第四話 鬼の出陣

  第四話 鬼の出陣


 泰一は雨のなかを小走りに駆けていた。それが突然、物凄い轟音を聞き、大気の震動するのを感じたのである。すわ瓦斯ガス爆発かと思って見れば、道場のある辺りから雀や鴉が狂ったように飛び立っていくではないか。そのときの鴉の鳴き声こそ不吉であった。

 悪い予感に打たれた泰一は全速力で駆けた。駆けて駆けて、道場に辿り着いた瞬間、目に飛び込んできたのは一人の白人の青年が、黒髪のつやつやした正行の頭を剣で叩き割る悪夢のような光景であったのだ。

「正行!」

「うん?」

 こちらを振り返った白人の男が、そのとき邪魔な荷物に気づいたように正行を見ると、その肩を押さえて頭蓋にめり込んでいる剣を抜いた。正行の体は力なく仰向けに倒れていった。

 泰一は飛ぶように駆けると正行の傍らに片膝をつき、その体を抱き起こそうとして出来なかった。正行は顔だけを見るなら眠っているようだ。しかし頭の傷はなんとも無惨で、頭頂から額の半ばにかけてが縦に割られており、脳漿が出てしまっていた。血の染みが道場の床に広がっていく。

「おお! おお! おお!」

 泰一は気の狂ったように三つ叫んだあと、突然しんとなった。鈍い光りを放つ目を、正行の顔のうえにじっと注いでいる。そのまま微動だにしない。その横顔には苦悩が彫り込まれており、泰一の意識がいま、感情の深い井戸の底にあるのは瞭然としていた。

 そんな泰一をしばらく眺めていたロランであるが、元の仕事を思い出したのか、踵を返してルナとソルの方へ一歩を踏み出そうとした。しかし。

「待てい」

 地獄の閻魔もかくやといった泰一の声が、ロランをしてその足を縫い止めさせた。泰一は変わり果てた姿の正行に目を注いだまま、胡乱げに振り返ったロランにうっそりと訊ねた。

「なぜ子供を斬った?」

 するとロランは泰一を見下ろして目でわらった。

「フランス語じゃなきゃわからないや。ああ、日本人だから話せないか。はははっ」

 目でわらったのみならず、ロランは左手で髪を掻き上げながら明るい笑い声を響かせた。初めて、泰一がロランを振り仰いだ。

「なぜこんな子供を斬ったのかと問うておるのだ」

 ロランの笑い声がへし折られた。今度の泰一の問いは、フランス語であったからだ。

 鬼丸泰一は警察官であるから、外国人犯罪者を相手にすることもある。それで外国語を学んでいたのだ。英語とフランス語は自在に操れたし、その他の言語にも通じていた。

「へえ、話せるんだ」

 ロランが青い瞳を細めて針のような視線を浴びせてきた。

 そのとき、ロランの背後からソルとルナが口々に声をあげた。

「鬼丸殿! その男の名はロラン! 契約した剣はデュランダル!」

「覇剣戦争までまだ三日あるのに、時を繰り上げて攻めてきたのです!」

「それでなぜ、正行が斬られねばならんのだ!」

 泰一の血を吐くような叫びに、ロランがなんでもないように答えた。

「うるさかったからだよ」

「なに?」

 一瞬、泰一はこめかみの血管が千切れるかと思った。一方のロランはデュランダルを片手に饒舌である。

「うるさいし邪魔だし、わけのわからない亜細亜アジアの田舎言語でぴいぴい喚かれたら、誰だって苛々するだろ?」

「貴様……」

「それにさ、この覇剣戦争においては、人を何人殺そうが罰せられることはない。なにをやっても無罪だって、あんたの国が約束しているんだ。だからやっちゃっても問題ないってわけさ」

「ふ! ふ、ふ、ふ!」

 不気味な笑い声をあげて、泰一はゆらりと立ち上がった。その顔はたしかに笑っている。笑っていながら、哭いている。その不気味さにロランの顔から余裕が消えた。泰一は熾火の光る目をロランに据えた。

「頭がくらくらしてきた。今にも気が触れてしまいそうだ。おい、ロランとやら――」

 泰一はその精悍な顔を、このとき大べしみのように変えた。

「俺は怒ったぞ」

 不可視の炎にあてられたように、ロランが一歩下がる。だが一歩退いたくらいでは、泰一の目からは逃げられない。いや、ロランにはもはや、この地上のどこにも逃げ場はないのだ。

