第8話 独りぼっち

 舞夜は一人、困惑したようにネムレスの名を呼んだ。


「ネムレス? ……ネムー?」


 いくら繰りかえそうと、返ってくるのはただ冷え切った沈黙のみである。

 彼女はそれにさえ戸惑ったように、ほんの半歩だけ足を引いた。すると背後の下駄箱が、まるで崩壊間近のような音を立てて軋むので、跳び上がって振り返った。当然、そこには誰もいない。

 上げそうになった悲鳴をごくりと呑み込んで、舞夜はほとほと困って俯いた。


「ネムレス、どこ行ったん……?」


 当然、独り言にも返答はない。

 現在、一階にいるのは彼女のみである。




 二人は一階に向かって階段を降りていた。ネムレスが先に、舞夜が後に。まるでいつも通りの並びである。なぜか口が軽くなったようによく喋るネムレスを疑問に思いながらも、舞夜は、まあ彼が独り黙ってしまうよりはいいだろうとにこにこ相槌を打っていた。特にそれ以上の違和感はなく、周囲に異変もなかった、と思う。

 そしてそのまま、ごく普通に階段を降り進んだ。

 当然、前にいたネムレスが先に一階に足を着けた。舞夜もその後を追って、ふと一階に着いて。


 そうしたら、そこには舞夜一人しかいなかった。


 突如として別世界に顔を突っこんでしまったかのような不思議な心地で、彼女は呆然とネムレスを呼んだ。返事は無く、彼女はただ独り、そこに残されてしまったことを知った。

 慌てて上の階へ引き返そうとしたが、なぜか階段を上れない。壁があるわけではないのに、まるで空気自体に足が拒まれているかのように進めないのだ。


 一人で行動しなければならないことを悟って、舞夜は涙が零れそうになるほど不安であったが、さすがに泣きはしなかった。鼻水はすすったが、それだけである。泣いたって慰めてくれる人はいない。

 もともとネムレスに、一人で来ようかと提案していたのだ。彼に説明されていたお陰で、一階にどのような教室があるかもちゃんと分かっている。自力で考えながら、ゆっくり探索していこう。

 大丈夫だ、怖くない。いや怖いが、それよりも。


「……ネムレス、やばいかなぁ」


 思わず独り言がこぼれるほど不安になるのは、何処にいるかも分からないネムレスについてだった。

 彼は独りになってしまって、大丈夫だろうか。一応武器である箒も持っているし、彼の戦闘力に不安があるわけではない。

 ただ、精神的な面で、あれほど舞夜に一人で行くなと訴えていた彼だから、今ごろよっぽど参っているのではないだろうか。再会について考えると、既に気が重い……。


 こつん。いきなり、廊下に響いた軽い音に、舞夜は息を詰めて振り返った。

 昇降口に、ころりと転がる赤い二つの何か――よくよく目を凝らすと、ただの女児用の靴であった。赤いエナメルの、シンプルな一足。

 認めた瞬間、その違和感にぞわっと背中に鳥肌が立つ。その存在の、何もかもがこの場には不釣り合いだった。


「……だ、れかいますー?」


 そんな筈ないのは重々承知であるが、尋ねずにはいられなかった。

 じりじりと足元から焼かれるような恐怖に、舞夜は思わず後ずさる。その瞬間に歪んだ廊下が、苦しむような声を、いや、耳障りな軋んだ音を上げただけだったのだが、それでも今の舞夜には十分だった。それを合図にするかのように彼女は駆けだしていた。


 本当はそのままどこか安全そうな教室、例えばネムレスと最初に調べた保健室などに飛び入るつもりだった。しかしまるで舞夜を煽るように廊下の窓ガラスが崩れ落ちたので、彼女は咄嗟に、一番初めに目についた教室内に滑り込んだ。


 勢いよく戸を閉じて、そのままそこに凭れ掛かるように深く息を吐いた。暴れ狂う心臓を抑えるように、呼吸を整えながら、ふと前を見る。普通の、教室のように見えた。並ぶ木製の学習机と椅子、それから教壇。


