第10話 願い
二月十四日。バレインタインデー。
だからどうした、という気分を抱きつつ、青葉は和音と共に寂れたボウリング場に赴いた。
決して遊びに来た訳ではない。仕事で来たのだ。だからといって、ここに就職したい訳でもない。
入り口の扉を潜ると、横並びのレーンと、地べたなりプラスチック製の椅子なりに座って飲酒や喫煙などに興じているガラの悪い若者の集団が視界一杯に広がった。
「あん?」
若者の一人が気だるそうに振り向いた。
「お、美人さんと可愛い子ちゃんのご来店」
「あんた達に聞きたいことがあんだけど」
和音が鷹揚な態度で、若者の一人が持っていた黒い箱型の機械を指差す。
「その黒い奴、未来学会から貰ったもんでしょ」
「だったら何だよ」
「それさ、どういう機械か教えてくんない?」
「えー? どうしよっかなー」
彼一人がすっとぼけているうちに、周りの男共が二人を取り囲む。
「教えてやってもいいけどぉ、その代わりさ、俺達と遊んでくんない?」
「別に構わんが」
青葉が両手を広げて、やれやれと首を振る。
「私達を満足させるイチモツが無ければ話にならん」
「お、生意気」
男達の輪が徐々に狭まっていく。まずは暴力で屈服させるつもりだ。
「かず姐、どうする?」
「銃は使っちゃ駄目だから」
「ステゴロか。まあ、たまにはいいだろう」
後ろの一人が大柄な全身を使って覆いかぶさるように飛び掛かってきた。
青葉は振り向きもせずに彼の腕を取って腰を払い、そのまま前方にぶん投げてレーンに転がせ、奥に並んでいたピンを全て薙ぎ倒してストライクを獲得する。
若者全員の動きが、唖然とした顔と共に固まった。
「……嘘……だろ?」
「さて、次の球はどれにしようかな」
青葉は顔の前で右手の指を全て曲げて伸ばす。
「どうする? 続けるなら私のアベレージはぐんぐん加速するぞ」
「っざっけんな! やっちまえ!」
誰かが放った怒声をきっかけに、不良集団の総攻撃が始まった。
青葉は予定通り、全てのレーンに男共をぽいぽい投げて得点を稼ぎ、和音は手近に置いてあったボウリングの球で連中の顔面に別の意味でのストライクを連発する。
やがて球場内にいた全ての不良集団が戦闘不能になる。
いや、まだ居た。例の機械を持った奴がボールラックの陰から顔を出す。
「クソが! ぶっ殺す!」
口角から唾を飛ばして叫び、最後の一人となった彼がとうとう黒い機械を腕にあてがう。すると、機械の両側面から黒いベルトが飛び出し、がっちりと彼の腕に巻きついた。
「何をする気だ?」
青葉が疑問を口にした時、彼は尻のポケットからUSBメモリに似た黒い何かを取り出し、拳側に空いた穴に差し込んだ。
ぷしゅっと、空気が抜けるような音がする。
「くくくっ……あはははははは!」
「何がおかしい?」
「お前ら、俺を本気にさせたな。だったらここで終わりにしてやんよ」
息巻いたかと思うと、彼の姿が視界から消えた。
いつの間にか、彼は和音の頭上に滞空していた。
「なっ……」
「かず姐、逃げろ!」
青葉が叫んだ頃には、彼の踵落としがクロスした和音の腕に直撃していた。
みしっと嫌な音が鳴る。
「くっ……そがぁ!」
地声で叫び、踵ごと男の体を振り落とすと、和音はすぐさま後退して男と距離を空ける。下手に反撃するよりは賢明な判断だ。
しかし、男はよつんばいになって、再び姿を消す。
今度は、青葉の背後に現れた。
「青葉っ――」
「遅い」
振り向いたと同時に青葉の右手が一閃。乾いた銃声が球場内に反響し、弾丸が男の顔の横を通り抜ける。
すると、飛び掛かる直前だった男の体勢が後ろに崩れかける。
「ああッ…………!?」
「スペアいただき」
振り上げた脚が股間にめり込み、彼は白目を剥いて昏倒した。
彼が動かなくなったのを確認すると、和音が片腕を押さえながら歩み寄る。
「銃は使うなって言ったじゃん」
「これが素手で倒せる奴に見えたか?」
「まあ……うん。たしかに」
青葉からすれば止まってみえたくらいだが、和音からすれば、あの動きは瞬間移動の類に見えただろう。しかも、ろくに鍛えていないだろうに、さっきの踵落としで和音の腕に決して軽くないダメージを与えたのはちょっと異常だ。
青葉は使い方も分からない機械の操作に苦心し、どうにかベルトの解除に成功して、問題の黒い機械を回収した。
「かえ……せ」
最初に青葉が投げ飛ばした男がレーンを這っている。まだ意識があったのか。
「それだけは……PSYドライバーは……マジでヤバい……」
「PSYドライバー? これのことか」
「それは俺のモンだ……」
知っている。何せ、彼は素行調査の対象人物の一人だからだ。おそらく、騒ぎのどさくさに紛れてさっきの奴が元の持ち主である彼からこの黒い機械――PSYドライバーをくすねたのだろう。
「未来学会に……千里大神様から授かった……俺だけの力」
「何が俺達だけの力だ」
青葉はPSYドライバーからさっき挿し込まれたUSBメモリのようなアンプルを抜き出し、中に残留していた液体を穴が空くほど凝視する。
「この黒い機械は専用アンプルの中身を投与する為のポータブル注射器という訳か」
「ただのドーピングじゃん」
和音が呆れ混じりに要約する。
「で、未来学会が何でこんな代物を配ってんのか、ちゃんと説明してくれる?」
「誰が教えるか」
「あっそ。だったら他を当たるわ」
青葉と和音は例の機械とアンプルを持ち出し、荒れ果てたボウリング場を後にした。
事務所に帰り、青葉と和音は早速、幹人の前にPSYドライバーと専用のアンプルを突き出した。勿論、この日の為に予定を空けていた新渡戸も同席している。
「なるほど。肉体強化系のPSYドラッグを投与する簡易注射器……か」
幹人は眉根を寄せて呟く。
「北条時芳は肉体強化に加えて簡易的な未来予知も行っていたそうだな。二人が戦った若者に、北条と同じような兆候は見られたか?」
