『禁忌の探偵』編

第8話 禁忌のテレグノシス


   #1「禁忌のテレグノシス」



 機械的な照明を切った暗闇に、壁掛けのかがり火が列を成して燃え盛る。

 ここは『巫女の間』と呼ばれる大広間。床は全て畳が敷かれており、その上で白い外套を纏った数十、否、百数人の人間が等間隔で土下座している。勿論、彼らは全員揃って何者かに対して謝罪している訳ではない。

 崇めているのだ。最奥部の玉座に正座する、小さな紅白の巫女――井草水依(いぐさみなえ)を。

「私の瞳は未来を見通す。さあ、汝の願いを述べるがいい」

 水依が幼い声音に荘厳な響きを乗せると、彼女から半畳分の間隔を開けて頭(こうべ)を伏す若い女が面を上げる。

「私がいまお付き合いしている男性の様子が最近おかしくて……彼と私の未来がこの先どうなるのかを知りたいのです」

「その願い、承った」

 水依は横からぬっと現れた黒子からトレーシングペーパーの束と小さな机、製図用のシャープペンを手渡されると、机の上でトレーシングペーパーに奇怪な模様を手早く書き上げる。

 一枚目が完成。続いて二枚目、三枚目――使った紙の総量は五枚。

 模様が描かれた紙を重ね合わせると、一つの新たな模様が完成する。

 いわゆる魔法陣のイラストだ。水依はこれまで、魔法陣を構成する為に必要な文字や円といった模様を描いていたのだ。

「いま、汝の『気』を読んだ。これより開眼する」

 水依は五枚重ねのトレーシングペーパーを頭上に掲げ、魔法陣の中心を凝視する。

 最初は視界全体が黒く塗りつぶされ、やがて青く染まり、奥から映像の怒涛が押し寄せてきた。

 この映像が、女の未来そのものだ。

「……視えた」

 呟き、水依は紙を女の手前に差し出す。

「汝の付き人は汝と別の女と交際している。しかも六股」

「六!?」

 女が場所に見合わず素っ頓狂な声を上げると同時に、ひれ伏していた白い外套の大勢がどよめきと感嘆のアンサンブルを奏でる。

「しかも一か月後、六人中二人の妊娠が発覚する」

「に……ッ」

「ニンジンではない。妊娠だぞ?」

 何処かでバカがうつったか、冗談で場を和ませようとする。

 でも結局、何処かの誰かさんみたいにはいかなかった。

「……許せない」

 地獄の底で生まれた怨嗟の音が女の喉から這い上がる。

「現人神様。このまま泣き寝入りするのはあまりにも悔し過ぎます。何か、良い意趣返しの手段は無いものでしょうか」

「探偵でも雇えばいい」

 何故か知らないが、そんな答えが口をついて出てしまった。

「彩萌市には白猫探偵事務所と黒狛探偵社という、地元の大物芸能人も御用達にしているような腕の立つ探偵の組織が存在する。彼らに浮気の証拠を集めてもらうといい」

 白猫探偵事務所は元・刑事が社長を務めているだけあって人間の醜さと直面した上で迅速な仕事を徹底するプロ中のプロだ。彼らの仕事に間違いは無い。

 対する黒狛探偵社は街の人気者が率いる個性派集団で、癒しを求める人の寄る辺となっているらしい。その実力たるや、白猫に勝るとも劣らないと聞く。

「これが、いま視えた未来と汝の要望に対する最善策。これを聞いてどうするかは汝の心意気次第」

「充分です」

 女が再び畳に額をこすりつける。

 ちなみにこの女はどこぞの有名なロックバンドのメインボーカルらしく、水依に未来を視てもらうのは今日で二回目となる。一回目はバンドの行く末についてだった。あれも水依の予知通り、ギターを務める男メンバーの不倫問題が発覚してバンド全体がマスコミから集中砲火を受けた。

「次は現人神様の言う通りにします」

「さっきも言った。どうするかどうかは自分次第だと。一回目にアドバイスを無視して何もしなかったことについては汝の自己責任」

「それは重々承知しております……! だから今後も是非……!」

「よかろう。では、そろそろ下がれ」

「はい」

 こうしていつも、信者達には横柄に接している。組織内における威厳を保つ為だ。

 でも、疲れる。いつもと違うから。

 そもそも、私にとっての日常とは――本当の私とは、何なのだろうか。

「水依。ご苦労だった」

 玉座の後ろから、紺色のスーツ姿を着た初老の男が水依の真横に現れる。

 彼は井草勝巳。水依の父親にして、この組織の創始者だ。

「今日はさっきの彼女で終わりだ。明日はエコノミストが相手なんだが……」

「問題無い。経済に関する記述は読み漁っている」

「よろしい。もう下がりなさい」

「うん」

 水依は無感動に頷き、玉座から降りて信者達の前から立ち去った。

 彼らは最後まで、仰々しく荘厳な姿勢で見送ってくれた。


   ■■■


「素行調査に関する相談が今日だけで三件。頭が痛くなりそうだ」

 白猫探偵事務所の社長、蓮村幹人は応接間のソファーに腰を沈めて唸っていた。

「そんなに人のプライバシーを覗き見たい奴が多いのか。困ったものだ」

「社長、ただいまーっす」

 細身の優男というありふれた形容が似合う男、野島弥一が疲れた様子で自らのデスクにもたれかかった。

「勘弁して欲しいっすよ。家族の素行調査の依頼、この一か月で何件目ですか?」

「十二件」

 淡々と答えたのは、黒いライダースーツを着たまま給湯室から出てきた西井和音だ。元々スタイルが良いとはいえ、体のラインがはっきり浮き出たその風体は、若い男からすればいささか目のやり場に困ってしまうだろう。

 ちなみにこの場にいる若い男、つまり弥一の感覚はアテにならない。こいつは真性のゲ……同性愛者だからだ。

「野島ぁー、お疲れのところ悪いんだけどさー、報告書の作成手伝ってー」

「俺もたったいま持ち帰ったメモと写真を纏める作業があんだよ。こんな時、青葉がいればなぁ……あいつ、何気に画像加工が上手いんだよ」

「今日は青葉、非番だよ」

「よし、自分でやろう。つーか、お前も自分で頑張れ」

「結局そうなっちゃうかー。まあ、いいけどさ」

 幹人から見て、和音と弥一の関係は良好と言える。互いに憎まれ口を叩き合いながらも信頼関係が構築されているのを見ると、昔の自分とその相棒を思い出す。

「……青葉が本格的に働くようになってからだな」

「? 社長、何か言いました?」

「いや。君達は引き続き自分の仕事を頼む」

「分かりました」

 弥一が応じると、二人はそれぞれのデスクで報告書の作成に取り掛かった。

 探偵にとって報告書は商売の要であり、そして商品そのものである。故にパソコン操作のスキルは高いに越したことはない。特に二十代後半の和音と弥一はデジタルに程良く嵌まれる世代だ。彼らの素養はアナクロ世代の幹人にとって大きな助けとなっている。

 幹人が二人の働きぶりに満足していると、手元の固定電話が着信を報せる。

 受話器を取り、ため息混じりに応じた。

「もしもし。こちら白猫探偵事務所です」

『よう蓮村。景気はどうだい』

「……何故わざわざ事務所の電話に掛けた?」

 相手は声だけで判明している。彩萌警察署の新渡戸巡査長だ。

『プライベートなら携帯にかけてるよ。今回は仕事の電話だ』

「面倒だけは持ち込むなよ。ただでさえ素行調査の依頼を突き返しまくっている状況だからな」

『未来学会って知ってっか?』

 人の話を聞け、と言うのは後回しにしよう。

 知っているも何も、未来学会は最近、駅前で大々的にヘンテコな格好をして布教活動をしている怪しい宗教団体だ。嫌でも噂は耳に入ってくる。

「新渡戸。私は今日も忙しい。オカルト話は後日、居酒屋でじっくり堪能させてもらおう」

『さっきからよぉ、署に来た住民からの苦情が殺到してるんだわ。曰く、「白猫と黒狛が依頼を受けてくれないからこっちに人探しを頼むしかなかった」ってな』

 普通は逆だろう。そんなことを言い出すくらいなら最初から警察に頼めばいい。

「……素行調査の対象となっている人物が揃いも揃って未来学会の本拠地ビルに出入りしている。このような結果に繋がる依頼が今月だけで十二件を超えてしまった。こちらの対処能力に限界が出てきたので、素行調査に関してはいま受けている分でラストオーダーにさせてもらっている。正直、それだけだ」

