第7話 通りすがりの探偵

 待ち合わせ場所のコンビニで和音と合流した弥一は、彼女が運転する車の助手席で、ひたすら頭を抱えて黙り込んでいた。

 とうとう静寂の気まずさに耐え切れなかったらしい。和音が苛立ちを露にする。

「あんたらしくないじゃん。どうしたってのよ」

「……どうしよう。俺、青葉を見捨てちまった」

「あれは青葉の独断行動で、あんたは何も悪くないんだって」

「違うんだ。逆なんだよ」

「は?」

 和音がぽかんと口を開ける。それでも丁寧な運転をしているのだから、彼女が如何に熟練したドライバーであるかがよく分かる。

「何をどうしたらそんな解釈になんのよ」

「俺も最初から危険は覚悟の上だった。それでも唐沢一家の庇護下にあるから比較的安全な仕事だと思ってたんだが、やっぱり駄目なもんは駄目だった。北条時芳は俺が唐沢一家のスパイだって気付いていた。そうじゃなきゃ、俺の通信端末までは取り上げてない」

「だから青葉はあんたが後で殺されるのを予期して、北条の目を自分に向けさせる為だけにアジトまで乗り込んで行ったって訳? それって考え過ぎじゃない?」

「結果的に俺はこうして無事なんだ。そう思わないと、青葉があんな真似に出た理由として辻褄が合わない」

「……たしかに」

 和音はゆっくりハンドルを切り、角を折れて大通りから外れ、人通りが少ない細い道の路肩に停車する。

「社長がいま唐沢一家に事の顛末を説明してる。若頭は随分と頭の切れる穏健派とか言ってたし、仕事の失敗に関しちゃ心配はしなくていいんだとさ。そろそろ話し合いも終わる頃合いだから、一旦ここで経過発表でも聞こうじゃないの」

「面倒を掛けてすまない」

「いいって」

 和音は苦笑して自らのスマホで幹人の番号を呼び出した。スマホはスピーカーがオンになっているので、会話の内容は弥一も聞こえるようになっている。

 やがて通話が繋がり、幹人が落ち着き払った声音で応答する。

『西井君か。野島君の回収はどうなった?』

「五体満足で私の隣に座ってます。北条一家に端末は没収されたようですが」

『概ね予想通りの結果だな。こちらも唐沢一家と話がついた。改めて一家の屋敷に菓子折りを届けに訪れるつもりだが、これで少なくとも野島君の安全は保障された』

「良かった。それで、青葉なんですが――」

『分かっている。いまから彼女の救助に向かう――と言いたいところだが、我々が下手に出向く必要は無さそうだ』

「そうなんですか?」

『詳細は伏せるが、どうやら北条一家はとんでもない奴を敵に回したらしい』

「話が見えないんですが……」

『同じことを言わせるな。とにかく青葉は大丈夫だ』

「はあ……分かりました。じゃあ、すぐ戻ります」

 和音は釈然としない様子で通話を打ち切ると、目を細めて弥一に訊ねた。

「野島。最近、社長が何か大切なことをあたし達に隠してる気がしてならないんだけど、それが何か分かる?」

「俺に訊くなよ。知る訳がねぇだろ」

「男の秘密だから教えないってのはナンセンスだから」

「本当に知らないっつーの」

 幹人が何かをひた隠しにしているのは弥一も薄々感づいている。だが、その疑問ですらいまは輪郭を成していない。何を訊ねたらいいか分からないのも、彼が何を隠しているのか分からないのもこちらとて同じだ。

 だが、今日は偶然にも、妙な形をしたパズルのピースが見つかった。

「強いて挙げるなら、青葉と一緒にいた変なガキのことくらいじゃね?」

「そういや先月くらいに、青葉が気になる男の子がどうとか言ってたような……たしか葉群紫月とか言ってたっけ?」

「え?」

「ん?」

 思わぬ情報の一致に、弥一と和音は互いに丸くした目を見合わせた。


   ●


「邪魔だ、このザー×ン野郎共ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオっ!」

 紫月の十手が正面から迫る一人の横っ面を薙ぎ払い、背後から飛び掛かってきた二人の

小刀が破裂した。青葉の銃撃だ。

 紫月は十手を口に咥えて、丸腰になった二人の顔を一人ずつ片手で鷲掴みにして地面に叩きつけ、再び十手の柄を掴んで身を翻し、既に至近距離まで飛来していたクナイを打ち払う。

丁度良く、頭上から降下してきた一人の額に、弾き上げたクナイの柄頭が直撃。紫月は白目を剥いて落下してきたその体を片手で引っ掴んで振り回し、正面から鋭く突進してきた三人の忍にぶん投げて直撃させる。

 この戦闘で人殺しは厳禁だ。目的はあくまであゆが猪助を連れて逃げるまでの時間稼ぎであり、風魔一党の鎮圧や北条の打倒などといった無茶は考えていない。

 あゆは戦闘開始からしばしの間だけ呆然としていたが、すぐに気を持ち直し、猪助に肩を貸し、遅々とした足取りでこの部屋を退出する。

 それでいい。後は何分こちらが耐えられるか。

「ぐぁっ!」

 入り口付近で青葉に足を撃ち抜かれた忍がつんのめって倒れ伏す。一人もここから出さないと決めた以上は、こうした傷害もある程度は仕方ない。そもそも奴らはこちらを殺そうとしているのだから、過剰防衛にならない程度の暴力を思う存分に行使すればいい。

 紫月が入り口を抜けようとした一人の頭に十手を投擲して命中させると、さっきまで時芳の背後に控えていた黒と金の忍が階段から飛び降り、紫月の間合いに鋭く踏み込んできた。

「くっ……」

 紫月は腰から秋嵐を抜き、細身の大太刀を払った黒金の忍による逆手持ちの一閃を刀身で受け止める。

 黒金の忍は他の白い忍同様、顔は目元以外すっぽり頭巾で覆われている。これでは人相が判別できないからモンタージュ画像の作成も不可能だ。

「お前が大将か」

「我は八代目・風魔小太郎なり」

「やっぱり風魔一党の親玉は風魔小太郎の名を襲名するみたいだな」

 だったら、二曲輪猪助の名は組織内でどういった役割を果たすのだろう?

「まあいいや。後で本名も含めて洗いざらい吐いてもらうからな!」

 紫月は小太郎の腹に蹴りを入れて距離を取り、いましがた銃のリロードを終えた青葉に向かって叫ぶ。

「青葉、しばらく雑魚共の相手を頼む! 親玉は俺がやる!」

「君は私を何だと思っているんだ! この数をそう簡単に捌ききれるような超人になった覚えは無い!」

「俺だって本物の忍なんぞとガチバトルするようなバカに育った覚えは無い。諦めろ!」

 青葉の文句を一蹴すると、紫月は小太郎との剣戟を再開する。

 紫月が本当の力を発揮するのは剣や十手などといった近接武器を用いる格闘戦だ。射撃もそこそこ腕に自信があるとはいえ、それでも青葉には一枚も二枚も劣ってしまう。

 いやいや、おかしいだろ。青葉は喧嘩がちょっと強いだけの一般人じゃないのか?

たしかに格闘技が得意そうな場面は何度か目にしているが、これだけの軍勢を相手に怯まず立ち回れる胆力と体術、特に射撃術は既に堅気の規格を遥かに超えている。

青葉の回し蹴りが背後の忍の側頭部を薙ぎ払う。うん、やっぱり色々おかしい。

「何処を見ている?」

 小太郎が振りかざす刀の切っ先が正面から紫月の目玉を狙う。左に身を回転させて刺突をかわすと、

「紫月君!」

 青葉が片方の銃をこちらに投げ渡してきた。使えと言いたいらしい。

 紫月は左手に携えた銃を至近距離で連射して、小太郎の刀身を根本から破砕、すかさず間合いから退避して、安全かつ確実に外さない距離で彼に銃口をポイントする。

「勝負あったな。そろそろ降参してもらうぜ」

「……よかろう」

 小太郎が手元も見せない速さで片手を一閃した。あまりにも挙動が無造作で速過ぎたので、こちらも反応が一瞬だけ遅れてしまう。

 クナイが紫月の頬を掠めて通り過ぎ、背後の壁に突き刺さる。

 往生際の悪い奴めと思いながら発砲。小太郎は身軽に体をゆらりと横に振って弾丸を見送ると、既に握っていた球状の何かを地面に叩きつけた。

 球が破裂し、桃色の煙が瞬く間に視界を覆い尽くす。

「煙幕か……!」

 口元を塞いで慎重に後退すると、肩甲骨の近くに鋭い痛みが走った。

 千本だ。クナイに次いで忍がよく使うと言われる鉄の針が二本、背中に突き刺さっているのだ。

 左肩から力が抜け、銃を構える腕がだらりと下がる。

「こいつ、経穴を――」

 続いて右の太腿、右肩、右手首に千本が一本ずつ刺さる。

 すると煙幕を抜け、白い忍が三人、紫月の頭上から小刀を構えて降下してきた。

 対処しようにも身動きが取れない。殺られる――と思った矢先、三発の銃声と共に三人の忍が紫月の足元に墜落する。

「何をしている?」

 こちらに近寄った青葉が舌打ち混じりに言った。

「まさかもう体力切れだなんてことは……」

「動きたくても動けないんだよ」

「ふむ、経穴を突かれている」

 青葉がいち早く負傷の種類を察知し、刺さっていた千本を手早く一本ずつ抜いていく。おかげで少しだけ楽にはなったが、欲を言うならもうちょっと優しく抜いて欲しかった。

「動けるか?」

「あとちょっとはな」

 紫月は青葉に銃を返すと、彼女と背中合わせでぐるりと敵勢を見渡した。

 さっき打ちのめした連中が十人くらいは既に復帰している。やはり殺す気で処理しなければ、五十人近い忍を制圧するのは無理かもしれない。風魔小太郎も、悔しいが本気で戦って勝てる相手ではない。

 いつの間にか晴れていた煙幕の残滓が鼻腔をくすぐる。体を伝って流れる血がやけに熱い。もしかして、喰らった千本には毒が塗ってあったんじゃないのか?