「……うわー」


 それも彼女のすぐ側、戸の真横にある壁に、鋭く突き立てられている鉄パイプの存在で台無しである。

 すぐに分かった。ここは、あの狐面の少年に襲われた教室、その場所だ。前と違い何故かすっきりと片付いているため、入った一瞬は分からなかったが。


 一難去ってまた一難、というより、飛んで火に入る夏の虫だろうか。しかし、此処も未だ調べていないことに変わりはない。舞夜は息を殺し、そっと室内に足を踏み出した。

 本当に、息が詰まるほど静かだった。ここには自分しかいないという事実が、無音の針となって舞夜を刺した。


(なんかここ怖くない? 怖い)


 先ほどから舞夜を襲う怒涛のホラー展開のせいで、ただ立っているだけでも怖い。それでも立ち止まっているわけにもいかず、机一つ一つを覗きこんだり、教卓の方まで回ってみたりする。

 すると教室の角のところに、忘れ去られたように置かれているものがあった。


「か、鞄ーっ……」


 慌てて歓喜の叫びを抑えたが、それでも足取りは正直だ。舞夜は放置されていた紺色の学生鞄に嬉々として飛びついた。いっそこの周囲を跳ねまわりたい心地だった。


 一瞬開いてよいものかと戸惑ったが、まさかネムレスがノーと言うはずないし、舞夜のであったら問題無いし、別にいいだろうと遠慮せず一気に鞄の口を開けた。

 中にあったのは教科書一冊と音楽プレーヤー、それから何故か空っぽの小瓶だ。筆箱すら入っておらず、どれだけ不真面目なのかと舞夜は呆れるように思った。


 そのままざっと漁って、見つけてすぐ手に取ったのは生徒手帳だ。焦りに手を滑らしそうになりながら開くと、今までに見慣れた少年の顔写真が表れる。舞夜がネムレスと呼んできた少年である。

 そしてその下には、彼の名前。


 帝釈 紫苑


「シオン……?」


 タイシャクシオンと、読みはこれであっているのだろうか。振り仮名が振られていないため分からない。

 しかし、柊舞夜と画数の多い名前でこういうのもあれだが、


(すげぇ字面)


 これだけ印象的であれば何か記憶に引っかかることもありそうだが、何一つ思い出せなかった。


 舞夜は生徒手帳を戻してから学生鞄を眺めていたのだが、ふとその存在に、どこか違和感を覚えた。

 なんとなくだがこの鞄に関して、何かがおかしい気がする……と、思いかけた瞬間、頭にぽすんと柔らかな物体がぶつけられて、それも吹っ飛んだ。

 驚いて床に落ちたものを確認すると、ビニール袋に包まれた、ごくごく普通の菓子パンである。


 咄嗟に振り返ると、狐面の少年が突っ立っていた。


 彼は動かなかったし、舞夜も動かなかった。


(パン? こいつ? なんで?)


 あまりに意味が分からなさ過ぎる状況に、完全に舞夜の思考が停止したためである。

 対する狐面も、まるで石のようにその場から動こうとしなかった。時間にすればほんの一瞬の、なんとも奇妙な睨み合いがそこにはあった。


 しかしその均衡を破るように、彼が足を踏み出した。

 それに我に返ったのが合図になったように、舞夜の頭の中でネムレスの言葉が木霊する。


『絶対に、近付かないで』


 固まっていた体に血が流れこんだ気がした。

 舞夜は鞄を抱き締めたまま後退り、背が壁に当たったので立ち上がって逃げようとしたが、不可能だった。両足首が、また例の透けた手に握られていたからだ。今度は、舞夜がいくら手で打っても消えようとしない。掴みかかって引き剥がそうとしても、鉄で作られたかのように頑強でぴくりともしない。半透明な肌を思い切り抓ってもみたが、やはり痛覚がないのか当然のように反応はない。


