第63話 2
「じゃ、さっさと帰ろうか。こんなところで落ちて潰れて死にたくはないしね!」
「う、うん」
「……そんな情けない顔しなくても大丈夫だって。僕の足元くらいならなんとでも出来るからさ。ほら、試しに飛び跳ねてみる?」
「だ、大丈夫……あ、そういえば『御札』は、」
「もう手遅れかな」
へ、と紫苑の背中越しに台座があった場所に目をやれば、何もなかった。『御札』があったはずの台座も、それらがあったはずの地面も。
「落ちてったの?」
「さっきね! あーあ、馬鹿みたいだよね、ほんと。結構頑張って探したのに、使えるかどうかの見極めすらできずに消えてったっていうね……」
「……その、シオンくん、平気?」
「ん、ああうん、もちろん! 使いどころは違うけど、普通に君の方が汎用性利くし価値あるよ。友達だしね。だから気にしなくていい」
「さすが私やな。なかなかのもんですよ」
「まーでも確かに惜しかったけどね。うん、やっぱり気にして恩を感じてほしい。そしてあれ以上の働きを、これからも、……」
「……? シオンくん?」
それまでぺらぺらと滑らかに動いていた紫苑の口が、そこで止まってしまった。舞夜はもう一度彼の名を呼んだが、答えはない。
少し不安になって、舞夜は紫苑を見つめたままじっとする。いつもと異なり、彼の様子が間近でよく見えた。口元に手を宛がっている。考え事をするときの彼の癖だった。
やがて、顔を上げた紫苑の、どこか相手を刺すような視線と目が合って、
「舞夜」
静かな声だった。久しぶりに紫苑からちゃんと呼ばれた気がして、舞夜は少し姿勢を正した。
「さっき謝ってたけどさあ」
「う、うん。ずっと、シオンくんに言うこといっぱい考えたけど、他のこと、思い付かんくって」
「何を謝ったの」
「まだ、全部は思い出してないけど、たぶん私、記憶を失くす前――シオンくんが探す『御札』が、フミちゃん達に関係してるって知って、隠そうとしてた、と、思う」
紫苑に謝罪する夢を見たのを覚えている。悪夢に見るような罪悪感。自分勝手な気まずさ。顔向けできない、したくない気持ち。
気まずげにぼそぼそと話す舞夜に、紫苑はかすかな――呆れつつも、どこか清々とした――笑みで口角をあげた。
「……友達だーなんて言いながら、大事なことを隠してたマイは酷いよ」
「シオンくんは、友達やけど。あの『御札』のこと、フミちゃん家のこと……もし私が説明して、やめて下さいって頼んだら、諦めてくれた?」
「まさか」
「そんなん、内緒にするしかないやんか……」
舞夜は、どうしようもないほどに項垂れた。
それを眺める紫苑は憑き物の落ちたような顔であるのに、彼女はそれに気付かないままだ。
「それ、僕に謝る必要ある?」
「そ、それだけじゃなくて……あと他のことぜんぶ、傷つけたことも、絶対にごめんって言いたくて。私、シオンくんのこと、どうでもよくないのに――そんなの、思ってないのに、」
「いい。君は悪くないよ」
「でもっ、」
舞夜の腰に回されたままだった紫苑の腕に、力が籠められた。
「幸せ者で、僕なんかのことを友達って呼ぶような、のん気なお人好しで――僕はずっと、君のそういうところを利用して、都合良く思ってたんだから、君は悪くない」
「お、怒ったくせに……」
じわ、と目元に浮かんだ涙を隠すために、舞夜は下を向いた。涙を拭うように紫苑の手が伸びてきたが、そっぽを向いてその指先を避けた。舞夜の涙を拭うのを諦めたらしいその手は、代わりに、俯きがちの頭に優しく触れた。髪の流れに沿ってぎこちなく手を動かし、触れるか触れないか程度の力で丁寧に、舞夜の頭を撫でる。幼い子どもを、慣れずにあやすような手付きだった。
「その、君は、」
「うん」
「……君は、僕のことなんか許さなくていいんだよ」
「え?」
舞夜が涙を拭うのも忘れて顔を上げると、紫苑は複雑な表情を浮かべていた。舞夜にはどこか気まずそうに見えた。不思議なことに、許してくれと告げられた時――そのとき見上げていた表情と、そっくり似通った顔をしていた。