「いや。単純に身体能力が増加しただけみたいだ」
青葉が腕を組んで唸る。
「でも専用のアンプルがあるということは、別の薬剤が入ったアンプルとも簡単に交換が可能ということだと思う」
「銃と弾丸みたいな関係だな」
幹人が述べたその例えはある意味正確だ。銃の攻撃力やそれに関わる性能は銃弾が決めているのであって、銃器本体は銃弾の火薬を爆発させる為の容器に過ぎない。今回の場合、PSYドライバーがどうこうというより、問題なのはアンプルの中身である。
新渡戸はPSYドライバーとアンプルを別々の透明なビニール袋に入れる。
「とりあえずこいつはうちの署で預かる。それより、件のボウリング場の連中はどうした? ちゃんと警察には通報したんだよな?」
「勿論だ。追加で救急車を二台分だけ呼んである」
一台はその時PSYドラッグを使って暴れた奴に、もう一台はPSYドライバーの元々の持ち主だ。他の連中ならいざ知らず、薬物に汚染されている彼らをパトカーには乗せられないと和音が判断したからだ。
新渡戸がにんまりと頷く。
「よろしい。でも気をつけろ。もし例の井草水依ってのが敵に回ったとしたら、変な占いでお前らが標的になるかもしれない」
「覚悟は最初から出来ている」
幹人は何をいまさら、といった様子で頷いた。
「人の心配をしている暇があったらさっさと仕事に戻れ」
「相変わらず愛想の無い野郎だぜ。じゃ、何かあったらまた連絡を――」
「お邪魔するっす!」
ノックも無く出入り口が開かれ、龍也が事務所の中に転がり込んできた。そんな彼の禿頭は、雨に打たれたように汗で濡れていた。
「火野君? いきなりどうした」
「これを見るっす!」
龍也が突き出したスマホの画面には、井草水依の名前が表示されていた。
●
巫女の間は数百人に及ぶ構成員の大群で鮨詰めになっていた。ちなみに今日はいつもと違って皆一様に私服姿だ。
無論、これが未来学会に与する者の総員ではない。修練の間や事務所などに据え付けてあるモニターを見て、この部屋の人間と同じように構えている者達も含めるとその数は千以上に昇る。
勝巳が玉座の横――つまり水依の隣でマイクに声を吹き込んだ。
「今日は急な召集でありながら、こうしてお集まりいただいたことに感謝を申し上げます」
まずは形式ばった挨拶から始まると、勝巳は間を大して置かずに本題を語る。
「早速本題に移らせていただきます。今日、これから三時間もしないうちに、彩萌警察署の方々がこのビルを大人数で訪れます。目的はこの未来学会に対する一斉摘発です」
会員達の間で重苦しいどよめきが波紋となって広がる。
「ですが、我々は何か、法理に反するようなことをしましたでしょうか。私達はこちらにおわす千里大神様にとこしえの帰依を誓い、崇拝し、そして自らを崇高な存在に昇華すべく修練に励んでいるだけではありませんか」
群衆から「そうだ!」やら、「警察が来るのはおかしい!」という叫びが飛び出す。
「そう。おかしいのです。異常なのは警察の方であって我らではない。つまり我々にはこの組織を護る正当な理由がある。賢明な皆様は既にお察しでしょうが、この組織の未来を国家の犬に凌辱される前に手を打つ必要があるとは思いませんか?」
勝巳の言葉に乗せられて、大義に燃える者が現れ始めた。
「もし自分にこの組織を護れる力があるのなら――そう考える方も決して少なくはない筈。私はそんな貴方方の希望を叶えるべく、このような神器を用意した」
満を持して、と言わんばかりに、勝巳は懐からPSYドライバーと専用のアンプルを取り出し、この場にいる全員に対して見えるように振り上げた。
「これさえあれば警察機構どころか自衛隊ですら簡単に殲滅させられる。望むなら千里大神に匹敵する未来予知の力を皆様に与えて差し上げましょう。これで貴方達は皆、千里大神の朋友となれる」
要は水依と同類になれるということだが、これが一番、彼らには効いたらしい。
揃いも揃って恍惚と興奮が入り混じった眼差しを、水依ではなく、PSYドライバーに向けていた。
「いまからこのPSYドライバーを使い、ここに攻め入る警察機構を迎撃する――と言いたいところだが、問題がもう一つだけある」
「?」
水依は目を丸くして勝巳を見上げる。いま言った、もう一つの問題の内容を知らなかったからだ。
「実は警察以外にも見過ごせない敵組織が存在する。彼らは無粋にもこの組織の者達を陰から尾け回し、挙句の果てには同胞の一人を暴行して彼が所有していたPSYドライバーとアンプルを警察に提出した。これはついさっきの話だ」
そんな話は初耳だ。とても嫌な予感がする。
「その組織の名は、白猫探偵事務所」
「……!?」
水依は弾かれるように立ち上がった。
井草邸での騒ぎの後、王虎は勝巳から命を受け、とある少女の正体を探っていた。すると、その少女はとある探偵事務所に所属する職員の一人であることが発覚した。
少女の名は、貴陽青葉。
彼女は、白猫探偵事務所における秘蔵っ子なのだという。
「彼らは少数精鋭の探偵集団です」
水依の変化にも構わず、勝巳は朗朗と語る。
「しかも社長は元・刑事で、いまでも彩萌警察署の面々と親交が深いという。彼らはグルと見て間違いない。放置しておけば我々の邪魔をし続けるのは自明の理。ならば早いうちから潰してしまった方が後の憂いを残さずに済む」
「待って!」
水依が叫ぶと、勝巳の言葉どころか、群衆のどよめきさえも静まり返った。
「白猫に立派な兵力は存在しない。こちらの戦力を察知しているなら下手に手は出してこない筈。放っておいても何ら問題ない。だから――」
「お言葉ですが、それが如何に貴女のご託宣であろうと信ずるには値しません」
相手が実の娘とは思えないような口ぶりだった。
