短編

第4話 黒犬パラドクス

 いつ如何なる世情においても仕事はやってくる。状況は仕事を呼び、仕事はさらなる仕事の呼び水になる。そうやって世間はいつも回っている。こういう摂理の中で働く人々を、誰が呼んだか歯車と揶揄する者も少なくはない。

 この物語は、そんな歯車の一つが動かした、一つの仕事の記録である。

「ドーベルマンの捜索……ですか」

 黒狛探偵社の応接間で、社長の池谷杏樹は眉を寄せて繰り返した。

 相手は対面のソファーに腰を落ち着ける、髪と服の色が紫のご婦人である。

「野崎さん。念のためにお伺いしますが、警察や保健所に連絡は?」

「行方不明になってからすぐに入れておりますわ」

 依頼者、野崎栄子が見た目通りの野太い声で答える。

「うちの子……名前はアキレウスっていうんですけど、つい三日前に脱走しまして」

「どのような形で脱走されたのですか?」

「ええ、散歩中、仲良くさせて頂いている近所のご婦人方と公園でお喋りに興じている最中に、いきなり持っていたリードが引っ張られまして……何かと思っていたら、もうアキレウスは私の視界から消えていたんです」

「いきなり走り去ったんですか? それはまた、どうして?」

「私が聞きたいですわ、全くっ」

 野崎夫人がつんとして顔を背ける。

「いつもはとてもおとなしい子で、ちゃんと言う事を聞いてくれるというのに……」

「ドーベルマンは賢いですからね。そうでなくても、ちゃんと調教されているなら逃げ出す理由があると考えた方が早いです」

「やっぱりそう思います? やはり池谷さんは聡明でいらっしゃる」

「あはは……まあ、これでも探偵やってますし」

 片やデブ夫人、片や見た目が女子中学生の四十路探偵。

 明らかに妙ちきりんな絵面だと、杏樹自身も自覚はしている。

「それはともかく、三日も行方知れずはたしかに危険ですね」

 危険とはいうが、杏樹が感じている危険と野崎夫人が感じている危険は種類が違う。野崎夫人の場合は「どこかでお腹を空かせていないかしら」とか「どこかの悪者に捕まったかもしれない」という、あくまで犬の安全にしか興味が無いような態度をこの場でずっと示し続けている。

 だが、杏樹の場合、「お腹を空かせて近くのものを拾い食いしている可能性がある」という犬自身の安全衛生面の心配だけでなく、「空腹に耐えかねて通りすがりの民間人を襲っている可能性がある」という、周囲への配慮も忘れていない。

 主観や客観の差はあれど、いまの二人の認識は食い違いこそはしないが微妙なところですれ違っている。下手な発言は避けるが吉だ。

「とにかくそのアキレウスちゃんに」

「アキレウスはオスですわ」

「……アキレウス君に関わる情報を可能な限りこちらに提供して頂く必要があります」

 探偵が浮気調査や行方調査などをする上で必ず必要なのは、依頼者から提示される調査対象の情報だ。一を聞いて十を知るのがこちらの仕事であって、ゼロから十を知れという無茶振りには応じかねる。

 野崎夫人は早速、高そうなブランド物の鞄から取り出したファイルを丸ごと杏樹の前に差し出した。

 中を改めると、電話受付で用意するように言っておいたものはきっちり揃っている。

「ありがとうございます。では、これから調査方法と料金などについての話し合いをさせて頂きます。この調子なら全てが円滑に進みそうなので、何なら話が終わった後、すぐにでも調査を開始させて頂きますが?」

「助かりますわ。さすが天下の黒狛」

「ど……どうも……あははのはー」

 いつもならおだてられると調子に乗る杏樹ではあるが、今回はあまり気が合いそうにない相手が依頼主だ。いくら羽振りが良いからといって、簡単に乗せられて痛い目を見るのはもう御免だ。

 三十分後、ヒアリングを終え、野崎夫人は満足そうな顔をしてこの探偵社を辞した。


「聞いてたわね?」

「今回はなんて楽な依頼でござんましょ」

 部屋の奥に鎮座する杏樹の執務机の裏に設えられた扉から出て、葉群紫月は肩を竦めて応接間に歩み寄る。

 彼女らの会話は前述の隠し部屋に設置された機材によってリアルタイムでモニタリングしていた。既に紫月も杏樹と同じ情報が与えられた状態である。

「久しぶりに平和な仕事が出来そうで何よりです」

「金持ちの依頼は経験上、あんまり受け付けたくないんだけどねぇ」

「入間の一件もありますしね。それより、俺はどうすればいい?」

「脱走したのが三日前なら、まだ彩萌市から出ていないと見るべきでしょうね。だからといって市内全体を駆けずり回るようなバカはしたくないでしょ?」

「だとしたら、犬がたむろしそうな場所を絞るところからですね」

 紫月は杏樹の執務机から彩萌市のマップを持ち出し、応接間のテーブルに広げ、芯を出していないボールペンの先でとある箇所を示しながら述べる。

「野崎夫人のご自宅がこのあたり。脱走した箇所が自宅から約二〇〇メートル離れた公園で、夫人が犬を見失ったのも同じ地点。ドーベルマンの知能と体力で行けそうな範囲をざっくり暗算みたく割り出すと――このあたりなんかアリじゃないっすか?」

 紫月が指したのは、彩萌体育館のあたりだった。あの体育館は彩萌市の中学高校が卓球やバドミントン、バスケの予選なんかをよく開いており、付近には人工芝が広がる大きな公園がある。専業主婦が小さな子供を連れてピクニックに興じている姿を、紫月は土日の昼下がりにあの公園でよく目撃している。

 杏樹は納得したように頷く。

「なるほど。あそこは場所が開けてるし、そこに居たなら誰かしら通報はするよね。IDカプセルのこともあるし、野崎さんに吉報が行くのも時間の問題ってとこかしら」

 話によれば、アキレウスの首にはIDカプセルが提げられているらしい。カプセルを開けば中から犬の名前と飼い主の連絡先が書かれた紙が出てくるので、保健所や警察に預けなくても、拾った当人が飼い主に連絡しやすい仕組みになっているのだ。

「でも、一応は用心しなさいよ」

 杏樹が面持ちを引き締める。

「犬にとって三日間の空白は意外に長いものだと思って。その間に野性化してないとも限らないし、種類が種類だけに厄介事に巻き込まれていないとも言い切れない。探偵に依頼するって事は、それなりに依頼主もヤバいって感じてる証拠でもあるんだから」

「承知しました。すぐにでも捜索を始めます」

 紫月は自分の仕事机の引き出しから十手を取り出し、杏樹から受け取った仕事用のスマホと一緒にジャケットの内ポケットに収めると、足早に探偵社から出動した。


   ●


 見つけた。捜索開始からおよそ三十分経過した後の話である。

 黒く艶やかな体毛、犬としては筋骨隆々の巨躯、鋭い眼差しと凛々しい面持ち。三日間も行方を晦ましたとは思えないオーラを全身から放出するその黒い犬は、問題のドーベルマンことアキレウス君だった。

 発見した場所は最初に紫月が当たりを付けていた彩萌体育館付近の共同公園だ。そこ以外の捜索範囲も一応は指定していたのだが、まずは真っ先に可能性の高い場所を一直線で目指していたら、思いの外あっさりと見つかったのである。