「もし僕が謝ったとしても、だからって僕のことなんか許さなくていいんだ。僕が腹立つならそのままでいい、嫌なら嫌で済ませていいんだ」
「……どういう意味?」
「君、謝られたらどうせすぐ僕のこと許すだろ。おかしいだろ、そんなの……不公平だ。君には相手を恨み続ける選択肢だってあるのに、その相手である僕がそれを潰せるなんて……、謝られたら、許すなんて、…………おかしいだろ、そんなの……」
「許すか許さんかは私が決めるから、不公平では無いやろ」
「許すよ。君は許す。だって、それが正しいことだろ。社会の中とか理想論ではさー! なんだって寛大に許して受け容れてやるのが正しいんだろ!?」
突然、自棄になったように大声を上げた紫苑に、舞夜の肩が跳ねた。
「利用されて罵倒されて……君は酷いことをされたって思ったら一生僕を恨んでいいし、嫌っていいんだ! なのに……」
「そんなの、しんどいやろ」
舞夜が思わず口を挟むと、今度は紫苑が目を見開いた。そのままじっと舞夜の顔を見つめたあと、ふいと顔を逸らした。
「しんどくない」
「しんどくないの?」
「ない」
「そっか……」
きっぱりと断言した紫苑に、舞夜は小さく呟いた。
一度親しくなった人間――命の恩人でもある――を許さないと、いつまでも怒りを燃やし続けると決意したとしても、それはきっと、難しい。相手とのかつての思い出が、感情が、それを邪魔するだろう。それに、人間はいつか忘れる生き物だ。時の流れのなか、記憶も感情も曖昧に薄れていくに違いない。
だというのに、友人への恨みを貫き通すのは、舞夜にとって、ひどく困難なことに思われた。何かあったことくらいは教訓代わりに覚えておいて、それ以外は忘れてしまうくらいが丁度いい。未来のない臥薪嘗胆をし続けるような根気は、舞夜には無い。
「なんとなく、シオンくんの考えは分かったけど……」
「お気楽な子には、縁の無さそうな考えかもね」
「でも私、シオンくんのこと大好きやから、仲直りしたい……」
「ぐ、くそっ。ずるいだろ! そういうとこ! 君のそういうところがずるいんだ! そうやって――あーもう、くそっ……」
紫苑は言葉にならない声で呻く。呻いて、それだけだ。
しかしこのまま、相手から肯定も否定もされないままではどうしようもない。
「あの、シオンくん」
何か言ってほしい、と見つめる舞夜の視線に、紫苑は、観念したように溜息を吐いた。
「……なんて言ったらいいのか、分からない。自分がどういう気持ちなのかが分からない」
「……だいたいどんな気持ち?」
「分からないっつってんだろ。……友達が出来たのも、喧嘩したのも初めてなんだ。しょうがないだろ」
気分が悪そうな、嫌そうな顔をして紫苑は呟く。しかし、素直で正直な言葉であることは伝わってくる。
紫苑の、というより、他人の気持ちなんて完全に分かるはずもない。紫苑がどう思っているかは知らないが、舞夜だって自分の気持ちですら完全に把握できているかと言われれば怪しいだろう。
それでも、彼の誠実さに応えるために舞夜は少し考え、それから遠慮がちに顔を上げた。
「……シオンくん、私のこと、嫌いになった?」
「僕のことを好きな君が、好きだよ」
「よ、よかったら、私と、……仲直り、してくれませんか」
「……うん」
しかたないから、いいよ。
そう呟く声が聞こえた瞬間、舞夜を抱く紫苑の両腕に、力が込められた。
身じろぎ出来ないほどの力に、舞夜は少し顔を顰めた。
「ごめん。本当に」
縋るような囁きだった。くぐもった声は弱々しいほどに小さい。
舞夜は体の力の抜くと、紫苑の背中をぽんぽん叩いた。広い背中だ。何度も、自分を守ってくれた背中だった。
「私もごめんね、シオンくん」
「だから君は謝らなくていいんだって」
「これくらい私の自由やろ!」
舞夜が文句を言うと、少しだけ腕の力が緩み、かすかに笑い声が聞こえた。表情は分からないが、舞夜は少しだけほっとした。
「でももうこんなのやめてよ? 他に隠し事とかない?」
「ある」
「吐け!」
「……えーっと、まず。君を助けるとき、」