「貴女はこちらに警察が攻めてくるとだけ私に教えてくださりましたが、白猫の動向については何一つとして語らなかった。現に先の暴行と強奪について、私は何も聞いていない」
例の暴行事件については水依の予知の範囲外に位置する人間に起きた惨事なので察知しようが無かっただけだ。
でも、勝巳にそんな言い訳は通じない。
「ご理解いただけたでしょうか。これが白猫を排除するに値する明白な理由であることを。ならば、貴女はその玉座から我々の勇姿を、どうか厳粛に見守ってくださいまし」
もう、水依には何も言えなかった。
言い返そうにも力が足りない。説得しようとしても、相手は勝巳とこの組織にいる全ての人達だ。まさか現人神が数の不利に押される日が来ようとは思いもよらなかった。
かてて加えて、勝巳のバックには王虎が控えている。おそらくもう一つの敵対者の正体が白猫だと突き止めたのは彼だろう。でなければ、先の暴行事件の犯人は謎の襲撃者として片付けられ、敵は警察機構に絞られていた筈だ。
「いまからここにいる全ての方にPSYドライバーを配布します。簡単な使い方は全員の分が行き渡った後に説明しますので少々お待ちください」
勝巳が首を縦に振って合図すると、壁側に控えていた白いローブの黒子みたいな連中が、人が抱えるには若干大きめの段ボール箱を群集の四隅に置き、バケツリレーの要領で箱を隣の人間に回していくように指示する。
箱の中には、PSYドライバーとアンプルがセットで収まった黒い小箱がぎっしりと詰まっていた。
やがて勝巳も含めた全ての人間が巫女の間から去り、さっきと打って変わり、静寂ばかりがだだっ広い空間を支配する。
玉座でただ一人、呆然と俯く水依は、これまで勝巳から説明されていた『プロジェクト・サイコ』の概要を何度も反芻していた。
「要は水依と同類の人間を彩萌市内に増やす計画だ」
とある夕食時に、勝巳が皿の上のステーキにナイフを入れながら説明していた。
「PSYドラッグにより人類全てが超能力を手に入れられる時代になれば、異端者として扱われていた天然の超能力者は迫害されるどころか尊敬の対象として扱われる」
その為の窓口が未来学会という組織である。
「お前一人がこの世界で肩身の狭い思いをしなくて済む。かつての母さんのように、誰にも迫害されずにのびのびと生きられる」
「……お父さんは、どうしてお母さんと結婚したの?」
「何?」
まるで方向性の違う質問をされ、勝巳が目を丸くしてナイフとフォークを止めた。
「お母さんは自分が超能力者だからって理由で周りの人からイジメを受けてたんでしょ? そんなお母さんを、どうしてお父さんは好きになったの?」
「まさか、お前からそんな質問をされる日が来るなんてな」
勝巳は遠い目をして語る。
「私にも精神的に追い詰められていた時期があった。そんな時、路傍に転がる石ころのように、寒空の下でひたすら客を待つみずぼらしい占い師が座っていた。それがお前のお母さんだ」
母の生い立ちは少ししか知らない。占い師だったのは知っているが、だからといってどんな人生を送っていたのかなんて考えたこともなかった。
「私は気を紛らわすつもりで彼女に占いをしてもらった。彼女は私のオーラとやらを見て、その様子を絵に描いて、その図形を元に一週間先の未来を全て見通したと言うのだ。普通なら信じがたい話だろうが――全ては彼女が言った通りになった」
自分とほとんど同じ手順で発動する能力を母が持っていたと知ったのはこの時が初めてだったりする。
「でも違うんだ。私は自分の未来なんてどうでも良かった。たしかに結果には驚いたが、それより何より、私はいま置かれている苦境に耐えてひたむきに生きる彼女の姿勢に惹かれてしまった。そして悟ったのだ。私には彼女しかいない――と」
勝巳の水穂に対する愛は本物だ。
だからこそ、彼女の形見とも言える水依にも深い愛情を注いでいるのだ。
「だから私は心に決めた。彼女みたいな境遇の人を、二度と私の前では生み出させないと」
これが『プロジェクト・サイコ』の根底だった筈だ。なのに、いつからこの計画は形を歪めてしまったのだろうか。
人死にが出ないと思い込んでいたら、決してそんなことは無かった。
争い事が起きないと思ったら、いままさに戦争が始まろうとしている。
「こんなこと……お母さんが望んでいたの?」
呟くと同時に、意識が韜晦から現実の時間軸に帰ってくる。
「青葉……私はどうしたら――」
「電話すればいいんじゃね?」
気配も音も無く、彼女は水依の目の前で屈んで気軽に言った。
ボディラインが浮き出たシャツやスカート、タイツに至るまで全身真っ黒の少女――東雲あゆは、片手を挙げて満面の笑みを輝かせる。
「おっす、水依っち。久しぶり。元気してた?」
「……え?」
予想を大幅に超える相手との対面に、水依の目が一瞬で点になる。
「あゆっち……? どうしてここに?」
「ふふふ……いい質問だね」
あゆが悪役っぽく不気味なオーラを垂れ流しにする。
「それでは、この私、東雲あゆが如何にしてこのような場所に侵入してきたのか、VTRも交えて分かりやすく説明してあげちゃうぞ☆」
VTR云々はともかくとして、あゆの話は次の通りだ。
彼女はどうやら未来学会に対して何らかの恨みや憎しみがあったらしく、その実態を調査すべく、チョコ作りの後からこの組織に対して潜入捜査を試みていたらしい。
最初は変装して宍戸亜紀という偽名を使って見学という名目で正面から本部のビルを訪れ、その直後からはいまの格好に着替えて潜入と離脱を繰り返していた。しかも学校を何日も欠席し、ある時はこのビルの何処かで寝泊まりまでしたという。
そして、ようやく水依とこの場で接触出来るチャンスを掴み、このタイミングで姿を現した、というのがこれまでのあらすじだ。