 だが、あの犬には下手に近づけない。決して体躯の迫力に押されたからではない。

 問題は、犬と一緒にジャレている人間の方だった。

「おお、よしよし。今度はもっと遠くに飛ばしてみようか」

 たったいま犬が口に咥えて持って帰ってきたフリスビーを受け取り、これまた大柄なスキンヘッドの男が満面の笑みを浮かべる。

 前述通りの見た目に加え、高そうなサングラスと革ジャンを装備した、如何にもマフィアのような風体の名も知れぬ大男。

 紫月にとって、犬よりも近寄りたくない相手だった。

「……どうしよう、本当に」

 近くの木陰で遠巻きに一人と一匹の様子を見守りながら、紫月は懐に仕舞ってあった仕事用のスマホに手を伸ばす。とりあえず、見つけたからには依頼者への経過報告を優先しなければならない。

 例の大男がオレンジ色のフリスビーを投げ、犬が走って跳躍する。普通に楽しそうだ。

 ここで、紫月は彼らから視線を外さずに沈思黙考する。

 そもそもあの犬が本当にアキレウスかどうかを確認しなければならない。依頼主への経過報告はそれからでも遅くは無いだろう。でも、明らかに見た目がゴツい兄ちゃんに近寄って良い事があった試しなんて一度も無いし。

 でもこれは立派な仕事だ。なら、多少のリスクすら背負わんなんていう甘ったれた戯れ言は犬にでも食わせておけばいい。犬だけに。

 いやしかし、だからといって自らが悪食になる必要も無いか。それに、あれがもし本当にマフィア関係者の類だったら、あのマダムにもそれなりの立場があるので、双方で話がこじれた際は非常に厄介なことになる。

 こちらがリスクを負うのは当然だが、依頼者に金以外のリスクを背負わせるのは、正直どうなんだろう?

「とりあえず、話しておくだけでも」

 紫月はようやく意を決し、ボイスチェンジャー機能を搭載した特注品のスマホで野崎夫人の携帯番号に発信する。

 意外にも、彼女はワンコールで応じてくれた。犬だけに。

「あ、もしもし。黒狛探偵社の黒狛四号です」

『黒狛四号? ああ、池谷社長が言ってたコードネームってやつね』

「こちらも下手に身分を明かせない立場でして。それより、いまお時間は」

『全然平気だけど……何? もしかして、もう見つかったのかしら?』

「ええ。彩萌体育館と隣接する人工芝の大きな共同公園。そこでアキレウス君らしき黒いドーベルマンを見つけたのですが……」

『え? 本当に!?』

 やたら喰い気味に迫る野崎夫人。当然だが、嬉しそうだ。

「ええ。ですが、少々問題がありまして」

『問題?』

「そのドーベルマンを保護している人の見た目が明らかにヤバい人なんです。あまり変な先入観に捉われるのもどうかと思いますが、もし彼が本当に暴力団関係者だった場合、双方で話がこじれたらちょっと大変なことになるかと思いまして。だから、もうちょっと慎重に事を運んだ方が得策かと」

『要は穏便に済ませれば良いのね? だったら私に考えがあるわ』

「はい? ちょっと、あなた何を――」

『良い? あなたはそこから動かないで、ずっとアキレウス君とそのヤバい人とやらを見守り続けていなさい』

「え? 何? 何を始める気?」

 こちらが不穏当な空気を感じ取った途端、野崎夫人が一方的に通話を切ってしまった。

 困ったなぁ。ああいうのに限って、絶対面倒な騒ぎを起こすタイプなんだよ。

「ええい、しょうがないっ」

 ならば、あっちが騒ぎを起こす前にこっちが出しゃばって、早めに事実確認を済ませれば良いだけの話だ。要はあの犬のIDカプセルの中を見せてもらえば済むだけの話なのだから。

 紫月は戦々恐々としながら木陰から飛び出し、例のドーベルマンに餌を与える問題の大男の背中に声を掛けた。

「あのぉ……ちょっと良いですか?」

「はい?」

 男は思ったより素っ頓狂な声を上げる。

「すみません、実は僕、知り合いの犬を探しておりまして。首にIDカプセルを提げた犬で、名前はアキレウスといいまして。犬種は黒いドーベルマンなんですけど」

「じゃあコイツの事じゃないっすかね」

 男は犬の背中を撫でながら言った。

「俺もついさっきコイツを拾ったばっかりでして。そんで、IDカプセルを開けようとしたんすけど、何故か開けられなくて……」

 男は犬の首から丁寧にIDカプセルを取り除き、こちらに手渡してくれた。

「カプセルの継ぎ目に変な形の小さな穴が空いてるんすけど、これってもしかして鍵が無きゃ開かないタイプの奴なんじゃないっすかね?」

「鍵? そんなこと、野崎さんは一言も言ってなかったよーな……」

 もしカプセル開封に鍵が必要なら最初のヒアリングで必ずこちらにスペアキーを手渡しているだろうに。渡し忘れたのか?

「まあいい。もう一回、野崎さんに確認を――」

「あのー、ちょっと良いっすかね?」

「はい?」

 意外にも、今度は男の方からこちらに質問してきた。

「もしかしてあんた、近隣の高校生っすか?」

「そうですけど……それが何か」

「あ、俺、火野龍也っていうモンなんすけど、この近くの帝沢っていう男子校に通ってる一年なんすよ」

「へぇ、そうなんですか……え?」

 あっさり納得しそうになったが、いまの発言は紫月にとって大問題に相当する。

「高校生? 嘘だろ? マジかよ!? しかも俺とタメ!?」

「見た目からよくマフィア関係者に間違われるんすけど、残念ながらマジのマジっす。本気と書いてマジっす」

「普通に一般人かよ!?」

 やっぱり先入観に捉われるのは良くない。人は話し合いの生き物である。

「クソ、こうなるんならやっぱりちゃんと確認してから電話するんだった! 早く野崎さんに報告しないと――」

 紫月が画面をタップする親指を震わせていると、頭上から何やら布を強く叩きつけたような打擲音が連続して降りかかってきた。

 二人と一匹が揃いも揃って上を見上げ、愕然とする。

 なんと、黒いヘリコプターがゆっくりとこちらへ降下してきたのだ。

「なななななんすかアレ!? ステルスヘリっすか!?」

「嘘だろ? 来るの早すぎんだろ!?」

 いよいよ面倒が始まると思った矢先、着陸してすぐにヘリのドアが開き、中からぞろぞろと黒のヘルメットとタクティカルベスト、特殊警棒を装備した五人の男達が素早く出動する。

 五人が手際良く紫月と龍也とアキレウスを取り囲むと、さらに遅れて、ヘリから紫色のご婦人が降りてきた。

「アキレウスを渡しなさい、この下郎が」

 ご婦人こと、野崎栄子が不敵な笑みを浮かべる。

「その子は私の大切な家族なの。だから、早く離れて頂戴」

「ちょっと待ってくださいよ!」

 龍也が驚愕を引っ込めないまま叫ぶ。

「俺が何をしたっていうんですか!? ていうか、こんなヤバい連中引き連れた奴にそうおいそれとこの犬を渡せる訳が無いじゃないっすか!」

「まあ、何て失礼な! そんなこと、あなたに言われたくありませんわ!」

「待て待て待て!」

 紫月が二人の仲裁に入る。

「このスキンヘッドは本当にただの一般人です! ていうか、俺と同い年ですよ!」

「あんた誰よ? 関係無いのに口を挟まないでくれる?」

「誰って――」

 反論した矢先、すぐに思い出した。

 しまった。電話で会話しただけで、俺とこのオバンはこれが初対面だったんだ!