「随分と手こずらされたものだ」

 高みの見物を決めていた時芳が鼻を鳴らす。

「ここまでお前を相手に生き残った奴も珍しいな、八代目・風魔小太郎」

「なに勝った気でいやがる。まだ勝負はついてねぇぞ」

「その体で威勢を張る元気があったとは驚きだ。最近の若者は昔と違って骨があるようだ。いいだろう。その健闘を讃え、お前達に面白いものを見せてやる」

 時芳が首肯すると、小太郎が自らの頭巾を取り除いて素顔を晒す。

 頭巾で押さえつけられていた黒い散切りの髪がぶわっと広がり、顔の左半分に大型の刃で付けられたと思しき傷痕が露になる。見た目の年齢は四十代前半。精悍とも勇壮とも違う険しい顔つきからは、明らかに歴戦の猛者たる風格が強く滲み出ていた。

「お前は……っ!」

 青葉の瞼が極限まで見開かれる。もしかして、これまた彼女の知り合いなのだろうか。

「どうやらそこのお嬢さんには察しがついたらしい」

 時芳がほくそ笑む。

「そう。風魔一党の党首には代々、風魔小太郎の名が継承される。七代目である東雲宗仁が組織から抜け出したことで新たな党首の座についたのがこの男、八代目・風魔小太郎――いや、お前達にはこう名乗った方が理解も早かろう」

 紫月にも遅ればせながら察しがついた。だからこそ、余計に驚きを禁じ得なかった。

 本来なら北条一家を恨んでいた男が、何故あの男の傍に侍っている?

「伊崎愁斗。風魔探偵事務所の元・社長だ」



 何でまだ自分は生きているのかという陳腐な自問自答を幾度となく繰り返し、答えを得られないまま、自分はまだ生きながらえている。

 そして今日、また一つ、新たな問題が出現した。

 何で彼女は、自分の祖父を見捨てた男に肩を貸している?

「……何故だ」

 猪助はあゆに問う。

「何でお前は……ワシを助けようとしている?」

「…………」

 あゆは答えてくれない。ただ黙って、二階に降る階段を慎重に踏みしめている。

「ワシなんぞ置いて、あのガキ共と一緒にここから逃げれば良かったものを……何であのガキ共はあの場に残った? どうして、お前は――」

「ねぇ、知ってる?」

 あゆは淡々と述べる。

「お爺ちゃんやお婆ちゃんってのは、ただ若い子と話しているだけで幸せなんだって。だからこっちが分からないようなことを説教臭くベラベラ喋っているんだよ。だから、若い子はそんな意味の無い戯言に一切付き合う義務なんて無いんだよ」

 普段の彼女からは考えられない説教だった。誰かの入れ知恵だろうか。

「だから、お祖父ちゃんの話なんて聞いてやらないもん」

「お前はまだワシをお祖父ちゃんだと……」

「だって、お祖父ちゃんはお祖父ちゃんだし」

 さっきまでと違い、あゆの言葉には迷いや当惑が無かった。

「これまでずっと私と一緒に居てくれた、元気でやかましくて寂しがり屋の、何処にでもいる普通のお祖父ちゃん。血が繋がってなくったって、それだけは変わらないよ」

「……………………」

 もし宗仁が生きていたなら、この言葉を奴にも聞かせたかった。

 強くなった、孫娘の言葉を。

「あゆ。お前の言う通り、爺婆はただ若造と話すだけで楽しい生き物だ。だから、ワシの話を聞き流してはくれないか」

「ご自由に」

 あゆが微笑む。心臓が痛い。持病だけでここまで苦しいのはこれが初めてだ。

「……風魔に居た頃、ワシは北条時芳がとある薬物の流通に関わっていると聞き、奴がこの城に溜め込んでおった薬物を全て焼き払ってここから逃げ出した。その時、脱走の幇助をしてくれたのがお前さんの祖父じゃ」

「……………………」

 あゆは何も言わない。下手な相槌されるよりかは有り難い。

「ワシらはアテも無く逃げたが、逃避行も長くは続かなかった。そこで宗仁は自分が囮になると言って、まだ幼いお前をワシに託して単身で風魔一党に立ち向かった。それ以降、奴がどうなったかは本当に知らない」

「だから顔を整形してまでお祖父ちゃんのフリをして私の家に転がり込んだんだね」

 民間人に紛れ込んだ猪助を時芳は手出しが出来ない。極星会は民間に対する不用意な介入を嫌う性質があり、だからこそ同系列の中でも一番性質が悪い北条一家を見張る勢力として隣町の唐沢一家が牽制役として機能しているのだ。

 でも、時芳はPSYドラッグの流通を最近になって再び始めようと画策していた。そこで一番の邪魔者になるのは、過去に同じ種類の薬物を葬った猪助だ。だからこんな回りくどい真似をしてまで猪助を風魔一党の手で殺害しようとしていたのだ。

 これについては、あゆが知らなくてもいい話なので語りはしないが。

「ワシはお前の祖父であり続ける為の工作を惜しまなかった。心臓の病も最初は演技だったが、まさか演じ続けるうちに奴とはまた違う種類の病に罹るとは思わなかった」

「皮肉な話だよね」

 既に二人は一階の玄関口に辿り着いていた。話していれば、どんな遅々とした歩みでも速く感じてしまう。

 あゆは一旦立ち止まった。決して体力が切れたからではない。

 玄関の扉の向こうから、複数の足音が聞こえるのだ。

「……まさか、追っ手が?」

「外から組の連中が応援にでも来たか……ぐふっッ」

 胸が締め付けられ、咳き込む度に吐血する。

「そろそろ年貢の収め時か。さっき経穴に貰った毒針が効いておるわい」

「お祖父ちゃんはそこに居て」

 あゆは猪助を床に下ろし、こちらを庇うように身構えた。

「何が来たって私がやっつけちゃうんだから」

「止めろっ……お前だけでも早く逃げるんだ……! ワシを庇ったままではお前の負担が……!」

「言った筈だよ。お祖父ちゃんの戯言は全部却下だって」

 足音が徐々に近づいたかと思ったら、突如として扉が乱暴に開かれる。

 現れたのは、一人の小柄な女性と、対照的に大柄な無精髭の男性だった。


「あれ? あなた、東雲さんじゃないっ?」

「池谷さん!?」

 予想外な人物の出現に、あゆは拍子抜けしてその場で立ち尽くした。女性は池谷杏樹、男性は東屋轟。いずれも黒狛探偵社の社員だ。

「どうしてこんなところに?」

「あなた達を迎えに来たのよ。ていうか、そっちのお爺ちゃんってまさか……」

 そうだった。いまは再会に驚く場面ではない。

「そうだ、早く救急車を呼んでください! このままじゃお祖父ちゃんが……!」

「状況がよく分からんが、了解した」

 当惑していた轟がスマホで救急車への連絡を始める。

 その間、あゆは二つのことに安堵していた。一つは単純に味方が増えたこと、もう一つはまだ風魔一党の勢力があの部屋から漏れ出していないことだ。

 つまり、紫月と青葉はまだ戦闘の真っ最中ということになる。

「池谷さん。上の階で葉群君と貴陽さんが戦ってるんです! 早くあの二人も助けてあげてください!」

「貴陽?」

 杏樹が意外な反応を示した。

「誰よ、それ」

「貴陽青葉っていう、葉群君の友達で――じゃなくて、そんなことより早く応援を!」

「……お前が行ってあげなさい」

 猪助が装束の懐から緑色の液体が入った小瓶を取り出す。

「相手が風魔一党なら使用する忍具に特製の毒が塗られておる。こいつはその解毒剤だ。これさえあれば毒殺だけは免れる」

「ちょっと、無茶言わないでよ!」

 杏樹が驚愕して反論する。

「あなた、お孫さんを殺し合いの現場に放り込む気? 正気の沙汰じゃないでしょ!」

「あゆはこのワシ……風魔忍者が一人、二曲輪猪助の二番弟子。大切な技は全て教えてある。だから……ぐぅっ」

 猪助が胸を鷲掴みにして、うなされるように唸る。

「ワシに解毒剤は効かん。構わず持って行け」

「お祖父ちゃん……っ」

 彼の容体は悪くなる一方だった。毒に侵されているのは本当らしく、皮膚の色も若干ながら緑掛かっている。

 しかし、解毒剤が効かないとはどういうことだろうか。

「行けっ……あゆ。お前の大切なものを、お前の手で護ってこい」

「……分かった」

 あゆは猪助から小瓶を受け取り、彼の懐に仕舞われていた千本を三本だけ抜き出した。戦場に持参していく武器はこれだけで充分だ。

「じゃあ、行くね」


 身を翻し、あゆはたった一瞬で杏樹の視界から消え去った。

 あれは種も仕掛けも無い、鍛えられた脚力が成した人外の技だ。

「……わーお」

「嘘だろ、オイ」

 轟が手に持ったままのスマホをぽろりと床に落とした。

「あの嬢ちゃん、もしかして本物の忍者か?」

「当たり前じゃ。何せ、自慢の孫娘だからな」

 苦しいながらも気丈に笑う猪助だった。

「しかし、愁斗の奴を相手に勝てるかどうか……」

「愁斗? 伊崎愁斗のこと?」

 その名前なら杏樹も知っている。何せ、かつてのライバルの一人なのだから。

「お嬢ちゃんも奴を知っておったか。これも奇縁という奴かの」

「何でここで彼の名前が出てくるの?」

「あれはワシの一番弟子でな。まあ、随分と懐かしい話よ」

 猪助は遠い目をして呟いた。

「でも……どうしてお前が、風魔一党の党首なんぞに……?」



 時芳によると、伊崎愁斗は風魔探偵事務所と共に滅び去ったという話だ。

 では、いま紫月の前にいる黒金の忍についてはどう説明するのだろう。

「どうしてだ」

 青葉が紫月の疑問を代弁する。

「伊崎愁斗はお前の策に嵌まって殺されたんじゃないのか?」

「私がいつ殺したと言った?」

 時芳が小馬鹿にしたように口の端を釣り上げる。

「たしかに、彼の事務所を潰したのはこの私だ。でも、わざわざ自作自演までして彼を追い詰めた理由の説明はまだしていない」

 言われてみればその通りだ。自身の組が擁する忍者集団と探偵事務所の名前が同じであるだけで、特に時芳と愁斗の間には接点らしき接点が無い筈である。

 ならば、そこには絶対、何らかの込み入った事情が存在する。

「東雲宗仁がまだ風魔一党の党首だった頃、当時は奴の跡継ぎを探しておるところだった。病持ちで先もそう長くはないらしく、私も少し焦っていたからな。そんな時に、私は猪助に弟子がいて、そいつが探偵をやっているという話を聞いたのだ。なんでも彼は忍に通ずる技の数々を駆使して、普通の人間では有り得ない手法で依頼を遂行するという一風変わった男だというのだから、私は話を聞いてすぐに興味をそそられた」

