第6話 風魔の城

 後から杏樹に聞いた話によると、伊崎愁斗は彼女と同世代の探偵だったらしい。彼が営んでいた風魔探偵事務所の所在地は四季ノ宮町。丁度、紫月が次の捜索範囲として目を付けていた隣町である。

 紫月とあゆ、それから青葉は、かつて風魔の事務所があったというテナントビルの前に立ち止まり、二階の窓ガラスを見上げて二の足を踏んでいた。

「……で、何で青葉が来ちゃったの?」

「君が何処の馬の骨とも知れん女と二人っきりでいちゃこらしているのが何となく許せないからだ」

「まだ彼女ネタ引きずってんの?」

「この泥棒猫がー」

 あゆが愛憎劇における定番の台詞を棒読みする。

「私の葉群君に近寄るにゃー」

「お前がネコ化してどないすんねん」

「にゃにおー? 貴様、この私に喧嘩を売ってるのかー」

「頼むから、ここでキャットファイトだけは勘弁な」

 何が悲しくて隣町の往来で痴話喧嘩に巻き込まれなきゃならんのやら。

「まあいい。さっさと行くぞ」

「ほーい」

「にゃー」

 後ろの女子二人が能天気に応じる。青葉は仕方ないとして、あゆがピクニック感覚なのはさすがに困る。真面目に人探しを進めているのがバカらしく思えるからだ。

 三人は特に迷いもせずにテナントビルの二階に上がり、目の前を塞ぐスチール製の扉を前にして息を呑んだ。

 扉には『小室総業』なる表札が提げられている。だが、名前自体に対した意味が無さそうなのは紫月も薄々気づいている。

 この向こうに居座る人間が、日向者である訳が無い。

「……帰るならいまのうちだぞ」

「問題無い。何が襲ってきてもぶっ飛ばしてやるまでだ」

「右に同じ」

 何とも頼もしい連中である。あまりにも勇ましくて涙が出そうだ。

 紫月は呆れ半分の気分を顔から引っ込め、扉の横の呼び出しブザーを鳴らした。

 十秒と経たず、扉が開かれる。

「あん? 何だ、てめぇら」

 早速、ストライプのスーツを着たパンチパーマの兄ちゃんがメンチを切ってきた。

 やっぱり、ここは指定暴力団の事務所になっていたのか。

「いきなりお伺いして申し訳ないです。二、三、お訊ねしたいことがありまして」

「ここはガキの来るとこじゃねぇよ、とっとと帰んな」

「お時間は取らせませんし、そちらに対して危害を加える気は一切無いです」

「しつけぇな。……ちょっと待ってろ」

 パンチパーマは一旦屋内に引っ込むと、五秒も経たずに玄関口に戻ってきた。

「入れ」

「いえ、さすがに上がり込むまでは……」

「いいから入れ。うちのボスが社会科見学でもなんでも付き合ってやるってよ」

「はあ……じゃあ、お邪魔します」

 紫月は女子二人とそれぞれ目を丸くして顔を見合わせると、おっかなびっくり扉の向こうに足を踏み入れ、中にいた幾人かの人員にそれぞれ小さく頭を下げた。

 皆一様に、さっきのパンチパーマと似たり寄ったりの格好をしていた。だが、その中で一人、明らかに格好が違う肩幅の広い御老体が応接間のソファーから会釈してきた。

 御老体の風体は有り体に言って江戸時代の殿様みたいだった。

「おや、これまた随分と若いお客さんですな」

 彼は座ったまま言うや、三人に対面のソファーを勧めた。

「何か我々に質問があるという話だったかな。まあ、座りなさいよ」

「では、お言葉に甘えて」

 三人は御老体の対面のソファーに並んで腰を落ち着ける。女子二人に挟まれて指を組みながら座る紫月の姿は、彼にはさぞかし滑稽に映っただろう。

 でも、いまは彼の評価なんてどうでもいい。

「初めまして。葉群紫月と申します」

「貴陽青葉です」

「ど……どうも、東雲あゆです」

「北条時芳という者だ」

 時芳なる老人が日向ぼっこでもしているかのように微笑むと、周囲に控えるスーツ姿の強面兄ちゃん達をぐるりと見渡す。

「恥ずかしながら、私は彼らのオーナーでね。まあ、何のお仕事をしているかは想像にお任せするとして……君達はどのような用件でここへ?」

「ちょっとした事情で人を探しておりまして。その手掛かりがこの場所にあると聞いたものでして、アポも取らずに大変申し訳ないと思いつつ伺わせていただきました。この度はいきなりの訪問をお許し下さい」

「別に構わんさ。そちらも、どうせアポなんて取れやしないと承知しているだろうに」

 そこはかとなく、こちらの思惑を見透かされている気分だった。

「で、君達は誰を探しているというのだね?」

「伊崎愁斗という人物です」

「ほう?」

 時芳が少しばかり驚いたような反応をする。

「かつて、この場所で風魔探偵事務所なる会社を営んでいた者だね」

「ご存知なら話が早いです。僕達が探している人物の手掛かりを、その伊崎愁斗が握っている可能性がありまして」

「なるほど。探し人から探し人を特定しようという訳か」

 妙に呑み込みの早い人物のようだ。しかし、ここまで話がとんとん拍子に進むのも、場所が場所なだけあって気味が悪い。

「しかし、それでは随分と回りくどいだろう。君達の本懐は伊崎とやらを通して見つかるであろう別の人物だ。なら、その人物の行方を直接追う気にはならなかったのかね?」

「僕らが見つけた限りではそれが唯一の手掛かりなんです」

「ふむ……ちなみに、君達が本当に探しているという人物は何者なのかね?」

「二曲輪猪助という人です」

 あゆが身を乗り出して答える。

「勿論偽名かもしれないんですけど、彼は私のお祖父ちゃんの親友なんです」

「……そうか」

 意味ありげに頷くと、時芳はソファーの背もたれに背中を寄り掛からせる。

「二曲輪猪助。懐かしい名前だ」

「彼を知ってるんですか?」

「勿論だとも。何せ、かつてこの私と兄弟盃を交わした仲だからな」

 いきなり飛び出した衝撃発言に、三人はそれぞれの意味で目を丸くした。

「兄弟盃ですって?」

「ああ。随分と昔の話だ。しかし、これも奇縁という奴か。まさかこんなところで猪助を探す者と、東雲宗仁の孫娘に会えるとはな」

「お祖父ちゃんのことも知ってるんですか!?」

 あゆが驚くのは当然として、紫月からしてもこれは大きな進歩だった。いままで全く手応えを感じなかった調査が、ここに来て大きな転機を迎えたのだ。

 時芳は遠い目をして語った。

「お嬢さんは知らないだろうが、東雲宗仁と二曲輪猪助はかつてこの極星会・北条一家の内部組織である『風魔一党』の二大巨頭だった。忍の技を以てあらゆる組織の情報を盗み出し、いざ他の組の抗争とあらば人離れした仕業を成して北条一家の栄華を支え続けていた」

「風魔一党だと?」

 紫月も名前くらいは知っている。風魔一党は探偵達の間でも相当騒がれていた謎の一団で、彼らが関わる仕事は避けて通るのが、ここら近辺に事務所を構える探偵達の暗黙の了解だった。

 時芳の話は続く。

「だが、二人は突然、私の前から姿を消した。私がある取引に関わるようになってから、彼らはこの私を見限ったのだ」

 口調こそ穏やかだが、紫月の目には彼の唇の隙間から、いまにもマグマが噴出しそうな熱量が漏れ出しているように見えた。

「君達の質問に答えよう。まずは伊崎愁斗についてだが……彼は事務所と共にこの町から消え去った。それは何故か。彼は自身が担当した仕事で、たった一つの大きなミスを犯したからだ」

 普通なら、もう喋らなくていいと相手を制していただろうが――相手が相手でもあるし、何よりこれから先に語られるであろう真実が危うい魅力を秘めているような気がして、咄嗟に耳を塞ぐ気にもなれなかった。

「彼はとある指定暴力団が絡む案件に知らず知らず首を突っ込んでしまっていた。そして暴力団のボスは自らの部下に対し、当時その案件に関わっていた部外者を皆殺しにするよう命じた。そのリストには当然、伊崎愁斗と、彼の部下の名前が記載されていた」

