『通りすがりの探偵』編

第5話 木枯らしの子


   #1「木枯らしの子」



 夕方の東京湾は騒然とした空気に包まれていた。

 たったいまクレーン車が海中から引き上げた一個のドラム缶が事の発端だ。ついさっき東京湾の海底を清掃していた関東地方整備局の船が見つけた代物なのだが、問題はドラム缶そのものというより、想定されている中身の方だった。

 錆だらけのドラム缶の口はコンクリートで平らになって塞がっている。これでは中身を確認しようが無い。

「どうするよ、これ」

 操縦士が腕を組んで唸った。

「中に絶対何か入ってるだろ」

「女子高生コンクリート詰め殺人事件を思い出しますな」

 クレーン車を貸してくれた重機会社の責任者が渋い顔をする。

「しかし、如何いたしましょう。警察に通報するにしても中身が分からないんじゃ……」

「でも、これが不発弾の類だったら下手に中を割る訳にもいかんしなぁ」

「悪趣味なモニュメントの不法投棄、という風情でも無いですしな」

「取り越し苦労ならそれで良し。そうじゃなかったら世紀の大発見。どっちにしても疲れる話だよ、全く」

 操縦士は躊躇いつつもポケットのスマホに手を伸ばした。

 この時、現場の人間は思いもしなかっただろう。

 海の底から発掘した不気味な物体が、想像を絶する大惨事に繋がっていたとは。


   ●


 県立彩萌第一高等学校の教室の片隅で、葉群紫月は教室内全体の様子を虚ろな瞳で眺めていた。

 教卓に近い位置で男女五人が騒がしく何かを話している。何の話題かは別に興味は無いが、あれが世に言う『リア充』のグループで、スクールカースト最上位に君臨するエリート予備軍であることはまあまあ理解している。

 出入り口に近い席ではPSPを両手に卓を囲む三人ぐらいのオタク集団がポリゴン世界のモンスターを協力プレイでハントしている。今日はバイトが休みだから俺も混ぜて欲しい。あ、そういやPSPを家に置いたままにしてたんだった。

 仕方ない。今日は寄り道せずに帰宅して今日出された課題を終わらせちゃおう。

「あゆちゃんって、何でそんなにスタイルがいいの?」

 リア充集団の女子が、対面している一人の女子に問いかける。

「あたしなんて、最近ウェスト絞ろうって努力してんのにさ、全く痩せなくて……」

「ウェストを絞る?」

 話題の的、東雲あゆ(漢字表記は東雲東風)は、天井に視線を泳がせた。

「誰かに雑巾みたく絞ってもらってるの?」

「ぶはっ、超ウケる」

 あゆの発言をギャグだと思ったらしい、取り巻きの連中が一斉に噴き出した。

「それで痩せたら誰も苦労しないよー」

「東雲って本当に冗談が好きなんだな」

「だよなー」

 至極常識的な反応だった。しかし、こちらから言わせれば、ギャグと思われたその発言はある意味天才的な皮肉に聞こえる。勿論、彼女に悪気が無いのは明らかだが。

「つーか、東雲さんって彼氏とかいないの?」

 ムードメーカーらしき女子が妙な方向に話題を変える。

「いないよ? 何で?」

「じゃあ、夏休みとか何してたの?」

「夏休みに彼氏って出来るもんなの?」

 これにはさすがにリア充集団の男女も絶句する。

 ふむ、たしかに。彼女の疑問にも一理ある。高校生と大学生によくありがちな話だが、恋人は夏休みにコウノトリが運んできて当たり前みたいな神経の連中が割と多い気がしてならない。この例えを借りるなら、モテない連中は皆、コウノトリは猟友会に射殺されているようなものだと苦言を呈したい。

 いち早く驚愕から醒めた女子が訊ねる。

「……あゆちゃんってさ、男子から告白とかされたことは無いの?」

「無いよ。何で?」

「何でって……文化祭のミスコンにも入賞した奴が何を言うかっ。彼女候補として他の男子から引く数多でしょうに」

 今度は彼らの疑問に共感した。

 小麦色の肌にすらりとした健康的な手足を持ち、端正かつ愛嬌のある小顔を持つ彼女は、どことなく愛くるしい猫なんぞを連想させる。基本的に誰とでも分け隔てなく接し、無邪気という三文字をそのまま性格として体現する彼女を、大抵の男達は恰好の標的として見るだろう。

「ほお。みんな、そんなに私が好きなのかー。照れちゃうなー」

 当の彼女がこうも無自覚なのは少々問題な気もする。

 紫月が軽く呆れ返っていると、こちらの視線に気付いたらしい、あゆが一定のテンポでステップを踏んでこちらの正面に躍り出てきた。

 何の用ださっさと失せろと思った矢先、あゆは次の瞬間、信じられない発言をした。

「葉群君。君は私のこと、どう思う?」

「は?」

「ちょっと!?」

 ムードメーカー系女子が慌てて仲裁に入ってきた。うぜぇ。

「あんたって子はいきなり何てことを……」

「いや、だって。みんなの言ってることが本当なのか、ちょっと試してみたくなっちゃって」

「だからって葉群君はちょっとやめた方がいいって……!」

 失礼な奴だ。俺のどこが駄目なの? 懐の十手で叩き殺してやろうか。

「何で? 葉群君ってそんなにヤバい人なの?」

「ヤバいっていうか……そういう奴らとつるんでるって噂が……ていうか、明天女子高の子を手籠めにして遊んでるっていうし、ヤクザみたいな奴とも黒い繋がりが……」

「聞こえてるぞ」

 紫月がようやく反応をしめすと、彼女はしゃっくりみたいな呻きを上げる。

「ヤバい連中とつるんでるのは否定しないけどな」

 主に黒狛探偵社の連中だ。たしかに、世間一般的な高校生の観点から見ると、彼らはある意味に於いてトップクラスの危険人物達にカテゴライズされる。揃いも揃って良識人ではあるのだが、蓋を開ければ軍隊一個小隊を壊滅させかねない精鋭揃いだ。

 でも、それ以外の奴ら――貴陽青葉と火野龍也に関する憶測だけは許容出来ない。

「明天の子もヤクザみたいな外見の奴も普通に俺の友達だ」

「そ……そう……なんだ」

「面白い奴らだから、今度紹介してあげようか?」

「え……遠慮します」

「そう。じゃ、また明日」

 紫月は何食わぬ顔で教室を出て、真っ直ぐ昇降口まで降り、靴を履き替えて外に出た。特に待ち合わせている友人がいる訳ではないし、そもそもこの学校では未だに友人を一人も作っていないので誰かと歩幅を合わせる必要も無い。このまま何も考えず帰宅するか、もしくは明天女子校の近くで青葉を待ち伏せするか、あるいは最近新しく出来たもう一人の友人と帝沢付近で時間を食い潰すか。迷うところだ。

 歩きながらぼんやり考えていると、紫月はふと、後ろを振り返った。

 なんか、少し離れた位置から、こっちをめっちゃガン見している奴がいる。

「じー」

「……………………」

「じじー」

 口にせんでも、じっと見つめられているのはよく分かった。

「東雲さん。何か用?」

「まだ質問の答えを聞いてない」

「残念ながら俺にはもう心に決めた相手がいるもんで、君の容姿を見ても感じるところなんて特に無いからまともな答えを得られないと理解したなら早々に諦めろ、以上」

 とりつく島を与えてやる気は無い。何故なら、あまりこの学校の連中とは過干渉を起こす気が無いからだ。自分の正体を知る同年代の人間をあまり増やす気にもなれない。

 だが、思ったよりしつこい性質だったらしい、あゆが再びこちらの正面に回り込んだ。

「東雲さん。あんまりしつこいと如何に君が可愛くても男はドン引きするぞ?」

「いいじゃん。もしかしたら童貞卒業できるかもよ?」

「いま段階をいくつすっ飛ばした!?」

 世の女子高生はこうも貞操観念が緩いものなのだろうか。というか、あどけない顔をしていきなり破壊力抜群の一撃をぶちかますとは、こいつはもしかしたら青葉と同等かそれ以上の際物かもしれない。