「この外道が……!」

 紫月は息を荒げて叫ぶ。

「その為に風魔の事務所を潰したのか……!」

「妻子の安全を保障するという交換条件を提示してな」

「ものは言い様だな」

 青葉が嫌悪感を隠そうともせずに反論する。

「結局は人質を取って無理矢理従わせているだけじゃないか」

「青葉。あのジジイならぶっ殺してもよくね?」

「殺生は好まないが例外もある」

 いまこの時、紫月と青葉の中で、北条時芳の死刑が確定した。

 紫月は途切れ途切れの息遣いで愁斗に説得を試みる。

「伊崎さん、あんたっ……このままで――っいいのかよ……」

「無理に喋らない方がいい」

 愁斗が瞑目すると、紫月の脚から急に力が抜け、片膝が地面を突いた。

「……っ! クソったれ、毒の効果か……!」

「風魔一党秘伝の毒を経穴に貰った奴が無事で済むと思うか?」

「お前……仮にもあの爺さんの弟子なんだろ? だったらこんな真似をして、あの野郎が喜ぶとでも」

「喋るなと言った」

 一瞬で至近距離に詰め寄った愁斗が回し蹴りを放ち、紫月を真後ろに吹っ飛ばす。立ち上がろうとすると、彼は再び接近して紫月の全身を何度も蹴り回し、壁に叩きつけて追加で三本の千本を別の経穴目掛けて投擲した。

 焼けるような痛みが右肩と鳩尾、左足の太腿を暴れ回る。

 青葉がすかさず銃を愁斗に向けるが、いつの間にか放られていた千本が彼女の右肩の付け根と右の太腿、左の二の腕に一本ずつ突き刺さる。

「青葉っ!」

「くそっ……!」

 彼女も全身が脱力したらしく、すぐにその場で倒れ込んでしまった。

「この私が……こんなところで……!」

「主様からは思う存分苦しめてから殺せと命を受けている」

 愁斗があくまで冷淡に言い放つ。

「そこで伏して己の死を待つがいい」

「貴様ァッ!」

 紫月は痛みや焦熱を振り切って無理矢理立ち上がり、刺さっていた千本を全部抜いて、取り落としていた刀を再び握って駆け出した。

 忍の一人が前に出ようとするが、愁斗に止められ、彼が前に出る。

 大太刀とクナイの刃が交差すると、紫月は歯を軋らせながら顔を近づけた。

「よくも青葉を……お前だけは絶対に殺すッ!」

 鍔迫り合いに勝って愁斗の体を押し飛ばすと、再び踏み込んで渾身の水平斬りを繰り出す。

 刃の軌道上に愁斗の姿は無い。またぞろ姿を見失ったか。

「あッ……!?」

 今度は両脚のふくらはぎに一本ずつ千本が突き立った。愁斗が再び時芳の傍に戻り、千本を遠くから投擲していたのだ。

 紫月が再び倒れると、愁斗が懐からもう二本、クナイを抜き出した。

「探偵ごっこも貴様らの命もここで終わりだ」

「誰が死ぬものか」

「全くだ」

 傍に寄っていた青葉がふくらはぎの千本を抜くと、紫月は彼女の肩を借りて立ち上がった。本来ならこの時点でお互い死んでいてもおかしくないだろうに、体力が桁違いなのも似た者同士とは、つくづく青葉とは妙な共通点があるらしい。

「このバカと心中するのは御免被る。死ぬならせめて女子力が高い死に方をしたい」

「安心しろ。あの世はお花畑らしいからな。死んだ後ならどんな女だって女子力高いぜ」

「つくづく呆れ果てたお二人さんだ」

 時芳がやれやれと大きな肩を揺らす。

「死ぬ間際に追いやられて、何故君達はそうやって笑っていられるというのだね?」

「親の教育方針だよ」

 紫月の脳裏に、一瞬だけ杏樹の笑顔が浮かび上がった。

「気に障るってんなら、俺の親にクレームでも何でも入れてみろや」

「もっとも、親の電話番号を教える気は無いがな」

 青葉が銃を持つ腕を無理矢理持ち上げようとする。しかし、毒の効果が徐々に進行しているのか、もはや立っているだけで精一杯という風情だった。

 もう、二人に戦闘行為を行う気力は無い。

「ならば、すぐにお前達の言うお花畑とやらへ旅立つがいい」

 愁斗がクナイを二本投擲。標的は紫月と青葉だ。

 黒い鉄の先端が、視界の中で遅々として迫る。集中力が極限まで高まると、稀にこうした現象が起こり得る。一説には時間間隔の延長とも言うらしい。

 動け、俺の体。せめて、青葉だけでも助けるんだ。

「青葉……っ」

 肉体への負担は全部無視だ。紫月は強引に腕を伸ばし、青葉を抱き寄せて、自らの背中を盾の代わりとしてクナイの先端に向ける。

 ふわりと、一陣の優しい風が紫月の頬を撫でる。

 目を固く瞑り、何秒経っただろうか。少なくとも、クナイは既にこちらへ届いている筈だ。なのに、まだ背中には何の痛みも感じない。だからといって、意識が無に転じた訳でも無さそうだ。

 なら、俺はいま、普通に無事なのか?

 目を開け、正面を確認する。

「……お前は」

 愁斗の鋭い目がさらに細まり、時芳は逆に眠たそうな瞼を急に開いた。

 さっき紫月と青葉の横を通り過ぎた風の正体は東雲あゆだった。いつの間に拾っていたんだろう、さっき紫月が投擲して床に落とした十手が、彼女の右手に違和感無く収まっている。まるで最初から彼女の持ち物みたいだ。

 あゆが左手の指先で摘んでいる二本のクナイを見て、紫月はようやく、自分が助かったという自覚を得られた。

「お前は一体、何者だ」

 愁斗がさらに声音を低くして訊ねる。

 あゆは湖水のように静かな調子で答えた。

「通りすがりの探偵だよ」

 彼女はクナイを放り捨てると、無造作にブレザーの内ポケットに手を突っ込み、振り返り様に黒く細い影を二本、紫月と青葉の腹に投擲して突き刺した。

 一瞬だけ鋭い痛みを感じたが――みるみるうちに体に力が戻っていく。毒の感触も徐々に薄れ、この様子ならちょっと休めばすぐに立ち上がれそうだ。

「これは……活性の経絡か?」

「千本の先に解毒剤の原液が塗ってある。二人はしばらくそこを動かないで」

 いつもの軽々しい口調ではない。あゆの言葉には、いまや凛とした骨子が宿っていた。

 彼女は紫月の十手を右手で弄んだ。

「それから葉群君。これ、借りてくね」

「大事に使えよ。なんたって、俺が常日頃愛用してるイチモツだからな」

「はいはい」

 軽くあしらわれてしまった。青葉並みにふてぶてしくなったものである。

 あゆは十手を逆手に持ち替え、時芳と愁斗の姿を見上げた。

「よくも私の大切な友達とお祖父ちゃん二人を酷い目に遭わせてくれたな。北条時芳、あなただけは絶対に許さない」

「許さないなら、どうするというのだね? 猪助から何を吹きこまれたか知らないが、風魔一党がお前如き小娘一匹に後れを取ると? 冗談も大概にしたまえ」

「そっちこそ、いつまで戯れ言を吐いてる気なの?」

 あゆが柄にもなく、ぞっとするような冷笑を浮かべる。

「私が戻ってきたのは二人の解毒の為だけじゃない。お祖父ちゃんさえ無事なら、こっちも気兼ねなく全力をぶちかませる」

 あゆは腰を落とし、眼前の獲物を見定めた。

「風魔の血を継ぐ末子にして、二曲輪猪助の二番弟子、東雲あゆ。推して参る」

 さっきの優しい風は何だったのか。彼女はたったいま、暴風の化身に昇華した。

 姿を見失ったかと思えば、白い忍が三人纏めて宙を舞い、あゆは海面から跳躍したイルカのように宙返りして、次の一瞬で地上に降り立って五人の忍を十手で打ち倒す。いずれも急所を狙った一撃だ。殺しはしていないが、むしろその手際と力加減こそが驚異的だった。紫月にも青葉にも難しかった芸当を、彼女は難なくこなしているのだ。

