第62話 触れる手
舞夜は、恐る恐る地面に手を這わせつつ、その状態を確認していた。ヒビも入り、脆そうではあるが、即座に崩壊する様子はない。慎重に動けば先に進める、と、思う。
しかし進んだとしても、地面はずっと脆そうなまま。おまけに、その先に待つのは『札』の台座だ。舞夜の眼前に伸びるのは、誂えたかのようにわざとらしい一直線の道。罠だったらどうしよう、とはもちろん思うが、このまま座り込んでいても落ちるのを待つだけだ。よく分からない空間だが、落ちたら恐らく即死だろう。
このまま進む以外に道はない。
「はー、ほんまいや……おうち帰りたい……」
嘆息がこぼれた。
洞窟の中に入って。単純な一本道をまっすぐに進んで。奥に着いてちょっと休んで。地震でうっかり転んで。たったそれだけだったのに、気が付いたらこんな場所にいる。
何でだろうなー、という答えのない疑問がぼんやりと脳裏に浮かぶ。何かしてしまったのだろうか、とも。――この洞窟に入ったこと自体がいけなかったのかもしれない。それとも、『御札』のある台座に近寄りすぎたせいか。いや、友達と仲違いして、それをそのままにしているせいか……。
考えてもどうしようもないことに思考が逸れ始めた。舞夜は慌ててそれらを振り払うと、慎重に両手をついて、ほんの少し体を前に進めた。ふう、と、今度は達成感と安堵に溜息がこぼれた。
それから何度もそれを繰り返し、ふと振り返ると、順調に進んでいることが分かった。えらい。すごい。と、自分を鼓舞してせっせと進む舞夜だったが。
「なに!? なに!!」
空間ごと殴られたかのような衝撃に、全てが揺れた。地震ではない。この、妙に宙に浮いた地面が揺れているのは確かだが、それだけではない。周りの底なしの闇ですら揺れているかのような、奇妙な衝撃――。
……外では紫苑が、この空間の外壁に巡らされた結界を叩き割るために、問答無用で石を叩きつけているのだが、舞夜がそんなことを知る由もない。
「もー次々なんか起きるー! もー!」
この世の終わりのような地響きに、舞夜はその場に伏せて頭を抱えた。絶対死ぬと内心叫び呪った謎の揺れは、案外早く収まった。揺れが収まってしばらく、舞夜は半泣きで顔を上げた。シャツの、土で汚れていない腕の部分で涙を拭った。滲みのなくなった視界で、再度前を見据える。『御札』の台座と、舞夜がへたり込んでいる、そのちょうど、中間地点くらいだった。
突然、紫苑が、何もない空間からひょいと現れた。
舞夜は目の錯覚かと思って、もう一度シャツで自分の目を擦った。痛いだけだった。喧嘩別れした相手は、まだそこに立っていた。
紫苑はまず、一人へたり込んでいる舞夜に目を向けた。視線があった瞬間、動転し、狼狽した舞夜がまっさきに思ったのは、――会った時に何を言うかまだ決めてなかったのに、だった。
「『札』は!?」
「あ、そっち……」
舞夜が咄嗟に指差した方向、つまり紫苑の背後には、札の収められた台座がある。彼のずっと、追い求めていたモノが。戸籠が隠し、守ってきた恐ろしい宝が。
止めた方がいいのだろうが、立ち上がるどころか、這おうとするだけで体重の揺らぎを感じ取ってか、地面は脆く崩れ落ちそうになる。――何もできない舞夜に背を向け、紫苑は指された方向に歩み始める。
が、その途中で、ふと足を止めた。
「さっさと立って逃げれば?」
「え?」
紫苑が振り返ってそう言った瞬間、舞夜は呆気に取られた。が、やがて無言のまま頷いた。そのまま俯いて、じっとしていた。下に広がる底知れない暗闇を思うと、どうしても体が動かなかった。
後ろから全部崩れたらどうしよう、と不安になった舞夜が、背後の足場を心配して振り返っていると、
「…………えよ」
小さな声が耳に届いた。ゆっくりと前に向き直ると、紫苑が必死の――鬼のような形相で、舞夜を睨みつけていた。
「助けてって言えよ! 僕に!! じゃないと僕は君を助けない!! 君に背中向けて札を回収するような奴なんだって、分かるだろ!? 分かってるだろ!! そっちとか素直に言ってんじゃねえ!!」
「お、大声やめて!」
「はあ!? 言うに事欠いて黙れって!? ……僕なんかには、助けを求めるのも嫌ってワケ?」
「ち、ちが、ひっ」
否定するため咄嗟に前のめりになったせいか、また地面の亀裂が嫌な音とともに深くなった。