 あゆはこれまた何事も無かったかのように振舞う。

「冗談冗談。びっくりした?」

「ああ、そうね。これが冗談じゃなかったらいますぐ襲い掛かってるくらいには」

「すげぇ。そっちはそっちでグレネードランチャー並みに飛躍したよ」

「男なんてのはそういう生き物デス」

 あれ? なんか俺、普通に会話しちゃってる? どうすんの? このまま馴れ馴れしくしていると、また俺の周囲に変人が一人増えちゃうよ? ――などと思いつつも、決して忌々しい気分にはならなかった。自分も人のことは言えないからだ。

紫月が内心でやや戸惑っていると、ポケットのスマホが微弱に震動する。

 メールだ。送り主は紫月の後見人である池谷杏樹で、用件の欄には『ロールケーキ買ってきて!』という気の抜けた一文が記載されている。

 詳細はこうだ。


 最近新しく彩萌第一の近くに出来たスイーツのお店で発売された新作ロールケーキがめっちゃウマそうなの! 帰りがてら買ってきて!


「俺、今日休みなのに」

 紫月の表向きの仕事は探偵事務所の小間使いだ。だから社長である杏樹からよくパシリにされるのだが、まさか休みの日にお遣いを頼まれるとは思ってもみなかった。

 まあいいだろう。問題の品物を会社に届けて、すぐ帰宅すれば良いだけの話だ。

 スマホをポケットに仕舞い、紫月は改めて周囲をぐるりと見回した。気づけば人気の無い学校の裏手まで来てしまっている。さっきまであゆを振り切ろうとして歩いているうちにここまで辿り着いてしまったらしい。

 それにしても、どうしよう。面白そうな奴を見ると放っておけないという悪い癖が、東雲あゆという新たな変人を前にして再び発動しようとしている。

「東雲さん。とりあえず、学校出る?」

「うん」

 とりあえず帰ろうと一歩足を踏み出し――爪先の手前に、黒光りする硬質の何かが突き刺さった。

「……クナイ?」

「これ、まさか……」

「? 東雲さん、これが何かご存知で――」

 地面から引き抜いたクナイを矯めつ眇めつして首を捻っていると、今度は薄暗い影が自身を覆い尽くしていることに気付いた。

 ふと見上げると、紫月の網膜にとんでもない映像が焼き付けられる。

「ぐぼっ!?」

 全てを悟った時には何もかもが遅かった。ついさっき視界一杯に広がっていた暗黒にも似た何かが、紫月の鼻面を土台に軽々と頭上に跳躍したのだ。

 普通に痛い。一戸建ての二階の窓から花瓶でも落とされた気分だ。

「ぐわっはっはっはー!」

 手近な木の上に降り立った人物がしゃがれた嬌声を上げる。

「あゆ! また遊びに来てやったぞいっ!」

「お祖父ちゃん!」

 何から突っ込んだら良いか分からないが、あゆからお祖父ちゃんと呼ばれたその人物の格好は、少なくともこの時代においては場違いも良いところだった。

 簡潔に説明するなら、あれは深い紺色の忍装束である。あんなものをこんなところで着てハッスルしちゃうような人間は、大抵の場合、二種類に分けられる。

 病的なコスプレイヤーか、あるいは本物の変態である。

「何なんだ、あの爺さん?」

「あゆ! 最近のお前はたるんでおる!」

 紫月をガン無視して、変態忍者があゆを指差して喚き立てる。

「最近帰りが遅いから何をしているのかと思っていたら、まさかそのような冴えない洟垂れ小僧と人気の無い場所でしっぽりしけこんでいたとはな! 見損なったぞ!」

 関係無いのに酷い言われようだった。涙が出ちゃいそうだ。

「だからって学校まで乗り込んで直接奇襲しに来なくたっていいじゃん!」

「だってだってぇ! あゆが最近ワシに全然構ってくれないから寂しいんじゃよぉ! 毎日毎日寂しさで身悶えしとるんじゃよぉ!」

「どんだけ寂しがり屋なんだよ!」

 何だか知らんが、二人は言い争いに夢中のご様子だ。この隙にとっとと退散した方が良いと、紫月の本能が悲鳴の如く大合唱している。

 可能な限り音を立てないように立ち上がり、彼らに背を向けて抜き足差し足でこの場から立ち去ろうとするが、

「ぬっ!? 待たれよ、そこの若いの!」

 気付かれた。さっきまで眼中に無かったんじゃねーのかよ。

「貴様か! あゆをたぶらかして、その純潔を無惨にも引き裂こうとした肉棒野郎は!」

「なるほど。東雲さんって処女だったのか」

「そこじゃねーだろ!」

「許せん! この場で八つ裂きにしてくれる!」

 何を早とちりしたのか、忍者の爺が一足飛びに木の頂上から飛び上がり、宙で一回転して右手を一閃させた。

 彼の手元から放たれた黒い三つの手裏剣が一直線に紫月の額を目掛けて飛んでくる。

 身を屈めて手裏剣を見送ると、爺は腰の後ろから短刀を引き抜いて頭上から真っ直ぐ降下してきた。

 どうやら、本気でこちらを殺害するつもりでいるようだ。

 ようやく自らの生命の危機を悟った紫月は、頭上から下った短刀の切っ先を、さっき拾ったクナイでしっかりと受け止める。

 爺はクナイと接触した切っ先を支点に再び飛び上がってバック宙を決めて着地すると、およそ人間の規格では有り得ない速力で真っ直ぐこちらの懐に踏み込んできた。

 紫月のクナイと爺の短刀が再び接触して、小競り合いを始める。

「おのれ若いの……! よもやラスト忍者と謳われたこのワシの初撃を凌ぐとは……まさか貴様、伊賀者か? それとも甲賀者か? 言え、貴様の所属流派は何処だ!」

「人の話を聞く前に凶器を飛ばしてきた奴に教えることは何も無い……! 何でもいいからさっさと俺の前から消え失せろ!」

「言ったな? よかろう。五秒間だけ念仏を唱えるがいい」

「人の話を聞け」

「五秒経過。ブチ殺す」

 瞬転、両者刃を払って距離を取り、再接近。本格的な斬り合いに突入した。

 紫月はまず、爺が繰り出す神速の太刀捌きを体感して舌を巻いた。逆手に携えた剣を必要に応じて順手に持ち替えて放つ切っ先の軌道は、プロで活躍しているバトン体操の選手も真っ青な技術の象徴とも言える。

 目で追って捌くのがやっとだ。しかも一撃がやたら鋭い。気を抜いたら本当に殺されてしまう。

 というか――

「だから、一旦落ち着け! 俺はお孫さんの彼氏でも肉棒でもありませんっ!」

「頭のてっぺんから爪の先までまるで説得力が無いわ! それともこの程度で音を上げたか? いまどきの若者は情けない――のぉっ……!?」

 剣速が急に落ちたかと思ったら、何故か爺が空いた片手で胸を押さえ、その場で膝を突いて蹲ってしまった。

「ぐぉおおっ……心臓の持病がぁ……!」

 お前が先に音を上げるんかい。

「お祖父ちゃん!」

 さっきからおろおろと二人の攻防を見守っていたあゆが、行動不能になった祖父の傍に駆け寄って背中をさすり始めた。

「もうっ! 無茶しちゃ駄目だって何度も言ってるでしょ?」

「す……すまんな。お前の彼氏が目の前にいると思ったら……つい」

「あの人はただのクラスメート! 彼氏なんかじゃありませんっ」

 事実だが、その言われ様はちょっとショックだ。というか、可愛い孫娘に彼氏がいると判明した時点で殺人未遂に及ぶような変態忍者爺を野放しにしておくなんて、この日本という国はなんとまあ狂人に優しい犯罪者の温床なのだろう。同じ日本人としてちょっと恥ずかしい。