『本拠地の中で何をしているかまでは知らないんだな?』

「簡単に調べられたら苦労はしない。相手は新興の宗教団体。しかも代表の井草氏は黒い噂が絶えない人物だと聞いている」

『青葉を潜入させれば良くね?』

「馬鹿を言うな。前回のような馬鹿騒ぎに彼女は巻き込めない」

『なるほど。ま、詳しい話は俺が直接そっちに行く時にでも聞こうじゃないの』

「それで解決するようなら情報提供は惜しまん。ただし、本当にそれだけだぞ?」

『分かってるよ。準備が出来たら電話をくれ』

「言っておくが茶は出さんぞ」

『事務所出たら自分で缶コーヒー買うよ。じゃ、また明日な』

 最初から最後まで随分と身勝手な男だった。昔から新渡戸は大体こんなものか。

「社長」

 弥一が何やらにたにたと笑っている。気色の悪い奴だ。あ、昔からか。

「もしかしてぇ、未来学会関連の何かっすか?」

「そうだ。時間があれば簡単な概要をまとめた資料を用意してもらいたい」

「お安い御用で」

 弥一が仕事に戻ると、幹人は気が遠くなるような思いで窓の外を眺めた。

「……未来学会、か」

 不吉な予感はこれまで何度だって感じている。

 でも、いま心中に去来する胸騒ぎは、不吉程度では済まない気がした。


   ●


 私立明天女子高等学校は伝統あるカトリック系のお嬢様学校だ。進学はエスカレーター式で、高等部において一定の単位を修得した者は自動的に女子大学部に昇級する。

 だが、貴陽青葉の進路は最初から決まっていた。明天から抜け出し、何の変哲も無い普通の大学に行って穏やかな四年間を過ごし、卒業後は白猫探偵事務所の正社員になる予定がある。

 そういえば、大学生になれば彼氏って出来るんだろうか。男からすれば大学時代で彼女の一人は確実に捕まえておきたいんだろうが、女もいずれそうなるんだろうか。

 男が女を捕まえたい時は砂漠の中でオアシスを探すが如き難易度らしいが、女が男を捕まえたい場合は自販機の前で何を買うか決めかねているようなものだという話を何処かで聞いたことがある。

 女子校育ちでいきなり共学の大学に入った女というのはどういう目で見られるのだろうか。男慣れしてないからチョロいとでも思われるのだろうか。私は葉群紫月という同い年の悪友がいるから耐性はついているのだが。

 そんなことより早く下校したい。今日は紫月達とゲーセンに行くんだから。

「貴陽さん? ……貴陽さん!」

「ん?」

 担任の女教師、根津聡子(ねづさとこ)に呼ばれ、青葉はようやく我に返った。

「おお、先生。いきなり大声を上げて、何かありましたか?」

「いま、明らかに意識が虚無の彼方に飛んでましたよね」

「すみません。火星と交信していました」

「なるほど。貴女は私を舐めていますね?」

 冗談の通じない新人教師だ。ちょっとは広い心を持ちなさいよ、全く。

「……じゃなくて。進路希望調査票。早く書いてくれないと困るんだけど」

「ふむ」

 青葉は机の上に置かれた一枚の紙と再び向き合った。

「まだ高校一年なのに気の早いことだ」

「この学校は早い段階で自分の進路を意識させて社会に対する自分なりの向き合い方をどの学校よりも早く学ばせるの」

「私の進路は既に決まっている」

「じゃあ、何で書かないの?」

「……………………」

 いや、書かないんじゃなくて、書けないの。

 理由は、この調査票の素晴らしい書式だ。普通ならどの大学に行きたいとかを記載するだけで話は終わりだが、これにはさらに続きがある。

 曰く、『どの職種を希望するか。また、どの会社への就職を希望するか』である。

「先生。世の中には知るべきことと知らない方がいいことというものがある」

「それは言われなくても分かってるけど……それが何?」

「私の進路についてはあまり知らない方がいい」

 青葉からすれば、希望する大学の欄だけは埋めたのに、職業の欄を埋めなかっただけで何で教室に引き止められるのかが謎だったりする。

 ここで素直に『探偵』だなんて書いたら、自分の正体が周囲に露見する可能性がある。それは白猫探偵事務所における『秘蔵の探偵』としては避けたいところだ。いまさら探偵の学校に推薦書を出されたりしても面倒だし。

 だからといって適当な職業を書いてみたとしよう。このケツの青さも拭えない新人女教師が気合を入れてその手の資料を全力で集めかねない。

 正直言って、この状況はかなり危険だ。

「そういえば、貴陽さんってアルバイトしてるんだよね?」

 唐突に、聡子が天井に目線を泳がせながら訊ねてきた。

「だったらそのバイト先の正社員になっちゃうとかもアリだけど……」

「それは……まあ……」

 最初からそのつもりだ。でも、現段階でそれを聡子に伝える訳にはいかない。

 もし伝えて、この女がうっかり口を開いてしまい、自分の正体が学校全体に広まってみろ。人の情事を覗き見する危険人物に対する異端審問が始まってしまうではないか。

「ねぇ、貴陽さん」

 聡子がこちらの顔を覗き込む。

「早く書いてくれないと、私が帰れないのよ」

「そ……その……」

 ええい、仕方ない。適当な職業を書いた上で、何もしてくれなくていいと釘を刺すか。

「ちょっと、宜しいですかな?」

 後ろ側の扉が開き、隙間から一点の曇りも無い丸メガネが覗いた。

「校長先生?」

「およ?」

 この場面でまさかの校長である。意味が分からない。

「根津先生。彼女の進路希望調査については希望する大学の記載だけで大丈夫です」

「しかし――」

「先生」

 年相応の鋭く老練な眼光で聡子を射抜くと、次に校長は青葉に微笑んだ。

「貴陽さん。今日はもう帰りなさい。君のお友達がこの近くでずっと待っている」

「分かりました。では、お言葉に甘えて」

 聡子が引き止めるより先に、青葉は素早く席を立ち、校長の横をするりと抜けた。


「校長先生、これは一体どういうことですか?」

 聡子が眉根を寄せて訊ねると、校長はゆっくりと歩み寄ってきた。

「根津先生。彼女の事情についてはあまり突かない方がいい」

「どうしてです?」

「貴陽さんは学生社会的に見ても少々特殊な立場にいる。それに、人には隠し事の一つや二つくらいはある。それが例え、教師が相手だったとしても」

「生徒一人を特別扱いしろと?」

「彼女の場合は本当に仕方ない。何せ、この彩萌市を裏から支える一人なのだから」

「何を言っているか理解出来ません」

「世の中には知らない方が良いことというものがたくさんある。なるほど、たしかにその通りだ」

 感慨じみた台詞だけ残し、校長はゆるりと身を翻して教室から立ち去った。


   ●


「悪かったって。後で飲み物奢るから」

「ぶー」

 昇降口を抜けて勉学の檻から抜け出し、青葉は商店街の往来で井草水依に抱きついた。

「そんなに機嫌を損ねるとは思わなかった。許してくれ。な?」

「私、ずっと待ってた。青葉が終始ふざけているのが悪い」

「みなえぇぇ~」

 水依に頬ずりをかましてみるが、やっぱり彼女はご機嫌ナナメだった。

 やがて商店街を抜けて駅に出ると、噴水の前で集まっていた三人の男女がこちらの姿を認め、そのうちの一人が大きく手を振った。

「おーい、青葉ー」

「すまん。ちょっと遅れた」

 手を振っていた女子高生、東雲あゆに頭を下げる。

「教師が進路希望の件でうるさくてな。この時期にご苦労なこった」

「随分と早いんすね」

 三人のうち、一際目立つ高身長の男子高校生が苦笑する。彼は火野龍也といって、近隣の男子校に通う一年生だ。年は青葉と同じだが、電球並みに明るいスキンヘッドと深夜の如く深い黒のグラサンをかけているせいで、見た目より年齢が上に見えるどころか、考え方によっては『そっち系』の人にも見えなくはない。

