第2話 狂人再臨
白猫探偵事務所の所在地は、駅前の繁華街に建つ小さなテナントビルの二階だ。余談かもしれないが、黒狛は駅から離れているので、行きやすさで言えばこちらの方が断然上だ。
青葉がせかせかとデスクで報告書を書き上げている最中、自らの席を離れてこっちにやってきた社長の蓮村幹人が、鼻の下の髭を両指で撫でて、気分が良さそうに唸る。
「聞いてくれ、青葉」
「何?」
「最近通販でゲットした髭専用のトリートメントを使ってみたら、私のトレードマークであるこのお髭が見事なまでの美しい艶を獲得した。これでまた、ただでさえダンディズム溢れるこの私が、さらに男らしく、かっこ良くなってしまった」
「……………………」
うわ、うぜぇ。
「ん? どうしたのかな? もしかして、私の惚れてしまったのではあるまいな。いくら血が繋がっていないとはいえ、私達は一応親子なのだぞ? その辺の節度はちゃんと弁えておかねばなるまいよ、セニョリータ」
「社長」
「何だね?」
「仕事の邪魔なので、とりあえず黙ってもらっていいですか?」
「酷いっ! 何てご無体な……ハッ! これが噂に聞く、反抗期という奴か!」
青葉と幹人は戸籍上の親子だが、同時に職場では上司と部下でもある。節度の話をするのなら、まずは幹人自身が青葉への愛情表現を抑制すべきだろう。
蓮村幹人。元は刑事で、黒狛探偵社の社長・池谷杏樹の元旦那。事務所内では常に白スーツで仕事している細身の似非紳士で、トレードマークは鼻の下でカモメの翼みたいに広がる黒々とした立派なお髭。仕事は常に迅速がモットー。極度の親バカで、青葉の授業参観の時は、彼女を外敵(主に同級生の男子)から守る為に必ず本物の銃を携行する。
総合すると、正真正銘、究極のバカだ。
「青葉もいまや十六の女子高生ですからねぇ。つーか、いまのは確実に社長が悪いっす。誰が相手でもうざがられますって、そんなの」
デスクでBL本を読んでいた二十代半ばの体育会系男子、野島弥一が軽薄ながらも的確な指摘を繰り出した。
幹人が目を細める。
「野島君。さっき青葉から聞いたんだが、君はその本を自分では買いに行かず、青葉にお遣いを頼んで入手したらしいではないか。うちの娘は小間使いではないのだが?」
「どうせ青葉の場合、契約上はバイトの雑務ってことになってるし、別に良くないっすか? これも雑務の一環っすよ」
「パシリと雑務は全く違う。今後は慎みたまえ」
「へーい、分かりましたよー」
「…………」
本当に分かっているんだろうか、このゲイは。
これには青葉もたまらず口を挟んだ。
「野島さん。これはどうでも良いことだけれど、私はその本を持ち帰っているところを知り合いに見つかって赤っ恥をかいている。しかも、そいつは私と同い年の男の子だ」
「へえ。今度紹介してよ」
「断る。ちなみに彼はノンケだ」
「そこをどう料理するかが腕ってモンだろ」
「悪いがあれは私のお気に入りだ。おいそれ人に献上する気は無い」
「青葉にも気になる男の子が出来たんだ」
業務用プリンターのメンテナンスをしていた、二十代後半のラフなパンツスタイルの女性、西井和音が作業の手を止めないまま訊ねてきた。
「その話、後で聞かせてよ。ご飯奢るからさ」
「かず姐なら許す」
「青葉は何で俺には冷たいんだ」
「いたいけな女子高生をパシリにする男を誰が信用する?」
「そーだそーだ、この人でなし」
「こ、の、アマ共……!」
青葉と和音が口喧嘩で弥一を圧倒している。いつも通りの光景である。
「諸君、そういえば一つだけ言い忘れていたことがある」
幹人がよく通る声で述べる。
「今日は一件、予約で客が来るのを知っているな?」
「それが何すか?」
「依頼者は女子高生だ。よって、保護者も同伴する」
「女子高生?」
青葉が首を捻ると、幹人もやれやれと頭を振った。
「近頃は未成年と、成人していたとしても若年層の依頼が何故か多い。あまり下手をこくと、ネットに気まずい情報を書き込まれかねない。嫌な時代になったものだ」
「それで、私達にどうしろと?」
「今日から無料相談は私と西井君の二人体勢にする。あと、もし男に話せない内容が相談に含まれていたら、そのあたりは全て西井君に一任する」
「お安い御用ですよ、ビッグボス」
気さくに二つ返事する和音であった。
「あと、浮気調査やストーカー退治など、危険が伴う作業の実働については青葉と野島君が中心となる。これについてはいつも通りだが、西井君のヘルプだけは期待するなよ? 全て、自分達の力で何とかしたまえ」
「了解」
「特に大きな変更も無いしな」
「さて。そろそろピッチピチのJKがご来店だ」
真面目なムードを台無しにする単語を含めると、幹人はぎろりと弥一を睨んだ。
「とっとと本の山を片付けろ。さもなくば、ここでお前ごと全て灰にしてやるぞ」
「そんなに怒らないでくださいよー」
「貴様の勤務態度に目を瞑っているのは単に貴様が優秀な探偵だからであって、私個人の倫理観は貴様の行動を許した覚えは無い」
「わーかりましたーって!」
喚くように応じると、弥一は机上の本を全て布地のバッグに詰め込み、青葉の机の下に隠して自分の席に戻った。
「おいコラ野島テメーコノヤロー。何でいま私の席に……!」
「そろそろ時間だ。秘蔵っ子のお前は別室で待機な」
「後で覚えていろ。本を全て八つ裂きにした上で、この地球上から貴様が存在していた形跡を抹消してやる」
捨て台詞を吐き、青葉は入り口の横に設けられた別室に入った。トイレの個室をちょっと広くしたような面積の室内のテーブルには、応接スペースに備えられた隠しカメラと盗聴器の情報を反映する機材が鎮座している。
椅子に座り、モニターの電源を入れ、ヘッドフォンを装着する。
ややあって、やってきた客が応接間のソファーに腰を沈めた。
「お電話では、久美さんが最近、何者かに付け回されていると」
「そうなんです」
依頼者である斉藤久美が陰鬱な面持ちで頷いた。
「いままでにも何度か視線を感じることはあったんですけど、最近は家に石が投げ込まれたり、ポストには……その……」
「ゴキブリ入りのタッパーが詰め込まれていたんです」
娘が言いにくいことを、久美の母親、斉藤由利が答える。
「いま思い出すだけでも鳥肌が……」
「なるほど。では、次の質問なんですが――最近、久美さんのお知り合いで、明らかに行動が怪しかったり……あとは、執拗にメールなどを送ってくる人物に心当たりは?」
「知り合いでは特に。でも、無言電話が何回も掛かってきたりしていたので、私達の家の電話番号と住所を知ってる人の誰かだと思うんですけど……」
「それを一から丁寧に探していたのではキリが無い」
幹人は顎に手をやって考え、また別の質問をする。
「話が変わって申し訳無いが、いま貴女に交際相手は?」
「そこまで話さなきゃ駄目ですか?」
久美が明らかに不快感を示している。常識的な反応である。
「ストーカーを特定する為には、その行為とは無関係の知り合いを判断材料にすることもあります。大抵の探偵社は、我々を含め、秘密を外部には絶対漏らさない。どうしても私が相手だと話し辛いというのなら、そうだな……」
幹人はわざとらしく、隣に同席していた和音を横目で見遣る。
「そこの西井君はとても聞き上手だ。彼女に話してみるといい」
「そういう訳で、むっさい髭面のオッサンにはとっとと退席してもらいましょうか」
和音の冗談めかした言い方は、納得半分、理不尽半分だった。張り詰めていた久美の気を紛らわすには最適かもしれないが、よりにもよってむっさい髭面とかオッサンとか、一回りくらいは年上の自分に対して失礼極まりない気がする。
幹人は咳払いしつつ席を立とうとするが、久美が慌てて腰を浮かす。
「そ……そんなつもりはなかったんですっ! ごめんなさい!」
「ふむ、そうかね。気を遣わせたな」
「いえ……あの、交際相手は……います」
久美が顔を朱に染め、俯き加減に言った。
「ほう。それで、彼氏のお名前は?」
「前田健です。中学時代から仲良くしてて……二か月くらい前から付き合い始めたんです」
「ふむ」
特に関心を示す素振りを見せず、幹人は手元のメモ帳に情報を記入する。
「その彼氏さんに、この件を相談したりは?」
「してないです。あまり心配させたくは無かったので」
「警察には?」
「行ったんですけど、証拠が無ければ対応しかねると」