 いきなり、ジャカジャカと妙な音がしたかと思えば、周囲を固めていた組員が自動拳銃の銃口を一斉に前方へ突き出していた。

 狙いはもちろん、紫月とあゆ、それから青葉の三人だ。

「しかし、それは全て、ボスの自作自演だった。彼は最初から伊崎愁斗に対して、自分達の案件をわざと踏ませるように仕組んでいたのだよ。その案件の依頼人もボスの差し金だったと奴が気付いたのはいつの話なんだろうな」

「中々えげつないですね。ところで、得物のマズい方がこっちを向いてるんですが?」

「この状況を前にして驚かないどころか平然としているとは、その胆力にはさすがの私も恐れ入ったよ。若い頃の私はそこまで肝が据わっていなかったからな」

 紫月だけでなく、青葉もあゆも何故か平然としていた。この状況に理解が追いついていないのか、はたまた本当に恐怖を感じていないのか。

「それだけの器量があるなら、是非うちの組に欲しいもんだがね――君達は一体、何者なんだね?」

「通りすがりの探偵さ」

「覚えておこう」

 時芳は立ち上がるや、部下の一人から渡された大太刀を抜き、刃先を紫月の首元に添えていやらしく笑った。

「君達の話を聞いて気が変わった。悪いがこのまま私達と一緒に来てもらう」

「悪いが俺達三人を三枚おろしにしても美味しい刺身は食えませんよ?」

「安心しなさい。私達に刃向かわなければ命の保障だけはしておいてやろう」

「私達を何の目的で、何処へ連れて行くつもりだ?」

 青葉が表情一つ変えずに問うと、時芳は彼女を一瞥して目を細めた。

「何の目的かは後で話してやろう。それから、連れて行く場所は着いてみてのお楽しみだ。きっと、君達の年代ならそこそこ楽しめる代物には違いない」

 時芳が剣を引っ込めると、組員が数人掛かりで三人を強引に引っ立てた。

 この時、紫月はいまさら後悔した。

 やっぱり、あゆと青葉は彩萌市に残しておくべきだった――と。


   ●


「なーにが、君達の年代ならそこそこ楽しめる、だ」

 青葉が頬を膨らまして文句を漏らす。

 それもその筈。いま紫月達が閉じ込められているのは、周りが暗色の石で固められた牢屋の一室だった。北条一家の連中に目隠しされて車の中に押し込められた挙句、こんな場所に連れてこられた上に「楽しめや」とか言われたら、大抵のことでは動揺しない青葉もさすがに文句の一つくらいは口からぽろっと出てしまうだろう。

碁盤の目みたいな形状の鉄格子をぼうっと眺め、紫月は呟いた。

「スマホも取り上げられちまったし、そもそもここでいくら助けを求めても圏外なのは間違いないな。ほんと、つくづく運の無い人生だったよ」

「諦めるのはまだ早いよ」

 あゆが石の壁をぺたぺた掌で触っている。

「さっき見張りの人が出て行ったでしょ? 多分、新しい見張りの人が来るんだと思う。その間は脱出の手段を探すチャンスがあるってことだよ」

「残念ながらそれも無理そうだ」

 青葉が天井の隅を見上げて言った。

「天井の四方に監視カメラが設置されている。あまり下手には動けないぞ」

「凄いな、青葉。よくそんなのを見抜いたな」

「何だ、君も分かっていたのか」

「ここに入った時から薄々な」

 職業病なのか、屋内に入ると必ず監視カメラを探す癖が身に染みている。この癖が役に立つ機会は案外多い。

 だが、青葉にも似たような癖があったのはちょっと意外だった。もしかして、彼女も探偵かそれに類似する職業に従事しているのだろうか。

 唐突に、とある一夜の激戦を共にした、見えない相棒の姿を思い出す。

「……いや、まさかな」

「どうした?」

「独り言さ。気にするな」

 いまは青葉の素性よりここからの脱出が優先だ。さて、どうしたものか。

 三人が牢屋の隅に鎮座する小汚い洋式便器の話題で時間を潰していると、交代の見張り要員が鼻歌混じりに鉄格子の傍にやってきた。

 無論、三人は気にせず便器の話題に没頭している。

「ていうか、あの便器って水流れるのかな」

「水洗じゃないとさすがに困る――と言いたいところだが、近づくのも躊躇うくらいには汚いな。便座に何か黒いのがこびりついてるし」

「使用中の場面が丸見えなのもちょっと……」

 牢屋の中で男子高校生一人と女子高生二人が便器の話題で盛り上がる絵面は、見張りの男からすればさぞかし可哀想に映っただろう。

 ていうか、男女で牢屋を分けるくらいはしてやれよと思わなくもない。やはり男所帯のヤクザ集団には女性に対するデリカシーが欠如しているのだろうか。

 ややあって、見張りの男が牢屋の中を覗き込み、呆れたように口を挟んできた。

「おいてめぇら、何でそんなに平然として――」

 男の目は、その一瞬で限界まで見開かれた。

「お前、青葉か!? 何でこんなトコにいやがんだ!?」

「野島さん?」

 どうやらお互い知り合いらしい。二人揃って口をぽかんと開けていた。

 野島なる男は二十代後半くらいの優男で、その肉体は細そうに見えて頑強そうだ。顔だけベビーフェイスの、体は体育会系といったところか。

 いや、待てよ? 俺、この人に見覚えがあるぞ?

「何であんたがこんなところに?」

 青葉が訊ねると、野島はやや逡巡し、小声で答えた。

「事情の説明は後回しだ。監視カメラの目もある」

 あまり親しげに会話していると、それこそ野島とやらの立場も危ういのだけはよく分かった。

「貴陽さん、その人知りあ――」

 うっかり開かれたあゆの口を、紫月は全速力で塞ぎに掛かった。

「ふごごごごー!」

「いやぁ、青葉にも随分とカッコイイ彼氏さんがいたんだねぇ」

「紫月君。いま君は屈辱的な誤解をしているらしいな」

 青葉なりの照れ隠しだろうか。余計に彼女が可愛く思えてきた。

「ヤクザの舎弟が君の彼氏だったのは運が良かった。せっかくだから恋人のよしみってことで、青葉だけでもここから出して貰えるように進言してもらえばいいじゃん」

「……………………」

 無表情がデフォルトの青葉が段々と不機嫌になっていくのが分かる。でもここはどうか堪えて欲しい。青葉さえ無事なら、後は警察を呼んで北条一家を誘拐・監禁の容疑で現行犯逮捕すれば済むだけの話だ。

 しかし、青葉はこちらの思惑には乗らなかった。

「脱出した私が警察に通報する危険性を、あの北条時芳が織り込まないと思うか? そんなことを進言してもこちらの状況は全く好転しない。この男の首が地に転がり、残してきた君達にも更なる危険が及ぶだけだ」

 感情論を抜きにして、隙の無い正論だった。

「君はもっと賢い奴だと思っていたが、どうやら私の見込み違いだったらしいな」

「そんなに怒るなよー。ちょっとした冗談だってばー」

「だとしてもこの男と私が付き合っているなどという悪質な冗談だけは絶対に許さん」

「お前、さらりと俺までディスってんじゃねーよ」

 野島の突っ込みには哀愁が漂っていた。

 それにしても、この会話を時芳は聞いているのだろうか。監視カメラや盗聴器などを経由して何処か別の場所で聞いているのだとすれば、少なくとも彼の居場所はこの牢屋とは比較的近い筈だ。

 あともうちょっとだけ、時間潰しを続けてみるか。

「野島さん、でしたっけ。俺達、何でこんなとこに閉じ込められたんすかね?」

「さあな。どうやら何者かをおびき寄せる餌としてお前らがおあつらえ向きだったという話らしいが、それ以外は本当に何も知らねーよ。俺だって、ある人の紹介でついさっきこの組で働かせて貰えるようになったばかりだし」

「もしかして、あんたの前に見張りをやってた人も新人さんだったりして」

「よく分かったな。そうだよ。ここの番にあてがわれているのは組に入って日が浅い、入りたてホヤホヤのベビーちゃん達ばっかりだ。中途半端に年数を重ねた奴が見張り番をやると、下手を打って内部事情をゲロっちまう場合があるからな」

