ませた沙代子が喫茶店から出て来たところを捉えて訊いてみた。

「俺はこれから正行のところへ行くが、おまえも一緒に来るか?」

「パートがあるから無理」

 沙代子はかぶりを振ると泰一に微笑みかけてきた。

「正行のこと頼むわよ。大事な一人息子なんですからね」

「おう。しかと頼まれた」

 泰一は首肯し、その場で沙代子と別れてそれぞれ反対の方へ歩き出した。それが一丁も行かないうちに、青空が急に掻き曇って、風も冷たくくように吹き始めた。

 ――山雨来たらんと欲して風楼に満つ?

「いや、まさかな」

 泰一はわけのわからぬ不安を蹴り飛ばすと、急ぎ足で剣道場を目指した。


        ◇


 ここで時間は少し巻き戻る。

 あの喫茶店でゆくりなくも泰一から剣道場の鍵を渡された正行は、それを宝物のように握り締めて、胸を弾ませながら左手にガードレールの続く道を走っていた。

 やがて右手に剣道場が見えてくる。道場と云っても生憎と立派な門や庭などはなく、切妻の大きな建物がビルと小料理屋のあいだに隙間なく嵌め込まれているのだった。

 その道場の前まで来たとき、ズボンの隠しで携帯電話が振動した。急いで剣道場の鍵を隠しにしまい、空いた手で電話に出ると、かけてきたのは母であった。

「あ、正行。あんたに頼まれた通り、泰一に話をしてみたけど駄目だったわ」

 正行は一瞬で奈落に突き落とされた想いがした。信じられないが、信じられないなりに声は出た。

「……なんでさ」

「え?」

「だって母さん、先生のことはなんでも知ってるって云ったじゃないか!」

「ええ、そうよ。無理なものは無理ってことも知ってるの。それじゃあ、お母さんこのあとパートだから、あんた遅くならないうちに帰ってくるのよ」

「待っ――」

 正行は食い下がろうとしたが、母は無情にも通話を切ってしまった。道端で正行は愕然と立ち尽くした。地面が斜めに傾いた気さえする。駄目だったのだ。母でも泰一を翻意させることはできなかった。してみるとどうなるか。

 ――先生は、死ぬ?

 そう思ったとき、心に亀裂が走って、そこから思い出が溢れ出してきた。泰一の自分を教え諭すときの低い優しい声。叱るときの厳しい顔。面金の奥に光っていた瞳。力強く躍動する竹刀。自分の頭を撫でてくれるあの大きな熱い手。それらがすべて失われてしまうというのか。

「いやだ、そんなの」

 喉がふるえたかと思うと、涙が溢れてきた。そのとき、まさにその瞬間を見澄ましていたように、横から白いハンカチがそっと差し出された。

 正行はそのハンカチをしばらく幻のように見ていたが、やがてハンカチを持っているたおやかな手に気づいて、その手を差し伸べている人をはっと仰ぎ見た。

「お使いなさい、坊や」

「ルナ、さん」

 三日前と同じ、青いワンピース姿のルナが正行にハンカチを差し出していたのだった。その傍らにはソルもいる。

「鬼丸殿は、三日後におまえが泣くことになるだろうと云われたが、その通りになったな」

 しみじみとしたそのソルの言葉で、正行ははっと気づいた。

 涙を見られた! 正行はその羞恥に顔をかれながら、急いで手の甲で涙を拭った。

 ルナは気を悪くした様子もなくハンカチを引っ込めると、それを繊手の先で魔法のように消した。いったいいかなる手品かと目を瞠る正行には、問わず語りに云う。

「私たちの服は、本物の繊維でなく魔力で編まれているのです。服のほかにも小物であれば、魔力の余りで作ることができるのですよ」

 そこでいったん言葉を切ったルナの顔が憂色に陰る。

「それにしても、やはり良い返事はいただけなかったのですね」

 ルナは胸の前で両手の指を絡ませ合いながら残念そうにため息をついた。ソルもまた落胆の面持ちを隠そうとはしていない。

 正行は二人の美少女を見上げて反駁を試みたが、一言も発せられなかった。自分は母に泰一の説得をしてもらうという約束で三日も待ってもらったのだ。それが叶わなかった今、次の提案をすることもできない。そのまま一分か二分の時間が流れた。

「ルナ、そろそろ……」

「ええ」

 二人がそう別れを匂わせたので、正行はいよいよ追い詰められた気がした。二人が去ってしまえば、泰一の病が治る見込みはなくなってしまう。見よ、空は正行の心を映しているかのように、にわかに黒い雲に覆われていくではないか。そして雨が降ってきた。

