第61話 徳幸と福美子
宙を巡る通路の上。徳幸が見上げ、じっと目を凝らした先には、
「あっ、おとうさーん。しおんくん? おーい」
「福美子……!?」
『見えない人』に肩車をされた福美子がいた。高所への恐怖もないらしく、のん気に手を振っている。
恐怖に固まる徳幸の横、紫苑がすっと息を吸ったのが聞こえた。
「舞夜は!?」
「マイちゃん迷子! フミ、『見えない人』が、お父さんが近くにおるよーって言うから、こっち来た」
「何やってんのあいつ……」
紫苑が呆れた声で呟いた。
「なんでこんな所に来たんだよ、そもそも」
「フミ、マイちゃんと一緒に『御札』? のとこ行くつもりやったんやけど……マイちゃん、途中でどっか行った!」
「『御札』のとこ? ……なるほどね。助かったよ!」
じゃあね、と紫苑は走り去っていく。
咄嗟に徳幸も追おうとしたが、どうしても足が動かなかった。代わりに体は、福美子の方を向いてしまう。
「福美子……」
札の所に行かねば。紫苑を追わねば。そう思う。行かなければならない。分かっている。
なのに、徳幸は宙に腕を広げてウロウロしている。恐怖と不安に心臓をすくませながら、娘を受け止める体勢を取り、ただただみっともなくウロウロしている。
彼女には護衛がいる。分かっている。きっとその小さい体を、徳幸よりも余程うまく守ってくれる存在がいる。きっと彼は落ちることなく元の道を戻って、安全な場所に福美子を連れていってくれるだろう。
「福美子……」
しかし、徳幸はどうしても、その場から離れられない。大きな声を出せば、娘が驚いて変な風に落っこちてしまうのではないか。不安で、か細い声で名前を呼ぶしかできない。
福美子も福美子で、『見えない人』に抱えられたまま、不安定な足場の下、悲しげに見える顔で右往左往する父親を見ていた。幼い彼女の目から見てもその姿は、途方に暮れた迷子のようにしか見えなかった。
そして、彼女は強く決意した。
「お父さんのとこ行くから、そっと下に投げて」
「!?」
「高い高いの反対みたいに!」
福美子は、『見えない人』に絶大な信頼があった。彼は常に彼女を完璧に護ってきたし、彼女の半ば我侭に近い要望全てを聞きいれ、叶えられる範囲であれば全て問題なくこなしてきた。
『見えない人』は人間にとって、善良な存在ではあった。福美子の突飛な発言に戸惑うほどの良識もあった。が、人間程の柔軟性はなく、命令され、それが安全に実行できると判断してしまえば、基本実行する以外の選択肢は無いのである。
徳幸の知らぬ場で、福美子と『見えない人』は互いに顔を見合わせ、こっくりと頷いた。
「よーし、いくよー」
「な、なにを……!?」
福美子ののんびりした掛け声が響いて、徳幸は困惑した。福美子の守護が、しっかり抱えていた彼女の小さな体を抱き直した――それがまるで、信じられないが、まさかとは思うが、今にもこちらへ、投げるような。
と、徳幸がまともに混乱できたのはそこまでで。
「おとうさーん!」
万歳しながら、まっすぐ真っ逆さまにこちらへ突っ込んでくる福美子。両腕を広げ、体ごと娘の方に駆け寄る。その瞬間、彼は何も考えられなかった。妻のことも、札のことも、己のことも。ただ、そこには福美子だけが――。
「お父さん!」
福美子は見事、徳幸の胸に飛び込んできた。徳幸はそのまま尻餅をついて小さく呻いた。
守護の投げる腕が良かったのだろう、福美子自身は怪我一つなくぴんぴんしている。徳幸はそれだけをまず確認すると、ふー、とのん気に溜息を吐いている福美子の肩を掴んだ。
「あ、危ないだろう!!」
声を荒げたのは、何年ぶりだろうか。
福美子は徳幸を見つめたまま、目をまんまるにしていた。
「こんなことをして、怪我でもしたらどうするんだ!! 怪我でも、したら……」
う、と声を詰まらせる俯く徳幸に、福美子もぐす、と鼻を啜った。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、すまないと言うのはこちらだ。すまない、福美子……すまない……」
嗚咽とともに溢れていた謝罪の言葉はやがてなくなり、二人は互いに顔をぐしゃぐしゃに歪めたまま、しばらくぼろぼろ涙を零しながら抱きしめ合っていた。
福美子に続いて飛び降り、難なく着地した『見えない人』は、泣いて抱き締めあう親子二人を見て。先程まで崩壊しかけていた洞窟内の様子を確認して。自分たちの世界に浸る親子二人をまとめて抱えると、そのまま洞窟の外に向けて走り出した。
暗闇の底のような道を紫苑は走っていた。此処に来るまでの道を同じだ。物の輪郭全てが影に溶けたかのように、曖昧になった道。
舞夜のもとへ、最近まともに口も利けていない友人がいる場所へと向かう。――あの怖がりが一人で、こんな道を進んだのだろうか。一瞬浮かんだ疑問は、背後に憑く狐ののん気な声にかき消された。
「舞夜ちゃんの方に行くの?