「よう聞け。心せよ。天がおまえを見過ごすというのなら、法がおまえを裁かぬというのなら、よかろう、この鬼丸泰一が叩き斬ってやる!」

 ロランの顔に戦慄が走ったが、驚懼したのは一瞬のことである。彼は聖剣の光輝に勇気づけられたように笑って、血に塗れたデュランダルを泰一に突きつけてきた。

「叩き斬るって云うけど、武器がないじゃないか。そこに落ちてる竹刀でやるってのかい?」

 落ちている竹刀とは、正行の手から転がり落ちたものである。泰一はそれを瞥見した。武器には違いない。だが指呼の距離で剣を突きつけている相手に対し、どうこれを拾うか。泰一が思案に余っていると、ロランは剣の切っ先を泰一から外した。

「いいさ、拾いなよ。そんな玩具でこのデュランダルに勝てると、本気で思ってるんならね」

 泰一の目がさらなる怒りに隈取られた。

「俺に竹刀を持たせるか。竹刀で人が殺せぬと思ったら大間違いだぞ」

 だがロランは余裕の笑みを崩さない。

「賭けてもいい。あんたがどんなに強かろうと、せめて名剣でなくては、僕を倒すことはできない。このデュランダルには四つの魔法の力があるんだから」

「なに、四つの魔法?」

 このとき泰一の意識が初めて道場の惨状に向いた。窓はすべて割れ、神棚は崩れ落ち、奥の壁は焼け焦げたように黒く変色している。また互いをいたわるかのようなソルとルナも、惨憺たる有様ではないか。あの爆発音はやはりここであったのだ。そして見よ、ロランの手にあるデュランダルを。

「うぬ……!」

 泰一は唸った。正行の血に塗れながらなお白い光輝を放つあの剣、あれこそ端倪すべからざる力を秘めているに違いない。

「さあ!」

 ロランが早くも勝ち誇った顔で泰一に竹刀を取るよう促してくる。しかし、そのときだ。

「鬼丸様!」

 ルナが声を張り上げた。

 泰一がロランの向こうに視線を投げれば、傷ついた身を押して、ソルとルナが互いを支え合いながら、まさに立ち上がったところであった。向かって右手にソル、左手にルナがいる。ソルが左腕を、懸命に泰一の方へ伸ばした。

「こちらへ! 契約を!」

 ロランが眉をひそめて肩越しにルナたちを振り返った。ロランはせめて名剣でなくては自分を倒すことはできないと云ったが、その名剣はまさに泰一の目の前にある。しかも二口もだ。

「……ロラン」

 このとき、ロランの手のなかでデュランダルが憂鬱そうな声を起こした。

「過ぎたことはもう云わぬ。今はその男を倒せ。契約させるな」

「そう、だな」

 ロランはもう笑わなかった。あるいは、泰一に名剣と契約されるのが恐ろしかったのかもしれない。ロランはデュランダルを構えなおすと、泰一に眼差しを据えた。

「気が変わった。今すぐ死んでくれ」

 直後、ロランは床を蹴った。そして泰一に斬りつけたはずが、ぐるんと宙を舞っている。天地が逆さまになっていることを感覚する間もなく、ロランは大きな音とともに背中から道場の床に叩きつけられていた。

「ごほっ!」

 苦痛に顔を歪めたロランは、天井を見上げながら死にかけの虫のように呻いた。

「今、なにが……」

「これを合気道と云うのだ」

 ロランは大の字になって伸びている。受け身も取れなかったようなので、すぐには動けまい。泰一は今すぐ首の骨を踏み折ってやりたい衝動に駆られたが、そのときロランの唇が呟いた。

「聖光……守護結界……!」

 ロランがこれだけが頼りと右手に固く握りしめているデュランダルから、白い光りが膨れあがった。

「なに!」

 泰一は咄嗟に後ろに跳んだが、光りは襲いかかってはこない。光りはただロランを包み込む半球状の天蓋を形成しているだけだ。その光りの天蓋のなかで、ロランは安堵の息をついている。

 泰一はさっと小腰を屈め、竹刀を拾うとその光りの天蓋に斬りつけた!

「えいやあっ!」

 だが竹刀は呆気なく弾かれた。のみならず竹刀を通して泰一の腕に不思議な手応えが伝わってくる。まるで割れない泡を斬りつけたかのようだ。

「ううむ、守護結界と云ったな! 籠城か! 時間稼ぎを!」

 だが魔法の力というのは本物なのだ。それが全部で四つあるという。こうなると、ロランが回復して結界から出てくるまでに、こちらも万全の体勢を整えるしかあるまい。

「鬼丸様……いえ、泰一様!」

 ルナの呼び声に、泰一は竹刀を置くと振り返った。相対した瞬間、ルナとソルの瞳に捉えられた。彼我のあいだを遮るものは、もうなにもない。あるのは、あのロランという男をここで斬らねばならぬという一念のみ!