 紫月は自然とこびりついた薄ら笑いを隠そうともせずに告げる。

「あのー……お取り込み中のところすみませんが、僕はこれで帰らせてもらいますんで」

「あ、待って――葉群君っ!」

「世の中には三十六計逃げるに如かずという諺がある。俺達も高校生だ。意味くらいは理解しているだろ? そういう訳だ。アディオース!」

 紫月は持っていたクナイを地面に刺し、有無を言わせずにその場から全力疾走して学校の外に飛び出した。



 さっきの漫画じみた光景については白昼夢と断ずる以外に解釈のしようが無い。だから現実には何も大変なことなんて起きてはいない。顔面にじわりと広がる痛みも気のせいだ。あの爺との交戦もまやかしに過ぎない。あんな爺がこの世にいてたまるか。

 俺は知らない、俺は覚えていない。

 ずっと念じながら商店街を歩いていると、いつの間にか件のスイーツ専門店の店先まで辿り着いていた。門前の大きな宣伝の旗には、杏樹がさっき言っていた新作ロールケーキのイラストがプリントされている。

 一個千円か。まあ、こんなもんだろう。

「だーから、俺は別に何もやってないですって」

「いいからいいから、ちょっとこっち来てお兄さん」

 店の自動ドアが開き、中から警官二名に挟まれてスキンヘッドの大柄な男が現れた。頭髪どころか眉まで剃り落とし、目元にはきっちりとグラサンまで掛けている。それだけでも見た目の恐ろしさが一般人の範疇を越えているというのに、おかしなことに首から下の衣服はなんと学ランときた。いや、お前の見た目で似合う衣装はそれじゃねぇだろ。

「お兄さん、ちょっとそこで待っててね。いまから検査キット出すから」

「検査キット? 何の?」

「ほら、薬物だよ、薬物。最近はほんと多くてねぇ」

「いやだから、俺はただケーキを買いに来ただけ――」

「言い訳は検査終わってから聞くから、とりあえずこのカップにおしっこ出してくれる?」

「往来のド真ん中で排尿プレイっすか!? これ、薬物反応出なかったらただの辱め以外の何モノでもないっすよ!」

「あのー、すんません」

 紫月がため息混じりに言った。こんな状況が前にもあった気がする。

「そこの彼、俺の友人なんです。ていうか、俺と同い年の学生ですよ」

「葉群さん!」

 スキンヘッドの彼、火野龍也が涙声で取りすがってきた。

「聞いてくださいよ、葉群さん。こいつら、俺がケーキを選んでる最中にいきなり入ってきて――どうやら店内の誰かがこっそり通報したらしいんすけど、この二人は俺の素性を聞こうともしないで荷物検査とか薬物検査がどうとか言い始めて……」

「アホの役満が揃ったな」

 紫月は頭痛を催したように唸るや、警官二人を鋭く睨み付けた。

「火野君が店に実害を与えた訳でもないだろうに、見た目で怖がって通報するとか普通は有り得ないから」

「通報した店員は接客業の何たるかを全然理解してないですな」

「えっと……本当に普通の学生さん?」

 警官の一人がおずおずと訊ねる。

「あの、どっかの悪いグループに入ってたりは……」

「知りたいなら俺の犯罪歴を調べてみればいいじゃないっすか」

「うーん……」

 警官二人が揃いも揃って頭を捻っている。彼らはやがて渋面を解くや、「そこまで言うなら」と言って、まずは龍也と紫月を店の中に入れ、通報した店員と店長立ち合いのもと、形式的な荷物検査が実施された。

 龍也の学生鞄の中には、見られて拙いようなものは一切入っていなかった。強いて言うなら、彼が帰りがけに書店で購入したメガミマガジンが入っていたくらいか。

 十分後。どうにか警官達と店側にも龍也の身分については納得してもらえ、お詫びの品ということで例の新作ロールケーキを無料で貰って、二人はため息混じりに店を辞した。

「全く、体裁が悪いったら無いですよ」

 当然というか、龍也が憤慨してぼやく。

「危うく見ず知らずのポリスメンに俺の生ホッピーを提供するところでした」

「俺達、あの店にはもう行けないな」

「葉群さんがいなきゃ危ないところでした。恩に着ます」

「いいよ、別に。あ、そうだ。これから黒狛に行かね?」

 紫月はロールケーキ入りの袋を軽く持ち上げた。これは龍也に対するお詫びのおこぼれである。あの店なりのサービス精神という奴だろう。

「俺はもともと社長にケーキ買ってこいって言われて来たんだよ」

「そうだったんすか。不幸中の幸いっすね」

「だろ?」

 二人はそれから、黒狛の事務所に着くまで、益体も無い話で時間を潰した。龍也は紫月が探偵であることを知る数少ない同年代の友人だ。そう考えると、偶発的とはいえ彼に恩を売れたのは紫月にとっても不幸中の幸いだった。

 そうこう喋っているうちに黒狛の事務所の近くまで来ると、紫月は周囲をつぶさに見回して、学校の人間がいないのを確かめ、正面のテナントビルの階段を昇って事務所に繋がる扉の前で足を止めた。

