ヒゾウの探偵

中村 傘

『群青の探偵』編

第1話 群青

 生まれた時から持っていたオルゴールは、いまも壊れず回っている。

 シリンダーに点々と配置されたピンが櫛歯を弾いて奏でる旋律の正体は、かの有名な作曲家、滝廉太郎の代表曲。

 『荒城の月』。四つの章からなる、もの悲しいメロディと歌詞が織りなす叙情歌だ。

 私はいつも、この曲を聞いていた。

 何は無くとも、このオルゴールだけは持ち歩いていた。

 だからといって、この曲が好きな訳ではない。何か私にとって意味のある歌詞だとも思わない。文言の一部に地名が記されているが、生憎と私の出生地は全く違うところだ。なのに、いまとなっては体の一部みたいにこの曲とオルゴールそのものが浸透している。

 聞いたところによると、これは姿も見せない産みの親が唯一私に残した、最初で最後の誕生日プレゼントらしい。

 産みの親がどうなったのかは、いまも分からず終いだ。

 だからこそ、これはいまの私にとって、産みの親と私を繋ぐ唯一の線だ。

 本当はもっと、繋がっていたいのに。

 願わくば、出会いたかった。

 点と点の、線上で。


   ●


 今日の仕事はストーカー退治だ。

 彩萌(あやめ)市久那堀二丁目のタングステンハイム三階。端に位置取られたその部屋には、依頼主である一人暮らしのOLが住んでいる。彼女の部屋の間近にあたる天井には埋め込み式の小型カメラが一台、それからドアのレンズに偽装したカメラが一台、つまり計二台の監視カメラが仕掛けられている。

 膝の上に乗せたノートパソコンの画面を睨み、池谷杏樹(いけだにあんじゅ)は眉を寄せた。

「そろそろね」

『こちら黒狛三号、黒づくめの男がエレベーターに入りました』

 エレベーター付近を見張っていた部下からの報告が右耳のインカムから入ってくる。

『階段から後を追います』

「くれぐれも気取られないように」

『かくれんぼは得意な方です。交信終了』

 杏樹は再びパソコンの画面に集中する。

 いま見ているパソコンの画面は上下で映像が二分割されている。上は天井の、下はドアレンズのカメラだ。上のカメラは火災報知器みたいな形に偽装されているので、これに気付いたら犯人はストーキングのプロだと断言してもいい。

 来た。上下の画面に、黒い姿が一つずつ映り込んだ。黒いキャップに黒いブルゾン、顔の下半分は黒いマスクで覆われている。種族は勿論人間。体格は中肉中背だ。

 男はドアの前で立ち止まるなり、ブルゾンの懐からビニール袋を取り出し、ゴム手袋を嵌めた片方の手でその中をまさぐった。

 何を取り出す気だろう? と思った矢先、早速杏樹の溜飲が上がった。

 汚物だ。袋から手のひらいっぱいの茶色いナニかを、女性宅のドアノブに塗りたくっている。

「ココイチさん、戻したらごめんなさい」

 杏樹は夕食の内容を思い出して辟易とし、続いて先程の部下に無線を繋いだ。

「こちら黒狛一号。対象が下に降りたら戻ってきて」

『了解』

 しているうちに、男は袋の中身を全て出し切ったようで、その汚れた指先でチャイムのボタンを連打すると、素早く踵を返して床を蹴り、どたがたと騒がしく階段を駆け下りる。

 杏樹が後部座席のシートに横たわっていたAKライフルと散弾銃を片腕に抱き込むと、たったいまフロントガラス越しに黒ずくめの男が目の前を横切った。

 外に出て、男を追うようにして走って来た細身の女性に散弾銃をぶん投げる。

 得物をキャッチした女性、黒狛三号こと、美作玲が場違いにも和やかな笑みを浮かべた。

「かくれんぼも追いかけっこも楽しいですね」

「バカ言ってないで、とっとと追うの!」

『こちら黒狛二号。対象を確認。手筈通り、共同公園まで追い立てる』

 今度は野太い男の声が報告してきた。彼はマンションを飛び出してきた対象の頭を押さえる役割だ。彼が動き出した以上、こちらもうかうかしてはいられない。

「玲!」

「ええ」

 杏樹と玲が地を蹴り、共同公園の方向へ全力疾走する。

 いまは夜の十時くらいだ。張り込んでいたマンションの付近には人通りが少ない。仕事柄、夜目が利く杏樹達にとっては、夜の追いかけっこはまさに独壇場なのだ。

 やがて公園の入り口に到着して、深緑に囲まれた細道を抜け、円形の広場に出た。

「そこまで!」

 杏樹が声を張り上げると、随伴していた玲が右手側に回り込み、既に左手側でロケットランチャーを肩に乗せて佇んでいた大柄な男――黒狛二号こと、東屋轟と共同で例の男を板挟みにする。

 いや、正確には、板挟みではない。

 黒いジャケットを着た小柄な人物が一人、既に男の正面で行く手を遮っていた。つまり、例の男は四方を完全に包囲されているのだ。

「観念なさい、ストーカー君」

 まず、杏樹が機先を制した。

「須郷忠弘。ここら近辺の運送業で事務として働いているサラリーマン。そして、ついさっきクソまみれにされたドアの向こうに住む女性は貴方の同僚社員。三か月前より彼女の周辺をちょろちょろするようになり、次第にその行動は悪化の一途を辿った。女性の話によれば、悪質なメールでの嫌がらせも後を絶たなかったそうね」

「な……なんなんだ、いきなり何を……」

「誤魔化したって無駄よん」

 玲が散弾銃のポンプを前後させる。

「あなたの行動は全て映像で記録されてるもの」

「映像?」

「ああ。警察に引き渡せば一発でアウトな代物だ」

 轟がロケットランチャーの照準を標的に合わせながら言った。

「美味しく焼き上がりたくなきゃ、ここで大人しくしていような」

「ひっ……!」

 須郷は引きつった声で唸ると、四方を忙しく見回し、杏樹を指さして叫び散らした。

「お……おお、お前ら、お前らは一体――一体何なんだ!」

「探偵だよ」

 杏樹の反対方向に立つ彼が、一歩だけ前に出る。

 夜陰から抜け、月明かりに照らされた彼の顔には、黒い犬を模した無機質な仮面が装着されていた。

「黒狛(くろこま)探偵社。名前くらい聞いたことはあんだろ?」

 仮面の内側に備わった変声器が、彼の声を甲高く響かせる。

 須郷はさらに恐慌した。

「黒狛……町の顔役が、どうして!」

「どうしてもこうしても、ストーカー退治の依頼を受けたからだ」

「このっ……」

 須郷は最初にAKライフルを構えた杏樹、続いて玲、轟と順々に見て――最後に、丸腰で突っ立っている仮面の人物に向き直った。

 すると、

「う……おああああああああああああああっ!」

 半狂乱となって絶叫し、仮面の人物に突っ込んだ。

 仮面の彼は決して慌てず、相手の突進に合わせて前に出て、須郷の腕を取り、足を狩り、腰を回し――結果、綺麗な背負い投げを決めてみせた。

 彼はすかさず、地面に大の字となった須郷の額に、いつの間にやら取り出していた自動拳銃の黒い銃口を突きつける。

 あれはベレッタM92F。数あるハンドガンの中でも比較的ポピュラーな機種だ。

「もう一度言う。観念しろ」

「……くそ」

 男はとうとう抵抗を止め、全身から力を抜いた。

 頃合いを見て、杏樹は指をぱちんと鳴らす。

「終わったわね。玲、やっておしまい」

「お任せあれ」

 合図に従い、玲が何処からともなく頑丈そうな縄を取り出した。

「お……おい、お前、何を……っ」

「警察に引き渡すまでの間、貴方の体を拘束します」

「拘束って……いや、俺はもう何もしな――」

「問答無用」

「やめ……ちょ、何処触って、ていうか何だその縛り方……アーーーーーーッ!」

 年甲斐も無く涙目となった須郷の叫び声は、近年稀に聞くような汚さだった。


「何故に亀甲縛り?」

 彩萌警察署の巡査長、新渡戸文雄が唇をへの字に曲げる。

「しかもご丁寧にギャグボールのオプション付きかよ。まるで風俗じゃねぇか」

「新渡戸さんもそういうプレイしたことあんの?」

「お前は俺を何だと思ってんだ?」

「え? 新渡戸さんって、前の奥さんに変態プレイを強要したから逃げられたんじゃないの? うっそ、マジで? じゃあ、何で別れちゃったのよ?」

「人様のプライベートを勝手に改変すんじゃねぇ! 別れてねぇし、むしろ夫婦仲は健在じゃボケ!」

「……………………っ!」

「何驚いてんの!? お前、後日ちょっと話あるからな!」

 新渡戸が頭痛を催したように頭を押さえている。一体どうしたんだろう?

