二章:出逢いから今まで
第12話 出逢いから
舞夜と紫苑が仲良くなったきっかけなんて単純なものだ。ある日、彼がいきなり声をかけてきた。それだけである。
「あんたが舞夜?」
図書室のカウンター越しに、名前どころか顔すら知らぬ少年に声をかけられた舞夜は、はあ、とだけ答えた。
あからさまに目を丸くされたにも関わらず、少年はやけに愛想良く微笑んでいた。形容すれば、にっこりといった顔だ。
「やあ。僕は三組の紫苑。ヨロシクな!」
狙ったかのような不自然さは、このまま握手でも求められるかと思ったほどの勢いだった。さすがにそれはなかったが。
押されるように舞夜も挨拶をし終えて、さて用件を話されるのだろうと当然予想していたのだが、紫苑と名乗った方言を使わない同級生は、ただにこにことしている。
「あの……」
「ん、ああ、何の用も無いのに話しかけてくるなって? そうだね、図書委員のお仕事が忙しいんだろうにごめんね」
がらんとした放課後遅くの図書室で、これほどの皮肉もないだろう。舞夜は内心、眉を顰める。暇人がからかいに来たのかと思ったのだ。
「君の相方から伝言だよ。今日は忙しくて委員の仕事ができなくてゴメンってさ」
「誰ですか?」
「僕と同じクラスのヤツ。図書委員て二人でするもんなんだろ? 今日、君と一緒に当番をする予定だったヤツだよ」
そして名前も言われたが、舞夜にはなんにも思い浮かばなかった。最初の集まり以外碌に顔も出したことがないタイプだろう、そういった者は珍しくない。
別に図書委員が仕事をサボっても、司書室には教員が待機しているため図書の貸し出しはされるし、利用者数も少ないし、困る者はいないのだ。
それをわざわざ、しかも利用者のいなくなった今ごろになって連絡に来たことを不審に思いながらも、舞夜は紫苑に礼を述べた。
「……それにしても図書委員は当番なんてあって大変だねぇ。退屈そうだしさ、それに面倒くさくない?」
「面倒やけど、でも、毎日あるわけでもないしなぁ。昼休みと放課後だけやし、それに本も読めるし楽しいよ」
「真面目なんだ」
「うん、って言いたいとこやけど、今日は偶然覚えとっただけやで。私も当番忘れたことあるし……」
それも特に事情なんてなく、普通にすっぽかしただけである。昼休み後の授業中、あっと声を上げそうになったのを今でも覚えている。
その時、同じ当番だった子には謝ったが、彼女はさして気にしてもいなかった。図書委員が座るカウンターもさして広いわけではないし、正直一人の方が気楽なのだ。昼休みを任せてしまった代わりに、放課後は舞夜が一人ですることになって、その話も平穏に済んでいた。
「昼休みは分かるけど、放課後は何時までやんの?」
「えーと、五時四十五分までかな」
日が短くなると安全の問題からもっと早くに終わる。しかしどちらにせよ同じ、西の窓から差し込む夕焼けが眩しい時刻までである。
紫苑はふうんと呟き、掛け時計を確認した。長い針が揺れ、ちょうど八を過ぎたところであった。
「じゃあもう終わりだね。一緒に帰らない?」
「え? んー。いや、今日はちょっと急いで帰りたいし無理やなぁ。ごめんね」
舞夜は内心かなりぎょっとしていたが、出来るだけ表に出さないよう取り繕った。
紫苑が不審であるというよりも、見知らぬ同級生と気軽に帰路を共にすることができるほど、舞夜は社交的ではなかった。しかも同性ならともかく、紫苑は異性であるため話題の一つも思い浮かばない。会話が途切れた瞬間おとずれる、あの気まずい沈黙を想像するだけで気が重い。
それに一応、早く帰りたいという思いはあるので、嘘ではない。
あまりに咄嗟の言い訳なのでなにか言われるかと思ったが、紫苑はあっさりと引き下がったので、舞夜は心底ほっとして図書室を閉める作業にはいった。
「手伝おうか?」
