第59話 大事な人
目覚めた徳幸はまず、自分が死んでいないどころか、無傷であることに驚いた。あの紫苑という少年の、奇妙なほど冷静な姿から、最低でも足の骨くらいは折られるだろうと想定していたためだ。
立ち上がっても、歩いても、特に何の問題もない。
紫苑が進んでいったであろう、解き放たれた戸の前に立つ。これより奥に進むのは、久方ぶりだった。
中の空間は奇妙で、徳幸にはその理屈も原理も分からない。表に出さぬよう守るべき、札の為だけにある空間。今やその維持方法すらも分からない、奥深くに続く、戸籠の家の幻想の世界だ。
きっと紫苑はすぐに、正解の道を見つけるだろう。しかしそれよりは、すでに正解を知る自分の方が早く札の元に辿り着けるはずだ。例え、彼のほうが早く発っていても。そういうおかしな空間だからだ。
――そしてそれを、あの少年が想定していないはずがない。
にも拘らず、邪魔になるだろう男を放置していったのは、眼中にすらないということなのだろうか。それとも、極力人間を傷付けないようにしているのか、もしくは、その他の意図があった? 何かを、しかけてくるつもりか?
(分からない)
徳幸の脳裏に、彼の言葉が蘇る。
『そんなもの、貴方には不要でしょう? どうせ扱いきれないし、守りきれない』
うるさい、と思う。札を守る。自分だけで、札を守ってみせる。
確かに力不足かもしれない。だとしても、諦めるわけにはいかない。何も分からなくても、徳幸には先に進まないという選択肢はない。亡き妻
「うーん。やっぱり、娘を人質に取るのがいいんじゃない?」
狐と紫苑は、此処に来るまでも歩いたような、暗い道を歩いている。細い通路を地下に向けて進んでいるのだろうが、周りは影に沈んだように黒く、曖昧だ。
ふわふわと浮いたままの狐はひどく機嫌が良く、紫苑が何か指示する前に、彼女なりにこの先のことを考えていた。
「殺すのは厳禁だものね! あの男ったら強情そうだし、殴っても無駄っぽいし、死ぬまで追ってきそうだし……単純な手が一番!」
「娘に人質の価値があれば、だけどね」
「さあ? でも試してみる価値はあるでしょ。自分の心なんて、自分でも分かってないものよ。強い信念なんて曖昧なものなら尚更。そこを揺さぶってやんのよ。……その人間が表に出したものだけが真実だとは、限らない」
狐のその言葉に、紫苑はしばらく黙っていた。
「てゆーかそもそも、触れない御札なんてどうやって回収すんのよ?」
「直接触ることだけが危険なら、いくらでもやりようはある。近付くのすら危険なら、その距離を測って対処すればいい。それ以上に危険なら、」
「なら?」
「諦める」
「……大事な友達裏切ってまで欲しがったくせにぃ」
「それだけ危険だと、僕なんかじゃ扱いきれないからねぇ。まあ諦めたくないけど。絶対諦めたくはないけど」
「諦めるべき! そういう無駄な無茶しない上司がいい上司よ! ま、これは仕事じゃないけどー」
くるんと宙返りして、狐はひどく楽しげだった。元来無口ではないが、いつもより遥かに口数が多く声音も明るい。先程紫苑が舞夜の名を出してからずっとこの調子だ、不必要なまでに機嫌がいい。
素直で協力的なのは良いが、これはこれで鬱陶しい、と紫苑が面倒臭く思った瞬間、
「あら、どしたの?」
「……舞夜が来た」
「あらまあ。やっぱり娘と一緒かしら」
「多分ね。……なんとなく嫌な予感はしてたけど、でも、本当に来たか……あのお節介馬鹿…………」
「どうやって来たのかしら? どうでもいいか! 再会の準備はできてる? そろそろ仲直りの、」
「うるさい」
紫苑に冷ややかに睨まれて、狐はそそくさと目を逸らした。
「くんくん。……あっ、次はこっちの方向みたいねー。複雑な道よねえー」
「……わざわざ言われなくても、分かってるよ」
舞夜は福美子と、福美子を肩車した『見えない人』と一緒に、福美子の家のすぐ近くにある山へと足を踏み入れていた。先日の夜に雨でも降ったのか、落ち葉と土が泥のように柔らかくなっていた。
見えない人の案内で先に進んでいくと、山道から徐々に薄暗がりの空間に移り変わっていく。周囲の景色やその輪郭は闇に溶けて曖昧で、影の中に入っていってしまったみたいだった。