 ちなみに文字通りお縄を頂戴した須郷だが、たったいま例の縛り方をされたままパトカーの後部座席に放りこまれたところである。せめてギャグボールは外しておくべきだっただろうか。いや、面白いからあのままで良しとしよう。

 真夜中の大捕り物が繰り広げられた共同公園の周辺には、杏樹が呼んでおいたパトカーと制服警官がいるのは勿論として、通行人が野次馬となって警戒線の外から遠巻きにこちらの様子を眺めている。おかげ様で、騒がしいったらありゃしない。

「ところで、池谷」

 新渡戸は杏樹が提げていたAKライフルをちらりと見下ろして訊ねてくる。

「あともう二台くらいはパトカーを要請するような事案が俺の前にちらついているんだが、とりあえず説明の一つくらいは寄越してもらおう」

「ああ、これ?」

 杏樹はいま思い出したようにAKライフルを持ち上げる。

「これね、家電量販店の玩具コーナーで売ってた子供向けのエアガンを、うちの東屋君が本物そっくりに塗装してくれたんだ。よく出来てるでしょ?」

「東屋の趣味か。ならいいや」

 特に確かめもせず、新渡戸はあっさり納得してくれた。

「で、ちゃんと証拠は取ってるんだろうな」

「あたしを誰だと思ってるの?」

「黒狛探偵社の社長、町の顔役にして四十路のロリっ子凄腕探偵、池谷杏樹様だ」

「分かっているならそれで良し。でも、四十路のロリっ子は余計だから」

 何をどうアンチエイジングしたのかは自分でもよく分かっていないが、杏樹の外見年齢は中学生とさして変わらない。昔は夜に出歩いているところを何度警察に補導されそうになって苦労したか――私立探偵として駆け出しだった頃が懐かしい。

「じゃ、あたしはそろそろお暇してもよろしい? 被害者女性宅のお掃除にいかなきゃいけないから」

「どうせアフターサービスはロハだろうに、よくやるよ」

「どれも探偵のお仕事よ。じゃ、後はよろしくね」

「へいへい」

 杏樹は近くで手持ち無沙汰にしていた轟と玲を呼び、来た道を戻るようにして歩き出す。

「あー、ちょい待ち」

 新渡戸が後ろから呼び止めてくる。

「お前んトコの従業員、そこの連れ二人だけじゃねぇだろ。もう一人は何処行った?」

「もう一人? 何の話?」

「黒犬の仮面を被った奴だ。ありゃ一体誰だ?」

「白猫の連中と懇意にしてる貴方にそうおいそれ教えると思う?」

「幹人の野郎とは昔の同僚だったってだけの話だよ。俺は基本的に中立の立場だ」

「白猫のエースも白猫の仮面を被ってるそうね。その正体を教えてくれたら考えるわ」

「痛いところを突きやがる。もういい、とっとと帰れ」

「はいはい」

 からかい半分に頷き、杏樹は部下二人を連れてこの場を後にした。


   ●


 葉群紫月はショルダーバッグに黒犬の仮面を押し込み、人気の無い住宅街を縫い、まっすぐ駅に向かって進んでいた。自宅のマンションが駅前にあるからだ。

 閑静な夜道を抜け、サイケデリックなネオンが躍る猥雑とした大通りに出る。夜の十時半を過ぎているというのに、自分とそう年の変わらない少年少女達が堂々と往来を行き交いしているのは、単純にここら一帯の治安を担当する警察連中の職務怠慢だろう。

「君、この近くの子? 保護者の方は?」

「父親とこの場で待ち合わせしている」

 警官が四人、噴水広場の手前でたむろしている。捕まりでもしたら面倒だな。

 と思ったら、既に先客がいたらしい。警官達は噴水の淵に座り込む少女を取り囲み、なだめるような声音で彼女といくつかの押し問答を繰り広げていた。

「私のことはどうかお構いなく」

 構ってあげてぇなあ。

「いやいや、そういう訳にはいかないって」

 うんうん、そうだよね、普通は。

「十八歳未満の子はこの時間に保護者の同伴も無しにうろついちゃいけないんだよ」

 だったらそこらへんを練り歩いている高校生らしき集団も同罪じゃね?

「悪いけど身分を確認出来るものを見せてもらえるかな?」

 一人のいたいけな少女を相手に寄って集って、何を必死になっているのやら。男として、聞いているこっちが恥ずかしくなりそうだ。

 しかし言われてみれば警官達の言うことにも一理ある。少女の外見年齢は紫月の実年齢と大体同じくらいだ。つまり、推定十六歳前後である。

 顔は小さく、表情は作り物みたいに無機質だ。背は中学生と間違われる杏樹と同じくらい低く、その割に体格は女性の特徴的な部位が程よく目立っている。髪型がポニーテールなのもあって、外見的には紫月の好みそのまんまだ。

 少女はさして可愛くもない財布から学生証らしきカードを警官に提示すると、無表情のまま毒を吐いた。

「これで良いだろう。居心地悪いから、さっさと離れてくれない?」

「貴陽青葉(きようあおば)――明天女子高等学校って、結構有名な女子校じゃん。なおさら見逃せないよ」

「だったら一応、そのお父さんが来るまで僕らもここで待つけど……」

「何が「だったら」だ。邪魔だと言ってるのが分からないのか」

 どうやら本格的にもめ始めたらしい。紫月の足も、自然と止まっていた。

「私が何かやましいことをしているように見えるか? だったら心外だ。警察呼ぶぞ」

「いや、警察は僕らだから」

「違う。お前らは警察に偽装した性犯罪者集団だ。寄るな。まだ私は妊娠に対して躊躇がある身だぞ。産まれてくる子供の養育費を貴様らの安月給で払えるのか?」

 曲がりなりにも公務員なんだから金銭面の心配は無用というか話がとんでもない方向に飛躍し過ぎてはいないだろうか。

「あのね、あまり騒ぐとこっちも――」

「あのー、サーセン」

 見るに見かねて、紫月は警官達に後ろから声を掛ける。

「その子、俺の妹なんです」

「は?」

 いきなりの偽物兄貴の登場に、警官どころか青葉なる少女まで間抜け顔を晒す。

「青葉。親父が待ち合わせ場所を変えたってよ。そこのファミレスだ。さ、行こう」

「え……あ、お……おう」

 青葉が立ち上がると、紫月は小刻みに頭を下げながら、彼女と一緒に警官達の壁をするりと抜ける。

「すんません、ちょっと通りますよーっと」

「おらおらどけや、この税金泥棒が」

「誰が税金泥棒だテメェ、待ちやがれこのクソガキどもっ」

「来るってんなら夕食代を奢ってください。じゃ、僕ら行きますんで」

「レッツゴー、お兄たま」

 何たる適応力だろうか、青葉は何の違和感も無く、紫月の妹を曲がりなりにも演じていた。警察も一連の二人のやり取りから紫月と青葉の兄妹関係を認めたらしい、愚かにも深追いしてくるような真似はしてこなかった。

