里緒奈
「ただいま、母さん」
里緒奈は台所で水仕事をしている母に声を掛けてから、
「色葉の様子はどう?」
と、訊いた。
里緒奈の目下の心配事は、幼児退行してしまった妹の色葉のことであった。
「二階で遊んでいるわよ?」
「……遊んでるって……?」
里緒奈は深い嘆息を漏らして、
「そう……まだ戻ってはないのね?」
医者にも見せてあるが幼児退行の原因は精神的なものであるらしく、すぐにでも戻るかもしれないし、もしかしたらずっとこのままの可能性さえあるとまで言われていた。
しかし両親はともにその件について「そのうち戻るだろう」と楽観視しており、父親に至っては、幼児退行して昔のように甘えてくる色葉に対し、顔を綻ばせて迎え入れ、むしろ喜んでいるような節さえあった。
このまま休学が続けば、高校中退になってしまうかもしれないというのに。
まったく、どうしたものだろうか?
「……色葉……?」
階段からトタトタと駆け下りてくる足音。
「おかえり、おねぃちゃん」
と、リビングに色葉が駆け込んできて、里緒奈の大きな胸に飛び込み、顔を埋めた。
「ただいま、色葉」
里緒奈は優しく言って、色葉の頭を撫でてやった。
「えへへ、おねぃちゃん。それじゃあ、いってくねー」
色葉が自分の許から離れようとすると、里緒奈は「んっ?」と顔をしかめて、
「行くってどこへ? こんな時間にどこへ遊びに行くつもり?」
「恭ちゃんちだよー。お風呂に行くのー」
恭ちゃん――お隣の瀬奈恭介のことで、色葉が幼児退行しても、唯一、家族以外で判別できる人物でもあった。
「母さん? お風呂って、どういうこと? うちのお風呂、壊れたの?」
「違うわよ。色葉、恭介君とじゃなきゃお風呂入りたくないんですって」
「なっ!」
驚愕する里緒奈。
しかし母はそんないかがわしい行為にもまったく危機感を抱いていない様子であった。
理由を聞けば互いに水着を着ているから大丈夫とのことであった。
甘い考えであるな、と里緒奈は思った。
血気盛んな若者が、そんなことで欲求を抑えれるわけがなかった。
きっと欲望に任せて、色葉を妊娠させてしまうに決まっているのである。
男とは、おちんぽで女性を妊娠されることしか頭にない、下劣な生き物なのである。
◆
「こんばんは、おばさま」
「あら、色葉ちゃんの付き添い? 里緒奈ちゃんがくるなんて、珍しいわね?」
母の言う通りで、確かに珍しいな、と恭介は思った。
家系なのだろう、ブラウスの胸が張り裂けんばかりに主張した、知的な印象を与えるメガネをかけるこの女性の名は志田里緒奈。
聖泉女子の教職員をしている色葉の姉でもあった。
彼女は男性嫌いであった。今はスーツできっちりと決め、どことなくキツめな印象を与えるメイクをし、髪をアップに上げていた。
しかし大学時代の里緒奈の印象は全く異なっていた。
黒髪のストレートに地味な印象を与える服装。しかし胸だけは隠せずに強調され、大人しそうに見えた里緒奈は様々な男性に狙われ、声を掛けられ、挙句の果てにはストーカーまでしつこくされてしまったのである。
それから極度の男性嫌いになってしまったのだという。
それは昔なじみの恭介に対しても、いかんなく行動に発揮される。
「こ、こんばんは、リオ姉ちゃん」
「ええ、こんばんは」
とても冷ややかな目で里緒奈は返してきた。
恭介は、里緒奈に嫌われていた。
しかし恭介が嫌われたのは、里緒奈がストーカーされ、男性不信になるよりも以前の出来事に起因していた。
それは里緒奈が高校生で恭介が小学生であった頃まで遡る。
その頃の里緒奈は恭介にとって、面倒見のいい、お隣のお姉さんであった。
夏祭りや行事イベントの時は、いつも里緒奈に連れて行ってもらっていたからである。
しかし里緒奈が高校に入ると、部活動や生徒会の雑事で、途端に遊んでもらえなくなってしまった。だから恭介は、構って欲しくて、気を引くためにちょっとだけ里緒奈に悪戯してやろうかと思った。
その日、色葉と遊んだ後、帰ると言ってそのままトイレで離れた里緒奈の部屋に忍び込んだのである。
里緒奈はホラーが大の苦手であった。
だから恭介は、里緒奈の学習机の下に潜り込み、頃合いを見計らって、足をつかんで脅かしてやろうと考えたのである。
そして里緒奈が戻ってきて、受験勉強が再開される。
いつ行動を開始しようか、恭介が机の下でニヤついている時である。
里緒奈が椅子に腰かけたまま、スカートの下のショーツを足首の位置までずり下げたのである。
そして何かを開始する。
漏れる吐息。
恭介は、何をしているかよくわからないが、何かに没頭していることだけは確かで、今が驚かす絶好の機であると確信した。
「よ~しっ!」
恭介は里緒奈がどんな反応で驚くか胸を弾ませながら、彼女の両足首をガッとつかみ上げたのである。
「ひきゃぃっ! な、何っ!」
変な声を出して下を見て、机の下から伸びた手が自身の足首をつかまれているのを知るとギョッとし、椅子から転げ落ちた。
そして唖然とした表情をした里緒奈と目がバチッと交錯する恭介。
「きょ……恭介……くん?」
「にひっ。驚いた、リオ姉ちゃん?」
言いながら、机の下から這い出す恭介。
途端、ぽろぽろと涙を溢れ出させる里緒奈。
「あ、あれっ? そんなに驚いた?」
泣くほどではないと思ったが……少しやりすぎたのかな、と不安になった。
「い……や……」
里緒奈は何かを忘れたいように首を横に振って、
「い、いやぁぁっ!」
里緒奈の悲鳴に気圧される恭介。更に里緒奈はガッと恭介の肩をつかんで激しく揺さ振る。
「お、お願い。お願いだから今日のこと、誰にも言わないでぇ~!」
泣きじゃくって取り乱し、この世の終わりというような表情で里緒奈。
いつもたおやかな笑みを浮かべている里緒奈の初めて見る一面であった。
ここまで必死に懇願してくる理由はこの時の恭介には理解できず、こんなことで泣いてしまったことが恥ずかしいから誰にも言わないで欲しいのだと解釈し、謝る。
「……ご、ごめんなさい、里緒ねーちゃん、そこまで驚くとは思わなくて……」
「出てって……」
「……ねーちゃん?」
「出てってよ!」
ヒステリックに叫ぶ里緒奈。恭介はしゅんとし、大人しくそれに従った。
それから里緒奈の態度が急によそよそしくなり、しばらくは挨拶をしても目すら合わせてくれなくなってしまったのである。
そして時は流れる。
恭介は目の前で演じられた色葉のソロ活動に触れ、理解した。
女の子もオナニーするのである、と。
つまりはあの時、里緒奈が必要以上に取り乱したのは、泣いている姿を見られて恥ずかしかったわけじゃなく、オナニーを見られたからだったのだ、と。
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