第7話 休憩
「結局、なんもないまま戻ってきたねぇ」
「手に入れたのは、この箒くらいかな。あと、俺の手帳と。それから――」
休憩として三年一組に戻ってきたあと、二人揃ってその辺に座り込むと、ネムレスはあ、と声を上げた。
彼の目線の先、床に落ちていたのはきつく折り畳まれた紙片――舞夜が目覚めた時に持っていた、『名無し男』の劇の広告であった。彼はそれを広げて見せた。
「落としてたんだね。ほら、あの劇の」
「あれか! なんか懐かしいなぁ。私あのとき、めっちゃぼーってしとった気がする。今は結構成長したな。ほら、文字なんかもすらすら読めるし。ね?」
言いながら広告に目を這わす舞夜は、どことなく子どもがするように誇らしげである。
ネムレスは彼女に見られないよう微笑んでから、その自慢に乗っかってやることにした。
「それ、どんな話だっけ?」
「んっとな、ちょっと待って――」
一応あらすじは書かれていた。
名無し男(仮名ネムレス)には何故か、幸福な人間が光輝いているように見える。
しかしそれはあまりに眩し過ぎて、その人『自身』さえも見えなくしてしまうのだ。だから彼は幸せな人と一緒に居ることはできないが、それを苦に思うことはない。
彼はまた別の場所に移動して、別の人間を幸せにしていく。
「そっか。そんなんだった気がするな。……いい奴なんだね、そいつは」
「うん。なんか年中無休のサンタさんみたいやな。名無し男はなんか可哀想やけど、来てくれたらラッキーみたいな?」
「……幸せな人の傍にいられないのは、不幸かな。一生光ることのできない人の横って、どうなんだろう」
「さあなあ。本人によると思うけど」
舞夜が端的に答えると、ネムレスは身動ぎした。首肯したようだった。
「光か。いいなあ。……どうすればいいんだろうね、本当に」
彼の言葉はどことなく切実な思いとともに吐き出された。膝に額をあてて俯いているため、その表情は窺えない。
舞夜は彼を呼ぼうとしたが躊躇って、結局ふと意味も無いを吐息になった。
「幸せって、よく分からんけど、満足して幸せーってなることやろ? 私、色々不安はあるけど、今でもそこそこ幸せやで。多分。まあどっちでもいいけど」
ざっくばらんだが、飾ることのない率直な気持ちを舞夜なりに伝える。
ネムレスはそこで、やっと微かに笑んだ気配を見せた。
「それで、名無し男はどうなるの?」
「うーん。具体的なんは載ってへんからなぁ」
その名無し男がどう行動するのかまでは、ネタバレになるため当然書かれてはいなかった。しかしあちこち移動して回ることは確実で、その働きっぷりを想像するだけで大儀そうである。
よく知らないが、最終的に人々に幸せにしてくれる名無し男に呼び名ができてよかったね、彼は今日もどこで幸せを届けているよ、みたいな話なのだろう。多分。
舞夜は適当に予想しながら、広告内にもっと喋れるネタはないかな、と探し始めた。最初に話を振ったネムレスの方はというとじっと静かにしていて、少しでも気が紛れたらいい、と舞夜は横目で彼を見ながら内心思っていた。
「あ。名無し男は、名前が無いのを気にしとるんやって。でも名無しのキャラクターって別に悪ないよね。それだけで特徴的やしさー」
「そうかな」
「ネムはどう思う? 名無しキャラ」
「……人に呼ばれる場合には、不便だと思うよ」
舞夜はそっかと呟いてから、溜息を吐いた。
確かにネムレスの言う通りであった。彼は本名もあるのだろうが、今は舞夜のせいで仮名で呼ばれるという、よく分からない目にあっていた。しかもその原因は、明らかに舞夜の耳か脳にあるのだ。
「ごめんなネムレス。名前聞こえんくって。……はー。帰ったら病院行かなあかんな」
「俺、ネムレスって名前、結構気に入ってるからいいよ。寧ろずっとそれで呼んでくれてもいいくらい」
えー、と言いながらネムレスを見れば、彼はひどく穏やかな表情をしていた。まるで内面が読めない表情に、舞夜は本心からそう言っているように錯覚してどぎまぎしたが、これもきっと、ただの友人へのフォローだろう。
舞夜はぎゅっと抱えた自分の膝に、拗ねたように顎を乗せた。
「ぜんぶ思い出せたら、早いんやけどなぁ。でもさぁ、これだけうろうろしとったら、何か記憶の戻るきっかけとかあってもおかしくないよな? 私の持っとった荷物とかって、どこいったんやろ」
ネムレスの手帳だけは何故か二階に放置されていたが、それ以外はさっぱりである。
先ほどから溜息を吐いてばかりの舞夜の名を、ネムレスが呼んだ。
「記憶喪失が、当然無視できない事情だっていうのも、気になってしかたのない事だっていうのも分かるけど――、あんまり気にし過ぎない方がいいと、俺は思うな。今この状況で考え過ぎて落ち込むのは、あまり君にとってよくないよ。とりあえず、ここから脱出できるまで、あまり精神に負荷をかけない方がいい」
慎重に言葉をつむぐネムレスを見れば、視線がかちあった。ネムレスが何故かたじろぐように目を逸らすから、舞夜もそれにつられるように、視線を床に落とした。
学生らが過ごす中で、無数の傷がついた床板。その一つ一つに、彼らの刻んできた時が表れているかのようだった。きっと舞夜自身にも、あるのだろうが。
(本当に?)
