第60話 2
舞夜がまっすぐ進んで辿り着いたのは、細長い洞窟の終着点のような場所だった。途中、単純な作りの木の戸はあったが、鍵があるようなものでもなかったので、障害物にすらならなかった。
石を積み上げたような不格好な台座のうえに、長方形の小さな木箱が置かれていた。何かを祀る祭壇にしては、ひどく簡素だ。
舞夜は惹かれるように近付いていくと、その木箱をじっと見つめた。蓋には達筆な文字が書かれているのだが、掠れてしまっていてよく読めなかった。一本の、色褪せた細い紐で縛られて、なんにせよ、伝承の恐ろしい札が収められてるとは思えなかった。
(普通の箱っぽいけどなー)
しばらくじっと眺めていたが、体調が悪くなることもない。結局舞夜はそれだけを確認すると、封を解くことすらなく身を引いた。
中にあるのが、あの危険な『御札』だとすれば、触れたら死ぬかもしれない。まあ木箱越しだが近寄っても倒れなかったし、とてもそうは思えないが、だとしても、
(触らぬ神に祟りなし!)
舞夜は札の台座から距離を取ると、その場にしゃがみこんだ。舞夜の足音すらなくなると洞窟はしんとして人気がなく、どこか厳かで、冷ややかだった。
まさか、自分が一番乗りだとは思わなかった。入口に足跡があったため急いだが、よく考えたらあれは乾ききっていたし、最近出来たものではないのかもしれない。きっと以前、徳幸が訪れたときのものだろう。
……その割りに足跡が多かったような気もするけれど、実際に誰にも会わなかったのだから、きっと考え過ぎに違いない。
此処は一本道。そして誰にもすれ違わなかった。迷う要素すらない。
つまり、紫苑か徳幸か福美子達のいずれかが、やがて此処を通るはずである。というより、こうも静かな洞窟だから、此処に来るまでに足音等で気付けるだろう。舞夜はただそれを待てばいい。
「はー」
つい、溜息が零れた。
まず紫苑が現れたら、何を言おう。舞夜は考えるが、何も思いつかない。
どう振る舞ったらいいのだろう。とりあえず、泥棒はよくない、とかだろうか。しかし、何か違う気もする。
(分からん……)
とても、酷いことを言われた。と思う。しかも長文で。長々と酷かった。すごい勢いだった。
だけど、自分も、酷いことをしたのだと、思う。たぶん。きっと。
『うるせぇな分かってるよ、君が僕のことなんかどうでもいいって思ってることくらい』
どうでもよくない。どうでもよかったら、こんなにも悩んだり溜息吐いたり、こんな所まで来たりしていない。
『君は今幸せだから、それさえ崩れなければ他のことなんてどうだっていいんだ。今あるもので十分満たされているから、何が自分の周りに増えようが減ろうがどうだっていいんだろ。僕も、それ以外も』
……否定できない。そんなこと、考えたこともなかったから、突き付けられると何も言えない。
帝釈紫苑という人と、友達になれて嬉しかった。友達と言ってくれて(本音か少し怪しいが)、嬉しかった。一緒にいて、嫌なこともあった。正直たまに――わりと――なんだこいつ、と思う。だって変なとこあるし。でも楽しかった。それだけだ。それだけだと、思っていた。
どうでもいいという考えが根本にあったのか? 彼にそう感じさせる程度には、それが面に出ていたのか。分からない。だって誰かと友達になるときに、そのこと自体について色々考えたりするか? ……彼はしそうだ。単純に「友達! わーい!」で終わらせることはないだろう。逆にそれで終わらせてたら怖い。そんなの想像したくない。……。
なんとなく思考が逸れてしまったため、舞夜は顔を上げた。離れたところにある、手作り感満載の石の台座。ここからでは、その上の木箱はよく見えない。
「(あの箱が……)」
徳幸も、紫苑も、あれを重要だと思っている。表面に苔の生えた、素朴な石の台座。年季を感じさせる木箱。伝承と違って、近付いても何も起きなかった、『御札』。
舞夜はまた、深くため息を吐いた。
「やはり、私を追ってきたか」
足を止めた徳幸の背後。彼を追ってきた少年――紫苑もまた、足を止めた。
「あはは、ばれてました?」
「私に傷一つ負わせず先に行くなんて、おかしいと思ったんだ」
「またハズレを引いて正解の道を探すより、貴方に付いて行ったほうが早いかな、と思ったんですけど……」
彼は徳幸を倒し、先に行った振りをして隠れていた。起き上がった徳幸は、まっすぐに『御札』の元へ続く道を選ぶと踏んだのだろう。だから、その後を付いてきた。
しかし、
「残念だったな。ここがそのハズレだ。天井ばかり高い、ただの空洞」