 戦場の芸術というものがあるのなら、それはいまの光景だったのかもしれない。

「風魔戦技・踏の一――」

 彼女の周りを一瞬で取り囲んだ忍達が一斉にクナイを投擲する。普通の反応速度と体捌きなら、まずかわしきれない物量だ。

「旋脚万雷」

 全てのクナイが彼女の姿を通り過ぎた。あれは彼女の残像だ。

 本物のあゆは、両手に複数のクナイと千本を携え、再び跳躍して宙を高々と舞っていた。

「風魔戦技・刃の一、黒時雨」

 クナイと千本の豪雨が戦場の床に降り注ぎ、全て敵勢の足元に突き刺さる。あえて体を狙わず、動きを封じる為だけに撃ったのだ。

 あゆは階段に降り立ち、また舞い上がり、立ち往生している敵の一人の頭を踏みつけて昏倒させ、さらに別の敵に乗り移って同様に踏みつける。

 紫月は呆然となりつつ息を呑んだ。

「つ……強い」

「忍者の弟子は伊達じゃないということだ」

 青葉がさして驚いた様子も無くコメントした時には、既に忍の一団は全て床に伏していた。もしこの光景を猪助が見ていたら、感涙のあまりむせてしまうかもしれない。

 あゆが床に降り立つと、愁斗が再び階段の頂点から跳躍してクナイを三本投擲する。

彼女はクナイを全て前に飛んで避けると、頭上から降下した愁斗の踵落としをクロスした両腕で凌ぎ、全身の膂力を総動員して押し返す。

着地した愁斗がクナイを逆手に構え、腰を低くして制止する。

 対峙する両者が静かに睨み合う。

「……伊崎さん。もう止めよ?」

 あゆが十手を降ろす。

「だって、こんなの辛すぎるよ」

「止めろと言われて止められると思うか?」

 愁斗は時芳の姿を見上げながら言った。

「もし俺が戦いを止めれば妻子の命が危険に晒される」

「その心配ならしなくていい」

 青葉は紫月の傍をそっと離れ、あゆの横に立ち並んだ。

「風魔一党はご覧の有様だ。いまなら北条の身柄を取り押さえても、あんたが恐れるような事態には決してならない」

「取り押さえる? この私を?」

 時芳が抑え気味に失笑する。

「貴様らは最後の最後で盛大な勘違いをしていたらしいな」

「どういう意味だ」

「分からないなら体で分からせてやろう」

 やけに自信たっぷりに言い放つや、時芳は腰に差していた大太刀の鞘を払い、爪先を床から少しだけ浮かす。

「青葉っ!」

 紫月が叫んだ直後、青葉を中心に血風が舞い上がった。

 既に彼女の背後に回り込んでいた時芳が、大太刀を一閃させていたのだ。

「なんっ……――!?」

 青葉が血を振り撒いて床を転がり、裂けた背中を天井に晒した。直前で身を捻っていなければ即死だっただろう。

 傷は非常に浅かったらしい。青葉が苦心しながら立ち上がる。

「こいつっ……いま何をした?」

「ほほう? かわしたか」

 時芳が血で濡れた白刃を鋭く血振りする。

「私が何故風魔一党を貴様らに当てたと思っている? 私自身が直接手を下すまでもないと判断したからだ」

「主様、剣をお納め下さい」

 愁斗がここで初めて焦りを覗かせた。

「この程度の連中、主様のお手を煩わせる程では……」

「いやいや、最近は運動不足でね。少しは骨がありそうな奴らが揃い踏みしているようだから、久々に少し暴れてみたくなった」

「この野郎!」

 紫月は跳ね上がったように立ち上がり、秋嵐を振りかざして時芳に斬り掛かった。

 横に大振り、下から掬い上げるような切り上げと、叩き落とすような縦一閃。いずれも軽々と凌がれる。

「ここまでしてくれた礼に、冥土の土産に少しだけオマケをつけてやろう」

 時芳の反撃。岩をも破砕するような勢いの突きと、さっき紫月がして退けた三連撃を繰り出し、最後は柄頭を紫月の顎に叩き込む。

 視界が激しく揺れ、床を背にして倒れ込む。

「くそっ……!」

「動きや太刀筋は鋭い」

 時芳が紫月の頭上で大太刀を逆手に持ちかえる。刃先は既に目の前だ。

「だが、まだ軽い」

 刃先が弾丸のような勢いで網膜に迫る。紫月は横に転がって刃先から逃れると、落ちていたクナイを拾って投擲するが、時芳は見もせずにクナイを刀身で叩き落としてしまった。

「反応も優れている。だが、先の負傷で体が反応に追いついていない」

 青葉が両手の銃を一発ずつ発砲。時芳はこれまた銃口すら目視することもなく、首を逸らして体を横にゆらりと逸らすことで弾丸を回避してしまった。

「死角を突くタイミングは絶妙。狙いも精密。故に読みやすくもある」

「そりゃどうも。じゃあ、褒め言葉のお返しだ」

 青葉がにやりと笑うや、今度はあゆが彼女の後ろから跳躍して、拾った敵のクナイを纏めて十本以上投擲する。

 時芳は再びこの場にいる全ての人間の視界から消えると、再び紫月の前に現れて彼の首根っこを掴み、片腕の力だけで投げ飛ばし、滞空していたあゆに命中させる。

 二人は絡まり合って床を転がり、しばらく痛みに悶えていた。

「ぐっ……東雲さん、無事か?」

「へっちゃら……ッ!」

 二人は歯を食いしばりながら立ち上がり、青葉と並んで再び時芳を睨みつけた。

「どうなってんだか、この化け物は」

 紫月は息をぜえぜえ吐きながら言った。

「さっきから攻撃を全て読まれてる。井草さんとはまた別の未来予知か?」

「さあな。でも、ここで踏ん張らなきゃ私達の命は無い」

「やってやる」

 あゆは落ちかけた瞼を必死に開き、再び十手を前方に突き出した。

「何があっても、あいつだけは絶対に倒す」

「同感だ。ケツに特大の座薬をぶち込んでやる」

「いくぞ!」

 三人は駆け出し、それぞれ別方向に散った。


 三人の子供が一人の怪物を相手に苦闘している様は、外野から呆然と戦況を見守っていた愁斗からすれば異界の出来事のように思えていた。

 俺はいま、何の為に戦っている?

 決まっている。妻子の為だ。でなければ、あんな奴はすぐ裏切っている。

 俺の事務所を壊滅させ、部下を皆殺しにした北条時芳を、俺は決して許してなどいない。本当なら自分の手で殺してやりたいくらいだ。

 なのに、俺は自分の師匠を苦しめてまで、一体何をしたかったんだ?

 久方ぶりに再会して、ろくに言葉も交わせなかった。時芳から存分に苦しめてから殺せと言われたので、私情を葬り去って命令を実行に移した。

 いまさら、後悔が大波の如く押し寄せてくる。

 まだ幼い頃、俺は一人の忍と出会った。忍者というものに憧れを抱いていた俺は、その男――二曲輪猪助に弟子入りを志願した。

 彼は愛想が悪く、口数も少ない偏屈な男だった。でも、彼は知れば知る程、本当は慈愛に満ち溢れた人物だった。彼の親友であり、風魔一党の先代頭だった東雲宗仁は、おそらく彼のそういったところを気に入っていたのだろう。

 陽の宗仁と、陰の猪助。俺は二人を尊敬していたし、その関係性を羨ましく思っていた。

 二人が風魔から出奔したいまでも、俺は二人を憎めないでいる。

 でも、文句の一つくらいは言いたかった。

「何故……俺も一緒に連れて行かなかったのですか?」

 一人より二人、二人より三人と、良く言うではないか。

だから脱走するなら、せめて俺も一緒に連れて行って欲しかった。きっと助けて欲しいと言われたら助けただろうし、少なくとも足手纏いには絶対ならない自信があった。

「あぁッ……!?」

 あゆが歪な呻きと共に吹っ飛ばされて床を転がる。

 彼女は猪助の二番弟子で、愁斗にとっては妹弟子にあたる。だから、本来なら彼女がさっき言った通り、戦うのはこちらだって辛い。

 こういう時、師匠は何と言って俺を叱っていただろう。

 どうすればいいか分からない時、どうやって道を切り開いたのだろう。

「人は思ったより、ずっと自由に生きられるよ」

 ふと、ある女に昔、こう言われたのを思い出す。

「どんな過去に縛られたって、自分なりの生き方を探す権利は誰にだってある。もし迷っていることがあるなら、馬鹿みたいにずっと悩んでればいいじゃない。少なくとも、私はそうやって生きていたから」

 これらはかつてのライバル、池谷杏樹の言葉だ。

「君の真面目なところは嫌いじゃない」

 今度は蓮村幹人の言葉が脳裏に過った。

「だが、何処かで溜まったガスを抜いておかないと、せっかく捕まえた奥さんに八つ当たりするようになってしまうぞ? 自分の為にものを考えられないなら、まずは奥さんを第一に考えて行動してみるんだな」

 うるさい。何を偉そうに。お前らは価値観の不一致で離婚したんだろうが。

 でも、そのアドバイスがあったから、俺はいまでも護るべきものを忘れないでいられた。そこだけは感謝してやろう。

「紫月君!」

 床を這いずる青葉の悲鳴と共に、紫月が再び床を勢いよく転がった。

 時芳はあゆの間合いに鋭く侵入して空いた片手で喉輪をかけ、彼女の体を壁に叩きつけ、まるで蝿でも払うように部屋の中央に放り投げた。

 あゆが全身を震わせながら立ち上がると、急にその体が宙に浮き上がった。時芳が再び片腕で彼女の体を持ち上げ、首を筋張った無骨な手で絞め上げているのだ。

「あぅっ……アァアッ……ッ」

「もう戦う力など残ってはいまい」

 時芳はせせら笑うと、あゆの顔を見上げ、視線をゆっくり下に逸らし、彼女の胸、腹、脚、爪先をじっくり観察した。

「いま殺すのは惜しい、美しく見事な体躯よ。どうだ? 私の元で働いてみるのは。うちの若い衆は鬱屈とした者が多くてな。風魔一党の党首と張り合える力とその美貌があれば、戦士としても慰み者としても充分やっていけるぞ?」