「……舞夜がまだ生きてて、動いてないってことは、何かがあるんだろ」
「怪我してるのかもね。舞夜ちゃんが心配よね? ねーっ??」
「その減らず口、今ここで潰してやろうか?」
狐は一度だけきゅう、と哀れっぽく鳴いてみせたが、すぐに気を取り直したように明るい声をあげた。
「でも行くのよね?」
「他に当てもない。探してる時間もない。舞夜の居場所になら確実に辿り着ける。それだけだよ」
「あんたって、そういうのはホント器用よねー。一歩間違えたらストーカーよ、ストーカー」
「うるっさいな。常に僕に付き纏ってるお前がよく言う」
「常にじゃあないでしょ!? まあほぼ常に、だけど……でも大人しく居ないフリしてるし、ちゃんと命令されたら去ってるじゃない! 良識はあるわよ!」
「僕も同じ。こういう時にしか使ってないからいいんだよ」
「あんた、微妙なとこで気遣うわよねえ。でもそうね、説明したときは舞夜ちゃんも納得してくれたものね!」
「記憶がなくなる前だけどね」
「きっとまた受け容れてくれるわよー、いい子だもの!」
狐はきゃっきゃと甲高い声をあげ、人間そのものな調子で笑う。……良識がある者の言動ではないし、良識があるのならそもそも、走ってる人間にぺらぺら話しかけないと思うのだが。
舞夜がいい子? そりゃ紫苑なんかを友人と呼ぶような人間だ。いい子じゃないはずがない。
だが、全てを許してくれるかと言えば、それはきっとまた、別の話だ。
「ずいぶん気に入ってるね」
「デキる狐として、仕えてる家の跡継ぎを心配してるだけじゃなーい。本家にはアンタしかいないんだしー……ていうか、そこちゃんとしてもらわないと、私が仕えてる意味ないんだけど」
「……」
「ちょっと、そこで黙らないでよ!」
「疲れてんだよ、走ってんだからさあ!」
良識あるなら黙ってろ! 紫苑に怒鳴られて、さすがの狐も大人しく口を噤んだ。
しかしそうやって黙ってもすぐに、喋らなければならない場所に辿り着いてしまったのだが。
「ちょっとー、終点なのに誰もいないじゃない!」
道の突き当りには、石を積み上げたような粗雑な台座があったが、それだけだった。息を整える紫苑を置いて、狐はその台座の方に飛んでいった。台座の上には古びた木箱が乗っている。狐に促され、紫苑は訝しげな顔でそれを手に取ったが、すぐに舌打ちして放り出した。
「偽物だ」
「……普通ここまでする? いや、ここまで出来る? 人を迷わす多岐に渡る道、おまけに此処に偽物まで用意? ……『札』がいくら危険で重要だったとしても、ただ人にこんなことが出来るはずもない」
「誰か雇ったんだろ、きっと。ウチではないね。ほら、伝承にあった、村人を助けた『通りすがりの女』とか」
「フーン。ここまで備えてるくせに、あんまり攻撃的な罠が無いのは不思議よねぇ」
「そんなことしたらまともに管理できなくなるだろ。……この程度なら、正しい経路さえ知っていれば、誰だって問題なく扱える。『戸籠』の末裔でもなければ、大した知識も無い、そんな人間でもね」
何も知らないがなんとかなってきた、というような発言を憚ることなく口にしていた徳幸のことである。
――もう少しなんとかならなかったのか。
