色葉の選択

「お、おはよう、瀬奈君……」


 昨日のことがあったので、今日は待っていないかと思ったが、いつもの待ち合わせ場所で結愛は待っていた。


「昨日は、その……」


「行こうか?」


 その件には敢えて触れないようにし、恭介は促した。


「う、うん……せ、瀬奈君、そ、その……待って」


 結愛は恭介の制服の裾をギュッとつかんで恭介を引き止めてくる。


「んっ?」


 彼女は顔を真っ赤にして、恭介の目を潤んだ瞳でじっと見詰めてくる。


「あっ……」


 恭介はぴんっと来て、


「……も、もしかして……してる……のか?」


 結愛は恥かしそうに俯いて、


「ご、ごめん……なさい。で、でも……我慢できなくて」


 生理現象だ。我慢が出来ないのであれば仕方がない。




「おはよ、恭ちゃん、結愛さん」


 恭介はその声にドキッとして、振り返る。


「お、おはよ……色葉?」


 三人はマズい。そう思った。何しろ色葉は恭介の中から結愛との思い出や恋心がすっぽりと抜け落ちていると思っているから。


 しかし色葉はそんな恭介の予想に反して、


「二人は付き合っているんだもんね? わたし、お邪魔だから先いくね?」


「えっ……」


 恭介は、ポカンとした表情で先を急ぐ色葉を見送った。



          ◆



 恭介が恋人の結愛と一緒に登校しているのは知っていた。


 しかし今日の恭介は結愛のことを恋人であるという認識が欠けている可能性があった。

 その記憶を色葉の意志で削除したからだ。


「二人は付き合っているんだもんね? わたし、お邪魔だから先いくね?」


 色葉がそう声を掛けたのは、恭介に結愛と登校していることを納得させるためであった。

 しかしそんなことをしたからといって、自身がしたことが許されるといことにはならなかった。


 色葉は学校につくと、まずは保健室の雪菜を訪ねた。


「雪菜先生、お願いです。ミスター・エムさんに連絡とってもらっていいですか……?」


「あんっ? 何でだ? もう用件は済んだのだろう?」


「そ、それが……消しちゃいけない記憶まで消してしまったから、一部の記憶を戻したいんです」


 そして色葉は魔法のガラケーを見せて、


「すみません。本当はこれ、壊れてなくて……わたし……恭ちゃんの記憶を……」


「そうか……」


 雪菜はそれについて特別言及することはせずに、


「確かにわたしが呼べばくるかもしれん。だが滿雄はお前の便利屋でも何でもないんだぞ?」


「わかっています。それでも……お願いします」


「まったく。仕様がない奴だな……」


 雪菜は苦い顔でそう言ったものの携帯電話を取り出して、


「もしもし、滿雄か……?」


 ミスター・エムに事の成り行きを伝えてくれて、


「ほれ、お前に変われとよ」


「すみません」


 色葉は携帯電話を受け取って、


「もしもし、ミスター・エムさんですか?」


『うん、昨日振り。雪菜先輩に聞いたよ? 瀬奈君の消した一部の記憶を取り戻したいんだって?』


「はい……恭ちゃんに、もう一度、催眠術をかけてもらえますか?」


『うん、無理だね?』


 あっさり断るエム。


『悪いけど、僕も慈善事業でしているわけじゃないからね?』


「だったら……お金を払います。それで……いいですか?」


『それならいいよ? 二百万……用意できるかい?』


「えっ?」


『無理なら諦めなさい』


「い、いえ……用意……します。ただ……分割でいいですか?」


 二百万。大金だ。アルバイトしてどの程度返済に時間がかかるかしれないが、当然の報いである。


『あれま、本気かい? なるほど……まあ、お金の方は冗談なんだけれどね?』


「じゃあ、無償で引き受けてくださるんですか?」


『無理かな。あの催眠術で消した記憶はもう二度と取り戻せないんだよ? 残念だけどね』


「えっ? そんなはずは……リセットできましたよ?」


『それは予備催眠をかけた状態のままの時のことだろう?』


 ミスター・エムの説明によれば、予備催眠にかけた状態での記憶消去は、パソコンでいうところの一時的にゴミ箱に放り込んである状態であり、催眠状態を完全に解くことでそのゴミ箱に放り込んだ記憶も完全に削除される仕組みになっているとのことだった。