 ところが雨が降り出しても、ルナとソルは、さようならとは云わなかった。二人ともまだそこにいて、なにかこの子供を憐れむように見下ろしている。次第次第に雨の勢いが増し、街路樹の葉や家々の屋根を叩く音がうるさくなっても、二人は立ち去ろうとはしない。

「雨宿りしてく?」

 正行は傍らの剣道場を目顔で示して二人にそう尋ねていた。


 その道場は奥行き八坪、幅十坪のなかなか広大な道場である。天井は間違っても竹刀がつかえたりしないよう高く設計されており、白い壁の下半分には腰板が張り巡らされている。床はもちろん板張りで、中心に正方形の試合場が白いラインテープで作られていた。奥の壁の中央には神棚が造り付けられており、その左右に縦長の窓が並んでいる。それらの窓から幾許かの光りが差し込んでいるが、生憎の雨模様であるし照明も点いていないので、道場は全体として灰色の薄闇に沈んでいた。空気の匂いも外とは違ったものになっている。

 正行は広々とした下足のところから神前に向かって一礼すると、靴を脱いで式台に上がり、鞄を下ろして竹刀の入った鞘袋と一緒にいったん脇に置いた。

 ソルとルナは玄関をくぐったところに立ち、そこから道場内を珍しげに見回している。

「あがってよ」

 正行はそう勧めたが、ルナは遠慮がちにかぶりを振った。

「雨が止むまでですし、私たちはここで」

 ルナはそう云うと上がり框に腰を下ろした。ソルがその隣に座る。

「じゃあおれも」

 正行はルナの隣に座を占めた。正面から見て、左から正行、ルナ、ソルという順序である。玄関の戸は開けたままであった。銀色の雨がよく見える。ガードレールの向こうを車がひっきりなしに走っていく。

「雨が止んだら、私たちは行く」

 ソルのその言葉に、正行は黙って頷いた。

 それきり三人は一言も喋らなかった。ただ玄関を額縁とした雨の降る景色、車や自転車や人が通りすがる風景を眺めていた。

 そのうちにひょっこり、長身の影が敷居を跨いで入ってきた。

 思わず「先生!」と叫びかけた正行は、しかしつんのめるように絶句してしまった。それは泰一とは似ても似つかぬ美青年であったからだ。

 まず第一に人種が違う。金髪に青い目をした白人の青年だ。年齢は二十歳くらいで、顔立ちはよく整っており、白い背広を着込んでいる。ワイシャツは青でネクタイは赤い。どうしてこの人をほんの一瞬でも泰一と思ったのか。背丈が同じくらいだからであろうか。

 正行はともかく立ち上がると、下足のところに靴下で立ってその青年を見上げた。

「あの、すみません。今日は道場は休みなんです。って、日本語わかりますか?」

 言葉が通じているのかいないのか、青年はその美貌に冷たい笑みを広げた。正行はぞっとしたものを感じて後退った。青年が近づいてくる。

「そこまで!」

 ルナの凜とした声が、青年の歩みを留めさせた。そのとき弾みでか青年の腰のあたりで金属の音がした。正行は反射的に音のした方を見て、呆気に取られてしまった。

 ――どうして最初に気づかなかったんだろう。

 青年の腰には一口の剣が吊るされていたのである。まるで十字架のような剣であった。柄は黄金で拵えられており、同じように金色をした鍔は瀟洒しょうしゃな出来映えである。刀身は鞘に呑まれているから見えないが、鞘越しに窺う限りでは幅広で肉厚の西洋剣であろう。最後にその鞘であるが、ところどころを黄金に縁取られた純白である。

 しかしどうしてこんなものを佩いているのか。正行がその事情に想いを致してそれに気づき、遅まきながら毛穴の開くような恐怖を感じたとき、ルナの凜乎とした声が飛んだ。

「坊や、退いていなさい」

「ルナさん」

 気がつけばルナもソルもすっくりと立ち上がって青年に厳しい眼差しを注いでいる。対する青年は二人の美少女を見下ろして嗤笑ししょうを浮かべていた。正行はどうしていいかわからない。