これには由利が憤慨してまくしたてる。
「ストーカー被害は加害者の特定と証拠集めが必要になるって言って、取り合ってくれなかったんです。だから警察の人からここをお奨めされたんですけど――酷いと思いません? 自分達がそれをやるのが面倒だからって」
「警察なんて大抵そんなもんです。ここを紹介しただけでもまだマシな方でしょう。彼らの腰には民事不介入という名の鎖が巻きついているんですよ」
「民事不介入?」
久美が首を傾げる。この年だと、まだ法律関連には関心が薄いらしい――と思ったら、何故か由利まで眉根にしわを寄せて頭上に疑問符を浮かべている。いや、娘さんはともかく、あんたは理解してろよ。いま幾つだよ。
呆れる幹人を尻目に、和音が助け船を出す。
「簡単に言うと、自分のことは自分でどうにかしろっていう法律ですね。斉藤さんが警察に相談した時、「民事で解決してください」って言われませんでしたか?」
「ああ、言われたかもしれないです。まるで意味分からなかったですけど、追い返そうとしているつもりなのはよく分かりました」
「その場合、貴女方は彼らにこう言われたことになります。「そっちの面倒はそっちで見ろ。警察を使う以外の方法なんていくらでもあるでしょ?」って」
「酷くないですか、それ!」
由利がいまさらのように驚嘆する。最初から気付けや、と思わなくもない。
「ですが、そういう時の為に我々の存在がある」
幹人がにやりと笑う。
「今日の私はお髭もツヤツヤで機嫌がいい。少し、私の身の上話をしましょう」
「は?」
「まあ、いいからいいから」
いきなり毛色の違う話題を出され、斉藤親子がぽかんと間の抜けた顔になるが、幹人は二人の反応を気にも留めずに語り出す。
「私は元々、彩萌警察署の刑事だった。若い頃は益体も無い正義感に身を焦がしていた時期もありましたが……ある時、気付いたんです。正義は時として、壁になると」
いつの間にか、斉藤親子も和音も、棚の上のコーヒーサーバーを弄っていた弥一も、幹人の弁舌に神妙な面持ちで耳を傾けていた。
「私の正義感は私自身の前に見えない壁を作っていた。それが私には苦痛で仕方無かったが……ある探偵と出会い、生き方が変わった。その探偵は、探偵なりの法に縛られながらも、自らの正義に対して自由な付き合い方をしていた。それが私には眩しく思えた。だから私はいまもこうして、探偵を続けている。恩人であるその探偵とは、価値観の違いで喧嘩別れしたのに、性懲りも無く、だ」
話がひと段落した頃合いを見計らい、弥一が応接スペースの四人にコーヒーを出す。
幹人はコーヒーを一口飲むと、斉藤親子に無理矢理な笑みを見せつけた。
「長々と申し訳ない。私が何を言いたかったのかというと――警察の法でそのド腐れストーカーを裁けないというのなら、探偵の法で裁いてやるまでだ、という話です」
「社長、随分とやる気じゃないですか」
「理不尽は許せない性質でな」
次に、幹人は真っ直ぐ、久美と目を合わせた。
「斉藤久美さん。さっきの交際云々もそうですが、あなたにはこれから、この件に対して必要な情報を我々に全て提供してもらうことになるでしょう。ストーカーが決定的な犯行に及び易い時間帯、その時の貴女の行動……とにかく、我々が知りたい情報の全てを。協力して頂けますね?」
「……はい」
「お母様も、宜しいですか?」
「ええ」
いまの話で信用を得られたのか、久美と由利の返答には迷いが無かった。
幹人は和音と共同で、斉藤親子から武器となる情報を可能な限り引き出していった。和音が上手く合いの手を入れたり、細やかな気遣いをしてくれたおかげで、ヒアリングは予想以上に順調な進み具合を見せている。まるで、杏樹と再び一緒に仕事をしているような気分だった。
最終的に、幹人と和音が簡単なおさらいをする。
「本格的な嫌がらせが始まったのはいまから三日前。手口は決してワンパターンではないが、一日一回以上、決まって夜の七時から深夜二時までの間に必ず行われる。そして犯人の正体については久美さんのお知り合いの中で候補が三人いる。容疑者がこれ以上増えないうちにこちらへお越し頂いたのは良い判断です」
幹人はふっと笑い、自分の髭を撫でながら言った。
「我々白猫探偵事務所は迅速な依頼解決をモットーにしております。そして幸いにも、うちにはこの事件に対してうってつけな切り札を隠し持っています」
「切り札?」
「普段は誰にも見せたくないのですがね。私の長話をご静聴頂いた礼として、特別に登場してもらいましょう」
幹人が「出てきなさい」と指示すると、出入り口の横の別室から、白猫の仮面を被った小柄な人物が現れる。体格や服装からして、久美と同年代の女の子である。というか、言うまでもなく、彼女は貴陽青葉だ。
「彼女は荒事の専門家でして。いまは訳あって顔は明かせないが、彼女が今夜、貴女方のご自宅を警備する最強の盾となる」
「本当に大丈夫なんですか?」
「彼女の戦闘能力は彩萌市最強と言っても過言ではない。心配は要らないでしょう」
これについては幹人の過大評価ではなく、実際に何人何十人と悪質な犯罪者を叩きのめして警察に身柄を献上した実績から来るものだ。
だからこそ、貴陽青葉は白猫探偵事務所における秘蔵のエースなのだ。
「さあ。無実の少女の平和にクソを垂れるクズ野郎を始末しに行くぞ」
「了解」
変声器によって変容した声で答え、青葉は片手でピースサインを作った。
●
張り込みは相談日の翌日、夜七時から始まった。
斉藤家は白が基調の一戸建てだ。正面から右側が正面玄関、左側が屋根つきの駐車場となっている。これだけ見ると、それなりに羽振りが良さそうな大黒柱が一家を支えているんだろうな、などと思ってしまう。
自分の実の親はどうだっただろうか。こんな家を買う甲斐性と金があるのなら、少なくとも自分を赤ちゃんポストに入れたりはしなかっただろう。
どうせ、どっかで野垂れ死んでるに違いない。
などという物思いに耽っていると、青葉が業務用に使っているスマホが振動した。久美からの電話だ。
「……もしもし」
『あ、すみません。定時連絡の時間が来ても電話が無かったもので……』
「申し訳ございません。丁度いま連絡を入れようかと思いまして」
『そうですか……それで、いまはどうですか?』
「怪しい動きをする通行人が見当たらない。いま私の仲間が三人の容疑者のうち、一番可能性の高い人物を追っている最中なので、その人物がここに近づいてくるようならすぐに連絡します。あと念の為、自室から出て廊下で待機してください」
『どうしてですか?』
「石を投げ込まれたとおっしゃっていたのを思い出しまして。今回も似たような手口を使用するなら、可能な限り部屋は空けておいた方が安全です」
『分かりました。よろしくお願いします』
「ええ。では、また」
青葉が通話を切ると、またぞろスマホが着信を報せる。今度は弥一からだ。
「もしもし」
『対象Aがそちらに向かっている。カメラの設置は万全か?』
「勿論」
『対象が行動を起こしたと同時に共同で奇襲する。しっかり準備しとけよ?』
「言われるまでもない」
『対象の到着まで距離二〇〇。これよりトランシーバーで連携する』
「了解」
『交信終了』
通話を切ると、青葉は斉藤家が所有するミニクーパーの陰から顔を覗かせ、次にフロントガラスの手前に置いたカメラと連動中の映像端末を確認する。
見えた。体格からして男。黒いジャンパーと黒いキャップを被った、見るからに怪しい風体の中肉中背。顔の下半分を白マスクで、上半分をサングラスで隠している。
青葉は久美にメールで対象を確認した旨を伝え、白猫の仮面を装着して、家の手前まで来た男の素振りを注意深く観察する。
男は周辺を忙しく見回すと、ジャンパーのポケットから黒光りする何かを取り出した。夜目が利く方なので、青葉にはその正体が判然としていた。
銃だ。本物か玩具か分からないけど、見た目はシグサヴエルP226。数ある自動拳銃の中でも信頼性が高いと言われるベストセラーだ。
今度は手っ取り早く、トランシーバーで弥一に呼びかける。
「こちら銀のスプーン。対象の右手に銃のようなものを確認。どうぞ」
『こちらからも見えている。対象が発砲した瞬間、俺が注意を引くから、その隙に取り押さえてくれ、どうぞ』
「了解。そっちも気をつけろ」
『ああ。――いくぞ』
