第4話 暗中に光なく

16CC本社は恵比寿駅から渋谷方向に歩いて十五分ほどのところにあった。

 大通りから一歩裏に入った七階建てのオフィスビル。その一階部分が16CC本社。

 もとは目黒にあったものが、ゲーム部門の増設を機に、グループ企業の頂点となるNRTの本社ビル近くに移って来た……ということらしい。そのあたりの情報は大井弘子のライター仲間によるものであるのだが……。

 「ふーん……」

 約束の時間。約束の場所。

 学校帰りに会社にまでやってきた小娘は口をへの字に結んで、それから言った。

 「外からじゃ、そんな会社があるとは分からんね」

 恵比寿駅で落ち合った姉は黙っている。

 オフィスビルにはそれらしい表示はない。ただ。

 ビルの入り口から不意に二人連れの男が出てくる。血色の良くない二十代の男。あまり人相がよくない二人連れ。そろってジーンズにTシャツというラフなスタイル。一人は金髪にピアス。もう一人は腕に刺青。タトゥー……とは丸山花世は絶対に言わない。刺青。言葉を綺麗にすれば実態が美化される事などないのだ。男が腕に入れているのは単なる『刺青』。

 「……スタジオは押さえてあっから」

 「そう?」

 男達の会話は案外まともであるが……だが、やはりカタギの人間ではないのだ。

 男達は歩み去り、そして丸山花世は言った。

 「チンピラの巣窟か……」

 「そうね」

 大井弘子は頷いた。

 そして。オフィスに入ろうとした姉妹の足が動きかけてまた止まった。16CCの人間だろう、別の社員がよろよろと夏の熱波の中に這いずり出てきたのだ。

 「……」

 眼鏡をかけた太り気味の男。顔色の悪い男は夏の太陽に目をしばたたかせて、そのままふらふらとどこかに歩いていった。

 「アネキ……」

 丸山花世は姉に呼びかけた。

 キンダー系とサイゴン系。ゲーム系は二系統に別れていがみ合っている。で、そのことはすでに妹は姉に報告済み。だが……。

 「ゲーム部門とレコード部門も……明らかに分裂してるよね」

 「そうね」

 どうしても合わない相手、どうしても耐えられないカラーというものがある。同じクリエイターでも、まんまヤクザという感じのレコード部門の人間と、オタク上がりのゲーム部門の人間では多分話はあわないし、もともと会話もないか。

そして。まとまりのない会社、イズムのない会社は早晩空中分解する。

 「倉田だっけ……社長。曲作ってんでしょ? そいつに、ああいう色違いの人間をまとめて引っ張っていくだけのカリスマってあんのかな?」

 「さあ……」

 大井弘子は言い、そこで、オフィスの扉が三度開いた。中から出てきたのはがりがりに痩せた若い女性。大変な美人というわけではない。なんというか、できそこないのホステスのように品の悪い人物。華やかは華やかなのだが、どこか無理をしたような田舎臭さが残る女性は早足で、これもまたどこかに去って行った。

 「所属の……アーティストって奴かね」

 「そうかもしれないわね」

 16CCにはプロダクション業務も行っているという。やはり、ヤクザな会社なのだ。まともな企業ではない。

 「いつまでもこうしているのもなんだし、暑いし……」

 「そうね。いきましょうか」

 姉妹は奇人観察に来たわけではない。仕事に来たのだ。

 「それにしても……本社呼ぶんだったら、作業入る前にすりゃいいのに」

 丸山花世は言い、姉は軽く頷いただけだった。そして、いよいよヤクザ物の巣窟に足を踏み入れる。

 ビル一階の自動ドアの向こうにはエレベーター。二階から上は別会社の事務所などが入っている。 ――生命保険の会社とか、器械とか、お堅いテナントばっかりだな。

 丸山花世はさりげなく一階表札を見ている。それは大井弘子も同じ。

 「自社ビルじゃないよね。家賃どれぐらいなんだろ?」

 「さて。結構な額でしょう……」

 大井弘子は曖昧に応じて、奥に向かう。ビルの一階奥。そこには表札がかかっている。

 ――16CC Record

 ――Kinder CC 

 二つ並んだネームブレート。

 堂々と並んでいるが、実はすでにキンダーCCという部門はなくなっている。今は『16CC Game』。

 プレートを作ってしまったはいいけれど、突然の社名変更。各種備品の変更にも金はかかるだろう。意地を張った結末が細かな金銭的な出血。見栄えもいたって悪い。

 「恥の上塗りね」

 珍しく大井弘子がぼそっと言った。罵声は妹の役回り。だが姉もまた辛らつなところがあるのだ。

 「同感だね」

 丸山花世は言い、そこで、扉脇にあるインターホンを手に取った。

 「ゲームのほうは……内線二〇一ね……」

 まったくてらいもないままにな小娘は受話器を取った。

 「あのーすんません。丸山っていいます。市原さんをお願いします……はい。市原。丸山!」

 小娘は用件を言うと受話器を切り――そしてすぐに市原が出てくる。

 「いやー、どうも……」

 市原はそつがなく、腰は低いのだ。相手を侮ったり馬鹿にしたりするようなところはない。見てくれはピアスをつけるなど、普通ではないが物腰は柔らかなのだ。ただ、だからといって、一般社会で通用するかというとそういうことは多分ない。三井、三菱で勤めるサラリーマンに、市原のようなナンパな者はいないだろう。

