第3話 『のっぺらぼう』
一階に偏在する教室の多くは、不思議と戸に鍵がかけられていた。先ほどの異変のせいだろう。
そのため、恐らく鍵が管理されているだろう事務室へと、舞夜とネムレスは向かったのだが。
「開いてないねぇ。当たり前やけどさ……。?」
舞夜が愚痴るように言って振り向けば、そこにネムレスはいなかった。
「えっ」と声をあげてきょろきょろすると、ネムレスは階段の辺りからひょっこりと姿を現した。
怪我一つない様子に舞夜は思わず安堵の息をもらすが、彼がなにやら抱えてきた物には目を瞬かせた。
「よくあったなぁそんなん。それどうすんの?」
「危ないから下がっててね。よっと」
軽いかけ声とともに躊躇なく振りかぶって、ネムレスは何処からか持ってきた消火器を、その戸に強く叩きつけた。舞夜は肩を竦めながら、思ったよりも鈍い音がすると他人事のように考えた。
結局三度ほど殴りつけて、ネムレスは疲れたと言わんばかりに両腕を振った。舞夜も近づいていくが、戸にも嵌めこまれたガラスにも傷一つ見られない。
二人は肩を落とした。
「やっぱり壊れないなぁ。ガラスくらいなら脆そうだと思ったんだ、け、ど……?」
「……開いた?」
今の、何の拍子にかすら分からないまま、かちゃりと鳴った金属音は、少し離れていた舞夜の耳にも届いた。
「そうみたいだね」
さて、残された選択肢は入るか否かである。
ガラス窓の向こうは、ただの平凡な教室に見えた。
しかし、目に見える物だけが本物とは限らない。この戸一枚の向こうに何が潜んでいるのかも分からないのだ。
舞夜としては正直、足を踏み入れたくない、というのが本音である。
ネムレスは、さっさと引き戸に手をかけているが。
「入んの!? これめっちゃ怪しいって!」
「だけど待っていても始まらないよね」
「分かるけどさ、ちょっとは警戒とかした方がいいんちゃうかなぁ」
舞夜は言いながら、ネムレスが止まらないことをなんとなく感じ取っていた。実際はどうなのか知らないが、恐らく気をつける必要がないほどにネムレスは強いのかもしれない。
それはそうだ、元はと言えば、ここにいる化け物を狩る側なのだから。
「これ入ったらバーンってドア閉められたりしやへんかな?」
「じゃあ、消火器挟んどこうか」
「重っ。重いなぁこれ。ネムはむきむきなんやな……」
「えっ、俺? 標準だと思うけど」
少しだけ開いた戸の敷居に、舞夜がえっちらおっちらと消火器を乗せると、ネムレスは「もういいよね?」と尋ねる。
「うん」
舞夜も緊張の面持ちで頷くと、ネムレスによって事務室の戸が静かに開かれるのを見守った。
二人が足を踏み入れてしばらく、そこは外から眺めることのできた事務室ではなかった。
はっと気づいて後ろを確認すると、戸は開いたままだが、せっかく用意した消火器も消えてしまっている。
中はがらりと一変し、通常の授業で使われるような普通教室へと変化していた。
異様なのは、雑然と積まれた学習机と椅子の山、それから、その前に佇む独りの少年だ。
ネムレスが着ているものと大差ない男子用の学生服に、学帽まで被り込んでいる。
彼は二人に気付いているのだろうが何も言わず、ただ静かに姿勢良く、まるで幽霊のように立ち尽くしている。
舞夜がやっぱり嫌な予感したんだよなぁ、と思いつつ溜息を飲みこんだところで、その少年はやっと二人を振り返った。
舞夜は一瞬だけ、息を吸うのも忘れて目を奪われた。
彼の顔が能楽で使われていそうな、白塗りの狐の面に覆われていたからだ。
素顔かとも思ったが、さすがにそんな筈はないと理性と戻ってきてくれた知識が舞夜に教えてくれた。あれは面だ。しかしぐにゃりと引かれた真っ赤な口、頬の辺りにはくすんだ髭まで生やされているのがリアルで、偽物と分かっていながらも、こちらを見据える金の目玉は今にも動くのではないかと思われた。
