第2話 2

 豪語しただけあって、ネムレスは本当にこの建物内の間取りを熟知しているようだった。迷いなく歩みを進めていく。

 舞夜は、おっかなびっくりしながらそれに付いて行くだけでいい。


 彼は時折足を止めて、周囲を警戒するように見渡したが、そうでないときはあれこれと、この建物について舞夜に説明した。

 それから、「紙とペンがあればちゃんと説明できるんだけど」と付け足すが、舞夜は周りを見るのに忙しくて、うんうんと相槌を打つくらいしかできなかった。


 そんな彼女の様子に気付き、ネムレスは階段を下る途中で足を止めた。


「大丈夫?」

「だ、大丈夫。ごめん。なんか、全然知らんとこやから、ちょっと変な感じがして。その、ここって何なん?」


 階段を慎重に下りながら、二人は小声でひそひそと喋る。

 ネムレスと、その後ろにつく舞夜の足元は木造特有に軋むが、それ以外はどれだけいっても静かなものだった。まるで時間ごと静止しているかのように。


「ここは俺たちが通う高校の、旧校舎かな。ちょっと事情があって歪んでるけど、安全性には問題……あるけど、建物自体は大丈夫だから。欠陥があるとかじゃないし。――俺と君にとっては、馴染み深い場所だよ」

「あの、ごめん」

「どうしたの?」


 とつとつと、記憶を辿るように遠い目をして語るネムレスを遮る。


「その……コウコウとか、キュウコウシャって、なんやったっけ」


 舞夜の眼差しには、不安のせいで変に力が込められていた。警戒する小動物のようなそれに、ネムレスは呟く。


「………ほんとうに、記憶が無いんだね」

「う、ご、ごめん……」


 舞夜は項垂れる。


 彼女は自分自身についてだけでなく、その他様々な知識まで忘れているようだった。歩行など体の動かし方や、日本語の文字の読み方など、あまりにも基礎的な部分は残っているようだが。

 しかし彼女にとっては、己の家の次に馴染み深いであろう場所、『高校』という単語まで忘れてしまっているほどだから、その基準はいまいち分からない。


 しかしそれは他人どころか、当人ですら分からないのだろう。

 忘却自体を自覚することすらできないほど、その喪失は深いように思われた。


「そんなに謝らなくてもいいよ。怯えなくていいんだ、俺たちは友達なんだから。なにかあったら気軽に訊いてくれたらいいし、思ったことをなんでも言っていいんだよ」

「う、うん。ありがとう、ネムレスくん」

「呼び捨て」

「ネムレス。えっと、なんかここな、ちょっとだけ怖い……から、それで、不安になったん」


 舞夜が目を伏せながらぽつぽつと内心を白状すると、ネムレスは柔らかく微笑んだ。他人の心を落ち着かせる、安心感のある表情だった。


 舞夜はそのあまりの穏やかさに、なぜだか不思議な心地になった。

 失くした記憶が関係しているのだろうか?


「そうだね。確かにここは、少し不気味かもしれない。理由はあるけど……話したらもっと恐くなるかと思って、言わなかったんだ。でも、説明した方がいいかな」

「うん。恐くない風に話してな?」

「ふふ、それはちょっと難しいかなぁ」

「なんで?」


 舞夜は目をきょとんとさせて、まるで子どものように尋ねる。多くを忘れてしまったのだから、今や子どもと大差ないのかもしれない。

 とにかく出来るだけ穏やかな調子で、ネムレスは語りかける。


「この旧校舎――建物にはね、化け物がいるんだよ」

「バケモノ………」


 ぽつりと鸚鵡返しに呟かれた言葉に、実感は無い。

 夢とも現実ともつかない、曖昧な何か、その存在。例えや揶揄などでは決して無いその実在を、ネムレスははっきりと言い切った。


「化け物って、その、お化け、とか?」


 ぽかんと尋ねる舞夜に頷いて、ネムレスは続ける。


「幽霊とか、まあ、物の怪とか、妖怪の類だね。この旧校舎にいるそいつを倒すのが俺たちの、いや、俺の仕事――というか、義務というか、寧ろ趣味というか。まあ、それに舞夜は付き合ってくれてたんだ」