 泰一は腹を括ると、悲しみを湛えた目をして歩き出した。その顔は修羅の地獄へ降りていく男の悲哀に満ちている。そしてそんな泰一を出迎えながら、ソルとルナは、なにかの儀式であるのか、口々に高らかな呪文を唱え始めた。先鞭をつけたのはソルである。

「カスティーリャの守護神はバレンシアにあり!」

「彼の騎士は双の手に我らを携え、レコンキスタを戦った!」

「めでたきときに剣佩きし人!」

「めでたきときに生享けし人!」

 そうした声に迎え入れられながら、泰一は一人で広野をさすらうような、淡い悲しみが胸に迫るのを感じていた。

「我ら彼の人の剣なれど、今、剣の覇を競う時来たりて、新たなる主を求む」

「汝、その双の手をもって我らと共に戦う覚悟、ありやなしや?」

 ルナがそう問いかけてきたとき、泰一はついに二人の娘の前に辿り着いた。右手をソルに、左手をルナに差し出して厳かに云う。

「来い」

「ならば我ら汝に名を捧げん!」

 ソルとルナの声が見事に重なり、ソルが泰一の右手を、ルナが泰一の左手を、それぞれ恭しく手にとって押し戴いた。

「我が名はティソナ! ソル・ティソナ!」

「我が名はコラーダ! ルナ・コラーダ!」

 その誇らしげな名乗りとともに、二人の娘は赤と青、それぞれの光りに包まれて掻き消えたかと思うと、素晴らしい二口の剣となって泰一の双の手にあった!

 見よ!

 泰一の右手にある黄金の剣こそティソナ。重く、分厚く、頼もしい剛剣である。

 泰一の左手にある白銀の剣こそコラーダ。羽のような軽さと鋭い切れ味を併せ持つ、必殺の剣だ。

 これこそは中世スペイン第一の勇者エル・シードの双剣である!

「泰一様」

 ソルの灼熱の意志が、右腕を伝わって泰一の胸にまでのぼってきた。

「今は覇剣戦争のことはどうでもよろしい。あの男を斬りましょう」

「やりましょう、泰一様」

 左手からルナの透きとおった声が聞こえた。

「よし!」

 泰一がそう一声叫んだとき、背後で呻き声がした。振り返ると、どうやら息を整えたらしいロランが、結界のなかから出てきたところであった。

「契約されたか。厄介なことになったな……」

 デュランダルのその呟きに、ロランはしかしかぶりを振った。

「ふん、それならそれでいいさ。ちゃんと使い手のいる剣を降した方が、エレオノールだって僕に惚れ直すだろう」

「ならば今すぐ鎧を纏え」

「えっ?」

 ロランが目を丸くしたのと同時に、泰一も眉をひそめていた。鎧とはいったい、なんのことであろうか。ロランがみるみる渋面をつくっていく。

「いや、あれを着ると一日筋肉痛で……」

「うつけ、見て判らぬか。今おんしの目の前にいる男は、この現世うつしよにおいて冠絶した剣士ぞ。鎧を纏わねばおんしのごときひよっこ、一刀の下に斬り捨てられて果つるわ」

「……わかったよ」

 ロランはそう吐き捨てると、仕方なさそうに右手を胸にあて、剣を顔の前に立てた。

「聖光十字武装!」

 その掛け声とともにデュランダルから白い光りが溢れた。光りは無数のリボンのように四方八方に伸びてロランの体に巻き付き、胴や四肢を十重二十重とえはたえに隈無く覆い、中世欧羅巴ちゅうせいヨーロッパの騎士の甲冑を象っていく。