男は取り出した銃を二階の窓に向ける。あそこは久美の部屋だ。
発砲。銃口から火花が散ると、轟音と共に、二階の窓ガラスに放射状のヒビが入る。
「おい」
弥一の控えめな呼びかけ。男の体が背後の弥一に向き直った。
青葉は可能な限り物音と気配を消し、車庫の壁とミニクーパーの間をするりと抜け、背後から銃を持った相手の手首を掴んで腰の後ろに回し、足を払って男をそのまま地面に引き倒した。
腕の関節を極めると、男は歪な悲鳴を上げ、銃を地面に取り落とした。
弥一が男の白マスクとグラサン、黒いキャップをはぎ取り、面貌を確認する。
「……おいおい、マジかよ」
「予想通り、大物が釣れたな」
青葉が嘆息するのと同じくして、斉藤家の面々が一斉に玄関から飛び出してきた。当然、久美も一緒だ。銃声に驚いて様子を見に来たのだろう。
地面に伏せる男の顔を見て、久美は息が止まったように唸る。
「……やっぱり、和仁君が……」
「久美っ……!」
和屋和仁が、憎々しそうに久美を血走った眼で見上げる。
「久美……どうして、こんな……こいつらは一体何なんだ!」
「白猫探偵事務所だ。初めまして。そして、こんばんは」
「白猫……だと?」
「どうやらご存知のようで」
青葉はちらりと、電話中の弥一を見遣った。
「この件については、たったいま警察に通報している。犯行の現場は隠しカメラで取り押さえた。何より、たったいま君は銃を発砲した。器物破損、銃刀法違反の現行犯だ。さあ、お縄を頂戴するまでの間、ちょっとお話でもしようじゃないか」
「離せッ……!」
「ごめん、無理」
和仁の腕をさらに強く極める。
「ぐあぁあぁああぁっ……!」
「和屋和仁。依頼者、斉藤久美とは中学時代からの友人。つい三か月前に告白したものの、他に好意を寄せている男性がいるという理由で交際を断られた。女にフラれた男がストーカーになるケースは山ほどあるが……」
青葉は地面に転がる銃を見て言った。
「今回はどうやら勝手が違うな。君はあの銃を何処で手に入れた?」
「誰が教えるか!」
「だったら警察でゲロしてもらおう。とにかく、君の恋路はここで終着駅だ」
「助けてくれ、久美!」
言うに事欠いて、加害者が被害者に助けを求め始めた。
「俺の彼女だろ!? 俺はこんなにお前が好きなのに、それをこんな――」
「ちょっと待て。いま何て言った?」
「お前らには関係無い! これは俺と久美の問題だ!」
「彼女って……何を言ってるの?」
久美が恐怖を隠そうともせずに言った。
「あたしは和仁君の彼女なんかじゃ……」
「認めない、俺は認めないぞ! よりにもよって……健の野郎なんかと!」
「とりあえず、近所迷惑だから黙っておけ」
電話を終えた弥一が嘆息混じりに言うと、通りすがりの人や、近くの家の窓から顔を覗かせる住民がずっとこちらを注視しているのに気付いた。和仁を取り押さえるのに集中していたので全く気付かなかった。
「おい坊主。俺は女が腐ったみたいな男が一番嫌いでな」
弥一が和仁の前で、いわゆるヤンキー座りをする。
「何がどうなっているのかはよく分からんが、そんなんじゃ肉食系ブサイクからも逃げられるぜ? 精々、素人童貞が関の山っつったところか?」
「そんなことより、何で和仁君が私と健が付き合ってるのを知ってるの?」
久美が耳を疑うような発言をする。
「私、白猫の人と家族にしか、健のことを言った覚えが無いんだけど……?」
「待て。そんな話、私は初耳だぞ」
「俺も知らんかった」
彼女も彼女の親も、ヒアリングの時はそんなことなんて一言も言ってなかった筈だ。単に言い忘れていたのか、或いは何か他の事情でもあったのか。
「探偵を雇ったんだよ!」
これまた予想の斜め上を行く返答だった。
「黒狛探偵社の連中に浮気調査を依頼したんだよ!」
「黒狛……だと?」
「しかも、浮気調査だぁ?」
ライバル結社の黒狛が一枚噛んでいるだけでも心臓に悪いのに、ありもしない浮気を彼らに調べさせた和仁の神経もかなりぶっ飛んでいる。
弥一は頭痛でも催したように頭を押さえた。
「えーっと……ちょい待ち? じゃあ何か? 黒狛の連中がこいつの犯罪行為の片棒を担いでいたってのか? 嘘だろ? 社長が認めるような連中が?」
「全てはこいつを警察に突き出した後、新渡戸さんにでも訊くとしよう」
青葉は平静を保ちつつ、玄関口で立ち尽くしていた斉藤家の面々に言った。
「この後警察が来て、皆様には簡単な事情聴取を受けていただくことになります。これからも慌ただしくなりますが、ここはどうかご了承いただきたい」
「え……あ、はい……」
「それから久美さん。ちょっと集合」
青葉は弥一に和仁の見張りを任せると、久美を少し離れた位置に呼び出し、小声で慎重に訊ねた。
「一応訊いておく。何で前田健との交際を和屋和仁に黙っていた?」
「だって、和仁君を振った直後だし、そんなタイミングで健と付き合い始めましたなんて彼にはとても言い辛いし。もし他の人が噂して、和仁君の耳に入ったらって思うと、ちょっといたたまれないっていうか……」
「なるほど。ほとぼりが冷めるまでは言えなかったのか」
想いを寄せていた人が自分を玉砕して、他の人と付き合い始めました。
たしかに、自分が和仁と同じ立場だったら耐えられるとは思わない。
「でも、何で和仁君がこんな……」
「それはこっちが知りたい。精々この話は青臭い程度で終わるかと思ったが、どうやら鉄錆のすえた匂いも漂ってきたな」
地に横たわる銃は街灯と月明かりの反射で鈍い光沢に彩られている。
いままで鼻についていた硝煙の香りは、いつの間にか消えていた。
●
和屋和仁はあえなく警察に連行され、斉藤家の面々、主に斉藤久美とその母親は家の中で刑事達から取り調べを受けていた。こんな夜中に大人数で押し掛けられて、被害者側の家族からすれば迷惑千万かもしれないが、実際はこの結末こそが一番に手っ取り早い。白猫側は大助かりだ。
警察連中の対応は弥一に任せ、青葉は先んじて現場から抜け出し、白猫の事務所に戻る為の近道を辿っていた。歩きながら、頭の中で事件のおさらいをして、その上で黒狛に対する疑問点の整理をしてみる。
まず、和仁の発言だ。彼は本気で自分が久美と交際しているつもりでいる。何があったのかは知らないが、自分が振られた事実を信じられず、久美との恋が成就したという前提でストーカー行為に及んでいる。彼は俗に言うヤンデレという奴かもしれないが、真実は定かではない。
そして何より、そのストーカー行為に黒狛が加担しているという点だ。いや、おそらく黒狛は間違った前提を突き付けられた上で和仁の『浮気調査』とやらの依頼を受けたのだろう。ちなみに、探偵業界ではこれを「ウーズル効果」という。前提が間違っていなければ、結果は使い物にならない。まさに、ついさっき起きた事態を指している。
でも、黒狛だって和仁の依頼に何かしらの違和感を感じなかった訳ではなかろう。白猫のライバルというだけあって、あそこにも優秀な探偵が揃っていると聞く。何より、社長の池谷杏樹がそこまで浅薄な探偵だとは思えない。
何か一つ、酸味が利いたスパイスが足りない印象だ。
「……誰かが裏で糸を引いている? でも、何の為に?」
呟いてみて、いまの自分がどれだけ頭の悪い推理をしているのかがよく分かった。勘の域を出ない推測を本気で信じようとしているからだ。
潰れかけのバーやかつて風俗店だった廃墟などが立ち並ぶ人気の無い通りの裏側に出て、青葉はふと足を止めた。
「……誰だ」
「おやおやぁ、随分と勘が良いねぇ」
背後の小柄な建物同士の間から、灰色のトレンチコートを着た長身の男がぬっと歩み出てきた。
男が甲高い猫撫で声を奏でる。
「会いたかったよ、貴陽青葉」
「何故私を知っている?」
「さあ、何でだろうねぇ」
青葉が振り返ると、男は懐に手を突っ込み、銀色の巨大なリボルバー拳銃を抜き出した。
彼は極めてゆっくりと青葉に照準を合わせ、
「まずは、お手並み拝見」
発砲。青葉が着ていたジャンパーの肩の布地が削り取られる。あと一瞬、横に逸れるのが遅かったら急所に直撃していた。
「お前……!」
「はぁあ!」
嬌声を上げ、さらに発砲。大気を震動させる銃声が立て続けに轟く。青葉は身を竦めつつ銃弾をかわし、手近な裏路地に隠れ、陰から顔を覗かせようとするが――顔の傍にあった建材が弾け飛んだ。これでは様子見も叶わない。