 二人は咄嗟に指定したファミレスに入り、適当な席に腰を落ち着ける。

 しばらくの無言の後、青葉から先に口を開いた。

「……君は一体誰だ」

「葉群紫月。そこらへんにいる、ただの男子高校生だよ」

「とてもそのようには見えないが……まあ、助かった」

 青葉が顔色一つ変えずに頭をぺこりと下げる。ちょっと照れくさくなり、紫月は顔を背けながら頬を掻いた。

「……いいよ。どうせ、暇だったし」

「なるほど。暇だからという理由で、何処の馬の骨とも知れん女を妹に仕立て上げてこんなところまで連れ込んだのか」

「そう警戒するなって。だから警察にも怪しまれるんだよ」

「私は別に怪しまれるようなことはしていない。父親との待ち合わせも本当の話だ」

「はいはい」

「さては信じていないな? 本当だぞ? 本当だからな」

「さーて、何食べようかな」

「聞けコラ」

 青葉が何か言っているが、紫月は全く気にせずメニュー表を広げて今日の夕飯となる料理を選び、ウェイトレスを呼びつけていくつかの注文を出した。

 ウェイトレスが去ると、紫月は全く別の方向性から質問を投げかけた。

「さっき警官が君と学校の名前を読み上げていたな、明天女子高の貴陽青葉さん」

「それが何か」

「あそこは有名なカトリック系の女学校と聞いてる。いま何年生よ」

「一年生だ」

「じゃあ、俺と同じだ。通ってるの、彩萌第一なんだ」

「場所的には随分と近いな」

「だろ? ところで、そんなお嬢様学校の生徒がこんな時間に、何の用で家族の人と待ち合わせしていたんだ?」

「何だっていいだろう。家庭の事情に割り込まれるのは好きじゃない」

「奇遇だな。俺もだよ」

 紫月が苦笑する。

「変なことを聞いて悪かった。お詫びって訳じゃないけど、これから運ばれてくるフライドポテトをつまみながら、ここでのんびり君の親父さんを待つってのはどうよ。俺の夕飯ついでにさ」

「お心遣い痛み入るが、その必要は無くなった」

 青葉は自らのスマホの画面を見て、これまた顔色一つ変えずにすぐ席を立った。

「もう親が待ち合わせ場所まで来ている。私はこれでお暇させてもらおう」

「あら残念」

「また会う機会があれば缶一本ぐらいは奢ってあげる。それで貸し借りはチャラだ」

「その貸しを使って俺と仲良くなる気は?」

「考えておく」

 青葉が無愛想を保ったまま早足で退席する。

 彼女の姿が見えなくなるまで見送ると、紫月はたったいま運ばれてきたフライドポテトを一本だけつまみ、ため息をついて口の中に放り込んだ。



「何をしていた、青葉」

 本来会う予定だった四十代の男、蓮村幹人が噴水前で腕を組んで顔をしかめる。

「すまない、少々面倒に巻き込まれた」

「無事ならそれでいい。そろそろ仕事の時間だ」

「うん」

 頷き合い、二人は早足で噴水広場から離れる。目的地に着くと、青葉は電柱の陰に、幹人は大通りの人混みに紛れて対象となる建造物をつぶさに観察する。

 今回、幹人が率いる白猫探偵事務所に寄せられた依頼は浮気調査だ。依頼者の女性によると、同棲中の彼氏の帰りが最近遅いのだとか。しかも帰ってくる度にその彼氏は知らない香水の匂いまで引き連れてくるらしい。これは典型的な浮気男のそれである。

 幹人と青葉が張り込んでいるのは、彩萌市内でも有名な高級フレンチレストランの正面口付近。迅速な仕事をモットーにしている幹人の手腕により、本調査一日目にして早速哀れな浮気男の尻尾を掴み、こうして青葉と共に絶好のロケーションで仕事をしている。

 店の戸口から、一組のカップルが出てきた。女の方は知らないが、男の顔は事前の打ち合わせで確認済みだ。間違いない、例の浮気男だ。

 青葉は電柱の陰から、周辺のお洒落な景色を撮りたがる女子高生みたいなノリで改造デジカメのシャッターを切る。傍から見れば、後でSNSに公開してリア充女子を気取りたいイマドキの若者にしか映るまいよ。

 ただし、デジカメの記録媒体にはきっちり、腕を組んだ二人の姿が残されている。

 歩道の幹人も、ただ歩いているように見せかけて、実は隠しカメラで何枚かの写真を撮り続けている。たったいま浮気男が連れの女とキスを交わした場面なんか、言い訳しようが無いくらいに決定的なシャッターチャンスだ。