「窓とか見るだけやからいいよ」
「……ホントに人がいないな。どんなのが来るの? 誰かいるだろ。ほら、知り合いとか」
「今はもう終わりやからね。休み時間とかは普通にみんな来るけど、どんなのって言われても、うーんと、色々来るから分からんなー。あんまり知っとる人は来やんかなぁ……」
紫苑はへぇ、と口元を抑えながら呟いていた。
舞夜はいつ帰るのかと彼を見ていたが、そこらの椅子に座りこんだまま動く気配もないので結局すぐ止めて、ゴミや忘れ物の確認に戻った。机も一か所に並んでいるため、これもすぐに終わる。そのままさっさとカウンターに戻った。
「なーなー、なんか本借りる? 無いならパソコン切るよー」
「いや、……うん。ついでに何か借りてこうかな。図書室なんて久しぶりに来たしね。なにかオススメはある? あ、面白いので頼むよ。あと説教臭いのもヤだ」
それから重くないのがいい、など、紫苑は割と好みにうるさかった。
舞夜はああでもない、こうでもないと言われながら、結局、エンターテイメント色の強い文庫本を一冊、紫苑に渡した。群像劇がひとところに収まっていく、読んでいて爽快感のある本だ。
「あ、この作家知ってる。前別のやつ読んだ。またあの全部最後にまとめてくるパターン?」
「そうそう。私この人好きなん。どれ読んでも割と面白いから、選ぶとき楽で好き」
「そんな理由かよ。じゃ、これにしようかな」
そしてやっと選んでくれたので、舞夜は貸し出し手続きをした。
今まで図書室で見かけたことがなかったため意外だったが、紫苑は本に詳しかった。
現代小説だけでなく、舞夜が普段あまり触れない(というより図書室に置かれている数が少ない)SFから、ネタの連ねられたような雑学書まで、どうやら幅広く手をつけているようだった。舞夜も彼に、遠回しにだが強く薦められた一冊を借りてみることにした。
それ以上は特にたいした会話もなく、二人はあっさりとその場で別れ、それぞれ帰路についたのだった。
初めて二人で会話をした後日、舞夜は紫苑と廊下で擦れ違った。視線があった、というより彼の姿を目にしたとき、舞夜はたじろいでどうするべきか悩んだ。
一度会っただけで、彼の名前すらすっかり忘れていたからだ。
挨拶するか、会釈だけで済ますか、どれほどの距離感で接したらいいのか。それはともかく、横にいる友だちに彼について訊かれたら面倒臭い。
しかし、あれこれ考えぎこちなく身構える舞夜から紫苑はふいと目線を逸らし、まるで彼女を居ない者であるかのように無視して通り過ぎていった。
舞夜はほっとして、先日話しかけられたのは彼の悪戯心とでもいうべき気まぐれだったのだろうと結論付け、いつもと同じ、彼女の日常へと戻っていったのである。
「あ、舞夜。誰か待ってるの?」
「え?」
と口籠ったのも、しかたのないことだろう。
放課後の教室、一人で席に着いていた舞夜に声を投げかけてきたのが、名前を忘れしてしまった少年(紫苑)だったからだ。開け放してあった戸から、まるで自分の教室であるかのようにずかずかと入り込んでくる。
この前のことを、彼の態度で無かったことになったのだろう、と勝手に判断していた舞夜は、ただ純粋に困惑した。正直、一時しのぎに喋っただけの関係だと思っていたからだ。彼の意図が見えなかった。
黙ったままの舞夜に若干苛立っているのだろうが、それでも笑顔をつくって紫苑は話しかけてくる。
「耳ついてる? 誰か待ってるのかいって聞いたんだけど」
「陸上部の友だち。いつも一緒に帰るから、待っとんの……」
「そう。律儀だね」
舞夜も切り換えて、一度仲良く話したことがある同級生として振る舞った。こうすれば気まずさもない。