 にじり寄る白塗りの狐面は、薄暗がりの教室のなか、まるで幽鬼の如くぼうっと浮かび上がっているように見えた。

 舞夜は思わず息を飲んで、手を外そうともがくが抜けだせない。後ろは壁、自由は無い。パニックになった舞夜は、咄嗟に頭を抱えた。


「ね、ネムっ……」

 ネムレス。


 ぎゅっと指先に力を入れ、目を瞑る。そうすると足首を掴む指の感覚が、やけに鮮明になるのが不快だった。


 舞夜は完全に、このままここで死ぬものだと思った。なのに思い出せる顔も名前もほとんどなくて、唯一浮かぶネムレスまで置いてきぼりにしていかなくてはならない。こんな最後は嫌だと、心の底から思った。


 しかし、いくら待っても静かだった。


「……?」


 怖々目を開けると、まるで舞夜自体にすっかり興味が失せたかのようにそっぽを向いて、そのまま歩き去る狐面の少年がいた。思わずぽかんと舞夜はその背を見送る。

 引き戸に手をかけ、狐面の少年は一度だけこちらを振り返った。舞夜は驚きながらも、何故か彼から目を逸らすことができなかった。ふと気づけば、彼女の足首を拘束していた両手も消え失せている。


 彼の背が見えなくなったところで慌てて廊下に飛び出すが、既にその姿はどこにもない。

 舞夜は抱えたままの鞄を抱き直して、一人そこに佇んでいた。




 教室を飛び出した舞夜は、とぼとぼと元来た道を歩いていた。ネムレス――帝釈紫苑の鞄を抱えたままである。

 歩みを進める度に窓ガラスにヒビが入ったり廊下が軋んだり、突如空間が歪んだりしたが、いい加減に慣れてきた。女児の靴だってよく見れば本当にただの靴だ。今なら玄関に揃えて置いてやることさえ出来るだろう。


 しかし舞夜にはそれよりずっと気がかりなことがあった。そのせいでまた、あの焼けるような頭痛がぶり返してきそうだった。


 上れるようになっていた階段を、舞夜は重たげな足取りで進んだ。




 それから辿り着いたのは三階、舞夜が初めて目覚めて、ネムレスと出会った教室である。此処だけは、きちんと調べていなかった。

……正確には、ネムレスは調べたと言っていたが、舞夜自身は未だ調べていなかったのだ。


 彼女はカーテンを払って裏を確認し、教卓の下を、机の物入れの隙間を、学生用のロッカーの中を調べた。

 掃除用具入れも開けて、中に箒くらいしかないことも見て、それから、その上を見ていないことに気が付いた。舞夜はロッカーによじ登ると、慎重に立ち上がって、その埃塗れの場所を確認した。

 そこにはもう一つ、別の学生鞄が置かれていた。

 舞夜は項垂れて、その鞄を抱えて床に下りた。



 息を吸ってから長く吐き、気を落ち着けると、舞夜はその学生鞄に手をつけた。


 開いて、真っ先に目に付いたのは面だった。あの狐面と似ているが、こちらは焦げ茶である。犬、いや、狸だろう。おまけにどんな悪戯心か、口元が稼働するようになっていた。舞や演技などで使用するためだろうか。


 また、数冊の教科書など学生らしい物に加えて、生徒手帳も出てきた。

 開けば、線の細い少女が映っている。夜の窓にくっきりと映る自分――舞夜と同じ顔をしていた。

 名前は、柊 舞夜。


 ほっと息を吐いて、それを鞄に戻す。底の方からは手帳が出てきた。ぱらぱらめくって見るが、特に面白いものはない。


 そこでふと違和感を覚えて、ネムレスの言っていたことを思い出しながら、彼の手帳と照らし合わせることにした。

 緑の蛍光ペンで斜め線が引かれていた昨年五月――その三十日と三十一日のところに、同じ色で月末テスト、とあるが、舞夜の方にはそんなことは書かれていない。学校が違ったとネムレスは言っていたし、それ自体は、別におかしくない。