 再び後方確認してドアを開け、二人は事務所の中に足を踏み入れる。

「紫月君、おっそーい! ……って、あら、火野君じゃないの。いらっしゃい」

 二人を最初に出迎えた幼い容姿の小柄な女性は、この会社のボスである池谷杏樹だ。いま示した反応から分かる通り、彼女も龍也の立場を知っている人間の一人だ。

 龍也が小さく頭を下げる。

「うっす、池谷さん。お邪魔します」

「社長、今日は火野君とここでおやつを食べようかと思いまして」

「分かった。いますぐお茶を用意するから、二人共手を洗ってらっしゃい」

「へぇ、ここが葉群君のバイト先なんだー」

「そうそう。まあ、しばらくここでくつろいで――」

 言い止して、紫月はようやく気付いた。

 何故か自分の横に並んでいた、東雲あゆの存在に。

「……え?」

「おっす」

 あゆが小さく片手を挙げて挨拶する。

 気付けば、デスクでパソコン作業をこなしている東屋轟と美作玲がキーボードを打つ指を止めて、目を丸くして彼女の姿を穴が空くほど凝視している。

「葉群さん、この人誰っすか?」

「あ、初めまして。私、葉群君のクラスメートで、東雲あゆって言います」

「ああ……どうも、帝沢高校の火野龍也です」

「……ちょっと待て」

 紫月は声を低くして彼女に訊ねた。

「何で君がここに居る?」

「尾行(つけ)てきた」

「持病でダウンしたお祖父ちゃんはどうした?」

「担いで家に放り込んできた」

「二人共、温かい紅茶を淹れたから――」

 給湯室から戻ってきた杏樹も、あゆの姿を認めた途端に制止して固まった。

「……紫月君、その子は?」

「クラスメートっす」

「何でここにいんのよ」

「すんません。どうやら尾行されていたようです」

「…………」

 杏樹の手から盆が落ち、乗っていたカップがけたたましい音を立てて破裂した。


「ほんっっっっっっっとうにお願いします!」

 応接間のテーブルに額をこすり付け、杏樹は向かい側のソファーに座るあゆに気合の入った懇願をする。

「紫月君がうちの職員だって、絶対に周りにはバラさないでください! ほら、紫月君も頭下げて!」

「ぐぼっ!?」

 隣に座っていた紫月の頭を鷲掴みにしてテーブルに額を叩きつけ、杏樹は再び必死の形相で叫んだ。

「この通りですから!」

「あ……あはははは」

 さすがのあゆも引き気味に笑っている。

「分かりました。分かりましたから、頭を上げてください」

「つーか、どうやって紫月を尾行してきたんだ?」

 四十近い熊みたいな体型の男、東屋轟がやや驚き気味に訊ねる。

「こう言っちゃなんだが、尾行して紫月に気付かれないなんて至難の業だぜ? こいつは自分の正体を隠す為に、そういう術を重点的に鍛えたプロ中のプロだぞ」

「理由を言ったところで信じてもらえるかどうか……」

 彼女の言い様はあからさまに歯切れが悪かった。

「何を言われても驚かないって」

 お茶を淹れなおした細身の若い女性、美作玲がテーブルに人数分のお茶を置く。

「さっきので充分に驚いたし、言ってみたらいいじゃない」

「はあ……」

 あゆはやや躊躇いがちに告げる。

「あの……風魔一族ってご存知ですか?」

「かつて北条氏に仕えた忍の一団っすね」

 ちゃっかりあゆの隣に座っていた龍也が簡潔に述べる。

「たしか五代目で滅びて、平成の時代になってからどっかの町のイベントで六代目が決まったとか」

「ご名答」

 あゆは紅茶を一口啜ってから言った。

「私がその風魔一族の血を引く最後の一人だって言ったら、皆さんは信じますか?」

「いやいや、そんな馬鹿な」

 と、龍也。

「まさかこの平成の世でリアル忍者なんて、随分と変わった御冗談を」

 と、玲。この二人は本気であゆの発言を洒落か冗談にしか思っていない様子だ。

 しかし、紫月だけは納得していた。

「いや、もしかしたらマジのマジかもしれない。どうやったかは知らないけど、現にこうして誰にも気づかれずにここまでやってきたんだ。信じるなって方が逆に無理だろ」

「同感ね。あたしもだわ」

 何故か一番同意を得られそうにない杏樹も納得した様子で頷いた。

「実際に居たのよ。本当の忍者みたいな奴が、私の知り合いに」

「マジっすか」

「ええ。まあ、随分と昔の話だけど」

 杏樹の横顔がやたら陰鬱に見える。いつものあどけなさは何処へやら、その面持ちは遠い過去の影が生んだ薄暗さに見舞われているようでもあった。

「あのぉ……ちょっと宜しいですかね?」

 あゆが言い辛そうに訊ねてきた。

「葉群君がここで働いているのがバレちゃ駄目な理由って何ですか? 秘密にするにしても、それだけは教えて欲しいかなぁ……なんて」

「普通に考えてみなさいよ」

 紫月がため息交じりに言った。

「探偵の仕事で比較的多いのが浮気調査と人探しだ。人探しの方はともかく、他人の情事を常日頃から探り入れてる奴を、学生社会がそう簡単に受け入れると思うか?」

「ふぇ? 探偵って、刑事事件に介入して「犯人はお前だー!」って指差す人のことじゃないの?」

「残念。シャーロック・ホームズが創作だってのは知ってるだろ?」

「知らなかった……」

 今度は逆にあゆが驚いている。目から鱗とはいまの彼女の状態そのものだ。

「読んだこと無いけど、あれはてっきりノンフィクションなのかと」

「みーんな、よく誤解するんだよな。ちなみに世界最初の探偵はフランソワ・ヴィドックだ。彼は軍の脱走兵として入獄させられて、重労働の刑に処されている間に培った経験で変装と脱獄のプロになった。俺が一番尊敬する偉人だ」

「おお、葉群君が珍しく饒舌だ」

 特に親しい訳でもないのに、随分と訳知り顔をするあゆであった。

「とにかく事情は了承しました。いやー、一か月前から続く疑問も解けてスッキリしたことだし、ここは一つ、葉群君に恩を売っておくのも悪くないかなー」

「ちょっと待て。一か月? 何の話だ?」

「うん? ああ、実は葉群君のことは一か月前からずっと尾行してたんだよね」

「…………」

 さり気なくとんでもない暴露をされてしまった。というか、彼女の尾行に一か月も気付かなかった自分とは一体。

「ずっと怪しい人だなーって思ってたから、ちょっと興味が湧いちゃって」

「……………………」

「あ、そうだ」

 こちらの反論を待たず、あゆがぽんと手を叩く。

「どうせなら口止め料の代わりに、仕事の依頼をここでしちゃおうかな。それなら私の方から秘密がバレる心配も無いでしょ?」

 まさかのタダ働きである。何か悔しい。

「仕事って……なんか探偵が必要なくらい切羽詰まった悩みでもあんのかよ」

「あるよ。実は偶然いい物を持ち歩いておりまして……」

 あゆは足元に置いていた学生鞄から、古ぼけた写真を一枚取り出し、丁寧な手つきでテーブルの上にそっと置いた。

「さっき探偵は人探しの仕事が多いって言ったよね? だったら、私の人探しを手伝って欲しいの」

 提示された写真はあゆが幼少の頃に撮影されたものだろう。三歳くらいの彼女が、二人の男に挟まれて何処かの家の縁側を背景に微笑ましく写っている。

 右側にいる男の面影には何となく見覚えがある。さっきの忍者爺だ。

「こっちは君のお祖父ちゃんか」

「うん。こっちはさっき葉群君とガチンコしてた東雲宗仁(しののめそうじん)」

「もう片方は?」

「二曲輪猪助(にのくるわいすけ)。お祖父ちゃんの親友で、私が探して欲しいのはこっちの方なんだ」

「それって偽名じゃねぇのか?」

 轟がやや如何わしげに口を挟む。

「二曲輪猪助っていやぁ、風魔忍者の中で党首の風魔小太郎に次いで有名な忍者だぜ? 悪いが人を探すにしても本名ぐらいは教えてもらわないと話にならねぇ」

「気にしたことが無いから聞いてないっ」

 能天気に答えるあゆであった。轟が掌で額を覆う。

「……どうしよう。俺、イマドキの女子高生が分からない」

「轟さん、彼女が特殊なだけです」

「他に何か手掛かりは?」

 杏樹が話を本筋に引き戻す。

「そもそもあなたがどうしてその人を探しているのか、何で居なくなったのか、あとは警察にも届け出を出したのか。タダ働きにしても詳細は聞かせてもらわないと」

「わ……わかりました」

 杏樹が改めて「ロハにしておく」と付け足すと、あゆは滑らかに事情を語りだした。

 概要は次の通りだ。

 あゆの祖父、東雲宗仁の親友である二曲輪猪助(偽名の可能性アリ)が十年前から行方を晦ましている。警察による彼の捜索も一年を経過した段階で断念し、それからおよそ九年の月日が経過した。また、宗仁も彼の行方については知らないと証言している。

 宗仁は心臓を患っており、先はそう長くない。だからあゆは宗仁が死ぬ前までにその親友と再会させてやろうという気になり、最近になって彼の捜索を始めたのだという。

「行方調査か」

 内容をメモしていた紫月が呟く。

「初恋の人を探すとか、離婚して旦那側に引き取られた娘の生活調査を頼む人は星の数ほどいる。東雲さんの依頼にしたってそう珍しいもんじゃない。でも、手掛かりがこの写真一枚だけってのは心許ないな」

「それに、探偵には調査期間ってのがあるから」

 杏樹が真っ当な指摘をする。

「あんまりお客さんにする話じゃないかもしれないけど、探偵は一人の依頼者にそう何年何十年と付き合ってる訳にもいかないのよ。他の仕事に人手が必要な場合もあるし。手掛かりが写真一枚しか無い状態だと、制限時間はおよそ一か月くらいかしら。それでも見つけられるかどうかはちょっと断言し辛いっていうか……」

