第3話 相克と相生

 目が覚めたと思ったら、何処かの真っ暗な空間に閉じ込められていると悟った。

 男は丁度、私のブラウスを強引に脱がしている最中だった。

 口はガムテープで塞がっているので、思いっきり叫んでも全ての音は前歯の裏で押し留められてしまう。全身を使ってもがいても、鉄柱を介して骨太な鎖で腰と両の手首を縛られているので身動きもままならない。

 乳房を乱暴に揉みしだかれ、うなじをざらざらの舌で何度も舐められた。太腿を撫でられ、股が強引に開かれる。

 初めて健以外の男性に貫かれた。痛かったし、何より屈辱だった。

 男の獣臭い吐息が一定のリズムを刻んでいる。彼の腰の動きと連動して全身が何度も揺れる。

 混濁した意識と千切れ飛びそうな苦痛がないまぜになる。

 このまま死んでしまえたら、どれだけ楽だろうか。

 早く私を殺して欲しい。もう生きたくない。早く逝きたい。もう何も欲しくない。

 犯されながら願い続け、何分か経過した頃合いだった。

「そろそろかね」

 男は傍に置いていた注射器を手に取り、素早く針を私の腕に突き刺した。思ったより痛くない。これなら男の肉棒の方がまだ痛かった。それにしても、いま何を注射されたのだろうか。麻薬の類だったら最悪だ。

 彼はガムテープを私の口から引っぺがし、私のスマホをこれみよがしにちらつかせた。

「お前さんがお祭り開催の音頭を取るんだ。景気の良い一発を頼むよ」


   ●


 一日の間で勃発した出来事があまりにも多すぎて、さしもの幹人もさっきから渋面を解けないでいる。ついさっき、事務所へ戻ってきた弥一と和音も同じだ。

 和音と弥一はさっきまで起きていたことの全てを幹人から聞いて目を丸くした。

「おいおい、それってマジに笑えないヤツじゃんかよ」

「前田健って……何で斉藤さんの彼氏が? ていうか、斉藤さんはいまどうしてるの?」

「さっき新渡戸に頼んで斉藤家に行ってもらったんだが、道草でもくってるのか、斉藤久美嬢はまだ自宅に戻られていないようだ。東屋君も彼女を探しに久那堀二丁目に訪れたんだろうが、どうやらそこで何者かと遭遇して戦闘になったらしい」

「戦闘って……じゃあ、あのオッサンはその何者かに負けたってのか?」

「そういうことになる。しかし、にわか信じ難い話ではあるな」

「というと?」

「東屋君は探偵になる以前は自衛隊に所属していた。戦闘能力だけで言えば、青葉とほぼ互角かそれ以上と言っても良い」

「うっそぉ?」

 和音が青葉と幹人をせわしく交互に見回す。

「じゃあ、そいつを撃破した危険人物がこの町をうろついてるっての? 冗談でしょ?」

「だから君達にはすぐ戻って来いと言ったのだ。この中だと青葉と私以外では、その危険人物の相手が務まらないからな」

 突然、青葉が仕事で使っている専用のスマホが机の手元で小刻みに震動する。

「? 何だろう」

 おそるおそるスマホを手に取り、液晶画面に表示された番号を確認してみる。

 斉藤久美の番号だった。

「斉藤さん? どうして……」

「このタイミングで? 何か気味悪いな」

「これが何かの救難信号だったらどーすんのよ」

「とりあえず出てみろ」

 幹人の指示通り、着信に応じる。

「……もしもし」

『あひっ……あぁあァアァ……あッ……』

 スピーカーから聞こえてきたのは、たしかに人の声だった。でも聞いての通り、応答早々から明らかに様子がおかしい。

「斉藤さん、どうした? 何があった?」

『うーん、その可愛らしい声は青葉ちゃんだね?』

「!」

 さっきの呻き声から一転、甲高い男の声に切り替わった。青葉はすかさず、ここにいる全員に相手の声が聞こえるようにスマホの設定を変更する。

「貴様……あの時の通り魔だな? 一体何の真似だ」

『それを話す前に一つだけ約束しろ。警察を呼べば、斉藤久美の命は無い』

「何を言っている」

『俺はいま、斉藤久美が現在通っている学校――つまり、県立彩萌第一高等学校にいる。斉藤久美を救出したくば、白猫探偵事務所の連中総出で俺を捕まえに来い』

「彼女は無事なんだろうな」

『さっきの声を聴いてそれを訊ねるのは何かの冗談か? 生きてはいるが、とても無事な状態じゃないのは察しているだろう?』

「じゃあ質問を変える。彼女に何をした?」

『ご想像にお任せしまぁす』

「貴様……!」

 青葉はスマホを強く握り締めるが、傍で話を聞いていた幹人が唇の動きだけで「落ち着け」と伝えてくる。

 感情をモロに出せば相手の思う壺だ。危ういところだった。

「さっさと本題を話せ」

『つれないなぁ。まぁいい、ルール説明の続きだ。いま言った通り、ハンティングゲームの舞台は彩萌第一高校の校舎内全体。参加メンバーは白猫探偵事務所のメンバー全員で、勿論社長である蓮村幹人も含まれる。君達にはこの学校の何処かに幽閉されている斉藤久美を捜索してもらい、彼女を見つけて救出したら君達の勝ちだ。しかし校舎内はこの俺、入間宰三が自由に巡回している。だから、私に白猫のメンバーを全て始末されたなら、その時が君達の敗北となる』

「逆に言えば、お前を始末しても私達の勝ちという訳だな」

『探偵にそんな真似が許されてるとでも? 探偵はあくまで法の延長線上に位置するだけの一般人に過ぎない。私を殺せば下手人がお縄を頂戴するだけだ』

「くそっ」

『そうそう。さっきも言ったが、警察の介入が確認された時点で斉藤久美の命は無い。あと、学校全体のセキュリティは全て俺の方で止めてある。電話を切った直後から校内を適当に歩き回り始めるから、いまのところは斉藤久美に触らないでおくとしよう。その方が君達も気兼ねなく楽しめるだろう』

「まずはその余裕を引っぺがしてやる」

『その意気だよ。では、また後で』

 軽々しい挨拶と共に通話が切れた。何から何まで腹の立つ野郎である。

 青葉がスマホを机の上に放り捨てると、まず弥一があからさまな悪態を吐く。

「くそったれ、人をゲームの駒みたいに扱いやがって!」

「お怒りのところ申し訳無いが、奴へのおしおきは私一人でやらせてもらう」

 幹人が壁に立てかけてあったステッキを掴み取る。

「君達を危険に晒す訳にはいかない。奴の狙いはおそらく、この私だ」

「おいおい社長、何だそりゃ?」

「そうですよ、本当に何を言ってるんですか!」

 和音も激昂して幹人に詰め寄った。

「奴はあたし達全員に来いって言ったんですよ? それに、一人じゃ危険過ぎます!」

「これは奴と私の問題だ。刺し違えてでも奴はこの手で仕留めてやる」

「どういう事ですか?」

「――生命遊戯」

 幹人がぽつりと呟く。

「いまから十五年前――私が探偵になる前、つまり刑事だった頃に発生した猟奇殺人事件。誰が呼んだか、私達の現場では『生命遊戯』と呼称されていた。その実行犯が入間であり、捕まえたのは、この私だ」

 これを聞いた弥一と和音が黙り込む。青葉からしても初耳の話だからだ。

「奴は殺人快楽者の中でも知性に富む。シナリオを書いて、登場人物をキャスティングして、設定した舞台の上で一つの物語を作ろうとする。中でも特徴的なのは、自らが手を下した時の皮肉な殺し方だ。例えば、前田健の惨殺死体。新渡戸によると損傷した箇所は全て、黒狛が撮影した写真の中で彼が斉藤久美との行為に使っていた体のパーツだったという。彼女と絡めた指を切り落とし、接していた唇を削ぎ落とし、見つめ合った眼を頭蓋ごと貫通して――挙句の果ては、抜き差ししていたイチモツを斬り落として何処かへ持っていった。しかも解体は生きたまま行われる。まるで、命で遊んでいるかのようにな」

「何て奴だ……」

 弥一が掌で口元を押さえながら呻く。青葉もいまの彼と似たような心境だ。

 青葉は眉をひそめつつ言った。

「それで生命遊戯、か。登場人物の人間関係を弄んだ挙句、人の命と体を玩具同然に扱い、全てを破滅させて幕を閉じる劇場型犯罪」

「最後はにっくき社長とその部下を皆殺しにして、黒狛の連中は白猫を破滅させた原因そのものとしての過去を背負って、死ぬまで苦い思いをしながら生きる――最悪だな」

 自分で言って胸糞が悪くなったのか、和音にしては弱弱しい声音だった。

 全員が一様に押し黙る。幹人ですら、これ以上話すことは無いと言いたげだ。

 でも、青葉はかろうじて口を開いた。

「……まだ、最悪と決まった訳じゃない」

 青葉の呟きに、全員が顔を上げた。

「もう取り戻せないものは諦めるしかない。でも、取り戻せるものを諦めたら、明日の私達はきっと、昨日の自分を許せなくなる」

「青葉……」

「社長が何と言おうが、私は社長についていく」

 青葉は改めて、幹人を真っ直ぐな目で射抜いた。

 二人が睨みあっている間に、和音が机の引き出しから車のキーを取り出し、弥一もGPS端末やトランシーバーなどを手早く準備して大きなショルダーバッグに詰めている。彼らも幹人の制止に応じるつもりは無いらしい。

「待て」

 幹人の短い一声で、三人はぴたりと固まった。

「複数人で行く場合、入間の注意を引く役と、斉藤久美を捜索する役に別れなければならない。仮に四人で入間を仕留めに行ったとしても、乱戦が得意な入間が相手なら確実に一人はあの世行きだ。それだったら、まだ一人で行った方が最低限の犠牲で済む」

