1
恭介と色葉と結愛
「次のテストの結果次第で、夏休み、補習だかんな~、覚悟しておけよ~」
数学教師の山下の容赦ない言葉に、成績下位者から悲鳴が上がり、
「うっせーな~、ごたごた言ってねーで平均以上取る努力すりゃいいだろ~が」
そして終業のベル。
「んじゃ、終わりな~、しっかりと勉強しとけよ~」
山下は気だるげな様子で教室を後にする。
「色葉ちゃ~ん。べんきょー、おしえて~」
成績下位者筆頭の依子が、間の伸びたような声音で、いつものように彼女に泣きつく。
「あー、わたしも教えて」
依子に続いて亜美。
「いいですよ」
「やったー」
彼女――志田色葉は、それを嫌な顔一つせずいつものように柔らかな笑顔で受け入れた。
「志田のやつ、面倒見がいいな~」
前の席の朝倉が、色葉の周りに集まる女子連中を見やりながら瀬奈恭介に言ってきた。
彼女の成績は学年でもトップクラス。美人で人柄もよくクラスメイトからの人望も厚い。
それが志田色葉の一般的な評価であった。
「つか、志田のやつ、あんな成績いいのに何でこんな底辺高校にいやがるんだ? あいつの成績なら、聖泉女子あたりでも余裕にいけんだろ?」
「その聖泉女子に落ちたからここにいるんだろうな?」
この学校が底辺というほど落ちぶれているわけではないが、色葉ならもっといい高校に行けたのは事実。
本来なら色葉は、名門、聖泉女子に通っていたはずだった。
そしてその聖泉女子に落ちたのは、明らかに恭介のせいであった。色葉は第二次募集で、恭介と同じ東雲高に入学することになる。
あの日、なぜあの土壇場であそこまでの飛距離が出てしまったのか。
あの時、彼女の顔まで届かなければ……いや、どちらにせよその行為を目撃された時点で嫌われていたことには変わりない。
その件についても謝罪したかったが、色葉は、恭介に謝る隙すら与えてくれなかった。
そうして彼女に距離を置かれ、恭介は初めて気づいた。いつも隣にいることが当たり前になっていた色葉。
彼女に恭介はずっと恋をしていたことを。
そして自身の初恋に気づいたのと同時に、それが終了してしまったという事実をも突き付けられたのであった。
「へー、あいつ落ちたんか? つか何でお前がンなこと知って……ああ、瀬奈って、志田とおな中だったか?」
それどころか家がお向かいさんで、屋根伝いに互いの部屋を行き来するような、バリバリの幼馴染な関係であったりしたが、そのことは朝倉に言わないでおくことにする。
「でも、おな中の割に、瀬奈って志田と親しく話してるとこみたことないような……」
「そ、そうか?」
朝倉は意外とよく見ていやがった。
幼い頃はいつも一緒で、仲のいい兄妹のように育った恭介と色葉であったが、あの悪夢な一件以来、ろくに挨拶もしないほど、二人は疎遠な間柄となっていたのである。
「わーい。色葉ちゃん、大好き~」
依子がふざけているのか、色葉に抱きついた。
「や、やめてください、依子さん」
「色葉ちゃん、結婚してー。わたしのお嫁さんになってー」
「女同士で何を言っているんです? 冗談はやめてください」
「えー、色葉ちゃんお嫁さんにしたら素敵かなーって思ったんだけど。わたしじゃダメー? 好きな男の子とかいるのー?」
その瞬間、教室内の空気が変わった。
依子の質問の答えを、同級生の男子たちが聞き耳を立てているように思えた。
色葉とお近づきになりたいと思っている男子は、それなりに多かったのである。
「くだらないことを言っていないで、勉強会をどこでするか決めますよ?」
色葉は依子の質問をかわし、話を戻して席から立ち上がった。
「好きな男……か」
色葉が幼い頃は、恭介にべったりで、好き好き言ってくれていた。
しかし今では――
「……変態……」
色葉は恭介の目の前を通る瞬間、穏やかだった表情が一変し、恭介を蔑んだような目で見やり、ぼそりとそう吐き捨てるように言ってきた。
「んっ? 志田のやつ、今、お前に何か言って言ったか?」
「えっ? き、気のせいじゃね?」
引き攣った笑みでそう返すのが、その時の恭介にはやっとだった。