「それでも構いません。これまでだって一人で探して、正直もう諦めかけてましたから」

 あゆが真っ直ぐ杏樹と目を合わせる。

「こうして黒狛さんとの取引まで持ってこれたのは幸運でした。だから、これが私にとって最後のあがきなんです。これで駄目なら、さすがにもう諦めます」

「そこまで言われたらさすがに断れないなぁ……」

 紫月はため息をついて、ざっくり頭の中で預金残高の暗算を始めた。

 未成年の依頼には保護者の承諾が必要になる。だが、金銭とは無関係の仕事をする場合は話が別だ。というか、話の成り行きからして、これは黒狛への依頼というより、紫月個人に対する依頼だ。必要な機材があれば事務所からのレンタルは可能だが、それ以外の経費は全て紫月の自腹となる。

 まあいいだろう。こういう時に備えて貯蓄はちゃんとしてある。一か月分の生活費と人探しに掛かる必要経費はギリギリ賄える。それに今回の依頼はあくまで人探しの手伝いだ。だから、依頼者のあゆ当人も仕事の人手にカウントされる。

 面白くも何ともないが、手前の尻は手前で拭うしかない。

「社長。これから一か月間、俺がいなくても大丈夫ですか?」

「ええ、全然」

 おざなりだが、社長の許可は貰った。あとは、あゆの意思確認だけだ。

「この依頼のことはご両親にまだ秘密にしておいて欲しい。本当だったら俺達と君との間で契約書を書かないといけない仕事だし、彼らに介入されて途中で依頼を取り下げられても目覚めが悪い。あと、今回の俺はあくまで黒狛の探偵としてじゃなく、葉群紫月個人としてこの依頼を遂行する。それだけは絶対に忘れないで欲しい」

「分かった。今度からよろしくね、葉群君」

「あの、俺も手伝っていいっすか?」

 いつの間にかロールケーキを食べ終えていた龍也が話に介入してきた。

「バイトが無い日はまあまあ暇なんで、俺も何かしらの形で手を貸します。有用な情報があればすぐに伝えますし」

「助かる」

 個人的な依頼ともなれば人手の召喚も自由だ。龍也の言うことにも一理ある。

「それより、東雲さんを家まで送っていかなきゃ。あんまり遅いと家族の人も心配するだろうし」

「心配されんでも、一人でちゃんとお家に帰れますぅ」

「いやいや。最近、うちの学校の先輩が不審者に殺されたばっかりじゃん」

 それについては、半分くらいこちらのせいだ。

「うーん……そこまで言うなら、ちゃんと私の身の安全は保障してよね」

「問題無い」

 紫月は龍也のスキンヘッドを見遣った。

「優秀なヘッドライトがここに居るからな」

「だーれがヘッドライトっすか」

 この時ばかりは、さすがの龍也も少し不機嫌そうだった。



 東雲家の一戸建てに訪れて最初に紫月を出迎えたのは、さっきよりもさらに元気な東雲宗仁の飛び蹴りだった。

 玄関の手前で大の字になって空を仰ぐ紫月の目尻から涙がちょろりと垂れる。

「ねぇ、今日はホント何なの? あんたは俺の顔面に恨みでもあるの?」

「あゆをこんな遅くまで連れ回しおって」

 宗仁が腕を組んで鼻を鳴らす。

「しかも彼氏面で家まで送ってくるとか、恥知らずを通り越して犯罪者の資質を感じるぞ。お主、さては前科持ちだな?」

「お祖父ちゃん、いい加減にしなさいっ」

 あゆが腰に手を当ててぷりぷり怒っている。可愛い。

「葉群君は恥知らずでも犯罪者でもないよ。ただの変態さんだよ!」

「帰れ! ていうか死ね!」

「変態なのは否定しないけど、それはそれで何のフォローにもなってないからね」

 紫月は龍也の手を借りて起き上がり、苦い思いのまま弁解する。

「ほら、最近なにかと物騒じゃないっすか。だから女の子には他の誰かがついてやらんと、ご両親もあんたも不安じゃないかって思ったんす」

「ワシの孫はそこらの女子と違って、心配されるほどヤワでも無いわい。そんな台詞は一度でもワシにサシで勝ってから吐かすがいい」

「ほほぅ……?」

 いまの一言で、紫月の闘争心に小さな火が灯った。

「そこまで言うなら本当にラウンド2やってみます?」

「上等じゃ。お主とは決着を付けたかったところだからな」

「ちょっと、お祖父ちゃん!? ていうか、葉群君も――」

「東雲さんは口を挟まないでくれ。これは俺とこの爺の決闘だ」

 出会ってすぐにいきなり襲われたのは気に喰わないが、だからといって白黒がつかないのも同じくらい納得がいかない。

 葉群紫月という男子は、これでも意外と負けず嫌いなのだ。

「勝負だ、クソジジイ。ちょっと表出ろや」

「良かろう。身の程を思い知らせてくれる」

 宗仁は玄関の奥に引っ込み、身支度を整え始めた。



 宗仁が決闘の場所に指定したのは近所の広い公園だ。最近は街中のパトロールが強化されたとはいえ、武器さえ使用しなければ、ここでいくら二人が喧嘩していようと『空手の練習』と説明すれば事なきを得られる。

 紫月と宗仁が距離を開けて向かい合うと、外野に突っ立っていたあゆが忠告する。

「お祖父ちゃん、あんまり葉群君を苛めちゃ駄目だぞー」

「分かっとるわい。ちょっと年季の差を見せつけるだけじゃ」

「言ってくれるじゃねぇか」

 紫月がくいっと顎を上げる。

「精々、ハッタリじゃないことを祈るぜ」

「威勢の良さは認めてやる」

「えーっと……じゃあ、始めますよー」

 気乗りしない様子で、レフェリーに指名された龍也が片手を挙げる。

「試合形式は鳩尾以外の急所狙いと噛みつきが反則のバーリトゥド。両者のいずれかが戦闘不能になった時点で試合終了。もしくはこっちの判断で試合を止めることがあります。双方、異議はありますか?」