「それはさっき却下したばかり。他の方法は無いのか?」

「あまり使いたくは無い手だが――」

 幹人は渋面のまま、ポケットから自らのスマホを取り出した。

「警察以外の救援なら、私に一つだけ心当たりがある。頼って許されるかは別として、だ」

 青葉にも彼が誰と電話を繋ごうとしているか、大体想像はついていた。

 あとは、相手のプライド次第だ。



 彩萌総合病院に運び込まれた轟は、緊急手術の果てにどうにか一命を取り留めた。もっとも、致命傷となるような箇所を撃ち抜かれた訳ではなく、さらにその場に居合わせた白猫の野島弥一が適切な処置を施してくれたおかげで命に別状は無かった。だが、多大な失血による消耗で意識はまだ戻っていないし、日常生活に支障が無いレベルで動けるようになるまでには三か月以上の時間を要するという。

 轟が個室に移されたのを見届けた黒狛の三人は、一階の待合室で悲嘆に暮れていた。

「まさか、白猫の連中に借りを作る羽目になるなんてね」

 杏樹が疲労感も露に言うと、玲が深々と頭を下げる。

「申し訳ありません。ツーマンセルで行動していれば、こんなことには――」

「いいえ。嫌な言い方だけれど、むしろこちらの被害は彼一人に抑えられた。玲までやられたら、あたし達はほとんど壊滅状態よ」

「このまま黙ってなんかいられない」

 紫月が俯き加減に言った。

「東屋さんが目を覚まさないと詳しい話は聞き出せない。でも、斉藤先輩を保護しようとしたタイミングであんな重傷を負わされたんだ。これ以上犯人を放置したら、もっと取り返しのつかないことになるのは明白です」

「分かってるわよ、そんなこと。でも手掛かりが何も無いんじゃどうしようも――」

 どうしようも無いと言おうとした時、杏樹のスマホが振動して、画面に珍しい電話番号と人名が表示される。

 相手は幹人だ。とりあえず、着信に応じてみる。

『頼みがある』

 開口一番、せっかちな要請だった。

「なに? いま、それどころじゃないんだけど」

『君達に汚名返上のチャンスが巡ってきた』

「何ですって?」

『ことは一刻を争う。どうか、我々を助けて欲しい』

「……………………」

 こっちも轟を助けてもらった手前、彼の頼みを無碍には出来ない。

 聞くだけならと思い、杏樹は先を促した。

「で、どうしたの?」

『斉藤久美が誘拐された』

 概ね予想通りの報告だった。

『犯人は入間宰三。場所は県立彩萌第一高等学校だ。奴は白猫のメンバー全員で自分を捕まえて斉藤久美を救出しに来るようにと言っていた。それと、警察を呼べば彼女の命は無いとも』

「それだけ聞ければ充分よ。うちも丁度、斉藤久美さんの身柄を保護しようとしていたところだから。あたしとあんたで、ようやく目的が重なったってところかしら?」

『彼女自身もいま危険な状態にあるという。そんなに悠長な話をしていられる時間もない。だから、救出の手順を手早く決めたい』

「どうするの?」

『我々が先行して入間の気を引いている間に、後から来るであろう君達には斉藤久美の捜索に専念してもらう』

「その役割、逆にしてもらえない?」

『何だと?』

「あたしの大切な部下に手を出しておいてタダで済むと思ったら大間違いってのを、いま学校に立て籠もってるファッキンサイコ野郎に思い知らせてやるの」

『君がそうしたいならそうすればいい。だが、入間を安全に取り押さえる手段が無ければ認められない。私個人としても、これ以上お互いに負傷者は出したくない』

「あたしが誰かを、もう忘れたの?」

『……そうだったな』

 スピーカーの向こうで、幹人が小さく笑っている。

『私達は校舎の正面口から捜索を開始する。君達は少し遅れても構わないから、裏口から潜入して囮役を頼む』

「学校のセキュリティは……って、入間が自分で解除してるか」

『何か破損しても、弁償代の領収書は白猫の名前で切っておく。では、また後ほど』

 焦り気味に通話を切られると、杏樹はくすりと笑い、後ろで待機していた黒狛のメンバーに向き直る。

「……玲、紫月君」

「分かっています」

「俺達は何をすればいい?」

 部下二人の目は本気だった。このまま会社ごと心中してしまいそうなくらいに。

 黒狛の連中はいつもよく笑い、よくふざけ、よく仕事を楽しんでいた。杏樹が掲げていた「優しい探偵」の理念や魂を、部下の三人はきちんと引き継いでくれた。全員が全員、互いに強い絆で結ばれているという自負もある。

 その中で、轟は特に、杏樹にとっては思い入れが深い従者だった。

 彼は杏樹が幹人と夫婦で探偵事務所を経営していた頃からの部下で、二人が袂を別った際に、彼は幹人ではなく杏樹を選んだ。紫月や玲にとっては父親みたいな存在だったし、彼がいなければ黒狛は黒狛足り得なかった。

 そんな彼をこんな目に遭わせた奴を――入間宰三を、黒狛は絶対に許さない。

「これ以上、誰もやらせはしない」

 杏樹は久方ぶりの殺意を込めて告げた。

「詳細は車内で追って説明します。行き先は、県立彩萌第一高等学校」

『了解』

 力強いやり取りを経て、三人は病院を後にした。


   ●


 幹人が杏樹と打ち合わせをしている間に、和音が運転する車は県立彩萌第一高等学校の正門前に到着していた。校舎内はもちろん無人で、外周にも人気は無い。入間にしてもこちらにしても、ここは大暴れするのに最適な舞台と言えよう。

 弥一を除いた全員が降車し、各自装備を確認。青葉は弥一から渡されたトランシーバーを腰のベルトに引っ掛け、愛用の銃であるベレッタの残弾数をチェックする。

 白猫の仮面を被り、無線用のイヤホンをトランシーバーに繋ぎ、これで準備は万端だ。

「入間の推定武装はリボルバーが一丁、ナイフが一本だ」

 幹人がステッキの先で地面を突く。

「いずれも殺傷能力は高い。遭遇した場合は可能な限り戦闘を避けろ。被害者の安全が最優先だが、我々の命も決して安くはない」

「了解」

「よぉし、行くか」

 和音に促され、青葉達は正門をくぐり、昇降口の前に立つ。

 やはり、鍵は閉まっているようだ。奴はまずここを突破しろ、と言いたいらしい。

「青葉」

「二人共、下がって」

 ベレッタの出番が早速やってきた。銃口を鍵に向け、三発発砲。鍵がひしゃげて壊れ、昇降口の扉が開く。

 三人が玄関から土足で廊下に上がると、幹人が小声で指示を下す。

「私は東校舎を探す。君達は西校舎を手分けして探してくれ」

「分かりました」

「行こう、かず姐」

 三人は別れて一人と二人になり、二人は西校舎で別れて一人ずつとなった。和音は一階、青葉は二階を当たっている。

 一人になってみて、青葉はとある人物の顔を思い浮かべていた。

 そういえば、ここは紫月が通っている学校だ。彼ならもしかしたら人を隠すのに丁度良い場所を知っているかもしれない。

 善は急げだ。早速、私用のスマホで紫月の端末に発信する。

 しかし、彼はいくら待っても着信には応じなかった。しかも、しばらく後に聞こえたのは留守電の案内ときた。どうやらいまは電話に出られる状況では無いらしい。

 バイトでもしてるのかな? それとも、風呂にでも入ってるのだろうか?

「……まあ、いいや」

 今回は相手が相手だ。普通の男子高校生である彼を巻き込むのはナンセンスだろう。

 希望的観測を捨て、片っ端から居並ぶ教室の扉を開けて中をチェックする。もしかしたら用具入れとか、あるいは段ボールの中に久美が詰め込まれている可能性もあるので、人が入りそうな場所は全て要注意である。それに、入間のことだ。既に彼女を解体して、ゴミ箱の中に遺棄していてもおかしくはない。

 青葉はさらに奥へ進み、突き当たりに嵌めこまれた鉄製の扉を前に立ち止まる。

 表札には、音楽室と書かれていた。

「……うーん」

 もしここに久美が閉じ込められていたとして、彼女を発見したとしよう。でも、その最中に入間が出現してしまったら? 青葉は久美を護りながら、入間と戦わなければならない。彼を相手に片手間は許されないのに、難儀な話である。

 でも、それはどの部屋でも同じ話だ。迷っていたって時間の無駄か。

 青葉は思い切って、鉄扉の取っ手を下に回し、前に押してみる。

 鍵は開いていた。銃を手に、そのまま中へ踏み込み、銃口を室内に突き出す。

 中はもぬけの殻だった。

「…………」

 夜の学校はどの教室も不気味だが、この音楽室に至っては、不気味どころか恐怖の温床みたいだ。人気が無いのは勿論だが、壁中に掛けられた歴史上の音楽家達の肖像画が雁首を揃えて室内を異様な目力で睨んでいる。

 バッハやベートーベンなら見慣れている。でも、滝廉太郎の白黒肖像画はこの時間帯であまり見る気にはなれない。生まれた頃から持っているオルゴールが、勝手にジャケットの内ポケットから鳴り響きそうな予感がしたからだ。