 「暑いところ、どうも……こちらにどうぞ!」

 市原はそう言って姉妹を中に導きいれ、大井弘子は軽く頭を下げた。一方、丸山花世のほうは挨拶を姉に任せて社内の観察である。16CCの社内は左手に大きな液晶テレビが二台。液晶テレビの前にはソファがそれぞれ一台ずつ。あるいは、ソファは仮眠用のベッドになるのだろうか。ソファの前にはテーブルが一台ずつ。テーブルの上にはゲームの雑誌にゲーム機。

 ――雑然としたところだな。

 入居してすぐということだからか、社内にはプラスチックやビニールの匂いが漂う。

 右手には間仕切りがあって、その向こうにはデスクが並んでいる。数は三十……四十? つめている社員の間には会話はまったくない。ただ、エアコンのモーター音が響くばかり。

 「ふーん」

 丸山花世は足を止めて部屋の中を観察する。色を塗るもの、何か文字を打ち込んでいるもの、社内は……忙しいのだろうか?

 「こちらです」

 市原は遅れている丸山花世に向かって声をかける。一番奥の部屋。そこが16CCの会議室。

 「あ、うん」

 小娘は悪びれる様子もなく会議室に入った。

 「そちらにどうぞ」

 市原は大井弘子と丸山花世に席を勧めた。真新しいテーブルに……椅子は何故かパイプ椅子。

 「すみません、まだ、事務所、移ったばかりで……」

 白い壁がいやに目に痛い会議室。

 「それにしても、お二人とも綺麗で……本当に美人姉妹ですね」

 市原は女好きなのだろう。そのようなおべんちゃらを言った。大井弘子はただ営業スマイルを浮かべ、一方、丸山花世は聞いていない。

「ちょっと待っててください、今、お茶をお持ちしますから……」

 市原は言い、大井弘子は『お構いなく』と応じたのだが、市原は部屋を出て行った。

 「殺風景な部屋だな……」

 小娘は観察している。観察、観察、観察。基本は見ること。見て本質を掴むこと。見なければ書けないし作れない。

 「……ん、どしたん、アネキ?」

 大井弘子はテーブルの上に乗っていた雑誌を見ている。それは、ギャルゲー専門の雑誌。昔は幾つかあったギャルゲー雑誌もひとつ潰れ、ひとつ廃刊となり、残ったのは一誌のみ。

 「ギャルゲー雑誌、か。私、見たことないなー」

 「そうね。私も、買って読んだことはないわね」

 女は女に幻想を抱かないもの。結局、ユーザーは女性を求めているのではなく、男性の理想を求めているだけ。でも、そんなに都合のよい女はこの世にはいない。丸山花世などは最たる例。まさに地獄の死者。

 やがて。市原が紙コップを持って戻ってくる。

 お茶をもらい、コーヒーをもらい……大井弘子も丸山花世ももらってばかりである。

 「シナリオを読ませてもらいましたよ……」

 「そうですか」

 大井弘子が言った。

 「プロットも……スタッフ全員で読ませていただきました」

 「……」

 「あれは、どちらが書かれたのですか? 大井さんですか? それとも丸山さん?」

 「プロットは私が。名前などは妹が」

 「はあ、そうですか……」

 丸山花世はいらいらしている。小娘は三神の態度を知っているだけに、市原のもっさりとした動きが我慢ならないのだ。

 ――良いのか悪いのか、早く言いやがれ!

 市原という男は気取り屋なのか、それとも単に、ヤクが大脳の血管を破壊したのか、動きに機敏さがないのだ。

 「あの……それで、どうでしたか?」

 大井弘子が尋ねた。

 「シナリオ、どうだったでしょう」

 「あ、ええ、まあ……そうですね。それは、ほかのスタッフとも話し合って……」

 市原は曖昧に言い、小娘はすぐに思った。

 ――こいつ、シナリオの読み込みができてねーんじゃねーのか?

 分からないから言葉を濁す。良し悪しが分かっていない。だから、ほかのスタッフに判断を任せる。

 「えーと、そうだ、新しい名刺ができましたので……」

市原は曖昧なまま話を変えた。名刺。新しい名刺はそんなに大切なことなのか。優先順位としてそれは一番上位にあるのか。大井弘子も渋い顔であるが、特に何も言わない。

 「えーと、丸山さんも、どうぞ」

 市原は名刺を渡してくる。


 ――16CC Game  エグゼクティブプロデューサー市原明和。


 「ふーん」

 小娘はただ鼻を鳴らしただけ。

 「で、それで、今日は……」

 大井弘子が不穏な空気を見せる妹を制して先に言った。

 「今日はですね、ほかのスタッフに会ってもらおうと思いまして……」

 「間とか、越田っていう人?」

 丸山花世は間髪入れずに言った。大井弘子もそれを止めない。

 「間たちの話は……前回しましたか?」

 「いや。聞いてないけど」

 丸山花世は涼しい顔で言ったが、その悪意に市原は気がついていない。抗うつ剤で澱んだ頭は小娘の動きにはついてこられないのか。

 「間たちは今日は別の仕事がありまして。うちでもこれから年末にかけてがんがんタイトルをリリースしていきますから」

 市原は景気が良い。

 「どんなタイトルですか?」

 大井弘子が訊ねる。黙っていれば妹が何を言い出すか分からないから……というわけではない。姉は優しい顔をしていながら、妹以上に鬼のようなところがある。作品を作るために、相手から一切合財全てを引きずり出してエターナル・ラブという作品に注入する。料理は始まっているのだ。