「無い」

「右に同じ」

 二人がファイティングポーズを取り、腰をやや低めに沈める。

「それでは――始めっ」

 両者の踏み込みは鋭い。すぐに間合いに入り、手首と体勢の奪い合いから入る。これは剣戟で言う鍔迫り合いと同異議だ。

 宗仁の身のこなしは想像以上に身軽で鋭い。年齢を全く感じさせない動作は、むしろ年季そのものを感じさせる。

 紫月が用いている格闘技はジークンドーで、対する宗仁は空手とサバットの亜流といったところか。お互い、威力の決定は打撃に依るところが多い技のぶつかり合いだ。

「はーはっはっは! どうしたどうした、もっと打ち込んでこんかい!」

「いいんだな? 殺す気で打ってもいいんだな!?」

 とは言ってみるが、それが無理なのは紫月が一番良く分かっている。

 やっぱりこの爺さんは強い。本物の忍者かどうかはともかくとして、やっぱり技のキレや重さは喰らっているこっちが勉強させられているようだ。

 宗仁は一旦間合いから離脱すると、全身から力を一瞬だけ抜いた。

「風魔戦技・踏の一、旋脚万雷」

 紫月は目を疑った。

 どういうトリックかは知らないが、視界の中で宗仁の姿が二つに増えたのだ。

「分身の術かよ! 汚ぇぞ!」

「言っておろうが。ワシは本物の忍じゃと!」

 真横から来る――直感的に悟って反応すると、盾にした腕に宗仁の拳が当たる。

「ほう? やるではないか!」

 いま視界に映った二つの分身をフェイクにして、視界から外れていた本体が死角から攻撃する。これが旋脚万雷とやらの攻撃手順か。

「ならば次じゃ! 風魔戦技・打の一!」

「喰らうかよ!」

 紫月は大きく後ろに跳ねて宗仁の間合いから外れる。今回のルールなら、どんな技も腕が届かなければ当たらない。

 しかし、甘かった。

 宗仁は既に、紫月の足元でしゃがみ込んで、拳に力を溜め込んでいたのだ。

「天嵐掌!」

 紫月の顎目掛けて伸ばされた腕が螺旋する。腰の回転と腕の螺旋をかみ合わせて打撃の威力を上げる技か。

 ならば、対処法は簡単に思いつく。

「おらぁ!」

 右の肘を相手の掌に正面から叩き込み、打撃の威力を相殺する。

 これには宗仁も目を丸くして驚いた。

「驚いたわい。この技を止めた奴は猪助以外におらなんだ」

「何?」

 突然出てきた名前に、紫月は一瞬焦り、動きを止めてしまった。

「隙アリ!」

 気を逸らしたわずかな隙を縫い、宗仁の左手が紫月の鳩尾を打つ。

 突如として襲い掛かる吐き気と息苦しさに、紫月は膝から沈み、地面に蹲った。

「がーっはっは! ワシの勝ちぃ! いぇーい!」

 卑怯な手で勝ったにも関わらず、宗仁はまるで子供のようにはしゃいでいる。

「ぐっ……きたねぇぞ、このジジイ!」

「戦っている最中に別のことに気を取られたお前さんが悪い。中々どうして筋は良いのに、まだまだ未熟じゃのぅ」

「こ・の・や・ろ・う……!」

 納得がいかねぇ。たしかに鳩尾以外の急所は狙っていないし、口頭での攻撃は反則に含まれていないが、だからといって言っていいことと悪いことがあるだろうが……!

「おやおや、随分と無様だな」

 突如として聞き慣れた声が頭上から降り注いだかと思ったら、見覚えのある制服姿の少女が正面から紫月の有様を見下ろしていた。

 特徴的なポニーテールに端正な小顔。いつもと変わらない無表情。

 彼女は貴陽青葉。紫月の数少ない友人の一人だ。

「あ……青葉? どうして君がここに?」

「学校の帰りに通りかかったからだ。それより、これは一体どういう状況だ?」

 たしかに、事情をよく知らない通りすがりの人間からしたら、未だにはしゃいで飛び回っている老人の前で蹲る高校生男子の無様な姿は不思議にしか映らないだろう。

「……ちょっと、本物の忍者の技を体感したくってね」

「忍者? あの爺さんが?」

「なんでも風魔一族最後の忍者なんだとさ」

「それはちょっと興味があるな」

「お?」

 宗仁がようやく青葉の存在に気付き、素っ頓狂な声を上げる。

「何じゃ、お主。そこの小僧の知り合いか?」

「どーも。こいつの彼女の貴陽青葉です」

 さらっと嘘をぶっこく青葉であった。

「何? 彼女じゃと? ……まさか」

 宗仁の中で変なスイッチが入ったらしい、青葉とあゆの姿を交互に見回し、最後に紫月を凝視する。

「貴様……あゆという者がありながら、そこの小娘とも……ハッ!? これが世に言う二股という奴か!」

「世にも言わない! 前提が間違ってる! 森羅万象全てがあんたの誤解だ!」

「じゃあセ×レか?」

「発想は面白いけど全然違う!」

「どーも」

 いつの間にか青葉の前にいたあゆが礼儀正しくお辞儀する。

「紫月君の×フレ兼愛人をやってる、東雲あゆと申します」

「おいコラァ!?」

 俺の周りには平然と嘘を並べ立てる女しかおらんのだろうか。

 青葉とあゆの、平和的であり物騒でもある社交辞令が続く。

「つかぬことをお伺いしますが、先程うちの紫月君の彼女とおっしゃいましたね」

「ええ、そうなんですよー。今日で付き合って三年目でして」

 そもそも紫月と青葉が初対面したのは二か月くらい前の話だ。三年どころか三か月記念日すら迎えていない。ていうか記念日って何だ? いちいち記念日の度に祝ってたら彼氏の生活能力がみるみるうちに溶解するわ。祝った瞬間に呪われるわ。

「そうなんですかー。私は五年目なんですよー。実はお腹にはもう子供が……」

「何ィッ!? 既に懐妊しておったのか! 何故早く言わなかった!?」

 東雲あゆよ。君は俺に何か恨みでもあるのか? そしてジジイ、お前はもう黙れ。

「いまはまだ膨らんでないんですけど、こういうのは大きくなるまで意外とあっという間らしいですね」

「なるほどなるほど。では、むしろ私の方が不倫相手ということになりますなぁ」

「この泥棒猫がー。いますぐ紫月君の前から消えたまえー」

「お前が消え失せろ、この世から」

「もうやめてくれ二人共。これ以上俺の社会的地位を失墜させないでくれ」

「その前に貴様を地獄へ墜落させてくれるわ!」

 宗仁が蹲ったままの紫月の背中にがんがんと蹴りを入れてくる。

 それにしても、やけに蹴りの威力が弱いな。どうした爺さん。もうちょっと力を入れてくれないと、物理的な痛みを精神的な痛みが上回っちゃうじゃないか。それはそれであんたの嫌がらせなのかい? ねえ、泣いていい? 泣いていいよね?

 紫月が涙ぐんでいると、そろそろこれが引き際と思ったらしい、青葉とあゆはプチ愛憎劇を中断した。

「君は何を泣いている? この程度の冗談を真に受けるか、普通?」

「葉群君って、意外と冗談が通じないよねー」

「世の中には言っていい冗談と悪い冗談があると思う」

「おいコラ葉群紫月、ワシを無視するな!」

 宗仁が紫月の首根っこを掴んで体を持ち上げた。

「お主らは少しそこで待っておれ。ワシはこの男と直々に話をつける」

 こうして、紫月は公園の外れにある大きな樹木の下に連行された。


「すまんかったのぅ」

 木の傍に寄り掛かり、宗仁が息を整えながら言った。

「あゆ以外の若いモンとはしゃぐのが久しぶりで、つい加減を誤ってしまった節がある。それについては謝罪させてもらおう」

「随分としおらしいな」

 こちらへの折檻が折檻になっていないと思った時点で、宗仁にも何か思うところがあったというのは大体察しがついていた。

 宗仁は公園のベンチでお喋りに花を咲かせている女子二人とスキンヘッド一人を眺め、初めて紫月の前で柔和な笑みを見せた。

「何故、爺婆が無駄に若造とのお喋りを好むか、お前は知っているか?」

「ただ単に若い奴と喋ったり遊んだりするのが好きなだけでしょ? いままでのあんたを見ていればよーく分かる」

「……さっきワシが見せた風魔戦技だがな」

 いきなり話題を変え、宗仁は遠い目をして言った。

「あれは猪助と昔、遊びと称して生み出した曲芸技なんじゃ」

「曲芸? あれが?」

 普通に実戦レベルで強力な技だろうに、あれが遊びだと? にわかに信じられない。

「普通の忍は決して技をひけらかすような真似はしない。だからこそ、あれはワシと猪助にとっては遊びみたいなものなんじゃ。ところで、お前さんはさっき猪助の名前に反応しておったな。もしかして、あゆの人探しに加担でもしておったか?」

「知っていたのか」

「まあな」

 元気な分だけ知恵の巡りも早いのだろうか。いまの宗仁は年相応に老獪だった。

「こうなると話が早い。葉群紫月よ。悪いが、このままあゆの人探しを手伝ってはくれまいか。あの子がワシを想って時間を割いている分、お前の行動は全て無駄だ、だなんて口が裂けても言えはせん」

 どうやら宗仁には人探しの結末が見えているらしかった。

「元々、調査期間が過ぎたらこの依頼も終了する予定だったんだ。頼まれなくても仕事の内ならこなしてやるさ」

「そうか。さすがは黒狛探偵社の葉群紫月といったところか」

「……!?」

 死角からフックを貰った気分だった。この爺、いつの間に俺の素性を調べたんだ!?