 青葉は何となく、部屋の奥へ進んでみた。

「はーるぅこーおーろぉーのー、はーなーのーえーんー」

「!」

 背後の出入り口から甲高い男の声がした。

 振り返った先に居たのは、やはり入間宰三だった。

「いやぁ、失敬。滝廉太郎に熱烈な視線を送っていたものだから、つい、ねぇ」

「貴様……」

「彼の代表曲、『荒城の月』は俺が一番好きな音楽でねぇ。土井晩翠の文語センスと滝廉太郎の音楽性が見事に調和した、まさに相生の歌といった感じかね」

「残念ながら、私は大っ嫌いだ。貴様共々な」

「つれないねぇ。せっかく遠路遥々、お前さんに会いに来てやったというのに」

「私に?」

「ああ。会いたかったよ、青葉」

 奴の態度は嫌に馴れ馴れしい。まるで、家族と久方ぶりの再会を果たしたかのようだ。

「こーんなに強くて美しい女の子に育ってくれて……久々に咽び泣いちゃいそうだよ」

「何の話だ? 生憎、私にお前みたいな親戚や知人は一人もいない」

「それは単にお前さんが知らないだけさ。丁度良い、二人っきりなら邪魔も入るまい。ここで少々、昔話と洒落こもうじゃないか」

 入間が後ろ手に扉の鍵を閉めた。これで青葉に逃げ場は無くなった。

「十六年前の話さ。俺は当時、いわゆる殺し屋という奴だった。彩萌警察署の現場では『生命遊戯』とか呼ばれていた事件の直前までの話でな」

 青葉は話を聞き流しながら、どうにかこの場から逃れる為の算段を立てていた。電話越しから察した久美の状態を鑑みるに、このまま徒に時間を喰う訳にはいかない。

「金はこれ以上稼いでも一生のうちには使い切れないくらい溜まっていた。だから、今後の人生は享楽に充てようと考えた。そこで思いついたのが、殺人と芸術のコラボレーションだ。俺は芸術家気質でねぇ、遊び心満点な殺人ってのに興味があった。ジャック・ザ・リッパーが幼い頃からの憧れでねぇ――とまあ、ここまでは俺の人生と趣味の話だ」

 ICレコーダーを持っていないのが悔やまれる。いまの証言さえ記録出来れば、豚箱にぶちこんだ後で奴の余罪が追及し放題になるからだ。

「重要なのはここからさ。俺には当時交際していた女がいてな。そいつが何の間違いか、俺に黙ってガキを産みやがった。十月十日相手にしてなかったとはいえ、まさか身籠っていたとは思わなんだか。そして女は俺に言った。「この子は私と貴方の子です」って。だから認知しろとか吐かしてきやがったが、あんまりにもしつこく迫ってくるもんだから、その場でぶっ殺しちゃったのよ。だが、女が抱いていた子供だけは殺さなかった。何せ俺の遺伝子を受け継いだガキだ。強く育たない訳が無い」

 今度は子供自慢か。いい加減にして欲しい。

「そこで俺はそのガキを地方のとある病院のベビーポストにぶち込んでやった。勿論、ガキのフルネームを書いたメモ帳、それから特注品のオルゴールも添えてな」

「ベビーポスト? オルゴール?」

 ようやく、青葉の中で興味の食指が蠢いた。

「ガキのフルネームは女の苗字と、女がそのガキに付けた名前を一つに合わせてものだ。これだけ言えば、聡明なお前さんには何のことか理解出来ただろう?」

 滑らかに回る入間の舌を、たったいま根本から引き千切りたくなった。

 この話の先を、これ以上聞いてはいけない気がしたからだ。

「その女の名は、貴陽四葉。そして、そいつがガキに付けた名前は、青葉」

 つまり、お前のことだ――入間はそう締めくくった。

 無論、犯罪者の言葉を丸ごと鵜呑みにする気は無い。でも、人を揺さぶるにしては真実味があり過ぎる。奴のあらゆる遍歴については一旦置いておくにしても、青葉と関連が深いキーワードが三つも挙がっているのはどう考えても偶然とは思えない。

 ベビーポスト。

 貴陽四葉。

 オルゴール。

 青葉は自分の意思とは無関係に、懐からオルゴールを取り出していた。

「おお、まだ持っていたのか!」

 入間が子供みたいに無邪気に笑う。

「そうさ。そいつはお前をベビーポストに入れた時、一緒に置いていった俺の宝物だ!」

「ふざけるのも大概にしろ」

 青葉は未だに平静を保っていた。

「その子供は私じゃない。境遇と親の苗字と下の名前が同じだけの別人だ」

「残念ながら、その可能性は否定された」

 入間がS&Wの極厚七ミリブレードを抜いた。以前、青葉の肩を切りつけた凶器だ。

「俺が何で先日お前を襲ったと思う? それはお前から血液を採取する為だ。こいつに付着した血と、俺自身の血を知人の研究所に渡してDNA鑑定をしてもらった。鑑定結果については聞くまでも無いな?」

 殺し屋時代のコネクションでも使ったのだろう。だとすれば否定しようの無い話だ。

「ともあれ、俺とお前は血の繋がった親子だ」

「……………………」

 信じられない、という気持ちもある。夢であってくれと願いもした。

 奴の言うことが本当なら、自分は狂人の子供だ。

「まだだ」

 青葉は言った。

「仮にその話が本当だとしたら、私に何をしろと? そうでなくても、私にその話を信じ込ませるには信憑性が足りていない」

「そうだなぁ。検査結果の書面をいま持ってる訳じゃないし」

 反論を受けても、入間の態度から自信は崩れなかった。

「じゃあ、これならどうだ?」

 言うな、聞きたくない――反射的に、そう思ってしまった。

「蓮村幹人は、この事実を知っている」

 バクンッ! と、心拍が跳ね上がり、息が詰まりそうになった。

「何を……言っている?」

「俺が蓮村に以前逮捕されたことがあるのは知っているだろう? その後、俺は裁判で死刑判決を下された。だから拘置所に移送されることになるんだが――その直前、蓮村は俺と面会していたのさ」

「社長が、お前と?」

「そう。俺が奴との面会を希望したんだ」

「何の為に?」

「決まっているじゃないか」

 まるで当然のように、入間は真相を告げた。

「俺は蓮村に、青葉を奴の子供として引き取って欲しいと頼んだんだよ」

「……ッ!」

 嘘に決まっていると目を背ける理由が、この告白で全て消滅してしまった。

 どんな人間にも、あらゆる物証や証言を越えて、信じざるを得ないものがある。

 青葉にとっては、それが蓮村幹人という養父だった。

「何から何までふざけやがって」

 肩を怒らせ、青葉はようやく声を震わせた。

「手前勝手な都合で私を捨てておきながら、言うに事欠いて私を社長に引き取って欲しいだと? いくらなんでも、この話は私の理解力の範疇を越えているぞ」

「俺だって本当は嫌だったよ? 自分を嵌めた男に頭を下げるのは。でも、その頃の俺は気になり始めていたんだよ。俺の遺伝子を継いだガキの行く末を」

 入間は長い舌をべろりと覗かせて、枯れそうな声で楽しそうに言った。

「もしかしたら、俺より強くなるかもしれないだろう?」

 最悪だ、という感想が先に浮かんだ。

 それから先は、答え合わせのように、自分の中で全てが繋がった。

 さっき幹人から入間の素性を聞いた時、てっきり奴は自分をしょっぴいた幹人への復讐をする為にこんな手の込んだ犯罪行為に及んだものだと思っていた。でも、事実は違った。入間の目的が本当に青葉なら、幹人の不自然な言動にも得心がいく。

 社長は多分、私と入間を会わせたくなかったんだ。

 私に真実を知られない為に――私を、護る為に。

「さあ、青葉。俺と戦え」

 入間が両手を広げて命じた。

「俺が親としてお前にしてやれる最後の教育だ。先日の一戦は単なる前哨戦。今日、ここでお前は親を超える為の試練を迎える」

「何を言っている……?」

「戦えっ!」

 まるで、どやしつけているようだった。

「俺も手加減はしない。お前も全力で向かって来い。そして、俺の命でお前の存在は完成される! 究極の遺伝子を持った者同士の血潮が滾る激闘を経て、貴陽青葉は俺が望んだ最高の娘として飛躍的な進化を果たす!」

「世迷い言を! その為に無関係な人間を巻き込む必要が何処にあった!?」

「全てはこの為のお膳立てだ!」

 入間の瞳は完全に正気を棄てていた。

「最高のシチュエーションじゃないか! 幾人もの犠牲の果てに再会した親子が、究極にして至高とも言える命のやり取りに己の全てを賭ける! これほどまでに胸が躍る展開なんて、普通に生きていればそうそうお目に掛かれるもんじゃない! 俺が目標とした最期に近づいた――もう後戻りは許されない!」

「狂っている……こんなの、人間じゃないッ……」

「そうさ、俺達はもう人間じゃない! さあ、全力の俺を殺せ! 全身全霊を懸けて、この俺に挑んでくるがいい! 俺はお前に超えられる為に生まれてきた。お前は、俺を超える為に生まれてきた!」

「ふざけ――」

「ふざけんじゃねぇ!」

 意外なことに、この音楽室に飛び込んでくる人物がいた。

 和音だ。どうやったかは知らないが、鍵が掛かっていた筈の扉を開けて入室したのだ。

「何だとっ……!?」

「青葉から離れろ、このサイコパスが!」

 和音が跳躍、入間の横っ面に大リーガーのフルスイングより迫力のある回し蹴りをお見舞いした。

 入間が居並ぶ机の数々を巻き込んで倒れると、和音は彼から目を離さずに叫んだ。

「青葉、いまのうちに早く逃げろ!」

「かず姐!」

「こいつはここで足止めする」

 和音はさっきから手に持っていた鍵の束を青葉に投げ渡す。

「職員室からかっぱらってきた。そいつがあれば大抵の部屋は調べられる筈だ」

「かず姐……でもっ」

「いいか、良く聞け!」

 鋭く叫ばれ、思わず身を竦めてしまう。この鬼気迫る怒号が、いつも気さくで優しい彼女とは似ても似つかなかったからだ。

「さっきの話は全部聞いた。でも、だからどうした! あんたがそのサイコ野郎のキンタマから生まれたガキだったとしても、あんたは蓮村幹人の掛け替えの無い大切な一人娘だ! あいつはただの産みの親ってだけで、社長は……あたし達白猫探偵事務所のメンバーは、お前が頼って許される唯一の家族だ!」

「っ……」

 一瞬、涙腺が決壊しそうになった。多分、いま一番聞きたかった言葉だからだろう。

「行け、白猫のエース! あんたはあんたの仕事を果たせ!」

「……かず姐、ありがとう」

 青葉は歯を食いしばり、決断し、音楽室の出入り口を抜けてから左の階段に折れた。

 いまは彼女を信じる以外に無さそうだ。それに、彼女は強い。入間が相手でもそこそこ粘れるだろうし、少なくとも簡単に死ぬようなヘマだけはやらかさない。

 それに、もうすぐ黒狛の連中が増援でやってくる。彼らも潜り抜けた修羅場の数は白猫に勝るとも劣らないと聞く。

 いまは彼らに賭けるしかない。

「くそっ!」

 祈るしか出来ない自分の非力さに、青葉はただ悪態を吐くしかなかった。


   ●


 男から注射されたのは、いわゆる女性専用の媚薬だった。特定の細胞を活性化させ、より多くの性的快感を求めるように精神と肉体の状態を変異させる類のものだ。

 最初はあんなに嫌だったのに、いまはまた彼の熱いものを求めている。

 私を縛り付けていた鎖は既に解かれていた。おそらく、もう私が抵抗どころか身動き一つ取れないだろうと悟ったからだ。しかし、手首だけは未だに鎖で固定されたままだ。

 そんなことより、いまは下腹部に感じる強い違和感が気になる。

 男は去り際に、私の膣内にスティック状の何かを突っ込んでいった。あれは一体、何なんだろう? いわゆる、大人の玩具の類なのだろうか。

 そして、たったいま気付いたことがもう一つ。

 周囲の壁一帯に、小さな機械が埋め込まれた灰色の粘土が張り付けられている。

 それはそれで、一体何なんだろう?