 そして白騎士があらわれた。鎧はいわゆるフルプレート・アーマーで、兜の面金がおろされており、もうロランの顔も見えない。

「この鎧、軽いのに不思議と体に堪えるんだよね」

 面金越しのこもった声でそうぼやいたロランは、やにわにデュランダルの切っ先を泰一に向けた。

「さ、こっちの戦闘準備は整った。さっきのお返しをさせてもらおうか」

 泰一は黙って一歩を踏み出した。その目には瞋恚しんいの焔が炯々と燃えている。と、ソルが慚愧に満ちた声を発した。

「泰一様。忸怩ながらあのデュランダル、あれとまともに打ち合えば、我らはひとたまりもありませぬ」

「あれは私たちより遙か格上の聖剣なのです」と話すルナの声にも悔しさが滲んでいる。

 すると剣を受けたり、打ち合わせたりすることは出来ないということだ。それならばそれで、戦いようもある。

「よし、心得た」

 泰一は一つ頷き、床を蹴った。獲物を目掛けて飛ぶ猛禽のような速さでロランとの距離を詰めるや、駆け抜けざまにティソナでロランの左脇腹を斬りつけていく。

「くっ!」

 胴を打たれたロランが振り返ったときには、泰一も既に切り返して構えている。右手には硬いものを打ったときの痺れるような手応えがあった。鎧に目を凝らせば、ティソナで斬りつけたところにはきずがない。ましてロランの肉体を斬り裂いたわけではなかった。

「そんななまくら、この鎧に刃が立つものか!」

 しかし鎧であるからには体を動かせるよう関節の可動部に配慮がなされており、そこには隙間があるのだった。

 ――やはりあそこを狙うしかないか。

 泰一は非常に冷静であった。心では怒りが火を吹いているのに、頭は不思議と冴え渡っていた。

「うおおお!」

 ロランが遮二無二突っ込んでくる。すべてを滅するデュランダルの刃が白い烈風となって迫る。それを躱し、返す刃もまた躱したところで、泰一はうっすらとした淡い微笑を浮かべていた。

 最初のティソナによる一太刀、あれで勝負を決せられればもちろんそれでよかったが、果たせるかなティソナの刃は白い鎧に弾き返されてしまった。するとどうなるか? 鎧の防御力に慢心したロランは、それを笠に着て大振りに次ぐ大振りを始めたのである。

 三度目の攻撃を躱してのけたとき、左のコラーダが電光石火に炸裂した! 肉と骨を断つ手応えがあり、ロランの右腕が肘から切断されて宙を舞った。それは鮮血の尾を引きながら、右手に握られたデュランダルごと少し離れたところに落ちた。

「えっ?」

 ロランは一瞬、自分の身になにが起こったのかわからないようであった。そこへ泰一が血に濡れたコラーダを突きつけて云う。

「未熟者めが」

 遅れて痛みと衝撃がロランを襲ったようだった。ロランは面金の奥から絶叫を撒き散らしながら、血潮の溢れる右腕をおさえてよろめき、うずくまる。傷ついた獣のように絶え間なく喉を鳴らしている。泰一はそんなロランの姿を睥睨しながら、鎧の隙間を丹念に見極めていた。

 頭と胴はほとんど隙間なくよろわれているが、首には可動部であるから隙間がある。また面金も視界を確保するため格子状になっており、青い瞳が透かし見えた。が、やはり首を落とすのが一番よいであろう。できれば正行と同じようにその頭をかち割ってやりたい泰一であったが、どんな形であれ報いを味わわせてやれればそれでよい。

「これまでだな」

 泰一がそう殺意に満ちた第一歩を踏み出したとき、ロランの呻き声が人の声に変わった。

「……ざけるな」

「なに?」

 泰一が眉をひそめると、面金の奥でかっと目を剥いたロランが泰一を振り仰いで噛みつくように叫んだ。

「ふざけるな! デュランダルだぞ? ローランの歌の! 聖遺物を四つも秘めた! それがなぜ……なぜだ! 力を手に入れたのに!」

「力?」

 泰一のこめかみに青筋が立った。彼は右のティソナで、切り落とされたロランの右手にいまだ握り締められているデュランダルを指した。

「力とはそこに転がっているデュランダルのことか? なるほどあれは大した剣だ。だがそれを手に入れて、どうしておまえが強くなったことになるのか? 力とはただ修練によってしか身につかぬ。借り物の力を得てそれを振り回し、あまつさえあのような子供を手にかけて得意になるとは……おお、恥を知れ!」

 泰一は右手のティソナをロランの首筋目掛けて振り下ろした。

「待て」

 少し離れたところに転がっていたデュランダルがそう声をかけてきたにも拘らず、泰一は待たなかった。ロランの首を一息で刎ねようとした。が、ロランが弾かれたように前のめりになり、剣は鎧の背中に弾かれてしまった。