 捕虜の扱いは見張り番も含めて細心の注意を払っているらしい。正しい判断だ。

 でも、だったらトイレの掃除と部屋割りくらいはちゃんと考えて欲しい。

「そういえば、何者かをおびき寄せる餌とか聞こえたんですけど」

 あゆが不安そうに訊ねる。

「それってもしかして、二曲輪猪助さんだったりして……」

「行方不明の奴をどうやって誘い出すんだ」

 青葉がまたしても正論を述べる。

「連絡先も分からん相手に人質作戦は通じない。この場合は二曲輪を誘い出すというより、君と近しい間柄の人物を誘い出すと考えた方が早い」

「北条が狙っているのは東雲さんのお祖父ちゃんか」

 理解しつつも、紫月には一つだけ、解せないことがあった。

「だとしたら、いまさらそっちを狙う理由は何だ?」

「たしかに。北条の口ぶりだと、奴が恨んでいたのは二曲輪と東雲宗仁の両方だ。二曲輪はともかくとして、所在がはっきりしている東雲宗仁をわざわざこんなところまで誘い込む理由がよく分からない」

 青葉も同じ疑問に至っていたらしい。昨日の今日でここまで早く状況を呑みこむ彼女の理解力には舌を巻く。

「? 何だ?」

 野島の頭がくいっと上がる。

「どうしました?」

「いや、さっきから上が騒がしいような」

 また何か状況が動きでもしたか――紫月は微かな期待と共に耳を澄ませてみる。

 たしかに、これより上の層で誰かの悲鳴と銃声が連続している。

「まさか、本当にあの爺さんが助けに来てくれたのか?」

「だとしたらチャンスだ」

 青葉はいつになく急かしたように告げる。

「野島さん。いますぐここから私達を出してくれ。鍵は持ってる筈だ」

「勘弁してくれよ。俺にだって仕事が――」

「四の五の言ってる場合か。悪いが私達と会話してる時点でこの仕事はご破算だ」

「くっ――ええい、クソ!」

 野島は逡巡した挙句、牢の鍵を開ける。三人はするりと鉄格子の向こうに逃れると、奥の階段から近づいてくる足音を聞いて身構えた。

「北条の奴、早速私達を盾にするつもりだぞ」

「どのみち逃げるしかないんだ。腹を決めて突っ切るぞ」

 紫月が意気込んだのと同じくして、階段から二人の男が姿を現し、うち一人がこちらの姿を確認して大声を張り上げた。

「あっ! てめぇら、何して――」

 男二人が慌てて懐から銃を抜いた時には、青葉が既に片割れの一人の懐に潜り込み、その顎に鋭い掌底を決めていた。

 残った片方が青葉に銃口を向ける。だが、彼女はたったいま倒した男の手からこぼれて宙を舞う銃をキャッチし、相手の発砲に合わせて身を沈め、寝そべった姿勢のまま奪ったばかりの銃で発砲。相手の銃を見事に弾き上げた。

 紫月が即座に疾駆、跳躍。天井から落ちて来た銃を掴んでハンマーみたいに振り下ろし、銃床で相手の頭をかち割って昏倒せしめた。

「あめいじーんぐ」

「……マジか」

 あゆが小さく拍手して、野島が唖然として固まる。

「あの青葉と呼吸を合わせやがった……マジ何モンだよ、お前」

「通りすがりの探偵です。じゃ、行きましょうか」

 紫月と青葉は銃の調子と残弾数を確かめると、野島とあゆを伴って階段を駆け上がり、やがて倉庫みたいな空間に躍り出た。

 どうやらここは平屋の中だったらしい。扉はさっきの男二人が出入りしたせいか開けっ放しになっている。ちなみに、もう悲鳴や銃声などは聞こえない。

 まずは紫月が先行して外の様子を覗き見て、安全を確認してから残りの三人を招き、この平屋から脱出して近くの森林に走り込んだ。

 四人は手近な広場を見つけて、そこでどさっと腰を落として息を整える。

「ここまで来ればもう大丈夫だろ」

「全く、今日はとんだ災難に見舞われたな」

 この状況下にあっても青葉は平然を装っていた。一度でいいから、青葉の精神構造を覗いてみたい気分になる。

 対して、野島は情けなく泣き言を吐かしていた。

「勘弁してくれよ、全く。俺が連中のアジトに潜入するまでにどれだけ苦労したと思ってんだ。お前らのせいで全部台無しだ!」

「そもそもあんたは何であんなところに居たんだ」

「あー……それはだな」

 野島が紫月とあゆを気にしている素振りを見せる。あれは特定の誰か以外には秘密にすべき話を切り出したい時のそれだ。紫月にとっては慣れ親しんだ仕草である。

「俺はある事情で人探しをしていたんだ。そこで、探したい奴の情報を握っているかもしれない組織に潜入捜査することになった。でも、まさかお前までこの案件に関わっていたなんて予想外もいいところだよ」

「さっきあんたは、ある人の紹介でここに来た、とか言ってたな」

 青葉が躊躇なく訊ねる。

「その、ある人って何だ?」

「極星会・唐沢一家の若頭だよ」

「唐沢一家。四季ノ宮に縄張りを持つ極星会系列の組織だな」

 青葉はヤクザの情勢に詳しいようだ。覚えておこう。

「これで話は繋がった。では、続きを聞かせてもらおう」

「おい青葉。勝手に話を進めるな」

 紫月は不機嫌を隠そうともせずに言った。

「青葉と野島さんって、本当はどういう関係なんだ? ていうか、青葉は俺達に何か隠し事でもしてるんじゃないのか?」

「野島さんは私の知人の友人だ」

 随分と胡散臭い関係性だ。あからさまな嘘としか思えない。

「私は野島さんがどんな職業に就いている人間かは知らないし、知ろうとも思わない。だが、少なくともこちらの味方なのは間違いない」

「本当かぁ?」

「そんなことより、いまは野島さんの話を聞こうじゃないか」

 青葉が水を向けると、野島はため息を吐いてから話を続けた。

「……俺が探している奴は四季ノ宮に籍を置いていた。しかも北条一家と何らかの深い関わりがあったらしい。だから四季ノ宮の自警団を自称する唐沢一家のもとに訪れて色々話を聞いていたんだが、そこの若頭も探し人の行方は知らないらしい。だがこっちの仕事には協力してくれるってんで、俺は彼の紹介で北条一家の舎弟として奴らのアジトに潜入したんだ。北条一家が最近手を染めたとかいう、ある取引の情報を調査するという交換条件を提示されてな」