   ●


「着いたわね」

 白猫の車を正門前で見かけ、車内に残っていたオペレーター役の野島弥一から現在の状況を聞き、黒狛の車はすぐに裏門付近に回り込んだ。これは余談だが、紫月は車内で既に黒犬の仮面を被っていたので、彼の素顔や正体は未だに白猫側にはばれていない。

 車内で装備の点検を済ませ、玲を車に残し、紫月と杏樹は車から降りる。

 トランシーバーに繋いだイヤホンを耳に突っ込み、紫月は玲を見遣った。

「玲さん。GPS情報から入間の現在位置を割り出せますか?」

「さっきからやってるけど……駄目ね」

 ノートパソコンの画面を睨み、玲が舌打ちした。

「あっちの野島さんが白猫側の位置を常に捕捉してるけど、いま表示されてるビーコンは社長と紫月君を除くその三人分だけね。入間と思われるビーコンが無いってことは……」

「奴はGPS端末を持ち歩いていない」

「正解。ついでに言えば、斉藤久美さんのスマホの位置情報も表示されてない。物理的な手段で信号を無力化したんでしょうね」

「そこまでされるのも織り込み済みよ」

 杏樹がAKライフルのトリガーをすこすこ引きながら答える。最近黒狛で採用された、東屋轟特製の重塗装エアガンである。勿論、BB弾は装填されていない。

「いま画面に表示されてるのは二階の見取り図ね」

「ええ」

 玲は画面上のマップを指差しながら説明する。

「二階の西棟を移動中のビーコンが一つ。それと、音楽室に入ったっきり全く動かないビーコンがもう一つ。残り一つは二階にいないか、あるいは東棟の何処かを動き回ってる」

「多分、白猫の誰かが入間と音楽室で戦ってますね」

「どうする? 社長と紫月君の二人で音楽室に向かっちゃう?」

「いえ。まずは音楽室の白猫を逃がします」

「でも――」

「玲、ここは紫月君の言う通りにしましょう」

 今回のリーダーは杏樹ではなく、在校生故にこの学校の構造をよく知っている紫月だ。よって、命令するのも紫月の役割だ。

 玲は無言で頷き、自らのスマホを取り出した。さっき玲と弥一は電話番号を交換していたので、これで黒狛と白猫の間で密な連携が可能となる。

「サポートは私と野島さんに任せて、二人は東屋さんの仇討ちを」

「はい。社長、行きましょう」

「ええ」

 二人は低い門扉を乗り越えて校内に侵入。校舎の西棟と東棟を繋ぐ渡り廊下の合間に立つ。

 まずは杏樹を西校舎の中へ送り出すと、紫月は西校舎の外郭を迂回して音楽室が見える地点に立ち、トランシーバーで玲に合図を送る。

「こちら黒狛四号。バンジージャンプのお時間です、どうぞ」

『黒狛三号、了解。野島さんに合図を送ります。ガラスの雨に気をつけて』

 無線を終えてしばらく待っていると、音楽室の窓ガラスの一つが弾け飛び、中から黒くて大きな影が飛び出した。月明かりに照らされたそれは、予想通り、人の姿をしている。

 紫月は落下してくる人物を両腕で受け止め、地面に転がした。

「うっ……」

 かろうじて受け身を取ったその女性は、どことなく青葉にそっくりだった。ポニーテールといい、顔立ちといい、スタイルといい、彼女が青葉の姉だと言われても驚かない自信がある。もっとも、青葉の姉が白猫の探偵だという話は聞いたことが無い。

 紫月は切り傷だらけの彼女――西井和音の傍に跪き、体を抱き起こして囁くように訊ねた。

「おい、大丈夫か」

「黒犬の……仮面。そうか……野島がさっき言ってた……」

 和音が薄目を開けて紫月の仮面を見上げている。

「すまない……時間稼ぎだけで精いっぱいだった」

「大丈夫。後は我々に任せろ」

「そう……か」

「よっこらせーっと」

 紫月は和音の体を抱え上げ、待機中の玲が乗る車まで運び込んだ。

「応急処置は俺がやる。それからしばらくの間、彼女を頼みます」

「ええ」

「そんなことより、これを……」

 和音が傷の痛みと戦いながら、自分のトランシーバーを紫月に突き出す。

「うちらのエースとは、白猫のトランシーバーが無いと連絡が取れない……使え」

「分かりました。貴女はそのまま休んでてください」

「四番のチャンネル――あの子を……頼む」

 彼女はその一言を最後に気を失った。

 紫月はトランシーバーのチャンネルを言われた通りに合わせ、PTTスイッチを押し込み、言葉を選ぶようにして白猫のエースとの交信を開始した。



 青葉はいま、西校舎から東校舎に移り、空き教室の一角で息を潜めて縮こまっている。闇雲に探しても時間を浪費するだけだと判断して、とりあえず冷静に考えを纏めようと思い直したからだ。ちなみに、音楽室を出てからいまに至るまでの間、白猫のメンバーとは誰とも交信していない。

 入間はこの学校の構造をよく知らないだろう。生徒が締め出され、教職員も全て退社した時間も鑑みて、彼がこの学校の全セキュリティの解除、及び下調べに使った時間はおよそ一時間程度。いまは大体十時半くらいなので、この目算は決して外れではない。

 彼が本当に斉藤久美を凌辱していたなら、所要時間はもっと短いかもしれない。

 とにかく、短い時間で入間が人を隠す場所を選ぶとしたら、それは何処だ?

 駄目だ。全く思い当たらない。

 それだけじゃない。動揺が未だに続いて、思考が千々に乱れている。自分としたことが、あの程度の心理攻撃でここまで追い込まれるなんて。

 入間が私の父で、奴は私に会う為だけにこの彩萌市に舞い戻ってきた。

 だったら何で奴は無関係の高校生三人を巻き込んだ?

 答えなら知っている。さっき奴自身が言っていたではないか。私と会うにあたり、程よく劇的なシナリオが欲しかった。だから利用してやった――ただ、それだけだ。

 ある意味、私のせいかもしれない。

 私さえ産まれてこなければ、こんなことにならなくて済んだかもしれないのに。

『こちら黒狛四号。白猫のエース、聞こえるか』

「!」

 いきなり無線用のイヤホンから聞こえたのは、機械音声じみた人間の声だった。おそらく、相手は自分と同様、変声器を用いて喋っているのだろう。

 トランシーバーの液晶に表示されているチャンネルは三番。和音の端末からだった。

『もう一度言う。白猫のエース、聞こえるか。聞こえたら返事をくれ』

「お前は誰だ。何故私の仲間のトランシーバーを使っている?」

『私は黒狛の社員だ。こちらで保護した西井和音から端末を預かっている』

「何だと? 西井和音は無事なのか?」

『負傷してはいるが、普通に生きている。応急手当も終わった』

 正体が分からないにせよ、彼は味方ということで間違い無さそうだ。

 かず姐、本当に無事で良かった。

『私はこの学校の構造を熟知している。入間が人を隠すのに使いそうな場所も、大体三パターンくらいは思いついている。いまからその一つを話す』

「状況は極めて逼迫している。君を信用していいのか、いまの私には判断しかねる」

『入間には個人的な恨みがある。判断材料として、それだけでは不十分か?』

「どんな恨みか言ってみろ」

『大事な人を二人も傷付けられた。奴をこのまま野放しにはしておけない』

 青葉にとっては、不意打ち同然の返答だった。音声は無機質でも、喋っている当人の声帯が静かな怒りで震えているように感じたからだ。

『それだけでは、不十分か?』

「……いや」

 それだけ聞ければ、いまの青葉には充分だった。

「信用しよう。それで、隠し場所は?」

『最初に体育館をあたれ。室内には用具入れがいくつかある以外に、ステージの下にはマットなんかを収納する地下通路がある。君達が入間から電話を受けた時、奴はこの学校の校舎内全体をゲームのステージにすると言っていた筈だな? だが、校舎以外の場所については何も触れてなかったと聞いている。違うか?』

 ハンティングゲームの舞台は校舎内全体――たしかに、奴はそう言っていた。でも、奴は久美がこの校内の何処かにいるとも発言していた。この場合、戦場と劇の舞台が同じとは限らない。