「何て壮絶な潜入捜査を……ていうか、寝泊まりしたの? 嘘でしょ?」
「ここの第三リネン室って鍵が常に閉まってて、意外と誰も来ないから快適だったよ」
どうやら寝泊まりに関しては決して冗談ではないらしい。さすが忍者一族の血を引く末裔。やること成すこと、全てにおいて一般人とはスケールが違う。
「それで……えーっと、あ、そうだ」
あゆはしばらく唸り、スカートのポケットからスマホを取り出した。
「水依っちのスマホ。これで火野君と青葉に無事を報せなよ」
ちなみにこのスマホは井草邸の水依の部屋にあったものだ。出かける時に勝巳から置いていくように言われたから持ってこなかっただけで、決して忘れてきた訳ではない。
「……住居不法侵入で逮捕されても知らないから」
「誰もチクらなければ問題無し」
「…………」
敵の本拠地に忍び込んで寝泊まりした上に人の家に侵入して物品を盗んだ後とは思えない爽やかな笑顔だった。
水依はスマホを受け取り、まずは龍也の番号にダイヤルする。
彼は思ったより早く応答した。
『井草さん!? あんたいま何処にいるんすか!』
開口一番、大慌てのご様子だ。
『いま丁度、白猫探偵事務所の前にいるっす。そこには貴陽さんもいるっす。いま彼女にも声を聞かせますから、ちょっとだけ待ってください』
スピーカーの奥で足音がノイズと共に反響する。
青葉の声が聞こえたのは、「これを見るっす!」という龍也の叫びの直後だった。
『水依、私だ』
最初は慎重な声音だった。
『お前、いま無事なのか?』
「うん。それより、聞いて」
いまは声だけの再会を喜んでいる場合ではない。
「いまから未来学会が彩萌警察署と白猫に対して攻撃を仕掛ける。だから、いますぐ青葉と白猫の人達はそこから――この街から逃げて」
おそらくスピーカーをオンにしているだろうから、この警告は白猫の事務所にいる全員に聞こえているだろう。
「お願い。少しでも早く、少しでも遠く」
『私が組織の奴をボコったのがバレたか』
やっぱり、PSYドライバーを会員から強奪したのは青葉か。
『でも私達はこの街を離れる訳にはいかない。お前のことも必ず迎えに行く。だから、お前が心配するようなことには決してならない』
「無理だよ。さっき組織の人全員にPSYドライバーが一個ずつ行き渡った。普通に戦えば勝ち目は無いよ」
『だからどうした。お前をそこから連れ去れば未来学会は烏合の衆に過ぎない。私を想うなら協力しろ。それが一番手っ取り早い』
「止めろって言ってるんだよ!」
人生最大の声量で叫び、水依はひたすらまくし立てる。
「私の為に青葉の命が危険に晒されるくらいなら、いますぐこの場で私が死んでやる! そうすれば未来学会に刃向かう理由だって無くなるでしょ? だからお願い。私の気が変わらないうちにとっとと逃げてよ!」
まさか、泣きながら大切な人に喚き立てる日が来ようとは夢にも思わなかった。
水依が息を荒げている間、スピーカーの向こう側は沈黙していた。
「……一生の……お願いだから……こんなところで、誰も死なないで」
『ふざけるな!』
鈍いノイズと共に、龍也の怒声が水依の鼓膜を突き抜けた。彼が青葉から無理矢理スマホをひったくったのだろう。
『さっきから聞いていれば止めろだの逃げろだの何様のつもりだ! 未来予知で俺達の死に様でも見えたか? だったらそんな未来はクソ喰らえだ! あんたも死なない、白猫の人達も死なない、貴陽さんも俺も、誰もあんたの前から消えたりしない!』
「人の気も知らないで、適当なことを言わないで」
スマホを握り締める手の握力が強くなる。
「弱いくせに……何も出来ないくせに、私に指図しないで」
『弱いのも何も出来ないのもお互い様です』
途端に、龍也の声音が優しくなる。
『でも俺達には最強の仲間がいる。だから本音を言ってください。いま井草さんが叶えたい、本当の願いを』
「……………………」
これから戦争状態に突入することにより、父と自分が夢見た計画はもう二度と成就することは無い。結局は異端児と普通の人類が衝突するという最悪の構図に行き着いてしまうのだから。
後に残された、水依自身の中に眠るたった一つの願い。それは――
「……助けて」
たった、それだけだった。
「罰なら後で、いくらでも受けるから」
『井草さんは悪くないです』
彼の思い遣りを狡いと思ってしまった。
『必ず助けに行く。だから、ちょっとだけ待ってて欲しいっす』
「……うん」
もう、彼に逆らう理由は無くなった。
電話を静かに切ると、いままでずっと黙ってこちらを見守っていたあゆが場違いな笑みを浮かべる。
「さて。そうと決まったら私は私の仕事でもしますかね」
「これからどうするの?」
「私は一旦外に出るけど、水依っちはまだここに居た方が安全そうだよね」
彼女は遠まわしに、水依を足手纏いだと言っているのだ。
あゆが常識外の潜入捜査を成功させたのも、彼女自身の高い身体能力に依るところが大きいだろう。なので運動神経がそこまで良くない水依を連れて外まで誰にも気取られず脱出するのは至難の業だ。
「私は青葉達が通る道を空けにいく。だから、ちょっとだけ待ってて」
「分かった。待ってる」
「そんじゃ、またね」
あゆの姿が一瞬でこの部屋から消失する。どういう手品を使ったのだろうか。
そういえば、まだ彼女に礼を伝えていなかったような。
「……まだ、出来ることはある」
さっきまでは勝巳が傍に居た。彼から視えた未来の絵柄も覚えている。これを使って未来予知を行えば、きっと何かしらの手掛かりを青葉に残せる筈だ。
調べ物だけなら探偵よりもずっと上手にやれる――水依は自分が持つ力に、ようやく自信と呼べるような気合が芽生えた。
玉座の下に常備してあったトレーシングペーパーを引っ張り出した瞬間、またぞろ奇妙な映像が視界に直接映し出される。
ここは……駐車場か?