『こちらカルカン。対象が向かう先にはラブホテルがある』

 トランシーバーによる幹人からの無線だ。

『パターンDを適用。一度合流する』

「こちら銀のスプーン。了解しました」

 二人は例のカップルの背中を慎重に追いながら合流し、さながら普通の親子みたいな会話を交わしながら、つぶさに相手方の行方を追う。

 やがて人通りの少ない道に折れる。例のラブホテルはこの先だ。

 幹人が望遠レンズを装備した一眼レフを取り出し、例の施設へ入店する前後を狙ってシャッターを切る。勿論、連射モードだ。

 次に、たったいま撮影した映像を確認して微笑んだ。

「さて、ここからは忍耐の勝負だ」

「それはいいけど、後で何かご飯奢って」

「仕方無いなあ。何処かのファミレスで適当に――」

「おい」

 踵を返してすぐ、正面に立つ黒スーツの男達に声を掛けられた。

 数は三人。とてもじゃないが、友好的な雰囲気には思えない。

「何だね、君達は」

「答える義務は無い。そのカメラを渡せ」

「さもなくば」

 右手側の男が懐から銃を抜いた。玩具じゃない、あれは本物だ。

「なるほど、大体予想通りだな」

 幹人が鼻の下の長い髭を指先で撫でながら言った。

「調査対象は大層な大金持ちで、しかも勘が鋭いらしい。万が一の場合に備えて、SPを自らの周辺に配置していたか」

「分かっているなら、社長の周辺をうろちょろするのを止めて、さっさとそのカメラをこちらに引き渡してもらおうか。大丈夫、破壊するのはメモリだけだ」

「君も君なら私も私。お互いこれが仕事なら、譲れぬところはあるだろう」

「白黒はつける」

 先に仕掛けたのは真ん中のSPだった。彼が手を伸ばした先にある標的は、もちろん幹人の一眼レフだ。

「欲しいならくれてやる」

 幹人は意外にも、あっさりと一眼レフを手放した。

 ただし、望遠レンズが中空でSPの鼻面に直撃する。

「ごっ!?」

「ぬん!」

 幹人の回し蹴りが一眼レフを巻き込んでSPの横っ面に直撃。まずは一人目。

「貴様!」

 右手側のSPが銃口を幹人に向けるが、青葉はその直前に男の懐まで潜り込み、銃のバレルを片方の掌で押し上げ、もう片方の掌を男の顎に叩き込んだ。

 これで路上に転がるSPは二人。残り一人はどう踊ってくれるのだろう。

「勝負アリ、だな」

 幹人が地に落ちた一眼レフを拾い上げて気障に笑う。

「このカメラは特別製でね。人間と違って、ちょっとやそっとの衝撃で記憶が飛ぶような造りにはなっていないのだよ」

「くそっ……」

「無駄な抵抗は止した方が良い。私達は無駄な争いを好まない」

 青葉はSPの自動拳銃を拾い上げ、残った一人に筒先を向ける。

「負けを認めて早々に失せろ」

「……おい、いくぞ」

「ちっ」

 観念したのか、倒れた一人が起き上がり、幹人の一撃で気絶したもう一人に肩を貸し、無傷の三人目と一緒に青葉に向き直る。

 青葉はセーフティをロックし、グリップ側を相手に向けて銃を持ち主に返却する。

 三人はそのまま踵を返して大通りに出て角を曲がり、二人の前から姿を消した。

「馬鹿め。相手を間違えたな」

 幹人がつまらなさそうに鼻を鳴らす。

「それにしても困った。調査がバレてしまった以上、今日はもうどのみち引き上げるしか無いではないか」

「証拠写真なら先週撮影した分だけで事は足りる。今日だって元々は相手が言い逃れ出来ないようにと、依頼者から追加の撮影を頼まれたから来ただけだし」

「そうだな」

 幹人が青葉の頭を撫でるのと同じくして、大通りから何回かクラクションが鳴った。丁度正面で助手席側のドアを晒して停車している車からだ。

 二人が小走りで車の傍に寄ると、助手席側の窓が開き、職員の一人である長身の気が強そうな女性――西井和音が陽気に挨拶してきた。

「よう、お二人さん。迎えに来ましたぜ」

「君達は別の案件をこなしていた筈では?」

「丁度終わったんですよ」

「収穫の方も上々です」

 運転手の若い短髪の男性、野島弥一が爽やかに答える。

「帰り道が社長達の持ち場と重なるんで、ついでに拾いに来たんです」

「そうか。では、ありがたく相乗りさせてもらおう」

 青葉と幹人が後部座席に乗り込むと、車はゆるやかに発進し、白猫探偵事務所に続く車道を一直線に走行する。

 窓の外を流れるネオンライトをぼんやり眺めつつ、青葉はふと思い出した。

「メアドくらい、聞いておけば良かったかな」

「何か言ったか?」

「……いや」

 この町もそう広くはない。葉群紫月とも、いずれまた会えるだろう。


   ●


 某都内の一角、彩萌市では、二つの私立探偵社が日々対立していた。

 一つは依頼者を第一に考え、価格から仕事に至るまでの全てが良心的な黒狛探偵社。社長には地域の人気者である池谷杏樹を据え、彼女の「優しき探偵」という理念に賛同して集まった個性派の凄腕探偵達が部下として脇を固めている。

 もう一つは依頼者を第一に考えるのは黒狛と同じだが、何より迅速な仕事を徹底する冷静沈着な白猫探偵事務所。社長は元・刑事の蓮村幹人。警察や地元の情報屋とのコネクションを深く築いており、「証拠を確実に揃えてくれる探偵社」というお墨付きを彩萌警察署から正式に頂戴している、まさしく実績で成り上がったプロフェッショナルの集まりだ。

 この二社はそれぞれ、彩萌市の顔役として機能している。

 なのに、共存という道を選ばず、何で対立しているのかというと――

「幹人のヤロー、ついに大口の顧客を手に入れたわね」

「そんな悔しがらんでも」

 事務机で社内消費の書面を片付けていた轟が呆れた様子で言った。

「少し大人気無いですよ。相手がいくら元・旦那だからって」

「うるしゃい! あんたにはどうせ分かるまいよ、この悔しさが!」

「社長の言ってることも、まあまあ分かります」

 室内の隅でファイルの整頓をしていた紫月が作業の手を止めて言った。表向き、紫月は探偵ではなく、探偵社全体の雑務を任されたアルバイトなのだ。

「ええっと……たしか、ボンボンの彼氏の浮気を暴いた功績で、依頼者のお嬢さんのパパりんが経営している有名なデザイン事務所が白猫のバックに付いたんでしたっけ? 事務所のロゴもチラシもWEBサイトも近い内にデザインを刷新するとかしないとか」

「近頃はデザインに対する意識も高まってる。このままだと、見てくれの観点から白猫の連中に大きな差が付けられちゃう」

「うちの場合はいまのチラシやロゴだけでも充分な気がしますけどね。美大のデザイン科の生徒が卒業研究で作ってくれたんですよね?」

「そうなんだけどぉ……学生と本職じゃ、やっぱり後者に軍配が上がっちゃうのよねぇ」

 杏樹にとっての悩みどころは人の優劣よりも人と人の繋がりだ。黒狛の主要なデザインは彼女の友人の娘が作ったものなので、いまさら別のデザイン会社に依頼して以前のデザインを撤廃するのは、その友人の娘に対しては手酷い不義理にあたる。

 もしこれが白猫の社長なら、迷わずその娘の作品を切り捨てただろうに。

「うちの社長はなんでこう……たまーに決断力に欠けるんだか」

「紫月君までー!」

 杏樹が紫月の背中をぽかぽか叩く。良いマッサージだ。

 ここで、インターフォンのチャイムが鳴った。

「……そういや、この時間に相談の予約が入っていたような。浮気調査だっけ?」

「お客さん!」

 さっきまでの癇癪から一転、杏樹が大きな瞳をきらきらと輝かせる。

「紫月君、貴方は別室で待機!」

「またっすか」

「貴方の正体を他の連中に露見する訳にはいかないもの。ほら、行った行った!」

「へーい」

 気の無い返事をして、紫月は社長の執務机の後ろ側にある扉の向こうへ消えた。


 杏樹が奥の応接間に招き入れた依頼者は地元の男子高校生だった。紫月と同じ、県立彩萌第一高等学校の制服姿だ。校内の風紀が緩いのか、頭髪は金のセミショート。ネクタイも緩く、ブレザーは着崩している。不良とは言わないまでも、浮ついた雰囲気だけはどの角度から見ても否めない。

 応接用のソファーを彼に勧め、杏樹も対面のソファーに腰を下ろす。

「お待ちしておりました、和屋さん」

「きょ……今日はよろしくお願いします」

 依頼者、和屋和仁(わやかずひと)はやや緊張気味に頭を下げた。

「ところで、保護者の方は?」

「父は仕事が入っておりまして。でも、電話を入れたのが父なので、僕一人で向かっても何ら問題は無いと」

「…………」

 問題はある。というか、問題だらけだ。

 そもそも探偵は法律上の問題があって、未成年者からの依頼は基本的に受け付けていない。それでも探偵が要りようの場合は、法廷代理人、つまりは保護者の存在が必要になる。

 だが、これらの説明をして、和仁に何かをごねられても面倒だ。

「……まあ、良いでしょう。相談内容につきましては事前の電話にて保護者の方から伺っています。なので改めて、詳細の方を私達にお教え頂けますか?」

「まずはどのあたりから?」

「そうですねぇ……貴方と、件の恋人さんの交際状況について、そちらが話せる範囲で情報の提供をしていただけますと」

 とりあえず、当たり障りのないような要点から引き出してみるのが吉だろう。杏樹は和仁のたどたどしい説明を忍耐強く聴取し、要点をノートに書き込み、要所要所で最低限の質問をしてさらなる情報を獲得する。探偵は仕事の本契約をしない限りは客から金を取らない。故に、客を依頼者に変える分水嶺はここしかない。

 かれこれ十五分が経過。杏樹はまとめた要点から書き上げた恋物語のあらすじを復唱する。

「和屋さんが現在交際している相手は斉藤久美。同級生の十七歳。付き合い始めてから三か月が経過」

 たかが三か月程度の交際相手の浮気を暴く為に探偵をこき使うのか。自分で復唱しておいてなんだが、イマドキの高校生はオバサンの想像を遥かに超えるくらい早熟らしい。

「最近は会っても目を合わせず会話すらしてくれない。LINEでメッセージを送っても返信がそっけない」

 じゃあ別れろ、などと思うのは自分だけだろうか。

「そして学校が終わった後は決まって彼女の行方が分からなくなる。おそらく、和屋さんの目を盗んで別の男と会っていると、和屋さんは推測している……と。こんなところでしょうか」

「そうなんです」

 突然、和仁が半泣きになる。

「付き合い始めた時はあんなに想いが通じ合っていたのに……何でなんだ、畜生……!」

「まあまあ、落ち着きましょうよ」

 玲が遅ればせながら、杏樹と和仁に温かい緑茶出し、テーブルの真ん中に茶菓子が乗った木の盆を静かに置く。

「まずは一服、如何かしら」

「ありがとうございます……」

 泣きながら、汚い音を立てて茶を啜る和仁の情けない面持ちと言ったら。彼が紫月より一歳分年上だという事実が未だに信じがたい。

 杏樹は相手の精神状態を鑑みて、別の話題を振ってみることにした。

「和屋さん。個人的な質問を一つだけ、よろしいかしら?」

「何です?」

「和屋さんはどうしてこの探偵社に来ようと思ったのか……私達にとって興味があることなので、よろしければ是非お教え願いたいのですが」

「何でって……知り合いに奨められたからです」

「知り合い?」

「前に利用した事があって、白猫よりよっぽど腕が立つ上に接客態度が良いと聞いて……それでここを選んだんです」

「あら、嬉しい」

 表面上ではにこやかに笑っているが、内心では悪魔のコスプレをした杏樹が真っ黒な炎を全身に滾らせて何度もガッツポーズしていた。

 この様子ならデザインの刷新は必要なさそうね。結局、大事なのは見た目より中身よ! まだあの野郎に白旗を上げるのは早計だったわ!

