束ね鬼怪奇譚
ばち公
一章:『顔剥ぎ』と『のっぺらぼう』
第1話 亡くした記憶
少女は目を開けたところで、視界がさして明るくならないことに気が付いた。埃っぽい匂いが鼻についた。
仰向けに寝かせられた彼女の傍らには、一人の少年がいた。
立襟の学生服を着た彼は、彼女が目覚めたことに気付くとほっと肩を撫でおろし、なにやら懸命に喋り始めたが、少女はただその口元を茫然と眺めるだけであった。
そのうち少年にされるがままその上半身を起こしたが、それでも彼女は、周りの状況もよく掴めない乳幼児のようにぼんやりとしている。
「――……よかった、無事だったんだね。大丈夫? ほら、起きて。頭とか痛くない?」
やがて少女にも、徐々に彼の発する言葉の意味が分かってきた。心配に加えて彼女を気遣うようなことを、慌てているのか、やたらと噛みながら喋り立てている。
は、と薄く口を開き空気を吸い込むと、思いの外ひんやりとしている。
少女はしばらく口をもごつかせたあと、ようやく喉を震わせ、声を発した。
「だれ?」
「え?」
二人がいるのは薄暗い室内だった。窓の外には一番星だけが光る紫がかった空が広がり、部屋の方々には既に夜色の影が沈殿している。
しかし、視界が潰されるほど暗いわけではない。
少女が手をつく床板は日光焼けで白んで、無数の細かい傷跡で覆われていた。ぽつぽつと置かれている、机や椅子の足で傷つけられたのだろう。
ただ、今はそれすらもよく分からないのだ。
「ここ、どこなん…? わたし……? ……、『私』って、なんやっけ?」
すぐ傍で「え!?」と驚く声があがるが、少女はただ定まらない視線をうろうろと彷徨わせるばかりだ。
天井にある蛍光灯も壁掛けの時計も、ただ存在するだけだ。まるで死んだかのように沈黙している。
何もかもがしんとして、二人だけがこの空間で生きているかのようだ。
「記憶がないの? なんにも?」
ことさら優しげな声に、少女が頷く。その拍子に、ほつれて肩にかかった濡羽色の長髪がさらりと揺れた。
「そっか。俺はね、×××だよ」
「? あの、もっかい言ってもらってもいい?」
「……聞こえなかった? 俺の名前は×××……」
その後少年がいくら繰りかえしても、少女にはどうしてもその部分だけが聞き取れなかった。
己の耳がいかれてしまったのかと不安に思い両手を宛がうが、外傷は無いらしい。名前以外は聞こえるので、やはり耳に問題は無いようだ。
肝心の頭部も自分で撫でるだけでなく、少年にも触って診てもらったのだが、特に異常はないようだった。
「……とりあえず、俺のことは好きに呼んで。他に異常はない?」
「う、ん。名無しさんやね。んとな、何がいいかなぁ。えっと……」
と、いっても、少女には元となる記憶が無いため何一つ思い浮かばない。
空白のなかから何かを手探りで掴もうとするような、宙ぶらりんの感覚に捕らわれる。
難しい顔をして考え込む少女を眺めていた少年だが、ふと、彼女の足元に落ちている、小さく折り畳まれた紙に気付いた。
「それ、なに?」
「え? ……なんやろ、これ」
雑に四角く畳まれたそれを少女から受け取ると、少年は丁寧に開いた。薄闇のなかで目を眇める。
「どうやら、劇の広告みたいだね」
「げきのこーこく」
「うん。ほら、見て」
少女もそれを覗きこむ。
緞帳の暗紅色や
しかしどれも彼女にはぴんとこず、じっとそれを眺めてから、少年の顔を窺った。
「ああ、この劇か……。『名無し男』って題の劇だよ」
「知っとんの?」
「今度行きたいって、君と話してたんだよ。ほら、期間見て。しばらくしたら公演になってる」
「あ、これ文字か! ……うん、私読めるっぽいよ!」
