針が左に回っていく

 食事とは、人生を彩る上で、欠かせないもの。食べることに喜びを見出せないなら、それは死んでいるのと同じ。

 私がずっと口にし続けていた言葉。現実から逃げるために、ダイエットから逃げるために、何より自分の病気から逃げるために、口にし続けていた言葉。

 周りのみんなにとって言い訳でしかないそれば、私にとっては大切なパートナーだったの。私の存在を肯定するために、必要な大切なものだったの。

 それなのに、そんなにも大切なものだったのに。

「……もう、いらないわ」

 あの時を境に、私は口に出せなくなってしまった。大切だった言葉、口癖だったものを、発せ無くなってしまったの。

 食事は大切だと。何よりも大事だから、太ったとしても平気なんだって。ずっとそういい続けて、増えていく体重からは、目をそらしていたのに。

「ダメ、やっぱり食べられない」

 何よりも楽しみだったランチタイム。心を落ち着かせるのは、ディナータイム。1日の元気の為に、モーニングがあり、おやつの時間があったのに。

 食べられない。苦くて、辛くて、塩辛い。

 私が大好きだったはずのものたちは、テーブルの上で湯気を立てている、私を楽しませてくれたものたちが、口に運べない。

「いいじゃない? 無理することなくダイエットに成功して、イケメンをゲットして、スポーツの才能も開花した。妹として、家族として、誇らしいわよ?」

「あなたには分からないのよ。食事の時間を奪われ、その代替行為に走るしかない、情けない自分を見続けなければいけない現実が」

 交通事故だった。トラックにはねられてしまい、頭を強くうち、集中治療室に運び込まれたと聞く。

 別にそれはいい。今は傷跡すら残ってなくて、昔に比べて管理しやすい体になったから、治療を受けたのは別にいいの。

 問題は、やっと食事を食べられるようになった、私の楽しい時間が帰ってきたと、錯覚したその瞬間に襲ってきた。

 味覚障害。

 原因は、頭を強く打ったこと。

 時間の経過と共に治ることがあると、医者には期待を持たされたけれど、今になっても治る気配は無い。私の人生を、ずっと蝕み続ける悪性腫瘍として、残り続けることでしょう。

 食事の時間が楽しくない。いえ、今となっては苦痛なのよ。

 美味しいと、のどを通り過ぎていく感触が良いと、おなかの中に溜まっていく感覚に、幸せを感じられると。そう胸を張って、おなかを張って、主張していた私はここにはいない。

 確かに、将来的に心配されていた成人病も、随分と遠のいた気配がする。ちょっと歩いただけで息切れしていたのに、今ではダンスだって踊れてしまう。

 周りの友達からは、人生の勝ち組だと、私も事故に会いたいと、非常に迷惑なうわさを立てられている。そもそも、痩せたら実は美人でしたなんて、漫画の世界じゃないのよ?

 どうして、私がこんな目に会わなければいけないの?

「でも、食べられないんでしょ? なら、諦めるしかないじゃない」

 隣で、以前は並んで食事なんかしてくれなかった妹が、機嫌の良さそうな顔で話しかけてくる。

 この子にとってみれば、以前の私の主張は理解できないものであり、何度もダイエットを進めてきた身としては、自分の努力が実ったようで嬉しいのかもしれない。

「ねぇ、何が不満なの? ミスコンへの出場まで決まったのよ?」

「あれは、クラスのみんなが勝手に盛り上がってるだけよ。私はそんな、大したもんじゃないわ」

 私が太っていた頃を知っている、そんな友人もいるのに。どうして、過去を無かったような扱いにするの? あの頃のほうが、私は楽しかったのよ?

 食事が美味しく感じられないから、ただ痩せただけ。私の望まない形で、ダイエットが成功しているだけ。

「はぁ……ミスコンに出るよりも、スイーツバイキングを制覇するほうが、余程達成感があるのに。今の私には、口にすることも出来ないなんて、どう考えても不幸だわ」

「今の状況で不幸だなんて言ってたら、ダイエットに苦しんでいる友達に怒られない?」

「気にならないわよ。私にとっては、ダイエットの成功よりも、ケーキを美味しく食べられることのほうが大切なんだから」

 甘みは苦味へと。油っぽいものを食べれば、すぐに胸焼けを起こす。こんな体になってしまって、不幸だとつぶやくことさえ許されないなんて、ありえないわ。

 それも、努力の結果ではなく、病気よ? 味見が出来ないから、唯一得意だったはずの料理も、ろくに出来なくなってしまったのに。私が愛用していたレシピ集がホコリをかぶっているのに。

 笑顔でいられるわけ無いでしょ?

「まぁ、私の作ったものを、美味しくなさそうに食べられるのはイヤだけど、仕方ないんだし。そろそろ諦めて、私と2人、美人姉妹路線で芸能界デビューとか考えない?」

「あなた、読者モデルでしょ? それで十分じゃない」

 私とは似ても似つかなかったはずの、可愛い顔立ち。目がくりっとしていて、保護欲を誘う背丈。

 こんなふうになれたらいいなって、ちょっとうらやんだことはあったけど、こんな形で実現するのなんて、想像すらしてなかったわ。

「甘いよ、お姉ちゃん。読者モデルなんて、何年も続けられるものじゃないんだから、今のうちに次の手を考えておかないと」

「そう、あなたは楽しそうで良いわね」

 人生の潤いを失った私と、楽しそうに笑っている妹。

 どうしてこうなってしまったのかと、嘆かずに入られない現実。

 思い通りに行かないことが身近にあるのだけは、昔と変わらないのね。

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