「どうやらそのお知り合いはなかなかのご慧眼をお持ちのようで」

「はあ……そうですか」

「まあ、とにかく」

 杏樹は居住まいを正し、真っ直ぐな目で和仁を見据えた。

「さっき、例の彼女さんは放課後に決まって和屋さんの前から姿を消すとおっしゃいましたね。貴方が彼女さんを本当に大切に想っているのは重々承知しておりますので、その貴方が見つけられないというのなら、たしかに探偵でもなければ発見は難しいでしょう」

「引き受けてくれるんですか?」

「我々は決して拒みません」

 拒みませんというか、拒んだら命が危ない。

「あとは、貴方の意思決定だけです」

「お願いします」

 和仁が深々と頭を下げた。これで意志確認は完了である。

「承りました。では、貴方が持ちうる限りの情報を全てこちらにお渡し頂きたいのですが、そういった物品の一式は揃えていらっしゃいますか?」

「勿論です。今日の為に必要になりそうな写真とかメールのスクショとか色々と」

 写真と浮気調査は切っても切れない関係にある。依頼者から写真を受け取り、こちらが調査の過程で撮影した証拠写真を依頼者に渡す。和仁もそのあたりは心得ているようなので、わざわざこちらから事細かに説明する手間が省けた。

 でも、メールのスクショって必要か? まあ、情報は多いに越したことはないけど。

「あと、我々もこれが仕事ですから、料金面のお話なんかは……」

「父はいくらでも出すと言ってました。予約の電話で、父の資本についてはそちらもご存知の筈ですが……」

 和仁の父親は大儲けしている宝石商の代表取締役だ。つまり、和仁はその御曹司、次期社長にあたる。電話口で一回だけ彼の父親と話したが、息子の事を本当に大切にしているような――というよりは、息子を甘やかして育てている父親の口ぶりだった。しかもこちらが贔屓にしているフリーの情報屋によると、彼らのバックにはちょっぴり関わり合いになりたくない種類の方々が控えているらしい。その兵力たるや、黒狛が会社の全資産を注ぎ込んでC4爆弾を取り寄せたとしても勝てない規模だという。

 何にせよ、こういう奴らが相手なので、金の問題は心配無用だろう。

 でも、肺腑の奥に残るような、この違和感は何だろう?

「分かりました。では、最初に調査プランのお話を――」

 杏樹は調査の内容、方法、料金、時間の話を推し進め、全てを取り決めた上で最終的に契約を結んだ。この一時間でさくさく話が進んだのは、和仁があからじめ探偵の仕事に必要な資料一式を揃えていたからだ。高校生の新規相談者にしては手回しが良すぎると思ったが、それを深く追求するような職員は誰一人としていなかった。

 全ての打ち合わせを終えると、和仁は席を立ち、丁寧にお辞儀をする。

「当日はよろしくお願いします」

「ええ。こちらも誠心誠意、契約の仕事をさせて頂きます」

「はい。では、僕はここで」

 和仁が探偵社を辞し、オフィス内が一瞬だけ静かになると、入れ替わるように別室から紫月が出てきた。

「……いいの? あれ」

 早速、紫月が疑問を呈する。

「来訪した依頼者は未成年が一人だけ。予約は法廷代理人の電話一本のみ。知り合いからの推薦でここに来たのはともかくとして、金の出所になる親父はそもそもこの状況を詳しく把握してるのか? 俺には依頼者もその親父も狂ってるようにしか思えない」

「断れない相手なのは紫月君も知ってるでしょ。それに、上手くすれば大口の顧客を手に入れられるかもしれないし」

「だとしても法律上はグレーゾーンだ。社長だって本当は頭にヤの付く自由業の方とか、道を歩いていたら必ず二人掛かりで強引な勧誘をしてくる宗教団体のクソ共みたいなのと関わり合いになりたくないでしょうに」

「止めとけ、紫月」

 机の上で超合金ロボットを弄っていた轟が目を合わせずに言う。

「清濁併せ呑む器量が無けりゃ探偵なんてやってかれんよ。それに法律云々の話をするなら、お前の身分を詐称して密かに匿ってる社長の立場はどうなる? あと、お前が仕事中に持ってるモノホンのハジキについてはどう説明する?」

「それは……」

「良いのよ、東屋君」

 杏樹が首を横に振る。

「紫月君の身元保証人も好きでやってることだし。それに、彼に銃を渡したのは貴方でしょ?」

「あー、まぁ……そうだったな」

 轟はようやく玩具のロボットから手を離して席を立つ。

「で、俺は昨日買った超合金レーバテインに夢中だから大した興味は無いんだが」

「仕事しなさいよ」

「あの坊ちゃんの依頼、誰がやるんだ?」

「聞いた限りだと、俺が単独でやることになってます」

 紫月が片手を挙げる。相談の間、彼は別室から応接スペースの様子を天井のカメラと各種盗聴機材で全て把握していたのだ。

「和屋先輩が通ってる学校がたまたま俺と同じなのが運の尽きです。面倒ですが、明日の放課後は斉藤久美先輩のストーカーとして働きます」

「なら良かった」

 いままで話にほとんど参加していなかった玲が嬉しそうに小躍りしている。

「明日の夕方、いきなり仕事とか言われたらどうしようかと思ったわん」

「デートっすか?」

「ええ。付き合い始めて一年の彼女と」

「…………」

 あんまり社外には漏らせないが、玲はレズビアンだ。

 杏樹は額を掌で押さえて呻く。

「うーん……何だろう、うちの連中は優秀なんだけど、なんかこう……色々アレね」

「ちょっと待ってください。俺だけは東屋さんや玲さんと違いますからね?」

「おいコラ紫月テメーこのヤロー」

「生意気な口は……こうっ!」

「ふぎゃああああああああああああああっ!」

 轟からチョークスリーパーを喰らい、玲から頬を引き延ばされている紫月を見て、杏樹はさらに深いため息をついた。


   ●


 相談を受けた翌日、県立彩萌第一高等学校の放課後。紫月は早速、ターゲットである斉藤久美の姿を探し求めた。影が薄いとはいえ、一年坊の紫月が二年生の教室付近をうろついているとさすがに怪しまれるので、捜索開始地点は昇降口の付近となる。

 さりげなく周辺に気を配りつつ、紫月は昇降口から出てきたアベックを三組ぐらい目で追っていた。斉藤久美が浮気相手を伴って素直に昇降口から出る可能性も充分に存在するからだ。

「そういや、あの子の連絡先、聞いてなかったなぁ……」

 男女ワンセットを見たから、という訳ではないが、いまは無性に青葉と会いたい気分だった。基本的に黒狛の仲間以外に全く興味を示さないのに、どういう訳か最近は街中に出ると必ず青葉の姿を探し求めてしまう。

 しばらくして、昨日確認した写真の人物が目の前を通過した。

「……あれか」

 二年生の斉藤久美。肩甲骨あたりまで届く長さの黒髪を伸ばした、普通に綺麗な細見の女の子だ。和仁の言い分ではないが、手放すには惜しい女と言われたら納得がいくような見た目の人物ではある。