「退いていなさい!」

 ルナに再度鞭のような声で打たれて、正行は三人から怖々距離を取った。そのとき青年が胸に手をあてて慇懃に一礼をした。

「僕の名はロラン。フランス語は話せるかい?」

「我ら名剣は大抵の国の言葉は話せる。おまえも名剣の使い手なら知っていよう」

 ソルが厳しい声音でそう答えたが、正行にはなにを云っているかわからない。今の会話はフランス語で交わされたので、まだ十歳でしかない正行にはまったく理解できなかったのだ。そのまま三人がフランス語での会話に移ったので、正行は局外者にされてしまった。

「どうしてここに私たちのいることが判ったのです?」

 ルナがそう詰問すると、ロランは片頬に笑みを淀ませた。

「さる筋から情報をもらったんだよ。今日この道場に、まだ使い手の決まっていない名剣が二本ばかりやってくるって」

 ソルとルナが同時に身構えた。会話はわからぬ正行にも、剣呑な空気は感じられる。果たせるかな、ロランはその右手を剣の柄にかけた。

「でもさあ、まだ使い手の決まってない剣なら、今のうちに降した方が得だろ? だから手っ取り早くへし折っておこうと思って、こうして足を運んだわけさ」

 ルナが軽く仰のいた。

「開戦は三日後のはず!」

「これはゲームじゃない。戦争なんだぜ? 殺し合いをしようってのに馬鹿正直にルールを守るやつが生き残れるわけないだろ」

「この、横紙破りめが!」

 今度はソルが叫んだが、ロランは高い鼻を持ち上げるようにしてまさしく鼻で嗤った。

「前哨戦って云ってくれよ」

 そして剣が抜かれる。それは薄闇の道場にあって空間の裂けたような輝きを放った。鋼の輝きとも違う、美しい純白の剣だ。その聖なる光りが溢れた瞬間、ソルとルナが同時に後ろへ飛び退った。土足であったが、元よりそれを咎めている場合ではない。ロランがそれを追って、やはり土足で道場の床を踏む。

「ルナ!」

 ソルがルナへ右手を伸ばした。以心伝心、ルナはソルの右手を握ると、たちまち白銀の剣へと変じてソルの右手に収まった。

 ソルは剣を握ると、後退をやめ、神棚を背にしてロランと対峙した。ロランはソルと睨み合いをしながら、左手で前髪を掻き上げてわらう。

「弱そうな剣だな。どうせ大した知名度もないんだろ」

「そういう貴様の剣は……」

 剣を縦に構えるソルの顔には焦慮が滲んでいた。それもむべなるかな、ロランの剣は先ほどから純白の光りでもって道場の薄闇を払っている。その神々しさは、この剣がただならぬ名剣であることの証に他ならない。

 ロランはその剣を見せつけるように掲げて高らかに云った。

「冥土の土産に教えておいてやるよ。この剣の名はデュランダル! 彼のローランの歌において、シャルルマーニュ十二勇士の一人・勇者ローランの伝説とともにある聖剣だ!」

 ソルが落雷のあったような衝撃に見舞われたのは傍目からもあきらかであった。彼女は広い道場のただなかに立っているのに、狭い筺に押し込められたような顔をしている。

「よりによってデュランダルか……」

「ロランの名を持つ僕がこの剣に選ばれたのは、まさに運命だ」

 ロランはそう酔いしれるように云って、自らの剣をうっとりと見つめた。

 ソルの手元でルナが心細げな声をあげる。

「ソル。あの剣と打ち合ったら私は……」

「解っている。ひとたまりもなく折れてしまうだろうな。それは私も同じことだが」

 そのやりとりを耳に拾ったのか、ロランがもう勝ちの決まったような顔をしてわらった。

「さ。格の違いがわかったところで、大人しく死んでくれ」

「そう簡単に討たれはしない!」

 ソルが思い切りよく飛び出した。放たれた矢のように迫るソルに対し、ロランは彼女が自分の間合いに飛び込んできた瞬間を見計らって大振りの一撃を見舞った。それを頭を低くしてかいくぐったソルは、ロランの足元へ滑り込みながらその脛を薙ぎ払おうとした。しかし。