 つまり、久美の居場所が校舎以外の校内である可能性も充分にあり得る。

「なるほど。そこは盲点だった」

『いまから奴を可能な限り体育館から引き離す。いくぞ』

「ああ。交信終了」

 無線を切り、青葉は一息つき、さらに深呼吸した。

 黒狛四号とやらが何者かは知らない。でも、これだけははっきりしている。

 彼を信じる以外に、いまの青葉には活路が無い。

「……よし、行くか」

 青葉が立ち上がった、その矢先。

 遠くから、金属が爆ぜるような音が鳴り響いた。


   ●


 青葉を探しに西棟二階をゆっくり歩いている最中、入間は視界の真ん中にちらついた影に向けて、S&W M500を発砲した。

 弾丸は突き当たりの技術工作室の扉を穿ち、さっきからこちらをちょろちょろ付け回していた小柄な女をあぶり出す。

「あっぶねぇ~……」

 池谷杏樹はたったいま頭上を通過した弾丸に身を竦め、半笑いに涙目というふざけた面持ちでずるずると床にへたり込んだ。

「いきなり撃ってこないでよね、もぉ~!」

「これはこれは、黒狛探偵社の池谷社長ではありませんか」

 入間はわざとらしさ全開で大げさなお辞儀をする。

「まさか、彩萌市の顔役がこぉんな危ない場所においでとは。いやはや、貴女もいまや仕事はご自由に選べる御身分でしょうに」

「言っておくけど、あたしは別に仕事で来た訳じゃないから」

 さっきまでの恐慌じみた態度は何処へやら、杏樹はロングスカートの裾を払って立ち上がり、腕に抱えていたAKライフルの銃口を入間に向けた。

「まさか、あたし達があの程度で泣き寝入りするとでも思ったワケ? だとしたら随分と安く見られたモンね」

「恨みつらみでこの私を潰しに来たと? ですが生憎と私も忙しくてですね。いま貴女達に構っていられるような余裕は無いのですよ」

「黙りなさい。あんたの都合なんか知ったこっちゃないの」

「そうですか。なら、致し方ない」

 発砲。杏樹が抱えていたAKライフルが一瞬でスクラップになる。

「……っと、これまた危ないわね」

 杏樹の反応は至って平淡だった。しかも不思議なことに、怪我一つしていない。

「ちょっとぉ! 破片で怪我したらどーする気よ!」

「……この女」

 銃弾を防いだ彼女の身のこなしは異常だった。ただ単に玩具の銃を盾にしただけでは、貫通力に重点を置いた特製の弾は防ぎきれない。一体何をしたんだか。

 とりあえず、もう一発撃ってみた。

「しぇぇええええええっ!?」

 彼女は赤塚不二夫の漫画にでも出てきそうなキャラみたいなポーズで銃弾を回避した。通り過ぎた銃弾が、工作室の扉に新たな風穴を空ける。

 これには入間も額に青筋を浮かべて唸った。

「こ……この……っ!」

「ほらほら、どうしたの? もう弾切れ?」

 杏樹が手を叩きながら挑発してきた。

「あんまりあたしをガッカリさせないでくれる? うちの東屋君なら、発砲したその瞬間に貴方を撃ち殺してしまえたわ」

「何が言いたい?」

「彼はあんたなんかに負けちゃいない」

 気を緩めたせいか、入間の反応が大きく遅れた。

 杏樹は既に、こちらの至近距離にまで接近していたのだ。

「あの距離をッ――!?」

「死ね!」

 彼女の小ぶりな拳が入間の鼻面に直撃する。思ったより重たい感触だった。

「これは、東屋君の分!」

 杏樹の膝蹴りが入間の鳩尾に入る。

「くふぉっ……ッ」

「これはあたしの怒りの分!」

 杏樹の回し蹴りが入間の横っ面を薙ぎ払った、これも予想以上に重たい。

「そしてこれが――」

「調子に乗るな!」

 入間の左手が一閃。既に抜いていたコンバットナイフの刃先が杏樹の額を掠める。

 杏樹はあわや直撃かというところで咄嗟に大きく後退する。見た目通りのすばしっこさだ。

「うわ、最悪! 刃の跡ついてんじゃん!」

 杏樹が自らの額を両手の指先でぺたぺたと触っている。

「女の顔に傷を付けるなんて、あんた超サイテー! 後で慰謝料ふんだくってやる!」

「貴様……この俺を、本気で怒らせたな?」

 入間は再び右手の銃を杏樹に向けて発砲。シリンダー内の銃弾を全て撃ち尽くす。

 だが、いずれも杏樹には直撃しなかった。

「くそっ」

「ほーら、鬼さんこーちらー」

「絶対に殺す!」

 シリンダーから薬莢を抜き、弾を交換すると、入間はたったいま渡り廊下へ逃げ込んだ杏樹を全速力で追いかけた。

 渡り廊下に杏樹の姿は無い。あのわずかな間で東棟へ渡り切って姿を消したようだ。

 代わりに、一人の黒い人物が、道の中腹で静かに佇んでいた。

「やあ、君」

 彼に歩み寄りながら、入間は軽々しく挨拶した。

「たったいまガキみたいな年増がここらへんを通ったと思うんだが」

「年増か。あれで四十一なんだから驚くよな」

 入間は耳を疑った。彼の言葉ではなく、その声に。

 窓の外から見える暗雲が気流に乗って流れ、隠れていた月がゆるやかに顔を出す。渡り廊下にまんべんなく降り注がれる青い月明かりが、彼の全体像をくっきり浮かび上がらせる。

 背丈は高くもなければ低くもない。中肉中背の、おそらくは男性。黒い犬の仮面を被り、上着は冬物の黒いジャケットだった。

 彼は仮面の向こう側から、機械音声みたいな声を発する。

「さて……お次は俺の番だな」

「お前さんは……そうか、あの時の十手少年か」

 入間は最近出会った中で一番印象が深かった人物の顔を思い出す。

「そこをどきたまえ。いまは時間が惜しい」

「嫌だと言ったら?」

「倒すしかないだろうな」

 入間は銃を懐に仕舞い、コンバットナイフを手元でくるくる弄びながら訊ねた。

「一応、名前を聞いておこうか」

「黒狛探偵社の葉群紫月」

 黒狛の仮面少年――葉群紫月は、ジャケットの懐から十手を抜き放った。

「内緒にしといてくれよ? こうみえて、秘蔵の探偵って呼ばれてるんだ」

「約束しよう」

 お互い同時に、得物の柄を逆手に持ち替える。

 窓の外で月が再び黒い雲に覆い隠され、渡り廊下にまたしても暗い影が落ちる。二人は全く動かない。暗い中で先に飛び出した方が馬鹿を見ると知っているからだ。

 雲が晴れ、月が面を上げる。

 疾駆。刃の無い鋼鉄と刃の有る鋼鉄が擦れ合い、離れ、また擦れ合う。

 紫月が片足を軸に、入間のナイフを横に弾きながら背後に回る。入間は反射的に向き直り、飛んできた打撃部の先端をナイフの腹で受け止めて押し返し、お留守になっていた彼の足に払い蹴りを繰り出した。

 紫月は縄跳びでもするかのように跳ね、こちらの腹を狙って片足の裏を突き出す。

 入間には当たらなかった。横に逸れ、体を回転させながらナイフの切っ先で紫月の頸動脈を狙う。

 紫月は空いていた片手で入間の手首を取り、まるで鉄棒でもするかのように逆上がりするや、軽業師のように着地して三歩後退。こちらの様子を再び窺っている。

「なかなかどうして、魅せてくれるじゃないか」

 入間は心の底から紫月への賛辞を贈る。

「君は探偵業よりもヒットマンが向いている。転職先を探しているなら、私が知り合いのマフィアに話をつけてやらないでもない」

「俺に進路指導していいのは俺の上司と学校の先生だけだ。お前が推薦した職場なんざ真っ平御免被るぜ。転職先ぐらいは自分で探してやる」

「ならば今度一緒にハローワークへ行こう」

「連れションみたいなノリで何言ってんだ。行きたいならてめぇ一人で行きやがれ!」

 紫月はこちらの提案を却下するや、低姿勢で抉り込むように突進してきた。


 入間が強いなんて、最初から分かっていた。

 奴は狂気に従順で、知性に富み、頑強な肉体を持つ現実世界の悪魔だ。

 でも、だからどうした。

「よくも――」

 よくも東屋轟をあんな目に遭わせてくれたな。

 轟は紫月にとって、戦闘の師匠であり、父親代わりでもあった。

 両親の暴力から解放され、杏樹に引き取られた紫月には、父親と呼べるような男がいなかった。だから生涯杏樹の部下として付いて行くと決めた轟が、なし崩し的に紫月の人生に「親父」として関わってくれた。

 悪さをしたら怒られもしたし、殴られもした。

 良いことをしたらちゃんと褒められたし、悩んでいたら助け船を出されもした。

 その大きな背中は強くて硬い。生きている間に、必ず越えたい壁そのものだ。

 もし仮にあの時、入間が轟を殺してしまったら、自分はいまどういう気持ちで戦っていただろうか。

 きっと、いまと同じだ。

「よくも!」

 よくも青葉の綺麗な肌に傷を負わせやがったな。

 この十六年間の人生で、一度も恋をしなかったと言ったら嘘になる。でも、それはただ、見た目の可愛さとか性格が好みだった、というだけの話だ。

 でも、青葉は違った。

 たしかに彼女は容姿が良い。性格も決して悪くない。でも、それだけじゃない。

 感情の表現法が分からない不器用さも、いつも通りのふてぶてしさも、怒った時の反応も、時折見せるお茶目なところも、いまの紫月にとっては数少ない救いの一つになっていた。杏樹や玲、轟がくれた愛情や信頼以外で、初めて信じられるものが生まれたのだ。

 もし仮にあの時、入間が青葉を殺してしまったら、自分はいまどういう気持ちで戦っていただろうか。

 きっと、いまと同じだ。

 入間を殺すことでしか、腹の虫は収まりそうにない。

「らぁあっ!」

 全力で横薙ぎに振るった十手が入間の腰を打つ。

「ぐっ……ぉおおおっ!」

 入間がお返しにと言わんばかりに、ナイフで紫月の左肩の皮膚を斬り裂いた。ナイフの厚みか、あるいは冷たさからか、斬られただけとは思えないような痛みが傷口の周りで暴れ回る。

 二人はよろめきながら離れると、肩で息をして立ち止まった。

「予想以上だぁ……葉群……紫月ィィィ……!」

 入間は空いていた右手をトレンチコートの懐に突っ込み、彼の代名詞とも言える大型のリボルバー拳銃を抜いた。S&W M500のお出ましだ。

 紫月は十手を床に落とし、右手で懐のベレッタを抜き、照準を入間に合わせる。

 刹那、二つの筒先が正面切って睨み合う。わずかに、入間の銃口が下に揺れる。

 発砲。

「っ……!?」

 入間のリボルバーが破裂した。彼が発砲するより早く、紫月が放った弾丸がリボルバーの銃口を通り、銃全体を内部から破壊したのだ。

 もう一コンマ、入間の発砲が速ければ、紫月は確実に死んでいた。

「くそ……」

「うちの社長が、意味も無くてめぇの前に現れたとでも思ったか?」

 十手を拾い上げ、紫月は肩の傷を押さえながら言った。

「その怪物リボルバーの説明書きには『連射した場合における射手の健康は保障しかねる』って書いてあるそうだな。あんだけ社長を的にして発砲したんだ。お前の右手はもうまともに動かない。俺とこの場で早撃ちを挑んだ時点で、勝敗は既に決していた」

「だったらどうしたぁ!」

 半ば自暴自棄にでもなったのか、入間が白目を剥いて突っ込んできた。

 さっきよりも速い!