「爺さん、あんた何でそのことを――」

「ポニーテールのお嬢さんには黙っておいてやろう。知られたくないんだろ?」

「……そうしてくれると、助かる」

 龍也とあゆにこちらの素性が割れてしまったのは仕方ないとして、青葉にだけは絶対に知られたくない理由があった。もしかしたら、宗仁はそれも知っているのかもしれない。

 宗仁は紫月の正面に回り込んで、固く握り込んだ右拳を腰だめに引いた。

「さて、依頼料の代わりだ。お前さんには風魔戦技の最終奥義を伝授してやろう」

「いきなり最終奥義かよ!? ムリムリ! 俺、影分身も螺×丸も使えないから!」

「案ずるな。難しい技ではない」

 宗仁は右拳を鋭く押し出し、紫月の額にぴたりとくっつけた。

「風魔戦技・最終奥義、クソジジイの拳骨じゃ。あゆにはありとあらゆる風魔戦技を叩き込んであるが、この技だけは何があっても教えるつもりは無い」

「……いや、やっぱり俺には難しいよ」

 おそらく風魔戦技とやらは数々の超人芸の集合体だ。その中で最後を名乗る技が、ただのワンパンチだなんて馬鹿げているにも程がある。

 だからこそ、この拳骨は彼にとって一番大事な技なのだろう。

「そいつはお前さん次第じゃ」

 宗仁が拳を引いた。

「こいつを打つコツを教えてやる。開いた掌に願いや想いを乗せて握り込み、腕はあくまで重々しく振り上げ、祈るように拳を振るう。この三拍子があって、初めてこの技は本当の意味を持つようになる。いざという時は思い出してみるといい」

「覚えていたらな」

 話が一区切りついたところで、紫月は口をぽかんと開けた。

 どういう話の流れでああなったのかは知らないが、分身しまくったあゆを青葉と龍也が必死に追い回していたのだ。

「なあ爺さん。あれ、本当にどうやってんの?」

「教えたところで理解出来るか?」

 全く以てその通りだ。それに、理解したとして体得出来そうな技でもない。

「……やっぱいいや」

 時刻は既に、夜の八時半を回っていた。


   ●


 捜索開始から三日目の夜七時。紫月とあゆはファミレスの一角で突っ伏していた。傍から見ればテーブルに顎を乗せて対面する脱力感全開の高校生カップルだが、当人達からすればもはや周りの視線さえ気にならないくらい疲れていた。

「やっぱり十年以上前に消えた人の行方なんて誰も知らないよね」

「聞き込みに回った老人ホームも全件成果無し。とうとう手詰まりか」

「そういえば、貴陽さんが役に立ちそうな協力者を連れてくるとか言ってたけど……」

 宗仁との対決の後、青葉にも依頼に関する諸々の事情を説明した。そこで彼女は今日、捜査能力が高い知り合いを連れてくるとか言い始めたのだ。

 少し不安だが、協力者が多いに越したことは無い。だからこうして待っているのだ。

「一体、どんな人なんだろうね」

「どっかの宇宙怪獣とかSTGのラスボスでも連れて来るんじゃねーの?」

「失礼な奴だな。人をインベーダー扱いしやがって」

 制服姿の青葉が二人の人物を伴って紫月達の前に現れた。一人はちゃっかり青葉と仲良しになっていた龍也だ。

もう一人は青葉と同じ制服を着た女子生徒で、背丈は杏樹と同じくらいの、有り体に言って不思議な雰囲気の塊だった。呆けた印象があるし、水滴みたいな記号を鼻の下にコラージュしても全く違和感が無さそうな感じだ。

追加で三人が席につくと、青葉が隣の人物を紹介する。

「こいつは私の従順なるペット、井草水依(いぐさみなえ)だ」

「どーも、ペットの水依です」

 水依なる少女があゆと全く同じ姿勢で答える。

 あゆも同様に自己紹介する。

「どーも、東雲あゆです。紫月君の愛人やってます。妊娠三か月です」

「火野君、いますぐこのアホを窓の外に放り投げてくれ」

「それ以前に貴陽さんのペット発言についてはガン無視っすか」

 駄目だ、話の電波が混線している。この中でまともな人間は俺と火野君だけか。

 龍也が気を取り直して青葉に質問する。

「貴陽さん、さすがにペットは冗談っすよね?」

「いまここで冗談かどうかを試してみるか?」

「いえ、結構です」

 龍也の即答は妥当な判断だった。青葉なら本気でやりかねないからだ。

 青葉がメニュー表を見ながら言った。

「ところで紫月君の話だと、東雲さんは二曲輪猪助とやらの行方を捜しているという話だったな。面白そうだから私も及ばずながら協力させてもらうが、その前にやっておくことがある」

「どゆこと?」

「水依、出番だ」

 青葉が命じると、水依は姿勢を正し、足元の鞄からトレーシングペーパーの束を取り出して、図面用のシャープペンで何かしらの模様を紙の上に描き始めた。

「? この子は何をしてるの?」

「水依お得意の図形占いだ」

「図形占い?」

 まるで聞いたことが無い占術だった。

「彼女は所謂ESP能力者でな。未来透視の能力を持っている」

「はあ?」

 ESP。つまりはエスパーのことだが、このご時世には眉唾な代物だ。どんなマジックにもタネと仕掛けはあるし、テレビによく出ている霊能者なんていうのは言ってみれば客寄せパンダの一種に過ぎない。

 しかし、もっと信じられないのは青葉の神経だ。彼女はいつも辛口で切り込む分だけ物の見方もシビアなので、普段はそういった超常現象の類をまるで意に介さない筈だ。

「彼女は人を見た瞬間、頭の中に複数の絵柄が一瞬で浮かび上がるそうだ。それを何枚かの紙に書いて重ね合わせると一つの図形になって、その図形を改めて見ることで未来の予知を可能としている」

 分かり易い例えがCGイラストの作成法だ。塗る部位ごとにレイヤーを作り、線画の上で重ね合わせて一枚の絵にしていくようなイメージで大体正解だろう。

「回りくどいな。ていうか、本当にそんなことがあんのかよ」

「私もかれこれ三回ぐらいは成功例を見ている。例えば、私のクラスにいる女王様ぶった傲慢な生徒が、ある日を境に学校からいきなり姿を消した。理由は担任の女教師との同性愛が周りに発覚したからで、水依はこの展開を噂が広まる一か月前から同じ方法で予知していた。他にも似たり寄ったりの結果が二回ぐらい出ている」

「偶然じゃねーの? ていうか、もしかして青葉も占ってもらったの?」

「ああ。でも不思議なことに、私の未来だけは視えないらしい」

「尚更怪しいな」

「でけた」

 気の抜けた宣言と共に作業を終え、水依は絵柄が書きこまれた四枚のトレーシングペーパーを重ね合わせ、天井の照明に照らしてしばらく静止する。どうやら、これが彼女なりの未来透視の姿勢らしい。

 やがて結果が出たようだ。水依が小さい声で呟く。

「……しゅう」

「ん?」

「イザキ……シュウト?」

「人の名前?」

 龍也が軽く身を乗り出した。

「ていうか、そんなんで本当に視えたんすか?」

「私、嘘吐かない」

 紙を下げ、水依がのほほんと言った。

「火野君も占ってみる?」

「マジっすか。やるやる。超やりてー」

「イザキ……イザキ」

 あゆがぶつぶつと反芻し、やや渋い顔で言った。

「そういえば、猪助さんにはそんな名前の一番弟子がいたっていう話をお祖父ちゃんから昔聞いたような気が……」

「何だと?」

 今度は紫月が身を乗り出した。

「何でそんな大事なことを黙ってた? 一番重要な手掛かりじゃんかよ」

「だって、その話を聞いたのって私がまだちっちゃい頃だったから記憶が曖昧なんだよぉ」

 彼女の言葉が頼りないにせよ、あゆはたったいま、イザキシュウトという人物が実在すると証言した。加えて、問題の彼は立場がやたらはっきりしている。

 もはや疑う余地も無い。井草水依の力は本物だ。

「本当に未来予知っていうなら、もしかして俺達はこの先、そのイザキシュウトって奴に会える可能性があるってことだよな」

「それはそうなんだろうが……」

 青葉が何故か訝しがる。

「どした?」

「私もその名前を聞いた覚えがある」

「なぬ?」

 これはこれでとても意外な発言だった。

「はて……何処で聞いたのかな」

「ともあれ、探すのは明日からだ」

 唸る青葉を尻目に紫月は壁掛け時計で時刻を確認して、次に龍也の手元を見遣った。

 このハゲはいま届いたばかりのフライドポテトをフォークに刺し、口を開けて待ち構える水依に一個ずつ餌付けしていた。どうやら水依を気に入った様子である。

「火野君。予知の結果は?」

「俺、明日はあんたらの調査から外れた方がいいんだと」

「何故?」

「即死するから、だそうです」

 なるほど。よく考えれば明日はクリスマスイブだ。街中でリアルがお充実した方々――とりわけカップル達が色めき立つ様子を視界に収めてしまったら、たしかに紫月や龍也のような人種は嫉妬のキャンドルファイヤーに焼かれて即焼死するだろう。