だったら大通りに飛び出すか? いや、駄目だ。あんなものを携帯している危険人物と人通りの多い中で戦闘行為に及ぶ訳にはいかない。
男の得物はS&W M500。連射するだけで持ち手が使い物にならなくなる程の反動を使い手に与える代わりに、世界最高峰の威力を持つ銃弾を放つと言われる化け物リボルバーだ。
あれを相手に生身で挑むのは単なる自殺行為だ。だからといって、懐のベレッタM92Fを抜いて応戦するのも気が進まない。
いや。もうこの時点で四の五の言ってはいられないか。
「くそ!」
青葉はジャンパーの内側に隠していたベレッタを抜き、建物の陰から銃口を突き出して応射する。狙いは足元だ。体に当てるのは何かと上手くない。
男は対岸の建物の陰に身を隠して嬌声を上げる。
「いやぁ、いいねぇ。そう来なくては面白くない」
「お前は誰だ!」
「この審査を合格したら教えてあげるよ」
「審査、だと?」
「うりゃああああああっ!」
男が再び発砲。青葉の足元に何発か当てると、何を考えているのか、リボルバーを懐に仕舞って建物の陰から身を躍らせ、今度は大型肉厚のコンバットナイフを腰の黒いホルスターから抜き払った。
あれは銃と同じS&W製の極厚七ミリブレード。刃は黒で柄はオリーブ色という渋めのカラーリングが施されたハードな仕様だ。過酷な長時間サバイバルにうってつけの一振りと言えるだろう。殺傷能力は言わずもがな、だ。
こうなるとこちらが使える手札は制限される。ある意味では銃を凌駕しかねない危険物をいまこのタイミングで持ち込んだということは、接近戦に挑めばこっちが撃ってこないと判断したからだろう。癪だが、彼の読みは的中していた。
青葉も仕方なく陰から出て、銃口をちらつかせたまま後退する。だが、男は銃口に全く怯まず、真っ直ぐこちらへ突っ込んできた。
間合いが詰まり、男が長い腕をムチのように振るう。ナイフの刃先が黒い軌跡を描き、青葉の急所を幾度となく強襲する。本来なら回避どころか視認すら難しい速さだが、青葉は持ち前の勘でどうにか男の連撃から逃れ続けていた。
やがて、ナイフの刃が青葉の肩を掠める。さっき削られた肩の布地を貫通し、裂けた皮膚から鮮血が飛び散った。
鋭い痛みに青葉の眉が険しく寄せられる。斬撃を受けたのは久しぶりだ。
強い。こいつ、ただの戦闘狂じゃない!
「ぐっ……」
「ぁああぁぁあああぁッ!」
長い舌を覗かせ、男が逆手に持ち替えたナイフを真下に振り下ろす。青葉の額に、縦一文字の小さな切れ込みが入る。これもあと一歩反応が遅れていたら危なかった。
仕方ない。こうなったら銃撃で四肢を封じるしか――
「待てやゴルァ!」
二人の横合いから、黒いジャケットを着た、青葉と同世代くらいの少年が全力で走ってくるのが見えた。
あれは葉群紫月だ。何故彼がこんなところに?
「葉群君、来ちゃ駄目だ!」
「何だ?」
「ぉおおおおおおおおおおおおっ!」
雄叫びを上げた彼がジャケットの懐から抜いたのは、柄に籐が巻かれた十手だった。
紫月は一足飛びに男との間合いを詰め、
「せいっ!」
十手を一閃させ、男の横っ面を殴り飛ばし、よろめいたところを前蹴りで追撃する。
男が離れると、紫月は青葉の前に立って十手を前方に構える。
「貴陽さん、大丈夫?」
「何とか……それより、何で君がここに?」
「お前ぇ……一体何者だ?」
男は殴られた顔をさすり、余った片手でナイフをくるくると弄ぶ。
「いまの一撃、そのスピード……お前、ただの子供じゃないな?」
「だったら?」
「喜ばしい限りだ――と、言いたいところだが」
耳を澄ませなければ判然としないが、遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。さっきの銃声、もしくはいまの戦闘を近くにいた誰かが通報したのだろう。
「どうやら舞台が悪かったらしい。出直してくるとしよう」
「勝手に出てきておいてその言い様は何だ?」
肩の傷を押さえつつ、青葉は男を睨みつける。
「言え。お前は一体何なんだ?」
「また近いうちに会える。ああ、それから。審査は合格だ。これで確信が持てた」
「待て!」
青葉の制止も受けず、男は豹並みの素早さでこの場から走り去った。何から何まで訳の分からない男である。
「逃げられた……くそ!」
「落ち着けって。逃げてくれるならその方がいい」
紫月がふらつく青葉の体を支えつつ言った。
「それより、早く応急手当をしないと」
「私のことは放っておけ」
「ふざけるな」
彼の声音は刺々しかった。
「放り捨てるのも捨てられるのも嫌なんだろ? 俺だって、嫌なんだ」
「……そうだな。すまない」
こくりと頷き、青葉は適当な廃墟を顎で指して、そこへ隠れるように促した。警察がここへ来てから帰ってくれるまでの時間稼ぎに使えそうだからだ。
入ってみると、そこは潰れてから手つかずとなっていたスナックの跡地だった。カウンターや奥の酒棚などはそのまま残っており、ボックス席と思われるソファーの囲いは埃を被って擦り切れていた。
二人はカウンターの陰に身を潜め、ようやく緊張を全て吐き出した。
「貴陽さん。肩の傷は?」
「いま止血する」
青葉はジャケットとブラウスを脱いで肩を露出させると、ジャケットの内ポケットから包帯と止血パッドを取り出し、それらを駆使して手早く止血を完了する。
紫月がさっきからずっとこちらを凝視している。どうしたというのだろう?
「葉群君?」
「いや……男の前で平気で脱ぐんだなーって」
「非常時だからな。羞恥心なんて犬にでも喰わせておくさ」
青葉の情操教育を担当している西井和音でさえ男勝りな性格だ。ある意味実家みたいな職場である白猫探偵社に、青葉を思春期の女子として扱ってくれるような人物は誰一人として存在しない。
「そういう君も、平気で女の子の半裸を目の前で凝視するんだな」
「見なきゃ損だろ」
「つくづく変な奴だ」
ブラウスを着直しつつ、青葉は無感動に訊ねた。
「……さて、葉群君。何で君はあんなところに?」
「バイトの帰りに銃声が聞こえたんだ。だから行ってみたら、君とあの野郎がいて……奴は一体何なんだ?」
「私にも分からん。ただの通り魔にしては強すぎるしな。それにしても」
青葉は紫月の懐からはみ出た十手の柄を見遣る。
「君はいつもそんなものを持ち歩いているのか」
「護身用にね。俺、昔っからチンピラに絡まれ易いんだ」
「とてもそんなものが必要とは思えないな。体術の腕は私と互角だろう」
「さっきみたいな奴が俺の前に現れないとも限らんだろ」
「やっぱり変な奴だ」
青葉は嘆息すると、スマホを開き、白猫の仲間にメールを送った。
「しばらくやり過ごしたら、近くの大通りに出て知り合いの車に拾ってもらう。見送りは結構だ」
「いいのか? 一人だとまた……」
「警察がここに来るんなら、去ってからもしばらくの間は大丈夫ってことだ。それに、ああいうのが出るのは一日一度っきりだ。二度目はさすがに有り得ない」
「そりゃそうか」
パトカーのサイレンが近づいてくる。そろそろ警官達がここら一帯を調べ始める頃合いだ。二人はしばらく無言で耳を澄まし、物音が遠ざかるまで微動だにしなかった。その間だけ、そこはかとなく奇妙な気まずさを覚えたのは自分だけだろうか。
ようやく外から人気が無くなったのを悟ると、青葉はカウンターの陰から顔を覗かせ、入り口の様子を窺い見る。
「……君は先に行ってくれ。私はしばらく休んでいく」
「本当に大丈夫なのか? 何なら家まで送っていくけど」
「余程の相手じゃなきゃ自衛ぐらい造作も無い」
「……分かった。じゃあ、またね」
文句は山ほどあったろうに、紫月は不承不承頷いて屋外に出た。
彼の足音が遠ざかる。言う通りにしてくれるだけ、彼は普通の男よりかは物分かりが良さそうだ。
青葉はいつものオルゴールを取り出し、ぜんまいを巻いて、指をぱっと離す。
大した音量でもないのに、『荒城の月』が廃墟のスナック全体に反響する。
春高楼の花の宴 めぐる杯 かげさして
千代の松が枝わけいでし 昔の光いまいずこ
ここもかつては宴が開かれ、仕事帰りの酔っ払い達が賑やかに杯を回していたのだろう。素面では語れない話に大輪の花を咲かせ、スナックのママが夜の蝶となり花に寄り添う。
でも、いつからこんなに廃れたのだろう。
光を失ったのは、いつの話だろう?