「むう!」

 泰一は鼻孔を膨らませてロランを追いかけようとしたが、その矢先のことである。

「待てというのに」

 デュランダルが、たまりかねたように突如の白い光輝を放った。

「こんなところで脱落するわけにはゆかぬ」

 その言葉とともに道場の床を踏んだのは、金髪を切下きりさげにした青い目の美少女であった。青いドレスの上から白い鎧を着けている。非常に小柄で背丈は一四〇センチあるかどうかといったところである。金木犀の花が咲いたようなその姿に、泰一は思わず目を瞠った。

「ほう、デュランダルというから、どんないかつい男が出てくるかと思ったが……」

「千の剣は、皆、処女おとめ。例外はない」

「デュランダル!」

 ロランがデュランダルの方へ駆け出した。ルナが弾かれたように云う。

「泰一様、デュランダルを取られては」

「そのときは左腕も切り落としてやる」

 泰一が雄々しく断じたそのときだ。デュランダルがこう切り出した。

「鬼丸と云ったの。ここは一旦、手打ちにせぬか?」

「手打ち? どうして手打ちにする必要がある?」

「なぜならばほれ、そこの子供」

 デュランダルが足元に縋りついてきたロランを無視して、左手で正行を指差した。

「まだ息がある」

 泰一はほとんど頭に稲妻を落とされたも同じとなった。正行は頭を割られ、脳漿も出ていたのだ。もちろん意識はなく、出血の量も夥しい。

「あれで生きているというのか!」

「このデュランダルが請け合おう」

 そうがえんじるデュランダルの白皙の美貌は、いっそ権高でさえあった。

「が、それも時間の問題。急ぎ医者を手配せねば危ない。しかるにこのロランにはまだ左腕が残っている。鎧もある。死に物狂いで抗ったところでこちらの敗北は揺るがぬが、そちらもその子供を救う機会を逸するぞ?」

「よかろう!」

 泰一は一も二もなく承諾していた。憎んでも憎みきれぬロランであるが、まさか正行の命と天秤にかけるわけにはゆかない。しかし再戦は必要だ。

「二日後の二十四時、つまり三日後の午前零時、覇剣戦争開戦の瞬間に岐阜県A山展望台にて待っている。その時間ならまさか邪魔は入るまい。また巻き込む者とていないはず」

「よし、心得た」

 デュランダルは了承のしるしに一つ頷くと、這いつくばっているロランの前に片膝をついて声をかけた。

「聞いての通りだ。立てるな? ゆくぞ」

「僕は、まだ……」

「戦える? 戦って死ぬか? 死んであの娘、エレオノールになんと云う?」

「ぐ……」

 そのエレオノールというのは、ロランの恋人かそれに類する女なのであろう。その名前によってロランは心を折られたらしく、悄然と首肯うなずくといまだ鮮血淋漓とした右腕を押さえて立ち上がった。素早くロランの右腕を拾ったデュランダルは、ロランに肩を貸して歩き出した。

 するとそのとき、ロランの白い鎧が光りのリボンとなって解けはじめた。泰一の針のような視線の先で、みるみるうちにロランは元の白い背広姿の青年に戻っていく。

「泰一様、今なら……」

 なるほど鎧の剥がれた今ならば、ロランを一刀の下に斬り捨てることもできるだろう。泰一の右手で剣呑な気配を起こしたソルはそう仄めかしたのだが、しかし泰一はかぶりを振った。

「よせ、ソル。俺は見逃すと云った。吐いた唾は呑まぬ。それより正行だ」

 泰一は道場を出ていく襲撃者たちから目を切り、双剣を手放すと正行のところに駆けつけ、ジャケットの内隠しから携帯電話を取り出して救急車を要請した。

 雨は降り止まない。


        ◇


 泰一は正行が手術室へ運び込まれたあと、警察署に招かれて事情聴取を受けた。泰一はむろん、ありのままを正直に話した。すなわち覇剣戦争に参加しているロランという男の兇刃にやられたのだと。

 聴取を担当した顔見知りの刑事は小首を傾げたが、話がいったん上に届くと、そういうことならと泰一は一通りの話を聞かれただけで解放されたのである。

 泰一はそんな警察の態度に失望した。警察は真相を糺そうともしないどころか、真相を知って糊塗に奔ったのである。無関係の子供が巻き込まれて生死の境をさまよっているのにだ! この国は本気で、覇剣戦争の嵐が通り過ぎていくのを、頭を低くしてやり過ごそうというのである。

「俺は今日ほど警察を情けないと思ったことはない!」

 泰一は警察署を出るや否や、雨のなか自分を待っていたルナとソルにそうぶちまけていた。すると二人も正行のことには責任を感じているのか、傘の下で悄然と俯いてしまった。泰一はそんな二人の顔を見ているうちに怒りが哀れに取って代わるのを感じ、自分で自分をじた。