 龍也が会釈すると、水依がさっきの不機嫌面を引っ込め、彼のお腹に頭から突っ込む。

「おわっ……っと、今日はなかなか勢いがありますね」

「火野君。今日は青葉がポンコツだからちょっと困ってる」

「おい、言われてるぞ」

 小馬鹿にしたように笑うのは、青葉の悪友こと、葉群紫月だ。見た目は中肉中背の何ら変哲も無い男子高校生だが、何故かいつも懐に十手を携帯している危険人物だ。

 紫月は青葉の頭をぽんぽん撫でながら言った。

「青葉のポンコツっぷりはいまに始まったことじゃないよな」

「自覚はあるが君にだけは言われたくない」

 とりあえず腹パン一発でラブ注入しておいた。

 鳩尾を抱えて蹲る紫月の尻に、あゆが何故か蹴りを入れている。彼女の行動原理は未だに謎が多いものの、いまに限って言えば衝動的に蹴りを入れたかったのだろう。

 意外と簡単に復活した紫月が爽やかな笑顔で親指を他方に向ける。

「さて。じゃあ、そろそろ行くか?」

「そうだな」


 最近はずっとこんな感じだ。青葉や紫月、龍也のバイトの休日が重なると、決まってこの五人で放課後は遊び呆けている。学生リア充連中のよくある一幕だ。

「くたばれ青葉!」

「お前が死ね!」

 小ぶりなディスクがエアホッケーの台上を高速で行き交う。ちなみにこれはタッグマッチで、今回は紫月&龍也VS青葉&あゆだ。

 龍也から弾かれたディスクを、あゆが卓球で言うところのスマッシュの要領で打ち返し、男子チームのスリットの真ん中に吸い込まれる。

 これでゲームセット。勝者は女子チームだ。

「よっしゃ!」

「いえーい」

 青葉とあゆがハイタッチしている傍で、紫月と龍也が同時に膝を突いて愕然としている。彩萌市内においてトップレベルの凶悪な女子高生二人を敵に回せば大体こうなる。

 それにしても、こんなにはしゃいで不良連中に絡まれないか心配だ。まあ、変に突っかかる奴がいれば自分とあゆ、もしくは紫月がぶっ飛ばせば済む話か。いや、龍也みたいな外見の奴がいるから、絡みたくても絡めないとは思うのだが。

 青葉がそんな懸念していると、水依と龍也が別のゲームを始めた。お次はホラー系のガンシューティングだ。

 二人共、銃の扱いが揃いも揃って素人もいい所だ。でも、心底楽しそうだ。

「超一流のガンスリンガーから見て、こいつらの腕前はどうよ」

 紫月がからかうように訊ねてくる。

「……二人の相性がいい」

 青葉はズレた回答を用意した。

「あいつらはこういう二人プレイのゲームに素質がある」

「次は俺と青葉の相性でも試してみる?」

「君とは競い合いになりそうだ。止めておくよ」

 自らの射撃技術をひけらかすほど、青葉もそこまで自信過剰な方ではない。能ある鷹は何とやらという訳ではないが、いまはあまり銃を握りたくない気分だった。

 黙って龍也と水依の背中を見守っていると、唐突にあゆが紫月と青葉の首を両脇に抱える。うぜぇ。

「ねえねえ、あの二人ってなかなかイイ感じじゃない?」

 輪をかけてうぜぇ。

「下手な詮索は止めとけ」

 紫月がぞっとするような冷徹な声音で釘を刺す。

「人の恋路に横から首を突っ込むとロクな目に遭わない」

「こ……怖いな」

 あゆが恐る恐る紫月と青葉を自分の腕から解放する。

「葉群君、こういう話の時だけ凄い顔するよね」

「……まあ、な。色々あったし」

 何があったのかは知らないが、いまの紫月に恋愛の話題はご法度のようだ。

「ふぎゃあああ! 死んだ!」

 気付けば、龍也達が遊んでいたゲーム筐体の画面に「GAME OVER」の血文字がべったりと塗り付いている。

「せっかくいいところまで行ったのに!」

「とぅーびーこんてぃにゅー?」

「うーん、どうしましょうかね……」

 二人の悩む姿が、いまの青葉には少し可愛く見えた。


 気付けば時刻は夜の八時を回っていた。さすがに少々遊び過ぎたか。

 再び駅の近くに戻ってみると、噴水広場の前で白い外套を着た数人の男女が、マイクを片手に演説したり怪しげなモノクロのチラシを配ったりしていた。最近、彗星の如く彩萌市に現れた新興宗教団体の布教活動だ。

 龍也と水依はさして気にしていない様子だが、あゆだけは違った。彼女はどういう訳か、さっきからずっとその団体を凝視しているのだ。

 青葉はそっと彼女の肩に手を置いた。

「あゆ、あまり長く見ていいもんじゃない」

「……未来学会」

「え?」

 いまのあゆは、さっきの紫月と似たような形相をしていた。

 ややあって正気を取り戻したらしい、あゆは取り繕うように手を振った。

「あ……いや、その、何でもないよ。何か変な人達がいるなーって思っただけ」

「でもさっき、未来学会がどうとか」

「それより、ほら! あれ見て、あれ!」

 あからさまに誤魔化し方が怪しいが、とりあえず彼女が指差した方向に視線を遣る。

 あそこはこの彩萌市で長年続いている有名な個人経営のスイーツ専門店だ。店先ではふりふりのスカートを穿いた可愛らしい女性店員が、手近に置かれたテーブルの上に山積みされたチョコレートの箱を多くの女性客に売り捌いている姿が見受けられる。