と、帝釈家の長男たる紫苑なんかは正直思ったが、しかしきっと、昔のものを先祖代々律儀に有り難がって守り続けているところの方が、珍しいのだろう。
地面に落ちた朽ちかけたの木箱を、紫苑は思い切り踏み砕いた。長年放置されていたらしいその箱はあっさり砕けて、木くずが粉のように舞った。
「何してんの?」
「別に」
深く息を吐いてから、紫苑は舞夜の行方を探った。あまり力を込めずとも、彼女がどこにいるか、そこまでどう行けば辿り着けるか、糸のような
これは、今の舞夜は知らない紫苑の能力だった。糸というのはあくまでもイメージで、目に見えるものではない。紫苑と舞夜の間に線のように通った繋がりを、紫苑は利用することができる。
以前、彼女が記憶を無くす前に一度説明したことはあった。ただ、危ないときに居場所を探して助けに行ける、程度の説明で済ませた。舞夜はわりとあっさり受け容れた。半信半疑だったのかもしれない。
(……これ。今知ったら嫌がるかなー)
もしかしたら、こうした能力が、舞夜が紫苑から距離を取った原因の一つかもしれない。そう思ったため、記憶を失くした後にわざわざ説明する気も起きなかった。今もまだ黙って利用している。
狐にはストーカーなどと揶揄されたが、舞夜を助けに行かなければならない時くらいにしか使用していない。先日図書館の近くで会ってしまったのすら偶然だった――そんな事実を伝えて、彼女はどこまでそれを信じるだろうか。紫苑だったら疑って拒絶する。絶対に。
「見つかった?」
「この壁。別の道がある」
洞窟の壁の一端、何の変哲もないそこを、紫苑は靴底で軽く踏む。一瞬確かに土壁を踏んだ感触があって、ややあって爪先がわずかに、壁の向こうに沈んでいった。
「ふーん。確かに、よーく見ればちょっと変ねえ」
「ん、そこにもある。同じところに繋がってるみたいだね」
「ここ? あら、ほんと」
言われて狐も、目の前の壁を、手の先でちょいちょいと引っ掻くように小突いた。
「言われてみれば何個かあるわねー。ま、私大雑把だから、こういう細かいヤツってよく分かんないんだけど!」
「普通気付かないよ。……なのにアイツは何で、どうやって、こんなとこを通ったんだろうね?」
「どーでもよくない? でも良かったわね、舞夜ちゃんにヒモ結んどいて!」
「……否定はしないけど、変な言い方しないでくれる?」
「変じゃないでしょ。人間って馬に乗るとき手綱つけるじゃない。そういうことでしょ?」
でしょ、ねえ、とまとわり付いて尋ねてくる狐を紫苑は無視した。
手綱。ヒモ。間違ってないかもしれないが、紫苑だって別に、誰とでも簡単に結べるわけではない。後を追えるほどの縁だ、そう都合の良いものではない。舞夜が紫苑に、好感を、親しみを、友情を抱いていなければ、紫苑はそれに触れることすらできなかった。彼女から紫苑への、好意がなければ。――それが、ある。まだ残っている。『顔剥ぎ』の手で記憶を失ったとき、その時はさすがに切れかけてしまった縁が、まだ残っている。
(いっそ切れてくれてたらよかったのに)
彼女が紫苑から勝手に距離を取り始めたあの時に、完全に愛想を尽かしていればよかったのに。……子猫を捕まえるために囮にしたあの時に。紫苑のゲームの下手糞っぷりに呆れていたあの時に。紫苑が彼女を罵倒をした今日のあの瞬間に、全部無くなっておけばよかったのに!