心の声に、舞夜は俯いた。
「……でもこうやって、何一つ思い出せへんことにも、何か意味があるんかもって、思ったんやけど」
「どうなんだろう。実際の記憶喪失は、そんなもんなんじゃないかな? 俺は専門家じゃないから分からないけど――君の場合は、そこそこ深刻そうだし」
医学を嗜むわけでもないし、実際分かるはずもない、と言い切られてしまえば、舞夜もなんとなくそんな気がしてきて、「そうかなぁ。うーん、そうかもしれん……」とこの状態への不信感も曖昧なものになってしまった。
「それより、これからどうするか考えよう。俺たちは二階も回って三階も回って、結局箒だけ取ってふりだしに戻ってきたわけだけど」
「あとは一階しかないよなぁ。いきなり狐の人がおった部屋に繋がったせいで、そこらへんちゃんと調べてないし。何があるかも分からんけど」
「……もう何もかも放っといて、時間が経つに任せて、座り込んで待機とかどう? あとはなすがままに身を任せておこう」
などと唐突に言い出すネムレスは、舞夜が思っていたよりも精神が参っているらしい。
五秒前くらいまでずっと朗らかだったというのに、精神の不調というのは本当にいきなり表層化して襲ってくるらしい。
「まだ疲れとるんやね。ネムレスは私の代わりに、消火器とか箒とかやってくれとったもんね。いっぱい助けてもらったし、もうちょっと休もか。私も疲れたしな、うん」
舞夜はついでに肩でも揉もうか、と提案してみたが苦笑と共にやんわりと断られた。疲れてはいるが別にそこまでされる程ではない、とのことらしい。
一方の舞夜はというと、普段運動不足なのだろうか、脹脛や足裏にだるい痛みこそあるが、彼のように気分が落ち込むほど疲労しているわけではなかった。
もしかして、自分が役に立たない代わりに彼に負担がかかっていたのではないか、と思うとなんとなく落ち着かなくなる。
「あ。私一人で一階に行ってこよか? ぱぱーって見てすぐ帰ってくるし、それに、」
そこで思わず口を噤んだ。ぐるりとこちらに回されたネムレスの首、見開かれた瞳が、舞夜を覗きこんでいる。
「なんで?」
――彼の目って、こんなんだったっけ。
舞夜は頭の中でぽかんとそれだけを考えて、それから思い出したように息を吸った。どこか苦い気がした。
「えーっと。ネム、疲れとるんちゃうかなーって思って。ただの提案やから、その……」
「そう。でも絶対に駄目だ、一人であいつに遭ったりしたらどうするの。絶対に、一人でなんて行動しないで」
「あ、うん。そうやなぁ。一人なんて危ないし、怖いもん」
不必要なまでにへらへらする舞夜から顔を逸らし、またすぐに目を見つめ、ネムレスはどこか独り言のように喋る。
舞夜は本当に彼のすぐ傍にいるというのに、何故か語りかけられている気がしなかった。
「――俺だって怖い。死ぬほど怖いよ。ねえ、約束だからさ、決してあいつには近づかないで。もし遭ってしまったら、すぐに逃げてくれ。目も、言葉も交わさないで」
「おっしゃ約束約束。指切りしよな。嘘吐いたら、お菓子の奢りな。指切った! よーし、うん、ネムレス。落ち着いた?」
尋ねると、ネムレスはやけにゆるりとした動作で頷いた。眠気に舟を漕ぐ学生のようにも見えた。
「うん。……お菓子か。ここから出たら、いくらだって食べられるよ。絶対、俺と君とで出ようね」
眼元だけの微笑に、舞夜は無言のまま頷いた。そして、もしかしてこいつ若干ヤバイんじゃないのか、とその時になって初めて思った。
言葉だけ見れば割と普通かもしれないが、あんまりにも鬼気迫ってるといおうか。いや、ネムレスはただ疲弊して、思考が纏まっていないだけかもしれない。おまけにこの薄暗く閉じきった環境だから、気分が落ち込んでいくのも無理はない。
とりあえず、ここから出たら一緒に病院行きだな、と決心する。彼は一度心を専門家に診られた方がいい。
舞夜がその際の誘う言葉まで算段立てていることも知らず、ネムレスはすっくと立ち上がってそのまま伸びをした。どことなくさっぱりとした顔付きだった。
「そうと決まれば、さっさと一階に行こうか。うん、俺も覚悟決めた」
「え? あ、うん! なんか解決したっぽくてよかったな、うん」
「ふふ、そうだね。――早く、済ませてしまった方がよかったんだ」
先を歩く舞夜の後ろ、彼女に見られないようネムレスは口端をつり上げたまま、箒の柄を握り締める手に力を込めた。
その呟きは聞こえなかったようで、舞夜は遅れている彼を振り返って、不思議そうにその名を呼びかける。
ネムレスは笑顔でそれに答え、後ろ手で静かに、彼らが先ほどまでくつろいでいた教室の戸を閉じた。
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