やっと表れた自分にも出来るものに、少女は顔を輝かせながら釘付けになった。漢字はいくつか読めなくなっていたが、それでも重要な情報くらいは理解することができた。
主役の男は名無し男。nameless──ネームレスで、周りからはネムレスと呼ばれている。
彼は今までふらふらと生きてきたが、ある日不幸な少女と出会って、彼の人生は一変する。
「そんで、愛と勇気、感動の光の物語やって。なんかファンタジーやねぇ」
そう言いながら、相槌を打つ少年をそっと見上げた。
彼はなにがおかしいのか、静かに微笑を浮かべている。
「……ネムレスって名前、どうかなぁ? 長い?」
「じゃあ、ネムレスって呼んで。長いならネムでもなんでもいいよ」
これ以上なくあっさり決まった。
「いいの?」
「君が決めてくれたんだし、いいと思うよ。――名前がないと不便だし、君以外に俺を呼ぶ人もいないんだしね」
つまり暫定的なものに過ぎないのだし、君の好きに呼んでくれたらいい、ということを少年――ネムレスは語った。
まあそれなら、と少女が試しに呼ぼうと口を開きかけたその瞬間、「呼び捨てでいいよ」と念押すように付け足されたので、少女は心底驚いた。
実際に、ネムレス「くん」と呼びかけようとしていたからだ。
まるで心の中を暴かれたような気がしたが、彼は自分の知り合いであるようだし、こちらの癖は筒抜けなのかもしれない。
少女は気を取り直すようにこちらも名乗ろうとして、「私、……」もちろんできなかった。
「えーっと……」
ネムレスに応えるため、少女は己の名前を探した。
といってもブレザーの胸ポケットなど手に届く範囲である。しかし、彼女の所有物らしき物は何一つなかった。失くしたのか、元々持っていなかったのかもしれない。
「
「まい、え?」
不思議そうに小首を傾げていたネムレスは、きょとんとする少女にああ、と納得したように頷く。
彼は自分の手の平に、指先で漢字を書いて見せた。
「舞夜。君の名前は、
「ま、まいよ? まいよー」
少女はその名を口の中で転がす。本人が言うのもなんだが、変な響きだと思ったのだ。いまいちしっくりこない、が、しかし呼ばれて不快ではないのは、身に馴染む、というのか。
とりあえず、舞夜は自分の名前である、と認識する。
変な顔をしている少女――舞夜を見てくすりと笑い、ネムレスは立ち上がった。はたいて制服の埃を落とし、それから彼女の手を引いて立ち上がらせた。
「とりあえずここでじっとしていても仕方がないし、先に進もうか。なんとか出口が見つかるといいんだけど」
「でぐち? ……えっと、なんで?」
そうして吐かれたネムレスの溜息に不穏さを感じ取り、舞夜は彼の顔を見上げた。
ネムレスは冷静に、困惑する彼女に語りかける。
「説明してなかったね。俺たちはここに閉じ込められたんだよ」
平淡な口調であるが、聞き捨てならない言葉に舞夜は一瞬だけ無言になった。
「な、なんで? 何があったん?」
「話すと長くなるけど、とりあえずここから出よう。道なら俺が分かるから。……えーっと、そうだね。ここは三階、最上階だ。とりあえず、階段を下りて一階に向かおう。そのまま出口が、開けばいいんだけど」
最後にぼそりと付け足された言葉もあって、舞夜は戸惑うほかない。
惨めになるくらい綺麗さっぱり記憶が攫われてしまっていて、今の舞夜にはその身以外、何一つ残されていないのだ。
この状況のなか、彼女にとっては、未だ名前すら知れないネムレスだけが頼りであった。
彼が道をさし示し、光を見せ、当然のようにその手の平を差し伸べる。
差し出されたそれを取る以外の選択肢を、今の舞夜は持たなかった。
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