第6話 2

 舞夜は目を剥いたまま、声を上げる間も無くのしかかられる。硬い髪質のロングヘアーが舞夜の頬、輪郭を撫であげる――そこでぐいと後ろに引っ張られて、ネムレスに救出された。舞夜の足元すぐ横に女は額を打ちつけるが、その音はやけに甲高く響く。


 ここまでくればさすがに分かる。その女は、マネキンであった。


 気が抜けた舞夜は、ぺたりとその場で座りこんだ。声も無く震え、目で恐怖を訴える彼女の頭をそっと撫でてから、ネムレスはそのマネキンを蹴飛ばした。ひっくり返った拍子に色の無い顔と、毛先の重たげな巻き毛の鬘が落ちて、そのつるりとした頭部が露わになる。

 ネムレスは一応箒を取りだし、その腹や手足もつついてみたが、本当になんの変哲もない、ただのマネキンであるようだった。


「こ、腰抜けた……。な、なんでこんな所にあんの!」

「いや。俺には少し分からないかな。あー、舞夜はどう思う?」

「わ、分からん。それより今日お尻いっぱい打ったで痛い。痣になっとるかなぁ。鏡ないと自分じゃ見れへんからさ、背中とか後ろの怪我って不便やよね」


 よっぽど動転しているようで、それを彼女なりに自覚している舞夜は、どうでもいいことを必死に喋って気を落ち着かせようとしているようだった。

 ネムレスが適度に相槌を打って深呼吸を促してやると、彼女は素直に大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「……落ち着いた?」

「う、ん。……でもさ、これってさ、マネキン? やよね? なんで、こんなとこにあるんやろ。う、動かへん?」

「早くここを出よう」


 石のように固い表情をして、珍しく急かしてくるネムレスに違和感はあったが、怯みきった舞夜はすぐさま彼の言葉に大賛成した。

 しかし、気になることがあってマネキンに背を向けられない。


「……出たところでわーって襲ってきたりせぇへんよな?」

「君が言うなら壊そうか」


 箒片手に、マネキンの足を踏みつけるネムレスは堂々としたものだ。

 舞夜は、さすがにそれは時間もかかるし労力も使うし、人型であるせいか居た堪れないということで彼を止めた。

 代わりに、二人がかりでそのマネキンを掃除用具入れに再び封印し、ついでにその取っ手口に、中に入っていたもう一本の箒を閂代わりに通しておいた。これで恐らく出てこれまい。


「ふう。これで安心やね。なんやったんかなぁ、あのマネキン」

「さあ。悪趣味な嫌がらせかもね。……早く出よう」


 言葉少ななネムレスは珍しいなと思ったが、舞夜は大人しくそれに従った。

 もしかしたら彼は、こういった悪戯だとか嫌がらせだとかを、非常に不快に思うタイプなのかもしれない。


 なんにせよ、一応武器として箒も手に入ったし、もう用もないだろう。二人は別の場所へと移動することにした。


「……あのマネキン、さっきおった狐の人が用意したんかなぁ?」

「彼が二階に移動した気配もなかったけど……。もしかしたら、それこそ本物の顔剥ぎがいるのかもしれない」

「ごちゃごちゃやね。こんがらがりそー」


 一階には顔剥ぎの被害者、今では人としての理性も消えた『のっぺらぼう』こと狐面を被った少年。旧校舎をえげつなく改造することができ、舞夜とネムレスを閉じこめることも彼になら可能だ。

 二人が今いる二階には、未だ謎多き存在『顔剥ぎ』がいるかもしれない。ネムレスはそれを退治しに来たのだが、返り討ちにされかけ舞夜をつれて逃走。その後の顔剥ぎの行方は不明であり、もしかしたらこの理科室にマネキンを仕込んだ可能性もある。