そもそも、開いている時にここへ訪れたことが無いから分かる筈も無い。
「やっぱり、一緒に帰れば良かったな」
いまさらになって、紫月を先に送り出したことを後悔した。
●
「紫月君、さっきからなにジロジロ見てんの?」
「…………」
黒狛探偵社の事務机から、紫月は業務用プリンターで書類を印刷していた玲を凝視していた。
「ちょっとぉ、穴が空く程見ても私からは何も出ないよ?」
「玲さんのお肌って、十代半ばの女子高生と遜色無いくらい綺麗ですよね」
「急に何? もしかして私、褒められてる?」
「ええ。褒めてます。絶賛してます」
「やーだー、超うれしー」
玲が小走りで寄り、紫月を背後から抱きすくめる。思った以上に良い匂いがするし、背中に当たっている胸の感触も最高だ。
これが青葉なら、幸せ過ぎて泣いちゃいそうになるのではなかろうか。
「ていうか女子高生のお肌って、もしかして彼女さんでも出来たの?」
「いえ。昨晩、ちょっとしたハプニングがありまして」
「ラッキースケベ?」
「そんなとこっす」
「玲。仕事中にうちの息子で遊ばないでくれる?」
轟を伴って、外回りから戻ってきた杏樹が渋い顔をする。
「それより、不破さんの報告書は?」
「もう出来てますよー」
玲がたったいま印刷を終えた紙束を杏樹に手渡すと、杏樹の机の上に鎮座する固定電話が鳴り響く。
杏樹は小走りで自分の机に向かい、受話器を手に取って通話に応じる。
「もしもし? ……ああ、新渡戸さん?」
相手はいつも黒狛と白猫に便宜を図っている刑事だが、紫月は彼と直接顔を合わせたことが一度も無い。何せ、紫月の存在は警察にも秘密なのだから。
「はあ……え? 何で新渡戸さんがそれを? ええ……何ですって?」
杏樹の表情が突如として曇る。
「うちの報告書が!? そんな……まさか私達、利用されていたんですか? はい……分かりました。後日伺いますので……はい……はい……では」
受話器を置くと、杏樹が両手で頭を覆って呻く。
「嘘でしょ……? こんなことってある?」
「どうしたんすか?」
「私達、嵌められたかも」
「嵌められた?」
「和屋和仁君から受けた浮気調査の報告書なんだけど――」
杏樹は和屋和仁がつい昨晩に逮捕されたという話をして、その詳細や彼が使用した道具についても語った。
その中に、こちらが彼に渡した浮気調査の報告書が混じっていたのだ。
「うちで作った報告書の情報を使ってストーカー行為だぁ? 何じゃそりゃ!?」
「浮気調査ってのも嘘っぱちか」
ただ一人、轟は落ち着いていた。
「和屋和仁と斉藤久美は元々付き合っていなかったから、そもそも浮気なんてしようが無い。本当の悪者はあの坊主だったって話か」
「やっぱり、和屋君の背景は調べておくべきだったかもしれない」
玲がさっきと打って変わり、深刻な口調で紫月に訊ねる。
「紫月君が言ってたのはこういうだったの? 何で早く言わなかったの?」
「玲さんだって触らぬ神に祟り無しって言ってたじゃないですか。頼まれた調査以外のことをすれば、うちの立場だって危うかったかもしれないし」
「紫月君の言う通りね」
切り替えの早さを発揮して、杏樹が話の続きをする。
「新渡戸さんの話だと、和屋君のお父さんは大層彼に甘いらしいの。小学生時代なんか、彼を苛めていたクラスメートの家族が全員入水自殺したなんて話もあるくらいよ。あたし達だって、あと一歩彼の背景に踏み込んでいたらどうなっていたか……」
「暴力団と一枚噛んでいたってのは本当らしいな」
紫月が親指の爪を噛む。
「で、俺達に対して、それで何かお咎めはあるんですか?」
「新渡戸さんは仕方ないって言ってくれたけど、問題なのは幹人よ。相手の神輿にまんまと乗せられた私達は探偵の恥だって。だから、これを機に店を畳めって」
「そんなのに従う必要は無いですよ」
「そうだな。しかしこうなると、危ないのはむしろ斉藤久美と白猫の方だ」
轟が悩ましそうな面持ちで言った。
「示談なり司法取引なり……何でもいい。親父殿はガキの釈放に全力を尽くすだろう。でも、いまの話を信じるなら、息子の恨みを買った白猫と、息子を振った斉藤久美が何らかの制裁を受ける可能性は充分に高い」
「そうでなくても、こうなるように仕組んだ愉快犯がいる可能性もある」
「は?」
いまの発言に全員が耳を疑い、揃いも揃って紫月を注視する。
多少の気まずさも覚えつつ、紫月は毅然と自身の考えを語る。
「最初に和屋和仁がここへ訪れた時、彼は知り合いの紹介でここを勧められたって言ってました。陰謀論を成立させたいなら、その知り合いとやらが重要参考人としてこの件に関与していると考えた方が自然です」
「確証はあるの?」
「勘の域は出ない。でも、このまま黙って放置しておくのも癪な奴です。和屋先輩の持ち物には銃も含まれていたんでしょう? もしかしたら、そいつから何らかの理由で銃を与えられた可能性も充分に有り得ます」
「何にせよ、いまの段階では下手に動けないわね」
杏樹が再び全員の顔を見回して告げる。
「いまの紫月君の話を新渡戸さんに伝えて、和屋君の取り調べの時に使ってもらえないかどうかを掛け合ってみましょう。彼の口から新たな情報が出てくるまで、あなた達は通常業務を続けていて頂戴。今後の行動方針はそれから決めるわ」
『了解』
その頃、問題の新渡戸は白猫探偵事務所のオフィスに訪れていた。いま、応接間で幹人と今回の厄介事について話し合っている最中である。ちなみに弥一と和音は別の仕事で出払っているので、いまこの場にいるのは新渡戸と幹人、それから青葉のみである。
「――それにしても、お前らしくもねぇ」
「何がだね?」
「元妻相手に店を畳めとか、もうちょっと言い方ってのがあんだろ」
「相手は商売仇だ。消えてくれるなら喜ばしいことこの上無い」
幹人が手元のコーヒーカップを持ち上げる。
「それより、青葉」
呼ばれて、事務机でぼんやりしていた青葉が幹人を見遣る。
「何か?」
「お前、昨日の傷はもう大丈夫なのか?」
「思ったより深くなかった。相手のナイフも良く研がれていたみたいだし、傷口ならすぐに引っ付く筈」
「今回の件と関係があるにせよ無いにせよ、そいつを見逃す訳にいかないな」
新渡戸が懐から年季の入ったメモ帳を取り出す。
「青葉ちゃん。もう一度訊くが、襲ってきた奴は四十前半くらいの長身痩躯男性、銃はS&WのM500で間違い無いんだな?」
「うん。何か心当たりでも?」
「一応……な」
新渡戸がぼさぼさの頭をくしゃくしゃと片手で掻く。
「入間宰三(いるまさいぞう)」
「何だって?」
「入間宰三。俺らの現場では『生命遊戯』と呼ばれた事件の首謀者だ。あれが刑事時代の幹人にとって最後の事件だった」
「新渡戸、やめろ」
幹人がこれまでにないくらい険しい目で新渡戸を射抜く。
「青葉を襲った奴が入間であろうとなかろうと、その事件の話はもう思い出したくもない」
「意固地になるのは勝手だけどな。まあ、いいだろう」
新渡戸が腰を鈍重に上げる。
「お前らがいま考えるべきは二つ。一つはお前ら白猫に差し迫った身の危険、もう一つは彩萌市内で野放しになっている襲撃犯だ。相手が和屋絡みだと、この町全ての侠客を敵に回す羽目になるかもな」
「黒狛も白猫も、互いに面倒な相手をする羽目になるとはな」
「同情するがね――失礼」
新渡戸が携帯電話の着信に応じ、何かを話し始めた。会話の内容から、十中八九彼の部下からだろう。手持ち無沙汰にしていた青葉は、とりあえず愛銃であるベレッタの分解整備をして時間を潰すことにした。
「社長」
青葉は整備の手を止めないまま訊ねた。
「社長は覚えてる? 私が社長に拾われた時のことを」
「何だ、いきなり」