 彼女が何メートルか離れたところで、紫月は彼女の追跡を始めた。

 和仁の話を信じるなら、今日も久美は何らかの方法を使って彼を撒いてこの場に現れたことになる。ということは、学校の中だけでなく、外にも何らかの逃げ道が存在する筈だろう。今回の尾行で注意するポイントはまさにそこだ。

 久美は校門を左手側に折れ、そのまま大通りに出る。紫月は普段通りの学生を演じながら彼女の後ろを普通に歩き、横断歩道を渡り、商店街の方角へ。

 学校付近の商店街は下校中の学生や夕飯の買い出しに訪れた主婦達などでごった返している。おそらく、久美はこの人混みを利用して尾行を撒いているのだ。とはいえ、彼女が警戒しているのは和仁一人のみ。顔も名前も知らない紫月までは警戒していない筈なので、いつもの尾行よりかは何倍も楽に思えてきた。さらに言わせてもらうなら、彼女がいつも隠れ蓑に使っている人混みが、いまの紫月にとっては単なる尾行の補助道具と化している。楽に楽の上重ねだ。

 彼女は商店街を抜けると、意外にも、とある場所で立ち止まった。

 ここはたしか、先日に大捕り物を繰り広げた、あの共同公園の広場だった。

「……おいおい、ここは金の成る木でも生えてんのか?」

 呟きつつ、紫月は手頃な植え込みを盾にして遠巻きに彼女の姿を観察する。続いて、ショルダーバッグのジッパーを空け、望遠レンズを装備した一眼レフを取り出した。

 遠巻きに彼女の様子を観察すること、五分が経過。彼女のもとに、紫月と同じブレザー姿の男子生徒が駆け寄って来た。紫月はすぐにカメラを構える。

 男子生徒と久美は会ってすぐ、見てるこっちが殺意を抱きたくなるような熱い抱擁を交わすと、そのまま見てるこっちが懐の銃をぶっ放したくなるようなディープキスを交わした。随分とオープンなコミニュケーションである。いますぐ殺害したい気分だ。

 紫月は一連の光景を一部始終カメラに収めると、その後も二人の様子を窺い、ついでに男子生徒の御尊顔もズームで撮影させて頂いた。契約前、和仁が提供した資料の中に、彼の顔が映った写真が無かったからだ。詳細は追って調べるとしよう。

 写真撮影は順調に進み、押さえたい場面は全て記録した。怖いくらいとんとん拍子に物事が進んだなと思ったが、まだ調査期間一日目だ。二日目以降も気を引き締めて事に当たらねばなるまいよ。

「おい」

「っ!?」

 後ろから声を掛けられ、紫月はビクっと振り返った。

「君はこんなところで何をしている?」

「ききききき……君はっ!?」

 いま目の前にあるのは、見紛うことも無い、貴陽青葉の綺麗な小顔だった。

「いい……いつの間に……!」

「私の質問に答えなさい」

「あの……これは……」

 言えない。背後の気配に気づかなかっただけでも大失態なのに、言うに事欠いて浮気調査をしていましたなんて、恥ずかし過ぎて嘘でも言えない。

「……趣味……です」

「カップルの盗撮が?」

 バレてーら。

「だとしたら、君はとんでもない変態だな」

「違う! 誤解だ! 俺の話を聞いてくれ!」

「落ち着け。私はそれで君を軽蔑したりはしない。私も何回かやったことがある。君とは気が合いそうだ」

 嘘だ。この子、絶対俺に気を遣っている。

「いまのは見なかったことにしよう。私こそ、いきなり気配も無く近づいて驚かせたのはさすがに悪かったと思ってる」

「あの……そんなに気を遣わないで。俺、ちょっと泣いちゃいそうだよ?」

「男の子が簡単に泣くもんじゃありません。ほれ、ハンカチ」

「何で君はそんなにいい子なの?」

 優しさは時に人を痛めつける。後学の為に、一応は胸に刻んでおくとしよう。

「……それにしても」

 居住まいを正し、紫月は青葉の顔をまじまじと覗きこんだ。

「前から思ってたけど、貴陽さんって表情が全く変わらないのな」

「気味が悪いか?」

「いや。むしろ羨ましいと思う」

 割と単純な条件で表情が変化する自分とは大違いである。常時ポーカーフェイスは、探偵にとってはある意味の才能と言えるだろう。

 もっとも、見る限りは普通の女の子である青葉には関係の無い話だろうが。

「……私の表情を褒めたのは君が初めてだ」

 青葉が意外なことを口にした。

「大抵は気味悪がられるから。それに、親しい間柄の人間からはよく心配される」

「そうなの?」

「ああ。なんか、こう……不思議な感覚だ。何て表現すれば良いか分からない」

「もしかして、照れてる?」

「分からない」

 分からないといいつつも、素振りは照れを隠していない。可愛い。

 紫月は微笑ましい気分のまま腕時計を見て、ぎょっと目を剥いた。

「いっけね! 戻らなきゃ!」

「? どした?」

「人と会う約束してるんだった。遅れるとシバかれる!」

 というのは半分嘘だ。契約の仕事が終了したので、とっとと黒狛に帰って、表向きの仕事である清掃作業や書類整理を終わらせなければならない。それに、調査中の様子をこうして見つかってしまった以上、下手に長居している訳にもいかない。

 本当なら、もっと覗いていたかったんだけどなぁ。

「悪いけど、俺はここで」

「お、おう。またな」

 彼女の挨拶を背中で聞き流し、紫月は全力で石畳を蹴った。


   ●


 一週間後。報告書を作成し、黒狛探偵社は再び和屋和仁との対談の場を事務所内に設けた。

 和仁は応接間のテーブルに置かれた報告書を受け取って中を改めると、怒りからか、顔を真っ赤にして声を震わせた。

「こいつ……健だ」

「そうです。貴方のご友人です」

 杏樹が淡々と述べる。

「一応、彼の正体についても調べさせて頂きました。前田健。あなたや斉藤久美さんとは中学時代からのご友人だそうですね。二人はそれぞれ別ルートから学校を出て、商店街を抜けて出たところにある共同公園の広場で落ち合っていたようです」

「野郎……絶対に許さねぇ」

「少し落ち着かれてはどうでしょう」

 近くで話を聞いていた轟が宥めるように言った。

「契約の仕事を果たして料金を頂いた時点で、この件はもう我々の手から離れます。後はどうしようが和屋さんのご自由ですが、我々の報告書が原因で貴方に血迷った行動をされるのはこちらとしても目覚めが悪い」

「うるさい! 店が客に文句を言うか!? お客様第一の探偵社が聞いて呆れる!」

「私も東屋さんの意見には賛成です」

 さしもの玲も顔を曇らせる。

「その代わりといってはなんですが、彼女さんと浮気男にこの報告書を思いっきりぶん投げるというのは如何でしょう? 弊社に浮気調査を依頼した方には漏れなくこの方法をお奨めしていますが」

「何なら無料で同じ紙束を追加で二部刷ってもいい。和屋さんが持ってるのも含めて、保存用と実用用、鑑賞用にそれぞれ一部ずつ。いまだったら、すぐに用意しますんで」

 保存用や実用用はともかく、鑑賞用とは何ぞや。

「……分かりました。すみません、お見苦しいところを」

 一旦は悋気を収め、和仁は委縮したように頭を下げた。

「じゃあ、追加でもう三部、印刷をお願いします」

「三部?」

「残り一部は燃やす用です」

「燃やさないでください」

 最近の若者は環境破壊や資源の無駄遣いに関する意識が薄いらしい。

「なるほど」

「納得するな」

 杏樹の刺々しい突っ込みを無視して、轟はすぐに手近なパソコンを操作し、同じ資料の印刷を始めた。彼の場合は意識の高い低い以前にただのおバカだ。

 杏樹は虚しい気分を引きずりながら、残る問題に水を向けた。

「……ところで、料金についてなんですが」

「準備は万端です」

 和仁はブレザーのポケットから万札サイズの紙を取り出し、何の躊躇いも無く杏樹に差し出した。

「こちらに希望の金額を」

「こ……小切手……!」

 さすが彩萌市のブルジョワジー。庶民とは金銭感覚の次元が違う。

「こんな支払方法、生まれて初めて……!」

「社長。よだれ、よだれ」

「おっと」

 玲に指摘されて我に返り口元を袖で拭うと、杏樹は刀剣の抜刀が如く仕草でボールペンを抜き、壊れ物に触れるような慎重さで金額面に数字を記していった。推定金額よりゼロを一個多くしても怒られないよね? などという邪な考えが脳裏を過るが、自らの正義と自制心により、その暴挙は寸でのところで押し止められた。