「……へっ」

 あゆは悪意の発露にも似た笑みを浮かべ、両手で時芳の手首をがっちり掴んだ。

「私は身持ちが固いんでね……好きな人じゃないと、イケない子なんだよ」

「なるほど。たしかに、いけない子だ」

 喉を絞める力がさらに強くなり、あゆが目玉を剥いて聞くに堪えない嗚咽を漏らす。

 紫月と青葉が立ち上がったのは、もう何度目になるか分からない。でも、そんな彼らですら、一歩を踏み出す気力が既に尽きているらしい。

「人間、守りたいものはそう多くはない。でも、一つじゃない」

 かつての師の言葉が、永い時を経て蘇る。

「だから、本当に護りたいと思ったものには、正直になりなさい」

 足元に落ちていた部下の短刀を拾い上げる。

「――はい。師匠」

 もう、迷いは吹き飛んでいた。


 あゆを死の淵から救ったのは伊崎愁斗だった。

 逆手持ちの刀を救い上げるように一閃させ、真横からあゆを掴む時芳の腕を肘のあたりで切断し、床に落ちそうになった彼女の体を抱えて紫月の傍まで跳んできたのだ。

 時芳は斬られた腕の断面を見て、慌てず騒がず、ただ不機嫌そうに訊ねた。

「伊崎よ。これは一体どういうつもりだね?」

「この少女は我が師、二曲輪猪助の二番弟子。つまり、私の妹弟子です」

 あゆの体をそっと床に下ろすと、愁斗はさっきまでと違い、はっきりとした意思を瞳に湛えて毅然と言い放った。

「ならば、彼女を守るのは兄弟子たる私の御役目。もし彼女を害そうとする者があるなら、それが例え雇い主でも許す訳にはいかない」

「さっきは平然とその師匠をいたぶっておきながらよく吐かす。この恥知らずめ。貴様もやはり猪助と同類の卑しくて矮小な男のようだ」

「俺のことは好きに言えばいい。何にせよ、これで形成逆転だな。その怪我ではろくに貴様も戦えまい」

「果たしてそうかな?」

 時芳が口の端を釣り上げると、さっきからずっと床に倒れていた白い忍達が続々と起き上がってきた。脚などを怪我した連中も、既に止血を済ませて起き上がっている。

「よりにもよって党首が裏切りを働いた。その報いはきちんと受けてもらうぞ」

「誰が何の報いを受けるだって?」

 いきなり、忍の一人が頭巾を剥いで顔を晒した。すると、他の連中も次々と頭巾を脱ぎ捨て始めたのだ。

 彼らは一様に満面の笑みを浮かべていた。とてもじゃないが、忍とは思えない様相だ。

「これはっ……どういうことだ!?」

 時芳が狼狽すると、今度は愁斗が余裕の仮面を被った。

「思った通りだ。貴様は風魔一党のメンバーの素性や人数を大して把握はしていない。だからその中に俺の腹心が混じっていても気づきはしない」

「腹心だと?」

「覚えているか? 連中の顔を」

 愁斗が群れのうちから四人を一人ずつ選んで指差すと、時芳の顔がさらに蒼白になる。

「奴らは……風魔探偵事務所の従業員!? 奴らはあの時死んだ筈では……」

「いわゆる死んだフリという奴だ。貴様の組員は随分とお粗末な連中でな。ろくに生死確認もせずに襲撃した事務所から立ち去ってくれた」

「だ……だが、そいつらを除いた風魔一党の構成員まで……?」

「さっき言ったことをもう忘れたのか。これだから年寄りは扱いに困る。お前はこいつらの素性や人数を把握していなかった。だからここに、お前の息が掛かった者は一人もいない。これがどういう意味か、分かるな?」

「……あー、つまり」

 紫月が口の端と眉をぴくぴくさせながら、この状況を簡単な一言で纏め上げた。

「ここにいる忍者は全員、あんたと仲良し?」

「正解だ」

 まるで杏樹の男版を見ている気分だった。

 水を得た魚のように、愁斗は声を高らかにして問う。

「では、いまこの場に居る全員に訊こう。妻子を担保に悪逆非道の限りを尽くすよう俺に命じたこの腐れ外道に対し、お前達はどういった形の制裁を提案するだろうか。面白い案なら即採用だ。さあ、言ってみろ」

「はい、はーい! 僕にいいアイデアがありまーす」

 紫月は近くにいた忍の一人から借りたクナイをやや大げさに振りかぶった。

「奴の体に空いた穴という穴に特大の座薬を突っ込んで、泣いて許しを乞うまで懺悔の台詞を下痢ピーさせてやるのが一番だと思いまーす」

「採用だ」

 愁斗が同じようにクナイを振りかぶると、青葉やあゆ、風魔一党の総員が全く同じフォームで投擲の構えを作る。

 時芳の顔が、蒼を通り越して蒼白に干上がる。

「貴様ら、揃いも揃ってこの私を!」

「さっき言ったろ? 全部、あんたが悪い」

 ここまで悪人の殺害を善だと思った瞬間は無い。

 だからこそ、誰も躊躇わなかった。

「撃てぇええええええええええええええええええええええええええええっ!」

 狂気じみた愁斗の怒号で、黒い凶器が一斉掃射される。

 魚群にも似たクナイの怒涛は退路を完璧に塞ぎ、時芳の全身を隈なく覆い尽くす。

 最後に仕上がった標的の末路は、まさしく血塗れのハリネズミのようだった。

「……まだ息がある」

 注意深く時芳を観察していた青葉が呟く。

「正真正銘の化け物が相手だ。まだ気を抜くな。むしろ、これからが本番だ」

「……よく分かっているじゃないか」

 喉の奥から重低音が響いたと思ったら、時芳の和服の袖から何かが転がり落ちた。

 注射器だ。病院でよく見るごく一般的な型で、中身は既に空だった。

「宗仁と猪助に裏切られ、風魔一党にも見限られ――最後に残った商売道具はこの一回で底を尽きてしまった。この始末、どうつけてくれよう」

 恨みがましさを吐露する間に、斬られた腕の断面が沸騰したように泡立ち、突き刺さっていたクナイが弾かれたように飛んでいく。

 やがて腕は元の姿を取り戻し、これまでにこちらが与えた全ての傷が一瞬で塞がれる。

 紫月は驚嘆をそのまま口に出した。

「傷が全部治りやがった。あの野郎、一体何をした!?」

「さっきのアンプルだ」

 愁斗が床の注射器をちらりと見遣る。

「北条一家が彩萌市で流通を始めた超人薬、通称・PSYドラッグ。こいつを打ち込んだ者は人ならざる力を得ると言われている」

「なるほど。だったら奴の異常な戦闘能力にも説明がつく」

 青葉がいち早く理解を示す。

「未来予知に近い反応速度も強靭な肉体のバネも全部ドーピングだったのか」

「そんな奴、どうやって倒すんだよ!」

 あゆが恐慌じみて喚く。

「こんなん、ただの反則じゃん! 何か弱点とか無いの!?」

「弱点? そんなものを探させる時間を与えると思うか!」

 さっきよりも数段ハイになった時芳が哄笑を上げ、大太刀を振りかざして床を蹴った。速力はさっきの倍以上だ。

 まず、奴は脇を固めていた忍達の首を五つ跳ね飛ばし、身を瞬転させて別の六人の体を胴から真っ二つにする。この一瞬で、計十一人分の赤い間欠泉が湧いた。

「くそっ!」

 愁斗が千本を三本投げるが、時芳の体にはかすりもせず、それどころかたった一瞬で彼の懐に入り込んで逆袈裟に大太刀を振るった。

 防御に使った刀が砕かれ、愁斗の体が壁に叩き込まれる。

 さらに息つく間も無く、時芳が足元から拾って放った忍の短刀が愁斗の腹を刺し貫き、彼の体が磔にされた。

「伊崎さん!」

 あゆが愁斗の傍に駆け寄ろうとすると、その行く手に時芳が立ち塞がった。

「そこを退け!」

 彼女が十手で時芳の頬を打つが、奴はまるで微動だにしなかった。

 時芳はあゆの手首を掴んで片腕の力だけで投げ飛ばし、生き残っていた忍をボーリングのピンみたいに弾き倒す。

 再び青葉の死角からの銃撃。しかし、放った弾丸は彼の体に弾かれ、当たった先から先端が潰れて床に落ちる。

 これにはさすがの青葉も焦燥する。

「銃弾が効かない……!?」

「お前は後回しだ」

 時芳の姿がまたぞろ掻き消えると、忍達の死体が一気に十体以上も増えてしまった。さらに次の一瞬で四人を残して斬殺され、最後の四人――元は風魔探偵事務所の従業員だった彼らにも時芳は牙を剥いた。

 一人目が喉仏を貫かれて絶命し、背後から短刀で斬り掛かった一人が振り返り様の一閃で首と胴が泣き別れる。さらにもう一人を斜め一閃で斬り伏せ、返す刀で最後の一人を始末する。

 かくして、風魔一党は壊滅した。あまりにも、あっけない幕引きだった。

「北条……貴様ぁあああっ……!」

 今度こそ仲間を全て失ってしまった愁斗は、涙を目じりに浮かべつつ、腹に刺さった短刀を無理矢理引き抜いた。

しかし、それだけだった。

 一歩を踏み出そうにも、既に愁斗には戦う体力が無くなっていたのだから。

「よくも……よくも、俺の……部下を……!」

「全ては一時的な陶酔で判断を誤った貴様が悪い」

 時芳が狂気じみた笑みを晒しながら、額にいくつかの筋を浮かべる。

「この私に従っていれば、仲間もこんな目には遭わずに済んだものを――」

 背後から降り下ろされた大太刀の唐竹割を、時芳は振り返りもせずに自らの大太刀で受け止める。

 紫月は柄を握る両手に最大の力を込めた。

「おい、知ってっか? ジジババの加齢臭は腐った刺身みたいな臭いがすんだとよ」

「年寄りに対して何が不敬かを心得ておらん様子だな」

「黙れ」

 今度こそ、紫月は本物の怒りを言葉にして吐き出した。

「その臭ぇ口で喋るな。その薄汚れた手で、人様の大切なものを二度と触るな」

 紫月が刀を払うと、時芳はようやく身を翻した。

「お前だけは――」

 こんなに腸が煮えくり返ったのは久しぶりだ。どんな憎い奴でも一発思いっきりぶん殴ればスカっとする性分だと思っていたのに、いまは自分自身がどういう気持ちでこの感情に向かい合えばいいのかが全く分からない。

 柄を握る掌から血が滲む。知ったことか。

 噛みしめた奥歯が砕けそうだ。後で歯医者にでも行けばいいか。

 胸が痛い。猪助もきっと永い間、この痛みと付き合い続けていたのだろう。

「この俺が、殺す」


 大太刀同士の幾度にも渡る衝突が灼熱の片鱗を散らしている。耳に障る異音が立て続けに連鎖する中、二匹の鬼が戦場の中心で円舞を踏む様は、目にした者は必ず引き込まれてしまう修羅の戯れだった。

