登校
朝、家を出るとマスクをした自身の姿をした色葉が恭介を待つようにして立っていた。
おはようという言葉は掛けぬ。何しろ朝のトイレで既に顔を合わせた後であるから。
今朝、空が白み始めるちょいと早めに時間に起きて、色葉に付き合ってもらって用を足した。アイマスクにMP3プレイヤーでガンガンに音楽を流され、大もだったので鼻を摘ままれて、した。
その辺のことを思い出すとやはり彼女と顔を合わすのは気恥ずかしいものがあった。
「恭ちゃん? お姉ちゃんたちにはバレなかったよね?」
と、マスクでくぐもった声で言ってくる色葉。
「あ、ああ……なるべく顔を合わせないようにしてたしな。そっちは?」
「わたしの方も大丈夫……だけど」
色葉はそこでもじもじとし始めて、
「そ、その……わたしの身体に……え、えっちなことは……し、してないでしょうね?」
と、顔を赤くして訊いてきた。
「し、してるわけ……ねーだろ?」
まあ、お風呂には入ったので裸は……ちょっとだけ見たり見なかったり。洗う時に触れたり触れなかったり。
「そ、それより色葉……お前こそ俺の身体に変なことしてねーだろうな?」
と、恭介は逆に訊いてやった。
「し、してないもん!」
色葉はムキになったように、言う。
「恭ちゃんのおちんちん一晩中イジッてたりしてないし、ましてやおちんちんをくわえようとしたけど身体が硬くて届かなくて断念とかしたりしてないもん! 勝手に変な想像しないでよ!」
色葉のその反応に、表情を引き攣らせる恭介。
「い、色葉……お前……お、俺の身体に何を……?」
幼児退行して戻った影響か何なのか、それ以降、色葉はどことなく幼稚な部分が残ってしまっているように見える時があった。
特にこんな時、嘘がかなり下手になったように思う。子供じみた言い訳を連発するようになってしまったのである。
つまり、かなりイジられてしまったような気がする。いや、気がするだけで違うのかもしれないけれど……
しかしもしも恭介の予想通りだとして、踏み込んで聞いてボロが出るようなことがあれば互いに気まずくなりそうなのでここはスルーするしかないようであった。
「え~っと、まあ~……」
恭介が適当に話題を変えようかと思ったその時である。
「けほっ! けほっ! けほっ!」
自身の姿をした色葉が急に咳き込み始めた。
「えっ? 急にどした、色葉? 大丈夫か?」
恭介も色葉もマスクを着用しているが、これは本当に風邪をひいているわけではなく、振りであった。
風邪なら黙っていても不自然でなし、普段とちょっとばかし行動が違っても不審がられぬようにという苦肉の策である。
なのに色葉が咳き込みだして何事かと思ったのである。
「ちがっ……けほっ!」
と、目配せする色葉。
そして色葉の視線の先を追い、結愛の存在に気付く。
「お、おはよ。ふ、二人とも……マスクで……風邪……かな?」
「あ、ああ……」
恭介の振りをしていた色葉は気だるげに額を押さえ、
「もしもあれなら離れていてくれ。結愛に風邪を移しちゃ悪いから」
「えっ……」
驚いたように目を丸くし、顔を真っ赤に染める結愛。
「結愛……顔が赤いぞ? もしかしてお前も風邪か?」
結愛は「ううん」と頭をぶんぶんと振って、
「瀬奈君がわたしのことを下の名前で呼んでくれたらびっくりしちゃって……」
「えっ?」
困惑してこちらを見てくる色葉に、恭介は助け舟を出してやることにする。
「恭ちゃんはいつも、結愛さんのことは、『九条』って呼んでたじゃん?」
「あ、ああ……そうだった。わりぃ、九条……熱で頭がぼーっとしていてよ。ははっ」
「う、ううん。嬉しかった。よかったら……そ、その……ずっとそう呼んで欲しい……かな?」
結愛は可愛らしく小首を傾げ、恭介の振りをする色葉を上目遣いで見上げながら言った。
それに勝手にオッケーする色葉。
そんなわけで今後、体が元に戻ったら結愛のことは九条ではなく、結愛と下の名前で呼ぶことになった。
少し照れそうだし、どうしたものか……?