「気絶させられた後だってのに、ずいぶんと冷静な行動を取りましたねえ」
徳幸は何も言わず、もう少し掘れば空も見えるのではないか、と思われるほど高い天井を見上げた。
紫苑も興味深そうに、この広大な空間に視線を巡らせた。
「……よく作りましたね、こんなとこ」
「妻の先祖が作ったのか、どこかに頼んだのか。私はその事情も、過去も、何も知らないが、」
洞窟の内部、徳幸が待ち伏せていた木戸の先からは、道がいくつにも分かれていた。進む者には一本道に見えるだろうが、通り抜けるうちに意図せぬ場所に運ばれてしまう。札のある場所に繋がる
徳幸の知る限りでは、これが札を守るための、最後の仕掛けだった。
「何も知らない、分からない……それでよく、札を守るなんて言えますね」
「守らねばならない。私が、私だけの力で。これを。守る」
「亡くなった人のために?」
「ああ」
「……馬鹿みたいだ。本当に」
吐き捨てられて、徳幸は苦笑を浮かべた。
妻である美祝の死後、徳幸のことをこうも真正面から否定する者は一人もいなかった。
もしも美祝が生きていたら。徳幸を見てきっと、彼と似たようなことを言っただろう。彼女は温厚で優しかったけれど、とても芯の強い人だった。
――「福美子をお願い。福美子を、あの子を、守って」
福美子の名前は、夫婦それぞれで案を出しあったものの、結局は美祝がウンウン悩みながら一人で決めてしまった。『美』祝の名前から一文字とって、徳幸の名から幸『福』を連想したらしい。福美子。綺麗で、豊かな名前だと思った。
「たくさん遊ぶ、元気な子になってくれれば、それでいい……」
福美子を心配する一方、申し訳ない、と泣いていた。
「あんな札だけ、それだけしか、残せない……残してしまう……あの子に……あんなのを……」
美祝が最も気に病んでいたのは、彼女の家系が代々守ってきたという、『御札』のことだった。徳幸も、それについてはよく知っている。恐ろしく危険な紙の札。それを守る者は、そのためだけに地元を離れ、この地に住み着いた。その札のためだけに日々山を見回り、それに都合のいい職に就く。
――紙札一枚に縛り付けられて生きている。
そう吐き捨てたのは、美祝自身だった。世に出ては危険な札だから。これまでの全てが無駄になるから。他に誰もいないから――だから、彼女は死ぬまでそれから離れられない。
「あの札、守って。危ないから……本当に、絶対、外に出ないように……」
「大丈夫だ。守るとも。心配しなくていい。何も心配しなくていいんだ」
「ほんと?」
「本当。私は嘘が嫌いだ。君も。だろ? 福美子のことも、何の心配もしなくていい」
「でも、あの札が……私が継いせいで、あんなのが、福美子に……」
「大丈夫だ。福美子に、あれは決して関わらせない。私が一人で、うまくやってみせる。守ってみせるとも。お義父さんやお義母さんには怒られるかもしれないが……いや、大丈夫だ! 二人にもバレないように、私がなんとかする。私一人で、なんとかしてみせるよ。山を毎日登るなんて簡単さ。変な奴が寄ってきたら追い払ってやる」
「……大丈夫?」
「ああ、約束する」
徳幸がそう言って微笑むと、美祝は喜ぶというより、少し困った顔をしていた。あれがどういう感情だったのか、「朴念仁」と言われ続けた徳幸には今もよく分からないままだ。
「だから、もう何も、気に病む必要はない。……ゆっくりお休み」
そして妻の死後、徳幸は非常に苦労した。新生児の育児は、一人でするにはあまりにも大変だった。徳幸の両親は既に亡くなっている。最初は義両親の手を借りていたが、娘が亡くなった苦しみのせいか、二人はそれから一年と経たずに亡くなってしまった。喪主として慣れない葬儀を済ませると、徳幸には福美子だけが――いや、福美子には、徳幸だけが残された。
――生きていたのが自分でなく、美祝であればよかったのに。
心底そう思った。何度も。どれだけ時間が経っても、美祝の死んだ悲しみは癒えない。
それからは育児も、札の管理も、全て一人でこなそうとした。が、あっという間にストレスでノイローゼになり、鬱病になりかけた。自暴自棄になる前に、友人に助けられた。福美子はたまに柊家の世話になるようになった。
――徳幸だけでは、福美子をちゃんと育てられなかった。
親として失格だと思った。せめて札だけは守る。自分の力だけでなんとかしてみせる。こんなものに、福美子を関わらせない。絶対に。
「――去れ。でなければ、この場所を、崩す」
「へー。自分も生き埋めになるつもりですか?」
「私には、約束があるんだ」
「……貴方には出来ませんよ」