 「まず、今月末に、レゲエガールという作品が出ます。これは、王心社のマンガが原作で、アニメが去年放映されていたもののゲーム化になります」

 「ふーん」

 丸山花世は姉が先ほど触れていたゲーム雑誌を眺めながら適当にうなった。

 「それから、電流魔術詩という……これも、アニメ作品ですね。今年の三月に終わりましたが、これのゲームが再来月に出ます」

 小娘はうなる。

 「へー」

 「それからエロゲー移植のパンプキンアイという作品のコンシューマー。それから、女性向けのゲームであまからポテチという作品。二つの作品は年末に出ます。二つともうちの系列の会社でアニメ化されたものがUHF局で放送されて……あれもそろそろ終わりですか」

 小娘は答えた。

 「はー」

はっきりさせておこう。丸山花世は聞いていない。そして。大井弘子が言った。

 「全て放送には間に合わないのですね」

 「ええ、まあ、そうですね。難しいですね」

 ヒゲのピアス男は明るく言った。この男は何も分かっていない。

 「なかなかアニメの放映にゲームのリリース時期をぶつけていくのって難しいんですよ。開発にどうしても手間取りますから」

 「ほー」

 丸山花世は言った。

 「それから……全ての作品は、こちらの社長さんが楽曲を提供しておられる……」

 「ええ、そうです。その通りです」

 丸山花世は大井弘子のことを見やる。何も考えず、何も気がついていない中年男と、暗い眼差しをした姉。

 ――こういう時のアネキは……私もちょっと怖いんだよな。

 「バーターですよね?」

 大井弘子は尋ね、市原は笑って応じる。

 「ええ、まあ、そういうわけでもないのですが……楽曲を提供して、同時にその関係でゲームの製作をこちらでやっているわけでして」

 「ライセンス費は当然に権利者に払ってますよね?」

 「ええ、もちろんです」

 権利者である王心社の例を挙げれば、ゲーム化に当たってのライセンス費を16CCは王心社に支払う。抱き合わせで会社の社長である倉田が曲を提供する……レコードやCDが十分に売れれば、ライセンス費は曲の著作使用料でペイする。だが、思ったほどに曲がヒットしなければ、ライセンス費の分だけ損。極端な話、それは会社の金で倉田がミュージシャンごっこをしているのと同じ。

 「それで、CDのほうは売れているのですか?」

 大井弘子は探るように言った。通常は、ダイレクトに返答がない難しい質問。普通部下は上司の失態を隠したがるものだが……。

 「それがまったく売れてないんですよ」

 市原ははきはきと明るく言った。質問した大井弘子は思わず妹のほうに怪訝な顔を見せたほどである。

 「売れ行き良くないんですよ。レコード部門。倉田も『自分には経営センスない』とか言ってるぐらでして……」

 「……えーと、大丈夫なの、そんなので、会社は」

 不安に駆られた小娘が訊ねる。

 「ええ、まあ……組織がでかいですしね。NRTグループは。株価は冴えないですけど……」

 「……」


 市原という男は……ちょっというか相当おかしな人物である。貶めるのか、持ち上げるのか。安心させようとしているのか、不安に落とし込もうとしているのか。ただの無責任なのか、それとも何か企図があるのか。

 ――なんだ、このヒゲ……頭やっぱりおかしいな。そうでないとすれば……。

 小娘は思った。そして、同時にエターナル・ラブという作品の先行き。

 作品はただの製造物。商品。でも、そこには魂が宿っている。

 ――こんなおっさんがプロデューサー……。大丈夫なのか?

 暗澹たる気分とはこのこと。と。丸山花世の暗い気持に拍車をかけるようにして大井弘子が言った。

 「雑誌にも、いろいろと広告を載せるのですね……」

 それは丸山花世が飽きてしまったギャルゲー雑誌。いったいどれぐらい部数が出ているのかは分からないが、多分実売は六千部ぐらいか。

 「ええ。エターぐらいの作品になると、向こうから記事を書かせてくれって寄って来ますし……」

 「つかぬことを伺いますが……」

 大井弘子は言った。

 「キンダーガーデンが倒産した時にもこちらの雑誌には広告を出していたわけですよね?」

 「ええ。そうです。ちょうどカーテンコールが出るときでしたから、結構な広告は出しましたよ」

 「倒産したときに……こちらの雑誌では、何か、キンダーの倒産についてコメントのようなものはありましたか? たとえば……残念なお知らせであるとか、ありがとう、であるとか」

 女主人の声は低い。そして市原は特に何の感慨も現さないままに言った。

 「いいえ。そういうのはありませんでしたね。はい。ボクの知る限りは見てないです」

 「で、今回も、こちらの雑誌に広告を載せる?」

 「ええ、そうですね」

 小娘は姉の質問の意味を理解している。つまりは、

 ――おまえにはプライドはないのか。

 ということであろう。さらには、

 ――倒産という大きな事件を経験したのに、何事もなかったかのように昨日と同じことをしようとしているのか?

 という疑問。キンダーの人々は……つまり、変わっていない。変わることを拒否するということ。

 「以前にもお話したように、エターは勝負作ですから、広報に金をかけようと思っているんですよ。七百万とか……それから、声優を集めて感謝イベント」

 「イベントですか……」

 大井弘子は首をかしげている。

 「馬鹿にならないのでしょう……費用のほうも」

 「たいしたことはないですよ。会社の費用ですし」 

 丸山花世は、そこで思った。

 ――こいつらは……っていうか、この会社は組織として相当まずいぞ!

