第9話 『顔剥ぎ』
「紫苑くん!!」
飛びこんだ舞夜の目に飛び込んできたのは、散々たる音楽室の有り様だった。押し潰されたようなピアノの残骸や、引き裂かれたカーテンの繊維が散らばり、床も壁も凹んで、まるで荒らされた廃墟だ。
ネムレスが彼と戦うなら物が少なく広々としたこの音楽室だろうとは思ったが、想像以上の激戦を繰り広げたらしい。
「舞夜……」
中央に立つのは、この惨事を引き起こしただろう二人である。狐面を被った少年と、箒を構えた少年。肩で息をし、二人とも疲労困憊といった体だ。
どちらにも目立った外傷が無いのを確認してから、舞夜は息を吐く。
「紫苑、くん」
念を押すように、再度呼びかける。
狐面の、少年に。
彼は面なので何を考えているのかは分からなかったが、舞夜が足を踏み出しても、敵意は感じられなかった。
「……舞夜、何を、」
「ネムレス」
短い呼びかけに、ネムレスは口を噤んだ。しばらくの沈黙のあと、舞夜は自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「――私の荷物、三階にあったん、なんで教えてくれへんかったん?」
いくら待ってもその問いに、ネムレスは答えてくれなかった。
「……変やなーって、なんとなくは思っとったよ。だって顔剥ぎおらへんし。その、そこの狐の人――紫苑くん? が顔剥ぎかなとも思ったけど、顔なんて狙ってこやへんだし。じゃあ、他に化け物がおるんかもって思ったけど……変な現象とかはあったけど、どんだけうろうろしてもこっちへの攻撃的なものが無かったから、やっぱ違うよなって思って」
舞夜でもネムレスでも狐面でもない、第三者ならぬ第四者として顔剥ぎが存在する可能性も、一応としてはあった。舞夜とネムレスから逃げ回って、顔も会わせず潜伏する誰か、である。
それについて何よりおかしな点は、先ほどまで独りであった舞夜の顔を奪おうと現れなかったことだ。逃げのびるにせよ隙をつくにせよ、記憶の無い舞夜という存在ほど便利な隠れ蓑もないだろうに、である。
「だったら、私かネムレスかしか、おらへんかなって。……初めはさ、私が顔剥ぎかなって思ったりもしたよ。なんか記憶無いし不安やし、ネムレスの私への扱い方とかめっちゃ慎重やったし。どっかの"柊舞夜"の顔を奪って、そのことを忘れてって感じ。犯人はオレだー! みたいなな」
初めに自分という存在に疑問を抱いたのは、狐面と会ってすぐのときだった。その時はただ不安で堪らなくて、なんで自分がこんな目に、という八つ当たりじみた訴えに過ぎなかった。
それから探索を進めるなかで、あまりに自分に関する記憶が戻ってこないため、もしかしたら舞夜自体、全てが偽物なのではないかとすら考えた。自分は女子高生であるという情報も、元々顔剥ぎとして外身だけを奪ったものだから、学年までは曖昧だったりするのかもしれない。
そんなだから、どれだけ探索しても、何一つ記憶が戻ってきてくれないのではないか、と。
まあ、傍にいてくれる親切な人――ネムレスを疑うより、訳の分からない自分という存在をなんとなーく疑っておく方が、精神的に楽だったのだ。ある意味、逃げるような選択肢だった。
「でもその狐さんが、私を殴らへんだから……。ネムレスの、理性もない化け物って言葉が嘘やって分かって、それでおかしいから部屋を調べたら、鞄が出てきた。……昇降口で襲われたのに、あそこにあんのは、おかしいよね」
舞夜の、鞄について感じた違和感はそれだった。狐面の少年がいた教室にある理由なんてただ一つ、彼がそれを回収したからだろう。それこそ、自分の物だから。
そして、舞夜の鞄が回収されなかったのは、そこになかったから。つまり、誰かが持ち去ってしまったからで。
「ネムレスが、隠したのかなって……」
そこで一度言葉を区切って、舞夜はネムレスを見つめた。――私がここまで喋ったんだ、後はもう暴露でも弁明でもしてくれたらいい。いっそ願うような気持ちだった。舞夜はどうしても、彼の声が、言葉が聴きたかったのだ。
しかしネムレスは色の無い、心内の読めない表情を作って舞夜を見返すばかりだったので、彼女は観念するように項垂れた。
「――つまり、まず私と紫苑くんが顔剥ぎに負けるやろ。紫苑くんは顔を盗られて、のっぺらぼうになってそのお面を被った。そのまま顔剥ぎは紫苑くんに成り代わって、記憶を失くした私の傍におった。私の鞄だけ回収して、そこの教室に隠して、それで、顔剥ぎは……ネムレスって、名前で呼ばれることになって……。……そんな私たちが脱出すんのを止めるために、狐面の紫苑くんは校舎を閉じて、滅茶苦茶に造り替えたり罠を張ったりした」
嘘を吐く理由があるということは、つまりネムレスには後ろめたいこと、或いは隠したいことがあったということだ。そして、舞夜が得た前提のほとんどがネムレスからの情報だったが、それに間違いがあるとするならば。
落ち着いてみれば、極めて簡単な答えが導き出された。
全ての推理を伝えたというのに、ネムレスは、それでも何も言ってくれない。初めて彼に拒絶されたような気がして辛かったが、それでも、まだ話さなければならないことはある。