余裕のある微笑みを浮かべられ、徳幸は何も言えなかった。
「こういう時はなんて言うべきなんですかねえ? 貴方が死んだら、奥さんもきっと悲しみますよ、とか? 貴方自身の幸福を、奥さんも願ってるはずです、とか? ……反吐が出るな、本当」
紫苑は舌打ちせんばかりの顔で、そう吐き捨てた。
「死人は悲しまない。怒らない。何も言わない。ただ
「しかし私が約束をした過去は、事実は残っている。在りつづける。いつまでも。永遠に」
「記憶も、感情も、残された人間のものだ。それを死んだ相手に押し付けるなんて、あまりにも惨めったらしくて未練がましい、……いや、いい。こんな話、いくらしたって平行線だ」
「君は、」
と、徳幸が口を開いた瞬間。地面が、大きく揺れた。
「地震か!?」
咄嗟に屈んだ徳幸の横で、紫苑が眉を顰めた。
「崩れる……?」
「地崩れか!?」
「違う。この空間自体が一瞬、崩壊――いや、綻びかけた、みたいなんですけど」
曖昧な表現だった。そこで言葉を切って、紫苑は怪訝な顔で徳幸を見た。
「こういう揺れが以前に起こったことは?」
「ない。私の知る限りでは、だが」
「……なら、この空間に二人入ったことがきっかけ? いや、そんな雑な、……そうだ、あの馬鹿!」
徐々に収まり出した揺れのなか、紫苑が唐突に声を荒げた。
彼がこのような反応をするのは、恐らく柊舞夜絡みなのだと、徳幸にもなんとなく分かってきたが。
「あの子がどうかしたのか?」
「僕は親切なので、一応貴方にも伝えておきますけど。この場所に柊舞夜と、もしかしたら貴方の娘さんとその守護霊的なのが入ってきている、かもしれません」
「……あの子達が?」
「あの馬鹿は確定ですけどね! くそっ、間の悪い……」
苛立ちを吐き捨てる紫苑に、徳幸は眉を顰めて天を仰いだ。
「舞夜が。そうか……」
広々としていたはずの天井までの空間に、奇妙な歪みが生じていた。紫苑や徳幸がここに至るまで通ってきた道、それを形作っていた黒い影が、幾本もの線を描いている。それらはやがて実体を結び、不安定に宙に浮く複数の回廊となった。ずいぶんと高い位置にあるものから、比較的低い位置にあるものまで様々だ。
今まで徳幸が足を踏み入れてこなかった複数ある通路は、どれもこの何もない空間に繋がっていたらしい。蜘蛛の巣のように壁から壁へと伸びて、その先は暗闇のような洞穴に繋がっており、どこに辿り着くかは分からない。
徳幸はふとその中の一本に、じっと目を凝らした。影の向こうにあるものを確かめるように、じっと。
……しばらく待ったが誰か来る気配もないし、一度洞窟から出てしまおうか。そう思った舞夜が立ち上がって、一歩足を踏み出した瞬間のことだった。
突然、大地が揺れ、驚いた舞夜は耐えきれず、そのままうつ伏せに転んだ。
「いたい! ……地震や!」
地面に倒れ伏し振動を感じながら、舞夜は悲鳴を上げた。ポケットから引っ張り出した携帯端末は圏外。
慌てて頭を庇った瞬間、謎の浮遊感に襲われた。
咄嗟に目を瞑った。いくつもの単語が脳裏を駆け巡る。洞窟、地震、崩壊、死……。……しかし、予想していたような衝撃はこなかった。
「……、なんで!?」
帰り道がなくなった。舞夜の脳はまず、それだけを認識した。
出口まで続いていたはずの通路がない。壁もない。天井もない。底が抜けたかのように、真っ暗闇が広がっている。舞夜のへたりこんだ場所と、『御札』のある台座――吊橋のようにそこを繋ぐ一本の通路を残して、後は何もない。
夢かと思った。しかし、転んだ痛みもある以上現実だ。
呆気に取られている間に、気付けば揺れは収まっていた。今のでごっそり地面が落ちていった? ……ただの山の中で、そんなことが?
起こり得ぬ事態に、舞夜はしばらく茫然としていた。それから、手元にあった小石をつまみあげると、底無しの深淵に放り投げてみた。石が小さすぎたせいか、風を切るような落下音すらすぐに消えた。そして、それだけだった。何も起こらない。
「うう……」
こんなもの、札の方に向かうしかない。選択肢がない。と、恐る恐る立ち上がろうとしたところ、手に力を込めた場所から、違和感があった。脆い音に、不吉な感触。じわっと嫌な汗が浮かぶ。
そっと腰を落とし、視線も手元に落とすと、地面にヒビが入っていた。動いたら死ぬと思い知らせるように、あからさまなほどに。
「(何しても死ぬ……!!)」
恐怖で泣きそうになったが、泣くのすら命に関わりそうだと思うと、涙はあっさり引っ込んだ。
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