「うァアアアアアアッ!」

 入間の左腕が鞭のようにしなり、ナイフの切っ先が幾度となく紫月を襲う。紫月はひたすら回避に専念し、かわしきれない場合は十手で何回か弾いてやった。

 肩からの失血もあり、紫月の動きもわずかに鈍り始める。

 そろそろ限界か――

『紫月君! 準備完了!』

 耳に突っ込んでいたイヤホンから聞こえたのは、杏樹の叫び声だった。

 紫月は微かに唇の端を釣り上げる。

「――いくぞ」

 呟くのと同じくして、入間がナイフの切っ先を大きく引いた。最大威力にして最速の突きで、紫月の額を貫通するつもりだろう。

 来るなら来い。その時が、お前の最期だ。

「はぁああああアアアアア!」

 入間がナイフを全速力で突き出した。切っ先は真っ直ぐ、紫月が被っていた仮面の額を深々と刺し貫く。

 だが、それだけだった。

「なにっ……!?」

 入間が刺したのは、黒犬の仮面だけ。

 紫月本体は既に、入間の真横で身を屈めて居合抜きの体勢に入っていた。

「くたばりやがれ、クソ野郎!」

 渾身の横一薙ぎ。紫月の十手が、入間の横っ面を捉え、薙ぎ払った。

 入間が打撃の勢いで横に一回転して、倒れる――かと思いきや、足を踏ん張り、どうにか転倒だけは免れていた。

 よろよろと壁に背を預け、紫月は舌打ち混じりに毒づいた。

「チッ……タフな野郎だな……」

「ここまで……やるとはな……!」

 入間が顔を上げ、血走った眼でこちらを睨んでくる。いまの打撃によるものか、側頭部から垂れた血が顎を伝い、雫となって一滴ずつ床に落ちる。

 双方出血の、両者痛み分け。これ以上、二人に戦う体力は無い。

 紫月は踵を返し、覚束ない足取りで渡り廊下の突き当たりを折れた。肩の斬り傷から伝わる血の筋が指先に届き、廊下の床に細長い血の道筋を作る。

 これで俺の仕事は完了だ。あとは――

「相手の銃は破壊した。あとは任せましたよ、社長」

『ええ』

 無線の向こうで、杏樹が力強く応じた。


 軽い脳震盪から少しだけ回復した入間は、葉群紫月が撤退中に流していた血の道筋を追っているうちに、一階の渡り廊下まで辿り着いていた。これより上の階とは違い、この階の渡り廊下は左右が吹きさらしとなっている。多種多様な衝撃と衝動によってオーバーヒート寸前にまで熱していた頭を冷ますには、ここはうってつけの場所かもしれない。

「十何年ぶりかな、お前と会うのは」

 正面に佇んでいた白スーツの男の存在にようやく気付き、入間はぐらつく頭を上げた。

 奴の顔は勿論覚えている。蓮村幹人。白猫探偵事務所の社長で、かつて入間の手首にワッパをかけた男だ。

「久しぶりだな、蓮村。正直、こんな形で再会するなんて夢にも思っていなかった」

「こっちの台詞だ。てっきり死んだものと思っていたぞ」

「偶然のような必然に救われたのさ。成長した我が子の姿を見たかったっていう未練が通じたのか、地獄の閻魔は俺を地獄から蘇らせた」

「そいつは多分、閻魔大王なりの執行猶予って奴だろう」

「だとしたら、あたしは閻魔大王より甘くないってことになるけど?」

 後方の太い柱の陰から、杏樹がデーザー銃を突き出して入間の背後に立つ。これで入間は前後を挟み撃ちされた形になる。

「さっきも言った筈よ。あんたの都合なんか知ったこっちゃ無いって。あんたが何をしたかったか知らないけど、ここで全て終わるのよ」

「……そうか。巧く嵌められたな、俺も」

 入間は諦観したように薄ら笑いを漏らす。

「さっきの少年は俺の体力を限界まで奪う役割を担っていた。俺を白猫の嬢ちゃんから引き離した上で、安全に捕縛する為に」

「理解したなら大人しく投降しなさい。両膝を地面につき、両手を頭の後ろへ回して、ゆっくりと地面に伏せるの」

「ああ、分かったよ」

 頷きつつ、入間は指示通り、まずはゆっくりと膝を折った。

 地面に膝が接地する。次は、両手を頭の後ろへ。

 回す直前、入間は右手首を軽く振り、袖から黒いリモコンを掌に滑らせた。

「!」

「動くな」

 杏樹がデーザー銃の引き金を引くより先に、入間は鋭く彼女を制した。

「デーザーの電極が俺に刺さった瞬間、スイッチと密着した俺の親指が動く。そうなれば、人質の周囲に仕掛けられた爆弾が一斉に作動する」

「何ですって?」

「下手な脅しを」

「洒落か冗談と思うなら、いますぐ実演してやろうか」

 入間は思わず失笑した。

「なぁに、犠牲者は人質の小娘一匹だけで済む。決して大きい被害にはならないが――勘の良い探偵が既に人質の居場所を掴んでいたとしたら、話は別だろうなぁ」

「っ! まずい!」

「あそこには白猫のエースが!」

 幹人と杏樹の顔が一瞬で蒼白になった。やはり、既に青葉が人質の隠し場所に辿り着いていたのだろう。

 入間はさらなる追い打ちを掛けた。

「言い忘れていたが、人質の体内にも強力な爆弾を挿し込んである。仮に彼女を周辺の爆弾から遠ざけたとしても、彼女自身が人間爆弾になっているのなら、救出した人間ごと木端微塵でグッバイサヨナラあの世行きだ」

「貴様……!」

「さあて、いまごろどうなっているんだろうなぁ、俺達の娘は!」

 それからの入間は、ずっと一人で哄笑を上げ続けていた。

 杏樹も幹人も動けない。彼らのうち一人でもこちらに接近した瞬間、空気よりも軽い気持ちでリモコンのスイッチが押されてしまうと理解しているからだ。

 夜陰の静寂に木霊する甲高い狂気の嬌声は、入間自身が嗤い疲れるまで、もう誰にも止められない。

 ついさっきまで、入間自身はそう思っていた。

「挿し込まれていた爆弾、というのはこいつのことか?」

 入間の足元に、試験管みたいな形をしたガラスの筒が放られた。

 これには幹人や杏樹のみならず、入間も驚愕を隠せなかった。

「元・殺し屋の手口も大したことは無いな」

 渡り廊下の左手側に、白猫の仮面を被った小柄な少女が立っていた。

 青葉だ。しかし、何で彼女がこんなところに?

「お前、斉藤久美の救出はどうした?」

「どうしたも何も、既に彼女の身柄はこちらで保護させてもらった。いまお前の足元に転がっている爆弾が何よりの証拠だ」

「一体どうなっている?」

 幹人が純粋な驚きを示して訊ねてくる。

「彼女はいま無事なのか?」

「命は無事だ。あくまで、命だけだがな」

 青葉が仮面の奥から殺気立った視線を入間に向けた。

「彼女は体育館のステージの直下に設けられた用具入れみたいな通路で眠っていた。周囲にC4爆弾がびっしり設置されたのを見た時は心臓が止まるかと思ったが、彼女自身は五体満足だった。もっとも、そこの種馬から性的暴行を受けていた形跡がいくつか発見されたがな。いま私が放った爆弾もその一つだ。そいつは彼女の膣内に挿入されていた」

「なんてことを……」

 同じ女性としてか、杏樹が胸糞悪そうに毒づいた。

 青葉が入間に人指し指を突き出す。

「おそらく、お前が持っているそのリモコンと、この校内に存在する全ての爆弾はリンクしている。もしいまこの場でスイッチを押せば、木端微塵になるのは彼女や私ではなくお前の方だ、入間宰三!」

「……何故、爆弾の位置が分かった?」

 せめてもの抵抗として、入間は青葉に質問を投げかける。

「物の隠し場所としては常識外だったろうに」

「前田健は生きたまま解体されたと聞いている。ということは、生きたままの斉藤久美にも何らかの細工を施していた可能性は十分ある。何ら不自然の無い考え方だ」

「いいや、異常な考え方さ。やっぱり、お前は俺の娘なんだなぁ」

「違う」

 青葉は面と向かって否定する。

 その瞳は、混じり気一つ無く、ただひたすら澄み切っていた。

「私は蓮村幹人の娘で、探偵の端くれだ」

「そうか」

 ようやく、彼女の『答え』を聞けた気がした。

 入間はリモコンを持った手をゆっくりと上げる。

「失敬したな。俺は最初から全てを勘違いしていたらしい」

「何を――」

「お前は俺の娘じゃない」

 入間はリモコンのスイッチに触れた親指に、最大の力を込めた。

「それでも強く生きろ、青葉」


 咄嗟に身を後ろに投げ出していなかったら、入間を取り囲んでいた三人の探偵は丸焦げになっていたかもしれない。

 耳朶を砕くような爆炎の大喝采は、入間の全身から血風を散華させた。ついでに、体育館に仕掛けられていたC4爆弾も全て一斉に炸裂したので、あそこも良くて半壊、悪くて全壊しているだろう。