「そろそろバレインタインデーだね! 青葉って誰か本命のチョコ渡す人とかいんの?」

「君は何を言ってるんだね?」

 青葉は大げさに首を傾げた。

「私は食べる専門だ。人に作って渡すなんて人生で一度もやったことが無い!」

「……私、チョコ作れない」

 店先で消えていくチョコの箱達を眺め、水依がしょぼくれたように俯く。

「そもそも料理出来ない。どうしよう――あ」

 何か閃いたらしい。水依がこれまで以上に楽しそうに提案する。

「青葉、あゆっち。今度、時間が空いた時にチョコを作ろう」

「何だ、いきなり」

「知り合いに腕のいいパティシエがいる。私の家に来ればすぐ会える」

「お? マジで?」

 真っ先に喰いついたのはあゆだった。

「行く! 私、超行きたい!」

「……まあ、いいだろう。そういえば水依の家には行ったことが無いからな」

「じゃ、決まり」

 胸の前で手を合わせた水依の面持ちは、これまでになく満ち足りていた。


 勝手に女子会ムードに突入した青葉達三人の井戸端会議を眺め、紫月と龍也はただひたすら無言でぼうっとしていた。

 でも、そろそろ沈黙が気まずい頃か。

「火野君。井草さん、きっと君に本命のチョコを作るぜ」

「そりゃ嬉しいっすね」

 期待に対して反応が薄い龍也であった。

「いまから十四日が楽しみですわ」

「そうか」

 正直、紫月も水依と龍也の仲が少しだけ気になっている。龍也自身が彼女をどう思っているかとか、或いはその逆とか。健全な高校生ならこの手の話題は興味の対象だ。

 でも、健全とか不健全の境界を越えている高校生なら、話は全く別だったりする。

 もう二度と人の恋路に対して不用意に首を突っ込まない。それが、あの惨劇から学んだ紫月なりの経験則だ。

 たったいま、この禁に触れそうになり、夕闇の血みどろが克明に脳裏を過る。

「意外っすね」

 龍也が落ち着き払って訊ねてくる。

「葉群さん、もうちょい突っ込むかと思ってたのに」

「世の中、知らない方がいいこともある。俺にとってはいまがその時ってだけの話だ」

「そういうもんっすかね?」

「あくまで俺にとっては、だ」

 悪魔な俺にとっては――と吹き替えたら、さすがに中二病過ぎるだろうか。

 女子三人の話が一段落すると、何故か青葉がこちらを睨んできた。

「? 青葉?」

「いや、何でもない。夜も遅いし、さっさと帰ろう」

「だな」

 きっと、気のせいだ。

 まるで自分の全てを見透かしたような、青葉の痛い程に鋭い視線は。


   ●


 井草家は彩萌市でも有数の大富豪の一家だけあって、その邸宅たるや、まるで西洋の城を彷彿とさせる外観だった。

 仰々しい鉄扉から邸宅の玄関までおよそ三十メートル。直線の白い石畳の道の左右は手入れされた人工芝が広がっている。

 ローズウッドのような色合いの扉の向こうは、白を基調とした優美な玄関口だった。

「私はたったいま世界の真実に近づいた」

 青葉は自分の前を往く水依を後ろから捕獲して、その頬を縦横無尽に弄り回す。

「平等は不平等の上に成り立っている。某縦スクロールのSTGで誰かがそんなことを言っていたような気がする」

「すげー」

 隣であゆが通り一辺倒な感嘆を漏らす。

「水依っちのお父さんって何をやってる人なの?」

「起業家。製薬会社とか医療機器メーカーみたいな医療関連が主体」

 日本で起業家になる者は基本的に稀だ。起業そのものの難易度が非常に高い上で、自分で起こした事業の失態で身包みを剥がされるリスクを背負うという二重苦を味わう必要があるからだ。国の金融政策や刻一刻と変化する経済環境などの機微に対応可能な優れた適応力を有していなければ継続も困難だ。特に、国民に対する借金を正義と称する日本が舞台なら尚更である。

 水依の話によれば彼女の父親は、そんな生き馬の目を抜くような世界で成功を収めた『井草グループ』の代表だという。この街の市役所で住民票を提出したことがある人間で、井草グループの名前を知らない者はいないとまで言われている。

「水依っち。何か一つ、お父さんが起こした中で一番有名な会社の名前を言ってみて」

「何故に?」

「興味本位」

「……ライズ製薬」

 言うか言うまいか少しだけ迷った様子だった。

 ライズ製薬は知っている。数ある製薬会社の中でも比較的新参者の部類に入る会社だが、いまではどのドラッグストアでもその会社の商品を十点以上は確実に取り扱っている。

「あ、それならあたしも知ってる」

 あゆが手を挙げて答える。

「お祖父ちゃんがよくその会社の薬を贔屓にしてたから、あたしも何回かそこの風邪薬を使ったことがあるな。めっちゃ良く効くの」

「それは嬉しいコメントですな」

 奥の階段から、紺色のスーツを着た五十代くらいの男性がゆったりと降りてきた。彼が一歩を踏む度に息が詰まりそうな錯覚に陥ってしまう。

「初めまして、お嬢さん方。私は水依の父、井草勝巳です」

「ど……どうも、貴陽青葉です。水依さんのクラスメートです」

「貴女がよく話に出てくる水依のご学友ですか。いつも娘がお世話になっています。さあ、立ち話もなんですから、どうぞ上がってくださいな」

「は、はい」

 言われてようやく、まだ玄関から一歩も動いていなかったのを思い出す。

 青葉達が玄関で靴を脱いで家に上がると、何処からともなく現れたメイド達が素早く白い羽毛のスリッパを差し出してきた。見るからに高級品の風格が漂っている。

 やや躊躇しながらスリッパに履き替えると、勝巳が愉快そうに促した。

「そうかしこまらなくていい。しかし驚いた。水依が友達を連れて来るのは今日が初めてでして、私も少々動揺している」

 心にも無いことを――とは思っても、口には出すまい。

「今日は是非ごゆっくり。何かあればうちの小間使いに何なりとお申し付けを」

「お心遣い、痛み入ります」

「なるほど、礼儀正しい娘さんだ。もっと話してみたい気分だが、生憎と私はこれから仕事に出なければならない。今日のところはこれで失礼させていただく」

 老練という言葉は彼の為にあるのではないかと思わされてしまうくらい、井草勝巳の現れてから辞するまでの仕草は隙が無かった。

 彼が消えてすぐ、青葉は緊張感を誰にも気づかれないように吐き出した。すると、今度は別の物体に目が行った。

 大きな金の額縁に収まった女性の肖像画だ。さっきからずっと、絵の中の美人が奥の壁からこちらに見守るような視線を向けている。

「あれは……」

「青葉、こっち」

 水依に淡々と促され、絵画に関する質問の機会を逸してしまった。


 有り体に言って、井草家のキッチンは高級レストランの厨房に近かった。飯時になればここでどれだけの人数がひしめくかが一瞬で想像できる様相だ。ピザを焼く古風な窯から最新鋭の遠心分離機まで、揃っている機材や調理器具の数や種類は枚挙にいとまが無い。

 大理石の調理台には既にチョコ料理に必要な材料が一通り揃っている。しかも、その材料の大半は国外からの高額な輸入品だ。

 さすがは金持ち。庶民様とは感覚が違う。

 でも、世の中にはやり過ぎという概念が存在する。いま青葉とあゆの前に立っているおかしな人物がその一つだ。

「嬉しいわーん! 水依ちゃんがこーんな可愛いお友達を連れてくるなんてっ!」

「紹介する。こちらは王虎(ワンフー)。うちに雇われてる用心棒。かつてはフランスでパティシエの修行を積んで、自分の店を持った経験がある腕利きの菓子職人」

「お店の方はこっちでの仕事があるから後任に引き継いじゃったけどね」

 何がどうなったら女性メイクフルオプションの屈強なオカマ野郎がパティシエから用心棒に転身するのだろうか。自己主張の激しいアイシャドウと紫の口紅は正直言って目もあてられない。

「それより、ほら。料理の前はやっぱりエプロンよね」

 王虎は青葉とあゆにそれぞれエプロンを一枚ずつ差し出した。ちなみにエプロンの色は青葉が緑で、あゆが黄色。水依が赤だ。

「……私達は信号機か?」

「とても似合うわーん。意中の男がいるなら見せてあげたいものね」

「私には別に恋しい相手などいないんだが」

「あら? 本命の人にあげる為にこれからチョコを手作りするんじゃないの?」

「私はただ高級食材を用いた料理というものを体験したかっただけだ。作ったものは私が後で責任を持って始末する。勿論、自分の胃袋でな」

「随分と正直ね」

 王虎の顔がやや引きつっている。何もおかしなことを言った覚えが無いのに、何で可哀想な人を見るような目をこちらに向けてくるのだろう。

 王虎は次に、さっきから部屋をきょろきょろ見回していたあゆに訊ねる。

「ね……ねえ、東雲あゆちゃん、だったかしら。貴女は誰に渡すの?」

「死んだお祖父ちゃんへの御供え物」

「お……重い……」

 彼が落胆するのも無理は無かった。

「でも、それだけじゃないのよね?」

「はい。葉群君に一個、火野君に一個、お父さんとお母さんに一個ずつ。それからクラスの人に一口サイズのものを一個ずつ……こうして考えると意外と多めにつくらなきゃ、だね」