いや、それ以前に、元の姿に本当に戻れるのだろうか……?
不安に暮れる恭介であった。
「おはよ、朝ぐ……げほむっ、げほむっ」
朝の教室。
色葉は朝倉に声を掛けようとしたが、今は恭介の身体である。朝倉のことを恭介が普段何と彼を呼んでいるか自信がなくなり、咳をしてごまかしながら恭介の席に着いた。
「な~んだ、マスクまでして? 風邪なら休めよ。俺に移ったらどう責任とってくれる?」
「ああ……ご、ごめん」
色葉もできればそうしたかった。
神様が願いを叶えてくれて、期間限定で恭介と身体を入れ替えることができたのだし、一日中おちんちんを弄り倒していたかった。
しかし色葉の身体にINした恭介のフォローをしなくてはならず、色葉だけ欠席するわけにはいかなかったのである。
「まあいいけどよ。それとこれ」
朝倉は言うと、ジャケットカードが抜かれた白いDVDケースのようなものを色葉に差し出してきた。
「……何これ?」
「あん? 熱でボケたか? この間お前に借りた――」
色葉は何だろうと思って、それをパカッと開けると朝倉が少しだけ慌てたようになって、
「おい、こんなとこで開けるなよ?」
と、言ってきた。
色葉は中に入っていたDVDに印刷されたお姉さんに片眉をビクッと上げると、窓際の席で依子とおしゃべりしていた恭介をキッと睨み付けた。
その瞬間、恭介は、背筋にぞくっと薄ら寒いものを感じ、身体をぶるっと震わした。
「ど~したの~、色葉ちゃ~ん?」
依子が訊いてきた。
「いえ、突然、悪寒が……」
「あ~、風邪だもんね~、色葉ちゃん、無理しちゃダメだよ~」
「え、ええ……ありがとうございます。依子さん」
おかしい。振りをしているだけなのだけれど、嘘から出た実というわけでもないが、本当に風邪を引いてしまったのだろうか? それならそれで演技の必要がなくなり丁度いいとも言えなくない……のか?
どちらにせよなるべく人に話しかけられぬように気だるげに、色葉としてボロをなさぬように今日の一日を過ごすだけであった。
「……志田さん?」
二時限目は化学。教室を移動するために廊下に出ると、隣のクラスの神田清音が、なぜか色葉の外見をした恭介に声を掛けてきた。
「……は、はい?」
そう言えば色葉は、彼女に神社の参拝方法を聞いたと言っていたが、そこそこ親しい間柄なのだろうか……?
「……風邪?」
清音は恭介がしているマスクを目にして言ってきた。
「え、ええ……けほ、けほん」
わざとらしく咳をして相手の出方を見極めることにする。
「そっかー、それでこの間の件だけど……お願いごとは成就した?」
「えっ?」
願い事とは何のことであろうか? 色葉は清音に何か相談でも持ち掛けていたのであろうか?
「あれっ? うちの神社でお参りにしてくれたんだよね?」
「えっ? あ、ああ……」
「どう? お願い事は叶った?」
清音は目を輝かせて訊いてきた。
しかし色葉が清音に聞いてした願い事は、身体を元に戻すという願いであるからまだ叶ってないということになろう。
「い、いえ……まあ……もう少しって感じでしょうか……」
「あれっ? そうなの……? うちの天ちゃんが言ってたのっててっきり志田さんのことかと思ったんだけど?」
「て、天ちゃん……?」
誰のことだろうかと恭介が訊き返すと、清音はハッとしたようになって、
「う、ううん。何でもない。とにかく願いが叶ったらお友達とかにも宣伝頼むよ?」
「あ、はい……」
「ありがとう。じゃあ、お大事にね?」
清音は言うと自身の教室に戻って行った。
とりあえずホッと胸を撫で下ろす恭介。
さすがにこういったイレギュラーに対処するのは厳しいものがあった。
しかしあとは結構何とかなった。授業は聞いてノートを取るだけ。
色葉の字より汚いけど見られなければ問題ない。
休み時間は依子たちが離し掛けてくることがあったが、適当に相槌を打つだけで無難にやり過ごすことができたのだ。
これなら難なく一日がクリアできると思ったが、お昼休みに差し掛かって最大の難関がやってくる。
それは、尿意であった。
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