 ここで驚くべきは、葉群紫月が突如として発揮した超越的な戦闘能力だ。

「あの太刀筋に追いついている……?」

 腹を押さえながら呟き、さらに注意深く彼らの剣戟を観察する。

 異常な身体能力を起点に瞬間移動並みの速力で猛攻を仕掛ける時芳に対し、紫月は信じられない反応速度と俊敏性で彼の太刀捌きに対応し、あわよくば反撃に転じている。

「どうなっている? さっきまで俺の動きすら捉えられなかったのに……」

 気持ちの強さは勝負にあまり関係が無い。勝負を決めるのは戦力であり戦術であり戦略であり、そしてほんの少しの運に過ぎない。

 ということは、あれが葉群紫月の実力だ。何故いままで隠していたのだろうか。

 いや。そんなことはどうでもいい。このまま戦い続けたら損をするのは確実にこちらだ。PSYドラッグの副作用が時芳の体に訪れるより先に、損耗が激しい紫月の体力が底を尽きてしまうだろう。

 せめて俺だけでも動ければ。

 一瞬でいい。ほんの少しでも、奴に付け入る隙を生み出せれば――


「紫月君、下がれ!」

「!」

 鋭い叫びに応えて横に飛ぶと、青葉が発砲。銃弾を時芳の両目に命中させた。

 さすがに目玉までは強化されなかったらしい。時芳は刀を取り落とし、両目を両手で押さえながら聞くに堪えない悲鳴を漏らして全身をうねらせる。

「ブルズアイ! ナイスショット!」

「まだだ!」

 彼女の指摘は正しかった。眼窩から銃弾が転がり落ち、奴の目玉が一瞬にして再生してしまった。

「ふぅ……やれやれ。惜しかったな」

「これも駄目か」

 青葉が銃を再びリロードすると、時芳が取り落とした大太刀を拾い上げて再び地を蹴った。狙いは青葉だ。

 しかし、時芳の脚は次の一歩で動かなくなった。

「ッ……動かない……っ!?」

 どうやら彼にとっても不測の事態らしい。薬の副作用だろうか。

 でも、動きが止まった程度でどうしろと? 相手の体は銃弾を軽々弾く強度を秘めているんだぞ!?

「経絡だ!」

 愁斗が血を吐きながら声を絞り出す。

「活性の経絡を突け!」

「……! そうか」

 攻略法はいまの一言で判明した。とはいえ、イチかバチの大きな賭けだ。

「東雲さん!」

「う……うん!」

 あゆは迷わず紫月の指示に従い、時芳の間合いまで入ると、既に懐から抜き出していた最後の千本を例の箇所に深々と突き刺した。

 彼女が離脱すると、青葉が言われるまでもなく弾倉内の銃弾を全て撃ち尽くした。狙いは皮膚が薄い関節や人体における急所の全てだ。

 弾は全て弾かれたが、そのうちの何発かは皮膚を陥没させている。

「こ……この程度で……私を……止められるとでも……!」

「誰も止めやしねぇよ。むしろ、加速させたんだ」

「何を……」

 時芳が何かを疑い出した時、彼の肉体が突然膨張した。上半身が風船みたいに膨らみ、内側から衣装がびりびりと裂けて、やがて堰を切ったように布地が弾け飛ぶ。

「ごふぉおおおおおおおおっ!? ふぁ……ぁ……何だ、ふぉれぁああああああっ!?」

「おそらくお前が使ったPSYドラッグとやらは肉体と知覚を強化する類の薬物だ。普通に考えたらその反動は肉体の衰弱と知覚の低下なんだろうが、失血した状態で腕一本を再生するような量を使ったなら、薬の効果はこれまで以上にはっきりと表れている」

「そういうことか」

 青葉が床に尻餅をついて紫月の説明を引き継いだ。

「いわゆるオーバードーズ――過剰摂取と似たような状態が発現していたんだな。だから薬の効果に体がついていけなくなり、自身の体力と摂取量のバランスが一気に崩れた。私に目玉を撃たれた後に動けなくなったのはその為だな」

「そして、東雲さんに活性の経絡を突かせたのは肉体の活性能力をさらに暴発させる為だ。そうすればほら、この通りのパンパンデブだ」

「おおおっ……おおおおおおおおおォォオオオオオオオオオオオオ!」

 説明している間に、時芳の顔面も腫れたように膨れていた。この男には、果たしていまの説明――自分の敗因がきちんと伝わったのだろうか。

 紫月は秋嵐を地面に突き立て、両手の指をぽきぽきと鳴らした。

「さて。さっきの礼だ。お前に一つ、冥土からの土産をプレゼントしてやるよ」

 いま思えば、こいつのせいで今日は散々だった。何が悲しくて、クリスマスの夜にこんな血生臭い激戦を繰り広げなければならなかったのだろう。

 紫月は床を蹴って、真っ直ぐ時芳の間合いに肉薄する。

「風魔戦技・最終奥義」

 えーっと……たしかこの技には、大切なコツがあったんだっけ。

 開いた掌に願いや想いを乗せて握り込み、腕はあくまで重々しく振り上げ――

「喰らえ! 二曲輪猪助直伝の必殺奥義――」

 祈るように、拳を振るう。

「クソジジイの、拳骨っ!」

 全身全霊、掛け値無しにして唯一無二の一撃が、原型を失い始めた時芳の顔面に深くめり込んだ。

 この一発だけは、猪助と一緒に放っている気分になっていた。


 限界まで膨らんだ風船が破裂すると、元は人間と言えども丁度あんな感じになるのだろうか。時芳の肉体は紫月のワンパンチで破裂して、およそ人から出たとは思えない衝撃波を血液や内臓と共に爆散させた。

 至近距離でモロに衝撃を喰らった紫月が床を再び転がり、素早く起き上がる。

「……ようやく終わったか」

 改めて、周辺に広がる血溜まりと躯の数々をぐるりと見渡す。

 この戦闘で落命した者の総数を目算するだけで吐き気がする。PSYドラッグがもたらす効果も然ることながら、北条時芳自身が有する戦闘能力が如何に強大であったかがよく分かる構図だ。

 倒した後だからこそ、戦慄を禁じ得ない。

「伊崎さん!」

 あゆが腹を抱えて倒れた愁斗の傍に跪く。

「しっかりして、すぐに救急車を呼ぶから!」

「……いや、もう遅い」

 愁斗が首を横に振ると、顔の左半分に黒い斑模様がくっきりと浮かび上がる。

「伊崎さん、それっ……」

「PSYドラッグの副作用だ」

 答える彼の面持ちは何処か安らかだった。

「風魔一党に加入した時から、俺はPSYドラッグの被験体に使われていたんだ。当然の末路……といったところか」

「既に肉体が限界を迎えていたんだな」

 青葉が覚束ない足取りであゆの隣に立った。

「強靭な肉体と精神力を持っていなければ、とっくのとうに廃人化しているような量を摂取させられていたのか。よくこんな状態で戦えたものだ」

「病は気から……と、よく言うだろう」

 彼の体から、徐々に力が抜けていくのが目に見えて分かる。顔の斑模様も範囲が広がり、瞬く間に左腕を浸食していく。

「でも……これで、気張る必要は無くなった」

「何を言っている? まだ奥さんやお子さんに会ってもいないのに」

「……貴陽青葉。頼みがある」

 愁斗は何故か、青葉に浸食が及んでいない右手を伸ばす。

「この城の武器庫……階段から、右側の倉庫の奥……刀を入れた、籠の……下」

「何を言っている? おい!」

「伊崎さん!」

「……あゆを……頼む」

 伸ばした右手が斑模様の浸食と共に脱力し、伊崎愁斗はこの場で息絶えた。

 叶うなら、一度だけでいいから、ゆっくりと話をしてみたかった。

「……この、大馬鹿野郎」

 紫月は足元に落ちていた時芳の大太刀を思いっきり蹴っ飛ばした。

 金属が床を打つ音を聞いても、気分は全く晴れなかった。


   ●


 彩萌市内で一際大きな存在感を放つ北条一家の邸宅内は、新渡戸文雄ら警察の人間からすれば宝の山だった。

 銃器に麻薬、刀剣の類や盗品のロードバイクまで選り取りみどり。とにかく、所有しているだけで豚箱行きへの通行手形と化すような代物がごろごろ見つかった。

「おい、新渡戸ぇ!」

 胴間声を張ってずかずかと居間に入ってきたのは、新渡戸の先輩であり、熟練のベテラン刑事である駒木定義(こまきさだよし)だ。元・公安の人間だったらしいが、どういう訳かいまは彩萌署捜査一課に君臨する課長様……の、筈なんだが、

「ちょっと、これ見ろや」

 彼は二色刷りのチラシを新渡戸の眼前に突き付けた。

「近くのサミットで大根と納豆の半額タイムセールだとよ。安くね?」

「いま何時だと思ってんすか。もう終わってますよ、それ」

「何ィ!? ……あ、言われてみればその通りだわ」

 駒木が安っぽい腕時計を見て嘆息する。

「うちの嫁さん、ちゃんと仕入れてくれたかなぁ……大根と納豆」

「先輩、ちゃんと仕事してください」

「してるよ! ほら!」

 いい加減にして欲しいと思ったその瞬間、駒木がこれまた妙な紙をさっきと同じように突き出してきた。紙の材質は画用紙で、描かれているのは目玉のようなイラストだが、絵に使われた色料はインクでもなければ水彩絵の具でもなく、ただのクレヨンだった。

「今度は子供の落書きっすか? ほんとアンタって人は……」

「おめぇさんはコイツを見て何も感じねぇか?」

「はあ?」

 目玉の絵をしばらく凝視してみる。

 ふと、ある映像が脳裏を過った。

「……この目玉の絵、最近何処かで見たような」

「最近、駅前で街頭演説するようになった、おかしな新興宗教団体のロゴだよ。単なる印刷のチラシだったら大した手掛かりにはならんだろうが、こいつに使われた色料はクレヨンで、見るからに手書きのものだ。これをお前さんはどう見る?」