「なるほど、分からん」

 あゆが腕を組んで偉そうに頷いた。さっきから思っていたが、彼女はあまり頭がよろしくないご様子である。

 紫月は仕方なく注釈を入れてやる。

「つまり、野島さんと唐沢一家の間で利害の一致が生まれたんだよ。野島さんは探し人の情報を掴みたくて、唐沢一家は北条一家の秘密を暴きたい。だから手を組んだんだ」

「おー、なるほど」

 あゆが掌の上に拳をぽんと置いた。本当に分かっているんだろうか、こいつは。

「でもでも、言ってみればそれって兄弟喧嘩みたいなもんだよね」

 疑った俺が悪かった。ちゃんと理解しているようで何よりだ。

「すんげー分かり易い例えをありがとう」

 野島が平たい声で言う。

「ともかく、俺は二つの情報を握ったらとんずらをこく予定だったんだ。なのに青葉、お前ときたら……つーか、お前こそ何でこんなとこにいるんだよ」

「私は興味本位で紫月君と東雲さんの人探しに付き合っていただけだ」

 興味本位、のあたりが嘘っぽく聞こえる。

 というか、今日の青葉はいつにも増して白々しい気がする。

「それより野島さん、あんたは二曲輪猪助という人物を知っているか?」

「誰だよ、それ」

「じゃあ、伊崎愁斗という人に心当たりは?」

 この紫月の質問で、野島の挙動が一時停止する。

「野島さん?」

「ちょっと待て、何でお前が伊崎の名前を知ってるんだ?」

「……まさか、あんたが探してるとかいう人って――」

「銃声が止んだ」

 あゆが唐突に呟く。

「もし本当にお祖父ちゃんが来たんだとしたら……」

「落ち着け、東雲さん」

 いまにも走り出しそうなあゆを、青葉が冷静に制した。

「いま私達が行っても無駄足にしかならない。せっかく危機を脱したのに、わざわざ自分から死地に赴くつもりか」

「でもっ」

「とりあえず警察に連絡を入れるのが先だ」

「俺達のスマホ、さっき没収されてなかったっけ」

「俺の端末もうっかりアジトの中に置いてきちまった」

 これで野島を含めた全員が文明社会から隔離された形になる。もし助けを呼びたいなら、まずはこの森を抜けなければ話にならない。

 紫月はいつの間にか暮れていた空を見上げて野島に訊ねた。

「野島さん。そういえばここって何処なんですか?」

「四季ノ宮の郊外だ。ここからだと街中に出るまで歩いて一時間ってところか」

「一時間!?」

 あゆがさらに狼狽する。

「そんな悠長に待ってられないよ!」

「いい加減にしろ。他にどうしろってんだ!」

 野島がとうとう怒鳴り始めた。

「悪いが城まで乗り込むのだけは勘弁だからな! あそこは風魔一党のアジトだぞ。下手に踏み込んだら帰ってこれる保障なんて一切無いんだからな!」

「ちょっと待て。いま何て言った?」

 青葉がぴくりと眉根を寄せる。

「風魔一党のアジトだと? 何の話だ?」

「お前らが囚われていた平屋から少し行った先に風魔一党のアジトになってる城があんだよ。あそこには北条一家の連中だけじゃない。本物の忍者集団がうじゃうじゃいやがんだ。あんなとこに突入するなんて、命が幾つあったって足りやしねぇ」

 これはいいことを聞いた。つまり、あそこに乗り込めば二曲輪猪助に関する重要な情報が眠っている可能性があるという訳か。

 紫月はすくっと立ち上がった。

「なるほど。それなら乗り込む価値はありそうだ」

「お前、人の話聞いてた!?」

 野島がさらに驚嘆する。

「人殺しの巣窟にお散歩気分で入ろうってのか? 正気の沙汰じゃねぇよ!」

「俺達が探している人の元・職場が見られるんだ。悪い話じゃないと思いますがね」

「君が行くなら私も行こう」

 青葉も身軽に立ち上がる。

「どのみち北条が私達を簡単に野放しにする訳が無い。どうせ戦うことになるなら早めに終わらせた方がいい」

「同感だ。いまは幸い、誰かが上で暴れているみたいだし。火事場泥棒をするにはうってつけだな」

 いくつかの疑問が残るとはいえ、これはある意味チャンスと言える。騒ぎの原因が何かは知らないが、混乱に乗じて城内から何らかの情報を引っ張り出せれば好都合である。しかも乗り込んできたのが本当に東雲宗仁なら、彼の姿を見つけさえすれば撤収の目途も立つ。

 危険はあるものの、何から何まで食い出のありそうな状況が揃っている。

「東雲さんは野島さんと一緒にこの森を抜けてくれ。俺と青葉は城の中で家探しする」

「待って、私も行く!」

 あゆが身を乗り出して言った。

「私だってお祖父ちゃんに鍛えられてるし、足手纏いにはならないから」

「いや、さすがにそれは――」

「いいじゃないか」

 躊躇う紫月とは反対に、青葉が気軽に賛成する。

「危険なのは戦闘の渦中だけだ。裏からこっそり調べものをする分には大した危険も無い。それに、さっき連中から奪った銃もある」

 何処で鍛えられたのかは知らないが、青葉の戦闘技術――とりわけ射撃に関する技能は現職の警察官を遥かに凌駕している。年の割には期待出来る逸材だ。

「……分かった。でも、勝手な行動だけはするなよ」

「うん」

「ちょっと待て、本当に行く気か!?」

 野島がしつこく訊ねてくる。

「いますぐ考え直せって。な?」

「行きたくなければ、いますぐこの森林から脱出しろ」

 青葉が冷たく言い放つ。

「その代わり、するべきことはちゃんとしろ。戦場の外でもやれることはあるだろう」

「…………」

 野島も言葉を完全に失っていた。

 青葉は平屋のある方角を指差す。

「一旦平屋まで戻って、車道に出てから城まで真っ直ぐ駆け上がる。いいな?」

「OK、リーダー」

「行こう」

 あゆが首を縦に振ると、三人は揃って走り出す。

 一人置いてきた野島は、終始その場でぽかんと立ち止まっていた。


   ●


 愛知県から白猫探偵事務所に戻ってきた幹人を待っていたのは西井和音だけだった。

 彼女は野島弥一と違って事務所の番を唯一任せられる優秀な人材なのだが、だからといって彼女が一人だけで長時間留守番しているというのはいささか問題があった。

「西井君。野島君から定時連絡が来ている筈なんだが」

「例の潜入捜査ですか。こっちはあいつからはまだ何も報告を受けてませんよ」

「そうか。ところで、青葉は何をしている?」

「青葉は今日休みじゃないですか」

「……忘れていた」

 和音が一人なのは、単純に幹人のスケジューリングが甘かったからである。

「まあいい。で、今日は新規の依頼が何件だ?」

「二件っす。こっちの人員のこともあるんで、順番待ちってことにしてもらってます」

「よろしい」

 幹人は執務机の上からリモコンを取り、55型の最新型テレビを点灯した。

 早速写し出されたニュース番組を目にして、幹人は少しばかり興味をそそられる。

『先日東京湾の底から引き上げられたドラム缶の中身を解体したところ、中から白骨化した人間の死体が発見されました』

「新渡戸が前に電話で言ってた奴だな」

「東京湾を掃除していた清掃船が見つけたとかいう不自然なドラム缶ですね。たしか、女子高生の死体がドラム缶の中で発見されたって事件が昔あったような……」

 和音が言っているのは『女子高生コンクリート詰め殺害事件』のことだ。複数の非行少年が一人の女子高生に対して寄って集って強姦及び暴行を働き、命絶えるまで責め抜いた挙句ドラム缶の中に彼女の死体が入った旅行バックを詰め、コンクリートをドラム缶に流して固めて何処ぞの埋立地に遺棄したという、馬鹿みたいに徹底された複合犯罪である。

 当時はまだ少年犯罪の危険性に対する意識が希薄だったのもあり、加害者と被害者が双方未成年で、監禁の事実に気付いていていながら周囲の人間が見て見ぬ振りを決め込んでいたのもあって、この事件は社会に大きな衝撃を与えた。

 閑話休題。アナウンサーが被害者の名前を公表する。

『警察によりますと、死体はつい半年前に行方不明となった二曲輪猪助(年齢不詳)さんのものであると推測されています。彼は指定暴力団組織、極星会・北条一家において諜報員として活動していた、組織の中核的存在です。警察は彼の死について北条一家が何かしらの関わりを持つものとみて――』

「ヤクザの内輪揉めっすかね」

 和音がくすりと笑う。

「北条一家といえば『風魔一党』を擁する武闘派の連中でしたね」

「あまり関わり合いにはなりたくない連中だ。まあ、野島君が唐沢一家の連中と友好関係を築いてくれたおかげで、我々の身柄についてはそこそこ安全が保障されている。あの男もたまには役に立つものだ」

「あまり褒めると図に乗りますよ、あいつ。たしかに優秀な奴ですけど――」

 和音が作業していた机の上で、固定電話の電子音が甲高く鳴り響く。彼女は幹人をちらりと見て、外部スピーカーをオンにしてから受話器を取った。

「もしもし、こちら白猫探偵事務所」

『その声、西井か!?』

「あれ? 野島じゃん。随分と連絡するの遅かったけど、何かあったの?」

『いま四季ノ宮の公衆電話から発信してる。それより大変だ。青葉が『風魔一党』のアジトに乗り込みやがった!』

「はあ?」

 彼が何を言っているのか、大して事情を知らされていない和音には理解不能だっただろう。勿論、幹人にも半分くらい理解が及んでいない。

 何で、この状況で青葉の名前が弥一の口から出てくるのだろう?