「ていうか、この連中は一体何なんすか!」

 龍也はこちらを警棒の先で威嚇する物騒な連中をぐるりと見渡した。

 野崎夫人がさらに得意げになる。

「この方達に下手な抵抗は通じないわよ。彼らは元・警察機構特殊部隊の構成員で、いまは独立して民間警備会社を立ち上げた超精鋭集団でもあるの」

「元・SAT隊員で現役PMC!?」

 紫月の声がうわずるのも無理からぬ話だ。SATは日本が有する荒事専門の役職では自衛隊に並ぶ知名度の高さを誇る。さらにそんな連中がPMCに転身したとなると、それこそ戦闘に精通した、いわゆる『戦争屋』などと呼ばれる連中ということになる。

 たしかに、一介の高校生や探偵ごときに覆せる相手ではない。

「さあ、早くアキレウスを渡しなさい!」

「言われなくても渡しますって!」

 龍也が喚くように応じるが、今度はアキレウスの様子がおかしかった。

 何故か知らないが、警戒心を丸出しにして喉を鳴らしているのだ。

「どうした? あの人がお前の飼い主なんだろう?」

「アキレウス、もう私を忘れちゃったの?」

 野崎夫人が犬を相手に猫撫で声で呼びかける。

 しかしと言うべきか当然と言うべきか、アキレウスはやはり動かない。それどころか、腰を低くして戦闘態勢に入っているのだ。

 紫月は眉をよせてアキレウスを観察する。

「まさか、三日間で本当に野性化したのか? でも、ドーベルマンだぞ?」

 アキレウスが突如として、がうっ! と鳴いたと思ったら、身を翻して後方の銃手に全速力で体当たりをかました。

 残りの四人がアキレウスに警棒の先を向けるが、

「駄目! アキレウスを攻撃しないで!」

 野崎夫人の鋭い一喝のせいで反応が遅れてしまったらしい、襲われた一人と残りの四人が狼狽えている。

 何だか知らんが、逃げ出すチャンスはいましか無い!

「おいハゲ! いまのうちに逃げるぞ!」

「う、うっす!」

 咄嗟の判断が功を奏したのか、アキレウスが顎で逃げ道を示してくれた。紫月と龍也は走り去るアキレウスの背を追って全力で駆け出し、どうにかあの物騒な包囲網からの遁走に成功した。

 二人と一匹はしばらく無言で走り、やがて潰れたスナックや風俗店などが立ち並ぶ寂れた一角に腰を落ち着ける。

「本当に死ぬかと思った」

「全くっすよ……!」

 紫月と龍也が地べたにへたり込んだまま空を見上げて息を荒げる。

「ていうか、何で逃げたんでしたっけ、俺達」

 龍也が素朴な疑問を口にする。

「あのまま説得を続けていれば、もしかしたら穏便に済ませられたかもしれないのに」

「いや、何を言ってもありゃ駄目だ」

「どうしてっすか?」

「警戒したままのアキレウスをあのババアに返す訳にはいかない。IDカプセルの中身が分からない以上、こいつが本当にアキレウスかどうかも分からんのに」

「でもこのままじゃあいつら俺達を追ってきますよ?」

「だったらやることは一つだ」

 紫月は立ち上がり、懐から十手を抜いた。

「あのババアは人の話を聞くタマじゃない。ゆっくり話し合うのは奴らを無力化してからでも遅くはないだろ。俺があの連中を制圧して、野崎夫人との渡りを隊長につけてもらう」

「相手は元・SAT隊員っすよ!? 一人で勝てる相手じゃないっすよ!」

「アキレウスの警戒を解くにはこいつが一番手っ取り早い。それに、いまのあいつらを安全に倒せる方法が一つだけある」

 紫月はアキレウスと目を合わせ、背中を丁寧に撫でる。

「何も一人で倒すなんて言ってない。火野、アキレウス。俺に力を貸してくれ」



 面倒な仕事だな、と思ったのは自分だけではあるまい。

 元・SAT隊員にして、現在はPMCの社長を務めている石谷泰山は、四人の部下と共に二人の子供とアキレウスが逃げたと思しき座標――つまり、かつては背徳に塗れていたであろう建物が居並ぶ廃墟に赴いた。

 泰山は近くに停めたバンの車内でタブレットの画面を見下ろしながら、現場に向かわせた四人に無線で呼びかける。

「こちらG1。アルファ、ブラボー、応答せよ」

『こちらアルファチーム。回線良好、どうぞ』

『こちらブラボーチーム。右に同じ、どうぞ』

 現在は部下四人を二手に分けてツーマンセルで行動させ、それぞれをアルファ、ブラボーと呼んでいる。高校生らしき子供二人と犬一匹が相手なら四人それぞれをばらけさせるのもアリかと思ったが、あのスキンヘッドの巨漢と、彼を引き連れて逃げたもう一人の少年の行動や言動が多少なりとも引っ掛かる。

 だから慎重を期した訳だが、少しやり過ぎなのだろうか。

「各員に告ぐ。目標はあくまでアキレウスの捕獲。それ以外の要素は全て無視するんだ。間違っても民間人に怪我を負わせてはいけない。アキレウスを連れて逃げた子供達に関しても同じだ。どうぞ」

『こちらアルファ1。子供達が攻撃してきた場合はどうしますか?』

「普通に考えれば有り得ないだろうが、その場合は任意に反撃、拘束しろ。しかし殺傷兵器の使用は可能な限り控えろ」

『了解』

「よし。では、作戦開始」

 この合図と共に、タブレット上に表示された四つの青い点が一斉に動き出す。このマーカーは味方が持つGPS端末の位置情報だ。実は逃亡犯とアキレウスの現在地点を割り当てられたのも、少年二人が持つGPS端末――つまりスマートフォンの位置情報を追ってきたからだ。ヘリコプターで公園に降下する直前、念の為に二人の信号をタブレットに登録しておいて正解だった。

「本当に大丈夫でしょうね」

 隣で管を巻いていた野崎夫人が横柄に訊ねてくる。

「もしこれで捕まえられなかったら――」

「何一つとして問題は無い。相手は袋の鼠です」

 飄々として答えてやったが、泰山は正直、早く家に帰りたい気分でいっぱいだった。

 何が悲しくて、俺達は一頭のドーベルマンの為に会社から慌ただしく出て来なければならなかったのだろうか。野崎夫人の旦那、つまりはこちらの会社に高性能なGPS機器を提供してくれる電子機器メーカーの社長との縁が無ければ、こんな仕事は適当な理由を付けて断ってやれたものを。