 支払額を記入しても、杏樹はボールペンを手放さなかった。

「? 社長? おーい、しゃっちょーう?」

「駄目だ。社長の奴、百万のケタに数字を一個足そうか足すまいかで葛藤してる」

「もう\マーク書いたのに」

「美作。とりあえず、修正液と印鑑は別の場所に隠しておけ」

「あんたらはあたしを何だと思ってんのさ!」

 逆ギレして怒鳴り、杏樹は小切手を胸にかき抱いた。

「ええ、もう、これでいいですよーだ! 今日はこのところで勘弁してやりますよーだ! このまま銀行に持って行けばいいんでしょ!」

「あ……はは」

 和仁も笑っていいやら困っていいやらで当惑している。当然の反応だ。

「噂に違わず、随分と愉快な方達ですね」

「失敬。大体いつもこんな感じなんです」

「ははは……じゃあ、僕はこれで」

 もう付き合い切れなくなったのか、和仁は席を立ち、たったいま轟から渡された報告書の複製分を鞄に仕舞い、そそくさと出入り口の前まで退いた。

 彼は最後に、折り目正しく一礼する。

「今回は本当にありがとうございます。何かの機会に、また利用させて頂きます」

「ええ。黒狛探偵社一同、またのご利用をお待ちしております」

「では」

 かくして、和屋和仁は黒狛探偵社のオフィスを辞した。

 彼が消えてしばらく全員が無言にしていると、頃合いを見計らったように、杏樹は小切手をぶんぶんと振ってパンプスの足で床を飛び跳ねた。

「やったやったやったぁ! 大金持ちのご贔屓ゲットぉ! これで白猫の連中に一泡も二泡も……いいえ、血のあぶくを吹かせてやれるわ!」

「そりゃ愉快ですね」

 専用の別室から紫月がむっつり顔を引っ提げて戻ってきた。

「でも、なーんか嫌な予感がするんですよねー」

「こら、紫月君! いい空気をブチ壊さない!」

「…………」

 何が気に食わないのだろうか。紫月の面持ちは一向に晴れなかった。

 でも、金額相応の仕事はしてくれた訳だし、どんな顔をしていようが自分からは文句の一つも出ない。尾行と写真撮影、報告書の作成は勿論だが、短期間で浮気相手の素性まで事細かに調査して纏め上げた手腕は見事である。さすがは黒狛秘蔵のスーパーエースだ。

「……そもそも、和屋先輩と斉藤先輩って本当に付き合っていたんだろうか」

「やめとけ。支払いが済んだ以上は、この件は俺達にとっちゃ何ら関係は無い」

「和屋さんの周辺事情を探るには危ない橋を渡らなきゃいけなかっただろうし、触らぬ神には祟り無し、よ」

 部下総員が揃いも揃って何か言ってるが、ホットドッグよりもほっくほくな笑顔で有頂天に君臨する杏樹からすれば些末な問題だった。

「明日はみんなで焼き肉よ! 全部あたしが奢ってあげる!」

『……………………』

 いい年こいて何をはしゃいでいるのやら、とか思っているであろう部下達の平たい視線も、いまの杏樹にとっては痛くもかゆくもなかった。


   ●


 今日の仕事に関しては成功したという手応えより、疑問点の方が数多く残った。

浮気の証拠だけに焦点を絞り、依頼者当人の素性を調べなかったのは、単にそれが仕事に含まれていなかったからだ。和仁に気を遣わず、へそで茶が沸くような恋物語に登場する人物全ての素性を細かく調べていれば、もしかしたらこの案件は予想外の結末を迎えていたかもしれない。

 それが例え、和屋和仁が知りたい結果で無かったとしても。

 しかし杏樹はあの調子だし、玲も轟もこれ以上はこの件に深入りしない様子を見せている。紫月一人が何を言ったところで、耳を傾けてはくれないだろう。

 何かもやもやする。俺は一体、どうすれば良かったんだ?

「……本屋か」

 帰りの夕刻。紫月が何となく立ち寄ったのは、彩萌駅と隣接する駅ビルの本屋だった。学校では他者との関わりを断つという意味合いも込めていつも自分の席で本ばっかり読んでいるのだが、そろそろ新しい本を仕入れなければ色々気まずい。下手に変な奴が寄りついて、自分が探偵をやってるだなんて噂が立つのも非常に困る。

 俺は日陰者の役を徹底しなければならない。誰から嫌われようが、誰から疎まれようが、そうでもしなければ俺の日常は現代の病に浸食される。

 紫月はふらりと新刊の棚の前に立ち、適当な文庫本を手に取ってみる。

 どーれーにーしーよーおーかーなー、などと呟いていると、紫月は自らの背後を通過する奇妙な気配を感じ取った。

 何となく振り返った先には、見覚えのある後ろ姿が、覚束ない足取りでよろめいていた。

 後頭部で左右に揺れるポニーテール。低い背の割に出るところはきちんと出た扇情的な体型。着ている制服は、明天女子高等学校のそれだ。

「……貴陽さん?」

「お、君は――あ、ちょ、ヤベ」

 振り返った拍子に、青葉がバランスを崩し、両手一杯に抱えていた大量の本を床にぶちまけた。何をやってんだかと落ちた本を見下ろすと、青葉は無表情のまま慌てふためき、わたわたと床の本をかき集め始めた。

「見るな、忘れろ」

「いや、別に……君の趣味に関しちゃ何も言うつもりは無いけど……」

 なるほど。青葉は少女漫画とBL本が好きなのか。覚えておこう。

「だ……大体、君は何でこんなところに」

「俺は読書家なんだよ。何処の本屋に現れても不思議は無い。もっとも、BL漫画には興味無いけど」

「忘れろと言ったろうが。ちなみにこれは……あれだ。BでLな本については、単なる知り合いのお遣いだ」

「それって腐女子のお友達?」

「いや。ゲイだ」

「ぶっ!?」

 ゲイにBL本のお遣いを頼まれる女子高生、貴陽青葉。面白すぎる。

「へ……へぇ。お知り合いにゲイの方がいるんだー。奇遇だなー。俺にも知り合いにレズビアンがいるんだー」

「君は君で幅広い交友関係を築いているようだ」

 全ての本を拾い上げると、青葉は無言で踵を返し、ろくにこちらへ挨拶もせずにレジへ向かった

紫月も買う本が決まったところなので、彼女の後を追うようにして列に並んだ。

 青葉が顔だけで振り返り、紫月をじとっと睨みつける。

「ついて来るな、鬱陶しい」

「俺だって買い物したいの」

「あっそ」

 表情では読み取り辛いが、いまの彼女は少し怒っている様子だった。そんなにBL本を見られたのが恨めしいか。こういうのを人は不可抗力、もしくは理不尽と言う。

 やがて青葉の会計が終わり、紫月の番になる。すると、青葉は逃げるようにして本屋から離れた。彼女がいま提げているマイバッグの中には十冊以上もの書籍が詰め込まれているので、あれを彼女一人で持って帰れるのか、少々心配なところではある。