『とにかく、早く救援を呼んでくれ! このままじゃ本当にあいつ死ぬぞ!』

「西井君、代わってくれ」

 幹人は和音から受話器を受け取ると、ため息混じりに弥一を諭した。

「野島君、私だ。とりあえず落ち着け。何があったか、最初から私に説明しろ」

『社長っ……』

 幹人の声を聞いて落ち着いたのか、弥一はこれまで彼の身に起きた出来事を詳細に説明した。

 全てを聞き終えた幹人が、空いた片手で顔面を覆う。

「……青葉の奴。何でそんな面倒に首を突っ込んだんだ?」

 普段の青葉なら絶対に有り得ない行動だ。彼女は好奇心旺盛なところがあるとはいえ、関わっていい範囲と良くない範囲の区別は誰よりもはっきり線引き出来る人物である。

「風魔の連中には関わるなとあれほど言っておいたのに。で、たしか青葉の他に二人いたという話だな。念の為、どういう奴らか教えてくれ」

『一人は東雲とかいう女の子で……もう一人はシヅキって呼ばれてたか……』

「シヅキ?」

 最近、青葉がよくその名前を口にしていたような気がする。

葉群紫月。出会い方にはちょっとした問題があったとはいえ、それ以降は良き友人として付き合っているという青葉と同い年の少年だ。余程彼女の御眼鏡にかなったのか、三日に一回は彼の話をするし、時々夕飯も彼と一緒に外で食べていくらしい。

「……野島君。君はしばらく四季ノ宮の何処かで待機してろ。いまから西井君をそちらに送る。彼女が運転する車に乗って、この事務所まで一旦戻って来い」

『青葉はどうするんすか?』

「彼女ならしばらくは大丈夫だ。あと、この案件は絶対に外へは漏らすな。唐沢一家への報告も含めて、後の心配はもうしなくていい。それから、青葉の暴走については私の監督不行き届きだ。君の仕事を台無しにして大変申し訳ない」

『そりゃ別にいいっすけど……』

「あまり悠長に喋っている時間は無い。切るぞ」

 幹人は有無を言わさず受話器を戻すと、和音に社用車のキーを投げ渡した。

「事態は急を要する。悪いが残業してもらうぞ」

「了解。社長は?」

「ここに残って裏方の作業をこなす。青葉に書かせる始末書も用意しなければな」

「分かりました。じゃ、行ってきます」

 和音は上着を引っ掛けて慌ただしく事務所から飛び出した。

 一人になり、幹人は青葉がいつも座っている椅子に腰を落として嘆息する。

「青葉……随分とお前らしくない真似をしたな」

 呟いてから、幹人は立ち上がって自らの執務机に向かい、机上の写真立てに収められた一枚の写真をしばらく眺めていた。

 これは青葉が幹人に引き取られて間もない頃に撮影された一枚だ。この頃の彼女は罪の意識も無く無表情で暴力を振り撒く病的な少女だった。きっと、自らの悲惨な生い立ちに対する折り合いが付けられていなかったから、内心で燻っていたフラストレーションを小出しに消費するようになったのだろう。

 でも、いまの彼女は理知的で大人びた一人の女性として成長した。

 なのに、何故――

「いかんな。韜晦するのも私の悪い癖だ」

 いまは自分が成すべきことに集中しよう。彼女への詰問はその後だ。

 幹人はまず、写真立ての隣に置かれた固定電話に手を伸ばした。



 同時刻、幹人が見ていたニュースを、杏樹も自らの事務所のテレビを通じて知った。

 口に挟んでいた煎餅をぽろりと床に落とし、杏樹は呆然と呟く。

「二曲輪猪助って……東雲さんが探していたとかいう人よね」

「ですな」

 自分の事務机で湯呑みを呷っていた轟が適当に応じる。

「じゃあ、紫月君に連絡入れないと」

 杏樹は自らのスマホを操作しつつ、内心では半分くらい幸運に思っていた。あゆの依頼はタダ働き同然なので、そんな仕事の為に一か月も紫月を貸し出すのは正直なところ気乗りしなかったのだ。

 でも、捜索対象がこの世から消えた時点で紫月の仕事も意味を成さなくなる。依頼者には申し訳無く思うが、この情報は黒狛探偵社全体で見れば朗報に値する。

 一昔前の自分なら胸糞の悪い気分になっていたものだが、いつしか不思議と冷酷な計算が出来る年頃になってしまった。年は取りたくないものである。

「あれ、おっかしいな」

「どうかしたんすか?」

「紫月君に全然繋がらない」

 さっきから何度発信しても応答が無いどころか、電源を切っているか電波の届かない場所にいる可能性があるなどと言われてしまった。

「あの子、いま何してるんだろ」

「もしかしたら自宅のアパートで依頼者に手を出してたりして」

「くたばれ」

 床の煎餅を拾い上げ、投擲して轟の頭に見事命中させる。

「紫月君はそんな悪い子じゃありません」

「どうかな。俺もあんたと一緒にちんまい頃からあいつを見てきたが、いまになってもあいつの考えてることなんて分かりやしねぇ」

「それはっ……」

 何か反論しようと思ったが、出来なかった。全く以てその通りだからだ。

 杏樹は苦し紛れに話題を戻す。

「……そんなことより、どうやって紫月君と連絡をつけようか」

「こんなとき、都合良く誰かから電話がピロロロローンって」

 ピロロロローンと、杏樹の執務机の固定電話が電子音を奏で始めた。

「……社長。念の為言っておくが、俺はESP能力者なんかじゃないっすよ?」

「分かってるって。ちょっと驚きはしたけど」

 杏樹は内心でちょっとした恐怖を覚えつつ、受話器を取ってスピーカーを恐る恐る片耳にくっつけた。

「もしもし、こちら黒狛探偵社です」

『もしもし、夜分遅くに申し訳ありません。私は東雲あゆの父兄の者です』

「え? 東雲さんのお父様ですか?」

 随分と意外な相手だ。あゆはこの件を親に秘密にしていたのではないのか?

『あの……私の祖父から伺ったのですが、うちの娘が大変なご迷惑をおかけしているようで、その……』

「いえ、こちらも娘さんのご依頼を受けざるを得ない事情がありまして」

 主に紫月のせいだが。

「娘さんの人探しにつきましては、こちらで善処させていただきます、はい」

『いえ、今日はその件ではないです』

「と、いいますと?」

『さっきテーブルの上で父――東雲宗仁からの書き置きが見つかりまして。その中に何故か黒狛探偵社の連絡先が記載されていたんです』

「私達の?」

『ええ。もし今日あゆの帰りが遅くなるようなら、ここに連絡して貴方達に彼女を迎えに行ってもらうように頼めという指示が書かれていまして。あゆが二曲輪さんの捜索をここに依頼していた旨も書かれていましたから、おそらくいま何が起きているのか、黒狛の皆さんはご存知なのではと思ったのですが……』