「全部義理チョコ!? 本命は!?」

「全部本命です」

 あゆは本命の意味を理解しているのだろうか。自分も人のことは言えないが、あゆの思考回路もそれはそれで常人離れしているような気がする。

 王虎は頭痛を催したように掌で額を覆った。

「……言い方を変えましょう。誰か、好きな異性とかはいるの?」

「適当に生きてればそのうち見つかるんじゃないですか?」

「なるほど。いい答えが聞けたわ」

 あゆは将来大物になるだろう。

 王虎は咳払いをして気を取り直した。

「……とりあえず、さっさと作りましょうか」


 料理において最大のスパイスは作り手の愛や真心などとよく言ったものだが、そんなものを最初から持ち合わせていなかった青葉とあゆの行状は実にシュールだった。

 青葉は毎日自分と養父のご飯を作っているだけに料理に関してはそつなくこなす方だが、如何せん作業が淡々としている。王虎に作るスイーツのオーダーを伝えて、このキッチンの調理器具の使い方を教わり、製作の工程を何一つ淀みなく突破していく姿は、水依から見たら新入りの調理師見習いが器用に師匠の技を自分の中で昇華していくような淡泊な構図に見えてしまう。

 最終的に青葉が作り上げた代物は、なんとフォンダンショコラだった。

「青葉すげー」

 そして、あゆは全く手が動いていない。作りたいものが決まった段階から、ずっと青葉の手際に夢中になっているのだ。

 あゆはいま一度、気合を入れ直して鼻息を荒くした。

「よし! 私も頑張っちゃうぞ!」

 などと言って三十分が経過。

 出来上がったものは、版権的に色々問題になりそうな見た目をした一口サイズの某ネズミキャラクター型ショコラだった。ちなみに使用した金型は自分の手で作ってきたものらしい。渡す相手が全員本命とか言う割にはふざけているとしか思えない。やっぱり東雲あゆに真心という概念は存在しないらしい。

 王虎は水依の講師に付きつつ、あゆの作品を見て嘆息する。

「まあ……あれが友チョコなら上出来な方よね」

「青葉とあゆっちの行動や言動にいちいち突っ込んでいたら一日を浪費する。あまり気にしない方が得策」

「そうよねぇ。普通の女子高生とは到底思えないし」

「失礼な」

 青葉が耳をそばだてて反応する。

「私は何処からどう見てもそこら辺にいるようなぴっちぴちのリアルJKだ」

 絶対違うだろとは敢えて言うまい。

 水依も青葉の生い立ちはある程度知っている。でも、生い立ち以上に、現在の彼女がどういった立場の人間なのかは全く教えられていない。

 こちらから見た貴陽青葉という人物は実に興味深い。普段は無愛想の仮面を被って生活しているようで、自分が興味を持った対象を見つければ純粋な好奇心で近づいてくる。水依と青葉の出会いも大体そんな感じだ。

 だからといって、彼女の正体を知ろうなどとは思わない。何故なら、青葉もこちらの事情には下手に深入りしてこなかったからだ。

「王虎さん、ちょっとお訊ねしてよろしいか」

 水依がチョコクッキーの種をオーブンに入れたところで、青葉が唐突に口を開いた。

「何? また何か作りたいの?」

「いや。玄関の奥に飾られていた絵画について何かご存知ではないかと思いまして」

「ああ、あれは水依ちゃんのお母さんよ」

「え? そうなの?」

 あゆが目を丸くする。

「すっげー綺麗な人だったよね。そりゃ、水依ちゃんも可愛く育つ訳だ」

「将来は水依もあんな風に成長するのかもな」

 ベタ褒めされ、水依が顔を真っ赤にして俯く。さすがに自分の母親について、同年代の友人からこんな評価を貰ったのが初めてだからだ。

 王虎がいつもの微笑みを湛えて説明する。

「井草水穂(いぐさみずほ)。旦那様は彼女を心の底から愛していたの」

「その彼女はいま何処に?」

「母は私を産んだと同時に他界した」

 水依が平静を装って答える。

「結婚以前の無茶な生活が祟って謎の感染症に侵されたって。父が医療関連の企業を立ち上げたのもその影響が強いという話を前に聞いたことがある」

「そういえば、旦那様とご結婚される前は半ば浮浪者みたいな半生を過ごしてたそうね」

 王虎が水依の頭の上に掌を置いた。

「貴女達は水依ちゃんの能力をご存知?」

「未来予知のESPか」

「そう。奥様は水依ちゃんと同等かそれ以上の力を宿したESP能力者だったの。だから水依ちゃんはきっと、奥様の力を引き継いでいまの姿に成長したんでしょうね」

「まるで自分の命を全て水依に移し替えたみたいだな」

「だとしたら、それが奥様なりの愛かしらね」

 王虎が再び苦笑する。

「愛の形って本当に人それぞれよ。人に与えて返される愛もあれば、一方的に押し付けられて返すに返せない愛もある。人から人へ受け継がれる愛、命をかけて遺していった愛――口で愛してるなんて言うのは簡単だけれど、結局は行動で示さなければただの自己満足。でも行動すれば少なくとも命や人生に影響を及ぼしてしまう。人はそういうジレンマを抱えながら今日を生きて明日を迎えなければならない。旦那様も奥様も水依ちゃんも、もしかしたら愛っていう概念に振り回されているだけなのかもしれない」

 この時ばかりは、このキッチンに立つ小娘三人が揃いも揃って沈黙した。経験値の違いをこんな形ではっきりと見せつけられるのもそうそう無い経験だからだ。

 オーブンがクッキーの焼き上がりを報せる。

「そういえば水依ちゃんってクッキーを誰にあげるつもりなの?」

「それは……」

 とりあえず味見用に青葉とあゆ、それから王虎の分はいくつか作ってある。

 問題は本命の分だが――それを明かすにはちょっとした勇気が必要だった。

「水依は火野君と紫月君に渡して二人からの好感度を上げたいんだろ?」

 青葉が嘘っぱちを交えて説明する。

「そういう友チョコも良いではないか。少なくとも私やあゆが考えることよりはずっとまともだ」

 自分がおかしいという自覚はあるのか。つくづくよく分からない奴だ。

「友チョコ……ねぇ」

 既にオーブンから天板を出していた王虎がいやらしく口の端を吊り上げる。

「そういえば一個だけやけに大きいメガネの形をしたクッキーの種が入ってたけど……なるほど、実際焼き上がるとグラサンみたいになるのね」

「火野君がいつも掛けてるグラサンにそっくりだー」

 あゆがあっさりと暴露する。

「もしかして、これって火野君にあげるやつ?」

「……………………」

「止めとけ。そろそろ水依が気絶するぞ」

 青葉が『やっちまった』、みたいな顔をしてあゆを制した。

「そもそも誰が誰に渡すという質問をした王虎さんが悪い。思春期には色々あるんだから黙っておけば良いものを」

「それは……ごめんなさい」

 さすがの王虎も、この時ばかりは普通に謝罪した。


 

 高校生が警察の職質を気にせず出歩ける刻限を考えれば、夜の八時くらいに水依の家から出たのは正解だった。ちなみに作ったチョコ料理に関しては、来るべき時まであの家の冷蔵庫で保管してもらうことになった。