「いや、すまん。おまえたちに当たっても仕方がない。ところで怪我はいいのか?」

「はい。泰一様がお留守のあいだ、交代で剣の姿に戻って休みましたから」

 ルナがそう云った通り、ロランの聖光爆裂破による負傷は、衣服も含めてほぼ回復しているようだった。その衣服が魔力で編まれていることは、泰一も既に聞いている。

「ならばよい」

 一つ頷いた泰一に、ソルが紺色の傘をそっと差し出した。

「泰一様、どうぞ」

「うむ、ゆくぞ」

 泰一は傘を受け取ると、二人を引き連れて雨のなかを病院へとんぼ返りした。

 病院にはもう沙代子とその夫が来ていて、一階のロビーで長椅子に座りながら、長い手術の結果を待っているところだった。

 夫に肩を抱かれながら項垂れていた沙代子は、泰一を見ると立ち上がって詰め寄ってきた。

「くっ!」

 沙代子のすこしくたびれた拳が、泰一の逞しい胸を一つ叩く。二つ、三つと殴打が続く。そのたびに悲しい音がして、沙代子の目からは涙が散った。泰一は昼過ぎ、喫茶店で沙代子と別れた折に云われた言葉、云った言葉を忘れていない。

 ――正行のこと頼むわよ。大事な一人息子なんですからね。

 ――おう。しかと頼まれた。

 だが、結果はこれである。

「……すまぬ」

 泰一がそう詫びると、沙代子はその場にずるずると座り込んで泣いた。


 日が暮れても雨は止まず、正行の手術は終わらなかった。午後九時現在、泰一たちは一階ロビーから手術室の前に場所を移している。廊下に配された長椅子に沙代子とその夫が隣り合って座り、泰一は少し離れたところから腕組みして夫婦の様子を憂わしげに見つめていた。

 そんな泰一に後ろからルナが控えめに声をかけてきた。

「泰一様。泰一様がいつまでもこうしていたところで……」

「いや、俺は手術の結果を聞くまではここを去らんぞ」

 今、正行が手術室で戦っているのに、師たる自分が一人だけのうのうと帰宅し果せることはできない。泰一はもとより、沙代子もその夫も、夕食はおろか水一滴飲んでいない。

「おまえたちは剣の姿に戻っていてもいいのだぞ? その方が楽なのだろう?」

 泰一はそう云いながら、組んでいた腕をほどいて振り返った。そこにルナとソルがいずれも影のように控えている。泰一の言葉には、ソルがかぶりを振ってこう答えた。

「泰一様が待たれるというのなら、我らもまた待ちます」

「うむ、そうか。ではせめて座るか」

 泰一も足が疲れていないと云えば嘘になるので、二人を引き連れて廊下を曲がり、エレヴェーター前の長椅子を選んで座った。泰一を挟んで、右手にソル、左手にルナという席次である。

 それからしばらく三人は黙っていたが、やがて泰一が独り言のように云った。

「しかし頭を割られて、よく命があったものだ」

「それは恐らくデュランダルが加減をしたのでしょう」

「加減?」

 ソルの言葉に泰一がはてなと小首を傾げると、傍からルナが云い添えた。

「斬ろうと思えば斬れ、斬らぬと思えば斬れぬのが名剣。私たち名剣は自らの斬れ味を制御できるのです。私たちが最初に泰一様に戦いを挑んだときも、実は私とソルと菊子の三人で、あらかじめなまくらになるよう取り決めてありました」

 つまり仮に泰一がルナを斬っていたとしても、斬れなかったというわけだ。

「なるほど、名剣とは便利なものだな」

 泰一は感心したように呟いた。それからまたしばらく沈黙があり、泰一はふとした瞬間に疑問を口に乗せた。

「それにしても……なぜあのロランという男は、あのときあの場に狙い澄ましたようにやってきたのだ? おまえたちが今日あの場に現れることを知っていたとしか思えぬ」

「私の記憶違いでなければ、さる筋から情報をもらったと云っていました」

 ソルの言葉にルナも首肯をした。泰一は胡乱げに眉をひそめた。

「さる筋、か。どこぞの誰かが情報を流したというのか。それは誰だ?」

「それは私たちにもなんとも……」

 ルナが眉宇を曇らせてかぶりを振った。泰一は眉間の皺を濃くしていく。悔いても詮無いことだが、たらればという想いが消えない。あのとき正行を一人で行かせねば、ロランという男が来なければ、ロランにルナとソルの情報が渡っていなければ。