「私の方は何も――って、ちょっと待ってください」

『はい?』

「いま、「迎えに行ってもらうように」っておっしゃっていましたね。もしかしてその書き置きに私達が向かうべき場所が記載されているのでは?」

『ええ、書いてあります。場所は……四季ノ宮郊外の山道の頂上にある城です』

 あそこは四季ノ宮のとあるお偉いさんが住んでいると噂の時代錯誤な城だが、実態は北条一家が所有する風魔一党のアジトだ。

「まさかそこに東雲さんが……? でも、何で?」

『分かりません。ですが、警察に連絡したらそれこそ危険な事態になる気がして……』

「話は大体分かりました。とりあえず、いまから城の状況を確認しに行ってきます」

 杏樹は二言三言締めの挨拶を交わすと、受話器を置いてしばらく黙考する。

 東雲宗仁が指定した場所にあゆがいるなら、紫月も同伴していることになる。でも宗仁がどうやってあゆの所在を掴んだのかが分からない。

 とても嫌な予感がする。二曲輪猪助が死亡した件についても謎が多い。

「……轟君。出かける前にもう一回電話するから、車をいつでも出せるようにしといて」

「あいよ」

 轟が妙に軽い気分で事務所から出ると、杏樹は固定電話で別の番号を呼び出した。

 相手がスリーコールで応答する。

「あ、新渡戸さん? あたしあたし。皆大好き杏樹ちゃん」

『何だぁ? このクソ忙しい時に』

 よく便宜を図ってもらっている新渡戸文雄巡査長が、開口一番で悪態を吐いた。

『こちとらデカいヤマが二つも重なって大変なんだよ。悪いがそっちの仕事に構ってられる時間なんて皆無だ』

「あら、そうなの。私達も実は結構ヤバいことになってて、訊ねたいことがいくつかあるのね。まあ、そっちに関係があることなのかは謎だけど」

『ちゃっちゃと終わらせて仕事に戻りたい。用件を手短に言え』

「さっき人の死体が詰め込まれたドラム缶が発見されたっていうニュースが流れたんだけど、そのことについて何か面白い話があったら聞きたいなー、なんて」

『奇遇だな。俺も丁度、その事件の捜査に駆り出されるところだ』

「おうっ?」

 早速リーチを引き当てた。ビンゴまであと一歩といったところか。

「新渡戸さんってぇ、やっぱり何か持ってるよねぇ」

『そういうお前の持ち物はどうなんだ?』

「それなんだけどぉ――」

 杏樹はかいつまんで、いま紫月が関わっている依頼の情報を提示する。勿論、依頼者に関するプライバシーや、こちらの信用に関わる部分は伏せてある。

『……なるほどな』

 新渡戸が嘆息混じりに頷く。

『お前さんも二曲輪を探していた訳か。でも悪いな。こっちはさして面白い話なんざ持ち合わせちゃいねぇぞ? むしろこっちの方が情報量は少ないくらいだ』

「回収した遺体の解剖っていまどうなってるの?」

『仏さんの身元を示す物が無いんで、採取した遺伝子情報をもとに科捜研が身元を割り出そうとしている。悪いが真相の解明には結構な時間が要る』

「そう。まあ、あまり期待しちゃいないけど」

 組織形態の関係上、警察の捜査には大幅な時間が消費される。警察が全てを知るまでに、民間側が全てを解明して解決する可能性も無くは無い。

「それから、さっき二つもデカいヤマが重なってるとか言ったけど、もう一個は何よ」

『麻薬だよ。……いや、麻薬じゃねぇな』

 どっちだよ。

『とにかく薬物絡みだ。いま話題の仏さんと関係があるかもしれんから、とりあえず家宅捜査の令状を作って北条一家にガサ入れする予定がある』

「問題の薬物ってどんな種類のやつなの?」

『……他には絶対に漏らすなよ?』

 新渡戸の声があからさまに小さくなる。

『スマートドラッグだよ。しかもかなり危険なやつだ』

「要は覚醒剤みたいなもんでしょ? ヤクザの商売ならよくある話よね」

『話はそう単純じゃねぇ。人体にこれまでとは規格外の効果をもたらす危険ドラッグだ。俺が内緒で使っている情報屋はその薬物を『PSYドラッグ』って呼んでいた』

『おい新渡戸ぇ! いつまで電話してんだクルァ!』

 受話器のスピーカーから音割れした怒声が突き抜けてきた。心臓に悪い一撃である。

『さっさと来いや、このバカタレェ!』

『先輩スンマセ――池谷、とりあえずもう切るからな!』

 怪しげな情報交換は呆気ない幕切れを迎えた。

 杏樹は受話器を再び置き、自分の執務机の引き出しから一丁の自動拳銃を抜き出し、上着のポケットに仕舞いこんだ。ちなみにこの銃は紫月が愛用しているものと同じ型である。

「よし、行くか」

 両手で顔を叩き、杏樹は駆け足で事務所を辞した。


   ●


 石垣の上に聳え立つ城の足元で、夥しい数のスーツ姿の死体が横たわっている。

 これらの光景を目にしたあゆが口元を両手で覆う。

「酷いっ……」

「好都合だな」

 青葉は遺体の傍に跪き、彼らが大事に握り締めていた銃から弾倉だけを抜き出し、上着のポケットに仕舞いこんで行った。

「貴陽さん、何をしてるの?」

「さっき奪った銃を見て気付いた。こいつら皆揃って全く同じ銃を使っている。だから弾倉の型も弾丸もおそらく共通している筈だ。さっきからずっと弾切れを心配していたが取り越し苦労だった」

 喋っているうちに十分な弾薬を回収したらしい。青葉は最後に適当な一人の手から銃をもう一丁取り上げてジャケットの懐に仕舞った。

 紫月は足元に在るうつ伏せの死体を爪先で仰向けにして、斬り裂かれた首筋を見下ろして呟く。

「急所が的確に斬り裂かれてる。殺った奴は相当な手練れだな」

 ざっと眺めて見つけた限りでも死体の数は三十前後だ。銃器で武装した複数の相手をこんな有様にして突破するような人間は、紫月が知り得る限りだと一人しかいない。

 紫月は死体の一人の胸に刺さっていたクナイを抜いた。

「どう考えても忍者の仕業としか思えない。やっぱりここに乗り込んだのは……」

「詮索は後回しだ。とりあえず中に入ろう」

「そうだな」

「二人共、どうしてそこまで平然としていられるの?」

 あゆが紫月と青葉に怯えたような目を向ける。

「おかしいよ。だって、こんなにいっぱい人が死んでるのに」

「俺はもっと酷い死体を前にも見たことがあるからな」

 紫月はつい先月の事件を思い出しながら言った。

「ここはそういう世界だ。いちいちキモがってたらマーライオンになっちまう」

「気持ちは察するが、こんなところで立ち止まっている時間は無い」

 青葉が厳然たる事実を突きつける。

「行くぞ。君だって早く真実を知りたいだろ」

「…………うん」

 あゆは死体の群れを気遣うように、足早に歩き出す紫月と青葉の背を負った。

 三人はやがて開け放たれた城門の前を経て広い玄関口に入り込む。そこでもやはり眼前にはチンピラ風情の死体が幾つも転がっていて、あゆは彼らと出くわす度にしゃっくりみたいな嗚咽を吐いていた。

 普通の女子高生にはきつい光景だろう。

 でも、それは青葉も同じではないのだろうか。

「どうした、紫月君。私の顔に何かついているのか?」

「可愛いお顔はいつまでも見ていたいお年頃なんだよ」

「こんな状況で平然と冗談を吐ける君の神経は中々キマっているな」

「死体から弾倉かっぱらった奴が何を言うか」

 憎まれ口を叩き合っている間にも城の内部を見渡してみる。

 屋内は全体的に明かりも無く薄暗い。正面のやけに幅が広い大きな階段を昇れば二階の回廊に出て、真っ直ぐ行けば三階に上がる為の通用口がある。そしてこれは城の主の趣味なのか、階段の手すりや回廊の壁飾りなどに金の装飾があしらわれている。自らの財力をあからさまに証明しているようで嫌な気分だ。

「この城は大体七階建てくらいか。一階ずつ事細かに調べるのは骨が折れそうだな」

「どうやらその必要は無さそうだ」

 青葉は階段の手すりで布団みたいに干されている組員の死体をちらりと見遣った。

「ここまで徹底された殺戮が行われた現場に長居する訳にもいくまい。ここに乗り込んだ奴の姿を見て、私達と関係が無さそうなら撤退しよう」

「もし本当にそれがお祖父ちゃんだったら?」

 あゆが不安そうに訊ねてくる。

「本当はそんなこと、考えたくないんだけど……」

「愛しい孫が誘拐されてキレないお祖父ちゃんはいない。たしかに常軌を逸してはいるが、君の姿さえ目視すれば彼も戦闘行為を中断する筈だ」

「その前に俺達のスマホを探そう」

 紫月は自分なりに妥当だと考えた意見を口にする。

「とりあえず連絡手段を取り戻すのが先だ。それからの方針は後で考えればいい」

「捕虜から取り上げた品物が保管されていそうな場所、か……」

 青葉は顎に指をやって黙考し、ややあってぴくんと額を跳ね上げた。

「待てよ? 既に壊されているだなんてことは……」

「ああ……有り得るな」

 ここは仮にも諜報機関のアジトだ。情報の扱いには細心の注意を払うような連中に取り上げられた情報端末が無事で済むとは思えない。スマホに内臓されたGPSを探知されて警察が乗り込んで来たら北条一家にとっては一大事だ。

 考えが足りていなかった。青葉がいなければ無駄に時間を喰っているところだった。

「だったらやっぱり乱入者の発見が優先か。青葉、東雲さん。これから武器庫を探すぞ」

「武器庫だと?」

「青葉は銃があるからいいとして、俺と東雲さんはこの通り丸腰だ。人を探すにしても身を護るものは必要だろ?」

「た……たしかに」

 あゆからも同意を得られた。彼女もある程度はあの東雲宗仁に鍛えられているらしいので、そのあたりの知恵はちゃんと働くようだ。

 話は纏まり、三人は真っ直ぐ階段を昇って奥の通用口を通り、三階に繋がる階段を昇り、今度はやたら天井が低い部屋に出た。

 ここは一階と違って木と鉄だけの質素な造りになっている。壁の至るところに引き戸が設えられているので、もしかしたらその奥に何かしらの道具が収納されているのかもしれない。

