催眠術

「ををっ! ミスター・エムか!」


 雪菜に呼び戻され、薄暗い視聴覚室に招き入れられた恭介は、スーツにサングラスと妙に雰囲気を持つ彼の姿を二度見し、それがエムだとわかると目を見開いて驚いていた。


 どうやら保健室ではエムの姿は目に入っていなかったらしい。


「何でミスター・エムが? 雪菜先生? これは……そっくりさん? そっくりさんですか?」


「そっくりさんじゃないよ、瀬奈恭介君。僕はエム、ミスター・エム。そこの色葉君に頼まれてね。キミの記憶を消すことになったんだ」


「へっ? 俺の記憶?」


 恭介が雪菜の横にいた色葉を見やると、彼女は恥かしそうに顔をぷいっと恭介から背けて、


「だって……そうでもしないとわたし……恥ずかしくて」


「し、心配ねーよ! 俺、別に誰にも言わないから! 記憶消すって……!」


 慌てた様子の恭介。


「大丈夫だよ、瀬奈恭介君。消すといっても色葉君が指定したごく一部の記憶だから」


「一部でも記憶消すって……何か怖いんで、嫌っすよ!」


 激しく拒否反応を示す恭介に、エムは満足そうに微笑む。


「よかった。キミは催眠術にかかりやすい体質のようだ」


「えっ? 体質? 催眠術にかかりやすい体質とかあるんすか!」


「キミは記憶を消されようとしていることにひどく恐怖している。催眠術を信じているということだろ? 半信半疑程度なら何とか時間をかければ催眠状態に持っていくことは可能だが、まったく信じていない人間に術をかけるのはかなり骨が折れる作業になってしまうからね」