「跳べ!」

 初めて聞く、第三の少女の声が響くや、ロランは前のめりに跳んでソルの攻撃をやり過ごした。二人の位置が入れ替わる。

 改めてロランと対峙したソルは、ちょっと眉をひそめた。

「今の声は……」

「デュランダルね」

 当然ではあるが、デュランダルも名剣であるからには人格を持っている。そのデュランダルが攻防においてロランに助言を与えたことは別におかしなことではない。しかし。

「ルナ。今の反応を見る限り、こいつは……」

「ええ」

 ルナの声には張りが戻ってきていた。一方、ロランは忌々しげに汚い言葉を吐き捨てると、凶相を浮かべて剣をソルに突きつけた。

「手向かうな! さっさと折れろよ!」

「……来い」

 ソルは白銀の剣を床に向けたまま、指を上に立ててロランを差し招いた。ロランはそれに慍色うんしょくを示しながら、声もなく斬り込んできた。

 デュランダルはたしかに恐ろしい剣だ。その斬撃をまともに浴びればソルはたやすく切り裂かれてしまうし、ルナも一撃で砕け散るだろう。そのさながら白い死の風を、しかしソルは楽々と躱していく。そして攻撃の嵐が止んだその瞬間、すれ違い様に斬りつけようとした。

「防御!」

 デュランダルの鞭のような声が跳び、ロランが剣を立ててソルの一撃を防ごうとする。

「くっ!」

 デュランダルと打ち合えば、ルナの方が折れてしまう。したがってソルはなにも出来ぬまま、ただロランとすれ違った。かくして二人の位置がまた入れ替わった。

 神棚を背にして立ったソルは、先ほどの攻撃をすべて躱されて臍を噛んでいるロランを見据えてつまらなそうに云った。

「おまえ、弱いな」

「な、なに?」

 目を白黒させるロランに、今度はルナが云う。

「剣は音に聞こえたデュランダルですが、使い手はそれほどでもないですね」

「ばれたか」

 顔を歪ませるロランの手元で、デュランダルがそう呟いた。

 ソルは青い瞳を輝かせた。なるほどデュランダルは危険である。一撃打ち合わせただけで終わってしまう。だがその使い手は至って凡庸なのだ。

「行けるぞ、ルナ」

「ええ。ここでデュランダルを降せるかも」

 ソルとルナは危機が好機に逆転するその瞬間に魅せられ、斬り込もうとした。だが。

「なめるなあっ!」

 ロランの怒号とともにデュランダルの白い光輝が膨れあがった。さながら小さな太陽が出現したような眩しさに、さしもの太陽ソルも目を開けていられない。その光りの奔流の向こうからロランが云う。

「一つ教えておいてやるよ。おまえらみたいな無冠の剣と違ってな、聖剣とか魔剣とか呼ばれる剣には、魔法の力が備わっているんだ」

 するとロランの手のなかでデュランダルが驚いたようだった。

「あれをやるのか。一日に一度しかできんぞ」

「その一撃で決める!」

 ロランは右腕を自分の体に巻きつけるようにして力を溜めると、聖なる光輝に圧せられて身動きできないソルに向けて、絶対に刃の届かぬ遠距離から思い切り斬りつけた!

「聖光爆裂破!」

 横に振り切られた剣から純白の熱衝撃波が生まれた。それは大気を圧し、道場全体に満ちて、ルナとソルに迫る。逃げ場はなかった。

「ソル!」

 反射的な行動であろうか、ルナが人の姿に戻ってソルを抱きしめ、我が身を盾とした。

「馬鹿! ルナ!」

 ソルの方でもルナを抱きしめ、自分が盾になろうとする。そうした二人の献身的な綱引きの結果、二人は白い熱衝撃波を真横から相共に受けた。その姿が光りのなかに掻き消え、直後、轟音が道場を揺らす。窓がすべて割れた。神棚も吹き飛ばされた。そうして光りが過ぎ去り、道場に薄闇と雨音が戻ってくると、ソルとルナは壁際に抱き合って倒れているのだった。

 二人とも服はぼろぼろで髪も乱れていた。肌には火傷のような痕がある。重傷だった。それでもソルが呻きながら身を起こし、両手を伸ばして懸命にルナの体を抱きかかえた。

「ルナ……この馬鹿め。おまえが剣のまま今のをやり過ごせば、今度は私が剣になることでまだ戦えたんだ……」

「ふふふ」

 ルナは笑って、傷ついた繊手でソルの頬をいたわるように撫でた。

「だって仕方がないでしょう。体が勝手に動いちゃったんだから」

 だがもうそこまでだ。二人にはもう戦うことはおろか、ろくに動くこともできない。座して死を待つことしかできない。しかしその死をもたらすはずのロランは、傷ついた二人の少女を見下ろして拍子抜けしたように首を傾げていた。