「紙を使わなくても未来が視える……?」
あんな遠回しな未来予知をしていたのが馬鹿馬鹿しくなる。それくらい、未来のイメージがはっきりと目の前に現れているのだ。
次はその駐車場に停めてあった一台の黒い車が視える。ピントがナンバープレートに合ったかと思えば、トランクの中に誰かが放り込まれている様子が視えた。映像はここで終わりだ。
おそらく一連の予知は、警察によるガサ入れが入る前――いまにも発生しそうな大騒ぎの真っ最中で、勝巳の身に起こり得る可能性が一番高い出来事だ。
この予測結果を信じるなら、勝巳もこの事件で発生する被害者の一人だ
「早くお父さんに報せなきゃ……」
水依がスマホを再び手に取った、その時だった。
巫女の間の扉が開き、白を基調とするボタンジャケットを着た数人の男がぞろぞろと踏み込んできたのだ。
迂闊だった。彼らの存在を、いままでずっと忘れていたのだ。
「うそ……どうして……っ!」
「あなたをこの部屋に拘束させていただきます」
連中の一人が無感動に告げ、懐から黒い手錠を取り出した。
●
PSYドライバーとアンプルを直接目の前に差し出したところで、小樽は首を縦には振らなかった。
新渡戸は苛立ちも露に小樽を問い詰める。
「こいつは明らかに危険ドラッグの一種だ。さっき救急車で搬送された学会員の血液検査も直に結果が出る。遅かれ早かれ言い逃れ出来ない状況はやってくるでしょう。あちらが何か変な気を起こす前に踏み込むべきです」
「しかし……」
いつもの小樽なら新渡戸の上申に対して不用意に否定的な意見は述べない。それだけの信頼関係が二人の間にはあるからだ。
でも今回は様子がおかしい。もしかして、小樽自身が未来学会と何か繋がりがあるとでもいうのだろうか。
「失礼します」
ノックもせずに駒木が署長室に立ち入る。
「署長。あなたを脅していた警察庁のお偉方ですが、さっき面白いことが判明しましてね」
「何だって?」
純粋に興味があるような顔をする小樽であった。
「その野郎、どうやら未来学会のパトロンだったみたいです」
「やっぱりか」
小樽がさらに落ち込む。
「薄々分かってはいた。で、何か証拠は?」
「まずはこれを」
小樽は小脇に抱えていたブリーフケースから何枚かの写真と書面を取り出した。
「実は警察庁付近に事務所を構える探偵がおりまして。そいつらに俺が目星をつけた連中の内偵をさせたら案の定、一番怪しい奴が未来学会のビルに何度か出入りしていました」
「本当だ。見覚えのある顔がいる」
机の上に写真を広げられた時から、小樽の声音がいつにも増して冷たい。
被写体の人物は未来学会のビルの入りと出を押さえられ、さらには代表者である井草勝巳と料亭で何度か会合している様子を捉えられていた。
「警察庁次長・警視監の村井重三。犯人は彼にお間違い無いですか?」
「間違いない。よく調べ上げたね」
「極めつけはこれですよ」
駒木はさらにICレコーダーを取り出して写真の上に置いた。
「こいつは明確な証拠品に成り得るでしょう。二人が入った料亭の従業員に依頼して盗聴器を仕掛けさせてもらった」
スイッチを入れると、音声がすぐに再生される。
『――……彩萌署の小樽はこちらで押さえてある。さすがに家族の話を持ち出されたら、如何にあの男と言えど大人しくせざるを得ない』
『感心せんな。もっとマシな脅し方は無かったのか』
『一番効果的なやり方ですよ。彼からブラックな経歴を探すのは至難の業ですから』
『もし小樽が何らかの行動に出ても、彼の家族にだけは手を出すな』
『善処します』
駒木がここで一旦音声を止める。
「……さっき、俺の後輩の何人かを署長のご家族のもとへ向かわせました。いまなら署長がGOサインを出したところでご家族に危害は及ばない」
「あのクソ野郎」
小樽が眉をひくつかせて立ち上がった。
「何が善処します、だ。そんなもん、断るって言ってるようなもんだろうが」
「しょ……署長?」
彼とは長い付き合いだが、新渡戸はこれまで一度として小樽の怒りと恥辱に塗れた顔を見たことがなかった。
「駒木君。君達はガサ入れの準備を進めてくれないか?」
「ということは、令状を?」
「ああ。それから、自衛隊にも支援要請を出す」
いま一度、小樽は新渡戸と駒木の顔を一回ずつ見遣った。
「いいか? 彩萌署の威信にかけて、この街を穢そうとしたマザファキ野郎共を現世の地獄へ叩き落としてやれ!」
小樽の過激な発破に、刑事二人は誠実に敬礼した。
●
付近の至るところで大騒ぎが起きているにも関わらず、黒狛探偵社は相変わらずの平常運転だった。
素行調査の報告書を一冊仕上げた轟は、ネットで取り寄せたばかりのサンドバックに殴る蹴るの暴行を加え続ける杏樹を平たい目線で眺めていた。
「うりゃ、ほりゃ、あちょちょちょちょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
砂を打つ鈍い音と杏樹の奇妙な発声が今日のBGMらしい。
「……社長。遊んでないでちゃんと仕事してください」
「なにをー! 肉体改造だって立派な仕事の一つですぅ!」
杏樹が全身を使って威嚇してくる。幼児体型を大きく見せようと意地を張る姿がとても痛々し――いや、可愛らしい。
「あんたこそ自分の体脂肪率を気にしなさいよ!」
「元旦那と喧嘩したからって俺に当たらないでください」
「轟君、最近あんた、私が上司だってことを忘れてるでしょ」
「忘れてませんよ。しゃちょうはそんけいすべきじんせいのししょうですー」
「全部ひらがな! 全部棒読み! 何もかもが嘘くさい!」
杏樹は次に、応接間のソファーで横になっていた玲に水を向けた。
「玲ー、あのおデブ様が苛めてくるー!」
「はいはい。後で相手にしてあげますから、ちょっとだけ休ませてねー」
「この会社に私の味方は誰一人としていないのね」
ふてくされ、杏樹は自らのデスクに引き返した。
「あーあ、こんな時、紫月君がいてくれたらなー」
「あんたが無期限の休暇を言い渡したんでしょ」
「うるしゃーい!」
といった具合に、最近の杏樹は見るからに情緒不安定だ。少なくともいまの彼女には保護者が必要だ。
轟も丁度、紫月の存在が如何に貴重であったかを思い出す。
「……紫月の野郎、本当に大丈夫なんだろうな」
ここ数日間に渡って彼の欠勤が続いている為、雑用も含めて黒狛の業務状況はそこそこ悪化している。杏樹も杏樹でこの様子だし、玲に至っては何があったのか知らないが、やり過ぎとも言えるくらいの仕事量をこなし始めて疲労困憊だ。