 隣を歩くあゆが、唐突のこんな質問をしてきた。

「水依ちゃんって、火野君のどこが良かったんだろ」

「火野君本人が気遣いの出来る優しい性格だからな。会う度に構ってもらってる分だけ好感度が自然に上がったんだろう」

「あー、それ分かる。紫月君も彼を見習ったらいいのにって思う」

「全くだ」

 紫月は龍也と対照的で、そこまで気遣いが上手い方ではない。性格的に優しい訳でもないので、少なくとも普通の女子からはあまり好かれないタイプだ。

 でも、奇人変人に対する受け皿は非常に広い。それだけは評価に値する。

「火野君は水依をどう思ってるんだろうな」

「うーん……」

 少なくとも龍也から見た水依の印象は決して悪くは無い筈だ。でも、彼が彼女を異性として認識しているかどうかはいまいちよく分からない。

 青葉もあゆも紫月といつもつるんでいるのに、揃いも揃って同年代の男子に対する理解が少しばかり足りていない。やっぱり紫月では参考にならないのだろうか。

「今度さ、直接聞いてみる?」

「止めとけ。あまり私達が出しゃばる場面でもない」

「そっか。ところでさ」

 あゆが青葉の前に躍り出る。

「青葉って、葉群君のこと、どう思ってんの?」

「ただの悪友だ」

「え? そこ、迷うとこじゃないの!?」

 彼女が何を想ってそんなことを聞いたのかは知らないが、こういう質問をされた時の答えはあらかじめこれと決めている。だから迷う理由にはならない。

 青葉が盛大にため息をつく。

「もし仮に君があいつを好きなら勝手に持って行けばいい。そもそも私に承諾を求めるような話でもない」

「もしかして呆れてる?」

「悪いか?」

「ううん。ただ単に、ブレないなぁって」

「私なんて精々そんなもんだ。下らんこと言ってないで、さっさと家に帰るぞ。最近は何かと物騒だからな」

「うーい」

 自分で言っておいてなんだが、物騒云々は別に帰り道を急ぐ理由にはならないと気付いてしまった。

 何故なら、物騒なのは青葉とあゆの存在だからだ。



 寝る支度を整えてすぐ、帰ってきたばかりの勝巳に呼び出され、水依はリビングで彼と対面していた。

「用件って何?」

「さっき訪れた貴陽青葉と東雲あゆの正体を知りたい」

 その申し出はあまりにも唐突だった。

「あの二人がどうかしたの?」

「さっき出かけた先で妙な噂を耳にしてな。あの二人がそれに関与している可能性がある。それをお前の予知能力で調べてもらいたいのだ」

「私が視れるのは未来だけ。過去は調べられない」

「過去の積み重ねも未来の一つだ。お前が読んだ未来を逆算して過去に辿り着くことだって、決して不可能ではない筈だ」

「いや、無理」

 水依は頭を振った。

「前にやってみたことがあるけど、青葉の未来は視えなかった。それどころか、あゆっちの未来も最近は形がはっきりしない」

「お前が未来を見通せない対象が二人……か」

 これは余談だが、葉群紫月の未来も視えなかった。しかし、龍也の未来は三日先まで読めてしまう。この二人にはどういった違いがあるのか、水依本人にも全く見当がつかない。

 勝巳が顎に指を当てて呟く。

「彼女達が未来を変える因子そのもの……? いや、そんな馬鹿な」

「お父さん?」

「いや、何でもない。では、視る対象を変えよう」

「今度は誰を?」

「王虎だ」

 勝巳は既に近くで控えていた王虎に目線を遣る。

「あの二人と接触した王虎から何か視えるかもしれん」

「…………分かった」

 水依は自室へトレーシングペーパーを取りに行き、リビングに戻って王虎の『気』を視て、それを絵柄として描きだして通常通りの予知を行った。

 その結果、水依の網膜に映ったのは、あゆと対峙する王虎の姿だった。

「……あゆっちが王虎さんと戦ってる?」

「あらビックリ」

 被写体の王虎本人はあまり驚いていないらしい。

「それって、あの東雲あゆって子が私達の敵になるってことじゃない? とても面白い子だったのに、ホント残念だわー」

「思い出した。そういえば、あゆっちは風魔一族の末裔とかいう話を聞いたことがある」

「風魔一族?」

 勝巳が興味深そうな反応を示す。

「……なるほど。パズルのピースが一つ埋まったな」

「どゆこと?」

「お前はまだ知らなくていい。時が来たらいずれ話す」

 明らかに不安要素しか残さないような言い分だった。

 それにしても、あゆは勝巳とどういった関係の人間になるのだろうか。いまはたしかに無関係な気もするが、いずれはこちらの敵になるのだろうか。

 ――敵?

 いや、ちょっと待て。何で私はいま、あゆが敵対者になる可能性を考えた?

「遅くに呼び出して悪かったな」

 勝巳が目線を下げ、水依の両肩を持った。

「今日はもう寝なさい。明日も学校があるだろう」

「……分かった。おやすみなさい」

 水依は身を翻し、すたこらと自室に戻った。


 水依が去ってすぐ、王虎が疑問をそのまま口に出した。

「旦那様。あの二人が一体どんな事件に関与していると?」

「四季ノ宮に北条一家が所有する城があったという話は知っているな。去年のクリスマスくらいか。その城で風魔一党と唐沢一家の内部争いがあったらしい」

「それは初耳ですね。それが何か?」

「これにより北条一家は完全に壊滅した。でも、いくつか情報操作されていた節があってな。風魔一党と戦っていたのは唐沢一家ではなく、まだ未成年の子供三人だったという話だ」

「そのうち二人が貴陽青葉と東雲あゆ、ということですか」

「まだ正確なことは分からん。だが、東雲の姓を聞いた時に違和感は感じていたのだ。それに、貴陽青葉――私はあの子を昔、何処かで見たような気がする」

「他人の空似という線は?」

「そこがまだ不明瞭でね。やれやれ、年は取りたくないものだ」

 勝巳が適当な椅子に腰を落ち着けると、王虎はすぐにコーヒーの準備に取り掛かった。

「貴陽青葉……彼女は何処となく、あいつに似ているような気がする」

「あいつ? 誰です?」

「入間宰三。私の古い知り合いだよ」

「ああ、生命遊戯の」

 入間宰三だったら王虎も知っている。最近放映された昼のワイドショーによると、高校生三人の青春を見るも無残な姿に変貌させた挙句、市内の公立高校で何者かと戦闘を行って爆死したんだったか。

 一対一の戦闘力だけで言えば、あれは王虎と互角の実力を秘めた危険人物だ。

「本音を言うと、出来れば水依を貴陽青葉と関わらせたくないんだがなぁ……」

「見た感じ、普通の良いお友達に見えましたけど」

 王虎が勝巳の前にコーヒー入りのカップを差し出す。

「さ、旦那様。冷めないうちに」

「君も自分の分を淹れて、一緒にどうだね」

「では、お言葉に甘えて」

 王虎は自分のカップを棚から取り出した。


   ●


 彩萌市総合病院の待合室で、紫月は十五分くらい待ちぼうけを喰らっていた。通りすがりの医者に「どのようなご用件でお越しですか?」などと訊かれる度に「待ち合わせです」と答えて、かれこれ四回を過ぎただろうか。

 ちなみにいまの格好はベンチコートに鹿撃ち帽子だ。あからさまに怪しい。

「葉群紫月君だね?」

 後ろから声を掛けてきたのは、白スーツに身を包んだ四十代くらいの紳士然とした男だった。特徴は鼻の下に生えるカモメみたいな形の髭である。

 彼の正体は、白猫探偵事務所の社長、蓮村幹人だ。

「いきなりお呼び立てして申し訳ない」

「別に構いません。時間には余裕がある」

 紫月が人相を隠すような恰好をしている理由は、ライバル関係にある会社の社長に自らの素性を知られない為だ。紫月は一応、黒狛探偵社における秘蔵っ子なので、なるべく正体を隠して行動しなければならない。

 本来なら変声器も用意する必要があった。でも、ここは病院だ。

「ところで、私に何か用件があるという話でしたが」

「付いてきたまえ。君に見せたいものがある」

 幹人はこちらの返答を待たずに歩き出した。

 呼び出された理由は未だに明かされていない。昨日家に帰った時にいきなり彼から電話が掛かってきた時には心臓が止まるかと思ったが、彼はこちらのそんな心境に構わず、ただ「この病院に来い」とだけ言ってきたのだ。