 『自分の金じゃない、会社の金だ』と社員である市原は思い、そして、倉田という社長は『自分の金じゃない、グループの金だ』と思っている。まったくの無責任。真剣さの欠如。何かあれば、

 ――オレ達がいないと現場は回ってかねーんだよ。

 と居直って抵抗する。そういう組織が生き残れるのか?

 ――あんたねえ……。

  こんな程度の人物がゲーム部門のトップとは……だが。小娘はすぐに驚くことになる。それはつまり、

 ――市原はキンダーの残党の中ではまだまとも。

 そのことはすぐに明らかになる。

 「それにしても、遅いな……ちょっと、待っててください」

 市原はそう言い置いて会議室から出て行ってしまい、後には姉妹が残される。

 「なー、アネキ……。この会社って、どうなってんだろ?」

 「さあ……」

 「アネキ、さっき、雑誌にコメント云々っていってたじゃんか……」

 突然、思い出したようにして小娘は言った。姉は、確か、

 ――倒産をしたときに、コメントのようなものが出されたか。

 という質問をしていた。

 「あれね……キンダーの倒産について調べていたら、自分のブログで雑誌に対する不満を書いていた人がいたのね。『倒産したら、それまでのことは忘れて知らん顔かよ』って。その人は単なるファンの人みたいで。で、私も気になって聞いてみたの」

 「ふーん……」

 どいつもこいつも流れ作業で昨日のまま。彼らには感情というものはないのか。  

 やがて。市原は戻ってきた。出て行ったときには一人。戻って来たときは三人。二人のお供を連れて戻ってきたのであるが……。

 「……」

 市原のすぐ後ろにいるのはなまっちろい、やや太り気味の眼鏡をかけたオタク然とした男、その後ろにはこちらはやせぎすで四角い顔をした若造。二人はひどく不機嫌な様子で会議室の席についた。

 「えーと、プロデューサーの芝崎とディレクターの松木です」

 市原はそう言った。小太りのなまっちろい奴が芝崎。痩せた若造が松木。

 ――なんだこいつら……。


 一目見て丸山花世は嫌な顔を作った。不快な印象。傲慢な人物。友達にしたくない相手。第一印象はきわめて大事。そして、芝崎も松木もひどく勘に触る嫌な電波を発しているのだ。

 「……」

 小娘がさりげなく視線を送ると……姉もなんともいえないじっとりとした表情になっている。それでも。

 「大井です」

 大井弘子は営業用の笑顔で言った。

 「こちらは妹の丸山花世です」

 芝崎という男は、自己紹介に、ふんというような態度を取った。そして、そのような態度は大井弘子だけではなく、むしろ市原に対してのものであるように小娘には感ぜられる。

 ――てめーの言うことなんか聞かねーんだよ!

 芝崎の態度はそのような尊大なものであり、それは、松木も同じであった。

 「芝崎次郎です」

 なまっちろい眼鏡は見下したようにして名刺を取り出し、松木もそれにならう。松木という男はどうも芝崎には従うが、市原には従わないと、そういうことのようである。

 「プロデューサーさん、ですか……」

 大井弘子はちょっと首をかしげるようなそぶりを見せて、貰った名刺を眺める。

 「エグゼクティブ・プロデューサーとプロデューサーはどう違うのですか?」

 大井弘子の問いかけに、市原は言った。

 「いや、それは、全体を統括するのがボクということで……」

 「屋上屋になってしまいませんか?」

 「そういうことは……」

 芝崎は大井弘子のことをにらむように見ている。目が悪いというわけではないだろう。嫌な視線であり、悪意に満ちた眼差しである。松木も同じ。どうも二人は大井弘子に対しても丸山花世に対しても良い感情は抱いていない……恨まれるようなことを果たしてしたか。丸山花世はスネに傷がありすぎるので、芝崎、松木のことは思い出せない。

 「いずれにせよ、市原さんは芝崎さんよりも立場が上、ということですね?」

 「まあ……そうです」

 市原は自信なさそうに言った。芝崎も松木も何も言わない。

 妹は姉の言いたいことを察している。

 ――プロデューサーにしろ、ディレクターにしろ、会社での立場が下なんだから、上司を待たせたりするのはおかしいよなー。お茶くむの、普通、ディレクターの松木だろ。

 だが、そうしない。つまり、現場の芝崎や松木は増長しているのだ。それは役員に対しても尊大な態度を取っていた間正三郎も同じ。一方、大井弘子のほうは妹が理解したのを感じ取ったのか、会社での序列についてはそれ以上詮索しなかった。

 上司を上司と思わないで良い。16CCとは多分そういう会社。であれば、外注の人間が芝崎や松木のことを奉らなくても構うまい。

 「さて……それで、ですが……」

 大井弘子は多分相手が自分に対して敵意を抱いていることを知っている。けれどそれには触れない。触れないままに話し始める。

 「今日の打ち合わせですが、いったい何を……」

 「その件ですが……」

 芝崎が言った。不細工な豚のような面をした男。丸山花世はこの手の顔があまり好きではない。

 「シナリオを読みました。それから、プロットも……」

 「さようですか」

 大井弘子はやんわりと言った。そういう言い方をするときが実は姉が一番恐ろしいことを妹は知っている。

 「それでなのですが……」

 芝崎の言葉を大井弘子が不意にさえぎった。

 「その前に……ご存知だと思いますが、私達はブランの三神さんのご依頼を受けてタイニー・エターという作品を作っております」

 何故そういうことを不意に語ったのか。妹にはすぐには分からなかったが、その言葉の効果は特筆に価するものとなる。

 「……」

 芝崎も松木も沈黙する。一瞬、何を言われたのか分からなかったのか。大井弘子は同じ事を繰り返す。

 「ブランではエターナル・ラブの同人版であるタイニー・エターを製作しています。私と妹がシナリオを担当しています」

 大井弘子はちょっと語調が強かった。その言葉の意味を妹は理解する。つまり、

 ――作品の神様に選ばれているのは私達であって、あなた達ではない。

 という牽制であるのだ。そして、牽制球は思いも寄らぬ波紋を作った。芝崎が突然激昂したのだ。

 「何ーッ?」

 芝崎に合わせて松木も言う。

 「何だって?」

 それは狂気の炸裂であった。頭のおかしな男達の突然の暴発。丸山花世ですら男達の剣幕に一瞬たじろいだ。

 「知らねえッ! 俺達は聞いてねえぞッ!」

 芝崎は唇を震わせ絶叫し、松木もヒステリックに喚いて机を叩いた。

 「いったいどういうことなんだ! ああッ?」

 怒りの矛先は市原に……ということは、大井弘子や丸山花世に対して向けられている。

 ――こいつらなんだ?

 生意気な小娘もあっけに取られている。

 初対面の相手である。初対面の相手に『俺達は聞いてねえ』。まともん人間ではない。

 「知らねえんだよ! なんだ、タイニー・エターって!」

 松木は歯をむき出しにして叫び、芝崎もつばを飛ばして激昂する。

 「認めねえ! 絶対に、認めねえ!」

 「い、いや、それは……」

 現場の反乱に市原はなす術がない。そして大井弘子は冷静であった。

 「三神さんからそちらに話は伝わっているはずですが……」

 「いや、はい、聞いています……」

 市原は息も絶え絶えに言った。要するに、情報は市原のところで止まっていた。そういうことだろう。それにしても。

 ――こいつら馬鹿だな……。

 丸山花世は思っている。

 ――認めるも認めねーも、てめーらただの下請けじゃんか。ブランに権利譲ってもらっておきながら、何が認めねーだよ。こいつらてめーの立場ってもんがわかってねーな。

 目を血走らせて喚く三十男。

 いったい三十年、どこをどう生きて来ればこのような愚かしい人間になれるのか。しかも一度はキンダーガーデンは倒産しており、と、いうことは、それなりの試練を受けてきたというのに、それでもまだこの知能程度。芝崎も松木も学習能力は絶無であるのか。

 アホなエグゼクティブプロデューサーはまったくおさえというものが効かない。そこで、というか当然のように大井弘子が言った。

 「どうもそちらの社内で連絡の行き違いがあったようですね。それは、そちらサイドの問題ですから、あとでゆっくり話をしてください」

 内輪争いは私らが帰ってからやってくれ。

 大井弘子は言外にそう言っているのだが、理解力に劣る芝崎には大井弘子の真意は多分伝わっていない。眼鏡のとっちゃんぼうやはいやな目を市原に向けるばかり。

 「お話を進めてくださいませんか?」

 美人はそういって市原を促した。

 「何かご用件があると承って、それで、こちらにまかりこしたわけですから」

 市原は、そこで慌てて言った。

 「ああ、はい、そう、そうでした。ええと、思い出したのですがボクのほうから、一点あります。それはキャラクターのことなのですが……」

 「なんでしょう?」

 「この作品にずっとまで穂積丈というキャラを出しているんですよね……」

 穂積丈。確かに、エターナル・ラブにはそのようなキャラが必ず出てくる。ある意味、エターの本当の主人公は彼であるのか。あるいは、主人公の友人として、先輩として、おせっかいな相棒として。主人公のキャラは一作ごとに消えていくし、ヒロインもまた同じ。ただ穂積だけが何度も現れる。

 市原は言った。

 「穂積丈を今作も出して欲しいのです」

 市原は穂積というキャラに愛着がある――あるいは自分の分身として穂積を見ているのか。だが。

 「丈はいらねーよ!」

 白豚のごとき不細工芝崎がまたも激発した。

 「あんなのもういいんだよ! 何回出てくりゃ気が済むんだ!」

 松木も続ける。

 「あれはもういいですよ。丈は……」

 「いや、穂積丈はいるでしょう……」

 市原は譲らない。そこでイライラした小娘が言った。

 「どっちなんだよ」

 「穂積は出してください……できますよね?」

 「ええ……シナリオは書き始めたばかりですし」

 大井弘子が珍しくうるさそうに言った。

 「ではそういうことでお願いします」

 市原は先ほど芝崎たちを御しきれなかった鬱屈があるのか意固地になって我を通した。そして押し切られた芝崎は机の上に突っ伏すようにして、

 「いらねーよ、なー、穂積なんて、いらねーんだよ、なあ!」

 と、喚きはじめる。

 自分の意見が通らずぶんむくれて机の上で転げまわる。その様子は、まるで暴れる痴呆老人のよう。さすがの丸山花世も疲れ果てている。

 ――こいつ……おつむに障害でもあんじゃねーの?

 はっきり言えば精神疾患。キンダーの残党は本当にろくな奴がいない。というか、そういう奴らばかりだから潰れたのか。

 ――三神のにーちゃんも変な奴だけれど、あれはあれできちんとスジ通ってる。けれど、こいつは、本当に人間のクズだぞ……。

 使える人間、愛される人間はブランに救済され、使えない人間、不快な人間は16CCに直行。要するに、そこは掃き溜め、であるのか。

 「……ほかには?」

 呆れて苦い顔の丸山花世に対して、姉のほうは、視線が鋭い。大井弘子の目には男達の内側の内側までが見透かされているのに違いない。

 「ほかには? 何かないのか?」



 市原は転げまわっている芝崎を促した。芝崎は、小娘の軽蔑するような眼差しにようやく気がついたのか、恥じるのではなく、威嚇するようにして歯を剥いた。

 ――程度の悪いブタヤロウだな、こいつ。

 このような低能は言葉では分からず、暴力で躾けるべき。小娘はいつ白豚に鉄拳を見舞うか、そのタイミングを計り始めている。

 「プロットのことなんですが……」

 松木が言った。凶暴な芝崎よりは、ディレクターのほうが多少はましなのか。

 「安治夕子は最初、顔は……ゲームが開始した当初はわからないんですよね……」

 「そうです。最初のうちは出てきませんね」

 「何時頃、このキャラは出て来るのですか?」

 「ゲーム開始から四日目を予定しています」

 「そうですか……」

 松木は何を言いたいのか。あるいは、何も言いたくないのか。

 「ラジオの投稿が縁で主人公とは知り合うわけですね……」

 松木は言い、芝崎が言った。

 「投稿がフックになってるわけか……」

 「は?」

 丸山花世はたまりかねて言った。

 「何よ、フックって……」

 小娘のいらついた叫びに、芝崎は黙り込む。自分はヒステリックに叫ぶが、他人が突っかかってくると押し黙る。この男、やはり重度の精神疾患を抱えているのか。

 「フックってなんなのよ?」

 「……フックというのは、物語の……何と言うか、重要なキーというか……」

 「はーん」

 丸山花世は冷たい視線を白デブに送った。

 「なんかさー市原さんだっけ、あんたも座組みがどうとか言ってたけど……なんで、この会社の人は自分だけにしか分からん暗号みたいなことを得々と語るのよ」

 業界人気取りのクリエイター気取り。けれど。自分にしか分からない隠語を偉そうに語られても、相手に伝わらなければ何の意味もない。むしろ誤解を与えるのであれば、そのような符丁は使わないほうがよほどまし。もとより頭の良い人間は相手にわかるように伝えるもの。相手と自分の間に高い壁を築くような言葉ならばないほうがいい。だいたい、大井弘子も丸山花世も、そのようなおかしな業界用語は使わないし、それは、彼女達が知っている仲間の作り手も同じ。けだし、きちんとしたものを作っている人間ほど業界用語、というか、個人だけが分かるような言葉は使わないのだ。

 「感じ悪いよ。人間として」

 丸山花世ははっきりと言った。男達は黙り込む。市原はただ口を結んで下を向き、芝崎は血走った目で小娘をにらみつける。松木は……表情がぼんやりとしていて心のうちが読み取れない。そして悪くなった空気を無視して大井弘子が言った。

 「ああ、そうだ……」

 姉は妹の非礼をたしなめたりしない。自分でも思っていることだからであろう。

 「主人公の名前ですけれど……」

 大井弘子はすでにそのなぞなぞの意味を知っている。

 「妹が考えたのですが、魚の名前を貰っています。鈴木だったらスズキ。平はタイ。安治は……アジですね」

 姉がそのようなことを言ったのは……場の空気を和ませる意味もあったかもしれないが、もっと別の効果を期待してのものではなかったか。つまり……相手の能力を測る。三神はこちらが語る前からキャラの名前に隠された法則を読み解いていた。そして。市原が言った。

 「ああ、そうだったのですか……」

 ヒゲの男はただ納得しただけであった。謎が解けてもどうということはない。松木もぼんやりしている。ただ……芝崎だけがまたもおかしな行動を見せた。

 「あー、はいはい、そんなことはわかってましたよ!」

 まるでふて腐れたような、いらだったような叫び。

 「そんなことは、最初から気がついてました!」

 頭の狂った幼稚園児は歯噛みをするようにして喚いた。そして、小娘は思った。

 ――こいつゼッテーわかってねーよな……。

 分かっていないのに、何故、分かっていたと言い張るのか。それが何の得になるのか。小娘には意味が分からない。

 そして、気のふれた中年男芝崎は突然言った。

 「名前、キャラの名前がどうもしっくりこないんだよ……」

 「……」

 「気に入らないんだよな」

 「もう作業入っちまってんだけど……」

 いまさら、何言ってやがる。丸山花世はむかっ腹を立てている。そういうことは、シナリオ作業に入る前に言え……だが。

 「名前名前名前……」

 芝崎は話を聞いていない。どうも、この男、本当に知的障害があるのか。松木も市原も突然おかしな具合にスイッチが入った芝崎のことを黙って見守るばかり。そして。なまっちろい豚野郎はおもむろに立ち上がり、それから会議室のホワイトボードに何かを書き始める。

「安治、安治、安治夕子……この名前が気に入らないんだよなー……夕子、夕子……夕子……」

 「何が気にいらねーんだよ」

 丸山花世は怒って叫んだ。

 「てめー、何が気にいらねーんだ!」

 芝崎は丸山花世とも、大井弘子とも目をあわさず、ホワイトボードに夕子の文字を狂ったように書き殴りはじめた! 市原も松木も見てはいけないものから目をそらすようにして自分の膝を見ている。

 「名前……」

 芝崎はホワイトボードに奇妙な線を描いている。完全な異常者である。だが。奇行を見せ続ける芝崎に丸山花世はさらに追加で叫んだ。相手が狂人だからなんだというのだ? 言って分からない相手であればこその鉄拳!

 「おいー、てめー、ちゃんと会話できねーのかよ! おいっ!」

 小娘は立ち上がり、そこで市原が立ち上がった。このまま放っておけばきっと丸山花世は芝崎の後頭部に正拳突きを叩き込むに違いない。流血沙汰になれば、それは間違いなく市原にも監督責任が及ぶ。

 「名前のことは……あとでいいから」

 市原の言葉に芝崎はふて腐れたように下唇を突き出した。不細工な顔がよりいっそう不細工に歪む。それはまさに吐き気を催す醜さ。

 「なんか気にいらねーんだよ、名前が!」

 眼鏡をかけたなまっちろい豚野郎は吐き捨てるようにして言い、ワンマンショーを打ち切った。

 丸山花世も席に戻る。

 ――こいつ、他人とコミュニケーションをとるってことができねーのか?

 会話を成立させにくい人物。奇妙なプロデューサー芝崎はひねた顔のまま席に戻った。どうも目の前にいる三十男は本当に知的障害か、人格障害があるようである。まともな人間ではない。

 「……ほかには?」

 奇行をたっぷりと見物した大井弘子が尋ねた。

 誰も何もこたえない。

 「では、今日はこのあたりで。かまいませんね?」

 大井弘子は席を立ち、丸山花世は芝崎と松木の両人にな侮蔑の視線を送った。不思議なことに、気狂いワンマンショーを見せたことで満足したのだろうか。芝崎次郎は魂が抜けたようにしてぼんやりしている。

 ――なんか……気持の悪い男だな……。

 侮蔑から薄気味悪さへ。はじめてみる異常者のダンスにつわものである小娘も寒気を感じている。

 ――こんなんで、ほんと大丈夫なのかよ……。

 16CCの未来は限りなく暗い……。

 午後四時半の山手線は込んでおり……。

 物書きヤクザは恵比寿から品川までの旅の供。

 「なあ……アネキ」

 つり革に捕まったまま小娘は言う。普段は強気の小娘もいつになく疲れ気味。

 「なんなんだ、あの芝崎って奴は……」

 「……」

 姉は何かを深く考え込んでいる。

 「なんかさー……あいつ、自分の仕事間違えてるよな。作品作るのって地味な作業なわけでさ。なんか急に机の上で転げまわったり、気狂いみたいにホワイトボードに意味フメーな記号書き並べたり……何が『フック』だよ。馬鹿か!」

 「向いてないんでしょうね。仕事」

 大井弘子は言った。

 「多分……あの人は、というか、市原さんもそうなのだけれど、作品を作るのが好きでこの業界に入ってきたわけではないのでしょう。格好良いから、聞こえが良いから、だからゲーム業界に入った。華やかな感じがしたから……言ってみればファッション」

 「ピアスとかシャブとかと一緒ね……作品の神様なめんなよ、ったく……」

 列車は五反田を過ぎる。

 「聞こえが良いから。時代の最先端だから……結局、脚光を浴びたいというのが一番なのでしょう。自己顕示欲、自己愛。スタンドプレー」

 「……」

 「人は、同じような性格のタイプが集まるもの。倉田というミュージシャン崩れ。市原さん。芝崎さん。全員が全員、作品を作ることよりも自分の名声を高めることに執着する」

 「……単なる目立ちたがり屋じゃんか。なにイキってんだよな。クズが」

 ホワイトボードに向かって奇妙な線を書きなぐる芝崎。あれは、

 『俺はやっているんだ』

 という自己アピールであり、ゲームのプロデューサーをやっているという自己陶酔。芝居。あるいは『ごっこ』。プロデューサーごっこ。もちろんそんなことに本当の意味での価値などないし、付き合わされるほうは大きな迷惑でしかない。 

 「馬鹿じゃねーの。そんなことやってっから会社潰れんだよ」

 「そうね」

 大井弘子は頷いて続ける。

 「作品を売り込むのではなく、自分の存在を世間に誇示したい……ある種の人格障害なんでしょうね」

 「気狂いかよ」

 「それはでも……」

 「?」

 「どうなのかしらね。もともと、そういう性向の人だったのでしょうけれど、それが磨かれていった。悪いほうに育ってしまったのか」

 「……」

 大井弘子は自分の心の中から適切な言葉を捜しながら話している。

 「……いろいろと思うのね。市原さんのこともそうだし、ほかのキンダーのスタッフも」

 「どんなことを?」

 「結局……彼らには過ぎた成功だったんでしょう。エターナル・ラブは」

 「……過ぎた成功」

 「二十代……早ければ十代でゲーム業界に入って。今から十年ぐらい前といえばプレステ2が出た頃で、だからまだ、業界的にも伸び代のある時期で」

 「……」

 「作ればある程度はけて。エターに関して言えば十万本単位で売れて。オタクの若者が、憧れだった声優に指示出ししたり、ライブを開いてみたり、雑誌の取材を受けたり……二十代にして脚光を浴びて未来のクリエイターとか称えられて」