「何が狂おしかったのか、私は預けられた先々で問題行動を起こしていた。でも社長はそんな私の里親になった。よりにもよって、重大な精神疾患を抱えていた、この私を」
「…………」
「その入間とかいう奴は、当時の私よりも危険な奴なのか?」
「奴とお前とでは危険の次元が違う」
幹人はそっぽを向いて答えた。
「それに、過去は結局過去で、大事なのは現在だ。いまのお前は誰よりも強くて優しい探偵になった。私がかつて目指そうとして立てなかった境地にお前はいま立っている。だから、もう二度とそんな寝言は口にするな。これは社長命令だ。一生遵守しろ」
「……了解」
「――ああ、分かった、すぐ署に向かう」
やがて通話が終わり、新渡戸がやれやれと首を振る。
「たったいま、良い意味で悪いニュースと、本当の意味で悪いニュースが入った。どっちから先に聞きたい?」
「良い方から」
「和屋和仁の親父さんの死体が彼のオフィス内で発見された」
「懸案事項が一つ減ったな。これで暴力団から狙われずに済む。死因は?」
「側頭部に銃弾が一発。勿論即死だ。あと、執務机に仏さん直筆の書き置きがあったそうだ。自分の息子が犯した度重なる愚行に対して自らの命で責任を取る、みたいな内容だったらしい」
ということは、先のストーカー以外にも和仁には何かしらの前科があるようだ。それが何かを追求する気は無いが、そうなると彼に目を付けられた黒狛はなおさら不憫だ。さすがに同情を禁じ得ない。
「それと、自殺に使用された銃はスタームルガー・ブラックホーク。発見時にシリンダーが空っぽだったことから、発砲直前までの残弾数は一発だったと思われる。男らしい最期だよ」
どうやら親として愚かでも、曲がりなりにも男としての仁義は持ち合わせていたらしい。とはいえ、この責任の取り方が決して正解という訳ではない。
ただ、何にせよ、これで町全体を敵に回さずに済みそうだ。
「そうか。で、本当の意味で悪いニュースは?」
「それなんだが……」
新渡戸は何故か躊躇うような仕草を見せるが――隠し果せる訳も無いし、口ごもっているだけ時間の無駄と察したのか、慎重に口を開いた。
「いま話題の依頼者、斉藤久美の彼氏――前田健の遺体が発見された」
●
和屋和仁から押収した黒狛特製の報告書に掲載された写真の中で、前田健と斉藤久美は仲睦まじく身を寄せ合ったりしていたが、その時使われた場所が彼の最期を飾る処刑台となった。
商店街を抜けた先の住宅街にある、深緑が密集した共同公園の小さな広場が今回の事件現場なのだが、問題なのは場所ではなく、被害者・前田健の死に様だった。
まず、両の目玉が後頭部の頭蓋ごと綺麗さっぱり消し飛んで、頭に丸い風穴が二つ開けられていた。おそらく、銃弾か何かに貫通されたのだろう。しかも唇が削ぎ落とされ、第二関節で斬り落とされた両手の指が全て喉の奥まで突っ込まれている。さらに下半身は裸で、股間からは陰茎が根本から切断されて消え失せている。原型を留めたまま近くで見つかれば御の字だが、運が悪ければ彼のイチモツは烏のエサか。
これは数多くの死体と対面してきた新渡戸からしても、吐き気を禁じ得ない様相だった。
「くそ……急いで飛んでくるんじゃなかったぜ」
「いましがた臨場した検視官によると、マル害はおそらく生きたまま解体されたのではないかとのことです」
隣にいた若い巡査が、発見当初の様子を簡潔に述べてくれた。
「第一発見者はマル害と同じ学校に通う高校一年生の男子生徒です。帰宅中にここへ寄り道していたところ、この死体を目撃したとか」
「そいつはいま何処に?」
「あちらに」
巡査が指したのは、公園の入り口手前に止まっているパトカーの一台だった。後部座席で制服姿の少年が制服警官と何かを話している。
新渡戸は早速、そのパトカーに近寄り、窓を開けてもらった。
「よう、少年。君、第一発見者なんだってな」
「貴方は?」
「俺は彩萌警察署の新渡戸ってモンだ。お前さんの名前は?」
「……葉群、紫月です」
変わった名前だな。それに、どことなく青葉と雰囲気が似ている。
「通報したのもお前さんか。どうだ? 落ち着いたか?」
「ええ、まあ」
「そうか。一応すぐには帰すつもりだから、もうちょっとだけ話を聞かせてくれや」
「僕を疑ってるんですか?」
「まさか。これはあくまで目算だが、仏さんの血の乾き具合がそこまで進行していない。ってぇことはあの少年が殺されたのは本当についさっきだ。お前さんの服には返り血一つ跳ねていないし、お前さんはシロで間違いはない」
「そのような犯行が可能な所持品も一切持ち合わせて無かったですし」
いままで事情聴取をしていた制服警官も新渡戸の意見に同調する。
「新渡戸巡査長、あとはまた私が」
「おう。任せたぜ。――あ、そうだ」
新渡戸はたったいま思い出したことを紫月に告げる。
「帰り道はマジで気ィつけろや。最近、おかしな奴がここらへんをちょろちょろしてる」
「……肝に銘じておきます」
「良い心がけだ」
新渡戸は紫月に背を向け、再び現場に向けて歩み寄る。あと少しで死体が運び込まれてしまうので、いまのうちにこの現状の空気を可能な限り覚えておく必要がありそうだ。
再び前田健の死体を見下ろしていると、新渡戸の脳裏にとある映像が過った。
写真だ。黒狛の調査報告書に掲載されていた、あの写真。
あの中で、前田健は斉藤久美と両手の指を絡めていた。がぶりつくようなキスもしていたし、お互いを長い間見つめ合ったりもしていた。夜間の写真では、丁度ここの地面で久美は健の下腹部の上に跨って腰を振り――
「そういうことかよ」
皮肉の利いた惨殺手段――これはあの、『生命遊戯』の続きだ。
彩萌市の犯罪史において史上最悪の様相を呈したあの事件が、十数年の時を経てこの町に舞い戻ってきた。
「入間……宰三……!」
我知らず、新渡戸は両手の拳を固く握り込んでいた。
●
君の全てが好きだった、という青臭い告白は、たった一言で無惨に砕け散った。
季節外れの羽虫が惹かれて集う街路灯のように、俺にとって君は眩しい人だった。生まれからして異端な俺が惹かれたのも、君が笑って優しく受け入れてくれたからだ。
でも、それはあくまで、一人の友人として、だ。
彼女には他に好きな人がいる。それだけの陳腐な理由で、俺は容易く玉砕した。
灯りを失ったように、失明したように、目の前が暗い。
「何か、辛いことでもあったかね?」
公園のベンチで項垂れていた俺に、目の前の男が楽しげに訊ねてくる。
男の背は高い。灰色のトレンチコートに包まれた体は一見細いようで、どことなく頑強に見えなくもない。背骨に超合金でも採用しているのではないかというくらい背筋はしっかりと伸びているが、反比例するかのように顔は痩せこけている。
頭髪は黒で、金のメッシュが細く垂れている。闇の中に差した一筋の光明みたいに。
「少年。黙っていては、何の解決にもなりはしないよ?」
「放っておいてくれ。こちとら好きな子に振られて傷心中なんだよ」
「青いねぇ」
男は何でも無いような感想を呟く。だが、それだけでは無かったようだ。
「でも、一回振られたくらいで諦めるのかい?」
「諦めきれる訳が無いだろ……!」
俺は声を押し殺すように怒鳴った。
「俺にとってあの子は希望だったんだ……あの子は周囲から避けられていた俺を迎え入れてくれた。俺はあの子がいなきゃ、どうなっていたかなんて分からない……この先も、ずっとそうだ」
「だったら受け入れられないだろうなぁ、振られたという事実を」
「ああ、受け入れられるか……!」
「その子は君の手の中にあってしかるべし。そう思っている訳だ」
「……当たり前だ。久美は俺の女だ」
「他に好きな男でもいたら大変だよなぁ」
俺は思い当たる節を一瞬で思い出した。
「もしそんなのが本当にいたとしたら、君にとっては大問題な訳だ」