 紫月が引き戸の一つを開くと、中には驚くべき物体がずらりと並んでいた。

 AKライフルだ。見るからに本物と分かるそれが、壁掛けで横並びに安置されている。

「本物の銃か。とりあえず城の主は銃刀法違反で引っ張れるな」

「紫月君、これを見ろ」

 青葉が反対側の引き戸から、見覚えのある棒状の物体を引き出した。

「これ、君の十手じゃないか?」

「マジか!?」

 おお、神よ。あなたは僕をまだ見放していなかったのですね。

「良かったぁ……スマホと一緒に取り上げられてから不安で仕方なかったんだ」

 紫月は飛び跳ねながら歩み寄り、嬉々として青葉から十手を受け取ると、打撃部に頬ずりをかましながら感涙してしまった。

「もう二度と奪われたりしないからな」

「こうして見ると、君は君でただの変な人だな」

「失敬なっ! これまで俺の命を護り続けた愛用の一品だぞ――お?」

 紫月の視線が、青葉が開けっ放しにしていた引き戸の奥に釘づけとなる。

 さっきの銃が仕舞われていた場所と違い、その奥は学校の体育倉庫並みの広さを誇っていた。

 中に入ってみると、まず最初に目を引いたのが、壁一面に並んでいた日本刀の数々だ。さらには縦に長い木箱に打刀や薙刀などが部屋の奥で纏めて保管されており、珍しいところでは十手やトンファーなどの特殊な武器が天井から細い鎖で吊るされていた。

「うっへ、何じゃこりゃ!?」

「驚いただろ? 武器マニアも涙する光景だ」

「集めた奴はどんな趣味してんだか」

 呆れつつも、紫月は壁に飾られていた日本刀を適当に一本だけ手元に引き寄せ、試しに鍔を親指で持ち上げて鯉口を切ってみせた。

 覗いた刀身からは壁の隙間から差した月明かりが反射している。まるで鏡のようだ。よく見るとこの刀には紅樺色の柄が巻かれ、鞘は深緋色と、全体的に刀身以外は赤系統の配色で統一されている。

「この刀、『秋嵐しゅうらん』じゃん」

 背後からひょっこり顔を覗かせてきたあゆが思いもよらぬ反応をした。

「聞いたことがある。お祖父ちゃんの古い友達で、四季ノ宮に住む名のある刀匠が一番最近打ったとされる世界有数の極上業物。その名前は銘刀・秋嵐といって、最近四季ノ宮で起きた乱痴気騒ぎでこれを使いこなした天才剣士がちょっとした伝説になったんだって」

「眉唾くせぇなぁ……」

 もはやB級アクション小説の世界である。少なくとも現実とは混同したくない話だ。

 紫月は秋嵐を腰とベルトの間に通す。

「東雲さんの話が本当なら盗品なんだろうなぁ、きっと」

 伝説の剣士とやらが何者かは知らないが、とりあえず今日限りはこの刀の拝借を許していただきたい。こちらも自分の命が可愛いのだ。

 あゆが痺れを切らしたように急かしてくる。

「ささ、早く先に進もうよ」

「東雲さんは何も持たなくて大丈夫なん?」

「あー……私はやっぱりいいかなぁ……なんて」

 やっぱりナウい女子高生は武器の類を好まないのだろうか。某ブラウザゲームが流行している昨今の世情から鑑みるに、刀剣の類に萌えを感じる女子が多いと聞いていたのだが、それはどうやらこちらの勘違いらしい。

 ならばここにはもう用が無い。三人は四階に通じる階段を抜き足差し足忍び足で昇り、さっきよりも暗さが増した長い廊下を渡って、奥の大きな木の扉の前で立ち止まった。

 この階には死体らしきものが一切無い。それだけ警備が手薄なのか?

「ここを通れば五階に通じる階段がある筈だ」

「行くか」

「ああ」

 紫月は右側、青葉は左側の扉に手を添え、それぞれ慎重に押してみる。鍵は掛かっていないようで、押している感触も妙に軽かったので、存外あっさり扉が開かれた。

 予想外にも、扉の先にあったのは学校の体育館並みの広さを誇る大広間だった。天井は高く、他の階と違って文明的な照明がそこかしこに点灯していたので、さっきまで暗いところしか歩いていなかった紫月達にとっては目に毒な光景だった。

 しかし、真っ先に紫月達の目に飛び込んだのは、そんな背景描写ではない。

 この入り口と近い床に、深い青の忍装束を着た何者かがうつ伏せで倒れているのだ。

「お……」

 あゆが目を剥いて、

「お祖父ちゃんっ!」

 躊躇いもなく、すぐに倒れる老人の傍に駆け寄り、その弱った体を抱き起こす。

「お祖父ちゃん、しっかりして!」

「あ……あゆ……?」

 東雲宗仁が虚ろな双眸であゆの顔を見上げる。彼は全身の至るところが斬り裂かれて出血しており、、いつもの過剰なまでのバイタリティも見る影が無くなっていた。

「ようやく来たか、東雲一族の末裔よ」

 一階と似たような階段の頂上で、北条時芳がこちらを見下ろしながら告げた。

「お前なら必ずその爺を助けに来ると思っていたぞ」

「私を待っていたってどういうこと!?」

「全てはその爺が元凶よ」

 時芳がせせら笑い、懐から取り出した小型の注射器をこれみよがしに見せつけてきた。

「こやつは私が十年以上前にこのPSYドラッグの取引を始めたのを理由に、こちらが管理していた商品を全て焼き払って風魔一党から出奔した挙句、民間人である親戚の家に紛れ込んで極星会からの追跡を逃れた。下手にこちらから手を出せば、北条一家どころか極星会全体が危機に晒されているところだったからな」

「PSYドラッグ?」

 青葉が繰り返すと、時芳が少し驚いたように答える。

「そうか、民間にはまだ公表されていなかったな。PSYドラッグとは彩萌市の間で流通が始まったスマートドラッグの一種よ。何処ぞの馬鹿な科学者がESP能力者を人工で生み出そうとして開発されたものだ。こいつを北条一家の仕切りで捌くと言ったら、そこの爺があまりにも非人道的だと言って反論しよった。この世界に身を投じた男の吐く台詞ではない。とことん呆れ果てたものだ」

「要は麻薬の取引だろうが。嫌がる奴はとことん嫌がるだろうな」

「お嬢さんには分かるまいよ。この渡世は綺麗事だけで食っていけるほど甘くない」

「ふざけるな。だから私達を捕らえて裏切り者を誘い込む餌に使ったのか」

「その通り。こうでもしなければ後片付けが面倒だったからな」

 おそらく宗仁は時芳から「あゆは城の中にいる」と言われて、平屋より先にこの城内に飛び込んだのだろう。あゆの危機に対する冷静さが欠如していた結果とも言える。

 時芳は可笑しそうに語る。

「何やら菓子のおまけみたいなのがついてきたが、その爺と東雲あゆ共々お前ら二人もここで始末すればPSYドラッグの情報が外へ漏れることは無い」

「始末するだと? お前一人で、この人数をか?」

「心配には及ぶまい」

 時芳が指を鳴らすと、何処からともなく音も無く、白の忍装束に身を包んだ人間が天井付近の回廊と階段の手前に一瞬で群がった。

 その総数は目算でざっと五十人前後。これで数の有利が逆転してしまった。

「これが北条一家最強の刃、風魔一党の総力よ」

 思った通り、全員忍か。加えて、時芳の背後にいつの間にか立っていた、黒地に金の飾りがあしらわれた忍装束を纏う男が首領と見て間違い無さそうだ。

「彼らはそんじょそこらの諜報機関の連中とは格が違う。一人一人が選りすぐりの忍であり、その集まりはまさしく精鋭部隊そのもの。これだけの軍勢を相手に、お主らは一体いつまで生き残れるのやら」