 まあいい。相手は少数だ。それに、さっきから彼らは同じ場所から全く動いていない。

「……ん!?」

 再び確認したタブレットの画面に、信じられない異変が起きていた。

 なんと、相手側を示す赤いビーコンがもう一つ出現して、アルファチームのアイコンに向かって一直線に突っ込んでいたのだ。


 アルファチームの二人は互いの背中を護りながら、忙しなく特殊警棒の先端を揺らし、慎重に寂れた路地を進んでいた。

 隊長がGPSモニターを見ながら進む方向を示してくれるとはいえ、現場でこそ何が起きるか分からない。もしかしたら高校生の分際で生意気にもブービートラップを仕掛けている可能性もある。

 そろそろ相手との位置も近い。さらに集中して、注意力を極限まで高める。

「!」

 目の端に黒い影が通り過ぎ、アルファ1はその方向に警棒を突き出す。

 誰も居ない。気のせいだろうか。

「どうした?」

「いや、いま誰かいたような気が……」

「がうっ!」

 余所見をしたアルファ2の真横から、黒いドーベルマンが体当たりを仕掛けてきた。

「うわっ!? こいつ、アキレウスか!」

「捕まえるぞ、そこを動くな!」

「そうそう、そこを動かないでちょーだいっ」

 慌てるアルファ1の後頭部に、硬い何かが直撃した。


「……あんた、一体何モンっすか」

「さあな」

 白々しく答えると、紫月はたったいま地に伏した二人の元・SAT隊員の腰に括り付けてあったホルスターから手錠を抜き出し、それぞれの手首を後ろ手に拘束してやった。

 さらに、戦利品として警棒を二本押収、うち一本を龍也に投げ渡す。

「わっ……ちょっと!? 勝手にかっぱらっていいんすか!?」

「緊急事態だし、御守りぐらいにはなんだろ。それより、残りのもう一分隊がもうすぐここにやってくる」

 紫月はたったいま龍也の足元に戻ってきたアキレウスを見遣る。

「あいつらが早い段階から俺達の位置を掴んだのは、俺達が持ってるスマホのGPSの信号をキャッチしているからだ。だからさっきはそいつを逆利用した一手で奇襲をかけてやったが、二度も同じ手はさすがに使えないな」

 アキレウスが首から提げているストラップ付きの端末は、杏樹が紫月に手渡した仕事用のスマホだ。おそらく相手からしても、一人の民間人が二つ以上のGPS搭載端末を持っているとは思わなかった筈だろう。

 とはいえ、もう相手は迂闊にこちらへ接近してはくれない。

 さて、そうなると、次の対抗策を打たねばならないが――


「こちらG1。アルファチーム、応答せよ……くそ、駄目か」

 意外にも相手は反撃という道を選んだらしい。しかも、アルファチームを示す二つのビーコンが一か所に留まったっきり動いていない。

「こちらG1。ブラボーチーム、応答せよ」

『こちらブラボーチーム、どうぞ』

「アルファチームが一瞬で無力化された。しかもこちらのGPSモニターを逆手に取ってくる。こうなった以上は電子端末が頼りにならない。これから俺も出撃するが、そちらも気を引き締めて対処に当たれ」

『了解』

 無線を切り、泰山は野崎夫人を残してバンから飛び出した。


 相手はアキレウスをちらつかせれば必ず後を追ってくる。彼らにとって紫月や龍也の存在は二の次で、本命はアキレウスでしかないからだ。

 なので、まずはアキレウスを残りの分隊の前に放ち、適当に走り回らせて彼らを疲弊させ、今度は潰れたスナックの最奥部に飛び込ませる。すると、連中はスナックの正面口手前で立ち止まり、周囲をつぶさに見回し始めた。

 あのまま馬鹿正直に店内に足を踏み入れはしないか。しかも、背後や頭上をお互いにカバーし合っている。

 おそらく奴らにも自分の仲間が倒されたという情報が既に届いている筈だ。だから尚更、こちらの戦力に対して疑心暗鬼の目を向けるようになる。周囲への警戒はより鋭くなり、神経はより過敏に反応する。

 それにしても彼らの構えには隙が無い。こちらから頭を出せば、即座に反応されて取り押さえられそうな予感がしないでもない。

 だから、どうした。

 紫月は自分に図太くなるよう言い聞かせ、アキレウスが入ったスナックとは対岸に位置する別の廃屋から躍り出る。

 警棒を装備した二人の元・SATが臨戦態勢に入る。

 いいだろう。銃を使わないなら、こっちにもまだ勝ちの目はある。

 相手の一人が正面から肉薄してくる間に、もう一人が紫月の斜め後ろに一瞬で回り込む。正面の一人が仕留め損ねても、後ろの一人が確実にこちらを取り押さえられるという算段か。

 上手い兵法ではある。だが、それはあくまで、普通の犯罪者に対してのみの話だ。

 紫月は背後から突き出された警棒の先を横に飛んでかわし、体を回転させて十手を横にひと薙ぎ、まずは一人目の横っ面を打ち抜いて昏倒させる。

 残りの一人が慌てずに正面から警棒を振りかざしてくる。こいつはいま倒したのと違って接近戦の手練れだ。まるで、アクション映画の殺陣さながらの身のこなしをこれでもかと見せつけてくれる。警棒による打撃だけでなく、手首や体勢の奪い合いも挑みにくるあたり、もしかしたらこいつは本物の格闘家なのかもしれない。