 彼の背中を見て歩きつつ、紫月は一番に聞きたかったことをそのまま口に出した。

「蓮村さん。貴方はどうやって私の連絡先を手に入れたのですか?」

「お互い探偵だろう。なら、理由は自分で調べたまえ」

「……………………」

 有無を言わせないとはまさしくこのことだ。

 幹人に連れられた先は、精神病患者が収容されている隔離病棟だった。普通なら立ち寄ろうとすら思わない場所だ。

 とある個室の前に辿り着き、幹人はネームプレートに記された名前を見遣る。

 斉藤久美、と書かれていた。

「ここは……」

「ここへの立ち入りは既に許可を貰っている」

 言うや、幹人は躊躇なく扉を開いた。

 部屋の中は木の色を基調とした、柔らかな温もりのある内装の小さな空間だった。テレビやベッド、その他最低限の調度類以外はほとんど何も置いていない。

 でも、部屋の様子なんて、いまの紫月にはどうでも良かった。

 問題は、ベッドの上で窓の一点を眺める、一人の少女の存在だった。

「斉藤……先輩」

 久美の姿は以前と変わらない。それでも見つけられた数少ない違いと言えば、病院指定の白い寝間着と、首と手首に夥しく巻きついた切り傷の跡くらいか。

「たしか、君の学校に通う上級生だったな。いまの彼女には我々の声が聞こえていない」

「聴覚に何か異常でも?」

「だったら耳鼻科にでも行けばいい。ここは精神病棟だ」

 やたら幹人が迂遠な言い回しを多用する理由はよく分かっていた。

 分かっているだけに、胸が締めつけられそうだった。

「事件後の彼女の病状は既に聞き及んでいると思う。極度のPTSDを罹患し、ことあるごとに自傷癖を発現させている。あれだけの悲劇と凌辱を味わったのだ。立ち直れという方が無理な話だろう」

 玲や杏樹から聞いた話だと、最近になって食事は採れるようになったというので痩せ細ってはいないようだが、やはり医者以外の人間と会話できる精神状態ではないようだ。

「この様子では社会復帰にも相当な時間を要する。仮に復帰できたとしても、例の一件は今後の生活に支障を及ぼすだろう」

「何故、俺にこれを?」

「君は己の業を直視せねばならない」

 ようやく、幹人は核心を語った。

「元はと言えば、君達黒狛の人間が不用意に依頼を受けなければこのような事態には繋がらずに済んだ。あくまで結果論だがな」

「……………………」

 言い返そうにも言葉が出ない。自分にその権利が無いのを理解しているからだ。

「葉群君。君は探偵を辞めたまえ」

「……!」

 今度こそ、紫月は目を剥いて幹人の顔を見上げた。

 彼は紫月の視線なんぞ何処吹く風といった調子で淡々と述べる。

「君はこれ以上、このような世界に関わるべきではない。たしかに入間の一件では世話になったが、それはあくまで君自身の落とし前の問題だろう。それ以前に、君は探偵に不向きだと、私は思う」

「貴方に俺の何が分かる?」

「少なくとも黒狛の秘密兵器と呼ばれている君が、こうして私に正体を看破された挙句ここへ呼び出されている時点で秘密兵器としても失格だ」

 隙の無い弁解だった。まるで青葉を相手にしている気分だ。

「それでも続けるというのなら止めはしない。私は決して命令している訳ではないからな。でもその場合、いま君の目の前にいる少女が背負った非業を直視して、共に苦しまなければならない」

 それは前々からずっと思っていたことでもある。

 いずれは必ず彼女の一件で天罰が下る。だからこそ、いつ報いを受けてもいいように、心の準備はしていたつもりだ。今日見せられた彼女の姿についても、実のところは紫月の想像通りだったりする。

 でもまさか、探偵を辞めろなどと言われるとは思いもしなかった。

「……だれ?」

 突然、久美が掠れた声で訊ねてきた。

「あなた達……男の人?」

「いかん」

「やっば……!」

 幹人にも紫月にも、いまの彼女が次に起こす行動を容易に想像できた。

「男……おとこ、おとこ――ひっ!?」

 彼女が喚き出す直前で、二人は病室から急いで飛び出し、扉を乱暴に締めた。

「いやぁあああああっ……アアアアアアアアアアアアアッ!!」

 悲鳴を聞きつけ、近くに控えていた女性の主治医が泡を喰ったように駆けつけて病室の中に飛び込んだ。

 空気を引き裂く悲鳴を扉越しに聞きながら、紫月はようやく本当の意味で当惑する。

「マジかよ……! 男の姿を見ただけで……」

「彼女の精神崩壊の要因で一番大きいのは入間からのレイプだ。彼女の目からすれば四十代前後の男の姿は恐怖の対象でしかない。こちらに気付かないだろうと思って油断した」

 トラウマ再発の要因となるのは日常の中で目にする些細なきっかけという話を前に聞いたことがある。いまの彼女は、幹人を入間と勘違いしたのだろう。

 ややあって、悲鳴が収まると、女性の主治医がゆっくりと部屋から出てくる。

「すみません。斉藤さんがあなたと話をしたいとおっしゃっているのですが」

「俺?」

 紫月が自分で自分を指差す。

「何故?」

「斉藤さんには以前、付き合っていた彼氏さんがいたそうですね。彼女にはあなたの姿がその彼氏さんに見えてしまったようでして……さっきから「健に会わせて」って」

「…………っ」

 自然と拳を固く握ってしまう。

 斉藤久美の彼氏――前田健。彼は入間に生きたまま解体されて死亡した。

「行きたまえ」

 幹人が素知らぬ顔で告げる。

「認識されてしまった以上は避けられない。これも君の責任だ。もしかしたら彼女が復活する為のきっかけになるかもしれない」

「……分かりました」

 紫月は再び病室に入り、扉を閉め、彼女と対面した。

「……健」

 その名前を呼ばれると、心臓を針で突かれたような気分になる。

「健、来てくれたんだ」

「そうだよ、久美」

 これも仕方なしと思いつつ、紫月は死体の姿でしか対面したことが無い人物を演じることにした。

「ごめんな。俺の方も色々あって来るのが遅れた」

「ううん、いいの。それより、早くこっち来て」

 手招きされ、紫月は傍に寄って彼女と目線を合わせた。

 すると、久美はふわりと、自らの体重を傾けて紫月の首に両腕を回した。

「会いたかった。本当に……嬉しいよ」

「俺もだよ」

 一語一句発する度に喉の弁が閉まりそうだった。言葉を扱うのがここまで苦しいと思った瞬間は人生で一度も無い。

 間近で見る彼女の瞳は澄んでいた。まるで無垢そのものだ。

「これからは会いにいける回数も多くなると思う。だから、もう安心していいよ」

「本当に?」

「ああ」

「ありがとう、健」

 花が綻ぶように笑い、彼女はごく自然な仕草で紫月と唇を重ねた。

 すぐに突き放そうと思った。でも、寸でのところで思い留まる。

 彼女は恋人の死を受け入れられていない。だから比較的年が近い紫月を彼だと思い込むことで、精神に均衡と快楽を与えようとしている。

 口腔内で舌を絡ませている間にも、久美のたおやかな指が紫月の手を彼女の太腿まで持っていき、這うように腰に触れさせ、年相応に発達した胸に置いてくる。まるで過去まで行われていた彼らの情事を覗き見しているような気分だった。

 最低だ――そんな気分が訪れた時、紫月は彼女から唇と手を離した。

「さすがに病院の中じゃ駄目だよ」

「そうだね。ごめん」

「……そろそろ先生が診察に来る。今日は帰らせてもらうよ」

「明日も来るんだよね?」

「ああ。学校が終わったらすぐにでも飛んでいく」

「うん。待ってる」

 もう一度キスを交わし、紫月は無造作に病室を出た。

 扉をそっと閉じると、外で待っていた幹人が鼻を鳴らす。

「咄嗟の判断でよく恋人役に徹したな。大した役者だよ」

「人の情事を覗き見とか悪趣味にも程がある」

「君こそ人のことは言えないだろう」

「てめぇ――」

 いまここで幹人を懐の十手で撲殺すれば、少なくともたったいま湧き上がった怒りは収まってくれるだろう。

 でも、一瞬待つと、急に一瞬前のプランが馬鹿らしく思えた。

「……このことはうちの社長に報告させてもらう。彼女に会いに行く手前、しばらくは出勤時間の変更を余儀なくされるからな」

「それはご自由に」

 後で杏樹からしこたま怒られるだろうに、幹人の顔はやけに涼しかった。

「私からの用件は以上だ。帰るなり仕事に行くなり、好きにするがいい」

「そのつもりだ。こっちにも我慢の限界がある」

 紫月は早足で隔離病棟を後にした。


 遠ざかる紫月の背を見送っていると、ふと青葉の姿が幹人の脳裏を過った。

「……これでいいんだろう、青葉」

 青葉は紫月に惚れている。二人が直接絡んでいる場面は見たことが無いけど、最近の青葉はやけに彼の話を夕食時なんかに持ち出してくるようになった。大抵の部外者には無頓着な彼女には珍しい傾向だ。