「もしそうなら、俺はその野郎も久美も許せない……絶対ぶっ殺してやる!」
「よしよし。だったら、おじさんがいまから良いところを紹介しよう」
男は両手を広げて意気揚々と告げた。
「世の中には浮気調査やストーカー撃退、人探しなんかを請け負う特殊な業者が存在する。そう――探偵だ」
「あんたがその探偵だってのか?」
「いいや? 俺は探偵ではないが……この町で良い探偵社を一つだけ知っている」
胡散臭さしか漂わないその男は、俺の耳元に唇を寄せ、囁くようにこう言った。
後にして思えば、陳腐な言い回しだが――それはまさしく、悪魔の囁きだったのだろう。
「黒狛探偵社。少数精鋭の実力派集団だ」
これまでが、和屋和仁と入間宰三の第一接点だった。
いまにして思えば、闇に差した一筋の光明は、さらなる暗渠へ続く道標だったのかもしれない。現に、和仁はこうして牢屋の薄闇に包まれて一人蹲っている。
「俺は……振られたのか」
いまさらになって、現実を容認する。
「俺は……っ……こんな筈じゃ……無かったのにッ……!」
久美への報復の為にと本物の拳銃を渡された段階で引き返しておくべきだった。入間が自分と出会ったのは本当に偶然のようだが、それから後は全て必然だった。
奴は舞台役者であり、一種の脚本家だ。
人様の人生を液晶画面上の文章みたいに弄ぶ、人の姿をした正真正銘の悪魔だ。
「出ろ。取り調べの時間だ」
留置係の警官が牢屋の鍵を開け、無愛想に告げてくる。
「……はい」
和仁は抵抗するどころか、入間への報復を考え始めていた。
俺を言葉巧みに誘導してこんな真似をさせた分のツケはきっちり支払ってもらおう。恥はもうとっくに捨てている。使えるものは最大限活用するまでだ。
和仁は立ち上がると、迷いの無い足取りで留置係の誘導に従った
●
「いやー、参りましたよ」
警察からの簡単な取り調べを終え、紫月は何事も無かったかのように黒狛探偵社に帰ってきた。本当は例のカップルがいちゃついていた場所に行けば何らかのインスピレーションを得られると思っていたのだが、まさか問題のカップルの片割れがあんな状態で仏になっていたとは夢にも思わなかった。
用心の為、敢えて銃と十手を自らの事務机に仕舞っておいたのは正解だった。
「和屋和仁は逮捕され、前田健は惨殺された。あの三角関係の登場人物で無事なのは斉藤久美ただ一人。つまり、次に誰かが憂き目を見るとしたら――」
「やっぱり、斉藤さんね」
杏樹が腕を組みつつ頷く。
「さっきあなたが外出している間、新渡戸さんが電話をくれてね。残念ながら、紫月君の勘、大当たりよ」
「というと?」
「何があったか知らないけど、いままで取り調べでも容疑を否認していた和屋君が急に罪を認めて自供したそうよ。彼の供述によると、自分にうちを紹介した男の名は、入間宰三。十何年か前に猟奇殺人で逮捕されたは良いけど、彼を乗せた護送車が事故で大破して、それ以降消息が掴めなくなっていたそうよ」
「どういう経緯でそいつが和屋と接触したのか――いや、そんなことより」
その入間なる男は、いまもこの町の何処かに潜伏している。
「早く斉藤先輩を保護しないと」
「だからさっき、東屋君と玲を彼女のご自宅に向かわせた。紫月君とは入れ違いね」
本来なら浮気調査で得た彼女の情報をこういう形で使用するのはNGだが、状況は既に一刻を争っている。いまは白だ黒だと言うより、彼女の安全を最優先しなければならない。
「間に合えば良いけど……」
杏樹の呟きは、もはや祈りに近かった。
●
さっきから何度発信しても健の携帯に繋がらないので、とりあえず先に共同公園へ行ってみたら、数台のパトカーと救急車が無機質な赤色灯を光らせてスクラムを組んでいた。遠巻きから青いビニールシートや警戒線も見えたし、あそこで何らかの事件が起きたというのだけは何となく分かる。
だったら健は何でこちらに連絡を寄越してくれないんだろう?
もしかして偶然あの場にいて、何かの事件に巻き込まれて、あとからやってきた警察から事情聴取でも受けているんだろうか。だとしたら、たしかにこちらに連絡している余裕は無いのかもしれない。
久美は一旦自宅への帰路を辿った。陽が落ちるのも早くなったし、暗い中で女子一人というのもあまり好ましくは無い。
ぼんやり歩いていると、正面に灰色のトレンチコートを着た細身の男性が見えた。彼は歩きもしなければ退がりもせず、ただひたすら街灯の下で突っ立っている。
ああいう手合いは無視だ。大きく右に逸れ、彼の横を通り過ぎる。
「斉藤久美だね?」
「っ!」
思わぬ問いかけに、久美がびくっと足を止めて振り返る。
「知ってるよぉ? 君のことは、よーく知ってる。何せ、和屋君が大枚をはたいてでも追っていた子だからねぇえ?」
「な……何ですか? 何で……私と和仁君の名前を……?」
「当然知ってるさ。何せ、あの少年に探偵の利用を勧めたのはこの俺だ」
何を言っているのか分からない。いや、分かりたくも無い。
久美が耳を塞ぎたい気分のまま後ずさると、男は懐から何らかの紙束を出して、彼女の足元に投げ捨てた。
地面に撒かれた書面に掲載された写真を見て、久美の瞼が限界まで開かれる。
「こいつぁ和仁君が持っていた調査報告書の複製だよ。いやぁ、良い御身分さ。人気の無い公園の小さな広場で青姦に勤しむ高校二年生の若き男女。君も見かけによらず淫乱な雌豚って訳だ」
「いやぁああっ!」
羞恥心と怒りと屈辱から悲鳴を上げ、久美は地面の書類を全てかき集めて胸にかき抱いた。
「いいねぇ、いいねぇ、その悲鳴! じゃあ、もう一つお土産だ。喜んでくれるかなぁ?」
けらけら笑う男が続いて取り出したのは、赤黒く汚れた生々しい何かだった。形は判然としないが、よく見れば何かの細い肉塊に見えなくもない。
男は肉塊をべちゃりと地面に投げつけると、その正体を楽しそうに明かす。
「感動のゴタイメーン! そいつは君がいま抱いてる報告書の写真の中で、君の穴に突っ込まれていた彼氏君のイチモツでーす!」
理解が全く追いつかない。彼の言葉が言語として認識されない。その意味を咀嚼しようとしても、知能の顎が全く動かない。
ついには言葉を発する舌まで硬直する。何も喋れない。
「んー? どうしたのかな? ショックを与えすぎてフリーズしちゃったかな? 俺はスーファミ世代だからねぇ、ちょっとやそっとじゃ壊れない自信があるんだけど……君らの世代はどうやらこういうショックに弱いらしいねぇ?」
元から壊れている奴に言われたくない――というような簡単過ぎる挑発ですら浮かばない。
「でもさぁ、気持ちはよく分かるよ? だって、彼氏君が死んじゃったんだもん」
「死んだ……?」
ようやく喉から言葉が漏れる。言語野が回復しつつあるのだ。
「死んだ……健が?」
「そうだよぉ? 俺が、殺したの」
男があっさりと自らの犯行を認めた。でも、ああそうなの? などと簡単に納得するような思考回路を、少なくとも常人たる久美は持ち合わせていなかった。
男が愉悦を隠そうともせずに語る。
「最初は手の指を全て斬り落としてやった。いい悲鳴だったよ。で、お次はそこに転がってるお×ん×ん。そしたら白目を剥いて黙り込んじゃったんで、とりあえずおしおきとして唇をナイフでさくっと切り落として通りすがりの猫の餌にしてやった。明太子みたいな味がしたんだろうなぁ。そこからはさすがに無反応だったんで、最初に斬った指はお口にぶち込んで、最後は――」
彼は懐から銀色の大きなリボルバー拳銃をこれみよがしに抜き出した。
「こいつで両目を、ドーン!」
「っ!」
ドーン! のあたりで、久美はぶるっと身を震わせた。単なる脊椎反射だ。
「きゃはははははははっ! 気持ちィィィィッ! リア充爆発させんのマジたのピィィィィ! 痛快過ぎてお腹いたぁああああああああああい!」