「何処に、行くんですか?」
「分からんけど、お父さんのとこ!」
舞夜は見えない人に尋ねたのだが、答えたのは福美子だった。
未だ名も分からない『見えない人』は、舞夜を見て困ったような、申し訳なさそうな顔をした。彼は先程から黙ったままだ。もしかしたら話せないのかもしれない。
「フミちゃん」
「んー?」
「シオンくんは、……『御札』が、欲しいんやって。たぶん、この先にある……」
「オフダってなんのやつ?」
「……フミちゃんのお母さんのお家に、代々伝わるものらしいんやけど。聞いたことない?」
「なーい。ここも来たことない。ここにオフダがあるの?」
ねえ、と福美子は見えない人の顔を上から覗き込む。見えない人は、少し首を傾げた。それだけなのに、福美子は「そっか!」と明るい声を上げる。
「あるんやって!」
「よく分かるね」
「うん。長い付き合いやからなあ」
福美子の言いぶりに舞夜は少し笑ったが、確かに『見えない人』がずっと彼女の傍に付いているのなら、舞夜よりも遥かに長い付き合いに違いない。
「お父さんはオフダのとこかなー」
と、福美子はのん気に笑っている。
『オフダ』については、全く知らないどころか興味もない、といった様子に、舞夜は違和感を覚えた。
以前の、徳幸との会話を思い出す。
『それで、いつかはその――危ない御札を、フミちゃんが守ることになるんですよね?』
『あの子なら、あの札に触れても大丈夫なはずだ。妻の血を引く、『戸籠』の子だから。きっと妻の志を継いでくれる』
そういえば彼は、大丈夫、でなく、
福美子は素直ないい子だ。説明くらいで嫌がることもないだろう。
――恐ろしく不吉な、とうに世間から忘れ去られた札。
彼が娘を、わざわざそれから切り離したのは、やっぱり、
「フミちゃ、……ん?」
顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。きょろきょろと辺りを見渡しても誰もいない。たったの数秒で、いつの間にか舞夜一人になっている。
景色も変わっている。先程の輪郭の曖昧な世界でなく、岩が重なり出来た亀裂のような洞窟の前に立っていた。紙垂のない、すっかり苔生したしめ縄をくぐれば、その先に行くことができる。
なんとなくだが、終点のような雰囲気がある。
なのに。
――はぐれた?
まず福美子が心細くて泣いていないだろうか、と思ったが、「マイちゃん迷子やね」とのんびり『見えない人』に話しかけている姿が思い浮かんだ。
以前も、こんなことがあった。
旧校舎で、紫苑の顔をしたネムレスと離れ離れになったとき。後になって紫苑(本物)のせいだと知ったが、あの時は本当に何もかもが怖かった。
(ネムレス……)
独りになった直後、『のっぺらぼう』になっていた紫苑に、菓子パンを投げつけられたのを今でも覚えている。後で紫苑に、その理由を尋ねたことも。
『あれなんでパン投げてきたの?』
『出来るだけ君を怖がらせないようにしたんだよ! 悪かったね! 一応気を遣ってあげたんだけど――』
『全然分からんかった! ありがとう!』
『なのに君は逃げるし怯えるし泣きそうになるし、僕のことなんか欠片も思い出そうとしないしあのクソに助けまで求めるし……』
『な、泣きそうにはなってな『なってた』
『なってな『なってた』
『……』
『……』
なんとなく互いに納得のいかない雰囲気を出しつつ、そこで会話は終わった。
(シオンくん……)
意を決して入口から洞窟を覗き込むと、足元は歩きやすいように石張りの通路になっていた。暗いだろうと思いきや、奥には微かに人工の灯りが見える。人の手が入っているのだ。
「足跡……」
いくつか、泥の跡が残っていた。すっかり乾いているが、靴のような形のものもうっすらと残っている。恐らく男性のものだろうが、それが誰かまでは分からない。紫苑か、徳幸か。『見えない人』か。全員かもしれない。
舞夜は意を決して、足を踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます