ねぇね

 日課の一人シュッポッポに励もうとしている時だった。


 コンコンという背後から聞こえてきたノック音に、恭介はビクッと身体を震わし、ぴんと背筋を伸ばした。


「恭く~ん、入るよ~」


 姉・藍里の声音。


 とりあえず外界と音を遮断せぬように片耳だけヘッドホンをずらしておいて正解であった。


「くっ!」


 そういうイレギュラーな事態も想定してことに及んでいる恭介だが、いざとなるとさすがに焦る。


 机の上のパソコンと向かい合い、イスに腰掛けていた恭介は、まず初めにマウスをクリックし、動画プレイヤーを閉じ、次いでパンツを上げる。


 この辺の順序には迷うところもあるが、下半身の露出は最小限に控え、窓に鍵を掛け、部屋の戸口には背を向けた状態であったため、背後からでは何をしているか不明であり、戸を開けられたらすぐに目に入る可能性がある動画を先に閉じたのである。


「恭くん? お姉ちゃん、ちょっと恭くんに大切なお話があるんだけど……いいかな?」


 藍里がドアから顔を覗かせ言ってきた。


「あ、う、うん……」


 とりあえず間に合った。実の姉に情けない姿を見せずに済んだ。


 しかしまだ動揺が残っているため、わざと緩慢な動作でヘッドホンを外し、床を蹴ってくるっと椅子を回転させ、もしかしたら股間の膨らみがバレる恐れもあるため、さっと足を組んだ。


「お邪魔するね?」


 何かマンガ雑誌を小脇に抱えていた藍里は恭介の部屋に入室すると、ぱたんとドアを閉めると続けて言う。


「あ……もしかして一人シュッポッポ中だった?」


「!」


 ば……バレていた?


「ね……ねぇね? 何を言ってんのかな?」


 と、表情を引き攣らせつつ恭介。


「もし途中だったらお姉ちゃんに構わず続けていいよ。優しく見守ってて上げるから」


「で、できるわけ……! いや……してねーけど……ってか、た、大切な話って……何?」


 恭介は話を変えるように姉に訊いた。


「うん。お姉ちゃんからのいいお知らせと悪いお知らせ……恭くんはどっちから先に聞きたい?」


「えっ? 何それ? 何かのジョーク?」


「いえ、恭くんのお姉ちゃんはまじめなお話の時にそういった冗談を好みません」


「いや、それは知ってるけど……」


「だったらどっちを先に聞きたい? いいお知らせか、悪いお知らせか」


「んじゃ、まあ……悪い方からで」


「わかった。悪い方のお知らせね? 恭くん。気をしっかり持って聞いてね?」


 神妙な顔付きで言ってくる藍里に、息を呑み込む恭介。


「恭くん。実はね、悲しいことだけど……実の姉弟は結婚ができないの」


「……えっ……?」


 きょとんとなる恭介。


 藍里は少し間をおいてから、


「じゃあ次はいいお知らせね? 例え結――」


「ちょ、ちょっと待ってよ、ねぇね?」


 恭介は藍里の言葉を遮って、


「悪い話ってそれだけなの?」


 と、訊いた。


「うん、そうだよ」


「そうだよって……そんな当たり前のことを今更……どういうこと?」


「そう……恭くんはしっかりと現実を受け止めようとしているのね、お姉ちゃん、安心したわ」


「……はっ?」


「恭くん、幼い頃にお姉ちゃんと結婚してくれるって言ってくれたでしょ?」


「えっ?」


 あまりちゃんとは覚えていないが、姉の藍里に幼い頃はべったりとして育ってきた恭介だったので、そういう類の発言は普通にしていたと思われた。


「それでこの間も……お姉ちゃんへの想いが消えてないってわかってお姉ちゃん大歓喜したの」


「こ、この間って……それは……」


 おそらくはあの時のことだろう。


 恭介は、数か月前の姉とのやりとりを思い起こしていた。


 その日、学校から帰ると、姉の藍里が恭介の部屋の片隅でどんよりとした空気を漂わせつつ、体育座りをしていた。


「ね……ねぇね? 人の部屋で何してんの?」


「恭くん……お帰りね」


「な……何? 気分でも悪いの?」


「ううん、違うの。お姉ちゃんね、振られちゃった……」


「へ、へー……」


 またか、といつもの柔らかな笑みが藍里の顔から消え失せた理由に納得する恭介。


 正直、時間の問題であると思っていたのだ。


「ねえ、恭くん? お姉ちゃん、そんなに太ってるかな? もっと痩せないとダメなのかな?」


「えっ? ねぇねは標準……よりちょい痩せてる方じゃない?」


実際は標準体型だけど無理にダイエットされても困るし、身体によくないので痩せて見えると言ってやった。


「でも直君には重くてもう付き合えないって……男の子ってもっと痩せてる方が好みだったりするの?」


 直君とは藍里の彼氏さんのことなのだろう。直君がどういう意味合いでそういったのか恭介には大方見当がついた。


「あー……多分勘違いじゃないかな? それ、どんな風に言われたの?」


「どんなって……」


 藍里が別れ話を切り出されたシチュをぽつりぽつりと語り出す。


 それはいつもの如く学校の屋上でランチタイムを取ろうとした時である。


「ちょっと……メシの前に話があるんだけどいいかな?」


 と、少し深刻な風に切り出す直君。


「何?」


「うん。俺たちさ、付き合ってる意味あるのかな?」


「えっ? どうしたの急に?」


「なんつーかさ、率直に言うと……別れない? 俺たち?」


「な、何でそんなこと言うの? 告白してきたの、直君の方だよ?」


「うん、そーなんだけどよ、思ってたのと違ってたっていうか……」


「ど、どうして? お弁当だって毎日作ってきてあげてるのに……美味しくなかった?」


「そーいうのも含めてだけど……何かさ……重いんだ、お前は……」


「えっ? 重い? だ、だったら痩せるよ!」


「いや、そーいうこっちゃなく……疲れたんだ……お前の彼氏してんの。たまには一人にして欲しいんだよ、こっちは」


「べ、別にいつも一緒ってわけじゃ……」


「でも電話してくんだろ? 一日に二時間も、三時間も……最初のうちは付き合ってたけどよ……もう疲れたんだわ」


「普通のカップルはそーいうもんでしょ? それに直君がそーいうから今は気をつけてるよ?」


「ああ……でもメール攻撃してくるようになったろ? 一日に五〇通とか……休みの日や返信忘れたりすると数分おきに何百通とか……おかしいだろ?」


「そ、そんなこと……だってわたしたち恋人同士だよ?」


「それなんだけど、さ」


 直君が藍里の白い繊細そうな手に触れようとその手を伸ばすが、藍里はひょいっとそれをかわして、


「何?」


「何って……なぜ避ける? 俺たち恋人同士なんだよな? だったら何で手すら握らせてくれない?」


「だってわたしたちはプラトニックな関係だもの」


 そう答えた藍里に直君は深く嘆息し、


「じゃあこうしよう? 俺にキスしてくれ」


「えっ?」


「してくれたら継続して付き合う……ダメなら別れる……それでいいだろ?」


 直君はそう提案してきたのであった。


 そして藍里はキスができずに別れることになった……とのことである。


 やはり体重は全く関係なかった。


 そしてある程度はそうなると恭介は予感していた。


 実は言うと今回のようなケースはこれが始めてではなかった。


 藍里はモテる。


 お隣の志田さん家の姉妹のような美人さんではないと思うが、昔から男の子に告白だけはよくされていたようだった。


 これは藍里がいつも柔和そうな笑顔を浮かべているように見え、男に従順そうな雰囲気を持っているからだろうと思われた。


 つまり美人過ぎず、そして童貞には手に負えないようなギャル過ぎず、自分にも手の届く範囲のそこそこ可愛らしい女性に見えるため、普通の美人さんよりも言い寄られることが多くなるのだと恭介は分析していた。


 そして告白されて付き合ったものの、すべて藍里は重い愛で潰してきたのである。


「恭くん? お姉ちゃん、女として魅力ないのかな?」


「んなことないよ」


「じゃあ、お姉ちゃんみたいな女のこと結婚したい?」


「うん、したいよ。したい」


 と、姉を慰めるために生返事で恭介。


「ありがとう、恭くん。恭くんにそう言ってもらえたら少し元気が出た」


 さっきまでの陰鬱さがどこへやら、藍里はにっこりと笑って言った。


 確かにあの時恭介は、姉と結婚したいと言った。


 しかしそれはあくまで姉を元気づけるためであったのだが……

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