「え、ええー…? そーなん?」


 信じがたい衝撃の事実の羅列に、舞夜は困惑した顔でネムレスを見た。彼は苦笑いを浮かべている。決して他人をちゃかすような顔ではない。

 今のところ、舞夜の知る限りではあるが、彼は至って誠実な人間であった。


「うん、ほんとだよ。そういえば、君は怖いものが苦手だったね」


 全く彼の言う通りで、記憶はないが、舞夜はおどろおどろしいものが嫌いだった。

 今だって、この旧校舎という建物の壁にあるかすかな傷、隙間から覗く細い闇にすら、背筋をぞっとさせている。怖いものは怖いのだ。

 踊り場の壁――以前鏡があったのだろう部位が、白く長方形に切り取られているのを見たときなんて、ネムレスが居なければ跳び上がって逃げ出していただろうくらいぎょっとした。


 だから舞夜はネムレスの話の真偽以前に、なぜ自分がそんなことに首を突っこんでいるのかが分からなかった。

 我が事ながら、正気を疑わずにはいられない。


「まあ、さすがにすんなりとは信じられないよね。俺だって信じたくない――あ、君の立場だったらってことね。とにかく、一応事実だけ説明すると、化け物――『顔剥かおはぎ』って奴のせいでこの昔の校舎に閉じ込められて、今から脱出する。分かった?」


 事も無さ気にさらりと告げられたが、結構な量の情報が詰められていた。

 初めて名前が出た『顔剥ぎ』のことなど色々気になることもあるが、それよりもずっと重要な閃きが、舞夜の脳裏で迸った。


「あ、高校って学校かぁ! そういえば私高校生やん」

「……思い出したの?」

「これだけな。あ、そういえば、って感じ」


 当たり前の事実のようにそれは浮かび上がってきた。まるでパズルのピースがかちっとはまったかのような閃きだった。

 これならすぐに記憶なんて戻ってくるのではないだろうか。

 恐怖すら忘れ、顔を輝かせて浮かれる舞夜に、ネムレスの冷静な声が問う。


「学年は?」

「学年は、えっと全部で三年までやろ? だから、んーっと……」


 ネムレスの表情を窺いながら代わる代わる三つの数字を挙げていく舞夜に、彼は肩を落とした。


「先は長そうだね。ゆっくり思い出せばいいさ。とりあえず、一階に着いたことだし――」


 ふと足を止めたネムレスの背に、舞夜は鼻先を軽くぶつけた。

 骨か筋肉か、制服のせいか知らないが、舞夜にとっては不思議なくらい硬い。男性の背中である。


 舞夜は自分の背中も硬いのか、触って確かめようとしながら、「どうしたん?」とネムレスに尋ねた。


「いや、なんか、違和感があって。……とりあえず、正面にある出口を調べようか。外に出られたらいいんだけど」




 それから舞夜とネムレスは二人して昇降口のドアを片っ端から調べたが、何故かどれも開かなかった。

 鍵を開けようが閉めようが関係なく、まるで何かに阻まれているようである。

 ガラスも叩き割ろうとしたのだが結局無駄骨で、ただ手足が痛くなっただけで終わった。


 二人はあーだこーだ言いながらドアと取っ組みあったあと、揃って溜息を吐いた。どのドアも、それが当然といった風にぴっちり閉じてしまっている。


「やっぱり駄目だね。手は大丈夫?」

「うん、平気ー。でもこれからどうする? ネムが色々知っとるんやし、言ってくれたらなんでもするよ!」

「……いや、それが」

「どしたん?」


 歯切れの悪い様子に、舞夜は眉尻を下げる。


「なんだか校舎内の様子がおかしいみたいなんだ。少し違和感がある気がするんだけど……」

「めっちゃシンプルな形やけどなぁ」


 言いながら、舞夜はきょろきょろと周囲を見渡す。


 旧校舎は三階立ての、長方形の建物だ。

 一階中心部に今二人がいる玄関があり、そのすぐ正面には階段と男女二つのトイレ。

 左右には真っすぐ杉張りの廊下が伸び、それぞれ教室の室名札が覗いている。


「うーん。なんだか違和感があるんだ。そこの事務室も保健室もあってるんだけどなぁ……。まあ、危険だけど、少し調べてみようか。一階からでいいよね?」

「うんいいよー。でも二階と三階の方が教室少なくない?」


 一階は、玄関すぐ脇の事務室と保健室がある分、他の階より調べる物が多く見えた。


「そうだけど、探すのは出口だからね。二階から飛び降りる方法もあるかもしれないけど……」

「やめよ」


 ネムレスはまるでなんてことない顔をしているが、常人の舞夜にはそんな真似はできない。さすがに記憶が無くても、自分の肉体がそれほど高度な運動機能を備えていないこと、高い所から飛び降りたら痛いこと、それぐらいは分かる。