「……許せない」

 あゆは宗仁が握っていたクナイを逆手に持ち、ゆらりと立ち上がる。

「お祖父ちゃんは間違ったことなんてしてないのに……全部自分が悪いのに、よくも私のお祖父ちゃんをこんな目にっ……!」

「お前はさっきから何を言っている?」

 時芳がわざとらしく目を丸くして訊ねる。

「その爺がお前の祖父だと? 笑わせるな。いつまでお前は盛大な勘違いをしている?」

「何を――?」

「その男はお前の祖父などではない」

 時芳は宗仁をゆっくりと指差し、

「だろう? 二曲輪猪助」

 ついに、決定的な発言をしてしまった。

 あゆが一瞬で茫然となる。

「え……? うそ……何を……?」

「分からぬか? お前の祖父、東雲宗仁はとっくのとうに私が殺している。その男はお前の家に転がり込んでから、東雲宗仁に化けて周囲を欺き続けた下郎の中の下郎よ」

「そんな言葉、信じられる訳がっ――」

「その男の言っていることは本当じゃ……」

 宗仁――もとい二曲輪猪助が弱弱しく白状する。

「ワシはお前のお祖父ちゃんではない。それどころか、お前のお祖父ちゃんを見捨てて逃げ果せてしまった……本当なら、ワシが死ぬべきだったのに」

「そんな……」

 あゆの手からクナイが落ちる。

 鉄の切っ先が木の床を打つ音は、どこか物悲しい響きが籠もっていた。



 車を飛ばして例の裏山の麓まで辿り着き、一旦停車してから、杏樹は車を降りて山の外観を眺めていた。

「ここに東雲さんと紫月君がいるって話だったわね」

「本当に行くんすか?」

 運転席から轟が嫌そうな顔で訊ねてくる。

「もしかしたら俺達だって危ないかもしれないのに」

「紫月ならともかく東雲さんはそうも言ってられないでしょっ……っと」

 見計らったようなバイブ音が上着のポケットから響いてきた。相手は新渡戸だ。

 着信に応じ、杏樹は息を呑みながら彼の報告を待つ。

『池谷、いま大丈夫か?』

「ええ。で、何か分かった?」

『思ったより科捜研がいい仕事をした。DNA鑑定の結果発表だ』

 やっぱり例の死体は二曲輪猪助なのだろうか。その答え合わせがいよいよ始まった。

『仏さんの名前は東雲宗仁とかいう爺さんだ』

「何ですって?」

 おかしい。東雲宗仁はまだ生きている筈だ。あゆもそう証言していたではないか。

『遺体はコンクリの中でミイラ化していやがった。ありゃ十年以上は放置されていたな』

「清掃船がドラム缶を発見したのはいつの話?」

『一週間ぐらい前だってよ』

 つまり、十年以上もの間、死体入りのドラム缶は誰にも気づかれずに海の底に沈んでいたことになる。さすがに一回の清掃作業で全てのゴミが片付くとは思わないが、だとしても気付くのが少し遅すぎやしないだろうか。

 そのあたりの疑問を、新渡戸が第一発見者の代わりに答えてくれた。

『整備局の職員の話だと、重量が他のゴミと比べて異常だったドラム缶の回収を後回しにしていたらしい。で、今年になってようやくやる気になったんだとさ』

「随分と年季の入った言い訳ね」

『そんなことより、もっと大変なことが分かった。仏さんと全く同じ名前の人物が、いまも彩萌市の民間人として普通に暮らしているらしい』

「知ってる。彼の親族の名前に東雲東風ってのがいなかった?」

『ああ、いたな。じゃあ訊くが、いま生きている東雲宗仁って、一体誰なんだ?』

 誰かは勿論分かっている。でも、その理由を新渡戸に納得してもらう為の持ち札が無いのを杏樹は理解していた。

 だって、普通なら言えないじゃない。

 二曲輪猪助が、十年以上にも渡って東雲宗仁に化けていたトリックなんて!



 いまから十年前。あゆが五歳の頃、東雲宗仁は元気な姿で東雲家に帰ってきた。

 忍者の技を遊びと称して教えてもらったし、ちょっとした悪さをして両親に怒られた時はいつも彼が味方についてくれた。常に陽気な笑顔を見せ、年甲斐もなくはしゃぐ彼の姿は、いまも昔も変わらず、あゆの瞳には眩しく映っていた。

 いまでもお祖父ちゃんは私の憧れだ。どんなに年老いてよぼよぼになっても、あんな風に楽しそうに生きてみたい。だから、自分もそうなれるように努力した。

 どんなに挫けそうになっても、笑顔だけは絶やすまいと毎日必死だった。

 でも、そんな日々も今日で終わりを迎えてしまったらしい。

 だって、いま私の目の前にいるのは――

「理解したかね?」

 時芳が唇を緩める。

「兄弟を裏切り、親友を囮に使い、あまつさえお前とその両親を欺き自分だけ安全な場所に居座り続けた卑怯者に、もはや生きる価値どころか免罪の余地も無い。この真実も冥土に旅立つお前達への餞別だ。ありがたく受け取るといい」

「……嘘だ」

 自分でも往生際が悪いと思いつつ、あゆは虚しく弁解する。

「だって、お祖父ちゃんは心臓の病気を患ってたんだよ? いまここにいるお祖父ちゃんだって、心臓を悪くしてるっていうのに」

「お前は知らなかったのか? 猪助は宗仁と違って戦闘技術よりも変装の技術に優れている。そやつが本気を出せば持病の模倣すら自由自在。顔は整形手術で全く同じように加工すれば済む話だ」

「嘘だよね、お祖父ちゃん」

 もはや時芳に訊くだけ無駄と判断し、今度は宗仁に水を向ける。

 しかし、彼は目を伏せるだけで、何も言わなかった。

「ねぇ、何か言ってよ!」

「いい加減認めたらどうだ。それに、そろそろ時間も差し迫ってきた」

 時芳が右手を挙げると、部屋中に群がる風魔一党の連中が腰の後ろから短刀を一斉に抜き放った。

「悪いが楽しい余興は宴もたけなわ、ここまでだ」

 この死刑宣告も、狼狽するあゆの耳には全く入ってこなかった。

 故に、反応が遅れてしまった。

 こちらの背後に音も無く近づき、短刀を振り上げる二人の忍の存在に。

「っ――!」

 回避が間に合わない。

 殺られるっ――!

「ごっ!?」

 気付いた時には、紫月と青葉の足元に、白い忍が一人ずつ倒れ伏していた。

 紫月は右手の十手で肩を軽く叩きながら言った。

「やれやれ、校長先生の長話より眠たくなっちまいそうだ」

「全くだ」

 青葉が両手の銃をくるくる回しながら嘆息する。

「ちなみに紫月君。私には立ちながら居眠りするという特技がある。意外と便利だぞ」

「マジか。俺もチャレンジしてみよっかなー」

「お主ら……何を」

 宗仁が息も絶え絶え、たったいまあゆの前に回り込んだ紫月と青葉に問う。

「まさか、戦う気か? 無茶だ、いますぐ逃げろ……!」

「東雲さん。そのクソジジイを連れていますぐここを離れろ」

 彼の忠告を無視して、あゆに命令する。

殿しんがりは俺達が務める」

「でもっ……」

 あゆは迷っていた。紫月と青葉をこのまま残して逃げられないし、いままで自分を欺き続けたこの老人を抱えていくのにも少々の抵抗がある。

「君はさっきから何を勘違いしている?」

 青葉が振り向かないまま告げる。

「例えそいつが君の祖父を騙っていたとしても、これまでの全てが嘘だらけだったとしても、君がいままでそのお爺さんと過ごした時間は嘘だったのか?」

「っ!」

 青葉のこの言葉に、あゆは蒙を開かれた気分になる。

「全てが全て嘘だなんてことは、この世に一つもありはしない。その爺さんが全てに嘘をついてまで護ろうとしたものは本物だ」

「だったら君は君なりの本物を護れ」

 紫月が十手の先を時芳に向ける。

「既に依頼目的は達成された。こっから先は俺の好きにやらせてもらうぞ」

「……随分と風変わりなおまけもあったものだ」

 時芳が目を細める。

「忍でもなければ極道でもない、だからといって堅気の人間にしては様子が違う。君達は一体、何者なんだね?」

「忘れたなら教えてやる」

 青葉も左手の銃の照準を時芳にポイントする。

「通りすがりの探偵さ。別に覚えなくていい」

「だろうな。最近、年のせいか物忘れが激しくてな」

 時芳が瞑目して頷き、

「私が覚えていられるかは、お前達の頑張り次第だ」

 挙げた右手を振り下ろす。

それが、開戦の合図となった。

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