乗っ取り
『あ~、とうとうわたし、この世から完全に消えちゃうのか……』
天狐神社に到着した彼女は、ひどく憂鬱であった。
それはそうだろう。これで自身という存在は完全消滅するのだから。
正直、櫻子の身体を乗っ取って逃げ出したい衝動にも駆られたが、それはできなかった。
身体を貸してくれた彼女に申し訳が立たないし、それでは本当の悪霊となってしまうからだ。
『はぁ~、お姉ちゃん、今頃何してるかなぁ~……』
できれば両親や姉くらいには最後に別れを告げたいところであったが、それはもう叶わぬ願い。
誰かいないかと境内をうろついていると、白いもふもふの子狐――QBがこちらに近づいてきて声を掛けてきた。
「やあ、用件は無事に済ませてきたようだね?」
成仏させられそうになった際、巫女に口添えして時間と波長の合う櫻子の身体を紹介してくれたのがこのQBであった。
『はい、時間をいただきましてありがとうございました』
QBのおかげで思う存分痴女ることができ、こうして成仏する決心が着いたのだ。
『……それで清音さんでしたっけ? あの巫女さんはどこにいらっしゃるんです?』
「清音に何か用でもあるのかい?」
『彼女がわたしを成仏させてくれるんですよね?』
「おや? もう思い残すことはないのかい……?」
『そういうわけじゃありませんけど、現世にこの姿のまま留まるといずれ悪霊化するという話ですので』
悪霊の最期はむごたらしく終わるらしく、現世に留まりたい気持ちもあったが、悪霊になるくらいなら成仏した方が万倍もよかった。
「そうかい? もう心の準備はできているんだね? でもまだ現世に留まれるとしたらどうする?」
『はい? そんなことを言っても私にはもう肉体が……』
「肉体? ああ、だったに今から階段を上ってくる女性をみてごらん」
『……階段……で……えっ? わ、わたし……?』
彼女は驚愕した。
何故ならそこには、車に轢かれたはずの自身の肉体があったからである。
◆
ピピピッ、ピピピッ、ピピ――バンッ!
昨日は身体を貸した幽霊のせいでひどい目にあい、悶々としてなかなか寝付けなかった。
いつもは目覚まし時計のアラームが鳴る前に目を覚ますのだが、今日は久々に目覚まし時計の力を借りてしまった。
「はぁ~……起きないと」
櫻子はベッドを軋ませ起き上がる。
そうして気だるげに寝間着代わりに使っていたジャージ、インナーを無造作に脱ぎ捨てると生まれたままの姿となった。
そして彼女はその上からコートを羽織って――
「!」
そこでようやく自身の姿にハッとし、櫻子は顔を赤くした。
「何を寝ぼけてるんだか」
よく分からないけれど、昨夜の露出コーディネイトの着こなしを無意識にしてしまっていたのである。
櫻子は、鏡台の前に佇むと、ガバッとコートを広げてみて、昨夜の光景を再現してみることにした。
「わ、わたし、こんな格好で……」
自然と息が荒くなる。
この格好を恭介に見せつけていたことを思い返すと、小っ恥ずかしくて溜まらなかった。
しかしその半面、気分が高揚している自分がそこにいるのが分かった。
もしかして幽霊に肉体を貸したことにより。霊の興奮が残滓として櫻子に伝わってきているのだろうか?
だとしたら迷惑な話である。
とにかくとっとと着替えないといけないな、と思ったその時、ガチャリといきなりドアが開け放たれた。
「お姉ちゃん? 起きて――」
妹の繭子はその姉の姿に絶句し、そのままパタンとゆっくりと開けたドアを閉めた。
「…………」
櫻子は暫し呆然とコートを開け広げたまま固まっていたのだった。
その日、下着は着けているのにもかかわらず、櫻子は変な緊張感で一日を過ごすことになった。
繭子が今朝の出来事をいいふらしたりしていないかと気が気でなかったからである。
一応、口止めはしておいた。
全裸コートの件は、寝ぼけてコートを羽織ってしまい脱ぐ途中であったと説明し、繭子は分かってくれたと思う。
今まで完璧なお姉ちゃんであったから、変な性癖があるとは思わぬはずだから大丈夫のはず。
それでも、繭子が学校内で口を滑らし今朝の出来事を笑い話として友人の一人にでも漏らしてしまったら、変な風に噂が広がり、姉の威厳どころか教師としての尊厳まで失い兼ねなかった。
そんなわけでちょっとした笑い声にも敏感に反応し、自分に向けられたものではないかとビクビクしていたが、特別奇異な目で自身を見てくる生徒の姿もなく、噂は広がっていない……と思われた。
もう妹のことを信じて一日を過ごすしかなさそうであった。
「ふぅ~、何か今日は生きた心地がしなかったわ……」
櫻子は帰宅の準備をして、校舎を出て駐車場に向かう。
「………?」
すると生徒でも教員でもない完全に学校関係者ではない不審な女性が自身の愛車の後部座席の窓に張り付き、中を覗き込む姿が見て取れた。
「……あ、あの……? どうかされましたか? それ、わたしの車……」
念のため、若干の距離を取りつつ、櫻子は不審者に問い掛けた。
「あ、櫻子さん? ちょうどよかった。昨日パンツ車内に忘れてきちゃって。まだそのままになってるから鍵開けてもらっていい?」
「えっ? パンツって……まさか……」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
しかし昨日車に乗せた女性はただ一人であり、パンツを車内に忘れていくような女性も瞬間移動能力により忘れ物を多発する彼女しか思い浮かばなかった。
ではなぜ彼女とすぐに分からなかったかと言えば、化粧がばっちりされ、髪もバッサリ切って昨日までとはまるで別人のように変わってしまっていたからである。
「い、一日で何があったの? 随分と印象変わっちゃったけど」
と、櫻子は車のロックを解除させながら訊いた。
「ああ、そうね……これが元のわたしだけど、櫻子さんから見たらそうなるのね?」
彼女は後部座席のドアを開け、昨夜の忘れ物を回収してから、
「櫻子さん……あなたには本当に感謝してるわ。身体を貸してくれ、更にこの身体をわたしがいる天狐神社まで運ぶよう導いてくれたんだもん」
「えっ……」
櫻子は彼女の言葉に違和感を覚えて眉を顰めて、
「か、身体を貸したって……ま、まさか……あなた……昨日の幽霊……?」
「ええ、おかげでこうして現世に留まることができたわ」
と、彼女はにっこりと笑って言った。
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