この中で唯一、フラットなメンタリティを保っているのは轟一人だけである。
どうしよう。俺が社長になっちゃおうかな――などという邪な考えを遮るように、今日何度目になるか分からないチャイムが鳴り響いた。
インターフォンの受話器を取ると、息を荒げた男の声がした。
『もしもし、火野です。取り急ぎお願いしたいことがありまして……』
「おう、火野君か。とりあえず入れよ」
彼は単なる客ではない。紫月の正体を知る一人で、黒狛の事務所にも時々遊びに来るようになった彼の友人だ。
扉を開くと、額が汗まみれになった龍也が現れた。
「どうした? そんなに慌てて」
「大変っす。このままだと白猫は――彩萌市は一巻の終わりっす!」
「はあ? 何言ってんだお前?」
「話だけでも聞こうじゃないの」
杏樹が轟の後ろから顔を覗かせた。
龍也が応接間のテーブルで杏樹に語った内容はこうだ。
いま話題の未来学会が、彩萌署のガサ入れに対抗して自分達が先手を打つべく、PSYドラッグで強化された学会員を兵力にして街で戦争を起こすつもりらしい。しかも彼らの標的リストには、どういう訳か白猫の名前も載っているのだという。
他にも色々言われたが、大体はこんな理解でいい筈――だと思っていた。
「それ、何処のSF小説?」
杏樹は当然ながら、本気で理解不能といった反応を示す。
「つーか、何で火野君がそんなことを私達に報せる訳?」
「力を貸して欲しいんす」
龍也が頭を深々と下げる。
「未来学会は一人の女の子を神として祭り上げて生まれた組織っす。だから皆さんにはその女の子を奪還する手伝いをして欲しいんす」
「ちょっと待って、理解がおっついてないから」
杏樹が眉間を指先で押して唸ると、玲が二人にお茶を出しつつ首を捻った。
「その女の子って火野君のお知り合い?」
「大切な友達っす」
「なるほど。だったらその女の子に関する情報を――」
「待ちなさい」
杏樹が険しい顔で首を横に振った。
「状況が整理出来てない状態で勝手に話を進めないで。さっきの概略だけじゃ、とてもじゃないけど易々と依頼を受けられる理由にはならないの」
「まあ、たしかにそうだわな」
轟があくび混じりに言った。
「PSYドラッグが何なのかは知ってる。紫月が直接戦った奴が使ってたって話だしな。でも話す相手が違う。俺達は探偵であって戦争屋じゃない。ストーカー退治くらいならペイの内だが、危険な宗教組織一つを相手にドンパチやるのはこっちの専門外だ」
「白猫を助ける義理も無いしね」
杏樹が苛立ちを匂わせつつ答える。
「どうせ白猫が狙われてんのだって、あっちが何かトチったからでしょ? その女の子については心配だけど、こっちが下手に乗り込んで損害を引っ被る理由としては弱いし……」
「そもそも俺達には一切関係無いしな」
外でヘリの音がけたたましく鳴り響く中、轟が身も蓋も無い結論を述べる。
「リスクを負う以上は相応の対価を要求するのが大人の世界だ。紫月のダチ公の頼みでも、そこだけは何があっても曲げられない。義理人情だけじゃ、人っ子一人救えないんだよ」
「だったら葉群さん個人にお願いするまでっす。彼はいま何処に?」
「悪いけど紫月君も貸せないから」
杏樹が舌打ちでもせんばかりに告げる。
「彼はいま無期限の休暇中。職場復帰はしばらく先」
「無期限の休暇? やっぱり、葉群さんの身に何かあったんすか?」
「私が白猫を助ける気が無い理由の一つでね。あいつらのせいで、いまの紫月君は使い物にならなくなっちゃったの」
これも因果応報という奴だろうか。幹人が余計な真似さえしなければ、龍也の依頼についても一考の余地があったかもしれないのに。
現段階で龍也が必要としているのはこちらの戦闘能力だが、紫月を欠いたいま、危険な仕事に対してそう易々と首を縦には振れない。杏樹には社長として従業員を護る義務があるからだ。
「火野君の話だと、そろそろ未来学会が暴れる頃合いかな」
ほとんど冗談のつもりで、杏樹は大型テレビの電源を点ける。
『――……現在、彩萌市の上空から撮影しています……ご覧下さい!』
彩萌市を俯瞰で見た映像の中に、黒い点々が薄気味悪く展開されている。
さらに映像がズームされると、信じがたい様子が映し出される。
『黒い機械を腕に装着した人が、街中の一般人を襲ってます! しかもこれが複数……いまや彩萌市は混沌の坩堝と言える様相を呈して――』
「さっきの音は取材ヘリか」
轟が天井を見上げて舌打ちする。
「まさか本当に街で大暴れするとはな。いま映像で民間人を襲ってる連中が全て未来学会の奴らだとすれば――」
「既に白猫は襲撃を受けてる」
龍也の禿頭で冷や汗が増量する。
「このままだと、貴陽さんが――」
事情を知る者にとっては予想の範疇だが、白猫のオフィスは一瞬で戦場と化してしまった。
腕に黒い機械――PSYドライバーを装備した三人の若い男女が、窓を割って飛び込んできたのだ。
彼らはいずれも白目を剥いている。正気じゃないのは一目瞭然だ。
「おいおいおい、こいつらマジか!?」
さっき出て行った龍也と入れ違いで帰ってきたばかりの弥一が、口をぽかんと開けながら後ずさりして、尻をデスクにぶつけて体勢を崩した。
「おい、てめぇら、ここは関係者以外立ち入り禁止――」
「そんなことを言ってる場合か」
青葉は三人のうち一人の懐に飛び込んで回し蹴りを放つ。
だが、相手は青葉の足首を掴み、いとも簡単に蹴りを無力化してしまった。
「止めた?」
「青葉!」
幹人が執務机の引き出しから銃を取り出し、青葉に投げ渡す。
「今日届いたばかりの新品だ。弾も入ってる。使え!」
「了解」
青葉は真横から飛び掛かってくる女の腕に発砲。狙いはPSYドライバーだ。しかし、女は腕をわずかに下げることで銃弾を回避し、PSYドライバーだけでなく自分の身の安全まで確保してしまった。
「せいっ!」
和音が女の横からハイキックを繰り出して頭に直撃させる。これにはさすがに対応出来なかったらしい、女は泡を吹いて資料が詰まったねずみ色の棚に衝突してずるずると崩れ落ちた。
青葉の足首を掴む男がそのまま腕を振り上げようとするが、弥一がその腕にボールペンを突き刺すことで力が緩み、ようやく青葉は相手の拘束から逃れる。
続けざまに幹人がタックルをかまして男を昏倒させ、青葉が残った一人に銃を投擲して額に命中させる。これにより、ようやく三人の狂人が無力化された。