 でも悪いな。これならまだ――

「入間の方が、もっと強いんだよ!」

 逆手に持った十手を突き上げ、鉤で相手の警棒を絡めて奪い取り、左手にさっき押収した警棒を握り、鳩尾に思いっきり先端を叩き込んでやった。

 これで地べたに伏せる元・SAT隊員が二人。残りは隊長格の一人だ。

「本当に一人で倒しちゃいましたよ」

 スナックの奥から龍也がアキレウスを伴って現れた。アキレウスによる最初の奇襲が成功したのも、龍也にアキレウスの手綱を握る役割を与えたからに他ならない。

「ほんと、葉群さんって何モンなんスか」

「そいつを簡単に教えて良いモンか、ちょーっとだけ迷ってるんだわ」

「俺も知りたいな、君の正体を」

 もはや奇襲する気も失せたらしい。隊長と思しき三十代くらいの男が正面からゆったりとこちらへ歩いてくる。

 男は立ち止まり、脇に抱えていたタブレットをちらつかせながら言った。

「まさかこうもあっさり俺の部下を制圧するとは恐れ入った。このタブレットはもうただのガラクタだな」

「あんたが隊長だな」

「石谷泰山という者だ。以後よろしく」

 ここまで来て以後も事後もあるか、などと思ったのは忘れておくとしよう。

「良い事を教えておいてやろう。野崎夫人の旦那はGPS機器の製造を中心にしている中小企業の社長でね。よく高性能な位置情報端末を融通してもらってる」

 言われなくても知っている。黒狛探偵社や白猫探偵事務所が有する特殊なGPS関連機器は全てその会社が作っているからだ。

「ところで、一個質問だ」

「今度は何すか」

「野崎夫人は犬探しに探偵も雇ったと聞いている。君がその探偵かな?」

「え? 探偵!?」

 龍也の声が裏返る。

「探偵って……葉群さん、あんた探偵なんすか!?」

「…………」

 どうしよう。あまり周りに言い触らされたくない事案なんだけど。

「……もし俺がその探偵だったとして、あんたは俺の話を聞いてくれるのか?」

「事情を聞く気はあるし、君の目論見は大体把握している」

 どうやら話が分かる相手のようで助かる。

 泰山はやや呆れ気味に苦笑する。

「いまの彼女は所謂、『虎の威を借りた狐』という奴だ。ここで言う虎は俺達のことだから、俺達さえ倒せば狐たる野崎夫人を完全に黙らせることができる」

「人の話を聞かない奴にはこれが一番確実な手段ですよ」

「けどな、俺達にも面目という奴がある」

 安心するのも束の間、泰山が腰から特殊警棒を抜き出す。

「一介の未成年に戦争屋が四人も制圧された。これでは彼らのトップである俺の面目も丸潰れだ。ここまでやった君のことだ、俺の言っている言葉の意味、分かるよな?」

「やっぱりあんたも潰さなきゃ野崎夫人には辿り着けないって訳か」

「安心しろ、銃器は使わん。決着はシンプルな方が良い」

「仕方ない」

 紫月も腰を落とし、十手の先を前方に差し出す。

「やったろうじゃねぇか」

「あのー、葉群さん?」

「お前は犬と一緒にそこで待ってろ。すぐ終わらせる」

 紫月と泰山は大股で歩いて距離を詰め、互いの得物が届く間合いまで迫ると、早速十手と警棒の打ち合いを始めた。

 さっきの奴も大概だったが、石谷泰山とかいうこの男の警棒捌きは別次元だ。速さは然ることながら、体捌きも大柄な見た目からは想像もつかないくらい身軽で、一撃の重さは見た目通りの威力を体験させてくれた。

 一撃を十手で受ける度に腕が痺れる。防御のつもりが、直撃よりも性質の悪いダメージを負っている気がしなくもない。

 マシンガンのような乱れ突き、上から被せに来るような大振り、下段からの切り上げ、瞬転して回し蹴り。どれも捌き切るには骨がいる。

 圧倒されているのは、やはり紫月の方だった。

「やるじゃないか」

 打ち合いの最中、泰山が涼しい顔で評価する。

「どうだい、うちの会社に鞍替えするというのは」

「どうせむさくるしい野郎共の集まりなんだろ? 絶対に嫌だね!」

 この野郎、舐めやがって。こっちは喋る暇すら与えられていないというのに。

 でも、残念ながら見下されても仕方ない戦況だ。あちらは余裕を保っているのに対し、こちらは徐々に疲弊して反応も鈍っている。

 SATは銃の扱いだけの連中じゃないのかよ――と、弱音を吐きたくなる。

 いっそ、このまま倒されるのもアリなんじゃないか? という脆弱な思考が腹の底から喉の中間まで上がってきた。

 よく考えてみれば、この男はこちらの話を聞く気ではいると明言しているのだ。つまり、紫月が倒されようが倒されまいが、何なら降参しようが、泰山を通して野崎夫人を説得することも可能なのだ。その際に依頼の関係もあって紫月の正体を彼女にバラさなければならないのは痛いが、場合が場合なので仕方ないと割り切るしかない。

 だから、ここでわざと相手に気持ちよく勝たせるのも、アリなんじゃないのか?


   ●


「……おっそいわねぇ」

 杏樹は自分の執務机でお茶を飲みながら煎餅をかじり、卓上の電波時計をちらちらと見遣った。現在時刻は既に夕方の四時半を回っている。この時間には仕事を切り上げて帰ってくるように紫月には言っておいてあるのだが、果たして彼は何処で道草を食っているのやら。

 ため息をつくと、玄関口の扉が開かれる。

「あ、紫月く――なーんだ、玲か」

「何ですか? その残念そうな反応は」

 二十代半ばの細身の女性が、杏樹の反応を受けて頬を膨らませる。

 彼女は美作玲。紫月と同じく、杏樹の部下の一人だ。

「ねぇねぇ、玲。どっかで紫月君の姿を見なかった?」

「見なかったですけど……彼がどうかしたんですか?」

「この時間には帰ってこいって言った筈なのに、まだ戻ってないんだよー」

「紫月君にしては珍しいですね。あ、そういえば……」

 何かを思い出したようで、玲が天井を見上げながら述べる。

「さっきヘリコプターが彩萌体育館の近くに着陸したとかで騒ぎになっていたような……」

「彩萌体育館ですって?」

 嫌な予感がさっそく杏樹の脳裏に浮かび上がった。

「それっていつの話?」

「一時間半ぐらい前じゃないですかね」

「紫月君が仕事で丁度そのあたりにいる筈なのよ。でも、さっきから何度電話を掛けても出なくって……」

 落ち込みかける直前、卓上の固定電話が甲高い電子音を奏でる。もしかして紫月か?

「もしもし、こちら黒狛探偵社」

『白猫探偵事務所の蓮村だ』

 よりにもよって彩萌市内に存在する商売敵からの電話だった。

「何の用? いまはそっちに構ってる余裕なんて無いんだけど」

『早急に確認したいことがある。そっちの方でいま、黒いドーベルマンを探しているとかいう客の依頼を受けてはいないか?』

「そっちも探偵なら分かるでしょ? 客や依頼の情報をそう簡単にベラベラ喋る訳にはいかないの。駄目駄目! 髭を剃って出直してきなさい!」

『そうか。せっかく相互利益に繋がる交渉を持ちかけてやろうと思ったのに』

「はあ?」

『まあ、たしかにそっちの言う通りだ。私が悪かった。時間を取らせたな。では――』

「待て! ちょい待って!」

 何故だろう。いまここで話を終わらせたら、何かの全てがパーになるような気がした。

『何だね? 私の用件はこれで終わりだが』

「その話、詳しく聞かせてもらえる? こっちも情報を開示するから」

『この私が客や依頼の情報をそう簡単に喋ると思うか? 君も探偵なら分かるだろう? 女性ホルモンを摂取して出直してこい』

 腹立つ! すっげぇイラっとする! ていうか最後のは絶対にただのセクハラだ!

「……あんた、次会ったらバリカンで髭と頭剃ってパーフェクトハゲにするから」

『勝手にするがいい。それより、さっきの話だが――』

 本当なら客の情報を取り扱って行われる他社間の交渉はタブーなのだが、今回の案件は場合が場合なので、レッドゾーンに踏み込む甲斐性も必要だ。

 案の定、話し合って正解だった。しかも、悪いのは全て白猫の方だったりする。

「あんたねぇ、そんな大事なことを三日間も黙ってたの!?」

『私も迷ったのだ。何せ青葉が――』

「言い訳しないっ! とにかく、このことを早く野崎夫人とうちの社員に報せないと大変なことに……」

『大変なことなら既になっている』

「は?」

『黒いドーベルマンを連れた十代半ばの少年が、廃棄区画の真ん中で何者かと交戦中らしい。その様子を覗き見していたうちの部下によると、少年の相手はこの地域で最近設立された民間警備会社の社長だ』