 頭を抱えて地面に伏せっていた青葉は、爆発の余波に耐え抜き、ゆっくりと顔を上げる。

 地面に散らばる肉塊と血だまり、地面に燦然と輝く背の低い炎の数々を見て、青葉は顔を伏せて悪態を吐いた。

「……馬鹿野郎が」

 生きていようが死んでいようが、実にはた迷惑な男だった。生きてる時より、死んだ時の方が言いたいことが沢山思い付く。

 爆音のせいか、三半規管に乱れが生じている。立ち上がるにしても体が怠い。

 青葉は眩暈を押してどうにか立ち上がると、柱の陰でぐったりと座り込んでいた幹人の傍に歩み寄り、視線を合わせるようにしてしゃがみ込む。

「社長、無事か?」

「ああ。危ないところだった」

 幹人は地面に散らばった肉の残骸と、牛乳を床にぶちまけたように広がる赤黒い血の池を見遣る。

「心理学の世界にはロールシャッハテストという実験法が存在する。インクを垂らした紙を二つ折りにして広げ、出来上がったインクの模様を見て被験者が何を感じるか、或いはどういう言語表現をするかをテストする。お前はあの血の広がりを見て、何を想う?」

「…………」

 不謹慎なようだが、たしかに入間が自らを中心に散らした血の有様はロールシャッハカードの図柄とよく似ていた。

 青葉は率直な感想を述べる。

「悪魔の翼というものがこの世にあるんなら、こういう形をしているんだろうな」

「同感だ」

 幹人が力なく笑みを浮かべる。

「青葉。さっきの様子だと、お前は入間から全てを知らされたんだな」

「ああ。随分と年季の入った隠し事だったな」

「それを言われると辛いなぁ」

 彼はほとんど泣きそうな声で言った。

「奴からお前を引き取るように頼まれたあの時から、施設を転々としていたお前を探し当てるのに随分な歳月を要してしまった。でも内心では、奴の頼みを聞き入れたくないって、大人気なく駄々を捏ねていただけのような気もする」

「迷う気持ちも分からなくはない。私はあんな狂人の子供なんだし」

「そうだな。でも、これだけは間違っていなかった」

 幹人はゆっくりと手を伸ばし、大きくて硬い掌で、いつものように青葉の頭を撫でた。

「お前はお前のままでいてくれた。さすがは私の部下で、私の娘だ」

「社長……」

「何だかよく分からないけど、良かったわね」

 杏樹が片腕を押さえながら歩いてきた。爆発の際に痛めたらしい。

「あなた、青葉ちゃん……で、いいのかしら?」

「好きに呼べば良い」

「今回はあなたのおかげで助かったわ。ありがとうね」

「そっちのエースがいなければ、斉藤久美の救出は成し得なかった」

「そのエースとやらは、いま何処にいるんだろうなぁ」

 幹人がわざとらしい口調で言った。

「まあいい。青葉、お前は野島君と先に事務所に帰ってろ。警察との折衝、救急車や消防の手配はこちらでやっておく」

「呼ぶのは消防だけでいい。警察と救急車の手配は既に黒狛四号がやってくれた」

「何?」

「そもそも私がここにいるのも、黒狛四号に斉藤久美の身柄を預けていたからだ」

「じゃあ、黒狛四号に会ったの?」

 杏樹が何故か不安そうに訊ねてくる。

「いいや。彼とはトランシーバーを介して連絡を取り合っていただけだ。私が斉藤久美を保健室に運んでからこちらに向かう道すがら、黒狛四号に保健室まで来るよう連絡した。その時、ついでに警察や救急車を手配すると彼の方から申し出てくれた」

「お互い、やってくれるわね」

「喜ぶのはまだ早い。問題はまだ山積みだからな」

 幹人がため息交じりに言った。

「今回出た被害は、入間を除けば死者一名、重傷者二名、逮捕者一名の計四名だ。特に斉藤久美が受けた肉体的、及び精神的苦痛は一生モノのトラウマになる。しばらくは病院通いになるだろうし、通院費の支払責任についても交渉しなければなるまい」

「金の話ばっかりじゃない」

「事実だ。本来だったら彼女に慰謝料を払うべき和屋の父親は自殺して、和屋本人も逮捕されてしまった。金の問題が解決したからといって全てが丸く収まる話でもないが、彼女を思うならネックはやはりそこだろう」

「一理あるわね」

「そいつはお前らが考えるこっちゃねぇよ」

 正面口側の方向から、新渡戸が複数の制服警官を引き連れて歩み寄ってくる。

「しかし、よくもまあこれだけの騒ぎを引き起こしてくれたもんだ。後でたーっぷり事情は聞かせてもらうからな?」

「せめて青葉だけは帰してやりたいんだが」

「俺は最初からバカ社長二人にしか用はねぇ。お嬢ちゃんは好きにしな」

 新渡戸がしっしっと青葉に手首を振った。これは彼なりの気遣いだろう。

 お言葉に甘えて、青葉は無言でその場を立ち去った


 青葉の背を見送り、杏樹は微笑を浮かべて呟いた。

「あの子、いい子ね」

「自慢の娘さ。もっとも、産みの親はそこでステーキになってしまったが」

 さっきの会話の内容には杏樹も多少なりとも驚いている。だが、それでも彼女は蓮村幹人の娘であることには違いない。これ以上は深く詮索しない方が良いだろう。

「お前こそ、どうやら自慢の息子とやらがいるらしいじゃないか」

「お願いだから、彼のことはどうか周囲には秘密にしてやって」

「彼には大きく助けられてしまったからな。別に構わんが――一応、彼の存在を秘匿していた理由を聞かせてくれないか?」

「…………」

「無理に、とは言わない」

 杏樹は一瞬躊躇ったが、すぐに考え直した。

 おそらく青葉の立場は紫月と大体同じだろう。なら、彼が青葉を秘匿する理由と、杏樹が紫月を秘蔵っ子扱いしている理由も、きっと似たり寄ったりだ。

「……見ての通り、彼はまだ未成年なの。しかも高校生で、幼少期に実の両親から暴力を振るわれていた。だから天涯孤独で、社会的な立場がまだ弱い。まだ自慢気に探偵を名乗れるような年頃じゃないの」

「たしかに、浮気調査をするような生徒が校内で普通に学生をやってたら、生徒どころか教師ですら戦々恐々とするだろうな。誰も彼には近寄らないし、周囲との軋轢も避けられない。実のところ、私も大体似たような理由で青葉を匿っている」

「考えることは大体同じなのね。遺憾なことに」

「ああ、全く遺憾なことに」

 価値観の違いから戸籍どころか事務所まで別ったのに、最終的にはいつだって同じところへ辿り着く。

 全く喜ばしくはないが、だからといって極端に腹立たしい訳でもない。

 ただ単に、ああそうなのね? などと納得してしまうだけだ。

「うぇーるかーむ」

 いきなり後ろから、新渡戸が二人の首を両脇にがっちり抱え込んだ。

「さあさあお二人さーん、楽しい取り調べのお時間でーす」

「楽しそうね」

「さしづめ、いままで何処ぞの居酒屋で飲んでいたんだろう」

「さっすが探偵様。よく分かっていらっしゃる」

 いや、酒臭いから誰にでも分かる。

 二人から離れ、新渡戸がしんみりと言った。

「蓮村。これで『生命遊戯』は本当の幕引きを迎えた訳だが――どうだ? てめぇの娘と元奥さんに俺達の尻拭いをさせた気分は」

「その答えについてはお前の想像通りだろうな」

「ああ」

 新渡戸が無感動に呟く。

「お二人さんよ。俺はな、本当ならお前達と一緒に戦いたかった。それだけが心残りだよ」

「誰だってこんな結末は納得してないって」

 杏樹は敢えて冗談っぽく言った。

「そんな文句は今度飲みに行く時まで大事にとっておきなさいよ」

「同感だな。後悔するのも管を巻くのも全てが一段落してからだ」

「蓮村はともかく、池谷とかぁ……」

 新渡戸は何故か思案顔で唸った。

「あんたを居酒屋に連れていくのはちょっとした勇気が必要だな」

「何でよ」

「いや、だって、見た目の年齢がなぁ」

「うるさい」

「ごっ!?」

 杏樹は容赦なく、新渡戸の硬い尻にミドルキックを喰らわせた。


   ●


 あれから三日後。東屋轟が意識を取り戻した。それだけでも朗報なのに、鍛え方が違うのか、歩けるようになるまで一か月も掛からないとまで診断された。

 嬉しさのあまり、杏樹は轟の太鼓腹に頭をぐりぐりと押し付けた。

「もぉおおおおおお! 心配したんだからね!」

「大変心配をかけて申し訳ないっす」

 轟は杏樹の背中を撫でると、次に浮かない顔をしていた紫月を見上げる。

「話には聞いてる。よく頑張ったな、紫月」

「……ええ」

「どうかしたか?」

「いいえ。ちょっと疲れてるんです」

「そうか。しばらく休んだらどうだ?」

「そうします」

 苦笑する紫月であった。

「お元気そうで何よりです。じゃ、俺は先に帰ってるんで」

「おう、ご苦労」

 終始落ち込んだまま、紫月は病室を辞した。

 しばらくして、轟は梨の皮をナイフで剥いていた玲に訊ねる。

「おい。あいつ、何があった?」

「斉藤久美さんが下の階の個室に運ばれたって話は聞いてる?」

「ああ。さっき蓮村さんが来て――って、まさかお前ら、嬢ちゃんの病室に行ったのか?」

「ええ。とりあえず、様子見のつもりで」

「どうなった?」

「面会謝絶に決まってるでしょ。彼女がどんだけの被害を受けたと思ってるの」

 斉藤久美の命に別状は無かった。でも、心に受けた傷は一生癒えないだろう。

 彼氏の死と、性的暴行、加えて入間から打ち込まれた強力な媚薬。精神崩壊を促すには充分過ぎるダメージだ。さっき会った医者の話によると、彼女は有り体に言って廃人寸前の状態にあるという。友人や知人どころか、家族にすら会える精神状態ではない。