 でも、彼は青葉と違って、危険な世界を生き抜くには弱すぎる。

 戦闘能力だけで見れば彼は入間と匹敵する強者だ。知能も決して劣っている訳ではない。でも、世の中腕っぷしや頭の良さだけで食っていける程、決して甘いものではない。

 これで折れてしまうくらいなら、早くこの世界から抜けてしまった方がいい。

 少なくとも、いまの幹人はそう思っていた。


   ●


 井草勝巳が立ち上げた会社の中で代表的な一つは医薬品メーカーだ。

 社名は株式会社ライズ製薬。いま勝巳が訪れているのは、テレビの取材だろうと警察の立ち入りだろうと足を踏み入れることが許されない、まさしく『聖域』とでも言うべきセクションだった。

 新薬開発製造部門。ここでは、とある特殊な薬物に関する研究が日夜行われている。

「高白(ガオパイ)。これが君の研究成果かね?」

「ええ、会長」

 窓ガラス越しに学校の体育館くらいの広さがある実験スペースを見下ろしながら、勝巳は隣に立つふざけた格好の中国人に訊ねる。

 彼――高白は新薬開発製造部門の主任だ。中国の赤い民族衣装を着飾り、おしろいを塗りたくった顔には満面の笑みが張り付いている。

 彼は甲高い猫撫で声を発し、長方形の黒い物体を勝巳に差し出した。

「PSYドライバー。井草グループ系列の医療機器メーカーが開発、実用化している新型注射器の技術を応用して、そこへさらに我々ライズ製薬の意見を取り入れて作られたPSYドラッグ専用の携帯注射器です。これはそのプロトタイプ」

 PSYドライバーなる物体の見た目は、腕に巻きつける為のベルトがついた黒い長方形のケースだった。しかしただのケースにあらず、手前側にはいくつかのスイッチ類やメーターなどが装備されている。

 高白はUSBメモリみたいな形をした物体を追加で用意する。

「これがPSYドライバー専用のアンプルです。これをPSYドライバーのスロットに装填して注入の準備が完了し、電源を入れることで中身が投与されます。注入される量はスイッチ類などで調節可能。しかも戦闘用なので使われている素材は――」

「能書きはいい。早く成果を見せなさい」

「おっと、失礼。では、ゲートオープン!」

 軽々しいノリで、高白は手前のコンソールを操作する。

 実験スペースの扉が一個だけ開くと、宇宙服みたいな緑色のスーツを着た人間が現れ、例のPSYドライバーを腕に巻きつける。あれが今回の実験に使われる被験体らしい。

 続いて、スロットに専用のアンプルを装填し、スイッチを入れる。

 すると、スーツの表面に青白い稲妻が走り、地に設置した足の裏から波紋の如く青い電流が広がった。

「これが新たなPSYドラッグの効力か」

 勝巳が唇の端を釣り上げると、高白はさらに胸を張った。

「そうです! いままでは肉体強化や感覚強化、あなたの娘さんの能力を元にした未来予知能力に限定されていましたが、とうとう超能力を与えられるようになったのです!」

「素晴らしい」

 いま被験体が発現させているのは帯電体質、及び放電能力だ。これをもっと発展させれば電子機器への介入や、場合によっては通常の銃火器にレールガンの効力を与えるといった、まるで空想科学が現実になったような能力をPSYドラッグによって人体に与えられる筈だ。

「これさえ実用化されたら……」

 もし超能力者が存在する現実が当たり前になれば、水依はもう悲しい思いをしなくて済む。かつての水穂のように、魔女裁判同然の非難を誰も受けずに済む。

 ようやくここまで来たのだ。もう後戻りは許されない。

「水依……お父さん、あとちょっとでお前を助けてやれるからな」

 この時、勝巳はただ純粋に、これから自分が作り上げる水依の未来に対して希望を抱いていた。

 隣から送られた、高白の不吉な視線に気づかないまま。


   〇


 今日は変な夢を見た。単なる過去のフラッシュバックだ。

 小さい頃、金持ちの娘ということで周りから敬遠されていた。

 小学生時代。未来を視る力に目覚め、周囲の人達から気味悪がられ、時として男子生徒から石を投げつけられた。傷だらけで家に帰った時は、その頃から住み込みでボディガードとして働いていた王虎に何度も泣きじゃくりながら抱きついた。

 中学生時代。人との関わりを避けた結果、いじめに遭って不登校になった時期があった。いじめを容認しなかった学校は父の力で潰され、北条一家の手によって校長は自宅で殺害された。その時の写真を偶然見てしまい、自分の存在一つで他の誰かの人生が狂わされることがあると知った。

 そして、私は高校生になった。最初は中学時代と同じ轍を踏んでいた。

 そんな中、私は彼女と出会った。

「何を描いている?」

 教室の片隅で、遊びのつもりで行っていた未来予知の様子を、同じクラスの貴陽青葉という寡黙な女子生徒に注目された。彼女も周囲とあまり関わりを持たない変人だが、自分と違って他の女子生徒からはあからさまな不快感を買うような奴だった。

 でも、彼女は誰にも屈しなかった。というか、相手にしなかった。

 悪意なんて何処吹く風、といった感じの、常軌を逸したレベルで呑気な女だった。

「おいおい、無視するな。ちょっと悲しい気分になるぞ」

「……あまり私に関わらないで」

 きっと、この女は私をからかって楽しみたいだけだ。最初は、そう思っていた。

「井草水依。井草グループ代表、井草勝巳の一人娘」

 青葉が突然、私の身辺に関するプロフィールをそらんじた。

「生まれも育ちも彩萌市。幼稚園、小学校では親の財力と自らの能力が原因で周囲に敬遠され、中等部はいじめを受けて不登校、現在はここの一年生」

「貴女、一体何なの?」

 さすがに苛立ち、私は声音に棘を含ませた。

「何で私の身辺を調べたの?」

「興味があったからな」

 本当なら、いま述べた情報よりももっと細かいところまで独自で調べていただろう。そう思わせるくらい、青葉の調査スキルは高いように感じた。

「おっと、勘違いするなよ? 私が興味を持っているのは君自身であって、君の未来予知能力なんかじゃない。超能力なんて目じゃないくらい、想像を絶するバカ野郎と日頃つるんでいるからな」

「貴女は何を言いたいの?」

「友達になってやる」

 尊大にも程がある態度だった。

「そしたら私を越える奇人変人を紹介してやる。私を受け入れるような寛大な連中だ。きっと、君のことも普通に受け入れてくれるだろうよ」

「根拠は?」

「ただの予感だ」

 未来予知の力を持つ私に対して用意した回答が、まさかの予感である。

 でも、自然と信じたくなってしまった。

「そのうち私の仲間に会わせてやる。最初は誰がいいかな……?」


 それから一か月ぐらい後になって、青葉は「お前の力が必要だ」と言って、私を葉群紫月、東雲あゆ、火野龍也の前に引っ張り出した。

 彼らはこんな私を、思ったより簡単に受け入れてくれた。

 葉群君は青葉と似ているところがあったのが印象的な人で、あゆっちは無邪気な性格に好感を持てたのですぐ仲良くなった。

 火野君は――いつも私を気遣ってくれる。それがただ純粋に、嬉しかった。


 夜中に目が覚め、水依は何となく窓辺に立ち、ガラス越しに青い満月を見上げた。

 青と月。まるで、あの二人の有様を見ているようだった。

 唐突に、惨澹たる映像が水依の脳裏を過る。

 大太刀と十手を握った黒い仮面の少年と、二丁拳銃の白い仮面を被った少女が、荒れ果てた血みどろの戦場で悠然と並び立っている。

 こんな感覚は生まれて初めてだ。これも未来予知の一種だろうか。

「なに……これ……?」

 片手で額を押さえ、水依はしばらくの間、その場から動かず唸っていた。

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