「うわっこわっ。あれだれ?」
しかし、それ以外の点はまったくの普通で、地に足も付いているし、舞夜には彼が人間にしか見えなかった。
そのため、尋ねながらふらりと足を踏み出そうとしたところで、ネムレスに腕を取られた。
「舞夜、逃げよう」
「なんで?」
「あいつは『顔剥ぎ』に顔を盗まれた人間の成れの果て……ただの化け物だ。『のっぺらぼう』とでも呼ぼうか」
「のっぺらぼー? 変な名前」
響きが抜けてて少しかわいい、と言いかけて、ネムレスの険しい瞳に射竦められて口を閉じた。たじろいだ舞夜は、腕を引かれるまま彼の背中に隠れる。
「絶対に、絶対に、近付かないで」
「ねむ、」
名を呼びかけたところで、開け放してあった引き戸が勢いよく閉じた。
「えっ」と間抜けな声を上げる舞夜をよそに、ネムレスは険しい表情で狐面の男と睨みあう。
「下がって!!」
「むぐっ」
咄嗟に突き飛ばされて舞夜はそのまま尻餅をつく。本日二度目、さすがに尻が痛いし痣も出来ていそうだ。
舞夜が顔を上げると、浮いた机や椅子がその場で手品も無しにくるくると回っていた。そのまま回転速度を上げながら、まるで速度ののった独楽のようにネムレスへと襲いかかる。
もちろん身の危険は感じた。が、それよりなにより、舞夜はふと頭の片隅で、これを知っているな、と思った。
(知っている。私が、これを、)
初めての、失くした記憶への、自分の内側からの干渉であった。
しかしそれもこの状況においてはほぼ無意味である。
はたと我に返った舞夜は急いで立ち上がろうとして、そのままつんのめったように転ぶ。
足が、重石になったかのように動かない――?
「ひっ」
驚きと恐怖に咽喉が詰まって、声も出なかった。舞夜の足首をきつく掴む手、女の手だろうか、半透明であるくせに、ほっそりした指先までくっきりと見て取れる。
そして、まるで人そのものの爪の形まで目に入ってきた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「わあんっ!」
咄嗟に手を振りかぶって叩くと、拍子抜けするくらいあっさり掻き消えた。一瞬自分の目と頭を疑ったが、遠く机が叩き付けられ粉砕する破壊音に目をやる。
ネムレスは無傷のようだ。今のところは、であるが。
舞夜はまた床から伸びてきた手を蹴飛ばして退けると、そのまま閉じられた戸へと飛びついた。
開かない。鍵はどこだ、分からない。いや鍵はかけられていない。戸を蹴りとばす。足が痛い。そのまま脳が焦りに焼かれたように痛みだして、舞夜は咄嗟に、引き戸を力いっぱい引いた。
「開いた、えっ開いた!? ネムレスっ!!」
まるで綱引きでもしているかのような重さはあるが、想定よりは軽く開いた。
舞夜だけでなく呼ばれたネムレスも驚いているが、それはここを閉じた狐面の少年も同じだったようだ。一瞬怯んだように追撃の手が弱まり、ネムレスはその隙をついて走り、そのまま頭痛に顔を顰める舞夜の手首を引いた。
「舞夜えらい! 行くよ!!」
「う、ん……」
どこからきたのか分からない鉄パイプが、木製の引き戸に抉るように突き刺さったが、それももう遅い。二人は既に教室の外に出ている。ここがどこかは分からないが、ただ歪な直線を描く廊下を二人は懸命に駆けた。
不安だろうか、言い表せない何かに引かれるように舞夜は一度だけ振り返ったが、狐面の少年が追ってくる気配はない。
掴まれた手首をネムレスに強く引かれ、舞夜はまた前を向いて必死に足を動かし続けるのだった。
残ったのは、後を引く、焼けつくような頭痛だけであった。
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