◆
勉強会を依子の家でやることに決まり、色葉たちが校舎を出ると、
「うわっ、なにあの娘、可愛い」
「わー、ほんとだー、お人形さんみたいなー」
校門前に聖泉女子の制服を着た少女が一人でぽつねんと立っていて、それを見た亜美と依子が口々に言った。
整った顔立ちにゆるふわウェーブ、太い眉が印象的な美人さんで、制服が一人だけ違うせいもあるが、かなり人の目を引いていた。
「あれっ?」
色葉はその聖泉女子の制服の太眉ゆるふわウェーブに見覚えがあった。
「あっ、い、色葉……ちゃん」
彼女は色葉の顔を見つけると安心した顔つきになり、駆け寄ってきた。
「やっぱり……結愛さん」
「う、うん……久し振り……だね、色葉ちゃん」
このどこか儚げな美少女――九条結愛は、色葉の中学時代の同級生であった。
「どうされたんですか、結愛さん? こんなところに? もしかして、喜久子さんと待ち合わせですか?」
喜久子は色葉と同じ東雲高の生徒であり、結愛は彼女と大の仲良しであったのである。
「ううん、違うよ。い、色葉ちゃんを待っていたの。色葉ちゃんにお話があって」
「えっ? わたしにですか……?」
少し驚く色葉。
結愛とは仲が悪かったわけではないが、別段仲がよいということもなく、訪ねてきた理由がまったくもってわからなかったのだ。
「ふむ、今日の勉強会は中止かな?」
と、気を遣って亜美。
「あ、いえ……ごめんなさい。ちょっとだけ色葉ちゃんの時間を拝借させてもらえばそれでいいの」
と、結愛は遠慮がちに言った。
「そうなん? 久し振りなんでしょ? 旧交を温めてけば?」
しかし二人はそれほど仲がよかったわけでもなく、亜美の発言は無駄な気遣いでしかない。
そんなわけで結局、色葉は結愛との話が終わり次第、依子の家で合流することになり、依子たちと別れた。
「それで……お話というのは?」
喫茶店に入るまでもないとのことで、缶コーヒーを片手に近くの公園のベンチに腰掛けた色葉は結愛に訊いた。
「うん、瀬奈君のことでちょっと」
色葉は眉をひそめて、
「恭……あの男が何か?」
「うん、まだ仲良くやっているのかな……って?」
「な、何であんな男と……? そんなわけないじゃない」
と、顔を引き攣らせつつ色葉。
「そ、そう……なんだ。よかった……」
結愛はなぜかホッと安心したように笑顔を見せて、
「きっこちゃんのお話、本当だったんだね?」
きっこ――喜久子のことである。学校が違うとそのまま交流がなくなるケースが多いが、彼女たちはまだ繋がりを持っているようだ。
「喜久子さんが何か言ってたんですか?」
「うん、色葉ちゃんって中学時代、瀬奈君ととっても仲良かった……よね?」
「仲がいいって……あ、あいつとは……ただのお隣さんってだけだけど?」
色葉はこれまでの恭介との付き合いを否定するかのように言った。
「そ、そうなの? わたしにはそうは見えなくて……二人の間に割り込める隙はないと思って諦めてたんだけど……じゃ、じゃあ、いいんだよね、色葉ちゃん?」
「いいって……何がです?」
「う、うん……その……わたし、瀬奈君に告白しようかなって?」
「はっ? 恭介に? 何をバカなこと……だって結愛さんは恭介を……それ……本気で言っているんですか?」
「うん……別にいいよね? 色葉ちゃんが好きじゃないなら」
「そ、それは……だって……結愛さんならもっといい人が……あんな変態、やめた方がいいと思います!」
「えっ? 瀬奈君って、変態さん……なの?」
「そ、そうよ! だから結愛さんには相応しくない! やめた方がいいわ!」
「わたし……別に変態さんでもいいよ」
「なっ!」
その結愛の発言に驚きを隠せずにいる色葉。
「邪魔しちゃってごめんね、色葉ちゃん……今日はありがとう」
「まっ、待って!」
色葉は礼を言って立ち去ろうとする結愛を呼び止めて、
「やっぱり告白なんて……ダメ!」
「えっ?」
「だ、だって、あいつは――」
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