「うん」
「たまにタイミングを見計らってる」
「……助けるのにいいタイミングを考えるのは、悪くないやろ?」
「君が襲われる直前、助けて特に尊敬されそうなタイミングを見てるだけだから、君の安全性とかは特に考慮してない」
「ほっ……ほんま? シオンくん、ひどっ……道徳ある? とてもひどい……助けてもらえて嬉しいけど、でもそんなタイミング必要?」
「結局助けるのは同じなんだから、いいかなって」
「すぐに助けて……」
舞夜は紫苑の背中をぺしぺし叩いた。今まで何度も守ってくれた背中に、まさかそんな意図があったとは。
「他には?」
「あるけど。……言いたくない」
「くっ……」
舞夜は立ち上がるためにもぞもぞ身じろぎしたが、紫苑の腕が解けなかったので、どうしたらいいのか分からずしばらくじっとしていた。落ち着いてみると結構困惑するような体勢だったが、仲直りしてすぐ、拒絶するような振る舞いをするのも嫌だった。ちょっと恥ずかしくもなってきたのだが、仲直りの空気のなか急に恥ずかしがるのもおかしい気がする。
結局、そっと袖を引いて合図を送った。紫苑の腕は案外簡単に離れていったので、舞夜はやっと立ち上がることができた。体がすっかり温まってほかほかしていた。彼は体温が高い。
「もう今回みたいなことない? 誰かの大事な宝物を盗むとか、奪うとか、そういう酷いの」
「……それは、ないね」
「ほんと?」
「本当。……その、」
「うん」
たっぷりと間を置いたあと。
紫苑は苦り切った顔で、無理に重たい戸がこじ開けられたかのように、口を開いた。
「…………言えるのは、また、説明するから」
「約束?」
「約束する、けど。こんなんでいいわけ?」
「んー、とりあえずはいいや。言えるときがきたら言ってね」
答えながら、舞夜はうんと伸びをした。
彼の秘密主義なんて今更だ。舞夜の記憶を消した謎の水についても、結局教えてもらっていない。それでも現状なんとかなっているのだから、なんとかなるのだろう。たぶん。
紫苑が誠実かは分からないが、誠意らしきものは見せてもらったため、舞夜としてはとりあえずそれで、十分であった。今後どうなるかは分からないが、今はこれでいい。
「お人好し……」
呆れたように呟きながら、紫苑が立ち上がるのが分かった。なんとなくその声が少し笑っている気がしたので、舞夜も文句を言うのはやめておいた。
「早よ戻ってフミちゃん達にも謝ろ。あと『御札』が落ちたって説明も……、大丈夫かな……」
「驚いて卒倒するかもね。というか、一番重要な場所のくせになんでこんなに脆くなってんの、ここ」
「分からん……もともと壊れそうやったけど、さっきなんかガンガンって揺れて悪化して……なんでやろ? 地震?」
「……なんでだろうネー。まあ昔からある場所なんだし、色々あるんじゃない?」
ざっくりした説明だが、何も知らない舞夜はとりあえず納得した。
紫苑は一見、何もない、ただ底しか見えない場所を眺めている。
「ここが入口だね。確認するから、ちょっと大人しくしててくれる?」
「うん、ありがとう」
舞夜には出入口らしきものは見当たらない。一歩踏み外したら、落ちて死ぬような場所にしか見えない。
先程の落下の恐怖を思い出し、紫苑が何もない空間に手を伸ばしているのすら、見ていられない。とりあえず紫苑の服の裾を掴んだが、「邪魔」と一蹴されたので手を引いた。
「んー……」
手持ち無沙汰になった舞夜は、なんとはなしに上を仰いだ。
ひらひらと、不規則な軌道で舞い落ちてくる一枚の紙切れ。惹かれるような、目の離せない感覚――舞夜は何気なく、それに手を伸ばした。その紙は、まるで何か見えない糸に導かれるように、舞夜の手元に落ちてくる。それはあまりにも自然で、寧ろ手を伸ばさないという選択肢はなかった。
「マイ。何して――、!?」
紫苑の手が咄嗟に舞夜に伸ばされるのと、舞夜がその『札』を掴んだのは同時だった。
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