青葉は床に落ちた銃を拾い上げ、倒れた一人の顔をよく観察する。
「私達の動きが最初の一瞬だけ読まれていた。予知能力を量産したのか」
「おかしい」
弥一が指を口元に当てて呟く。
「俺にはこいつらが相手一人分の動きしか予知してないように見えた。薬品の作用に体が追いついてない。オーバードーズの可能性もある」
さすがは元・医者。着眼点が違う。
「それを検証している余裕は無い。脱出するぞ」
幹人が急いで上着を羽織り、執務机の傍に立てかけていたステッキを引っ掴んだ。
「こいつらはただの切り込み役。後続がすぐに来るぞ」
言っている間に事務所の正面玄関が蹴破られ、いま来た連中と似たような目をした軍勢がなだれ込んできた。まるでゾンビ映画の世界に叩き落とされた気分だ。
青白い顔色の人外じみた人間の波が、こちらの姿を認めるなり焦らすように距離を詰めてくる。
「この様子だと車もアウトだね」
和音が言う通り、既に社用車は彼らに壊されているだろう。
「社長、どうします? いっそ、奴らが割った窓から飛び出しちゃいます?」
「君は鬼か? 四十越えたオッサンにそんなアクションをさせないでくれ」
「正面から突破するのは難しい」
青葉は懐からもう一丁、整備が終わったばかりの愛銃を抜き出す。
「だが、皆殺しにしていいなら難しくはない。どうする?」
「よし、飛び降りよう」
清々しいまでの掌返しだ。
「了解」
青葉が発砲。天井のスプリンクラーを破砕すると、着弾地点を起点に白いスモークが爆発して室内を覆い尽くす。本来は着色した二酸化炭素によって火災を鎮静化する為の代物だが、外部から無理矢理破壊すると煙幕の役割も果たしてくれる。この緊急脱出装置の迅速な稼働には青葉の射撃技術を要するので、言うなれば青葉専用のスモーク弾という見方も出来る。
何はともあれ、四人は即座に窓から飛び降り、草村の如く待ち構えていた大勢の人混みを視界の真下に捉えた。
「どけっ!」
青葉の乱暴な発声と共に、四人は薬漬けの連中の顔を思いっきり踏んづけて跳躍、また別の人間の顔を踏みつけ、さながら『けんけんぱ』のように人混みの上を闊歩した。
やがて軍勢の輪から抜けると、振り返り様に青葉が威嚇射撃。肉薄しようと前のめりになっていた彼らの足元に火花が散った。
「走れ!」
幹人が先行し、殿を務める青葉が威嚇射撃を繰り返し、左右を和音と弥一がつぶさに監視するといった陣形で鈍色の街路を疾走する。
一般の通行人が慌てふためき、はたまた呆然と立ち尽くしている。
その間を縫って疾駆する中、弥一が天を仰いで子供のように喚く。
「もう嫌だ! 社長、命懸けの仕事は金輪際受けないでください!」
「まだまだ元気そうだな。その調子でこれからもよろしく頼むぞ」
「人の話を聞けやこのヒゲオヤジ!」
「黙れゲイ。減俸するぞ」
「アホなことを叫んでる場合か」
唯一冷静な青葉が舌打ちして立ち止まる。
「見ろ。あいつら、一般人まで攻撃している」
言われなくても、他の三人にも見えているだろう。PSYドライバーを装備した若いチンピラ風の男が、手にした鉄パイプで倒れている老人を滅多打ちにしているのだ。
弥一が青葉の横を抜け、疾風の如くチンピラに迫る。
「何してんだ、このクソったれが!」
血走った眼の弥一が放った、助走付きの右ストレートが見事にチンピラの頬を捉えた。
しかし奴はそれだけでは倒れなかった。後ろに崩れかけた体勢を元に戻し、鉄パイプを高々と振り上げたのだ。
「野島さん、伏せろ!」
反射的に弥一が頭を低くした直後、青葉が二発発砲。鉄パイプの長さが半分になり、相手の右肩から噴き出た血が菊の花みたいに咲いて散った。
チンピラが右肩を抱えて蹲ると、弥一は彼に踵落としを決めて気絶させ、倒れる傷だらけの老人の脈を測った。
「……まだかろうじて生きてる。俺は爺さんの応急処置を――」
「無理だな。奴らが追いついてきた」
さっき踏み越えた連中が、車道全体を占拠してよたよたと歩み寄ってくる。
既に都市機能が麻痺しているのか、そういえば車道に展開されている乗用車の数もやけに少ない。これも奴らの仕業か。
「さすがに今度ばかりは年貢の納め時か」
幹人の顔が徐々に青ざめていく。
「諦めるのはまだ早い」
青葉が弾倉を交換しながら言った。
「このままあの世で泣き寝入りするのだけは勘弁だ」
「この数を相手にどうする気だ? 弾のストックが切れたらお終いだぞ」
「だったら銃の台尻で撲殺してやるまでだ」
自分で言っておいてなんだが、何て馬鹿馬鹿しいプランだろう。
これは押し寄せる絶望感を誤魔化したいだけの威勢であって、他の誰かに希望や勇気を与えるような言葉ではない。
そんなものを謳う資格なんて、私は持ち合わせていない。
開けている筈の視界が黒いもやで浸食されているような錯覚。
やっぱり駄目なのかという、諦観。
「よく言った」
誰かの声と共に、青葉の視界が閃光と共に押し広げられた。
瞼の裏さえ焼くような光の爆発と耳に障る金属音がしばらく続いたかと思えば、数秒後には絶望の権化とも言えるような軍勢が一人残らず地面に倒れ込んでいたのだ。
「いまのは……閃光手榴弾か」
「その通り」
いつの間にか横から青葉の肩に手を置いていた褐色肌の男が陽気に笑う。
「初めまして。私は株式会社・IMSの社長、石谷泰山です」
「IMSというと……民間軍事会社の?」
「ええ。我々は貴方達の味方です」
石谷泰山と名乗ったその男は、改めて幹人に向き直る。
「あと少しで警察車両と救急車が到着する。それまでの間、私の部下がどうにかして彼らを抑え込みます」
泰山が顎をしゃくると、建物の陰から迷彩服とタクティカルベストを装備した黒マスクの連中が四人だけ現れた。
「しかし、なにぶん少数精鋭なものでして。この状況で我々がどれだけ耐えきれるかは相手次第でしょう」
「手を貸してくれるのは有り難いが、そちらが弊社と接触してきた理由を知りたい」
「さるお方からの要請で、いまから私が貴方達を黒狛探偵社にお連れします」
「黒狛に?」
大人二人の会話に青葉が口を挟む。
「貴方達は黒狛とコネクションを?」
「とある仕事でニアミスしたのをきっかけに仲良くなりまして。ささ、そんなことより早く行きましょう。裏道を辿りながらだったら比較的安全に辿り着ける」
「俺はここに残りますよ」
弥一が手持ちの救急キットで老人の介抱しながら告げる。