「嘘ぉ!?」

 何がどうなっているのかはサッパリだが、少年の方は十中八九、紫月で間違いない。

『もしかしてとは思うが、その少年は――』

「私、ちょっと行ってくる!」

 有無を言わさず電話を切り、杏樹はオリーブ色の上着と玲の手を引っ掴んで事務所を飛び出した。

「ちょっと、社長!?」

「車を出しなさい! すぐに紫月君を回収するの!」

「この後買い出しの予定が……」

「それはもう私が用意しておいたから。ほら、さっさと行く!」

「せっかく依頼の仕事から帰って来たのに……社長の鬼! 悪魔! 私を休ませろ!」

 何とでも言うがいい。会社を背負う以上は、そう呼ばれるのも覚悟の上だ。


   ●


 このままでは、作為的であろうとなかろうと絶対に負ける。上がった息と右手の痺れが、紫月の危機を雄弁に物語っていた。

「さすがに限界か」

 対峙する泰山が腕で額の汗を拭う。

「ここまでやる相手なら、俺の部下が負けるのも無理はないか。さっきは面目がどうとか言ってしまったが、これなら俺も納得だよ」

「何を勝った気でいやがる……!」

 痺れや痛みに負けず、紫月はさらに十手の柄を深く握り込む。

「潰すと決めた相手は必ず殺す。最後の最後まで、倒れるまで」

「そうまでして戦う理由はもう無い。そっちの話も聞くから、ここは両者痛み分けということには――」

「断る」

 紫月は右足を一歩だけ踏み出した。

「俺は絶対に、自分から負けやしない」



 生まれながらにして負けている者はたしかに存在する。それがどういった種類の人間かは明言を避けねばならないが、それでもいるにはいる。生まれながらに勝っても負けてもいない者、生まれながらの勝者には言い訳がましく聞こえるかもしれないが、生まれながらの敗者からすればそれが現実である。

 問題は、その現実に悲観して塞ぎ込むか、その現実に対して反旗を翻すか。

 俺はそのどちらも選ばなかった。

 選ぶ代わりに、生まれ直したからだ。

「どうします? あの子」

 預けられた施設のとある一室で、警官二人と施設の職員一人が困った様子で話し合っている。内容は、両親からの虐待に遭ったところを保護された、とある子供の処遇である。

 その話を扉越しに覗き聞きしていた幼年期の紫月は、話に出てきた問題の子供が自分であると察していた。

「もうこの施設に子供を迎え入れるキャパは無いって聞きましたが……」

「そうなんですよ。でも、他の施設だって大体似たり寄ったりでして」

「こういうご時世ですからねぇ。訳有りの子があまりにも多すぎるんです」

「誰か里親さえ見つかってくれたなら……」

 自分一人の存在の為に、三人の大人を困らせている。子供心ながらに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「……おれのせいだ」

 こんな自分なんて、いなくなってしまえばいい。

 紫月は特に深く考えず、何も持たないで施設を飛び出した。お金も食べ物も水も無く、ひたすら歩き続けた三時間はまさに苦行だった。

 でも、あんな家で生まれた自分が悪いから、決して文句は言えない。

 父親は絵に描いたようなギャンブル三昧で、母親も他の男から金を貢がれてブランド物のバッグを買い漁ったり、夜な夜な近隣のホストで豪遊して金を溶かしていたらしい。それに、生活保護と称された国からの小遣いを不正受給していた疑いもある。

 クズの理想を体現した両親がこさえた子供。それが葉群紫月――いや、当時は名前すら与えられていなかった。役所に出生届すら提出していないので、御上から何度も査察が入りそうになったが、奴らはその度に適当な理由を付けて紫月の存在を誤魔化していた。

 明らかなネグレクトだ。これが最近、ついにバレて、両親は逮捕された。

 これは紫月がまだ、五歳の頃の話だ。

「あら、子供が落ちてる」

 小柄で童顔な女が、大きな目を丸くして不思議そうに紫月を見下ろしている。

「おーい、少年。生きてるかえー?」

 見れば分かんだろ。気づいたら倒れてたんだよ。

 でもまあ、もう助かりはしないし、最後にこんな薄汚いボロ雑巾の顔を見物しに来てくれる人がいるだけありがたいと思うべきか。

「返事が無い。ただの屍のよーだー……なーんてね。まあ、これも何かの縁だし? あなた、うちの子にならない?」

 何を言ってるんだ、この女は。

「あたしさ、ついこないだ旦那と離婚しちゃったばっかりで、子供もまだ産んだことが無くてさー。まあ、最初に持つ子供にしちゃあ、ちょっと大きめかもしれないけど? とりあえずさ、たっぷり寝て、たっぷり食べてから話し合おうよ」

 女は勝手に紫月を背中に乗せて、近くに停めてあった車の後部座席に横たえると、運転席で眠たそうにしていた大柄な髭面の男に意気揚々と命じた。

「轟君、GO!」

「そのガキをどうする気っすか? 俺には誘拐の片棒を担ぐ気はありませんよ」

「あたしの子供にするっ!」

「はあ? いや、近くに福祉施設があるでしょ」

「分かってるって。まずはそっちに連絡するけど、そういう施設は里親を募集してるもんでしょ?」

「だからって、落ちてた子供をそのまま拾ってく奴がありますか?」

「つべこべ言わずにとっとと発進する!」

「はいはい」

 車が発進すると、すぐに杏樹がペットボトルの水を紫月に手渡した。

「喉乾いたでしょ? ほら」

「…………」

 礼も言わずに、受け取った水をがぶ飲みする。

 いまにして思えば、俺は『ありがとう』の使い方も分からない子供だった気がする。

「良い飲みっぷりね。将来有望よ、あなた」

「……お姉さん、だれ?」

「あたしは池谷杏樹。通りすがりの探偵よ」

「あんじゅ? たんてい?」

 人の名前としては珍しいし、『たんてい』という単語も初めて聞く。

 そもそも、産みの親があの調子だったので、知識や教養は無いに等しいのだ。

「探偵ってのは、探し物が得意な連中のことさ」

 運転中、轟と呼ばれた男が答える。

「何かを見つけたい誰かの願いを叶える。いまは分からんかもしれんが、いずれはちゃんとそれが分かる時が来るだろ」

 あの時は彼らの言葉の意味を半分以上も理解していなかった。

 でも、いまになったら、少しだけ分かってきた気がする。

 車窓から見えた月をぼんやり見上げ、紫月は呟いた。

「……月」

 ちょっとした直感で、紫月は探偵を月明かりに例えた。

 世界の色を鎖した暗闇に差す優しい光。それは、杏樹の笑顔みたいに眩しかった。



 俺はあの時から生まれ直したんだ。あんなクズ共のキンタマと子宮から這い出てきた薄汚い名も無き子供から、池谷杏樹率いる黒狛探偵社の探偵・葉群紫月として。

 だからこそ、どんな状況にあっても、自分から諦める訳にはいかない。

 負け続けていた意味を、恐怖を、誰よりも知っているから。

「俺は誰にも負けやしない。自分にも、あんたにも」

「……いいだろう」

 泰山は再び面持ちを引き締めて警棒を構えた。

「来い、坊主」

「坊主じゃない」

 大股で、踏み出した足の裏でしっかりと地面を踏みしめる。

「俺は黒狛探偵社の、葉群紫月だ!」

 鋭い踏み込みで泰山に肉薄、既に使い物にならない筈の右手に最大の力を込めて十手を振りかざす。不思議なことに、今度は相手が防戦一方だった。

「さっきより速い……!?」

「うおああああああああああああああああああああっ!」

 大気を裂かんばかりの雄叫びを喉から絞り出し、何度も何度も、全力で十手を振るい続ける。

 気持ちでは絶対勝ってると思い込め。それさえクリアすれば、あとはそれぞれの実力差と体力の残量が勝負を決める。さっきまでは相手の攻撃を凌ぐ方策に集中していたが、右手の限界がそろそろ近いので、体力を温存する必要はもう無くなった。

 これがいまの紫月が発揮し得る最大戦速だ。

 いつまで持つかは知らないが、こっちがぶっ倒れるまでに相手をぶっ飛ばす!