さすがに、息を呑んだ。
「勝手に怯えて、勝手に離れて、勝手に――……言えよ、自分を助けろって! 助けてもらえるように振る舞えよ!! 僕に! この僕に!! 君は、何か言うことがあるはずだろ……! 僕だって、君に――」
激高し、声を荒げていた紫苑だが、そこで急に言い淀んだ。ほんの僅かに視線を泳がせたあと、感情を抑えた声とともに口を開く。
「――どうでもいい奴に、へらへら笑うのは得意だろ? 嘘でもいいからうまいこと言って、適当に済ませればいい。仲直りか媚売りかは知らないけど……まず自分の身を守ろうとしろよ。友達へのちゃんとした対応とか発言だとか考えてるのかもしれないけどさ、……僕は君のそういうところが、心底、大嫌いだ」
抑えきれない感情とともに吐き捨てられた最後の言葉に、舞夜の瞳が揺れた。
うまくこの場を切り抜ける言葉、良い結末に持っていけるような言葉。なんとなくいい感じのことを言って、うまくめでたしめでたしに持っていけるような言葉。紫苑にそれを求められているのは分かったが、舞夜は愕然とする。
――私には、彼にかけられる言葉が何一つない。
何一つ、ないのだ。
何も言わない舞夜を、紫苑は焦りを含んだ表情で見つめる。その目を見て、舞夜は、彼から聞きたいことはたくさんある、と思った。尋ねたいこと、知りたいことが山程ある。――はずなのだが、今はそれさえも全て喉奥で消え。
結局残ったのは、本当にたったの一言だけだった。
「あの、嘘吐いて、ごめん……」
絞り出された言葉は、これだけ。色々あったのに、今更になって、真っ先に彼に伝えたい言葉なんて、これだけだった。
紫苑の反応を見る余裕なんてなかった。それ以上何か言う余裕も。
「(く、ずれる、)」
それを理解した瞬間、顔から血の気が引いて悲鳴も出なかった。死の予想を全身が拒絶するのに、肝心の手足が凍ったように強張って動かない。ただ襲いくるだろう浮遊感への恐怖に、舞夜はぎゅっと目を瞑った。
そして、左腕の抜けそうな衝撃と痛みに、宙に浮いた体ががくんと揺れた。
「…………謝ったから許してあげる」
その声にそっと目を開けると、見たことのない表情をした紫苑と目が合って、
「だから、僕も謝るから許してよ」
舞夜は、目を瞬かせた。
「な、んで」
「理由? いつも言ってるだろ。君は友達だってさ」
「う、うんっ……! ……でもあんまり扱いよくないから、そんな信じてなかった……」
驚く舞夜の体を引き上げながら、紫苑は怒鳴った。
「なんでそこで台無しにするんだよ!」
「ご、ごめん。ありが……、なに?」
にんまりと笑みを深めた紫苑に、舞夜は痛んだ左腕を擦る手を止めた。
引き上げられた勢いのまま体を寄せ合っているので、相手の体温を感じるほど互いが近かった。
「最近気づいたんだけどさぁ、君って、照れてんのとかけっこー誤魔化すよねえ?」
「そーゆーの言ったらいかんと思う……」
「そうやって減らず口叩くのも……あはは、そんなに嬉しかった?」
上機嫌に頬をつままれ、舞夜はそれを振り払うように身動ぎした。振り払えなかったうえに、まだ腰が抜けているせいか体勢を崩したが、すぐに紫苑に背中を支えられた。優しい、と思うと同時にかるく頬を引っ張られる。
されるがまま見上げると、にこ、と笑って、無言の圧力。
「あ、ごめん……」
「じゃ、ないよね?」
「た、助けてくれてありがとう、ございました」
「どういたしまして! もっとこの僕に感謝してくれてもいいぜ!」
間近で満面の笑みを浮かべる紫苑に、むにむにと頬を摘まれたまま、舞夜はうん、と頷いた。自分は何をされているのだろうと思ったが、それでも彼がまず、喉から手が出るほど欲しがっていた『御札』でなく、柊舞夜を選んで助けてくれたのは事実だ。
死にかけた衝撃で、ふわふわと現実味の無い感覚に包まれていた舞夜だが、いつもどおりの会話をし、誰かに触れてその体温を感じることで、徐々に気分が落ち着いてきた。――本当に、いつもどおりだと思った。喧嘩をする前、普通に喋っていたときのような雰囲気、空気感。見えない壁が取り払われたかのような安心感があった。
そうして舞夜が落ち着いたのを見計らったように、紫苑は舞夜の頬から手を離した。
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