 もちろん、これはただの推測に過ぎない。

 一階にいるのっぺらぼうが本当は顔剥ぎで、このマネキンを仕込んだのが全く知らない別の何かだ、という可能性もある。


「まあなんにせよ、人形を隠しておく意味は不明だけどね。どっちにしろ、別の奴についてはまだ姿も見たことがないし……」

「もしかしたらネムレスが怖くて、顔剥ぎも逃げ回っとんのかもね。狐さんのせいで外にも出れへんし、あっちも困っとんのかも」

「――ああ、うん。確かにそうだ。一発殴ってトドメをさせなかったから、後はひたすら逃げ回る。それもあるかもしれないな」


 だとすれば幸か不幸か、舞夜とネムレスが顔剥ぎと遭遇する確率は低いだろう。

 二人がどこか教室に潜っている隙に、顔剥ぎは別の階へ逃げる、それを繰り返せばいいのだから。


「あんまり情報がごちゃごちゃするようなら、無視しちゃってもいいかもね。それを一気になんとかする手段も、俺たちは持ってないわけだし」


 あまり考え過ぎてもキリがない。そもそも、結論を出せるほど情報も揃っていないのだ、とネムレスは諭す。

 確かにその通りだ。絡まった毛糸のような情報をいっそ切ってしまおうにも、二人はそのための鋏すら持っていない。


 ネムレスは箒を片手に、舞夜もとりあえず握り拳をつくってみて、今度は三階へと移動してみることにした。




 最初に舞夜が目を覚ました階、三階へと二人は戻ってきた。

 一階や二階と比べると、そこまで変化が酷くないように見えた。あるのは三年教室と、それから美術室に倉庫、音楽室だろうか。


「なーなー、私とネムがおったんってどこ?」

「三年一組かな」

「じゃあそこは調べやんでいいかな」

「うん。俺が色々と見たから、今は放っといていいと思う。とりあえず、別のところから調べよう」




 そして一組を飛ばした三階をぐるりと見て回り、二人が最後に足を向けたのは、音楽室であった。


「音楽室ってだいたい最上階にあんの、なんでなんやろーね?」

「そういえば俺らが今使ってる校舎もそうだね。寧ろ小学校もそうだった気が……。移動が面倒だけど、やっぱり防音のためかな」

「でもこれ見ると、あんま意味無いっぽいけど」


 舞夜とネムレスは互いに苦笑しながら、目の前にある音楽室の戸を眺めた。

 その奥から際限無しに響いてくるクラシックの音色は荘厳で、それこそ演奏会でなら耳を傾けているのだろうが、今この状況では厄介な代物にしか思えなかった。

 これが、此処を最後に回してしまった原因でもある。


「行くよ」


 ネムレスがかけ声とともに、その引き戸に手をかけた。


「……なんもないね」


 室内のがらんとした有り様に目を丸くして、ネムレスに続いて舞夜も教室に入った。

 見渡すが、やはり人影一つそこにはない。それどころか、奏でられていた優美なオーケストラはなんだったのか、スピーカーや楽器の類も見受けられない。

 先ほどまで確かに流れていた音の波も、まるで目覚めと共に去っていく夢のように引いてしまい、残響すらなかった。


「まさか幻聴だったなんてオチはないよな……」


 ぼやくネムレスの視線の先、そこにあるのはただ一つ、年季が入ったピアノのみである。

 埃を被り時代を感じさせるが、大切に扱われてきたのだろう、目立った傷などは無い。未だに演奏できても何も不思議ではないが、しかしこれだけで、先ほど聞いた複数の管楽器などの音色を奏でてみせるのは不可能だろう。


「一見すれば普通の、この校舎に置いていかれたピアノだけど……」

「こんな高いもん放っとかんよね、普通」


 ということは、このピアノは普通ではないということなのだろうか。それともただ放置されただけか。

 舞夜は鍵盤蓋に手をかけてみたが、まるで頑固な鰐の口のように閉じられて、隙間すら見せない。ネムレスが試しても同じであった。見てくれはどこの学校にもある黒塗りのピアノだ、鍵付きというわけでもない。


「そんなに気になるんなら、俺が殴ってみようか? ……楽器殴るって、なんか気が引けるよね」

「嫌やったらやらんでもいいよ」


 言いながら舞夜がネムレスの箒向けて手を伸ばすので、ネムレスは目を丸くした。


「舞夜がやるの?」


「ネムレスが嫌ならな」と彼女がすんなり頷くと、ネムレスは吹きだした。

 そのままなかなか笑い止まないネムレスに舞夜が憮然としていると、彼はくすくす笑いながら、「あんまり似合わないから」と言い、悪気が無いことを弁明してから謝った。


「気持ちは嬉しいけど、やっぱり俺がやるよ。じゃ、せーの……」


 ネムレスが箒を頭上に振りかぶるのと同時に、まるでキツいばね仕掛けにあったように鍵盤蓋が勢いよく開いた。息を飲む間もなく、たたきつけるように荒々しく和音が鳴る。舞夜の知らない重低音が印象的なクラシック、それに炙られるように演奏者の姿が徐々に浮かび上がる。

 その人を呑むような激しい演奏とは裏腹に、現れたのは小柄な少女だった。彼女は、舞夜が着ているものとは異なる制服を着ているから、きっと他校の生徒なのだろう。細身の黒いセーラー服がよく似合っている。

 自分のものと同じ構造だとは思えない、いっそ別の生き物のように鍵盤上を踊る指。切羽詰まった表情と合わさり、鬼気迫るような迫力がその矮躯から醸し出されている。


「あ、あれ誰なん?」

「……俺が知るはずないだろ」

「ピアノすごいうまいなぁ。なんの曲やろ。バッハとかかなぁ、知らんけど」

「早く次に行かないとね」


 名も知らぬ少女をまじまじ眺める舞夜をよそに、ネムレスは箒を握り直す。


「や、やっつけんの? 放っといて、次行ったらよくない?」

「別にそれでもいいけど。放っておいて、後で襲ってきたりしたらどうする? 俺は消した方がいいと思うな」

「そうかなぁ。この人、ピアノ以外どうでもよさそうやけど」


 周りで好き勝手言い放題の二人には目も暮れず、少女はただピアノだけに打ち込んでいる。舞夜の言う通り、それ以外は何も見えていないかのようだ。


 それでもネムレスは頑なで、結局舞夜が折れることとなった。

 ネムレスの箒に打たれる寸前、一瞬だけ、奏者の少女は二人を振り返った気がした。目は合わなかった。


「――消えてったね」


 ぽつりと舞夜が呟く傍ら、ネムレスはぎこちなく己の両手を動かしながら、「次に行こう」と短く言った。


「うん……」


 舞夜から見て、彼はどことなく疲れているような気がした。

 精神か肉体か、その両方かはともかく、瞼を閉じただけでそのまま寝入ってしまってもおかしくない、そんな風に見えた。


「ちょっとだけ休憩しやへん? なんか疲れた気がする。……危ないかなぁ」

「ううん、いいと思うよ。三階は、一通りみたけど何も無かったからね」

「うん。ありがとーネムレス」


 舞夜が嬉しくてにっこりすると、ネムレスもつられたように微かに笑った。


「それに、これからどうするかも話し合わないとね」

「これから……」


 今後に繋がる手がかりになりそうな物なんて、何一つ見つからなかったこれからについて。

 舞夜は自分のローファーの爪先に視線を落とし、溜息を飲み込んだ。

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