 なら、明日は無理に引き立てまいよ。

「井草さん。せっかくだから俺のことも占ってもらっていいかな?」

「無理」

「へ?」

「青葉と同じ。絵柄が視えない」

「マジかよ」

 紫月と青葉が同時に顔を見合わせていると、水依は突然立ち上がった。

「ドリンク取ってくる」

「お……おう」

「いってら」

 二人は何とも言えない気分のまま、水依の背中をぼんやり見送った。


   ●


「お久しぶりですな」

「ええ。本当に、何年ぶりでしょうか」

 白猫探偵事務所の応接間では、一組の男女が向かい合っていた。

 片やこの会社の社長、蓮村幹人。片や、今回の依頼者である伊崎恭子。

 職員の一人である二十代後半の女性、西井和音が二人の前にそれぞれ緑茶入りの湯呑みを置くと、幹人は静かに本題を切り出した。

「お電話によると、旦那さんの捜索という話でしたが」

「ええ。私の夫、伊崎愁斗(いざきしゅうと)の行方調査です」

 恭子が俯き加減に述べる。

「彼は十二年前、自身が営んでいた風魔探偵事務所と共に姿を消しました」

「存じ上げております。何せ、彼は私と同世代の探偵でしたから」

 幹人や杏樹が若かりし頃、彩萌市とその周辺区域は探偵社が乱立していた時代があった。隣町の四季ノ宮町に開設した風魔探偵事務所も例に漏れず、その社長はかつての商売敵である伊崎愁斗なのだ。

「あなたの旦那さんは実に優秀かつ型破りな男でした。何処で鍛えたのか、時代錯誤も甚だしい技を用いて、通常の探偵では困難を極める秘密調査を難なく成功させてきました。あれは正真正銘の忍者と称して差し支えの無い探偵です」

「それ以外はからっきしなんですけどね」

「まあ、ある意味不器用ではありましたが」

 お互い少しだけ笑い、すぐ真顔に戻る。

「しかし行方不明が発覚してから一年で警察も彼の捜索を打ち切った。それ以降、私は彼が死んだものとばかり思っていましたが……」

「実は生きていたみたいなんです」

 恭子は自らの通帳の中を幹人に開示する。

「旦那が行方を晦ましてからも、一か月ごとに多額の入金が行われていました」

「それを警察には?」

「言いました。でも、お金を振り込む為に使った銀行をあらかた調べても、旦那と思しき人間が出入りした形跡が無いんです」

 当たり前だが、全国各地に銀行各社のATMは存在する。だから何処からでも好きな通帳に対してどの場所からでも簡単に金を振り込めるシステムになっている。

 警察も当然、そのあたりに着目して捜索を進めた筈だ。金を振り込む為に使った銀行の監視カメラをチェックすれば、通帳に記載された振込日に現れた人間のうち、怪しいと踏んだ者の素性を調べ上げれば済む話である。

 でも、話はそう簡単ではない。

「金を振り込むには振込先の暗証番号や口座番号なんかを知っている必要がある。だから振り込んだ者は伊崎で間違い無いんだろうが、奴が全国を転々としているなら、たしかに見つけようがないですな」

 加えて愁斗も探偵の端くれだ。人相を隠蔽するくらいはお手の物だろうし、銀行の監視カメラに姿が映っていたとしても、余程の勘を持ち合わせている者でない限りはその人物が愁斗であると見抜けはしない。

「それと、時々旦那から手紙まで来ていまして」

「手紙?」

「ほとんどは自分の安否を報せる内容でした」

 恭子は次の情報として、A4のファイルからいくつかの便箋をテーブルに並べる。

「でも、ここ三か月の間はその手紙も通帳への振り込みも途絶えているんです」

「なるほど。だから心配になってここへ来たと」

「ええ」

 いまの話で、何故いまさら彼女がここを訪れたのかは理解した。

「少し、踏み込んだ質問を宜しいですかな」

「はい?」

「彼から送られてきた金の使途は?」

「使っていません。私自身が稼ぎを得ているので、振り込まれたお金はとりあえず定期預金の通帳に毎月入れてありますから」

「賢明な判断ですな」

 考えなくても分かることだが、振り込んだ者の状態がよく分からない状況で、施された金を安易に手放すような真似はしない方がいい。金の問題は私的にも法的にもトラブルの火種になり兼ねないからだ。

「これから本格的な調査プランや料金なんかの話になりますが、宜しいですかな?」

「それなんですけど、今回の依頼料は先に払っておこうかと思うんです」

「先に?」

「通帳の中身が許す限り、この調査を進めて頂きたいんです」

 恭子はさっき話に出てきた定期預金の通帳を幹人に差し出した。

「私にとって、このお金は無いものと同じですから。もし本当に旦那から送られてきたというのなら、それこそ旦那の為に使った方がいいと判断したんです」

「……あの男はこんないい奥さんをないがしろにして何をやっているのやら」

 彼女の判断がどう転ぶにせよ、本気なのは良く分かった。

「いいでしょう。依頼を受けます。ただ、必ず見つかるとは限らないとだけ」

「それでも構いません。よろしくお願いします」

 恭子が深々と頭を下げると、幹人は彼女に顔を上げるように言って、手紙の一つを手に取って中を改めた。

「……伊崎の奴、一体何のつもりだ?」

 無論、伊崎愁斗がそう簡単に死ぬとは思っていない。こちらの勘が正しければ、奴は浮世を離れた何処かで必ず生きている。

 いや、生きていて欲しい。目の前のご夫人にさめざめと泣かれるのは個人的に忍びない。

「私が見つけるまで、絶対に死ぬなよ」

 幹人は手にした手紙をテーブルの上にそっと置いた。


   ●


 真夜中の彩萌駅前はクリスマスムード一色だった。彩色豊かなネオンがそこかしこに張り巡らされ、街路樹にも同様の装飾が施されている。

 新渡戸文雄は身を寄せ合いながら通り過ぎるカップルに対して「死ね」と思いつつ、バスターミナルの付近で街頭演説に興じている一団を遠目に見遣った。

 選挙カーみたいなワゴンと、車の付近に群がる白いマントを纏う数人の若い男女。彼らが掲げている白い旗には、何のメタファーか知らないが赤い目玉みたいな模様が描かれている。配っているチラシは恐らく団体への勧誘を促す何らかの媒体だ。

 稀にいるんだよなぁ。ああいう若気の至りで知性の欠片も感じない行動を大々的に晒してしまう日本の恥が。最近有名などこぞの学生団体と似たり寄ったりだ。あれのホームページとかご覧なさいよ。色々げんなりするぞ。

「……寒っ」

 身を震わせて肩幅を縮め、新渡戸は足早にその場から立ち去った。

 勿論、例の宗教団体の名前を調べもせずに。

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