「手書きのイラストを譲渡するような……親密な関係性がその宗教団体と北条一家の間で築かれていた?」

「俺もそう思う。確定的なことは言えんが……」

 駒木は鑑識によって足元の座卓の上にたったいま置かれた木箱を見下ろす。

「PSYドラッグのアンプルが見つかった以上、その宗教団体にもガサ入れする必要性が出てきたな」

「そいつは後回しですよ。いまは北条時芳本人の行方を追わなきゃ」

 北条の名を口にして思い出した。黒狛が関わっている風魔一党の案件はどうなったのだろう。あれ次第でこちらの捜査方針も大きく変わってくるので、いち早くあちらの情報は掴んでおきたいところだ。

 無造作にポケットからスマホを取り出し、家探し中に着信していたメールに全て目を通す。

 その中に一通だけ、杏樹からのメールが届いていた。

「……駒木さん」

「あん?」

「やっぱり宗教団体のことを先に調べましょう」

「いきなりどうしたってんだ? まさか北条が見つかったとでも?」

「見つかったっていうか……消えたっていうか」

 新渡戸は他の警官や鑑識などに気取られないよう、駒木を人気の無い一角に誘い込み、可能な限り小声で告げる。

「駒木さん。いまから話すことは絶対に口外しないでくださいよ」

「どうせお前が便宜を図ってる探偵社絡みだろ?」

 普段は彩萌署内においてキング・オブ・お茶目の称号を欲しいままにする駒木だが、時々発揮する勘の鋭さと天性の捜査センスは新渡戸がいままで関わった刑事の中で随一とも言える。

 だからこそ、駒木は新渡戸が信頼を置く数少ない一人なのだ。

「ダーティーなのはお互い様だろ。俺が裏社会の連中とねんごろやってるように、お前さんだって民間の協力者を有効活用している。俺達は同じ穴の貉だよ」

「だったらこっちも安心して話せます」

 新渡戸は杏樹から伝えられた内容をそのまま開示した。ついさっき北条時芳が迎えた末路と、北条自身がPSYドラッグを服用していた事実まで、少なくとも警察関係者からすれば喉から手が出るほど欲しい情報のオンパレードだった。

 黙って話を聞き、駒木は深々と頷いた。

「新渡戸。俺の勘だと、いまはまだ前座だって言っているように聞こえたぜ?」

「同感です。この後、とてつもなくドデカい嵐がすっ飛んでくる」

「とにかく捜査に戻るぞ。話はそれからだ」

「ええ」

 全ては北条一家の敷地内を全部洗ってからだ。何としてもこの家探しは夜が明けるまでに終わらせたいものだと願っていたが、そうそう簡単に終わらせてくれるほど、屋敷の広さと部屋の多さは警察関係者の精神衛生に優しくなかった。


   ●


 白猫探偵事務所は御通夜同然の空気が流れていた。

 原因は、応接間のテーブルの真ん中に置かれた一通の手紙だ。

「……旦那が、これを?」

「ええ」

 伊崎恭子を前に、幹人は沈痛な面持ちで述べる。

「騒ぎの後、戦闘に加担していたうちの社員が城の武器庫から発見した物です。封はまだ開けてないので、こちらもまだ内容は知らない」

「ここで開けてもよろしいですか?」

「ご随意に」

幹人が頷くと、恭子は早速封を切り、中に入っていた通帳と一枚の折りたたまれた紙を取り出した。通帳の中身はおそらく保険金の代わりだろう。

 手紙に目を通し、恭子は呆れたように微笑んだ。

「……本当に、馬鹿な人」

 これが彼女にとって、彼の不器用な一面に触れる最後の機会だったのかもしれない。

「蓮村さん。もしよろしければ、この手紙を届けてくれた社員さんにお礼を伝えてはくれないでしょうか」

「ええ。言っておきます」

「ありがとうございます」

 恭子は身支度を整えると、幹人と一緒に席を立って、再び頭を下げる。

「旦那に代わって、改めてお礼を申し上げます。この度はありがとうございました」

「こちらこそ、大した力になれなくて申し訳ないです。それと……」

 たっぷり間を持たせ、青葉から伝えられた言葉をそのまま口に出した。

「うちの社員はこう言ってました。彼は最後の最後まで立派に戦った――と」

「それが聞けただけでも満足です」

 彼女はまたしても頭を下げ、穏やかな足取りでこの事務所を後にした。

 しばらくして、別室から青葉が現れる。

「すまない」

 開口一番、青葉は飼い主に叱られた子犬みたいな顔をして謝罪する。

「みんなに迷惑や心配をたくさんかけて、結局何も護れなかった」

「いっちょ前に落ち込むな、この半人前め」

 幹人はあえて辛辣に言った。

「お前なんぞが護れるのはせいぜいボーイフレンドだけだ。もう少し、我が社の社員である自覚を持って行動しろ」

「……申し訳ありません」

 珍しく敬語を使う青葉であった。

 幹人は仏頂面のままコーヒーサーバーの前に立ち、二人分のコーヒーを淹れ、青葉に片一方を差し出した。

「貴陽青葉。君には一週間の謹慎処分を命じる」

「はい」

「色々辛かっただろう。少し、休みなさい」

 いまの彼女に掛けてやれる言葉は、厳しい叱責とほんの少しの労いだけだった。愁斗を不器用と評した割に、自分も人のことは言えないらしい。

 熱々の黒い水面を息で冷ます青葉を眺め、幹人は安堵を隠しながら呟いた。

「まるで、昔の私を見ているようだ」

「何か言った?」

「さてな。それより、この後出掛ける予定があるとか言ってなかったか?」

「ああ。そろそろ行く」

 いつもの無表情に戻り、青葉は空になったコーヒーカップをこちらに返して足早に事務所を飛び出した。

 彼女がいなくなり、幹人は自分の執務机の椅子に腰を落とし、天井を眺めながらこれまでの顛末をぼんやり思い返す。

 あの事件の後、警察よりも先にやってきたのは唐沢一家だった。彼らはこれを風魔一党と北条一家の内部争いとして処理して、警察への事情説明も同様に片付けた。青葉を含む高校生の男女三人もしばらくは唐沢一家のもとに身を寄せ、傷の治療などについても万全のサービスを整えてくれた。お世辞にもヤクザの一派とは思えないご厚意だ。

 伊崎愁斗の葬儀は密葬だった。表沙汰に出来なかったというのもあるし、何より最後はせめて静かに眠らせてやりたいという恭子の意向もある。これについては幹人個人も恭子の選択を支持しているので、伊崎家についての話はこれでおしまいだ。

 ともあれ、ここから先は平常運転に戻るだろう。それにしても、何で黒狛の連中と関わる度にこんな感じの大きな騒ぎに巻き込まれなければならないのやら。

 やっぱり、杏樹にはもう一度、探偵を止めろと言っておくべきだったのだろうか。

「社長、ただいま戻りました」

 和音が弥一を連れ立って帰ってきた。二人共、何か言いたそうな顔をしている。

 彼らは幹人の前に立ち、疑惑の目でこちらを見下ろしてきた。

「どうしたね? 何かあったか?」

「それはこちらの台詞です」

 和音が険を込めて言った。

「社長は何か、私達に重要な隠し事をしているんじゃないですか?」

「何かとは?」

「葉群紫月」

 弥一が問題の名前を口にする。

「青葉と一緒にいたガキの一人です。社長はどうやらそいつのことをご存知なのでは?」

「知っていたとして何になる?」

「奴は黒狛探偵社のエースなんでしょ?」

「……………………」

 まさか、こうも早い段階でバレるとは思ってもみなかった。

 和音がさらに眉間にしわを寄せる。

「彼が私を助けて入間と戦った奴だというのなら、何でもっと早く教えてくれなかったんですか?」

「教えたら礼を言いに菓子折りを渡すつもりだったか?」

「そんなつもりはありません。でも――」

「青葉と彼の関係についてなら心配には及ばん」

 二人の言わんとしていることは既に分かっていた。

「青葉はまだ彼の正体を知らない。逆もまた然りだ。あの二人はこのまま友人同士として付き合いを重ねていく。何も大きな問題は無い」

「もし、どちらか一方が相手の正体を知ったら?」

「それは彼らの問題だ。私達には関係が無い」

 和音達が危惧しているのは会社の情報漏洩などという陳腐な問題ではない。もっと単純に見えて、もっとも難しい思春期のあれこれだ。その点を心配するだけ青葉を大切に想ってくれているのはありがたいが、時と場合によっては少しだけ考えものである。

 でも、幹人には自信を持って言えることが一つだけある。

「青葉は勿論だが、葉群君もきちんと自分で考えられる子だ。杏樹ならきっと、彼をそうやって育てている筈だからな」

「それは理解しています。だとすれば、私達はずっとこの件を黙って見守っていればいいんですか?」

「杏樹も青葉の正体を知っている。彼女達がそうする限り、我々もいまは静観あるのみだ」

「……分かりました」

 納得し、二人はそれぞれの仕事に戻った。幹人もいまの話をあっさり忘れ去る。

「さて、自分の仕事に戻ろう」

 頭痛の種は地雷原の如く埋まっている。いまは自分の成すべきことだけに集中しよう。



 彩萌市の一番大きな総合病院の個室で、二曲輪猪助は今際の際を迎えようとしていた。

 池谷杏樹と東屋轟が助けに入った時、猪助は既に回復が望めないくらいに体力が衰弱していた。解毒剤が効かないと言ったのは、効かないというより、いまさら解毒しても助からないのを自分で悟っていたからだろう。

 病院に搬送されてすぐに解毒を行ったので延命処置は上手くいったのだが、だとしても今夜いっぱいが山だと医者から言われてしまった。だからあゆを含め、彼女の両親と、あゆに頼まれて来た紫月と青葉がこの病室に集まっている。