 とりあえず手近にあった保健室の戸をがらりと開けると、ネムレスはずかずかと中に入っていった。


(化け物がおるかもしれんのに、驚くほど躊躇ないな、この人……)


 確か、『顔剥ぎ』と言ったか。それがいる可能性にも関わらず進むネムレスは、割りと大雑把な人なのかもしれない。


 なんて思いながら舞夜もそれに続くのだが、中はほとんど空っぽで、調べられそうな物さえ無かった。ベッドやカーテンなどは辛うじて残されているが、どの棚も空っぽである。

 ネムレスも舞夜のように周囲を見回しながら、拍子抜けしたように首を傾げていた。


「うーん、前と一緒だね。特に異常は無さそうだし、俺の気にし過ぎだったのかなぁ。じゃ、次行こっか」

「あ、その化け物のさ、『顔剥ぎ』っていったい……」


 なに、と問いかけたところで、突如地面が弾けるように揺れた。

「地震か!?」とネムレスが素早く伏せる一方で、舞夜は尻餅を付いて目を白黒させた。校舎全体が跳ね上がるかのような衝撃が二人を襲う。

 空の棚は振り子のように大きく揺れた挙句、倒れて埃を舞い上がらせる。


 二人は揺れが収まってからも、その場でじっと大人しくしていた。



「……収まったみたいだね」

「う、ん。ジシンって、揺れるんやね」

「地震じゃなくて、さっき言った化け物の仕業かもね。どうやっているのかは、俺は知らないけど。とにかく、さっさと脱出した方が良さそうだ」


 頷きかけて、舞夜はあれ、とネムレスの顔を見た。

 彼は先ほどからやけにこの建物から出ることを口にしているが、元はといえば、その化け物を倒しに来たのではなかったか。


「でも、ネム、化け物……カオハギ? やっつけんでいいの?」

「うん。まあいつでも出来るし……それより一度帰って、君の記憶を取り戻さないとね。病院に行った方がいいと思う」

「あ、なんかごめん……」

「ううん、俺が無理に連れてきたんだ、謝る必要ないよ。謝るのは寧ろこっちだ」


「そうだっけ」とぼやきながら、舞夜は内心首を傾げる。

 彼女には、ネムレスがそのようなことをする人間にはとても見えなかったからだ。

 何かしらの事情があったのかもしれない。それとも彼は、舞夜が気付いていないだけで、よっぽど腹黒いのだろうか。


 しかし座りこんだままの自分に素早く手を貸してくれるネムレスに、舞夜はそのような考えをしたことを恥じた。

 彼は些細な場面でも他人への気遣いを忘れないし、恐らくいい人なのだろう、と思う。


――それに、彼についての記憶は相変わらず全く戻らないが、なんとなく、彼の顔を見ていると安心するのだ。

 これは、気の迷いみたいなものかもしれないが、自分を支えるものが何一つない舞夜にとっては、非常に大きなものだった。


「どうかした?」

「なんもー」


 戸に手をかけたところで、振り返ってこちらを見たネムレスに近寄る。

 勢いよく戸を開けた彼は、外を眺めながら顔を険しくさせていた。

 不思議に思い舞夜も覗きこむと、この保健室の先に廊下が真っすぐに伸びている、それだけだった。


「……あれ?」


 違和感、しかない。


「なんか変やねぇ」

「うん。どうやら校舎が組み替えられたみたいだね」

「え!?」

「ほら、ここのすぐ横にあった昇降口もどこかいったし、教室の並び順も滅茶苦茶だ。階段は、ああ、奥の方かな」


 どこか事務的に確認するネムレスの言葉が、遠く聞こえる。

 姿を変える旧校舎。舞夜はその異常性に今さらながら、背筋を怖気に震わせた。


「とりあえず進もう。……気をつけながらね」

「ん、うん」

「がんばろー」

「がんばろー」


 ネムレスに合わせて拳を挙げる。

 ふざけるように喋っていると、強張ったような恐怖心が溶けていく気がした。


 そして舞夜とネムレスは、おかしな旧校舎へと第一歩を踏み出すのだった。

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