 催眠術にかけるのに最も大切なのは場の雰囲気であるらしい。催眠術はマニュアルに沿って行えば、素人でも簡単に相手を催眠状態にすることができるとのこと。

 雰囲気は何より大切。だから今のエムは、保健室で雪菜と接していた時とは声のトーンや立ち振る舞いの何から何までまったく異なっていた。


 そしてエムはテレビに出ていて催眠術師としてそれなりに知名度もあり、エムというと存在を相手に認識させることで、更に相手を催眠状態に陥らすことを容易にさせていた。


「ほんじゃ、滿雄。後は頼むな。わたしは保健室に戻るから」


「はい、先輩……色葉君は途中で人が入ってこないように、視聴覚室の前で見張っていてください。準備が整ったらお呼びしますので」


 ノック音など、催眠中に余計な雑音を極力排除したい様子であり、色葉たちは退室した。

 エムは視聴覚室のドアに内側からしっかりと鍵をかけ、にっこりと振り返って、


「瀬奈君にはこれより、予備催眠にかかってもらうからね?」


 言うと懐から一台の携帯電話を取り出した……



          ◆



「先輩」


 雪菜のいる保健室に帰りの挨拶に訪れるエム。


「何だ? もう終わったのか?」


「いえ、瀬奈君を催眠状態にして後は色葉君にお任せという感じです。だので終わったら色葉君から携帯電話を預かっといてください」


「んっ? 携帯電話?」


「はい。催眠のスイッチにアイテムとして使用したんです。さすがにそろそろ戻らないとヤバそうなので今日はおいてきます。次に来た時に回収しますんで」


「なるほど。しかし……ケータイ、いいのか? なかったら不便だろ?」


「問題ないです。色葉君に渡したのは、もう使ってないやつですから」


「そうか……しかし大丈夫なのだろうな? 瀬奈を催眠状態にしたままで」


「問題ないでしょう。だって彼は――」



          ◆



 色葉はエムから携帯電話を受け取ると、入れ替わるように恭介が待つ薄暗い視聴覚室に入室した。


 既に注意事項は聞かされていた。後は記憶を消去するだけだった。

 エムにどんな記憶を消去したいか訊かれた際、恥ずかしくて答えを濁していたら、色葉が直接恭介に催眠術をかけることができるよう段取りを組んでくれた。

 恭介に予備催眠をかけ、携帯電話のフラッシュを合図に催眠状態になる仕掛けで、これで色葉一人だけでも恭介の記憶を消去できるという寸法である。


「恭ちゃん……」


「おう、色葉か? え~っと、俺……何でこんなとこにいるんだっけ?」


 エムは催眠術で、恭介を催眠術にかけたという事実すら忘れさせている様子であった。

 エムは催眠術にかかりづらい人種がいると言っていたが、恭介は真逆の人種らしかった。


「わたしが呼び出したんだけど……忘れたの?」


「えっ? そうだっけか。何で忘れてたんだろ? 眠ってたのかな。まあ……とりあえず色葉……その……これは返しとくな」


 恭介に差し出されたそれを見て、色葉はハッとスカートを押さえた。

 恭介が手にしていたものは色葉のショーツだったのである。


「え~っと、ちゃんと洗っといたから。水洗いだけど……」


 色葉の顔がカーッと赤くなる。


「恭ちゃんのバカ!」


 最悪だ。恭介にお漏らしパンツを洗われるなんて。もうその辺の記憶、根こそぎ消去するしかない。

 色葉は恥かしさを紛らわすように携帯電話のカメラを恭介に向ける。


「恭ちゃん、これを見て!」


「んっ? お前のそんなのだったっけ?」


「そうよ。魔法のガラケー」


 色葉は言って、フラッシュを焚いた。


 その瞬間、椅子に腰かけていた恭介の全身から力が抜けたようになり、目がトロンと落ちる。


「……恭ちゃん? 聞こえてる?」


「…………」


 無言。


 恭介の目の前で手を振ってみるが、目は開いているもののも、どこを見ているのか反応は返ってこない。

 この状態は、間違いなく催眠状態にあるといっていいと思われた。


 とりあえず実験である。


「恭ちゃん、右手上げて」


「…………」


 返答なし。右手も上げてくれなかった。


 なるほど。やはり言うことは聞いてくれないらしい。


 せっかくなのでうまくいったら命令しておちんちんを強制的に露出させ、じっくりと観察させてもらおうかと思ったけど、無理のようだ。残念。

 あくまで恭介にかけた催眠術は記憶を消去するためのものであり、いくら催眠状態にあっても他の命令は一切聞いてくれないらしかった。


 また身体に触れても催眠術が解けると言っていたので、いくら恭介が無防備な状態だとしても、おちんちんを触ることもできない。


「消去。数字の〝四〟を忘れてもらっていい? 四ね、四」


「……はい……」


 とろんとした目つきで答える恭介に、色葉は頷いて、再び恭介に向けてフラッシュを焚いた。


「んっ? あれっ? どうしたっけ、俺……?」


 若干、寝起きのように記憶が混乱しているように見えるが、目をぱっちりと開け、元に戻った様子の恭介。


「ねえ、恭ちゃん? 訊きたいんだけど……恭ちゃんの右手の指って何本あったっけ?」


「はっ? 何を言ってやがるんだよ?」


 と、訝し気な表情で色葉を見やる恭介。


「いいから何本か教えて?」


「五本に決まってるだろ? 何でそんな当たり前なこと訊いてんだよ?」


「じゃあ、数えてみて?」


「別にいいけど……何なんだよ?」


 恭介は右手を開いて指を一本、一本数え始める。


「いち、にー、さん……ご~、ろく……六? あれっ?」


 もう一度数え直すもやはり指は六本になり、恭介は眉をひそめる。


「お、おい、色葉……? 何か指が六本になってんぞ? どういうこっちゃ?」


 色葉はふふっと笑って携帯電話でパシャリ。


 恭介は再び催眠状態に落す。


「リセット。忘れていた数字の〝四〟を思い出して」


「……はい……」


 そして再びパシャリ。


「あれっ?」


 意識がはっきりする恭介に色葉は言う。


「もう一度、指の本数、数えてみて?」


 恭介は言われるがままに指を数え直し、


「ををっ! 今度は五本、五本に戻っとる!」


 成功である。この携帯電話があれば、恭介の記憶を消去し、それを戻すのも自由自在らしかった。


 色葉は早速、恭介の頭の中から自身が犯した恥ずかしい行為を封印することにした。



          ◆



「失礼しま~す」


 恭介は保健室の引き戸をガラガラッと開け、中を確認。


「あれっ、エムさんは?」


「滿雄なら次の公演があるとかで、もう帰ったぞ?」


「そうっすか。一言挨拶でもしてこうかと思ったんですけど」


「必要ない。んなものは。それで……終わったのだよな? 志田はどうした? 一緒じゃなかったのか?」


「はい。色葉は俺より先に帰りましたよ?」


「何だ。携帯電話はどうした? お前が預かってきたのか?」


 色葉が催眠術に使用した携帯電話はエムの私物。恭介の記憶を消去したら雪菜に預けるようになっていたらしいが、それを忘れて色葉はそのまま帰ってしまったらしかった。


「それどころじゃなかったんでしょう」


 今日はいろいろあったし、催眠術をかけていた時も、ノーパンであったろうし。


「まあ明日でも構わんがな。あの携帯電話に人を操る特別な機能でもあれば別だが、ありゃ、契約の切れた何の変哲もないただの携帯電話だしな」


「はぁ~」


「……浮かん顔をしているな? 志田を上手く騙せたのだろ?」


「おそらくは」


 どうやら雪菜は、真実を知っている様子であった。

 恭介は、視聴覚室でしたエムとのやりとりを思い出す。




「えっ? 催眠術にかかった振りをするんですか?」


「しっ、声が大きいよ」


 エムは口許に人差し指をあてる仕草をして見せて、


「外の色葉君に聞こえてしまうから」


 恭介はエムに合わせて小声にして、


「でも演技って……どういうことです?」


「色葉君は恥かしい思いをし、それを君の記憶から消したいと思っている。だからそう演出するだけの話だよ? キミが忘れた振りをすれば色葉君が幸せになれる。無論、協力してくれるよね?」


「それってつまり……催眠術ってのは、実際にはないということですか?」


 ということはつまり、テレビで催眠術にかかっていたタレントたちは演技であり、やらせであったということなのだろうか? これがテレビの真実だとしたら、知りたくないことを知ってしまった気分であった。


「いいや、そうじゃないよ、瀬奈恭介君。催眠術で記憶を消すこともできる。しかしいろいろリスクもあるからね」


 表面的に消すのは簡単だが、その場合、何かの拍子に記憶が蘇ってしまう可能性があるし、深いところまで完全に記憶を消そうとすると、連鎖して他の記憶にまで影響してしまうかもしれないとのことであった。


「だから君には催眠術をかけることはしない。どうする? やるかい? ダメだというならキミは催眠術にかかりづらい体質ということで、色葉君には悪いが、今回は諦めてもらうのだけだけど?」


 そんなことになったらどうなるか?


 幼児退行したのは恭介が原因だが、それが治らなくなってしまうかもしれない。

 何より、せっかく仲直りし、互いに告白までしあったというのに、また疎遠となり、一生口すら聞けなくなってしまうかもしれない。

 そんなのは絶対にお断りであった。


 よって答えは一つしかない。


「そうかい? それじゃあ始めようか?」


 エムが視聴覚室で恭介に施したのは、催眠術ではなく、演技指導であったのである。 

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