 ベッドの上で生命維持装置に繋がれた猪助を見下ろしているあゆに、紫月が後ろから控えめに声を掛けた。

「東雲さん」

「……分かってる」

 あゆはその場でしゃがみ込み、細くなった猪助の手を自らの両手で包み込む。

「お祖父ちゃん、聞こえる? 私だよ、あゆだよ」

「……あ……ゆ」

 猪助の渇きかけた瞳があゆの顔を映す。

「そこに……いるの……か?」

「うんっ……」

「……すまなかったなぁ、いままで……ずっと」

 最後の力を振り絞ったのだろう。彼は弱弱しくも、はっきりとした声音で言った。

「最後まで……お前の祖父のようには……なれなんだか」

「違うよ。お祖父ちゃんみたいにならなくても、猪助さんは私のお祖父ちゃんだよ」

「……これまで、たくさんのものを捨ててきた」

 瞳を閉じると、彼の目尻から一筋の涙が零れた。

「大切な親友も……一番弟子も、自分も……でも、お前だけは……捨てられなかった」

「お孫さんだけ? 馬鹿を言え」

 紫月は胸の前に固く握った拳を持ち上げた。

「俺に教えた拳骨も忘れるな。俺も、忘れないから」

「……葉群紫月。貴陽青葉」

 猪助は頬を緩めて、紫月と青葉にこう告げた。

「あゆを頼む。まだまだこの子は、一人前の忍を名乗るには早過ぎる」

「私は……忍じゃないもん」

 あゆがしゃっくりにも似た嗚咽を吐く。

「通りすがりの……探偵……だもん」

「……だったら、半人前ですら……ないな」

 心電図の波が起伏を失くしていく。

「宗仁よ……見ておるか? ワシらの……孫は……」

 誰よりも早く紫月は目を閉じた。あゆの両親は俯き、青葉は変わらぬ無表情を装う。

「こんなにも……立派に……いまを、生きて…………」

 その言葉を最後に、二曲輪猪助は天寿を全うした。

 享年七十二歳。最後まで、彼は彼のままだった。



「私達は何の為に戦ったんだろうな」

 外に出て、病院の自販機で温かいミルクティーを買い、青葉は陰鬱な面持ちで紫月に訊ねた。

「これまで人の死に際はたくさん目の当たりにしてきた。そういう人生だったからな。でも、人を看取ってこんなに辛いと思ったことはこれまでだって一度も無い」

「奇遇だな。俺もだよ」

 同じ飲み物を口にして、紫月は鼻を鳴らした。

「君の生い立ちについて深く詮索するつもりは無い。でも、逆の立場なら俺も青葉と同じことを訊いていたさ」

「君に訊いた私が馬鹿だった。これではただの自問自答だよ」

 言い得て妙な表現だった。つくづく自分達は似た者同士らしい。

「紫月君」

「ん?」

「実はこの後一週間だけ暇な日が続くようでな。もし君の時間が合うようなら、この一週間は私の憂さ晴らしに付き合って欲しい」

「珍しいな。青葉の方から誘ってくるなんて」

「それだけ君とつるむのが当たり前になってきたってことだ。せっかくだから言っておくが、私は君を結構気に入っている」

「そりゃ嬉しいね。俺も幸い、この一週間は暇なんだわ」

 今日、杏樹から説教と共に一週間の暇を与えられたのをようやく思い出した。ヤクザの組を一つ壊滅させたばかりの探偵を頻繁には表に出せない、などと彼女は言っていたが、本当のところはリフレッシュ休暇をくれただけだと解釈していいだろう。

 この後バッティングセンターにでも行くかなどと話していると、横からあゆが薄暗い面持ちのままこちらに歩み寄ってきた。

「東雲さん、もういいのか?」

「二時間以内には遺体を病院から運び出さないといけないし」

 彼女の答え方は実に淡々としていた。

「ここから先はお父さんとお母さんが葬儀屋さんと急いで話をつけるから、私は葉群君達と一緒に帰りなさいって」

「そっか」

 どう反応して良いか、この時ばかりはさすがの紫月も迷っていた。

「その……東雲さん。すま――」

「葉群君、これ」

 口をついて出た謝罪を遮り、あゆは傷だらけの十手を紫月に差し出した。

「ずっと返しそびれちゃってごめんね。これ、凄く心強かったよ」

「……そうか」

 十手を受け取って懐に収め、紫月はようやく体にいつもの重さを取り戻した。

「二人にはいっぱい迷惑を掛けちゃったね」

 彼女は目線を下に逸らした。

「お祖父ちゃんも伊崎さんも二人には感謝してると思う。だから、改めて私の方から――」

「礼など要らん」

 青葉がそっぽを向いた。

「結果的には失うばかりで得られるものが何も無かった。私達にとっても、君にとっても。だから、礼なんて言わないでくれ。自分で自分が恥ずかしくなる」

「得られたものは、ちゃんとあったよ」

 あゆは淀みなく告げる。

「私達は一緒に命を懸けて戦った。本当の仲間って、そういうもんでしょ?」

「……一杯食わされた気分だ」

 何も言い返す気が起きなかったのか、青葉がとうとう折れてしまった。やや頑固なところがある彼女にしては珍しい。それだけ、東雲あゆという人物に強大な説得力を感じたのだろう。

 青葉が苦笑して、再び訊ねる。

「改めて訊こう。君は一体、何者なんだ?」

「ん? えーっとね……」

 あゆはわざとらしく人差し指を唇に当て、

「……なんだっけ?」

 あざとく下手くそな素振りですっとぼけた。


   ●


 冬休みが明け、県立彩萌第一高等学校の校舎は冬眠から覚めたように騒ぎ出す。

 乾いた隙間風が流れる廊下には互いの再会を喜ぶ生徒達の姿も見受けられる。教室の中に一歩踏み出せば、まるで異国の地に迷い込んだような喧騒を総身に受ける。

 彼らはクリスマスや三が日を満喫したのだろうか――などと、冬休み中の出来事を語り合う輝かしきクソリア充共の集団をぼうっと眺め、紫月は誰にも気取られないように教室の片隅でため息をついた。

 一週間の謹慎がようやく解かれ、学校と探偵の二重生活が再び始まると思うと、ああやって楽しそうにしている連中を妬ましく思う。こちとらクリスマスは虐殺パーティー、元旦は忍者爺の大往生である。青葉や龍也と一緒にゲーセンで心と財布をリフレッシュした以外は特に楽しいことは無かったりする。

 ああ、いいなー。彼女欲しいなー。クリスマスに【自主規制】したかったなー。元旦も【検閲削除】したかったなー。なんなら年柄年中【不適切な発言があったことをお詫びいたします】したいなー。

「おっはよー!」

 教室に飛び込んできたあゆの姿を見て、紫月は咄嗟に窓の外を眺めた。あれと教室で関わるとろくなことが無い。主にあゆ自身の評判的な意味合いで。

 本当なら彼女の場合、適当な何人かと世間話なんぞをするものだが――何故か、紫月のもとへ一直線に駆け寄って来た。

「葉群君、おっす」

「…………」

 無視だ。他人のフリだ。透明マントを貸してくれドラ×もん。

「おっす」

「……………………」

 あゆが意地でもこちらの顔を正面から覗こうとしてくるが、あっちも意地ならこっちも意地だ。絶対に顔は見せてやらないぞ☆

「ねえねえ葉群君」

「…………」

「次のデート、何処のラブホ行こうか」

「黙れぇえええええええええええええええええええええええええええええええええ!」

 わざと大きな声で訊ねてきたあゆの顔に全身全霊のアイアンクローを喰らわせた。

「おのれは大観衆の前でなに晒してくれとんじゃ!」

「おお、ようやく反応してくれた。おはよう、紫月君」

「下の名前で呼ぶな……!」

 紫月は周りの生徒達の唖然とした視線を気にしながら言った。

「学校での俺は崇高にして最強のぼっちだ。よって、気安く話しかけるな。いいな?」

「ええー? 自分の彼氏に話しかけちゃ駄目って罰ゲーム過ぎない?」

「周囲に純度百パーセントの嘘を垂れ流すな」

「へっへー、やーだよーだっ」

 彼女はするりとアイアンクローから逃れると、紫月の周囲を小馬鹿にしたように飛び跳ね始めた。

「ほらほーら、悔しかったら捕まえてみろやーい」

「……随分と元気だな」

 本気で相手にするのも馬鹿らしくなり、紫月は鼻を鳴らして視線を伏せた。

 二曲輪猪助の葬儀は臨終から三日後に行われ、東雲家の少ない親族に見守られて火葬されたと聞いている。東雲家が代々所有しているお墓に彼の骨を入れたばかりだというのに、いまの彼女は初めて紫月と言葉を交わした時よりもずっと元気だった。

 こちらの心境を察したのか、あゆが紫月の正面で立ち止まる。

「……いつまでもくよくよしてる私を見たら、きっとお祖父ちゃんもおちおち天国で眠っちゃいられないからさ。もしかしたら、またこの学校にすっ飛んでくるかもしれないし」

「それを人は空元気って言うんだとよ」

「葉群君の場合、気にし過ぎだよ」

 いままで色んな種類の笑顔を見せたあゆが、ようやく大人びた笑みを浮かべる。

 この時、紫月は初めて、あゆを綺麗だな、と思った。

「お互い、人のことは全く言えないじゃん」

「……………………」

 突き抜けて無邪気な彼女が自分より大人だったと知り、紫月は絶句してしまった。

 気付けば、クラスメート達が揃いも揃って二人の会話に聞き入っている。中には二人の仲を邪推する者までいるようだ。

 さてと。この始末、どうつけてくれよう。

「東雲さん」

「ん?」

「放課後、青葉や火野君達と一緒にバッティングセンター行くんだけど、君も一緒にどうだい? その後は俺と青葉が行きつけにしているラーメン屋を紹介するよ」

 もう周囲が抱く彼女のイメージなど知ったことではない。そもそも彼女の身柄を想像だけで拘束する権限は誰も持ち合わせてなんかいない。

 彼女は彼女のままで、俺は俺のままだ。

 人は思ったより、ずっと自由に生きられるのだから。

「うん、行く!」

 この翌日から、彼女に気安く話しかけるクラスメートはほとんどいなくなった。



                         通りすがりの探偵編 おわり

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