 「……芝崎が脚光ね。あんな馬鹿が」

 丸山花世は苦りきっている。

 「本人も悪いのだろうけれど、持ち上げる世間も悪いのでしょう。本当であれば、上司にたしなめられたり叱られたりするところをそういう経験をまったくせず……」

 「俺たちがいなけりゃ現場は回らない、か……」

 三神智仁の言葉が思い出される。

 「大事な経験、大事な挫折をまったくしないままに十年間」

 大井弘子は物憂い顔をしている。

 「でも……若い時でないと響かない苦言とか叱責ってあると思うのね。我慢することや膝を屈することを覚えなければならない時期。人の哀しみや、苦しみを学ぶ時期。そういう時期を彼らは持ち得なかった」

 丸山花世は思っている。

 姉が……わざわざ居酒屋稼業を続けているのは、そこにこそ人としての大事な何かがあるからではないか。

 「しかも……彼らは、本当の意味で苦吟して作品を作っているわけではない。要するにただの雑用でしょう。下働き。エグゼクティブ・プロデューサーなんて格好つけて言ってるけれど、そんなものに何の意味もない。それだったら係長とか主任とか、そういう肩書きのほうがよほど気が利いている」

 「スペシャリストになれないから、ゼネラリストって奴ね……」

 あるいは。

 小娘は思っている。芝崎の気が狂った行動も……結局は、ただプライドだけを肥大させた小心な人間の『作れる人間』に対する、必死の背伸びではなかったか。もっとも、背伸びも何も、能力のない人間がいくら気取ってプロデューサーを演じても何の意味もないのだ。まったく意味のない自己満足。そのような演技もキンダーガーデンという会社が存続していて、隆々と仕事が回っていれば皆が納得するのかもしれない。だが、キンダーガーデンは潰れたのだ。潰れて綺麗さっぱりなくなった。会社を潰した人間、潰れた会社の社員がいまさらに名プロデューサーを気取ってホワイトボードを前に奇妙なダンスを披露したところで何の意味もない。今の芝崎はせいぜいが頭のおかしなピエロ。

 「花世。私は、今回の仕事、いろいろな意見はあると思うけれど、受けてよかったと思うのね。あなたには芝崎さんや市原さんのような半端な人間をよく見ておいて欲しい」

 「……」

 「ああいう作り手にはなってはいけない。ただ、傲慢なだけで何の価値もない人々」

 「市原のおっさんは……傲慢な感じではないけど。むしろ、卑屈? いずれにせよ私はあんまり感心してないけど」

 「傲慢な人間は簡単に卑屈になるのよ。卑屈な人間は何かのきっかけで簡単に傲慢になる」

 「……ああ、まあ、そうかもなー。あいつは、そんな感じか」

 市原も……腰が低く、そつがないように見せて、時に、感じの悪い対抗心のようなものをしぐさや言葉に覗かせる。

 かつての自分の部下にもそうだし、権利を持っているブランにもそう。自分の親分である倉田にも暗い視線を送っている。あるいは、

 ――俺だってかつては社長だったんだよ! 今は、こんなふうにてめーの下についてるけれど、何かあれば必ずひっくり返してやる!

 とでも思っているのだろうか。その証左がメールアドレスの『FMB』。もっとも、市原が状況をひっくり返すことは金輪際ない。

 「……エター。作品が哀れだよなー」

 小娘はため息をついた。

 それは昨日も三神智仁の前で漏らした呟き。

「誰もさ……作品のこと考えないんだよ。エターっていう作品の行く末。作品の未来。どいつもこいつも自分が目立ちたいばっかり。エターを作った市原。エターを作った芝崎。だからボクちゃんかっこいい。てめーのどこがかっこいいんだよ。豚みてぇな面しやがって、アホかッ!」

 丸山花世は腹を立てている。

 「最後の最後まで作品にすがって生きながらえようとしてる。そういう自分を醜いとも思ってないんだ。連中は。最後の最後まで食い散らかして……何が声優集めてイベントだよ。人の金でちゃらちゃら遊ぶだけのダニのくせしやがって!」

 作品はエターナル。不滅である。人の命は有限。けれど作品は世代を超えて受け継がれていくもの。

 「……作品泣いてるよなあ。なんで分かんねーのかな」

 三万本は売れる。市原はそのように楽観的だが、そんなことはおそらくあるまい。多額の広告費をかけて、それでも結局、受注は一万本程度。16CCは当然、損を出すことになる。だが、それでもいいのだ。NRTという親会社が支援をしてくれるから。NRTも16CCもクリエイターに優しいから、何をしても許される……。

 ――んなわけねーだろ。

 金は無尽蔵ではない。それともNRTという会社は儲かりに儲かっていて、で、あるから税金対策として16CCをやっているのか。どうもそんな風情ではない。

 「……どいつもこいつも無責任なんだよな。誰も作品に責任もってねー」

 会社全体に広がる無責任体質。そしてぼろぼろになったエターナル・ラブは嘲笑の対象となるのだ。

 ――こんな程度。

 ――つまんねー。

 ――カーテンコールで終わらせたほうがよかったんじゃねーの?

 そのような評価は、シナリオの作業が終わる前から目に見えている。そして……作品は立ち枯れるのだ。嘲笑されて忘れられていく。

 「アネキ……こんな悲惨な作品を私は見たことがないよ」

 丸山花世は……作品をひとつの命としてみている。市原や芝崎と同じレベルの一個の独立した命。小娘には豚のように愚劣な市原たちが作品を虐待しているように感じられる。それはどうしても許しがたいこと。

 「だからこそ、私達だけでも作品の側に立ちましょう。作品の尊厳を守りましょう」

 大井弘子は言った。

 「あの人たちにはそういう感覚はないみたいだから」

 姉は決然と言った。

 「そうだね。うん。そうだ……」

そう。そうするしかないのだ。

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