紫苑は尋ねてきた割にさして興味も無さそうだったが、舞夜はとりあえず世間話がてら、その子が陸上部で次の大会に出ることや、そのせいで遅くまで部活があること、夜に一人で帰るのは危ないから待っていることなどを喋った。
「そうなんだ。僕はその子にぜんっぜん興味も無いんだけどね……。ということは、君はこの時間はいつも暇してるわけだ」
「帰ってもやることないしね」
舞夜がそう言うと、紫苑は笑った。
「あ、この前の本、どうだった? ほら、帰ってから気づいたんだけど、殺人の描写とか入ってるだろ。薦めたけど、どうだったかなーと後で思ってさ」
そんなことをわざわざ気にして尋ねてくるなんて律儀な人だな、と舞夜は少し感心した。
「あれくらいなら平気。スッゴい面白かった。始めだけちょっとオチ弱いかなって思ったけど、あれ初めと繋がっとるんやね。ビックリした!」
それならよかった、と微笑んでから、紫苑は考え込むように口元に手を宛がう。彼の癖だろうか。
「ふーん、スプラッタとか平気なタイプ? グロいアクション映画とか」
「んー、割と平気かなー。昔そういう映画の、血糊とか特殊メイクとか演出とか、舞台裏みたいなやつ? テレビで見たってさ……」
確か海外の、ドキュメンタリーのような番組だった。
子どもの時分に物凄い作り物だと納得してしまったので、今もその印象が消えないままである。まあそれはそれで、悲鳴を上げたりわーわー文句を言ったりしながら楽しんでいるが。
「なるほど。偽物って意識しちゃうとね」
「お化けとかは怖いけどな」
「へえ、意外。……お化けは本物なの?」
「別に信じてないけど、なんか、お化けって考えるとぞくぞくーってするから、やっぱり怖いかな。情けないから、平気になりたいけど」
さすがにこの歳にもなって夢物語に怯えるのは情けないというか。少し気恥ずかしくなったが、紫苑は笑ったり馬鹿にしたりしなかった。何を考えているのかよく分からない顔で、へえ、と呟いただけである。
とりあえず舞夜はこの流れで、言い出し辛いことを真っ先に言ってしまうことにした。
「あのー、名前なんでしたっけ?」
「紫苑だよ。舞夜が覚えやすいように、名前しか名乗らなかったのになぁ」
動揺一つなく、彼はまるで予想していたかのようにさらりと答えた。どこか恩着せがましい皮肉もセットである。
「なんか嫌味やねぇ」
最初の印象と違う、と驚いた舞夜が素直に口にすると、紫苑は眉を顰めた。
「取り繕うと、君そっけないだろ」
紫苑は舞夜のその言葉というより、舞夜自身に苛立っているようだった。
身に覚えのない舞夜は、そんなことない、と言い返した。紫苑にそんなことをした記憶なんて無かったから、相手の言い訳だと思ったのだ。しかし紫苑は、反応を見たら分かる、とどうにも言い返し辛いことを言ってきたため、舞夜は口を噤んだ。
なんとなく、負けた気がした。
それからも二人きりの時にだけ、紫苑は舞夜に話しかけた。放課後の、がらんとした教室などが多かった。
普段人目があるところでは、互いが互いを無視して、関わりのなかった以前と変わらぬ体を装っていた。舞夜も別段彼自身に用事があることもなかったため、常時には自然と彼を無視することとなった。
舞夜はその状況に、あまり違和感を覚えていなかった。部活、委員会、クラスなど、その場面によって喋る相手、喋らない相手がいるのは別に不思議ではないだろう。
これは極端過ぎる例かも知れないし、傍から見ればおかしかったかもしれないが、舞夜は極自然なことのようにそれを受け容れていた。
紫苑と話しても自分に損がなかったから、あまり考えなかったのかもしれない。舞夜には、友人を待っている間の退屈を潰せるという得しかなかったから。
それから更にかくかくしかじかあって、舞夜は紫苑と友人になったのだった。
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