『つまりはそんな感じであるから、残念だけど、もう二度と消した記憶は復元できないんだよ?』


「そ、そんな……わたし、恭ちゃんの大事な記憶を奪ってしまって……」


 もう、取り返しがつかない。色葉は恭介と結愛にいくら謝っても詫びがしようがないことをしてしまったのである。


『心配ないよ? 奪ったなら再び植えつければいい。教えてあげなさい。瀬奈君ならわかってくれるから』


「そんなの……無理……です」


 例えだが、依子に、「忘れているかもしれないけど、色葉ちゃんはレズで昨日まで亜美のことが好きだったんだよ~」とか突然言われても冗談にしか聞こえないだろう。


 言葉だけで恋心を取り戻すなんて、絶対に不可能なのである。


「エムさん、でしたら他にお願いがあります」


『他に? 何だい……?』


「もう一度、恭ちゃんに催眠術をかけてください」


 色葉は決然とし、言った。



          ◆



「えっ? ミスター・エム……?」


 恭介が色葉に連れられ視聴覚室に訪れると、そこにはエムの姿があった。


「……どうして……?」


 日曜日にすべて解決したはずであるが……?


「恭ちゃん、ごめんね……また、催眠術にかけられて」


 色葉はすまなそうに言うと、視聴覚室の外に出た。


「ど、どうなってんすか、エムさん?」


 恭介が訊くと、エムは事の顛末を話してくれた。


 何のつもりかは知らないが、色葉は再び恭介に催眠術をかけて何かの記憶を削除しようとしているらしいとのことだった。


「僕も結構忙しい身なんだけどね?」


「す、すんません。色葉のわがままに付き合ってもらって」


「構わないよ? これが最後ということだし、雪菜先輩に会ういい口実にはなったからね?」


「雪菜おばさんに?」


 雪菜は美人ではあるけれど……奇特な趣向でいらっしゃる。


「それじゃあ瀬奈君、催眠術にかかってもらうけどいいかい?」


 何のつもりかは知らないが、ここまできたら最後まで色葉に付き合うしかない。




「さて、そろそろいいかな? 頼むよ、瀬奈君?」


「は、はい……」


 そんなわけでエムが退室すると、入れ替わって色葉が入室してきた。


「恭ちゃん、ごめんね?」


 再び謝ってくる色葉に恭介は首を傾げる


「な、何が、だよ?」


「わたし……恭ちゃんから大切な記憶、奪っちゃった……」


「た、大切な記憶って……?」


「結愛さんへの恋心……」


「んっ? えっ?」


「覚えていないかもしれないけど、恭ちゃんは結愛さんを好きになりつつあったんだと思う。けどわたしはそれを根こそぎ奪った。卑怯だよね?」


「な、何を言ってんだ……よ?」


「恭ちゃんは結愛さんとは別れると言ったけど、それをしなかった。多分、付き合い始めて徐々に気持ちが傾きつつあったんだと思う。わたしはそれを……だからスタートラインに戻すの」


 どうやら色葉は、恭介から結愛への恋心を奪い去ったことを悔やんでいるらしかった。

 つまり結愛への消した恋心をリセットし、戻そうとしているということか?


 しかしエムは、色葉の願いを断るため、消した記憶は戻らないと説明したと話していたが……


「恭ちゃん……わたしのこと好き?」


「えっ? あ、ああ……」


 おそらくはそれが本心。


「もう一度、好きになってくれる?」


「? もう一度……?」


 訳が分からなかった。


「わたしのこと、もう一度好きになってくれると……嬉しいな」


 色葉は寂しそうにそう言うと、携帯電話を恭介に向けてきて――


「恭ちゃん、これを見て」


 パシャリ。


 恭介は催眠状態に陥った振りをする。


 そして色葉は言った。


「消去。わたしを好きだった過去の記憶――」


「!」


 どういうつもりなのか、色葉はそう言った。


「これで……いいんだよね? これで結愛さんと対等になれたよね?」


 色葉の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


 色葉は催眠状態にする前に、もう一度恭介に好きになって欲しいとそう言った。

 つまりこれは色葉が望んだことではなく、色葉なりのけじめということなのだろうか?


「くっ……」


 以前、色葉への想いを消すためにわざと嫌われるような態度をとり、凄まじく後悔した。

 演技でも二度と自分の想いを偽ることはしたくなかったし、色葉にもそんな想いはさせたくなかった。


 しかし……


 彼女が催眠術中に取った行動の数々が恭介の頭の中でぐるぐると回る。


「恭ちゃん? 消去……だよ? わたしへの想い……いいよね?」


 色葉が再び言って来る。


「くっ……」


 催眠状態にあると思い、色葉が恭介の目の前でソロ活動をしまくったり、尻肉を押し拡げてブラックホールを見せつけてきた事実を彼女が改めて知ったらどう思うだろうか……?


「恭ちゃん?」


 やはり、催眠術にかかってはいなかったなんて今更言えず、


「は、は……い……」


 と、そう答えていた……

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