「いったい誰が……」

 泰一が低い声で独りごちたそのとき、エレヴェーターがこの階に着いたことを知らせるあの音がした。扉が開き、背広姿の男が出てきたかと思うと、その男は泰一を見て目を丸くした。泰一の方でも意外な人の登場に驚いて椅子から立ち上がった。

「警部殿!」

 それは泰一が懇意にしてもらっている、あの秋山大悟警部であった。

「よお、鬼丸」

 秋山はそう気さくに片手をあげて挨拶しながら近づいてきた。泰一は一礼したあと、泰一と同じく椅子から立ち上がったルナとソルに低声こごえをあてた。

「俺が世話になっている秋山警部殿だ。警察官として既に覇剣戦争のこともご存知であられる」

 それから泰一は秋山に顔をもどして率直に尋ねた。

「警部殿は、こんな時間にどうしてここへ?」

「なあに、ちょっと様子を見にきただけだ。まさかこうなるとは思わなかったんでな」

 秋山の面貌には苦渋が滲んでいた。きっと警察官として今回の犯人を逮捕できないことに憤っているのであろう。泰一はそう察しながら、それでも云わずにおれなかった。

「今回のあの男は、逮捕できませんか」

「できんな。覇剣戦争に関連したすべての事柄は超法規的に扱われるという方針がもう決まっている。被害に遭った子供の家族にも、偽りの捜査経過を伝えることになるだろう」

 ――ならばやはり、俺が斬るしかない!

 泰一はそう思い固めて拳を握り締めた。

 一方、秋山の視線は泰一からルナやソルの上に移った。

「って、うっかり人前で喋っちまったが、鬼丸、この美人のお嬢ちゃんたちは――」

「例の、俺を見込んで声をかけてきた名剣です」

「おお、やはりそうか」

 顎の無精髭を撫でさする秋山にまじまじ見られて、ソルとルナは居心地悪そうに泰一の背中に身を寄せた。

「まあ、そんな感じはしていた」

 少女の愛らしさにちょっとやに下がっていた秋山は、しかし泰一に目を戻した瞬間に鋭い眼差しをした。

「で、おまえこいつらと契約したのか?」

「しました。それもひとえに、正行をあのような目に遭わせた男を斬るためです」

「では、それが成ったら契約は破棄するのか?」

 秋山の問いには、泰一よりもむしろルナとソルの方が緊張を示した。行き掛かりから図らずも泰一と契約した二人であるが、泰一の動機がロランにのみ向けられている以上、覇剣戦争という本来の道筋からは逸脱している状態なのだ。二人は泰一の次の言葉に耳を傾けようとした。