 こちらの会計も終わったので、青葉の姿を探してみる。

 いた。駅の改札に繋がる連絡通路の手前で、青葉は未だにマイバッグの重量と格闘しながらよたよたと歩いている。

 紫月は遠くから彼女に声を掛けた。

「おーい、貴陽さーん」

 青葉はこちらの呼びかけに応じて足を止めて振り返ったが、すぐに視線を前に戻して歩き出してしまう。

 随分と無愛想なお嬢さんだ。なら、こちらも相応の手を打たせてもらおう。

「あんれぇ? この本、たしかさっき落としていった人がいたような……」

「!!?」

 紫月が振り上げた物体を見て、青葉が目をぎょっと剥いた。

 それはまさしく、彼女が持っていたBL本の一冊である。実は本を床にぶちまけた段階で、一冊だけ彼女が拾い損ねていたのを紫月がこっそり拾っていたのだ。

「大丈夫、お会計は俺の方でしといたから――あれ?」

 信じられないことに、青葉は超重量のマイバッグを、ハンマー投げの要領で紫月に投擲していた。

 直撃。布地からくっきりと浮き出た本の角を鼻面に喰らい、紫月はコンクリートの床に大の字となって転がった。

 傍まで歩み寄った青葉が半眼で見下ろしてくる。

「何だ? 君は私と仲良くなりたいのか? それとも私を怒らせたいのか?」

「せっかく今年一番の親切心を働かせてやったのに……」

「公衆の面前で他人のBL本を振り回す親切心がこの世の何処にある?」

「悪かったよー。謝るからさー。土下座……いや、土下寝するからさー」

「そのまま一生眠ってろ」

 青葉は忘れ物の本とマイバッグを拾い上げると、財布から千円札を抜き、紫月の腹の上に放り捨てた。紫月が立て替えた分の金を戻しているつもりらしい。

「本の値段よりちと高いが、釣りは要らないから」

「ああ、そう? じゃあ、お言葉に甘えて」

 起き上がり、紫月は鼻をさすりながら言った。

「それより、どっかで適当にご飯でも食べにいかない?」

「……まあ、いいだろう。私も丁度、空腹だし」

 さっきより落ち着いたのか、青葉は以前会った時と同じくらい平静に頷いた。いまみたいに、余程機嫌が悪くなければ素直な子なのだろう、きっと。

 二人は駅の足元にある適当なラーメン屋に入り、券売機でその時期一番のオススメメニューを選択し、手近なカウンター席に並んで座った。よく考えてみれば、いまの学校では友人が一人もいない紫月にとって、同世代の女子と外食する機会は非常に珍しいと言える。

 さて。このままずっと黙っているのも芸が無いので、注文の品が来るまでの間、とりあえず適当な話題でも振ってみるとしよう。

「葉群君や」

 おっと。あっちから話題を振られてしまった。

「君は昔からこの町に住んでたのかい?」

「そうだよ。君は?」

「私は……もっと、遠くの地方に住んでいた」

 言葉を濁しつつ答える青葉の横顔は何処か物憂げだった。

「葉群君は、「こうのとりのゆりかご」って分かる?」

「いわゆる、赤ちゃんポストだな。熊本県のとある病院が設置しているらしい」

「私は出生後、そこに投函された」

 どうやら、これからされるのは随分と胸糞の悪い話のようだ。

「乳児院で保護された私はしばらくの間、引き取り手が見つからなかった。それからは色んな施設を転々として、小学二年生くらいになった時にようやく引き取り手が見つかった」

 青葉は紫月の前に、所々が細かく錆びている小さなオルゴールを置いた。

「投函された私の傍にこのオルゴールが置いてあったそうだ。産みの親が私にくれたものらしい」

「ふーん。どんな曲が入ってるの?」

「『荒城の月』だ。音楽の授業で名前くらいは知ってるだろう?」

 勿論知っている。よく葬式なんかで流れているBGMみたいで、子供心にはあまり心地良い代物とは言えなかった。

「これ、まだ動くの?」

「動きはするけど、ここで流すのはどうかと思う」

「人様の店でそんなことはしないよ」

 紫月がお冷を一口飲むと、二人の手元に注文したラーメンが運ばれてくる。どういう訳か、注文していない餃子もセットで付いてきた。

「カップルには大サービスですぁ」

 LED電球みたいに明るいスキンヘッドのグラサン店主が、太陽光みたいに明るい笑顔をくれた。

「葉群君。どうやら私達はお似合いのようだ」

「らしいな」

 なら、店を出るまではカップルのフリでもさせてもらうまでだ。後で真相が判明して、目の前のハゲ店主から餃子代を寄越せとか言われてもたまらないし。

 お箸を手に取り、据え膳を前に手を合わせて麺を何口か啜る。

 すると、青葉が能面みたいな無表情を保ちながら訊ねてきた。

「私は腹を割って内臓をぶちまけた。今度は君の番だ。何か面白い話をしろ」

「君が勝手に切腹したんだろ。……まあ、いいや」

 箸を器の上に置き、紫月はシミだらけの天井を見上げながら言った。

「俺も、実の両親がいないんだ」

「そうなのか?」

「産みの親から暴力を振るわれてたんだよ。それを当時住んでたアパートの大家が気付いて通報して、両親は逮捕され、俺は児童福祉施設に入れられた。両親はもう既に出所してるけど、その前にいまの親が俺を引き取った」

「実の両親のもとに戻る気は無いのか?」

「無いね。顔を見たら殺したくなるだろうし、若い身空で前科一犯は中々堪える」

「お互い、苦労してるな」

「面白い話じゃなくて悪かったよ」

「いや。辛いのが私一人じゃないって知れただけでもめっけもんだ」

「そうか」

 二人はしばらく、無言でラーメンにがっついていた。さっきまで思春期の男女が語るにしては重すぎる話題をぶつけ合ったせいなのか、揃いも揃って次の話題が見当たらないでいる。

 ラーメンを完食して一息ついていると、これまたどういう訳か、店主がきんきんに冷えたジョッキを一杯ずつ、二人の手前に置いてくれた。

「店主さん。これは?」

「新作の特製レモンサワー。勿論、ノンアルコールだ」

「頼んだ覚えは無いんすけど」

「いまのお二人さんにはお似合いのチョイスかと」

「…………」

 何だろう。適当なノリで敷居を跨いだのが申し訳なるくらい、このラーメン屋の店主は素晴らしいハードボイルド精神をお持ちのようだ。

 紫月と青葉はそれぞれ目を白黒させ、互いに顔を見合わせると、透明なレモンサワーのジョッキをおそるおそる持ち上げる。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「何か知らんが、乾杯」

 ややぎこちなく、二人はジョッキを打ち鳴らした。


   ●


 和屋和仁の父親が裏社会で懇意にしている暴力団連中は、主に彩萌市内の風俗街一帯を強い力で取り仕切っている。当然、ここら一帯で和仁の顔を知らない者はいないし、カモにしようなどと考える馬鹿な連中はとっくのとうに海の藻屑だ。

 父親の名刺を手形にして入店したキャバクラの一角で、和仁は向かいの席に腰を落ち着けているトレンチコートの男に黒狛特製の報告書を差し出した。

「要望通り、あんたの分の報告書を貰ってきた」

「上出来だねぇ」

「それを何に使うつもりだ?」

「詮索屋は嫌われるぞ? 俺には俺の目的がある。お前さんはお前さんの目的を果たせば良い。そういう約束だ」

 男はコートの懐からくしゃくしゃの大きな茶封筒を取り出し、テーブルの上に無造作な仕草で放った。封筒の真ん中が不自然に隆起しているのは、中に大きくて硬い何かが入っているからだ。無論、人には見せられない類の物体であることは間違いない。

「情報料の代わりだ。物々交換は不慣れかね?」

「金なんて湯水のように湧いてくる。はした金よりは使い道がありそうだ」

「一応、中身ぐらいは確認しておいたらどうだ?」

「そうだな」

 別に疑ってる訳じゃないが、中身の真贋を確かめるのも悪くはない。

 和仁は封筒から例のブツ――九ミリ口径の自動拳銃と弾のケースを取り出した。弾倉には本物のホローポイント弾が装填されている。正真正銘、本物の銃だ。

「久美……俺は絶対に許さないからな」

 シグサヴエルP226。これが、和仁に与えられた唯一の「殺傷力」だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る