「舐めるな!」

 泰山の警棒が水平に大振りされ、咄嗟に盾にした十手に直撃。紫月は体勢を崩して地を転がるも、すぐに立ち上がって前方に跳躍。十手を全速力で突き出した。

 手から十手が弾かれて宙でくるくる回転する。泰山が手元も見せない速さで打ち払ったのだ。

 勝負は決まった――泰山が瞑目しかけたその時、紫月の口角が釣り上がった。

「なっ……!?」

 泰山にも見えていただろう。

 いつの間にか紫月の両手に装備された、一本ずつの警棒が。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 両手をそれぞれ斜めに一閃させ、X状の打撃を泰山の胴体に直撃させた。

 足を宙に浮かし、彼はそのまま重々しく仰向けに倒れ込む。

「……そうか。あの時」

 どうやら察しがついたらしい。紫月が持っている二本の警棒は、最初に倒したツーマンセルの片割れと、最後に戦った部下から押収した代物だ。さっきから十手しか使っていなかったので、隠し持っていたのを知っていながら全然意識していなかった。

 泰山はふっと笑って宣言する。

「完敗だよ、通りすがりの探偵さん」

「そりゃどうも」

 憮然として答えるも、ふらついてしまったから様にならない。

「葉群さんっ」

 駆け付けた龍也が紫月の体を支える。

「大丈夫っすか?」

「ああ。それより、野崎夫人に――」

「ちょっと、これってどゆこと!?」

 どういう訳か、杏樹と玲が慌ただしくこちらに駆け寄って来た。

「何がどうなったらこんな状況を作り出せんのよ!」

「社長、あんた何でここに?」

「とんでもないことが分かったから、泡を食って飛んできたのよ」

「とんでもないこと?」

「野崎夫人に合流しましょう。話はそれからよ」

 たしかに、依頼主と対面しないことには始まらなかった。



「これはどういうことですの?」

 バンの外に出た野崎夫人が目の前に並んだ面々を睥睨する。

 彼女が不機嫌になるのも無理は無い。長い時間待たされた挙句、何故か黒狛の社長が玲を伴い、紫月と龍也とアキレウス、それから今回この騒動に駆り出された五人のPMC社員を引き連れて押しかけてきたのだから。

 まず、杏樹が必死の弁解をする。

「えーっとですね、まずは誤解を解いておきたいんですけど、そこのスキンヘッドの彼は本当にただの高校生でした。さっき生徒手帳も確認しましたし、間違いないです」

「ど……どーも」

 龍也が微妙な笑みで会釈する。

「で、火野君と居合わせたそこの彼も無関係の一般人でした。そのあたりで不幸な行き違いが起きて、訳も分からないまま葉群君とPMCが戦闘になってしまい……」

 理由は言わずもがな、これについては前半部分が嘘っぱちである。

「黒狛四号からこれらの事態を知らされて、私が彼らとPMCの方々の仲裁に入って、ようやく事態が沈静化したんです」

 これは頭の先から爪の先まで完全なる虚実である。

「そんなことはどうでも良いのよ」

 野崎夫人があっさりと一蹴する。酷い女だ。

「それより、アキレウスに怪我させたりしてないでしょうね?」

「それなんですけど……」

 杏樹が龍也の足元で伏せっているアキレウスを横目に見遣り、何やら言いにくそうにしている。ここから先の話は、紫月どころかPMCの社員達すら知らない。

「アキレウス君はオスでしたよね?」

「それが何か?」

「この犬、メスなんですよ」

「は?」

「何?」

 これには野崎夫人や紫月だけでなく、龍也や泰山達も驚愕した。

「それから、よく見てください。この犬が首に提げているIDカプセル。これは中を開ける為に爪楊枝みたいな細いものを鍵みたいに挿して空けるタイプなんですよ」

「あら、本当!」

 野崎夫人が目を丸くして、片手で口元を押さえる。

「おそらくこのIDカプセルは特注品でしょう。私の聞き違いで無ければ、アキレウス君が持っているのは百円均一のカプセルだった筈です」

「じゃあ、この子は別の人のドーベルマンってこと? じゃあ、本物のアキレウス君は?」

「白猫探偵事務所の社員が預かっているそうです」

 玲が杏樹の説明を引き継いだ。

「実は弊社と全く同じタイミングで、本件と似たような依頼を白猫側も受けていたらしくて、その子は多分、白猫に依頼した方が探している犬ではないかと」

「すると何か? 黒狛と白猫に依頼した人が探していた犬を、それぞれが一頭ずつ入れ違いで預かっていたってことですか」

 要略すると、泰山がいま言った通りだ。

「だとしたら変な話っすね」

 龍也が素朴な疑問を提示する。

「さっき黒狛の社長さんから聞いたんすけど、アキレウス君が失踪したのは三日前でしたっけ? じゃあ、白猫がアキレウス君を保護したのはいつの話っすか?」

「そこに気付いちゃったか」

 杏樹が渋い顔をする。

「そうなのよ。あっちの話だとアキレウス君が保護されたのは失踪直後らしくて、それまでの間、ずーっと事務所内で匿ってたらしいのよね」

「私に連絡せずに三日間も!?」

 野崎夫人が予想通りの反応を示す。

「何ですぐに私に報せなかったのよ!? IDカプセルにはちゃんと私の住所と電話番号が書いてあったのに!」

「それが……」

 杏樹がその事情を説明した後、この場に居たほぼ全ての人間にどうしようもない脱力感がのしかかってきた。


   ●


 白猫探偵事務所のオフィス内は、いまやちょっとした犬小屋と化していた。

 部屋の隅に置かれたデオシートと、床に散乱する小さなサッカーボールなどの玩具類、それから犬専用のドライフードがもりもり注がれた大きな皿。

 これら全てを、白猫のエースこと、貴陽青葉が瞬く間に買い揃えてしまったのだ。

 理由は、彼女とじゃれている黒いドーベルマンにある。

「ここ三日間、珍しく楽しそうだな、青葉の奴」

「あれは顔に出さないだけで、いつも人生を楽しんでいる奴だ」

 社員の野島弥一が、青葉の様子を遠巻きに眺めながら社長の蓮村幹人にぼやく。

「つーか、ここはペットショップでも保健所でもねぇんだぞ」

「分かってる。でも犬の方がIDカプセルを触らせてくれないのでは飼い主と渡りをつけようもない」

 学校帰りの青葉が出勤と共に黒いドーベルマンを連れてきた時は、さすがの幹人も飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになった。しかも自分で面倒を見るつもりなのか、両手一杯に犬用のお世話用品を抱えていたのだ。