「護ってくれる奴らが来たなら好都合だ。道端で倒れてる民間人の手当てを済ます」
「だったらあたしも残るわ」
和音が軽くストレッチしながら言った。
「人手は必要でしょ? あんたの救命活動を手伝ってあげる」
「すまない」
「西井君、野島君」
幹人が鋭く二人を呼ぶ。
「人生で最高の仕事をしたまえ。そして絶対に生きて、また会おう」
「「イエス、ボス」」
今日の二人はいつも以上に頼もしかった。
これが白猫探偵事務所。力と仕事で築いた信頼の坩堝だ。
「……行ってきます」
青葉は傍の幹人にしか聞こえないよう、二人に対して呟いた。
走る時は後ろを振り向かない。これが、青葉なりの信頼の形だった。
泰山の案内で裏道を辿り、青葉と幹人はやっとの思いで黒狛の事務所が入っているテナントビルの前まで辿り着いた。
「懐かしいな」
事務所の窓ガラスを見上げ、幹人が遠い目をして呟く。
「私は元々この事務所で働いていた。まさか、また戻ってくることになろうとはな」
「思い出に浸っている時間は無い。行こう」
「ああ」
青葉を先頭にして、三人は二階に通じる階段を昇った。
「離してください! あんたらが駄目なら俺一人で行きます!」
「何言ってんの!? ちょっと落ち着きなさいって!」
階段の中腹あたりから見えた事務所の扉の向こうから、青葉にとっては聞き覚えのある声同士が一悶着を起こしていた。
「おい坊主、犬死にしたくなきゃ社長の言うこと聞いとけって」
「誰が坊主っすか。たしかにハゲてますけど!」
「論点がズレてるって。とりあえずお茶をもう一杯――」
「轟君ちょっと、押さないでっ」
「だからって俺の腹に肘打ちするの止めてもらえませんかね」
「うるさ――わわっ、こら火野君、扉を開けないで――』
激しい物音が続いた後、事務所の扉が開かれ、中から四人の男女が前のめりに倒れ込んで折り重なった。
一番下が火野龍也、上が杏樹、その上が東屋轟で、一番上が美作玲だ。
「いっつっつ……ちょっと轟君、重いっ……!」
「美作。お前、ちょっと体重増えたんじゃね?」
「東屋さん、次言ったらお茶に青酸カリを混ぜますよ」
「全員の体重を一手に引き受ける俺の苦しみは無視っすか!?」
揃いも揃って間抜けな連中だった。黒狛の職員は揃いも揃ってアホばっかりと幹人が評していたが、あながち間違ってはいなかったようだ。
やがて杏樹がこちらに気付いて嫌悪感を顔に出す。
「……あんたら、ここで何やってんの?」
「それはこっちの台詞だ」
幹人が盛大にため息を吐いた。
●
「どういうことだ!? 何故彼らは民間人を攻撃している!?」
彩萌市全体の混乱は、勝巳にとっては予想外もいいところだった。
未来学会の本部ビルの最上階に位置する管制室は、いまのところ高白と勝巳の牙城と化している。壁に埋め込まれた大型モニターに映し出された光景は、彩萌市の各所に配備された街頭の監視カメラの映像だ。
「攻撃目標はあくまで白猫と彩萌署だけだった筈だ! 即刻止めさせろ!」
「それは無理な相談です」
「何?」
隣の高白が扇子で口元を不気味に隠す。
「知覚と神経に多大な影響を与える薬物に汚染された連中に統率を求めるという発想がそもそもの間違い。いまや彼らに貴方の声は届きませんよ、代表」
「高白、貴様まさか――」
「ええ。白猫を強襲する部隊以外の者達は皆、PSYドラッグの成分濃度を通常の三倍以上に設定してあります」
これまでの廉価版PSYドラッグは、体内に取り込んだところでまともな状況判断能力や最低限の知覚を脅かさない程度の仕様だった。しかし、ある一定の濃度を越えると服薬した者が凶暴化するという実験結果が既に明かされている。
もし高白の言ったことが本当なら、知性を欠いた数百体以上の猛獣が彩萌市内を隈なく席巻していることになる。
「何故だ? 一体お前は何のつもりでこんなことを!」
「何故? そんなのは決まっている」
高白は懐から無造作にスタンガンを取り出し、勝巳の腹にぐいっと押し付ける。スイッチを入れた瞬間、二十万ボルト以上もの電圧が勝巳の全身を蹂躙した。
まともな声より先に嗚咽が漏れ、勝巳は仰向けに倒れ込む。
「がっ……高白……っ!」
「私は常日頃から、貴方が説く家族愛に虫唾が走っていましたよ。この世界を超能力者で埋め尽くすという素晴らしい計画の発端が、言うに事欠いて亡き妻との約束だというのだから笑いが止まらない。そんな脆弱な精神で成し遂げられる程、プロジェクト・サイコは決して甘くない。だから私が貴方に成り代わって計画を遂行する」
高白が指を鳴らすと、出入り口から銀色のボタンが特徴的な白い制服らしきものを着た男達がぞろぞろと室内に立ち入り、オペレーター達にサブマシンガンの銃口を突きつけて静止した。
「こいつら……PSYソルジャーズか……!」
「ええ。これが私の切り札です」
これは非常に拙い状況だ。未来学会の実働部隊はほぼ全て出払っており、事務や食堂に回っている裏方の職員達を除けば、勝巳を護ってくれるような兵力はこのビル内に存在しない。とある調査の為に外出していた王虎もこのビルに戻るのは当分先だ。
「全ては計画通り」
高白がいつになく高揚感を露にする。
「民間人に手を出した以上、未来学会のゴミは警察によっていずれ処理される。綺麗に掃除されたビル内には私の配下になることを許されたPSYソルジャーズの面々が残り、貴方の身柄はこれからやってくるであろう侵入者達を受け入れた後で富士の樹海に移送される。そこで自分の血が腐るのを感じながら、あの世で亡き妻と会えるかどうかを神に電話で聞いてみるといい」
「水依を囮に……その侵入者をビルの中で始末するつもりか」
「さすが代表。中々のご慧眼で」
もし万が一、侵入者――貴陽青葉が水依を奪い返しに来るようなら、それこそ王虎を急いで呼び戻して彼女の相手をさせるつもりだった。
しかし、体が痺れて動かない以上、もう彼を自由な場所には召喚出来ない。
「感謝しますよ、井草勝巳」
高白が心底馬鹿にしたように勝巳を見下ろす。
「理由がどうあれ、新たな人類の創始者になろうとした貴方の熱意は本物でした。これから先は、私が貴方の意志を引き継ぎます。手始めにこの街を支配し、日本を跪かせ、やがて世界を屈服させてみせましょう」
高白が勝巳の首筋にもう一回スタンガンを当てる。
今度ばかりは、さすがに耐え切れなかった。
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