 舞夜が知りたいのは、この緑色の蛍光ペンが、結局何を示しているのか、ということだった。本当にただの悪戯書きか。それとも、何かを伝えたがっているのか――。


 舞夜は自分の手帳をめくる。最後の自由にメモ書きができるところに、様々な情報が記されていた。大体がよく分からない何か、つまり怪奇現象についてである。どこかで見聞きし、あるいは調べた事柄がみっちり詰め込まれている。

 一番終いの方のページにはまず『都市伝説』と書かれ、その下には、それこそこの場で幾度も聞いた名前が書かれていた。


――『のっぺらぼう』はね、あなたを脅かすためあなたを騙すよ。誰かのフリ、知人のフリ、親のフリだってするよ。あなたが気を抜いたところにね、あっと顔をさらすんだよ。


「……」


――『顔剥ぎ』はね、あなたになりたいよ。あなたのフリをして、誰か、知人、親だって騙すよ。無くしたあなたが泣いたところでね、アナタは知らん顔だよ。


「……顔剥ぎ」


 舞夜は呟く。現在、全ての中心にあるだろう言葉がそれだった。


 顔剥ぎは、羨んだ相手の顔を剥いで、その存在に成り代わろうとする。しかし、ただ顔だけ奪っても、完全にその人自身になることは出来ないため、話が合わなかったり、記憶が無かったり、挙動に違和感が出るという。自慢を抑えろ、という教訓のついた都市伝説だ。

 舞夜は紫苑ともに、その顔剥ぎ退治にこの旧校舎へ足を踏み入れた、というよりも、彼に半ば引っ張られるように来たらしい。

 しかし二人は顔剥ぎに返り討ちに合い、三階に逃げ出す。その時の顔剥ぎの姿は、見ていないため不明である。また、舞夜はそのショックで、目覚めた時には記憶を失っていた。

 舞夜の鞄は誰かの手によって、この教室に隠されていた。

 それから二人はこの旧校舎から抜け出すため、一階に移動する。そこで閉じこめられたことに気付き、逃げるため探索を開始する。そして、狐の面を被った少年と遭遇した。

 舞夜の鞄には、狸の面が入っていた。


 なんとなく、これだけで大体のことが把握できる。それでもまだ、理解できない点はたくさんあるが。

 舞夜は黙々と自分の手帳に視線を走らせ、ページをめくる。

(あった!)

 隅っこ、おまけとして付け足されたような文字。急いでいたのだろうか、ミミズののたくった様な字だった。


――某年『五月三十日』早朝、保育所に通う五歳の女の子が失踪。彼女はその三日後突然帰って来たが、その間の記憶だけが無いという。しかしそれ以外に異常等は無く、彼女はまた元気に幼稚園に通い始めた。

 そのあまりにも奇妙な事態から、『神隠し』であったのではないか、と囁かれている。


 五月三十日。紫苑の手帳に書かれていた落書きが指していたのは、恐らくこのことだろう。

 こんな状況と関係のある女児、と聞いてぱっと思い浮かぶのは、昇降口あたりに突如現れて舞夜を恐怖のどん底に陥れた、あの赤い一足の靴である。よくよく見れば、なんの変哲もないただの靴に過ぎなかったわけだが……しかし、それと都市伝説の顔剥ぎが、どう繋がるのかが分からない。

 この子には三日間の抜けた記憶以外、異常はなかったらしい。ということは、記憶を奪えない・・・・・・・顔剥ぎとは無関係なのだろう。

 もし彼女が消えていた間に舞夜のような記憶喪失にでもなっていたら、それこそより話題になっていただろうし、であれば、ここにメモされないはずもない。


 とするとだ。

 これは舞夜に、何を伝えたがっていたのだろう?


 絡まって、どう足掻いても解けない毛玉に出会ってしまったかのようなむず痒さと苛々が彼女を襲うが、どう考えても解けそうにない。

 ぐちゃぐちゃになって、どうしようもない結び目に出会ったらどうすればいいのか?


 答えは簡単。鋏で切って、元を断つのが一番早い。今の舞夜になら、それができる。


「本人に聞けばいい――」


 憑き物が落ちたように顔を上げ、舞夜は二つの鞄をまとめて持ち、勢いよく立ち上がった。

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