「それは――」と、泰一が口を開いたときだ。

 廊下の角を曲がったところから、沙代子の悲鳴のような声がした。

「正行!」

 泰一は弾かれたように駆け出していた。角を曲がって廊下の先に視線をやると、突き当たりにある手術室の扉が開いている。手術が終わったのだ。

 泰一は急いで正行のもとに駆けつけた。あとからルナたちもついてくる。

 担送車に固定されている正行が看護師たちに伴われて手術室から出てきたが、すがりつこうとする沙代子を、眼鏡をかけた胡麻塩頭の医師が如在なく遮った。

「これから二十四時間体制で経過を観察します。ご両親といえども、病室のなかへの立ち入りはご遠慮いただきたい」

 看護師たちによって病室へ運ばれていく正行を、沙代子は吾が子がさらわれていくような目で見守っていた。沙代子の夫が、沙代子の肩を押さえながら医師に尋ねた。

「それで息子の容態は?」

「それは……」

 答えようとした医師は、そこで泰一たちを憚るように声を落とした。

「診察室へ移りましょう。そこでお話をいたします」

「いや!」

 泰一は決然、燃える眼で医師に詰め寄った。

「是非ともお聞かせ願いたい。それによって俺の今後も決まる」

 医師は泰一から立ち上る不可視の焔にやや怯んだようである。が、そこは医師としての責務からか、泰一にきっぱりとかぶりを振って断りを入れようとした。ところがである。

「……いいわ」

「えっ?」

 医師が目を丸くして沙代子を見たが、沙代子は据わった目で泰一を見つめていた。

「どうせあとで根掘り葉掘り訊かれるんですもの。それだったら今この場で一緒に聞いてもらった方がましよ」

 そこで一呼吸おいた沙代子は、医者に顔を戻して決然と云った。

「ここで話して下さい」

「……わかりました」

 医師は念のため沙代子の夫にも目顔で確認を求めたが、彼もまた首肯したのでこの場で泰一たちを交えて語り出した。

 人間がその脳の機能を十全に使っていないと云われていたのは一昔前の話で、今では人間の脳は一割の神経細胞と九割のグリア細胞で出来ていることがわかっている。では脳の一部を缺損けっそんしたところで生命に支障がない場合もあるといったら信じられるであろうか? むろん脳への負傷が常に命に関わる一大事であることに間違いはないが、それでも拳銃で頭を撃たれたり、事故で頭蓋が陥没するほどの重傷を負ったりしながらなお生きている人が、現実には存在するのである。

 ではなぜ彼らは九死に一生を得ることができたのか?

 要因はさまざまだが、その一つに脳幹が無事であったというのが挙げられる。

「つまり脳幹というのは、脳の中心にあって生命活動に必要な働きを司っているのです。たとえば寝ているときに我々が呼吸をしていられるのは、この脳幹が働き続けているからなのです。お子さんの場合は、この脳幹が無事であったので、命は助かったわけです」

「では、正行は回復するんですか?」

 沙代子の夫が怯えたようにそう尋ねると、医者は気の毒そうにかぶりを振った。

「残念ですが、もう目覚めることはないでしょう。それどころかいつ容態が急変してもおかしくはない。とにかく生きているだけで奇跡です」

 その言葉を聞くや、沙代子はわっと泣き崩れた。

 つまり正行は、回復どころか明日をも知れぬ命になったわけである。

「これで俺の腹も決まった」

 泰一はそう独りごちると、踵を返し、ルナとソルの背を押して廊下を引き返し始めた。

「泰一様、あのご婦人のことはよろしいのですか?」

 ソルは泰一に背中を押されながらも、沙代子を肩越しに振り返って気懸かりそうに見ていた。

「沙代子のことはその夫に任せておけばよい。俺には他にやるべきことがある」

「やるべきこととは、なんだ?」

 その声に泰一は足を止めて振り返った。秋山が泰一の後ろに立っている。沙代子たちよりこちらが気になるのか、引き返していく泰一たちを追いかけてきたらしい。

 泰一はその秋山に向けて男らしくはっきりと告げた。

「無論、覇剣戦争です」

 それには秋山よりもソルとルナの二人が驚いたようだった。らいに打たれたような様子の二人をかわるがわるに見て、泰一は問いを起こした。

「ソルよ。究極の剣を至高の鞘に収めるとき、どんな願いも叶うと云うな?」

「はい」とソルが力強く首肯した。

「ではルナよ。どんな願いも叶うのならば、正行を目覚めさせることも出来ような?」

「それは……もちろん可能ですけれど、それでは泰一様は、坊やのために?」

「当たり前だ」

 泰一が力強く断じると、ルナは幽かに狼狽の色をみせて、躊躇いながらもうったえた。

「しかし、坊やのことはまことに気の毒ですけど、御身の病は――」

「馬鹿者!」

 泰一はルナの言葉を大喝して打ち砕いた。

「この期に及んでおのが病魔のために戦おうというのなら、そんなものは男ではない! そもそも俺はこんな下らぬ戦いに参加しとうはなかった! なにが究極の剣、なにが至高の鞘! 千のつるぎが覇を競って、いったいそこになんの意義がある? 俺がこの戦いのはてにただ自分の病を癒したとしたら、いったいそこになんの意義があるのだ? なんの仁義もありはしない。しかし、見よ!」

 泰一は痛ましい目をして廊下の奥に顔を振り向けた。そこには突然の不幸に見舞われたが子のために泣き暮れている沙代子の姿があるではないか。

「あの母親の涙を拭うためならば、この戦いにも意義はある」

 ソルとルナは朝日の一閃を受けたように、その顔をみるみる燦爛とさせていった。

 一方、泰一の顔は苦悩と決意に満ちていた。これよりは修羅の地獄へ降りてゆかねばならぬのだ。その地獄に、人のままでは堪えられまい。

「ゆえにこの鬼丸泰一、今日より正行を救うその日までは、鬼となろうぞ」

「鬼丸……」

 茫然とそう呟いた秋山に目礼し、泰一はソルとルナの二人を促して歩き出した。

「ゆくぞ、俺には時間がない。手始めにまずあのロランという男の首を取る」

「はっ!」

 ソルとルナが声を合わせてそう返事をした。

 かくて鬼は戦さ場へと向かう。

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