「嘘だ!」
久美は男の大爆笑をかき消すように叫ぶ。
「全部嘘だ! そんなのある訳無いじゃん! 嘘だって言ってよ!」
「ふひゃははは! むーりー! 本当のことだから、ムーリー!」
「黙れ!」
「そうそう。黙っておくのが吉だぜ。近所迷惑だしな」
二人の叫び声に割り込んだ冷静な声音。いつの間にか、男の背後に、これまた見覚えの無い大柄な男が佇んでいた。
口の周りの無精髭と小さい目。茶色い革のジャケットを着た恰幅の良い体型。彼は肩からストラップで吊り下げているアサルトライフルの銃口を男に向ける。
男は途端に声のボリュームを落として訊ねた。
「誰だ、お前さんは」
「黒狛探偵事務所の東屋轟ってモンだ」
「くろ……こま?」
久美は耳を疑った。
黒狛探偵事務所。久美にとっては諸悪の根源である会社の構成員が、どうしていまさらこの場面で現れたのだろうか。
轟はさらに驚くべきことを言って退けた。
「斉藤久美さん。うちの社長の命で、俺はあんたを保護しに来た」
「いまさらどの口が言っているのかね」
男は久美の言いたいことをそのまま代弁した。
「お嬢さんを悲劇の舞台に引きずり込んだ連中が言うに事欠いてナイト気取りかね? 虫が良すぎるにも程があるだろうに」
「そもそもてめぇがいなけりゃこんな騒ぎにはなってなかった気がするよ。しかし、まさかこんなところで大物有名人とご対面するとは。いまでもちょっと驚いてる」
「お前さんが俺の何を知ってる?」
「知ってる奴は知ってるさ。入間宰三」
「ほう」
入間なる男が小さく唸る。そこはかとなく楽しそうだ。
「それで? お前さんは俺をどうする気だ?」
「記憶力がねぇのか、てめぇは。用があんのはお前じゃなくて、そっちのお嬢さんだ。もっとも、俺の仕事を邪魔するつもりなら、お前から先に始末してもいい」
「やれるのかな、お前さんに」
入間は腰から刃が黒いコンバットナイフの鞘を払った。
「たしか黒狛は表向きの噂とは裏腹に荒事のスペシャリストが揃っているって話だが、そいつが本当かどうか、丁度いいからここで試してみよう」
「来いや、サイコ野郎」
轟が片手の指を招くように曲げると、入間は地を蹴り、疾風のような勢いで相手の間合いに侵入した。
入間のナイフが、盾として突き出された轟のアサルトライフルを貫通する。これで轟は戦闘力を失った――かのように思われた。
「あばよ」
轟はにやりと笑うと、いつの間にやら空いた片手に持っていたスプレー缶みたいな物体を地面に放った。
すると、缶を中心に、激しい閃光と金属音が爆発した。
元より、轟には入間と戦う気が全く無かった。斉藤久美さえ回収出来れば、後は近くの大通りに待機させた黒狛の車に彼女を乗せてゲームエンドだ。
閃光手榴弾で入間の足止めには成功した。轟は久美を抱えて、騒然となり始めていた夜の住宅街を殺される寸前みたいな思いで走っていた。
自衛隊の訓練マラソンがピクニックに思える。後から追ってくるであろう入間宰三という男が、あの程度でこちらの逃亡を見逃してくれるとは思わないからだ。
さっきの接触で奴の力は把握した。あの様子なら、すぐ追いついてくる。
「放して!」
久美が泣きながら喚き立てる。
「あんた達のせいで……全部、あんた達のせいでこうなったんだ!」
「説教ならうちの事務所でたっぷり訊いてやる。それよりいまは――」
背後から突然の銃声。がくんと脚から力が抜け、轟は飛ぶようにして前に倒れた。腕からは久美の体が放物線を描いて放り出される。
倒れてすぐ、轟は異常が起きていると思しき右脚の状態を確認する。
ふくらはぎに大きな丸い穴が空き、血が泉のように湧いている。これでしばらくの間、この右脚は使い物にならないだろう。
「おやおやぁ、駄目じゃないか」
何事も無かったかのように、後ろから入間が歩み寄ってくる。
「俺の足を止めたきゃ、いまみたいに脚を撃ち抜かんと足りないってば」
「くそ……」
「お? 見た目通りタフだねぇ」
入間は右手のリボルバーをちらつかせながら言った。
「こいつに使われてる弾頭は俺オリジナルのフルメタルジャケットだ。破壊力を捨て、貫通力や飛距離を極限まで高めてある。もし通常の弾頭なら、あんたの脚は千切れ飛んでいたかもしれんなぁ」
「何を気持ちよさそうにペラペラと……」
「あんまり人と喋る機会が無くてねぇ。こう見えて俺、殺人鬼だし」
どう見たってお前は殺人鬼だろ。とは思ったが、口にする気力はさすがに無かった。
入間は地面に投げ出されたっきりその場でへたり込んでいた久美の前まで歩み寄り、表情一つ変えずに彼女を見下ろした。
「やめろ……その子に手を出すな……!」
「この後控えてる祭りに必要なんでね、彼女の身柄はこの俺が預かってやろう。お前さんは精々そこで苦しみながらノビてるといいさ」
入間が無造作に久美の腹を拳で突くと、彼女は一瞬唸り、ぐったりと全身から力を抜いた。
このままでは責任が果たせない。こちらの被害者である久美に何と言われようが全て受け入れるつもりだが、よりにもよって人の姿をした知能の高い猛獣からこんな形で責苦を受けて、みすみす彼女を連れていかれるのは屈辱なことこの上無い。
失血と激痛で目の前が暗い。轟は久美を連れて遠ざかる入間の背中にめいっぱい手を伸ばした。
「待て……」
視界全体で季節外れの陽炎が揺れる。
「待ちやが……れ……」
別の仕事で久那堀二丁目に訪れていた弥一と和音は、帰り途中の車内で銃声を聞き、何があったのかを確かめるべく付近の住宅街に急行した。
そこで見たものは、道の真ん中で血溜まりに沈む、見覚えのある大柄な男だった。
「このオッサン、黒狛の東屋か」
「一応、息はまだあるな」
和音が轟の脈を測りながら言った。
「野島。応急処置を頼める?」
「お医者さんごっこか。久しぶりだな」
「ふざけてんじゃないの!」
「仕方ないだろ。こんな重傷を診るのは久しぶりだ」
弥一は自前の特製医療キットが詰め込まれた小箱を懐から取り出し、まずは止血の作業に取り掛かった。彼は探偵になる前は医者だったので、こういう非常時には有用な技能を遺憾なく発揮する。
和音が救急車を電話で呼び終わった頃には、既に止血作業は終わっていた。
「ふぅっ……まあ、ごっこ遊びにしちゃ上出来か」
「さすが。それにしても、一体何だってこんなところに?」
「俺が知るかよ。それより、黒狛の連中に報せなくて良いのかよ」
「そうね。忘れてた――ん? 電話だ」
スマホに着信。相手は幹人からだ。
「もしもし?」
『西井君。いま君達は何処にいる?』
「久那堀の二丁目ですけど。そんなことより聞いてくださいよ。黒狛の東屋ってのが何故か血まみれで倒れてるんすよ」
『何だって?』
「丁度そっちへ引き返そうかと思ったら近くで銃声がして……一体何なんですかね?」
『……遅かったか』
「え?」
幹人の沈痛そうな声音に、和音は思わず眉を寄せた。
『やはり黒狛が先を行っていたか。だが、どうやらその様子だと最悪の事態に発展したと見える。もう一刻の猶予も無いな』
「何のことです?」
『とりあえず、東屋君を救急車に乗せたらすぐに戻ってこい。話はそれからだ』
「はぁ……」
『切るぞ』
幹人が一方的に通話を打ち切った。何やら切迫している様子だ。
こちらの様子を見ていた弥一が首を傾げる。
「どうしたよ?」
「用事が済んだらさっさと事務所に戻れって」
「それだけ?」
「うん。でも、何か様子が変だったような……何だろうね、ほんと」
「さあ?」
二人はただ顔を見合わせて、しばらく頭上に疑問符を浮かべ続けていた。
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