 杏樹は部下二人から目を逸らしつつ言った。

「彼女の件についてはこちらにも責任の一端がある。特に、実際に証拠集めをやってしまった紫月君には相当堪えたと思う。今後はきちんと仕事は選ばなきゃね。入間の言う通りにせざるを得ないのは癪だけど」

「紫月君、大丈夫かしら」

 玲の面持ちが沈み込む。

「あの様子だと、立ち直るのに相当時間が掛かるように見えるんだけど」

「あいつなら大丈夫さ。何せ、俺達の末っ子だからな」

 轟は心配するどころか、むしろ期待するように言った。

「あとは、まあ……きっかけ次第じゃねーの?」


   ●


 全ては入間のせいだ、などと被害者面はしていられない。こちらが受けたダメージもダメージと思ってはいけない。そうやって逃げる権利は、いまの黒狛には与えられていない。

 だからといって、いまの斉藤久美にしてやれることは、こちらからは何も無い。

 いまの自分を的確に表す言葉があるとするなら、それはまさしく「無力」だ。

「おい、兄ちゃん」

 後ろから肩を掴まれた。いま紫月の背後に並ぶのは、チンピラじみた格好がやたらに目立つ三人組の若い男達だった。推定年齢は大体二十代後半くらいか。

「何か育ちが良さそうじゃん。お父さん何やってんの?」

「つーか、お金くれない? さっきパチンコに負けちゃってさー、ちょーっと困ってるんだわ」

「三万くらいで良いからさぁ」

 いい年こいて子供相手に金を無心するとは。こいつら、単なるクズか。

「……金が無いなら働けよ。大人は皆、そうやって生きてる」

「あ? なに、このガキ? うっぜ」

「ちょっとさあ、君ぃ。大人のルールって奴、理解してんの? 年下のガキンチョはさぁ、年上のお兄さんの言うことは絶対聞かなきゃいけないの」

「それ以前に、君達は社会のルールを理解しているのかね?」

 いきなり現れた名も知れぬチンピラ風情より、いきなり登場した見知った人物の方が目にした時の驚きは大きかった。

 貴陽青葉が、何故かチンピラの背後で偉そうにふんぞり返っているのだ。

「あ? 何か言った、お嬢ちゃん」

「つーか、すっげぇ可愛いじゃん」

「おわ、ちっこいのに体エロッ!」

「よく言われる。さて……」

 早速、青葉のハイキックが真ん中の一人を瞬殺する。

「話を戻そう。本日の議題は社会のルールについてだ」

「このチビ!」

「人の話を聞け」

 今度は紫月が右側の一人の頭を鷲掴みにして、石畳の地面に顔面を叩きつける。

「お前らモテないブ男が、こぉーんな可愛い女の子とお喋りする機会なんて、そう滅多に訪れるもんじゃないだろ?」

「や~だ~、葉群君ってば~。そんなに褒められたら、青葉困っちゃ~う」

「てめぇこのヤ――」

『寄るな』

 最後は紫月と青葉の同時攻撃。裏拳で残り一人の頬を挟み撃ちにする。

 これにて全員撃退。用いた労力は最小で済んだ。

「良い運動になったな」

 青葉が肩をぐるんぐるん回しながら言った。

「ところで、平日の昼間にも関わらず、君はここで何をしている? 学校はどうしたね」

「サボってきたんだよ。学校に行く気分でもなかったし」

「奇遇だな。私もだ。それより、さっさとここを離れよう。さっきから周りがうるさい」

 ここは彩萌第一高付近とはまた別の商店街で、この時間帯は老人や主婦の方々で賑わっている。いまの騒ぎが引き金になり、遠巻きから決して少なくない野次馬がこちらに如何わしい視線を向けていた。

 さすがに居心地が悪い。ここは青葉の案に合意して、二人は駅の方角へ走った。

 やがて、駅前の噴水広場に辿り着く。

「やれやれ、ちょっと疲れたぞ」

「君が最初に手を出さなきゃ、俺がもっと穏便に解決してやったものを」

「驚きだな。君にそんな技量が備わっていたなんて」

 若干小馬鹿にしたように言うや、青葉は噴水の淵に腰を落ち着けた。

「ちょうど、私がここらへんに座っていた時だったかな、君と最初に会ったのは。ねぇ、紫月お兄たま」

「やめてくれ。あれは俺の黒歴史だ」

「お兄たま、お腹空いたからお昼ご飯おごってー」

「分かった。分かったから、その呼び方はマジでやめてくださいお願いします」

「ふむ、苦しゅうない」

 いつも以上に偉そうな青葉様であった。

「そういえば、一個質問」

「何だよ」

「さっきからずっと浮かない顔をしている。何かあったか?」

「そういう君はいつも以上にノリが軽い。何かあったか?」

「いつも以上……か。もう、それぐらい会っているんだな」

 青葉は懐かしむように言った。

「なーに、大したことじゃない。最近、産みの親に会ったばかりなんだ」

「良かったじゃん」

「何一つ嬉しいことは無かったよ」

 若干、彼女の表情が沈み込む。

「パンドラの箱には世界を呑みこむ災厄と、たったひとかけらの希望が詰め込まれていたという。ひょんなことから箱を開けて数多くの災厄を引き出してしまったが、代わりに自分が何者かを知ることが出来た。正直、微妙な心境だよ」

「そうか」

 希望があるだけまだマシだろ――だなんて無粋な反論を投げかける気にはなれない。

 自分には、その権利すら与えられていないのだから。

「希望があるだけ、まだマシだろって顔をしているな?」

 見抜かれていた。何で彼女はこうも鋭いのだろうか。

「君はよく顔に出るタイプだろ」

「悪いかよ」

「ああ、悪い。そういう奴に限って、顔に出たって誰にも話す気にはなれないタイプだ」

 青葉は立ち上がると、たおやかな指先を紫月の頬に添える。

「話せないことがあるならそれでもいい。誰にだって秘密の一つや二つくらいはあるだろう。でも私個人としては、君にそんな辛そうな顔をされると、私も辛い」

「それは俺のことが好きって言いたいのか?」

「さあな。自分でもよく分からんよ」

 青葉が年不相応に老獪な微笑みを浮かべる。

「でも、これだけは言えるかな。辛いことがあれば、乗り越えればいい。その為の力なら貸してくれる人はいるだろう? この私も含めて」

「慰めのつもりかよ」

「体は小さくても心はビッグだからな。それぐらいの余裕はある」

 この時、紫月は「絶対この女には敵わないな」と思わされた。

 でも何でだろう。不思議と悔しくないし、すっと気持ちが軽くなったような気がする。

「……とりあえず、昼飯にしようぜ。君が奢れって言ったんでしょ」

「よし。じゃあ、駅前のラーメン屋へ行こう。あそこなら学校をサボってきた高校生カップルも快く受け入れてくれるだろう。何なら餃子のサービスだってあるかもしれん」

「さすがにそう何度もサービスしたら店潰れるって」

「分からんよ? 意外に繁盛してるかも」

 それから二人はごく普通の若い男女みたいに、会話を交わしながら並んで歩いた。

 でも、普通の若い男女みたいに笑わなかった。

 青葉は元から無表情で、いまの紫月は快活に笑えるような精神状態ではない。

 でも、いまだけは、それで良い気がした。

「お? 何だか良い匂いがする」

「当然だ。そろそろ店の前だからな」

「違うよ。俺のすぐ隣で、とっても可愛い女の子の匂いがする」

「私を口説こうったって、そう簡単には落ちないぞ、このおバカめ」

 いつの間にか、二人の足は件のラーメン屋の前で止まっていた。


 ちなみに今日は、新作チャーハンの小丼がラーメンとセットで二人に提供された。

 もしかしたらあのスキンヘッドの店主は、自分達を使って新作メニューの実験をしたかったのではないかと、紫月と青葉は店を出た直後に邪推したのであった。


   ●


 誰もいない夜の河川敷の土手で、青葉は一人、無言で佇んでいた。

 外に出ていれば、月明かりは変わらず平等に降り注ぐ。地球上のちっぽけな命の一つでしかない彼女にもスポットライトは当たっていた。

 懐からオルゴールを取り出し、ぜんまいを巻いて、指をそっと離す。

 流れる曲はいつもと変わらず『荒城の月』。しばらく、川のせせらぎと共に黙って曲を聞き流した。その間、不思議なことに、頭の中には雑念が一切生まれなかった。

 ぜんまいが止まり、曲が全て終わると、青葉はオルゴールを高く宙に放り投げた。

 右手を一閃させ、電光石火の如く速さで懐からベレッタを抜き、発砲。

 十六年の人生を共にした手垢だらけのオルゴールは、九ミリパラベラム弾の一発で粉々に四散して、底が見えない川の藻屑となって消え失せた。

「気は済んだか?」

 自分以外に誰もいない筈なのに、どこからともなく訊ねてくる声があった。

 いま一度、周囲を見渡してみる。

 やはり、ここには自分以外、誰もいなかった。

「ああ」

 とりあえず答えておいて、青葉は銃をジャケットの懐に仕舞った。

 姿なき声が忠告してくる。

「お前は過去と決別したつもりかもしれないが、人間誰しも過去からは逃れられない。物理的な一発でさえ、過去を消し去るには殺傷力が常に不足している」

「だとしても、お前が思うような私には絶対ならない」

「だったら、その心がけを決して忘れないことだ」

 姿なき声は、この言葉を最後に途絶えてしまった。

 もう、耳障りな音楽と声は聞こえない。

「忘れないさ。嫌でも思い出すからな」

 川の水面に映った月を眺めると、青葉は折りを見て、この河川敷を後にした。


                          ヒゾウの探偵/『群青の探偵編』 おわり

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