「――ちょっとぉ、聞いてる?」
「ん、なに?」
「この先に舞夜ちゃんがいて、『御札』もあるのね?」
「確実にあるとは言い切れないけど。まあ、少なくとも舞夜はいるね」
「なるほど。じゃ、ここで私がバシッと助ければいいってことね!? で、その流れで仲直りすれば――」
そう言いながら、上機嫌に飛び出していこうとした狐だったが。
「……なんか、私、無理かも」
「なんで?」
「分からない? 分からないか……分からないのか。分からないわよね、あんたにはねぇ」
「何が言いたい」
「ここ、『御札』? すごく、怖い。気持ち悪い。不快……なんかこう、刃先が私に向けられているみたいな……掃除機で毛皮が吸い取られているみたいな……」
「全然分からん」
「近寄りたくない……意味が、分からない……、……いやでもこれは伝承ほどのものでは無いな? やはり劣化……いや、伝承が大袈裟だった可能性も……」
恐ろしいながらも目は逸らせないようで、そこに釘付けになりながら、狐はぶつぶつと考えを巡らせている。尻尾が呟きとともにゆらゆら揺れている。
とにかく、『御札』があることは確定したようなものだ。
そう思い、一人先に進もうとした紫苑の前に、慌てふためいた狐が立ち塞がった。
「あっ、あんた一人で行く気ぃ!? ダメダメ無理無理!! アンタじゃ無理でしょ、分かってんでしょ!? この前一人で動いて『顔剥ぎ』ってのに殺されかけたの忘れた!?」
「他に方法ある? ないよね? というかそれ、君のお気に入りの舞夜ちゃんも放っとけってこと?」
「そ、それは惜しいけど、でも……でも跡取りが死んだら私はどうすればいい! 私の今までが全部、全部が無駄になる!!」
「そこはどうでもいいな。死ぬほどどうでもいい」
と、壁の方に足を進めかけた紫苑だが。
「あらなに、やっぱ止めたの?」
「…………奥に進めない」
「結界? それは駄目ねー! やめとけってことよ、ほら諦めた方がいいわ、今すぐ! やめたほうが良いわねえ!」
「ちょっと頭貸してくれる? この結界叩き割ってやる」
「近くにあるもんで済まそうとすんの止めてよ」
「くそっ、ふざけるなよ……」
低い声で吐き捨てると、紫苑は落ちていた石を拾い、振りかぶった。
「どいつも、こいつも! 馬鹿にしやがっ……て!!」
結界に、何度も石を叩きつける。傍目にはただの壁だが、確かに、叩きつけた石の弾かれる感覚がある。殴りつけるのと同時に、結界を割るための力もぶつけていく。
「んのっ……手ぐらい貸せよ!」
横でちょこんと座り込んで、他人事のように眺めてくる狐に、紫苑は声を荒げた。狐はどこ吹く風と、のんびりと――あるいは見たものを煽るように――大きくゆったりと尾を振ってみせる。
「私そういう、一回ずつ力注ぎ込むみたいな? 繊細な作業って苦手だからー」
「お前なら無理矢理壊せるだろ!?」
「全力込めていいならできるけど、中に衝撃いくタイプだったら舞夜ちゃん死んじゃうかもしれないし……ってゆーか、どうしようもなかったら諦めるって言ったくせに!」
「……やっとここまで来たんだ。欲しかったものがそこにある! 目の前にある! なのにこんな所まで来て、見もしないで……確認もできずに! 諦めて! あんなところに帰って堪るか!!」
苛立ち任せに、大きく振りかぶって叩きつけた、その一撃。その衝撃は響き渡って、遂に結界を崩壊させた。ガラスの割れるような儚い音。割れるときはあっけなかった。
肩で息をする紫苑に、横から呆れたような声がかかった。
「はー、ほんとに割っちゃった。アンタでもやればできんのねぇ……。ほんと、器用というかなんというか……」
「とめるなよ」
「あーもー止めたって聞かないでしょ。いい? 何かあったらすぐ逃げるのよ? で、本気で死ぬってなったらすぐ呼んで。そしたら死んでも駆け付けるから、――」
狐が全てを言い終わる前に、紫苑はさっさと壁の中に飛び込んだ。背中に、狐の言葉にならない怒声がぶつけられたが、それもすぐに聞こえなくなった。
取り残された狐は、八つ当たりのように地面を手で叩いて抗議した。しかしそれを伝えたい相手は、すでに此処にはいない。彼女はしばらくその場でウロウロ、円を描くように歩き回っていたが、やがて全てを諦めたのか、体を丸めて大人しくなった。
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