舞夜は息を吸った。気を落ち着けるための深呼吸、ネムレスに言われたものだった。
「それに、ネムが、私を無理矢理こんな所に誘うはずない、気がする」
舞夜の知りうる限り、彼はひどく親切であった。いくらだって嘘を吐いていたのだろうが、細やかな気遣いには見習うべきものがあったし、常に舞夜の前を歩いていてくれたのだ。
だから、彼が語った「自分が半ば無理に舞夜を誘った」という事実だけが、やけに浮いて見えてしまったのだ。恐らく、実際にそうしたのは未だ声も聞けない紫苑の方なのだろう。
それから最後に、舞夜が見つけた、わざわざ隠されていた自分の鞄。その中には、狸を模った面が入っていた。口が可動式の、何処となく不気味さのある面だ。
「たぶんこれと狐のお面は、私と紫苑くんが顔剥ぎ対策に用意したんやと思う。具体的にどうするつもりやったんかは分からん、け、ど――?」
すっと伸ばされた手に、狸の面を取り上げられた。いつの間に近くに来ていたのだろう、ネムレスばかり見ていたから気付かなかったが、舞夜の傍には狐面の少年――本物の、帝釈紫苑が立っていた。
舞夜が見つめるなか、狐面とその狸面が、静かに付け替えられる。そして、それこそまるで演劇のように、その口元がカタカタと動いた。
「――君にしては、よくやったんじゃない?」
舞夜は苦笑する。ネムレスのものとそっくり同じ声だが、彼のそれはどこか傲慢だ。それにはじめまして、と言いたい一方で、久しぶり、と気安く笑いかけたくもあった。
舞夜にしてみれば記憶に無い誰かであるのに、それを覆すほどしっくりとくるものがあったのだ。
「……なぁんだ。全部ばれちゃったんだ」
そこでやっと口を開いたネムレスの声は、ぷつりと弦が切れてしまった楽器のように虚ろだった。魂が抜けたような顔をしながら、自嘲するかのように口角だけは浅く釣りあがっている。打ちのめされたのに助けを呼ばず、そのまま死んでいく人のような目をしていた。
「うまくいくはず、ないよなぁ。俺なんて所詮、偽物だもん」
悄然としてほとんど泣いているようなのに、虚無感に乾いた声だった。
「……分からんとこもいっぱいある。なんで私の記憶が無いかとか。そのせいで、ほんとは私が顔剥ぎ説なんかも考えたんやし……。あとそれから、ネムレスに明らかに紫苑くんの記憶があることとか。口から出任せも多かったやろうけど、さすがに全部ってわけにはいかんやろ?」
ネムレスに"くん"付けで呼ぼうとした舞夜の癖がバレたり、つらつらと以前あった思い出を語られたり、彼は本当に付き合いの長い友人そのものであった。
「あ、でも一番は、なんでネムレスがこんなことしたのか、聞きたいんやけど」
「――なんで、か」
ネムレスはまた沈黙してしまう。
なんと声をかけたらよいのか分からない舞夜と対照的に、紫苑はふんと鼻を鳴らす。
「ここまできといて、まただんまりかよ。潔くないなぁ。――舞夜。ある程度ならこの本物の、帝釈紫苑くんが解説してあげよう。ま、推測入ってるけどね」
紫苑はそこで学帽の鍔をつまみ、深く被り直した。
「まず、僕の記憶のことだけど。顔剥ぎは、顔は奪えても記憶までは盗めない――って情報あったけど。あれ、ガセネタだったんだろうね」
「え、そうなん?」
「うん。ただの都市伝説としてのスパイスか、顔剥ぎ自身が敢えて歪めて伝えたのかは知らないけど。……ちなみにその証拠は、君の記憶が消えたことにも関係してる」
言いながら、紫苑が取りだしたのは空っぽの小瓶だった。舞夜が彼の学生鞄を開けた際、そこに入っていたものである。
「これ、僕の私物なんだけど……ホントなら中には、飲んだ者の記憶を消す水が入ってたんだぜ。今は無いけどな! これだけは本当に慎重に扱ってきたから、あいつがどれだけ僕らを観察してようが、その存在を知っているはずないんだよねー。だからあいつは、僕の顔を奪ったときに付いてきた記憶から、これが何かを偶然知って、それで、君に飲ませたんだろう」
推測だけど、そうとしか考えられない。
言って、紫苑は小瓶を揺らしてみせる。水の一滴すら跳ねないそれに、彼はわざとらしく溜息を吐いた。
「あーあ。一滴も残ってない」
「なんでそんな物騒なもん持っとんの? 紫苑くんヤバない?」
「あいつよりマシだろう? にしても使えない水だよねぇ。劣化してたのか、それとも摂取量が足りなかったのか。ま、何によ、舞夜の記憶が戻ってきてるんだし結果オーライ!」
「どこが?」
想像していたよりも危険人物なのかもしれない、と舞夜は静かに戦慄した。
「ほら、さっさと話せよ偽物くん。なんでこんなことをしたのか、殺されかけた僕も興味あるなー。さすがに僕もそこまでは説明してやれないし!」
言って、紫苑はガラス瓶をネムレスの足元に叩き付ける。瓶は弾けるように砕け散ったが、ネムレスはまるで影のように佇んでいる。
やがて彼はゆらりと揺れ、両手で彼の、いや、奪った帝釈紫苑の顔を覆った。
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