「あれえ? おっかしいなあ、建物ごと跡形もなく吹き飛ばせるはずなんだが……」

「それは勇者ローランがやったればこそだ。おんしでは精神力が足りぬわ」

 デュランダルのその言葉にロランは顔をしかめたが、次の瞬間には眉を開いて一つ点頭した。

「まあいいや。とにかくこれでチェックメイトだ」

「そうさの。名剣はあのくらいの傷なら剣の状態に戻って二時間もねむれば回復するが、そんな猶予を与えるはずもない。おさおさ油断なく怠りなく、く仕留めよ」

「はいはいっと」

 ロランは軽薄にそう返事をすると、まるで無防備にソルに近づき始めた。一歩、二歩、とエナメルの靴が神聖な道場の床を踏む。観念したのか、ルナはソルの膝の上で目を瞑った。一方、ソルは口惜しげにロランを仰ぎ見て云った。

「傲るなよ。おまえが強いのではない、おまえの剣が強いのだ」

「負け犬の遠吠えはみっともないぜ」

 そしてロランが酷薄な笑みを浮かべながらいよいよソルたちを剣の間合いに捉えようとした、そのときだ。

「やめろおっ!」

 まだ声変わりもしていない少年の声が硝子片の散らばった道場に響き渡った。ソルが呆気に取られた顔をし、諦めて瞑目していたルナが弾かれたように目を開ける。ロランはぴたりと足を止めて、うるさげに振り返った。

「ああん?」

 ロランの青いに瞳に映ったのは、竹刀を構えた正行であった。

 ここまで一貫して局外者に置かれていた正行であるが、言葉が解らずとも、この金髪の青年が敵であることは了解しきっていた。それが今やルナとソルを手にかけようとしている。それを見て、決然、竹刀を手に取ったのだ。

「なんだよ、おまえは?」

 ルナたちならいつでも仕留められると思ったのか、ロランは道場のなか程まで引き返していく。正行はまなじりを決して引き下がらない。

「駄目っ、坊や!」

 ルナが体を起こそうとしてふらつき、ソルに支えられた。それにも気づかぬ様子でルナは正行の方へ懸命に手を伸ばしながら叫んだ。

「お逃げなさい! その男に手向かっては駄目!」

「いやだっ!」

 正行はルナの声を撥ねつけると、すり足でロランに迫った。もとより靴下は脱いで裸足になっている。その小さな体から、ロランへの敵愾心が溢れんばかりに立ち上っていた。

「お姉ちゃんたちがやられちゃったら、先生が覇剣戦争に出られなくなって、先生の病気が治らないだろおっ!」

「坊や!」

 ルナの叫びが却って引き金になったのか、正行は無鉄砲にもロランに斬り掛かった。それをロランはつまらなそうな顔をして迎え撃った。

「ぴいぴいぴいぴい、うるさいなあ。日本語で喚かれても解らないっての」

 まっすぐ斬り込んでくる正行を見ても、ロランにはそう独りごちる余裕がある。さすがに子供相手で獲物が竹刀とあっては悠然たるものである。

「せやあっ!」

 ロランを間合いに捉えた正行が渾身の面を放った。十歳の少年としては素晴らしい太刀筋だ。だがロランは乾いた音とともに左手でその竹刀を受け止めていた。

「あっ」

 尋常な剣道の試合であれば決してありえぬその防御に、正行は愕然と動きを止めてしまった。一方、ロランは苦々しげに口元を歪めている。

「結構痛いじゃないか」

 ロランがぐいと竹刀を引くと、竹刀を固く握りしめていた正行もまた前のめりになった。その結果ロランの胸に顔を埋めることになった正行は、一転して突き飛ばされ、尻餅をついた。

「つっ!」

 一瞬の衝撃のあと、正行が顔を上げたときにはもう、ロランはデュランダルを振りあげていた。その青い瞳に燃える冷たい殺意を見て、正行は鳥肌を立てた。初めて、怖いと思った。

「死んじゃえよ、クソガキ」

「おい――!」

 デュランダルが蒼惶と狼狽をきたしたようであるが、次の瞬間にはその白刃が滝のように流れ落ち、ソルやルナをして背筋の凍るような音がした。その手応えにロランが嗤う。

 デュランダルは、正行の頭蓋を額の半ばまで割っていた!

 その惨い光景が描かれた瞬間、道場の入り口からほとんど慟哭にも似た男の声が迸った。

「正行!」

「うん?」とロランが声のした方を見る。ソルとルナの視線もそちらに注がれた。開け放されたままの玄関を、今まさに一人の男がくぐってきて、目の前の光景を愕然と見ている。

 その男こそは鬼丸泰一であった。

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