「青葉によると、帰り途中に黒いドーベルマン二匹が追いかけっこをしていたらしい。だが追いかけられていた方の姿を途中で見失ったそうで、残された一頭を興味本位で連れて帰ってきたらしい。そこで私はあの犬の首にぶら下がったIDカプセルを取り出そうとしたんだが、こちらが手を伸ばす度に何故か爪で引っ掻いてくるのだ」

 幹人がガーゼで覆われた右手をこれ見よがしにぷらぷらさせる。

「だから最初は保健所に預けようと思ったんだが、今度は青葉の方があの犬を痛く気に入ってしまった。これではさすがに私もお手上げだ」

「でもこいつの飼い主とは連絡がついたんでしょ?」

「たまたま黒狛が似たり寄ったりの依頼を受けていたのが幸運だった。あっちのご夫人にもこっちのお嬢様にも既に全ての事情は報告済み。これでゲームセットだ」

 何にせよ、これで黒いオスのドーベルマンこと、アキレウスは一時間か二時間もしないうちに本来の飼い主のもとへ返される。

 しかし、この件に関して幹人には少しだけ負い目があった。

「よーしよし、良い子だ」

 青葉がアキレウスを抱きすくめて背中をわっしゃわっしゃと撫でまわす。

「今度、私の友達を紹介してやるからな。葉群紫月といって、あれはとても良い奴だ。きっとお前ともすぐ仲良くなれるぞー」

「…………」

 下手に三日間も保護したせいか、拾った当人である青葉の愛着が無駄に深くなってしまった。そんな彼女からアキレウスを取り上げるのは少々心が痛む。

「うわっ!?」

 何かと思ったら、アキレウスが青葉を自らの下に組み敷いて、彼女のお腹の上に馬乗りになっていたのだ。舌を丸出しにして息を荒げているあたり、アキレウスの方も無駄に青葉を気に入ってしまったらしい。

「やめろコラ、そんなにべろべろ舐めたら……ってオイ、腰を振るな!」

 アキレウスが青葉の首筋やうなじを興奮気味に舐めている。これを人間同士のじゃれ合いに置き換えると、中々キマっている絵面に見えて困惑してしまう。

「……やはり、飼い主に連絡して正解だったな」

「ですね」

 幹人と弥一はそれぞれ半眼でアキレウスを見下ろし、

「こらこら、いい加減にしろっ……! 私に獣●の趣味は無い!」

 やめろと言いつつ、青葉は終始楽しそうにしていた。


   ●


「今日はマジで死ぬかと思った……」

 黒狛探偵社のオフィスに戻った紫月は、応接間のソファーにどっかりと腰を落とし、ようやく自らの体に蓄積された疲労の重たさを全て自覚した。

 最近は体内のアドレナリンをフル回転させる仕事が何気に多い。今日の戦闘といい、先日の入間との一騎打ちといい、いずれも生半可な体力ではこなしきれない仕事ばっかりだった。

「ところで、何であんたらが一緒なワケ?」

 紫月は対面のソファーに並んで座っている泰山と龍也を見遣った。

 龍也が肩身を狭そうにして答える。

「いや、だって、ここの社長が俺達に話があるっていうから」

「右に同じ」

 泰山が頷くと、玲が三人の前に温かい緑茶が入った湯呑みを差し出す。

 ややあって、杏樹がこちらに歩み寄ってきた。

「今日はいきなりお呼び立てしてすみません」

 杏樹はまず、龍也と泰山に頭を下げる。

「石谷さん、火野さん、あなた達に折り入ってお願いがありまして――」

「葉群君の正体についての話でしょう?」

 泰山がいち早く察してくれた。

「彼にどういった事情があるのかはさておき、恥ずかしながら私は彼に敗北してしまいましたからね」

「その節はうちの葉群が本当に申し訳ないことを――」

「今回はあなたと葉群君が悪い訳じゃない。大丈夫。我々は葉群君の正体に関するあれこれについて深く詮索する気は無いですし、彼が黒狛の探偵であるという事実についても周囲に公表するつもりはありません。何ならここで誓約書を書いても構わない」

「お気持ちだけはありがたく頂戴します。そこまで言っていただけるなら、弊社としても信用しない理由がありませんし」

「俺も黙っておきます」

 龍也も大真面目に答える。

「ほら、どうせ葉群さん、同年代に秘密を知る人なんていなさそうですし」

 言われてみればそうだ。ただでさえ友達が少ない上に、最近親しくなった貴陽青葉ですら紫月の正体を知らないのだから。

「一人ぐらいそんなんがいたってイイじゃないっすか。だから、俺も秘密にしておきます」

「火野君、君は何てイイ人なんだ」

 外見の恐ろしさと反比例する人の好さだ。やっぱり人を見た目で決めつけるのはあまりよろしくないのかもしれない。

 でも、野崎夫人だけは別か。あれは見た目通り性格もケバい。少なくとも、紫月の正体を明かしたとして口を噤んでくれる可能性は無いに等しい感じがする。

 杏樹が弛緩しきった表情を見せる。

「良かったぁ……二人共、秘密を守ってくれそうな人達で」

「運が良かったっすね」

「紫月君はもうちょっと反省なさい。おかげで面倒が重なって大変だったんだから」

「まあ、終わり良ければ全て良しって言うじゃないっすか」

「まったく……あ、そうだ」

 杏樹はけろりと切り替えたように告げる。

「実は仕事終わりにこの事務所で鍋パーティーをしようかと思ってるの。ほら、今日は轟君が退院してくる日でもあるし!」

「ああ、そういえば!」

 色々あってすっかり忘れていたが、一か月前の戦闘で重傷を負った黒狛の従業員、東屋轟の退院日は丁度今日だった。

「玲がいま車で迎えに行ってるし、その間に作っちゃいましょう。実は具材の下ごしらえはもう済ましてあって……あ、石谷さんと火野君も一緒に如何ですか?」

「いいんすか? やった!」

「ならば、是非ご相伴に預からせていただきましょう」

「よし、決まりね!」

 杏樹は意気揚々とキッチンに向かい、冷蔵庫から下処理を済ませた具材を、そして水道下の棚から土鍋とカセットコンロを引っ張り出した。

「紫月くーん、ちょっと手伝ってー」

「俺、さっきの戦闘で利き手が使えないんすけどぉ」

「あ、じゃあ俺が行きますわ」

 まだ元気が残っていたらしい、龍也が代わりにキッチンへ向かった。

 楽しそうに料理に打ち興じる二人を見て、泰山が緩み切った笑みを見せる。

「なるほど、池谷杏樹に育て上げられた秘蔵の探偵、か。どうりで君は優秀な訳だ」

「そりゃどうも」

「依頼で困ったことがあったらうちの会社を頼るといい。俺の部下も君のことは認めている訳だし、きっと喜んで手を貸してくれる」

「その機会、あんまり来て欲しくないっすね」

「どうして?」

「あなた達と組む機会があるとすれば、そりゃドンパチの中でしか有り得ませんし。俺、こうみえて平和主義者なんですよ」

「なるほど」

 黒狛探偵社のあるべき姿は、池谷杏樹の人とナリが雄弁に物語っている。

 泰山も、どうやらそれに気付いたらしい。

「たしかに。そういう会社なんだろうな、ここは」

 戦争屋集団のトップは、全てに得心がいった様子で頷いた。


                          第四話 黒犬パラドクス おわり

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