保健室登校

「それじゃあ雪菜先生。色葉のこと、くれぐれもよろしくお願いしますね?」


 恭介が、眠そうに頭をわさわさと掻いている雪菜に言ってきた。


 幼児退行してしまった志田色葉。

 彼女は今日から保健室登校ということで、しばらく養護教諭である雪菜が面倒を見なくてはならなくなったのである。


 ちなみに保健室登校とはいうものの、本当に保健室で過ごすわけではなかった。

 この制度を導入したはいいが、保健室登校をするのは不登校気味の生徒。


 保健室は他の生徒が度々訪れ居心地が悪いという意見から、人目を気にしなくていいように別室の空き教室が用意されたのである。


「本当にお願いしますね?」


 念を押すように再度言ってくる恭介。


「わーった。わーった。任せとけ」


「本当に……大丈夫っすか?」


 恭介は訝し気な表情で雪菜を見やりつつ、


「休み時間に色葉の友達とか連れてきますんで……まあ、その前に何かあったら呼んでください。すぐに駆けつけます」


「過保護すぎた……とっとといけ。遅刻扱いにされるぞ?」


「いや、心配してるんですよ? 色葉のこと、泣かせないでくださいね?」


 雪菜は恭介に手を繋がれ横でにこにこしている色葉を見やる。


「……大丈夫だろ? 志田の機嫌もよさそうだし」


 前回幼児退行をした際は、頭を引っ叩いて泣かせてしまった。その時の記憶は引き継がれていないのだろうか? もし引き継がれていたら、雪菜と二人っきりされるのを相当嫌がりそうであるが、今の色葉にその兆候は見られなかった。恭介が一緒であるから、精神的に安定しているということなのだろうか?


「恭介? もう行け。本当に遅刻するぞ?」


 恭介は雪菜にそう言われると、壁に掛かった時計をチラッと一瞥してから、


「色葉? そういうことだから、雪菜おばさんの言うことをよ~く聞いて、大人しくお勉強するんだぞ? いいね?」


「うん」


 恭介は「よ~し、いい子だ」と志田の頭を撫でてやっている。


「えへへ」


 と、ご機嫌そうに、にへらと笑う志田。


「それじゃそろそろ行くな、色葉? 休み時間に友達連れてくっからそれまで大人しくな?」


 手を上げて離れる恭介。


「うん。ばいば~い」


 志田は手を振って恭介を見送った。




 保健室登校の志田には各教科、課題が用意されており、今は一限目である現国のプリントに取り組ませていた。


 雪菜も相談室に訪れ、保健室には『相談室にいます』のプレートを残し、志田に付き合っていた。


「雪菜おねーちゃん?」


 志田がプリントを差し出し、雪菜に問い掛けてきた。


「んっ? わからんとこでもあったか?」


「ううん、おわったー」


「何だ? 早いな?」


 雪菜は志田からプリントを受け取り、ざっと目を通す。


 字も幼女が書いたと思えないほどに整っており、特に間違っている箇所も見当たらなかった。

 幼児退行はしたが、学力は戻っているという話であったが、本当に学力に関してはまったく問題ないらしかった。


「雪菜おねーちゃん? 次はなにすればいいのー?」


「よし、偉いな? 褒めてやるから頭をこっちに出せ」


「えへへ、うん」


 照れたように笑って、頭をこちらに向けてくる色葉。


「よ~し、いい娘だ」


 雪菜はすっと右手を上げて彼女の頭部に狙いを定めて――


 ペシ~ンッ!


 小気味のいい音が出るよう頭を引っ叩いてやった。


「えっ?」


 色葉はきょとんとした顔つきになり、頭を押さえて雪菜を見やり、


「な……何で……いろはをぶつの?」


「いい加減、猿芝居はよしたらどうだ? 幼児退行してこれだけの学力……あり得ん。もう、戻っているのだろ?」


 直感であった。どういう理由かは知らないが、彼女は嘘を吐いている。そんな気がしたのだ。


「ち、ちがうよ? い、いろははいろはだよ?」


 と、怯えた表情で志田は言ってくる。


「だったらなぜ泣かない? この間幼児退行した際は、ちょっと小突いただけでぴーぴー泣き喚きやがったし、そもそも幼児退行したお前はわたしのことをおねえちゃんとは思っていなかったろ?」


 雪菜が違和感を覚えた理由、それは以前幼児退行した際との相違点にあった。

 今日の色葉は雪菜と二人っきりにされそうになっても抵抗せずにすんなりと受け入れた。

 以前の記憶が引き継がれているなら激しく抵抗してもおかしくないであろうし、引き継がれていないのであらば、雪菜のことをおねえちゃんといって慕ってくるのにも納得いかなかった。


 志田は雪菜のことをおねえちゃんと見ていなかったからである。

 更に恭介も、志田を引き渡す際、『雪菜おばさんの言うことをよ~く聞いて、大人しくお勉強するんだぞ?』と言った。

 なのに今の志田は雪菜をおねえちゃんと呼んできており、その点も違和感を覚える理由であったのかもしれない。


 しかしそれは雪菜の勘違いである可能性は十分にあった。仮に雪菜の勘違いであれば、困ったことになる。

 保健室登校をしている生徒を殴ったということで、体罰養護教諭として後々に糾弾されるかもしれなかったのだ。


 とりあえずもうひと押ししてみることにする。


「わたしは顔が広い。世界的に活躍する催眠術師にも知り合いがいるのは志田……お前も知っているな?」


 志田はぷるぷると顔を横に振って、


「いろは、そんな人、知らないよ?」


「ふむ、そうか……」


 引っ掛からないか。それとも本当に忘れているのか。


「わかった。少し待ってろ。他の知り合いに頼ることにしよう」


 雪菜は携帯電話を取り出して、志田の目をしっかりと見据えたまま、


「もしもし、わたしだ。少し頼みたいことがあるのだが……いいか? ああ……そうだ。これから訪ねていくから、ポリグラフの用意をしておいてくれ――」


 そして電話を切ると、


「よし、行くぞ、志田?」


 志田が「んっ?」と顔をしかめる。


「お出かけするの? いろははここでおベンキョーするんだよ? どうしてお出かけするの?」


「ああ……知り合いに嘘発見器に用意してもらったのでな」


「!」


「最近の嘘発見器の性能は段違いだぞ?」


 雪菜は少し大袈裟に言うことにする。


「呼吸、脈拍、血圧、発汗、少しでも乱れがあれば九九・九九パーセントの確率で嘘を炙り出すことができるからな。さあ行こう。わたしの疑念を晴らさせてくれ?」


 表情を固まらせる志田。


「……どうした? 行くぞ?」


「……なさい」


 志田は顔を俯かせ、小さく言った。


「何だ? 何か言ったのか?」


「み、みんなには黙っていて……ください」


 雪菜は「ふむ」と微笑を浮かべ頷いて、


「やはり……戻っていたのだな?」


「は、はい……」


 志田は表情を強張らせ、静かに頷いた。

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